空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

作家が顔写真を公開する必要は無い

 初めに前提として言っておくが、筆者は本もコミックスも大好きで、小学校の低学年の頃から今に至るまでよく読んでいる。

 筆者の両親は共稼ぎだった。
 で、当然その子供である筆者は、いわゆる“鍵っ子”だった。
 筆者の姉は、その事を今も「寂しかった」と言っている。
 しかし筆者は、寂しいなどと少しも思わなかった。

 鍵っ子とは言え、小学校に入りたての頃には、いわゆる学童保育に入れられていた。
 それは筆者の希望ではなく、親の配慮だった。
 しかし生まれつき集団行動が苦手だった筆者にとって、学童保育の時間は苦痛でしかなかった。
 好きでもない“友達”と一緒に遊ぶより、一人で好きな事に熱中している方が余程も楽しかった。
 だから筆者は、小学校の低学年のうちにさっさと学童保育を退会させて貰い、立派な(?)鍵っ子として家で一人遊びをしながら親の帰りを待っていた。

 姉は鍵っ子の暮らしを「寂しい」と言ったが。
 しかし家に帰れば一人でも、親は居なくなったわけではなく、夜になればやがて帰って来るのだ。
 なのに何故寂しいのか、筆者にはまるでわからなかったし、今も理解できないままだ。
 姉は一人で居るのが寂しい、他人とのコミュニケーションの中で生きている人間なのだろう。
 だが筆者にとっては、好きでもない他人に気を使って調子を合わせ、楽しくもない遊びに参加させられるのは、ただただ苦痛でしかなかった。

 家に帰れば、大好きな玩具や本が待っている。
 それらの好きなものに囲まれて過ごしていれば、時間などあっと言う間に経って行く。
 その時間は幼かった筆者にとって、何にも代え難い“至福の時”だった。
 それに比べれば、学童保育で嫌いな同級生や意地悪な上級生達に囲まれ、好きでもない遊びをさせられながらただじっと耐えて過ごす時間など、苦行の時でしかなかった。

 筆者には、幼い頃から想像力があった。
 そんな筆者にとっては、体を使って大勢で遊ぶより、自分の脳内に作り上げた空想の世界で遊ぶ方が楽しかった。
 だから本は、幼い頃から筆者の友だった。
 そして姉が少女漫画を読むようになってから、筆者もコミックスを読むことも覚えた。
 音楽を聴くのも好きだし、DVD化された映画を見るのも好きだ。
 おかげさまで、休日に全く外出しなくても、一人で充分に楽しく一日を過ごせる。

 で、今でも本やコミックスなどを読み耽って一日を過ごす事も珍しくないのだが。
 本やコミックスを読んでいて、ここのところ少々気になる事がある。
 コミックスでは、作者の顔写真が公開される事はそう多くない。著者近影の代わりに飼われているペットの写真が載せられたり、かなりデフォルメされたリアルとはほど遠い似顔絵が載せられる場合が多い。
 しかし小説の場合、著者近影で本人のリアルな顔写真が出される事が少なくない。
 新聞や雑誌等のインタビューや、新刊の広告でも作家自身の写真が大きく載せられる事が多い。
大切なのは作品の中身で、作者の顔は関係ねーだろ!
 そう思うのは、筆者だけだろうか。

 かなり以前、筆者は宇宙で二大勢力が戦うSF小説を読んだ。
 十巻以上続く大作で、登場人物は魅力的な美男美女ばかりだった。
 面白かったデスよ、作品自体は。
 ただ著者近影の写真で見る作者は、ブサイクでしかも胴回りに贅肉のついた、どこからどう見ても絵に描いたような“キモオタ”そのものだった。

 いや、別に作者が太っちょなキモメンでも、作品の質さえ良ければよいのだ。
 小説とは、本来そういうものだろう?
 けれど本に載せられた著者近影の写真で、不細工な顔と崩れた体形を見せられてしまうと、読者が残念に思い、こう言いたくなってしまうのは仕方のない事ではないだろうか。
「この顔で、美男美女の恋愛を書いていたのか」

 以前、ある女性の作家が“大人の恋愛小説”を書いて、ある新聞のインタビューに応じていた。
 そして記事に添えてその作家の顔写真が、三段抜きくらいの大きさで載せられていた。
 はっきり言って、すっごいブスだった。
 それで大人の恋愛小説wwwって……。
「喪女の妄想、乙!」
 その作家の作品を読みもしないで、ついそう思ってしまった。

 既に亡くなってしまったが、松本清張という偉大な小説家がいた。
 顔について言えば、彼もまた不細工だった。
 しかし彼の場合は存在感と凄みのある不細工さであって、しかも書いていたのは重厚な社会派の推理小説だった。
 もし松本清張氏がなまじイケメンだったら、むしろ「作風に似合わない、あんなチャラ男風だとは思わなかった」とガッカリされただろう。

 ただ恋愛小説の場合は、作者もまたそれなりの容姿でなければ読者を失望させるのもまた事実だろう。
 自身の恋愛経験はどう見ても少なそうな外見を、インタビューや新刊広告や著者近影の写真で見てしまうと、作品そのものの説得力にも大いに影響してしまうのだ。
 どう見てもモテそうもない容姿の作家の書く恋愛なんて、喪女や喪男の脳内妄想である現実が、ありありとわかってしまうからね。

 人は、どうやら有名人の顔に興味があるらしい。
 だから作家に関しても、本を読んで感動したら「作者はどんな顔をしているのだろう?」とつい興味を持ってしまうのだろう。
 だからマスコミもインタビュー記事で顔写真を大きく載せるし、出版社も新刊広告に顔写真まで載せているのだろうが。
 しかし作家というものはテレビのタレントではなく、あくまでも書いた作品で勝負するものではないか。
 なまじ顔を見るとガッカリしてしまい、「俺はこのキモメンの妄想を読んでいたのか」と夢を壊されてしまう事も、間違いなくある。

 断言するが、作家で著者近影やインタビュー記事や新刊広告に顔写真を大きく載せて良いのは、元々見てくれに自信のある、文化人wwwとしてテレビにも出てものを言いたい人だけだ。
 なのに昨今では、顔や見栄えが悪い作家でも、平気で素顔を曝している。
 出版不況と言われる現状の中で、それが本を売る為の精一杯の努力なのかも知れないが。
 美男美女とは程遠い、冴えない中年過ぎのオジサンやオバサンの作家が、新刊広告の中でニッコリ笑っている顔写真を見ると、見苦しいと言うよりむしろ気の毒で痛々しく思えてくるくらいだ。

 幼い頃から今までずっと本を読むのが好きだった筆者としては、小説は読者に夢を売るものだと思っている。
 そしてその小説のセカイが造る夢に、幼かった筆者がどれだけ救われてきたことか。

 繰り返し言うが、作品の質に作者の顔は関係ない。
 例えば絵などでは、作品にいちいち画家の顔写真など添えたりしないではないか。
 音楽もまた、特に顔写真が必要とされるのは流行のアイドル歌手だけだ。
 小説もまた、書かれた作品の質でのみ評価すべきものであると、筆者は信じる。
 しかし人は、筆者も含めて俗人は、つい顔に興味を持ちそれに騙されてしまう。
 だからこそ小説家は、なるべく顔は表に出さない方が良いと筆者は考える。

 著者近影やインタビューや新刊広告などで、イケメンでも美女でもない作家が顔を曝しても、庶民のくだらない好奇心を満たすだけで、良いことなど一つもない。
「へえ、こんな冴えないオッサンだったのか」
「こんな顔で、よく恋愛モノなんて書けるね。実体験が無いから、いろいろ空想してるのか」
 一般の人にはそう笑われ、元からの読者を失望させるだけだ。

 その点を、漫画家さんは良く理解しているようだ。
 著者近影はたいてい似顔絵かペットの写真で、顔写真を公開している漫画家はごく一部の売れっ子か、容姿に自信のある人だけだ。
 だからこそ凄い冒険物語を描いても、めくるめく恋愛物語を描いても、読者の夢を壊さずに済む。

 それにしても、新聞にしても雑誌にしても、マスコミは何故作家を含めた有名人達に、大きな顔写真を求めるのだろうか。
 顔写真で読者に人柄も伝わるというのは、マスコミの大嘘だ。顔写真でわかるのは、現実には容姿の善し悪しくらいでしかない。

 例えば筆者は、あのAKBでは渡辺麻友さんを推すが。
 それはただ、顔写真が可愛くて見かけが筆者の好みだからだ。
 筆者はそれなりに長く人間をやってきたつもりだが、それでも顔写真(グラビア)を見ても、渡辺麻友さんの人柄までは全くわからない。
 それが現実ではないか。
 一枚の、或いは数枚の顔写真を見ただけで相手の人柄まで正しく読み取れる人になど、少なくとも筆者は全く会った事が無い。
 顔写真を見ただけで、会った事も無い相手の人柄まで見抜けてしまう人は、おそらく霊能者だけではあるまいか。

 それにしても、新聞や雑誌の記者は狡い。
 自分達は「顔写真でも人柄が伝わる」というような綺麗事を言い、相手の大きな顔写真を撮って紙面に載せておきながら。
 自分達記者の顔写真は載せないか、載せても本当に小さくしか出さない。
 マスコミも「顔写真で人柄も……」とか言いつつ、本音ではただ「顔を見てみたい」という、読者の下らない好奇心を満たす為に、取材相手の顔写真を要求しているのだろうな。

 大衆(新聞や雑誌の読者)が有名人の顔写真を見たがるのは、ゲスの好奇心に過ぎない
 筆者はそう確信しているし、テレビタレントになれるレベルの容姿でもない作家が顔をマスコミで曝すのは、その作家にとってマイナスにしかならないし、その作家の作品に夢を抱いている読者の為にもならないと筆者は確信している。

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バイクに乗るならフルフェイスのヘルメットを!

 このブログを読んで下さっている方の中に、あるいは読んで下さっている方の家族や親しい知人に、オートバイに乗っている方はいらっしゃるだろうか。
 もしいらっしゃるとしたら、ヘルメットにはお金をケチらず、出来ればフルフェイスの良いものを買ってお使いになる事を是非すすめる。

 筆者はその昔、免許は持っていたものの車を買うだけのお金が無かった大学生時代には、原付のバイクに乗っていた。
 原付と言っても、馬鹿にしてはいけない。
 その昔の原付にはスピード・リミッターなどというものは付いておらず、50ccなのに5段変速で最高速度も90km以上出る、文字通りのスポーツタイプのバイクが平気で売られていた。
 原付の法定最高速度は時速30kmなのにもかかわらず、である。

 で、若かった筆者も、そのスポーツタイプの原付に乗っていた。
 だからヘルメットも、頑張って2万円以上出して、フルフェイスのそれなりに良い物を買った。
 そしてそのおかげで、命を救われたとまでは言わないが、少なくとも大怪我を負わずに済んだ事がある。

 その時筆者は車の流れに合わせ、国道をだいたい時速50kmくらいで走っていた。
 原付としてはもちろんスピード違反だ。
 しかし特に無茶をして飛ばしていたわけではない。
 原付の場合、法定最高速度の30kmを厳守してすべての後続車に追い抜かされながら走るより、ある程度の速度を出して車の流れに合わせて走った方が、むしろ安全で他の車の邪魔にもならない事もある。
 無論それは車の流れが40~50km程度の、比較的ゆっくりめな時の話で、原付でそれ以上の速度を出すのはやはり危ない。

 で、筆者も50km程度の車の流れに合わせて、国道を普通に走っていたのだが。
 ただその日は雨だった。
 そして前を行く車が、急ブレーキをかけた。
 それで慌てて急ブレーキをかけた結果、前輪がロックして路面を滑り、見事に転倒してしまった。
 その時筆者は、前に投げ出される形でアスファルトの道路上に、うつ伏せに叩きつけられた。
 もちろん長ズボンは穿いていたが、それでも両膝に怪我をして、内出血もかなり酷かった。
 そして掌もざっくり切って、ハンカチで縛っても血がなかなか止まらなかった。
 それでも、頭と顔だけは何事も無かった。

 それは間違いなく、少し無理をして買ったフルフェイスのヘルメットのおかげだった。
 そのヘルメットを脱いでみたところ、右の顎の部分にかなり酷い引っかき傷が何本も走っていた。
 そして右のこめかみの部分にも、引っかき傷の痕があった。
 もし筆者がフルフェイスの丈夫なヘルメットでなく、ジェット型やハーフ型のものを選んでいたら、間違いなく今も残る傷が顔に残っていただろう。
 それどころか、顎の骨や歯を折っていた可能性だってある。

「オマエ程度の顔じゃ、傷くらいついたって、どうって事ないだろ」って?
 とんでもない、元々良くない顔だからこそ、そこにさらに傷が残って、もっと酷い顔になったら困るじゃないか。
 それに元々の顔がどうだろうが、バイクで転倒して顔を打って、顎の骨を折りでもしたら後が大変だ。
 しばらく固形物は食べられないし、話をするのも辛いしで、想像しただけでゾッとする。

 オートバイ用のヘルメットには、大きく分けて三種類がある。
 モトクロス用やハイブリッド型とかいうのもあるが、ここはフルフェイスとジェット型とハーフ型の三つに話を絞らせていただきたい。

ヘルメット④   ヘルメット③

 まずは、一番安くて手軽なハーフ型だが。
 これは本当にお勧めできない。
 何故ならこれで守られているのは頭頂部だけで、側頭部も後頭部も、そして額も充分には守られていないからだ。
 このヘルメットで転倒して横に倒れ、路面に側頭部をぶつけると、耳がちぎれる……という話も聞く。
 さらに顔が丸出しだから、筆者のように前に飛んで倒れた時にはかなり酷い事になる。
 にもかかわらず、このヘルメットの愛用者には、庇を上に押し上げて額を丸出しにした、だらしないスタイルで平気で走り回っている輩がいる
 これで事故にあったら、前頭葉はまともに衝撃を食らうだろう。
 だからこのハーフ型のヘルメットを愛用しているバイク乗りは、悪い意味での命知らずとしか言えない。

ヘルメット②

 続いてジェット型だが、これは少なくとも頭部と耳はしっかり守れている。
 しかも開放感もあり視野も広いだけでなく、ヘルメットを被ったまま飲食や喫煙もできる為、使い勝手もなかなか良いらしい。
 ただこのジェット型でも、顔は無防備である事を忘れてはいけない。
 筆者がもしこのジェット型のヘルメットを使っていたら、あの転倒した際に間違いなく顔に酷い怪我をしていただろう。
 また、ジェット型のヘルメットの場合、ゴーグルを使用するかシールドを付けていないと、雨や埃、それに虫が目に入って大変な目に遭うことになる。

ヘルメット①

 その点、フルフェイスはあらゆる面で万全だ。
 体はともかく、少なくとも頭と顔はしっかり守られているし、雨や埃や虫の心配もない。
 視野が狭いと言う人もいるが、慣れるしただ顔をしっかり振ってよく見れば良いだけだ。
 それはもちろん、コンビニや銀行などを利用する際にはきちんとヘルメットを脱いで店内に入らないと、大変な騒ぎにはなる。
 しかし店に入る時や飲食の際にヘルメットを脱ぐ手間くらい、安全を考えればどうと言う事もなかろう。

 筆者がフルフェイス型のヘルメットをまず買ったのは、ただカッコ良かったからだ。ショウエイの、銀と青のラインが入った白いフルフェイスのヘルメットの見かけに惚れたのだ。
 しかし転倒した時に、顎の部分に深くついた傷跡を見てからは、怖くてフルフェイス以外のヘルメットが使えなくなってしまった。

 それは確かに、原付のスクーターにフルフェイスのヘルメットというのは大袈裟に見えるかも知れない。
 しかし原付のスクーターだって(法律違反だが)60km近くは出せてしまうし、正面衝突とか、筆者のように前方に投げ出される時もある。
 そんな場合、ジェット型では顔を守れない。
 ハーフ型をいい加減な被り方で使用した時には命の危険もある事は、言うまでもない。

 先日、事故や事件を題材にした『警察24時』を見た。
 その中で、原付(スクーター)の大学生が、強引に右折して来た車に轢き逃げされた事件が取り上げられていた。
 もちろん、悪いのは強引に右折し、さらに事故後に逃走した車の加害者である事に違いはない。
 そして被害者の父親が語る悲しみの言葉には、胸が痛くなった。
 ただ筆者は番組で流された、スクーターに乗る被害者の事故直前の姿が気になってならなかった。
 事故現場近くの防犯カメラに映っていた映像で見ると、被害者は例のハーフ型のヘルメットを、よく若者がやるように額の上まで庇を押し上げて被っていた。
 その顔だけでなく額まで丸出しにした状態で、強引に右折して来た車と衝突したのである。

 被害者の大学生は、搬送先の病院でやがて亡くなった。
 そしてその死因は、脳挫傷だった。
 繰り返し言うが悪いのは強引に右折した上に事故後に逃げた加害者で、被害者の大学生に落ち度は無いし責めるつもりは全くない。
 ただヘルメットの種類による安全性の違いを身をもって知っている筆者としては、本当に残念でならないのだ。
 もし被害者の大学生が、ハーフ型のヘルメットを額の上まで押し上げて被るのでなく、せめてジェット型のものを、出来ればフルフェイス型のものを正しく着用していたら、怪我はしても大切な命を落とさずに済んだのではないかと思うと、本当に残念でならない。

 いくら自分が交通法規を守って正しく運転していても、事故の被害者になる場合も間違いなくあるのだ。
 だからバイクに乗る人は、被害者になった場合に己の命を守る為にも、是非ヘルメットは良いものを選んで貰いたいと思う。
 そしてもし家族なり友人なり、貴方にとって大事な人がハーフ型のヘルメットを(例の額の上に庇を押し上げるような感じで)無造作に被っていたりしたら、「死にたいのか!」と本気で叱ってあげてほしい

 原付のスクーターやカブにフルフェイスのヘルメットというのは、大袈裟に見えるし何となく恥ずかしいのもわかる。
 しかし原付でも、事故に巻き込まれれば死ぬ事もあるのだ。
 死なないまでも、転倒するだけでもかなり痛い目に遭う。
 だから原付でも、ヘルメットは出来ればフルフェイス型を被った方が良い。
 特に女性は顔に傷がつかないよう、フルフェイス型を選ぶ事をお勧めしたい。

ヘルメット⑤P1110533

 数日前に、筆者はある店の駐車場で、前カゴにフルフェイスのヘルメットを入れたスーパーカプを見た。
「スーパーカブに、フルフェイスのヘルメットなんてwww」と笑う人もいるかも知れないが、少なくとも筆者は「命を大切にしている、よくわかっている人だ」と感心した。

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視野の狭い子供に罪はない

 筆者は未婚で子供がいない上に、病弱だったせいもあって、自らの子供時代にも親も認めるおとなしい子供だった。
 外で駆け回る事などまずした事が無く、屋内で本を読んだり一人遊びをする事が多かった。

 それでか、元気すぎて騒々しい多動な子供は、今も苦手だ。
 だからスーパーなどの店で大声を出して騒ぐ子供が居ると、つい顔をしかめてしまう。

 幼い頃から本が好きな筆者にとって、各種の本を取り揃えている大型書店は天国のような場所だ。
 しかしその書店にも、元気で多動な子供はやって来る。
 ただ大声を出されるだけでなく、店内を走り回られたりすると溜め息をつきたくなってしまう。

 書店やスーパーなどの店で、親から離れて走り回る子供に突き当たられかけ、こちらが危うく避けた事は数限りなくある。
 そしてその度に、その子供に鋭い目を向け、舌打ちの一つも打ちたくなってしまう。

 子供は、なぜ店内で“暴走”して人に体当たりしそうになるのか。
 その事が、筆者は不思議でならなかった。
 そしてその謎が、つい先日やっと解けた。
 大人と比べ、子供は視野がかなり狭いのだという。

 スウェーデンの児童心理学者の研究によると、大人は水平方向に150度見えているのに対し、6歳児は90度しか見えていないという。
 同様に、垂直方向に大人は120度見えているのに対し、6歳児が見えているのは70度なのだそうだ。

 端的に言えば、子供にはただ前しか見えておらず、右も左も上も下も視野の外という事だ。
 だから元々衝動を抑えにくい子供が、興味をひかれたものに向かって走り出すと、他の人やモノにぶつかるのだ。
 まるで体当たりするように駆けて来る子供に、悪意は決してない。
 視野の関係で、ただ見えていないだけなのだ。

 交通事故の原因に、「子供の飛び出し」というものがある。
 そしてそれは、子供の視野の狭さによるものである事が少なくない。
 客観的に見れば、走る車の前に子供が飛び出したのでも。
 視野が狭い故に近付く車が目に入っていなかったその子供の立場で言うと、「車がいきなり出て来てはねられた」という事になる。
 だから小学校の交通安全教室では、「右と左を見て、また右を見てから渡りましょう」と念を押す。

 しかしスーパーや書店などのお店が危険な場所とは、誰も思いはしないから。
 だから子供は「人が大勢いて商品もたくさんあるお店の中では、右や左をよく見て前に進みましょう」などと誰にも教えられる事も無く、興味を惹かれたモノに向かって真っしぐらに突進して行く事になる。
 そしてその結果、子供の狭い視野の外にある他人や商品にぶつかったり、ぶつかりそうになったりするのだ。

 前にも触れたが、筆者は親も認めるほど、男の子にしては手の掛からない大人しい子供だった。
 多動性は全く無く、一つの事にずっと夢中になり続ける子供だった。
 だから興味のあるモノに目と心を奪われ、その前でじっと動かなくなったりはした。
 しかし外で大声を出したり、暴れたり、勝手に駆け出したりした事は全く無い。
 その筆者でも、住んでいた地方都市の、大人になった今になれば田舎のダサいデパートもどきに連れて行って貰う時には、とても嬉しくて興奮した。

 女の子のように大人しい子供だった筆者でさえ、そうだったのだから。
 元気の塊のような、男の子らしい活発な子供が楽しいもので一杯のお店に行ったら、興奮してはしゃぎ回りたくなっても仕方ないだろう。

 無論、お店は子供の遊び場ではないし、店内を子供が駆け回るのは良くない事だ。
 しかし店内で興奮して駆け回る子供に体当たりをかまされても、悪いのはその子供ではない。
 責任は、ちゃんと手を繋ぐなりして注意せずに、我が子を好きに“放牧”していた保護者にある。

 だから筆者は、店内で騒いで走り回る子供が居ても、嫌な顔をするのは止めようと思った。
 その子供にぶつかられそうになっても、今後はただ苦笑いして避けようと思う。
 店内を突進する子供に体当たりされても、咎めるような目は、その子供ではなく親の方に向けるべきなのだ。

 元々性格に問題のある筆者ゆえ、このブログでも毒ばかり吐き、少なからぬ人達を不快にさせてきたことと思う。
 だから2016年最後の日の今日くらい、少しは他者に優しい気持ちを持とうと思い、この駄文を書いた次第だ。

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客商売は難しい(店を立派にして評判を落としたS屋のこと)

 ブロ友、と言っては相手の方に失礼かも知れないが、このブログによくコメントを下さるある方に、筆者のお勧めの店はあるかと尋ねられた。
 その時、真っ先に思い浮かんだのはS屋の事であった。

 S屋は主に鮮魚を出す食堂で、筆者はそこに職場の先輩に連れて行かれた。
 そのS屋には、本当にいろいろ驚かされた。
 まず外観が非常にボロいのである。
 いかにも場末の大衆食堂という感じで、ドアも自動どころかサッシですらなく、木製の軋む古ぼけた引き戸だった。
 中も薄暗く、テーブルも極めて安っぽく、椅子はビニールの背当てと腰を下ろす部分が付いている金属パイプ製だった。
 そしてその薄暗い店の中で、地元の馴染み客らしい人が数人、ただひたすら飯を食っていた。

 トンデモナイ店に連れて来られてしまった。
 筆者はそう思って、渋い顔になりかけるのをようやく堪えた。
 ところが出された食事を見て、筆者はまた驚いてしまった。
 鮮魚中心の沢山の料理が出され、しかもまたそれが文句無しに美味いのである。
 さらに値段も安く、お腹いっぱい食べて千円札でお釣りが返ってきた。

 後で知った事だが、そのS屋は美味くて安い店という事で地元の人は誰もが知っていて、食通の人は地元民でなくてもS屋の名を知っていた。
 店はボロだし内装にもお金はかけないが、味ならば付近のどこの店にも引けを取らず、美味しい料理を安い値段で地元のお得意さんに提供する。
 S屋とは、そういう店だった。

 そのS屋は仕出しの注文も受けていた他、小さな宴会場もあった。
 で、父の七回忌の法事をしなければならなかった筆者は、「ひとつ親戚連中も驚かせてやれ」と思い、法事の後の食事をそのS屋で行うことにした。
 S屋に予約に行き話を聞くと、宴会は一人二千円から四千円でやっていると言う。
 そこで筆者は、S屋のおかみさんにこう頼んだ。
「一人五千円で、出来るだけ料理を出してほしい」
 値切るのではなくより高くと頼んだのだ、おかみさんも即座に承知してくれた。

 さて、法要が終わってS屋に親戚一同を連れて行くと、皆の表情が渋いものになるのが筆者にもはっきりとわかった。
 何しろ筆者は、伯父伯母ら親戚に昔から「出来損ないの子」と言われてきた。
 それだけに、血の繋がりのない義理の伯父伯母たちだけでなく、普段は筆者に優しくしてくれていた血縁のある伯父や伯母たちまで不安げな顔になってきた。
 店の外観を見て、「カネをケチって、場末の大衆食堂でどんなヒドいものを食わせる気か。この非常識なヤツめ」と思っているのがありありとわかる。
 通された宴会場もまた薄暗く、掃除はきちんとされているものの、部屋はボロだし畳も所々擦り切れている。
 やれやれ、と席についた親戚たちの目が、運ばれてきた料理を見て驚きに変わった。
 様々な大皿や鉢に、海鮮料理を中心とした料理が次々に運ばれて来て、食卓に隙間なくぎっしりと並んだのだ。
 S屋が安くて量も多いのを知っていた上で、「宴会は二千円から四千円」と言われたのをあえて五千円で頼んだ筆者だったが、これほど品数多くかつ豪華な食事になるとは思っていなかった。
 筆者でさえそうだったのだから、知らずに連れて来られた親戚たちは目を丸くし、そして夢中で料理を食べ始めた。

 そのS屋での食事は筆者の親戚たちにも本当に驚かれ、後々まで「あそこの食事は美味しかった」と言われた。
 店の外観や内装には殆どお金をかけず、「とにかく美味しい料理をお客に安く提供しよう」というS屋の姿勢には、筆者も心から共感を抱いた。

 ただ残念ながら程なく筆者は転勤になってしまい、S屋の地元から少し離れた職場に行く事になってしまった。そしてその新しい職場がなかなか忙しく、S屋に行く機会は少なくなってしまった。
 そしてそれから数年も経たないうちに、S屋は改装され新しくなった。
 その新しいS屋は和風レストランのような立派な店構えで、ただの空き地も同然だった駐車場も、コンクリートで舗装された広いものに変わった。

 改装するのに、銀行などから多額の融資でも受けたのだろうか。
 同じ店とは思えないほど立派になった新しいS屋の評判は、決して芳しくなかった。
 不味いというわけではないが、味が落ちたとそれまでのS屋のファンは口々に言った。
 お値段もそれなりになり、本当に普通の海鮮料理屋になってしまった。

 それまでのS屋はいかにも場末の小汚い大衆食堂といった雰囲気で、知らない人は入るのに二の足を踏むような雰囲気があった。しかし地元の人と食通はみな知っていて、固定客がしっかりついていた。
 一方、小綺麗な和風レストランのようになったS屋は、街道を通る一見の旅行客も気軽に入れるような雰囲気になったものの、「料理にすべてをかけていて、とにかく安くて美味い」という取り柄を無くしてしまった。
 だからそれまでの常連さんは、次々にS屋から離れていった。

 S屋は店を新しくして味を落としたと、知る人は皆そう言っていた。
 しかしもしかしたら、新しいS屋の料理の味はそれほど落ちていなかったのかも知れない。
 かつてのS屋は、本当にボロで小汚かった。
 だからこそ、出されるボリュームたっぷりで美味しい(しかも安い)料理に対する驚きが大きかった。
 だが新しい小綺麗なS屋には、その店の見かけと出される料理に対するサプライズが無い。
 ボロな店で安くて美味しい料理を出されれば良い意味で予想を裏切られた驚きが大きいが、小綺麗な店でお値段相応の美味しい料理を出されても「普通にウマいね」で終わる。
 そういう意味で、小綺麗かつ大きな店になったS屋は「味が落ちた」と言われたのかも知れない。

 また、かつてのS屋は「地元民と通だけが知っている隠れた名店」だったが、新しいS屋は街道沿いに目立つ看板も掲げた入りやすい大きな店になってしまい、通うにしても「オレだけが知っている穴場」のような優越感を持てなくなってしまった。

 店の外見や内装はボロのままほぼ放置して、料理の味だけにかけていたかつてのS屋は、地元民と味を知る人達に愛されてきた。
 間違いなく安めだった価格設定から見ても、S屋は儲けよりお客の満足を第一に考えて営業していたと思う。そしてその結果として口コミで名が知られ、店に来るお客が増えて黒字経営が続いた。
 それで店を新しく大きく綺麗にし、目立つ看板も掲げたら「味が落ちた」と言われ、以前からの客たちが離れてしまった。
 商売とは本当に難しいものだと、S屋のことを思い出してつくづくと思った。

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旅人には小さな親切を!

 今、プロ野球ではカープが絶好調で、リーグ優勝も手中にした。
 実は筆者は、幼い頃はカープも広島も大嫌いだった。

 今のカープを応援しているカープ女子達のような、若い世代の人達は知るまいが。
 昔のカープのファンは実に凶悪で乱暴だった。
 昔のカープファンすべてがそうだとは言わないが、少なからぬカープファンが行き過ぎた「贔屓の引き倒し」の乱暴狼藉を働いていた。

 ホームの広島球場でカープが試合に負けると、ただ相手チームの選手に酷い罵声を飛ばすだけではない。時には大勢のカープファンが観客席から球場になだれ込み、引き上げて行く相手チームの選手達に集団で襲いかかるような真似もした。
 大勢の暴徒に襲われたのだから、たまらない。身の危険を感じた相手チームのある選手が、持っていたバットを振り回して自分とチームメイトを守った。
 すると集団で襲ったカープファンでなく、バットを振り回して身を守った相手チームの選手の方が暴行の容疑で警察(広島県警)の取り調べを受ける結果になった。
 その光景をテレビで見ていた筆者は、カープとそれを応援する広島県民が大嫌いになった。

 何しろ当時の筆者は、まだ小学生だった。
 負けると暴れて騒ぎ、時には相手チームの選手に襲いかかったりする広島球場のカープファン達の姿は、幼かった筆者の心に「広島の人=凶暴な野蛮人」という印象を焼き付けるのに充分だった。
 そしてそんな広島の人が住む広島県も、さぞかし人の心が荒れた嫌な土地だろうと思い込んでいた。

 話は少し逸れるが、筆者は高校生の頃からずっと写真を趣味にしている。
 で、若くまだ元気な頃には、カメラを持ってあちこちに旅に出かけていた。
 筆者が撮影旅行に行く時には、たいてい車で出かける。旅の荷物に加えて複数台の一眼レフカメラや交換レンズ等を持って公共交通機関で移動するのは、とても大変な事だからだ。
 そして筆者は車の運転を苦にしないというより、むしろ好きな方である。
 だから撮影旅行には車に好きなだけの撮影機材と荷物を積んで出かけ、気が向くままにあちこちを移動して回った。

 ただ写真というのは存外お金のかかる趣味で、カメラや交換レンズその他の機材にかなりの出費を強いられる。
 しかも筆者はクラシック・カメラという特にたちの悪いものにもとりつかれていて、冷静に見れば実用性の薄い古いカメラにもかなりのお金をつぎ込んでいた。
 そんな具合で、自由にできるお金の大半は写真に費やしている有り様だったから。車など「動けば充分」と、いつも古いポンコツの車にばかり乗っていた。

 中古車屋で安く売られている、古い車は財布に優しいですゾ。10~30万円くらいの車を最初にキャッシュで一括払いしてしまえば、後は毎月のローンを支払う必要がないのだから。
 で、廃車にするしかない状態になるまで、徹底的に乗り潰すというわけ。
 ただそうした古い車は、たまに故障する。
 そしてそれが旅行して遠出した最中だったりすると、かなり痛い目に遭う。

 実は電装系のトラブルで、撮影旅行に出掛けた中国山地の田舎で車の調子が悪くなってしまった事があった。
 しかもその場所は、凶悪なカープファンが跋扈するあの広島県内だった。
 それで恐る恐る現地(庄原市の町外れ)の自動車工場に行ったところ、その家族経営の自動車修理業の人達はとても親切だった。
 問題はヒューズのトラブルで、修理費など数百円にしかならなかったが。
 しかしその修理工場の人達は明るく親切で、車のナンバーを見て遠方から来た旅人だと見て取ると、いろいろ心配して道案内もしてくれた。
 それでずっと広島県に“鬼のようなカープファン”のイメージを重ねていた筆者は、コロッと印象を変えてしまった。
「広島の人って、良い人じゃん」

 旅を続けて次に出会った広島県の人も、少しおせっかいなまでに親切な良い人だった。
 だからそのせいで筆者の広島県に対する偏見はすっかり無くなり、今ではむしろ広島県に好感を持っているくらいだ。

 ちなみにカープファンが凶悪で乱暴だったのは、まだカープが弱くていつも5位か最下位を低迷していた頃の話だ。
 一度優勝して普通に強いチームになってからは、ファンにも心のゆとりが出来てきたのか、カープファンもすっかり良識的になり大人しくなった。

 だが「贔屓の引き倒し」という言葉がある通り、好きなチームに過度の愛着を持って行き過ぎた応援をするのは自制した方がいい。
 例えば試合の結果に腹を立て、相手チームに罵声を浴びせかけたり、相手チームのファンや選手に暴力を振るったりすると、本当にそのチームとホームタウンのイメージが悪くなるから。
 筆者も幼い頃に凶暴な一部のカープファンの姿を見たばかりに、「広島県民=凶暴」というイメージを抱いてしまった。そして実際に広島を旅して現地の広島の人達と触れ合うまで、その偏見が消える事は無かった。
 特に本拠地の名をチーム名に付けている場合、一部のファンが粗暴でマナーの悪い行動に走ると、「あそこの人間は民度が低い」と思われかねない。そしてその偏見を解くのは、容易な事ではないのだ。

 旅先でのトラブルと言えば、筆者は金沢に撮影旅行に出掛けた時にも車の故障で痛い目に遭った。
 真夏に車がオーバーヒートしてしまって、路肩に車を停めてボンネットを開けてみると、冷却水が殆ど無くなってしまっていた。
 すると車を停めた近くの家のお兄さんが出て来て、一緒に原因を考え、わざわざ家のホースを伸ばしてラジエーターに水を入れてくれるなどして面倒を見てくれた。
 だが水を入れてもそのまま漏れるばかりで、結局JAFに救援を頼んだのだが。
 そのJAFの隊員も、ただ車を修理工場に運んでくれただけでなく、移動する足が必要な筆者をレンタカー会社まで連れて行ってくれた。
 そして修理工場の親父さんも、難しい顔をしつつ、筆者の旅のスケジュールに合わせてその日の夕方までに冷却水の水漏れを大急ぎで修理してくれた。

 その話を金沢在住の友人に話して、「金沢の人はみんな親切で良い人だった」と言ったところ、その金沢の友人は苦笑いしてこう答えた。
「金沢の人は見栄っ張りだから、よそから来た人には違うのよ」
 だとしても、他県から来た見ず知らずの旅行者に、金沢の人が親切だったのは確かだ。
 だから筆者の脳内では、「金沢の人=親切」という事になっている。

 これは車の故障には関係ないが。
 青森県に撮影旅行に行った際、ある日本料理店にフラリと立ち寄った。
 一人だったからカウンター席に座り、静かに待って出された料理を静かに食べたが、これがとても美味かった。
 それで翌日も立ち寄ってまたカウンター席で夕食をとったのだが、その際は店主が筆者の顔を覚えていて話しかけてくれた。で、八戸三社大祭の感想や青森市のねぶたとの違いから、いかに八戸市の三社大祭を日本全国に有名にさせるかまで、いろいろ楽しく語り合った。
 その店主は別れ際に、八戸から遠く離れた所まで帰る筆者の心配までしてくれたが。
 後に知ったことだが、その店主はただの店の親父ではなく、青森県日本料理技能士会の会長を務めている方だった。しかし少しも威張らず、気さくな話しやすい良い方だった。
 その日本料理店の店主だけでなく、朝市のおばさん達も商売っ気の無い人の良さを丸出しにした方ばかりで、朝早く起きて朝市を見て回るのもとても楽しかった。
 それで筆者の脳内では、「八戸の人も良い人」という事になっている。

 いや、現実の人間はそんな単純なものではない。
 どこの人も良い人と悪い人の両方がいて、筆者は広島と金沢と八戸で、ただたまたま良い人と出会っただけに過ぎない。
 その事はわかっている。
 しかし旅先で出会ったその土地の人が親切だと、「その土地の人=親切で良い人」と思い込み、その土地に好感を抱いてしまうのも人情だ。
 だからもし貴方に郷土愛(地元愛)があったら、たまたま訪れた旅人にはちょっと親切にしておいた方がいい。ただ少し愛想良く親切にしただけで、旅人は「この土地の人は親切で、この土地も良い所だ」と思い込んでくれマス。
 東京オリンピックが四年後に迫る今、「おもてなしの心」だの何だのと言われているけれど、おもてなしなどと大袈裟な事を考える必要はない。
 人として当たり前な、ただちょっとの親切。それだけで、遠くから来た旅人は充分感動してくれるものなのだ。

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こんなベンツのオーナーは嫌だ

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 私は持病があって、月に何度か通院しています。
 私の主治医は大病院から独立して個人のクリニックを開業しているのですが。
 名医と評判も高く、通院患者も多くて駐車場に空きが無い場合もしばしばあります。

 で、数少ない空いた場所を見つけて車を止めようとしたら、この有様です。
 ベンツが白線を踏んで無造作に停めてあったので、誰もその隣に駐車できなかったのですね。

 私はこういう車の止め方をする人を軽蔑します。
 他の人の事を考えて一度切り返す配慮の無い人を、心から軽蔑します。

 私だって、別にそれほど運転が上手いわけではありませんが。
 それでも駐車したら必ず確認して、停めた位置が偏っていたら切り返すくらいの配慮はしています。
 面倒かどうかは関係ありません。
 それが常識と思うからです。

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看護師さんの機嫌を損ねたら怖い入院生活

 先週は、筆者が出合った良い医師の話をした。
 それで今回は、看護師の話をしようと思う。

 日本の社会が高齢化し病気にかかる人が増えたせいか、よく『名医がいる病院』などという本や雑誌を目にする。
 しかし間違えてはならない。
 手術などを担当するのは確かに医師だ。しかし患者が入院生活をおくる病棟を支配するのは、現実には看護師たちである。
 そして男の看護師も増えてはいるものの、看護師の大半は今も女性だ。
 その看護師さんに気に入られるかどうかで、貴方の入院生活は天国にも地獄にもなる。

 先週も書いたが筆者はいろいろな病気をしてきて、入院生活も何度も体験している。
 だからこそ言おう、看護師さんが横柄で当たりのキツい病院に入院するのは辛いぞ。
 無論、手術を担当する主治医がヤブでは困る。
 しかし医師の腕と同じくらいに、入院する病院の看護師さん達が親切かどうかも大切なのだ。

 筆者は以前、腸の奥に大きな腫瘍が出来てしまい、某大学病院でその摘出手術をした事がある。
 その腫瘍が2キロ以上と大きかった上に、臓器と癒着してもいた為、地元の病院では手に負えず、他県の大学病院で手術する事になった。
 その大学病院で、五人の医師で七時間以上もかけて腫瘍を切除したのだが、予後も良くなかった。まず感染症にかかり高熱を出して寝たきりになり、さらにその為に大静脈血栓を起こしてしまい、そのせいで今も左足に障害を残している。
 で、その大学病院にも二ヶ月以上入院することになってしまった。

 その大学病院はかなり大きく、入院患者は全部で千二百人を越えていた。
 だから病棟にも大勢の看護師さんが居て、二ヶ月を越えて入院する間に多くの看護師さんのお世話になった。
 で、その中でまだ若かった筆者が真っ先に親しくなったのが、Aさんという看護師(もちろん女性)だった。Aさんは目立つほど綺麗というわけではないが、整った顔立ちでとても優しく親切で、さらに仕事もよく出来た。
 同じ病室の入院患者の、四十代以上の酸いも甘いも噛み分けたオジサンには、「Aさんが“優しい”のはさ、プロ意識からだよ。本当はキツい人だから気をつけな」と、そっと忠告されたりしたのだが。
 まだ若かった筆者はそれを右の耳から左の耳へと軽く聞き流し、例のAさんにすっかりなついてしまったのだ。

 するとなぜか数人の看護師さん(すべて女性)から、筆者は急に冷たくされるようになった。
 Aさんより年上や、または新人の看護師さん達は以前と変わらぬ態度で接してくれたのだが。Aさんと同世代の二十代半ばくらいの看護師さん達には、嫌味を言われるなどの言葉や態度での意地悪をされるようになった。
 特に手術して間もない頃に、「身の回りが汚い、だらしないわね。もっと整理整頓しなさい」と叱られたのは辛かった。

 その時、筆者は病状が良くなくて、体をろくに動かす事も出来なかった。そして他県から入院しに来ていて、未婚だから身の回りの世話をしてくれる妻もなく、親(父は既に亡くなっていて母一人だけ)も忙しく働いていたから、見舞いも月に二度か三度くらいしか来られなかった。
 そしてその事は、看護師さん達もちゃんとわかっていた筈だ。
 それだけに、「汚い、だらしない」と叱られたのは本当に悔しかった。
 出来れば言い返して怒るくらいしたかった。しかし病状が悪かった筆者には、その気力も体力も無かった。

 で、鬱屈した入院生活を送っていたのだが。
 筆者のように病状の重い患者は、毎朝採血をされたりする。そして病棟の起床時間は朝6時なのだが、仕事の都合か看護師さんは、6時前のまだ寝ているうちにやって来ては、そっと患者を揺り起こして血を採って行くのだ。

 採血されるのが好きな人は、まずいないだろうと思う。
 しかも筆者のように毎日採血されていると、その箇所の皮膚が固くなって、注射針が刺さりにくくなってくる。
 その状態であえて針を刺すわけだから、もちろん痛い。
 だから毎朝揺り起こされては採血されるのが、とても憂鬱だった。

 ただ毎朝採血されるうちに、採血の痛さが看護師さんによってかなり差があることに気付いた。
 決まった量を採る同じ採血なのに、それがとても痛い看護師さんと、あまり痛くない看護師さんが、本当に間違いなくいるのだ。
 それで気軽に離せるアラサーの看護師さんに尋ねてみたのだ、「同じ採血で、痛い看護師さんとそうでない看護師さんがいるのは何故?」と。

「ああ、それはね──」と解説してくれた、その看護師さんの答えは、実に意外で、かつ納得できるものだった。
 その看護師さんによると、採血にかかわらず注射というものは、迷わず躊躇わずにブスッと刺してスッと抜くのが一番痛くないのだそうだ。で、「痛いかな、可哀想だな、ごめんね」なんて思いながらおずおず刺すと、逆により痛くなるのだそうだ。

「なるほど!」と、心から納得したね。
 確かに仕事と割り切ってやっている男性の医師や看護師、そして大病院の採血専門で慣れきっている女性看護師の注射は上手いし痛くない。
 相手の腕を人の体でなく大根か何かのように思って、変な情を抱かずに針を刺すのが、結果的に痛くない注射や採血になるようである。

 確かに筆者が入院していた病棟でも、一番優しい看護師さんの採血は、新人でもないのにかなり痛かった。
 で、その病棟で採血が最も上手で痛くないのは、筆者をイジメてくれた看護師グループのリーダー的なBさんだった。
 Bさんというのは、筆者がなついてしまったAさんと同じ二十代半ばで、そしてまるでフランス人形のような顔立ちと雰囲気の、病棟でもピカイチの美人看護師だった。
 このBさんは筆者には意地悪だったけれど、採血は本当に上手くて殆ど痛くないのだ。
「そうか、性格が悪いからBさんの採血は痛くないのか」って、心から納得したね。

 だから筆者は、次にBさんが朝の採血に来た時に、心を込めてこう言ったのだ。
「朝の採血は憂鬱だけど、Bさんは本当に採血が上手くて痛くないから、Bさんが採血に来てくれるとすごくホッとするよ」
 ハイ、実は心の中では「オメーは鬼で冷たいから注射が上手いんだよ」と呟きながらね。
 そしたらBさん、筆者のその褒め言葉に頬を赤らめて大喜びしてくれちゃったよ。
 で、それからBさん達一部の看護師さん達からの筆者への意地悪は、ピタリと無くなったのでアリマス。

 無論Bさんの筆者への感情が変わったのは、その褒め言葉一つのせいだけでは無いのだけれどね。
 実はその少し前に、Aさんと筆者の間にちょっとした気持ちの行き違いがあって、筆者は以前ほどAさんと仲良くなくなっていたのだ。
 で、間もなくBさんを褒めたら、Bさんの筆者への感情が劇的に変わったらしいデス。

 そして筆者の体調も徐々に回復して、病棟内を不通に歩け回れるようになって。
 そんなある日、Bさんが一人で、患者を乗せたベッドを他の階に移動させようと悪戦苦闘している場面に出くわしたのだ。
 黙ってサッと手伝ってしまいマシタよ、筆者は。
 ベッドを押すのに手を貸し、エレベーターが来たら“開”のボタンを押しながら中に入れるのを手伝って……と。
 その間、Bさんは本当に気まずそうな顔をして、小声で「ありがとう、ありがとう」って言い続けていたよ。
 イジメた相手に逆に親切にされてBさんが困り切っている様子が、本当に面白かったデス。

 それ以後も、何かBさんを“手助け”できる事があればな……って思って、時々病棟内を散歩がてらBさんの姿を捜したのだけれど。
 そしたらBさん、筆者を見るときまり悪げな顔をしてササーッと逃げるようにどこかに行ってしまってさ。
 これは面白い、って思ったね。
 で、「何か親切に出来ないか捜す→気まずい顔して逃げるBさん」というのを何度か繰り返すうちに、筆者は退院の日を迎えたというわけさ。

 この「ある看護師さんと仲良くしたら、他の看護師さん達に意地悪されて……」という体験を、現役の看護師さん(若い女性)に話したら、「あー、わかるわかる」と頷いていたよ。
 今になればわかるのだけれど、Aさんって仕事は出来るし患者には優しいのだけれど、実は気が強くて、しかも裏と表で顔が違うタイプの人だったようで……。
 そんなAさんにコロッとなついてしまった若い筆者は一部の看護師さん達に睨まれて、特に病棟でも飛びきりの美女だったBさんにイジメられてしまったようデス。「あんなオンナにコロッと騙されてなつくなんてムカつく!」ってね。

 でもイジメられたり意地悪された時、「対抗して仕返しするのでなく、褒め殺しに加えて親切を返すと効果がある場合がある」って、そのBさんのおかげで学べたよ。
 想像してみてほしい。
 もし貴方が「ムカつく!」とかの八つ当たりに近い不当な理由で誰かをイジメたとして。そしてその相手に親切や褒め言葉で応じられたら、罪の意識を抱いてかなり気まずく思うのではないだろうか。

 筆者に辛く当たってくれたBさんだけど、美人でプライドが高かったにせよ、芯から悪い人では無かったのだと思う。
「気に食わないというだけで、患者をイジメた」と自覚していて、だから筆者に恨まれるのではなく褒め言葉をかけられ手助けもされ、罪の意識にかられて随分と後悔したのではないだろうか。
 イジメに親切で応じられて気まずい顔をするBさんを見るのは、とても面白かったデス。

 ただこの「イジメや意地悪に親切や褒め言葉で応じる」と言うのは、Bさんのように自分の行為を恥じるだけの良心が残っている人が相手でないと効果は無いデスけれどね。
 イジメや意地悪が快感でしかない心の底からの悪人とは、徹底的に戦うか、あるいは極力避けて逃げるしか無いよ。

 それにしても、看護師さんの世界は今もまだ女性が多いから。
 だから女の世界の難しさや面倒くささは、どの病院でも間違いなくあると思う。
 貴方が男性で入院する事があると、つい可愛い看護師さんに目が行ってしまうだろうけれど。
 だがその看護師さん達の人間関係や人柄を見極めないうちに、「ちょっと親切にされたから」と舞い上がって特定の看護師さんと仲良くなってしまうと、筆者のように辛い目に遭う事になりかねないから、ご注意を。

 何か病気や怪我で入院する場合、大事なのはやはり主治医の腕と人柄ではあるだろう。
 しかし入院患者と最も身近に接するのは、間違いなく看護師だ。
 その看護師の教育が行き届いて人柄も良ければ、気持ち良く入院生活が送れるのは間違いなしだが。もし看護師の質があまり良くなかったり、看護師と感情的に行き違う事があったりすると、想像以上に辛い目に遭う事になる。
 寝たきりで体も心も弱っている時に看護師さんに意地悪をされると、たとえ些細な事でもかなりダメージを受けるよ。

 だからもし貴方が入院を余儀なくされるような事になったら、医師の技量だけでなく、看護師の質についても事前に調べておいた方が良い。
 そして入院した後は、必要以上に卑屈な態度を取る必要はないが、くれぐれも看護師さんの機嫌を損ねるような事はしない方が良い。

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若いが良心的な良い医師に出会った

 全く自慢にならないが、筆者は幼い頃から病弱で、いろいろな病気を経験してきた。
 だから当然、大勢の医師とも接してきた。

 中には、「ん?」と思うような対応や治療をする医師もいた。
 しかし幸いにも、筆者を診てくれた医師の大部分は良心的で優秀なドクターだった。
 そして今日は、その中でも特に心に残った若い医師について話したいと思う。

 十年以上も前、筆者はヘルペスによる脳炎で総合病院に入院した事がある。
 その時の主治医は、内科のかなり若い先生だった。小太りで見かけは冴えないが威張った所が全く無く、人柄の良さが中からにじみ出て来るような優しい先生だった。

 その先生に特に好感を持てたのは、何か不確かな事があると患者の目の前で、躊躇う事なくデスクの上の厚い医学に手を伸ばして調べた事だ。
「俺はお医者さまなのだ」というプライドにこだわらず、わからないものはわからないとちゃんと認めて調べ直す姿勢に、筆者は頼りなさではなく誠実さを感じた。
 疑問があるのに知ったかぶりをして妙な治療をする医師より、少しでも疑問があるなら調べ直して確認する医師の方がずっと信頼出来ると、少なくとも筆者は思う。

 そしてその医師の手で、随液の検査をする事になったのだが。
 これは腰椎の間に針を刺し込み、硬膜とくも膜を通してくも膜下腔に届かせ、その中にある随液を採取するのだから、なかなか難しい。
 ただ難しいだけでなく、脊髄に針を刺し込むのだから、危険でもある。

 だからその若い主治医の検査は、なかなか上手く行かなかった。
 刺し込んだ針が腰椎の間に入らず、骨に当たったり。
 腰椎の間に入っても、変に神経を刺激したのか、背に針を刺している筈なのに足の先に変な痺れが走ったり。

 で、その事を言うと、先生は決して無理をせずにすぐ針を抜いてやり直した。
 だがやり直しても、なかなか上手く行かない。
 そして十数分ほど格闘した後、主治医の若い先生は「ちょっと待って下さい」と言って検査室を出て行った。

 やがて帰って来た主治医の先生は、中年の別の医師を伴っていた。
 その痩せて長身の医師は、無表情のまま黙って検査器具を取ると、一言も無いまま筆者の背に針を刺した。
 一発だった。
 ピリッとした痛みが走った後すぐに針が腰椎の間に通り、あっと言う間に随液を採取した。
 頭を下げて礼を言う主治医の先生には見向きもせず、その中年の医師は無言のまま立ち去った。

 その事で、筆者は若い主治医の先生に対しさらに「偉いなあ」と思った。
 自分には難しくて、下手をすれば患者を傷つけかねない時には無理をせず、先輩の医師に頭を下げて代わってくれるよう頼み込んだのだろう。
 代わりに随液を取ってくれた中年の医師は、腕は間違いなく確かだった。
 しかしその時の愛想の欠片も無い態度からしても、若い主治医の先生に尊大な態度を取り、嫌味の一つも言ったのではないかと思われる。
 それでもその主治医の先生は、己のプライドを守る為に検査を自分の手で強行しようとはしなかった。患者の為に、先輩医師に頭を下げて頼み込んで検査を代わって貰ってくれた。

 医師と言えば「先生」と呼ばれる職業の中でもかなり偉い方だし、学歴だけでなくプライドもかなり高いだろうと思われる。
 だが筆者が出合ったその若い医師は、ためらう事なくプライドより患者の為を優先した。
 不確かな事は、患者の目の前で辞典で調べる。
 危険な検査は、先輩医師に頭を下げて代わってもらう。
 当たり前の事かも知れない。
 しかし己のプライドを守りたくてそれが出来ない医師が、現実にはかなりいるのではないだろうか。

 医師だけではない。
 不確かな事は「わからない」と認めてちゃんと調べ直す事や、出来そうにもない事はそう認めて他の誰かに頭を下げて頼る事が出来ない者は、実際にはかなりいる筈だ。
 そして無理に自分でやった揚げ句に失敗をして、周囲の者に迷惑をかける事になる。

 筆者が出合ったその若い医師は、知識もまだ足りず、腕もまだ未熟だったかも知れない。
 しかし少なくともプライドを殺して、わからないものはわからないと認め、出来ないものは出来ないと認める事はできた。
 その先生の治療を受けてから、既に十年以上経つが。
 己の力量をわきまえ、迷わずプライドより患者の為を優先できる先生だったから、医師としての経験を積んだ今頃は、心と技量を兼ね備えたさぞ良い先生になっている事だろうと思う。

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過去のツッパリ時代を武勇伝のように語るヒロミ氏

 この世には、立場を笠に着て下位の者に理不尽な要求をする者が少なからずいる。
 学校や職場での先輩による後輩イジメから、企業間での下請けイジメまで、下の立場の者や企業に理不尽なことをする輩は当たり前に存在するのが現実だ。
 で、貴方に聞こう。
 貴方はその上の立場の者たちの理不尽な要求を、「当然のもの」と思って受け入れ、そして同時に貴方より下の立場の者にも同じように理不尽な要求をして当然と思っているだろうか。
 それとも「立場がどうあれ、理不尽な要求は人としてすべきでない」と思うだろうか。

 毎日新聞に『学校と私』というコラムがあって、毎回各界の有名人に学生時代の思い出をインタビューしているのだが。
 そしてこの3月14日に、タレントのヒロミ氏がインタビューに応じていた。
 それによると、ヒロミ氏は中学時代からツッパリで、高校は生徒が逃げないように塀にバラ線(鉄条網)を張り巡らせたような工業高校に通ったという。
 で、ヒロミ氏は高一で早速オートバイの免許を取り、改造バイクを乗り回して「おまわりさんによく追いかけられた」そうである。
 これだけでも、若い時のヒロミ氏の人となりが想像できるだろう。

 そしてその時代の自分について、ヒロミ氏はこう語っている。

「暴走族」のつもりはないのですが、友達が集まると結構な人数になるので、周りからは100%、暴走族に見えたでしょうね。
 不良の社会は縦社会で、理不尽な先輩の要求にも応えないといけない。でも、そういうのは社会に出たら山ほどあるから、社会に出て役立った部分がすごくある。不良はいいかげんに生きてると思われるかもしれないけど、結構ルールが厳しいんです。人生には無駄がないなと思います。


 このヒロミ氏の言葉を聞いて、胸がムカつく思いをしたのは筆者だけだろうか。
 この種の、己の過去の愚行に対して反省のカケラも無く、それどころか武勇伝のように話す元ツッパリを見ると、少なくとも筆者は胸くそが悪くなる。

 真面目に生きている他の大勢の人間は、ツッパリや暴走族の存在に心から迷惑してんだよ。
 なのにヒロミ氏は「若気の至りで、昔は周囲の皆さんに迷惑をかけました」と世間に詫びるどころか、逆に「不良の社会には世の中に出て役立つ事がすごくある」と自慢げに語る始末だ。
 この種の元ワルだった過去を武勇伝として語る者は、人間の屑だと筆者は思う。

 で、そのヒロミ氏が「社会に出て役立った部分がすごくある」と語った事とは、平たく言えば「先輩の理不尽な要望に応えること」である。
 つまりヒロミ氏は、「上司や客の理不尽な要望に応えること」が、社会人して必要な資質と考えているのであろう。

 実際、己の有利な立場を笠に着て、部下や取引先や下請けなどの弱い立場の者達に理不尽な要求をする者は、確かに幾らでもある。
 だが世間の皆が皆、全員が下の弱い立場の者らに理不尽な事を求めているわけではなかろう。
 だから筆者は、「人には、自分より下の弱い立場の者には理不尽な事を求めて当然と考えている者と、そうでない者の二通りが存在する」と考えている。
 そして筆者は、「上の立場だから、下の弱い立場の者には理不尽な事を求めても良い」と考えている者達を軽蔑する。

 と言うと、「オマエは世の中がわかってない、小学生かよwww」と非難する方がきっと出て来るだろう。「下請けには値下げを強要し、正社員を派遣に置き換え、重いノルマを課しサービス残業をさせて会社はようやく生き延びているのだ、綺麗事を言っていたら競争に負ける」と言い、社会のいろいろな理不尽を肯定する方が必ずいるだろうと思う。
 だがその社会の理不尽さを「世間とはそういうものだ」と肯定していたら、世の中がとても住みにくいものになるのではないか。

 元請け会社が下請けに無理を言い、だから下請けも孫請けに無理を言う。そうしたらその無理をすべて負わされる一番下の孫請けはどうなるか。
 部長が課長に、課長が係長に、そして係長が平社員に無理を言っていたら、一番下の社員は過重な負担で潰れてしまうのではないか。

 近年、会社の都合で正社員を派遣に置き換えている職場が増えているが。で、低賃金で不安定な仕事をせざるを得ない弱い立場の人達が増えた結果、結婚できない人達が増え少子化に拍車がかかり、日本はとうとう人口が減少し始めた。
 安倍首相のアベノミクスだの三本の矢だのが、現実には首相が主張するほどうまく行っていないのも、安定した職が無く低収入の国民が増えている現状では、国内消費を増やしようが無いからではないのか。
 部下であれ取引先であれ、立場が下の相手には理不尽な事を求めても構わない。その今の日本の風潮が、少子化に拍車をかけ人口を減らし、結果的に経済成長にもブレーキをかけているのではないかと思うが、間違っているだろうか。

 小中学生レベルの綺麗事と失笑されるかも知れないが、立場が下の相手も正当に扱い、理不尽な事は求めず人としてきちんと扱うような社会にならねば、日本の人口減少と経済の衰退に歯止めはかからないと筆者は考える。
 高給でなくとも安定した収入の得られる正社員で、残業も欧米並みに少ない環境でなければ、どうして安心して子供を産み育て、消費にお金を回す事が出来ようか。
「低賃金の派遣の仕事で働き残業もして、さらに子供も産んで消費にもカネを遣え」と言う今の政府の政策や経済界の言い分は、弱者に対するとんでもない理不尽な要求に筆者には思える。

 大阪北新地の社交料飲協会の初代理事長が1980年に作った『ホステス心得帖』という小冊子が、近頃「男が読んでも為になるし、新人社員教育にも良い」と評判になっている。
 実は筆者も全文を読んでみたのだが、為になる事が数多く書いてあった。
 その中に「先輩・後輩の順序を守ること」と書いてあると同時に、こうも書いてあった。

 人間は、自分より立場の弱い人に対する態度で、その人の値打ちが決まる。

 過去のツッパリ時代や暴走を自慢げに語り、「理不尽な先輩の要望にも応えなければならず、それが社会に出てすごく役立った」と言うヒロミ氏と。
 先輩と後輩の序列は重んじつつ、立場の弱い者に威張ることを戒める大阪北新地のホステスと。
 さて、人としてどちらが立派であろうか。

 中国に「上敬下愛」という言葉がある。
 下の立場の者は上の者に敬意を払い、そして上の立場の者は下の者を慈しむ。
 それを実践してこそ皆が生きやすい社会になるのではないか思う筆者は、頭が綺麗事に走り過ぎて幼稚なのだろうか。
 少なくとも筆者は、立場を笠に着た理不尽な要求を当たり前と認めるような人にはなりたくないし、その種の人々を軽蔑する。

 ハイ、だから筆者は周囲の、特に上の立場の人達と衝突する事が少なくないデス。そして損をする事も度々あり、生きるのが下手だとも言われマス。
 それでもヒロミ氏のような、過去のツッパリ時代を自慢して「上の立場の者の理不尽な要求に応えるのが当然で、それが世の中というもの」と思うような人には死んでもなりたくないと、心から思っている。

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遅刻を許すのは“優しさ”か?

 筆者は長年、猫と共に暮らし続けている。
 ただ猫は、人間よりはるかに寿命が短い。だから今、筆者が共に暮らしている猫は、初めて猫と共に暮らしてから三代目の子になる。
 当然、獣医さんとの付き合いも長くなる。
 筆者は幸いにも腕も良く、かつ献身的な治療をして下さる良い獣医さんとすぐに巡り会えた。

 その獣医さんは、毎年あるお寺で、自分の動物病院で傷病死した動物たちの慰霊祭を行っている。その費用はすべて獣医さんの持ち出しで、参加する飼い主たちからは一銭も取らずにだ。
 で、その慰霊祭には毎年百人を越す参加者が集まっている。そして筆者も亡くなった猫たちを偲んで、毎年その慰霊祭に参加させていただいている。

 ただ参加者が百人を越すだけに、中にはだらしのない人もいて、案内の葉書に明記されている開催時間に遅れて来る者が必ず少なからず居る。
 で、その慰霊祭を長年執り行ってきたお寺の先代の住職は、とても「優しい」和尚さんで、その遅れて来る人達が本堂に着席するまで待った。決められていた、慰霊祭の開催時間を遅らせてでも。
 そして筆者は、その優しい住職が時間に遅れて来る参加者を待つ度に、「ああ、また今年もか」とイラッとした。
 その先代の住職の優しさに、筆者が何故苛立ったのか。
 それは筆者が時間厳守を常に心掛けていて、この十数年以上参加し続けている慰霊祭に遅刻した事は、ただの一度も無かったからである。
 この傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、会議でも人と会う約束でも、筆者は「時間に遅れる」という事が無い。そのような事があるとすれば、事故か何かどうしようもない事情が発生した時だけである。

 ただその先代の住職は高齢でお亡くなりになってしまい、まだ若い方がその跡を継いで新しい住職となられた。
 その新しい住職もユーモアと温かみがある良い方だが、若いだけに慰霊祭の進め方もてきぱきとしている。
 この新しい住職は、遅れて来る参加者を待たない。所定の開催時刻が来れば、「時間になりましたので」と慰霊祭を始める。

 あらかじめ決めた時間を遅らせてでも、遅刻して来る参加者を待った先代の住職と。
 待たずに時間が来れば、どんどん慰霊祭を始める新しい住職と。
 皆さんはどちらの住職の方を、より「優しい」と思うだろうか。
 多くの方は先代の住職とお思いになるだろうが、筆者は断然、新しい若い住職の方だとと断言する。

 なぜ筆者は、いつも時間に遅れずに決められた場所に着いているのだろうか。
 自然にいつの間にか早く着いているのではない。
 筆者は常に、時間を気にかけているからだ。
 例えば日曜の午前十時にその慰霊祭があるとすれば、支度にかかる時間や、着くまでにかかる時間をあらかじめ計算して行動している。それも「自分に都合良く短めに」では無く、何かあるかも知れない事も想定して長めに見積もっておく。
「ちょっとくらい遅れたって構わないだろう」などと自分を甘やかしたりは、断じてしない。
 だから約束の時間より前に着いて、現地で待っている事が殆どだ。
 遅刻を「ちょっとくらい良いじゃないか」と思っている人達に言いたいが、時間を守る者はその為に努力しているのだ。

 にもかかわらず先代の住職は、「遅れて来る人がいるから」と慰霊祭を始めるのをいつも待った。
 筆者は遅れぬように努力して時間前に着き、そしてまたその努力をせずゆっくり来やがる怠け者たちの為にさらに待たされるのである。
 これでは時間を守る為に頑張る者が馬鹿を見て、時間を気にせぬ怠け者を助ける事になっているのではないか。

 その慰霊祭を行う寺は市の山に近い方にあり、筆者の住んでいる家から3キロ以上離れている。そしてその寺の駐車スペースには限りがある為、「できるだけ公共交通機関を御利用下さい」と参加者は事前に呼びかけられている。
 公共交通機関と言っても、その山麓にある寺の方面に行くバスは一時間に一本のみである。だから筆者は、慰霊祭にはいつも自転車で行っている。
 その寺は山の麓にあるから、行きはいつも登り坂を漕ぎ続けて行く事になる。
 で、朝の出がけに不測の用事があって、家を出るのが少し遅れた時など、それはもう必死に自転車を漕いで行くのだ。その3キロの、延々と続く登り坂の道を。
 それで息を切らせ汗だくになりながら、所定の時刻の数分前に着いて記帳も終え、席に座ってやれやれと思っていると、住職が「遅れて来る人を待つ」と言う。
 毎年の事だから、わかってはいる。
 しかしそう言われた時の虚しさは、何とも言いようが無い。
 自分は何の為に、こんなに苦しい思いまでして頑張って時間を守ったのか……と。
 その時の、約束の時間を守る為の「努力を踏みにじられ、馬鹿にされた」という悔しい思いは、いくらその住職が優しい良い方なのだとわかっていても抑えきれない。

 だから筆者は、約束の時間に遅れる者を待つのは「本当の優しさでは無い」と思っている。
 それは優しさや思いやりではなく、己に甘くルーズな者をより甘やかし、時間を守ろうと心掛ける者の努力を馬鹿にする行為である。

 約束の時間にいつも間に合う者は、その為に頑張っているのだ。支度や行くまでの行程にどれだけ時間がかかるかを多めに見積もり、早めに自分の仕事を切り上げて出かけているのだ。
 そして時間に遅れる者はその努力をせねばならないと思いもせず、遅くまで自分の好きな事をし、甘い見積もりで行動している。
 断言するが、その種の遅刻を繰り返す者は時間ドロボウである。他の者が間に合うように早く行動している間ものそのそ自分勝手な事をして、そして案の定約束の時間に遅れ、間に合うよう早く行動した者達の時間を無駄にさせるのだから。

 先代の住職は、時間に遅れても待っていてくれるとわかっていた。しかし筆者はそれでも決して遅刻はせず、登り坂の長い道を息を切らし汗だくになって自転車を漕いででも、所定の時間に間に合うように頑張った。
 それは自分が、約束の時刻を守る為に他の人が払った努力を無にする“時間ドロボウ”の側にはなりたくないからだ。
人には、自分が損をするだけとわかっていても貫き通さなければならない意地と矜持がある」と筆者は思う。
 そう思いはするのだが、約束の時間を守らない遅刻常習者に対する怒りと、その時間に遅れる者に寛容な「優しい」人に対する苛立ちが収まらない。

 その傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、仕事上の会議や面会はもちろん、私的な待ち合わせでも。
 遅刻する者は待たず、約束の時間が来たら会議や行事を始めるのが、間に合う者、遅れる者、双方にとって結果的に良いのだと思う。
 なぜなら遅刻する者を待てば、「遅れても待っていてくれるもの」とより甘え、ますますいい気になって遅刻を当たり前に繰り返すようになるからだ。そして時間を守り早めに行動して早めに家(職場)を出る者は、余計に待たされる事になる。
 遅刻は許さないし、遅れる者は待たない。それを徹底すれば、時間にルーズな者も「遅刻は許されない」と理解するし、時間を守る者が無駄に待たされる事も無くなる。
 だから遅れて来る者に配慮するのは思いやりなどではなく、時間を守る努力をする者を優先する事こそ、皆の為になる真の優しさなのだ。

 新しい年度になり、新社会人になる者だけでなく、新しい学校に進学する者も大勢いるだろう。
 その新社会人と新入生に、少しばかり長く生きた者から言っておく。
 時間にルーズで遅刻をする者は、人から信用されないようになる
 事実、約束の時間を守れない者は、他のすべての事においてルーズで自己中心的だ。「遅刻はするが、仕事は良く出来て几帳面で整理整頓もしっかり出来ていて他人との約束も守る」という者など、筆者は見た事が無い。
 遅刻を何度もする人間というのは、ただ一日の時間の割り振りがきちんと出来ていないだけでなく、物事の見積もりが甘く、そしてきちんと間に合うように考えて行動している他人の時間を無駄に費やさせているのだという事に気付きすらしない。
 単にだらしないだけでなく、何と自己中心的で傲慢であろうか。
 だから遅刻をする人間は、他の者たちから嫌われ信用されぬのだ。

 たとえ相手が待ってくれるとわかっていても、遅刻は何か事故か事件でも無い限り極力しない。これは筆者の意地と、人としての矜持である。

 さて、傷病死した動物の慰霊祭を行う寺では駐車場が少なく、「できるだけ公共交通機関を御用下さい」と通知されている事は前にも書いたが。
 それでも「交通に不便だから」と、自家用車で慰霊祭に来る者が少なくなく、狭い駐車場とその周辺は車で溢れて、毎年その整理にあたる動物病院の方が大わらわだ。
 だから筆者は「自分一人くらい車で行っても構わないだろう」などと思わず、雨の時も風の強い時も3キロ超の登り坂を自転車で漕いで行っている。
 誰が見ているわけでも無いが、それもまた筆者の自身に対する意地と人としての矜持だ。
 しかし現実には、「待っていてくれるだろう」と平気で遅刻してくる者や、「自分一人くらい」と狭い駐車場に車でやって来る者も少なくないし、そうした自己中心的な人間を咎める者もいない。
 だからつい、「世の中、ズルい者が勝つのだな」と思いたくなってしまうものだ。

 だとしても、だ。
「自分さえ良ければ構わない」という気持ちが心の奥底にある者は、人としての品性の下劣さが日頃の振る舞いに自然に滲み出るものだし、そのうち周囲から軽んじられ、白い目で見られるようになるものだ。
 直接に叱られたり窘められたりしなくても、見る人は必ずどこかで見ている
 だから自分の価値を自ら貶めるような行動は、誰が見ていなくても慎みたいものだと思う。

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