空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

どちらが幸せ? ある結婚式での事

 もう何年も前の話だが。
 筆者は同じ大学の友人だったAの結婚式に出た。
 そしてそこで、筆者とAの共通の友人であるBとも再会した。

 新郎である友人Aは公務員で、そしてAの父親や叔父たちも皆それなりに地位のある公務員だった。
 だからAの結婚式も、Aの住む辺りでは最も立派なホテルで挙げられた。
 そして新郎側が呼ぶ職場や親戚関係の人間が多すぎた為、新郎が招待した自身の友人は筆者と友人Bの二人だけに絞られたくらいだった。

 その式は大変華やかかつ豪華に執り行われたが、筆者は列席していて微妙に居心地の悪い気分だった。
 まず花婿と花嫁の記念撮影の際、二人はとても綺麗に着飾り、晴れやかな顔でカメラの前に立った。
 そのスタジオの隅にいた筆者の耳に、ホテルの従業員の中年婦人達の陰口が耳に入ってきた。
 撮影が長引いて、予定の時間より遅くなってしまった事への悪口がまずあって。
 そして新郎新婦が会場のホテルの貸衣装を使わず、別料金を払って衣装の持ち込みをした事に対する「お金を無駄に使っちゃって」とか「お金のある人はいいご身分だよね」などという、嫉みとやっかみの言葉の数々が続いた。
 その時はただ、「一流ホテルの筈なのに、従業員のしつけがなってない」と呆れただけだったが。

 筆者は新郎Aを個人的によく知っているが、Aはとても腰が低くて威張ることなど全く無い良い奴だ。
 しかし式が始まると、Aの側の親戚連中から、新婦の家を明らかに見下す「上から目線」の発言が繰り返された。
 Aの親戚の間だけで、ひそひそ話されたのではない。
 皆の前に立ってマイクを持って喋る祝福の言葉の中で、Aの親戚は新婦が母子家庭であることをあえて話し、「その新婦が、我がA家に嫁として入るからには……」などという時代錯誤な嫁としての心得を、平然と偉そうに喋った。

 新郎Aの親類の言葉は、Aの親しい友人である筆者にもとても不快だった。
 だから新婦の母親や親戚は、もっと不愉快であったろう。
 筆者の近くに、新婦の祖父と思われる老人がいて。
 その老人はひどく苦い顔をしていただけでなく、Aの親戚が何か言う度に悪態をついていた。
「ふざけるな」
「馬鹿め」
「なに言ってやがる」
 Aの親戚が新郎新婦に祝いの言葉を喋っている間ずっと、その老人は悪態を吐き続けていた。

 そのすぐ後の披露宴で、豪華な料理が出されて。
 そこで筆者と新郎Aの共通の友人であるBが、筆者にこう言った。
「俺は結婚式に出るのが大好きなんだ。だってみんな幸せで、ニコニコしてるからさ」
 筆者はただ耳を疑うと言うより、椅子から滑り落ちかけるほど驚いてしまった。

 新郎新婦の記念撮影の時も、それに続く式の時も、Bは筆者の隣に間違いなく居た。
 なのにBには、従業員の新郎新婦に対する陰口も聞こえず。
 新婦とその家を貶める、新郎の親戚の上から目線の偉そうで不愉快な発言の数々にも気付かず。
 そしてそれに対し、新婦の祖父らしき老人が悪態をつき続けていたことも、全く知らず。
 それで皆が幸せでニコニコしていると、本気で信じて疑わずにいた。
 自分を不快にさせる人間や世の中の悪い面には本当に気付かず、明るく良い面しか見えないし見たくない人が本当にいるのだと、筆者はその時つくづく思い知らされた。
 ちなみにこの友人Bの職業は、小学校の教師だ。

 従業員の陰口や、新郎側の親戚の傲慢な発言や、新婦側の祖父の悪態など、同じ挙式に出てその負の部分にすぐ気付いてしまう筆者と。
 そうした負の暗い部分の存在に気付きすらせず、明るく良い面だけを見ていられる友人Bと。
 はたしてどちらが幸せで、どちらが不幸なのだろうか?

スポンサーサイト

PageTop

「ズルイ」という言葉の誤用が目立つ

 まずは、この7月20日の毎日新聞の『てつがくカフェ』というコーナーの、「人はなぜ嫉妬するの?」というテーマについて載せられた、哲学対話を開催する団体カフェフィロ副代表である松川絵里氏の文章を一読していただきたい。

 ズルイとねたんでしまう
 あなたは誰かに嫉妬したことがある? 私の場合は、お姉ちゃん。絵がとても上手で、いつも親や先生や友達に褒められている。校長室の前に飾られることもしょっちゅうだ。うらやましくて、私も一生懸命絵を描いてみる。けど、なぜかお姉ちゃんのようにうまく描けない。すると、私のなかに暗くてドロドロした嫌な気持ちが生まれてくる。「同じ親から生まれたはずなのに、私を絵を描くのが好きなのに、お姉ちゃんばかり才能があって、いつも褒められて、ズルイ」
 不思議なことに、ピアノの上手な友達に対する気持ちはちょっとちがう。その友達が、私よりたくさん練習しているのを知っているから、うらやましくてもズルイとは思わない。
 誰かと自分を比べて相手のほうが優れている理由が見つからないとき、ズルイとねたむ気持ちが嫉妬だ。とすると、納得のいく理由さえ見つかれば、嫉妬しなくてすむのかもしれない。


 どう考えても変だと、筆者は思う。この松川絵里という、少なくとも哲学を学んでいる筈の人の、言葉に対する感覚は。
 ここに書かれた松川さんの“お姉ちゃん”は、松川さんや誰かに何か「ズルイこと」をしているだろうか。

 そもそも“ズルイ”とは、どういうことだろうか。
 その正しい意味を、辞書で調べてみた。

 広辞苑には、こう定義されている。
【狡い】
 ①しなければならないことを巧みになまけたり自分の利益を得たりするために、うまく立ち回る性質である。狡猾である。わるがしこい。
 ②しまりがない。ふしだらである。

 さらに類語辞典には、こう書かれていた。
【狡い】
 自己の利益のためには汚い手を使うさま。悪賢い。

 さて、例の松川絵里氏に繰り返し「ズルイ」と書かれていた“お姉ちゃん”だが、具体的にどこがどうズルイのだろうか。
 お姉ちゃんはただ、生まれつき絵の才能に恵まれていただけのことだ。

 松川氏と違ってお姉ちゃんが絵の才能に恵まれていたのは、確かに不公平ではある。
 しかし人間とは、そもそも不公平な条件のもとに生まれてくるものだ。
 裕福で優しい両親のいる家庭に生まれてくる子もいれば、貧しくかつ暴力的な“毒親”のもとに生まれてくる子もいる。
 そして子供は、生まれてくる家庭や親を選べない。

 さらに同じ両親から生まれても、兄弟に違いや差は間違いなくある。
 姉はブスなのに、妹は可愛いとか。
 兄は賢いのに、弟は勉強が出来ないとか。
 こんな不公平はよくある話で、ただの運の問題に過ぎない。

 事実、筆者の父親は酔って暴れる種類の酒乱で、しかもギャンブラーだった。
 だから幼い頃からいつ父が酒を飲んで荒れ出すか怯えながら育ったし、経済的にも大変な思いもした。
 さらに姉は優等生で、筆者はその姉といつも比べられ、親戚達にも教師達にも「出来損ないの弟」というレッテルを貼られて育った。
 だがそれも、そもそも不公平なものである世の中の不運の一つに過ぎない。
 親が酒乱でない家庭や、経済的に安定した家庭や、兄弟姉妹と比べられて貶められることの無い他人を羨ましく思いはした。
 しかしそうした幸運な他人に対して、「ズルイ」などと思ったことは、少なくとも筆者はただの一度もない。

 松川氏の言うように、もし何かの才能に恵まれていることが「ズルイ」のならば
 イチローもダルビッシュも大谷選手も、みな「ズルイ」ということになるではないか。

 もう一度、「ズルイ」という言葉の意味の正しい定義に戻ろう。
 松川氏のお姉ちゃんは、巧みになまけて描いた絵で褒められたのだろうか。
 絵で褒められる為に、何か悪賢くうまく立ち回ったのだろうか。
 褒められる良い絵を描く為に、何か汚い手を使ったのだろうか。
 答えはすべて、否である。
 お姉ちゃんはただ絵の才能があった。
 それだけの話で、全く狡くなど無い。
 松川氏は、「ズルイとねたむ気持ちが嫉妬だ」と言うが。
「ねたましい」と「ズルイ」は、全く意味が違う

 ちなみに、「ねたむ」とは広辞苑によればこういう意味だ。
【妬む】
 ①他人のすぐれた点にひけ目を感じたり、人に先を越されたりして、うらやみ憎む。そねむ。また、男女間でやきもちをやく。
 ②癪だと感じる。くやしいと思う。

 つまり「ズルイ」という意味と「ねたむ」という意味は、まるで違うのである。
 松川氏は絵の才能に恵まれたお姉ちゃんを、間違いなく妬んでいる。
 しかし松川氏がお姉ちゃんを「ズルイ」と思うのは、間違いなく筋違いで誤りだ。
 にもかかわらず、哲学を学んでいる筈のこの松川氏ですら、「ズルイ」の意味を誤解している。

 近年、この種の「ズルイ」という言い方が、特に女性の間で多用されている
 例えば宝くじで当たった人が、周囲の人に「ズルイ!」と言われたり。
 懸賞で豪華な賞品を貰った人が、「ズルイ」と言われたり。
 実力があって同期の中で一番に昇進した人も、心ない(頭の悪い)同僚から「ズルイ」と言われたりもする。
 筆者はこの種の妬みを込めた、不当な「ズルイ」という言い方が大嫌いだ。

 なぜなら「ズルイ」とは、相手に対する非難を込めたとても悪い言葉だからだ。
 ただ才能や運に恵まれた人を、ましてや才能に努力を加えて褒められるようになった人を「ズルイ」と貶めて非難するようなことは、決してしてはならないと、少なくとも筆者は思う。

 ズルイとは、どういう事か。
 首相夫人を学園の名誉校長に迎えて、国有地を8億2千万円も安く手に入れるとか。
 国民の財産である国有地を、首相周辺に気に入られる為に大安売りしてしまうとか。
 その問題を国会で追求された高級官僚が、公僕である筈なのに国民を見ずに首相周辺の意向ばかり忖度して、「資料は破棄し」、「記憶にない」が、「適切に処理した」と繰り返し答弁し、その結果、国税庁長官に栄転したりとか。
 岩盤規制の打破を名目に、たった一校だけ新設を認可された獣医学部が、首相の大親友の経営する学園だったとか。
 戦闘と記録してしまうと、PKO部隊を南スーダンから撤退させなければならないから、現地では銃弾どころか戦車の砲弾まで飛び交うような状況を「武力衝突」と言い換え、「戦闘」と書いた記録は無かったことにしてしまったりとか。
 本当にズルイことは、日本の政界でいやと言うほど起きている。
 なのに「ズルイ」という大変悪い意味の言葉を、相手が自分の利益の為に汚い手を使って悪賢く立ち回ったわけでもないのに、単に羨ましいとか妬ましいとかの意味で軽く使うのは絶対にやめてほしいと、心から思う。

 と言うと、「言葉は生き物で、意味も使い方も時代で変わるものだから」と反論する人達がいる。
 確かに以前は悪い意味でしか使われなかった「ヤバい」という言葉なども、若い世代は良い意味で使っていたりする。
 しかし同様に「ズルイ」という言葉のニュアンスが変わり、単に「羨ましい」というような意味でも使われるようになるのは、筆者は嫌だ。
 例えばノーベル賞を取った学者やオリンピックで金メダルを取った選手などに、「すごい、ズルイですね」と言葉をかけるような時代が来ることを想像するだけで、筆者はゾッとする。

 もう一度言う。
 ズルイとは、自分の利益の為に汚い手を使って悪賢く立ち回る行為を言うのだ。
 非難の意味が込められた、相手を大変悪く言う言葉である。
 だから「あの人はいいな、うらやましいな」程度のねたましい気持ちで、簡単に「ズルイ」という言葉を使ってはならない

PageTop

【長文】スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』というどうしようもない駄作

 前にも何度か書いたことではあるが、筆者は幼い頃から社会科が好きで、特に歴史が好きで大学でも日本史を専攻した。
 その筆者が痛いほど思うのは、「子供の頃は伝記を読まない方が良い」ということである。

 筆者の大好きな作家の池波正太郎氏が、作品の中で「人は良いことをしようと思いながら悪事も働き、悪いことをしながら良いこともする」というような一文を書いていた。
 人とはまさにその通りで、完璧な善人も、その逆の全くの悪人も、殆どいない。
 その割合に差こそあれ、殆どの人は善と悪の両面を持っている。

 しかし伝記は、特に子供向けの伝記は教育的な配慮があってか、その人を聖人君子か希代の英雄のように称えるばかりで、悪い負の部分にはあえて触れずにいるものが殆どだ。
 だから本気で歴史が好きになり深く学ぶと、伝記には触れられていなかったその人の残虐行為や悪行や非常識な行為を次々に知ることになる。
 で、筆者は幾度となく伝記に書かれた“偉人”たちの実像に幻滅し、何度も「伝記に騙された!」と腹を立てたものである。

 例えば日本人が大好きな源義経も、実際には兄頼朝の言いつけを忘れて腹黒い政治家の後白河法皇に簡単に籠絡され、兄頼朝に刃向かった大馬鹿者だ。
 義経は確かに軍事の天才かも知れないが、政治的にはまるで無能で、自分の立場というものを全くわかっていない。
 そして軍事的な才能というのも、実は当時の正々堂々とした戦では想像もされなかった、汚い戦い方をしたから勝てただけのことだ。
 本筋から外れるから詳しくは書かないが、義経の大勝利は常に汚い戦法によるものである。

 また、日本人が大好きな太閤さまこと豊臣秀吉も、天下を取った後はかなり酷い。
 朝鮮侵略(文禄の役および慶長の役)という、理の無い戦をしたばかりでなく。
 邪魔になった甥の秀次当人ばかりでなく、その妻子や妾たちを皆殺しにしたり。
 些細な罪で人を鼻削ぎや耳削ぎの刑にしたり。
 秀吉自身が「自分は信長のように甘くない」と書状に書いている通り、天下を取った後の秀吉は信長よりも残酷だ。
 残酷な天下人と言うと信長というイメージが一般的だが、実は信長より秀吉の方が残酷だし、秀吉自身もその事を認めている。
 また、天下を取った後の秀吉は、かつての主人を“信長”と呼び捨てにしていて、人柄もかなり傲慢であることもよくわかる。

 天才とナントカは紙一重とも言うが、科学や文学などの“偉人”もいろいろだ。
 例えば野口英世も実績はともかく、人柄から見れば素直に尊敬できる人物ではない。

 そのように伝記は、特に子供向けの伝記は神のように美化した虚像を描き出し、後で真のその人の実像を知った人達を落胆させるものばかりだ。

 そのような虚像を史実としてデッチ上げているのは、何も伝記のような書物ばかりではない。
 巨匠と呼ばれる監督による有名な大作映画にも、美化した嘘の史実が描かれたものがある。
 その代表的なものが、スティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』だ。

 この7月23日のテレビ朝日の『題名のない音楽会』で、『シンドラーのリスト』が実際にあったことを描いた映画として取り上げられていたが。
 筆者はトマス・キニーリー氏原作の『シンドラーズ・リスト』には心から感動したし、今も愛読書の一冊として手元に置いている。
 しかしスピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は大嫌いだし、原作の良さを台無しにした駄作と思っている。

 もしも原作の『シンドラーズ・リスト』を読むことなく、映画の『シンドラーのリスト』のみを観たなら、筆者も「それなりに良い映画だった」と思っただろう。
 100点満点のうち、70点は付けられただろう。
 しかし映画化される以前に原作の書籍を愛読していた筆者には、本の『シンドラーズ・リスト』を120点とすると、映画の『シンドラーのリスト』は0点より下としか言いようが無かった。

 スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』が、何が悪いか。
 それはズバリ人を国籍(民族)で白と黒、善玉と悪玉に「馬鹿にもたやすくわかるように」はっきりと分けて描いていることだ。
 映画の中ではユダヤ人は可哀想な被害者で、シンドラーを除くドイツ人は皆冷酷な悪者に描かれ、そしてシンドラーは偉人として描かれている。
 実にハリウッド映画らしく、わかりやすい。

 しかし原作の『シンドラーズ・リスト』は、シンドラーや強制収容所にかかわる人々の描き方がまるで違う。
 確かに基本的にはドイツ人(親衛隊の髑髏部隊)が悪で、ユダヤ人が被害者だ。
 ただ書籍の『シンドラーズ・リスト』には、良いドイツ人も悪いユダヤ人も複数出て来るのだ。
 書籍の『シンドラーズ・リスト』の中に出て来る良いドイツ人はシンドラー以外にも何人もいて、また親衛隊に媚び同胞を虐めて搾取する悪いユダヤ人も何人も描かれている。

 例えばシンドラー以外にも、ナチのやり方に反感を持ち、ユダヤ人の子供を何人もゲットーから助け出したドイツ軍の下士官がいる。
 その下士官はただ子供を助けるだけでは飽きたらず、ドイツ軍を脱走してパルチザンに身を投じてナチスと戦った。そして最後にはドイツ軍に捕らえられて殺された。
 本には書かれていないが、味方を裏切ってパルチザンに身を投じた元ドイツ兵が、捕らえたドイツ人にどんな扱いを受けただろうか。
 おそらく楽な死に方はさせてもらえなかっただろう。

 また、ロシア軍が迫って来て、ポーランドのクラクフ近くにあった強制収容所の囚人達を移動させることになったのだが。
 それまではシンドラーの保護下にあったユダヤ人達も、ドイツの各地の強制収容所に移送されることになり、それは彼らにとって死を意味した。
 で、シンドラーはチェコのモラビアに自分で収容所を作ろうとした。
 そしてそこに送られれば、囚人らは命が助かる……というわけだ。
 そのシンドラーの収容所に行けるユダヤ人のリストが、著書や映画のタイトルの“リスト”になるわけだが。
 映画ではその収容所に送るユダヤ人をシンドラーが選んで名前を読み上げ、シンドラーの右腕として働いたユダヤ人のシュテルンがタイプで打って“リスト”が作られたように描かれている。

 大嘘である。
 著書の『シンドラーズ・リスト』を読むと自分の収容所の建設の為に多忙で、シンドラーはリストの制作にかかわる暇が殆ど無かった。
 シンドラー自身が直接に思い出してリストに書かせたのは、千百人のうちの約70人ほどだったという。
 で、ようやく作り上げたリストだが、それを任された人事係の囚人のゴルトベルク(ユダヤ人)というのが悪い男で、そのリストに名前を載せるのに賄賂を取ったのである。
 生き延びたければシンドラーの収容所に行かねばならず、だからユダヤ人の囚人は自分の名をリストに載せてくれるよう、ゴルトベルクに必死に頼み込んだ。
 しかしゴルトベルクは、その同胞達にダイヤモンドを要求したのである。
 そして何も出せない囚人は、そのリストに名を書き込んで貰えなかった。

 ユダヤ人でありながら同胞を売ったのは、ゴルトベルクだけではない。
 親衛隊に協力して自分の立場を有利にしようとしたユダヤ人が何人もいたことを、『シンドラーズ・リスト』にはしっかり書いてある。

 本の著者トマス・キニーリーが『シンドラーズ・リスト』を書くきっかけになったのは、シンドラーに命を助けられたユダヤ人の一人で、シンドラーとも親しかったボルテク・ペファーベルクと知り合ったことだが。
 実はこのペファーベルクは、強制収容所で看守の親衛隊の下士官と親しくなった。

 きっかけは実に意外なことで、ペファーベルクがその看守の下士官にキレたことである。
 その下士官は決して良いドイツ人ではなく、囚人達から憎まれていた。
 で、その意地悪な看守の下士官が、収容所の窓拭き責任者のペファーベルクに「ガラスが汚い!」と難癖をつけ、怒鳴りつけてきた。
 窓ガラスに汚れなど無いことは、どちらもわかっていた。
 看守の下士官はただ因縁をつけて虐めていただけだった。
 で、元は高校の体育教師でポーランド軍の将校でもあったペファーベルクはキレた。
「撃ち殺す口実が欲しかったなら、さっさと殺せ!」と。
 それが何故か、その下士官を面白がらせた。

 それからその下士官はペファーベルクを気に入り、度々顔を見に来て様子を尋ねてくれ、リンゴをくれたりした。
 そしてペファーベルクの妻のミーラが死の強制収容所に移送されると決まった時には、下士官はペファーベルクの頼みを聞き、移送されかけていたミーラを助けてくれた。

 実はペファーベルク夫妻は、例のシンドラーの“リスト”に名前が載せられていなかった。
 で、例のゴルトベルクに掛け合ったものの、差し出せるお宝が無いということで冷たく断られた。
 その時に助けてくれたのも、その親衛隊の看守の下士官だった。
 その下士官が圧力をかけてくれたおかげで、ペファーベルク夫妻の名はリストに載り、生き延びることができた。

 同様に強制収容所とナチスの問題を扱った映画に、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』がある。
 実在の人物でもあるピアニストの主人公は、ドイツとナチスによって迫害されて死の淵に立ち、しかしその彼の命を助けたのはドイツ人、しかもドイツ軍の将校だった。
 それゆえその主人公のピアニストは、国籍ではなく相手の人を見ろと、息子に言い聞かせたという。

 原作の『シンドラーズ・リスト』は、ナチスの悪と非道さを描きつつ、良いドイツ人達がいたことも、ただ可哀想なだけではない悪いユダヤ人がいたことも、冷静な筆致で克明に描き出している。
 しかし映画の『シンドラーのリスト』はそうした個人を描くことを放棄し、「ドイツ人はシンドラー夫妻以外はみな極悪非道な悪人で、ユダヤ人は可哀想な被害者」と単純化し、民族で見事に区別している。


 シンドラー自身も、決して英雄でも偉人でもない。明るく社交的だが、酒好きで贅沢も好きで、女好きで愛人も幾人も抱えていて。
 シンドラーはユダヤ人を出来る限り助けたが、彼自身は実業家でもあった。
 彼の会社が上手く行っていて利潤を上げていたのは、親衛隊ともうまく付き合える彼の社交的な性格だけでなく、右腕として働いたユダヤ人のシュテルンの経営能力も大きかった。
 シンドラーはコルベ神父のような聖人では決してなく、欠点もいろいろある非常に人間くさい人物だった。

 映画では、シンドラーは最後に「もっと救えば良かった!」と涙を浮かべて感動的な演説をしているが、実際には違う。
 ユダヤ人の囚人達には、ドイツ人に個人的な復讐はせず司法に訴えて任せるように言い、自分と強制収容所の所長達を一緒に考えないよう言いたげだったという。
 そして囚人の服装をして、ユダヤ人の囚人達から贈られたダイヤモンドを持って西のアメリカ軍の占領地に逃げた。
 そもそもシンドラーは、金儲けの為にポーランドにやって来たのだ。
 そしてユダヤ人を救う傍らビジネスも続け贅沢もして、親衛隊やドイツ軍のお偉方ともうまく付き合っていた。
 彼こそ池波正太郎の言う「良いことをしながら悪事も働き、悪いことをしながら良いこともする」、複雑で多面的な人間なのだ。
 だからこそシンドラーという人間は面白いし、興味深い。
 しかし映画では、シンドラーはユダヤ人を救う使命感を持った善人として描かれている。
 善玉と悪玉がはっきりしていて実にわかりやすい、しかし実に底が浅くてつまらない。

 同じナチのユダヤ人虐殺と強制収容所の問題を取り上げた映画としては、筆者は『シンドラーのリスト』より『戦場のピアニスト』の方が遙かに素晴らしい出来だと考える。
 映画の解説者も含め、『戦場のピアニスト』については主人公の無力さに苛立ちを覚える人もいた。
 しかしナチスという全体主義体制の中では一個人など全く無力でただ逃げることしか出来ないというのも、筆者には非常にリアリティーを感じられた。
 そして主人公を追い詰めたのはナチスだが、救ったのもまたドイツ将校だという事実も、物事の多面性をよくとらえているように思った。
 しかし善悪がわかりやすくて主人公の頑張りで多くの人が救われる『シンドラーのリスト』の方が、一般の人には受け入れられやすいのだろう。

 映画の『シンドラーのリスト』が公開された頃、新聞の映画評に「ドイツ軍の冷酷非道さが克明に描かれていた」と書かれていた。
 ミリオタでもある筆者は、「あれは“ドイツ軍”ではなく、ヒトラーの私兵である親衛隊で、さらにそのの中で汚れ仕事を受け持つ髑髏部隊の仕業なのだが」とすかさず突っ込みを入れたものだ。
 しかし大多数の人はドイツ軍と親衛隊の区別も付かず、さらに髑髏部隊など存在すら知らないだろう。
 そして新聞で映画評を書いた記者のように、「あれはドイツ軍の仕業で、シンドラー夫妻以外のドイツ人はすべて悪」と思っただろう。

 良いドイツ兵も悪いユダヤ人も出て来る原作の『シンドラーズ・リスト』は、確かに普通の人にはわかりにくいだろう。
 それに比べ、「ドイツ軍はすべて悪でユダヤ人は可哀想、そしてシンドラーはすごく良い人!」と描いた“わかりやすい”映画の『シンドラーのリスト』は、非常にスッキリするだろう。
 しかし個々人を見ずに民族で善悪を色分けし、シンドラーを偉人に仕立て上げた“わかりやすい”『シンドラーのリスト』は、筆者から見れば0点より下の駄作だ。
 駄作というより、この種の民族や国籍で善悪を区別した映画はむしろ危険である。

 例えば今の北朝鮮は度々ミサイルを撃ち、そして国民も金正恩を口々に褒め称えている。
 その報道を見ていると、北朝鮮の指導者だけでなく、国民もみな頭がおかしいように思えてくる。
 それで筆者もつい、「北朝鮮にミサイルを何百発も一斉に撃ち込んで、北朝鮮など国民ごと無くしてしまえば良いのに」と思いかけてしまう。

 だが歴史を学んだ筆者は、「待てよ」と思う。
 筆者の目には、今の北朝鮮の姿が戦前戦中の日本の姿と重なって見えてならないのだ。
 天皇を神格化して絶対の忠誠を誓い、悪いのはすべて他国のせいにして、国民みなが鬼畜米英と叫んで勝と信じて戦争に突き進んで行ったかつての日本は。
 金“王朝”を神格化して絶対の忠誠を誓い、悪いのはすべて他国のせいにして、国民みなが打倒米日韓と叫んで勝と信じて戦争に突き進んで行こうとする今の北朝鮮と、傍から見れば何も変わらない。


 おそらく戦争中のアメリカ人には、当時の日本人は今の北朝鮮人のように「頭のおかしい、話の通じないキ印」に見えていたのだろう。
 それで日本人は軍人も民間人も関係なく皆殺しにして構わないと思い、民間人の多く住む都市に無差別爆撃をし、そして原爆も落としたのだろう。

 今の日本人に、北朝鮮人にも良い人が何人もいることを頭だけでなく心でも理解している人が、どれだけいるだろうか。
「あんな国、国民ごと無くしてしまえば良いのに」と思っている日本人は、決して少なくないだろうと筆者は思う。
 そして戦時中のアメリカ人も、日本に対しそのように思っていたのだろう。

 原作の本の『シンドラーズ・リスト』を読めば、ドイツ兵にも良い人間が、ユダヤ人にも悪い人間がいた現実が理解できる筈だ。
 そして『戦場のピアニスト』のモデルになったピアニストが言うように、国籍でなく相手の人を見る大切さがわかる筈だ。
 天皇を神と信じさせられ鬼畜米英を叫んだ戦時中の日本人も、今の金王朝に従う北朝鮮人も、決して死んでも構わない神懸かりのキ印ばかりでなく、良い人間だって必ずいる筈なのだ。
 スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』のような善玉と悪玉を民族ではっきり分ける映画を見ると、その事がわからなくなるから怖い。

 戦争中や戦争が終わってまだ間もない捕虜収容所では、捕虜の虐待が必ず起きる。
 捕虜の虐待と言えばロシアとドイツとそして日本が有名だが、捕虜の虐待はアメリカやフランスやイギリスやオーストラリアなどの戦勝国でも例外なく起きている。
 で、捕虜を虐待する看守とは、どのような人間か。
 その事についてアメリカが調査したところ、意外なことに虐待するのは前線で殺し合ってきた古参兵ではなく、一度も戦場に出たことの無い兵士(特に新兵)に多いのだそうだ。

 例えば最前線では、酷いことが頻繁に起きている。
 ドイツ軍とロシア軍は凄惨な殺し合いをしたし、アメリカ軍やイギリス軍だって、ノルマンディーの戦いでは捕虜を取らずに降伏したドイツ兵を撃ち殺したりもした。
 だから前線に立つ兵士らは、「殺し合うのは、酷いことをするのはお互い様」と実感でわかっている。
 で、逆説的な話になるのだが、前線で殺し合った経験のある兵士は、一旦捕虜にした敵兵にそう酷いことをしない者が多い。
 それに比べ戦場で自ら敵兵を殺した経験も無く、敵国の奴らがいかに悪い奴で、いかに同胞に酷いことをしたかについてのプロパガンダをさんざん頭に叩き込まれてきた兵は敵に対する憎しみでいっぱいで、捕虜の虐待をしがちなのだそうだ。

 例えば韓国の従軍慰安婦の問題でも。
 日本の大使館などの前に少女像を建て、最も怒って騒いでいるのは当の慰安婦たちではなく、その時代を直接には知らない若い世代の韓国人ばかりだ。
 従軍慰安婦の中には、日本兵と恋愛関係にあったことをテレビの取材の際に告白した元慰安婦もいた。
 酷い日本兵もいたろうが、良い日本兵もいて、それを当の従軍慰安婦は肌で知っているのだ。

 従軍慰安婦問題についての日韓合意を、多くの韓国人が「見直すべきだ」と言っているが。
 しかし当の元慰安婦の三分の二が、日韓合意を受け入れている。
 この事でも、「最も怒っているのは当の元慰安婦ではなく、話のみで聞いていて直に知っているわけではない人達」である現実がよくわかる。
 だから歴史教育で若い世代に「あの国は酷いことをした」と感情的に繰り返し教え込むと、その国との間に後々まで深い遺恨を残すことになる

 問題の『シンドラーのリスト』を作ったスピルバーグ監督も、『戦場のピアニスト』を作ったポランスキー監督も、どちらもユダヤ人だ。
 ただこの二人には、大きな違いがある。

 実はポランスキー監督は1933年にパリで生まれ、そして3歳の時にポーランドに一家で移住し、第二次世界大戦が始まるとナチスのユダヤ人狩りに遭い命を落としかけた。
 そしてその彼を救ったのは、映画と同じでドイツ兵だった。
 ユダヤ人狩りから逃げようとした彼を見て見ぬふりをしただけでなく、そのドイツ兵は「走らないことだ」と忠告したという。
 で、ポランスキーは走るのをやめ目立たぬようにその場を離れ、生き延びることができた。
 そうした過去があるから、ポランスキー監督は「ナチスは悪だが、良いドイツ兵もいる」という現実を体で知っている。

 それに対し、スピルバーグ監督は戦後にアメリカで生まれ育った、「ホロコーストの話を聞いて怒っているユダヤ人」だ。
 その差が、良いドイツ将校も悪いポーランド人もいる『戦場のピアニスト』と、ユダヤ人はみな可哀想でシンドラー夫妻以外のドイツ人はみな悪党の『シンドラーのリスト』の違いであるように思える。
 そして筆者は、『戦場のピアニスト』の方が『シンドラーのリスト』より遙かに出来が良いし、「人とは何か?」を考えさせる名画だと思う。
 それに比べ『シンドラーのリスト』を観た後には、「ドイツ人って信じられないほど酷いね、なのにシンドラーは偉いね」という単純な感情しか残らない。

 しかし一般の人々には、「悪いのはナチスドイツだが、助けたのもドイツ将校で、しかも主人公はただ逃げ回るだけ」という『戦場のピアニスト』よりも、善玉と悪玉がはっきりしていて、シンドラーというヒーローもいる『シンドラーのリスト』の方が、間違いなくウケる。
 さらに登場人物がただ多いだけでなく、良いドイツ人も悪いユダヤ人も出て来て善悪を決め付けにくく、六百ページ以上ある分厚い本の『シンドラーズ・リスト』より、ただ3時間ばかり座っていれば映像と台詞ですべてわからせてくれる、善悪のはっきりした映画の『シンドラーのリスト』の方が、間違いなくウケる。
 そして人間の本質について深く考えさせる『戦場のピアニスト』や、書籍の『シンドラーズ・リスト』はいつしか忘れ去られるのだろう。
 その一方、民族で善悪を決め付け中身もわかりやすく、シンドラーも理想化して描いた映画の『シンドラーのリスト』は、「現実にあった事を描いた名画」として長く残るのだろう。

 人間も、人が作る社会も複雑だ。
 しかしその複雑な存在や現実を深く考えることをせず、人々がただ「わかりやすさ」を求めることを、筆者は憂う。
 人々を敵と味方に単純に二分し、わかりやすさを求め、それで政治や世の中が良くなったためしが、果たしてあっただろうか?
 争いをより深刻化させ、社会を分断して混乱を招いただけではなかったか。

 戦時中、アメリカ人は良い日本人がいるなどと思わず、だから平気で無差別爆撃をし、原爆も落としたのだろう。
 そして今、少なからぬ日本人も良い北朝鮮人がいるなどと思っていないだろう。
 だから筆者は、『シンドラーのリスト』のような映画が、史実を描いた名画として残ることを恐れる。
 映画の『シンドラーのリスト』を観た人達は、「ユダヤ人はみな可哀想で、ドイツ人はみな残忍で善人はシンドラー夫妻しかいない」と思うだろうから。

 映画だけではない。
 今、書店では民族や国籍で善悪を決め付ける、「頭の構造が単純な人にはわかりやすい」右翼思想の雑誌や書籍が溢れている。
 そしてそれは、実に危険な風潮なのだ。
 民族や国籍で善悪を決め付ける人達は、相手を一人一人違う個人として見ることをせず、他国や民族の違う人に極めて冷酷になる

 機会があれば、スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を、ぜひ書籍の『シンドラーズ・リスト』やポランスキー監督の『戦場のピアニスト』と比較して見てみてほしい。
 悪い意味でアメリカ人的な、善悪を簡単に決め付けてヒーローを求める性質が、少なくとも知的で冷静な方には実によくわかる筈だから。
 繰り返すが、その種の善悪の単純化(特に民族による色分け)とヒーローの待望は、皆にとってとても危険な事なのだ。

PageTop

生きる意味に悩んでいる人達に

 よく、「自分は何の為に生きているのだろう?」とか、「自分がこの世に生まれてきた意味は、一体何なのだろう?」とか考えて悩む人がいるが。
 正直に言って、筆者はその種の事を考えて悩んだりした記憶がない。

 だいたい、70億人もいる全世界の人間一人一人が何か特別な存在で、「生まれた意味」だの「使命」だのが予め用意されているわけなど無いことくらい、少し考えればわかる筈ではないか。

 人は“愛”とも称する種族保存の本能と性欲で生殖行動をし、精子と卵子が結合した結果として一人の人間が生まれてくる。
 ただそれだけの事に過ぎない。
 地球全体から見れば、貴方も筆者も70億人のうちのたった1人に過ぎない。
 庭付きの一軒家に住んでいれば、庭によく蟻の巣がいつの間にか出来ていたりするが。
 その巣に群がる、見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と自分も同じようなちっぽけな存在だと、少なくとも筆者は思っている。

 筆者は幼い頃に地方の中規模の都市に引っ越しを経験し、その引っ越し先の学校では大勢の中のたった一人の異邦人だった。
 また、筆者は常に年子で優等生の姉と比べられ、学校でも親戚達の間でも「出来損ないの弟」という扱いを受け続けて育った。
 だから筆者は、幼い頃から常に一人だった。
 飛び抜けた才能や力のある特別な人間ではなく、大勢の中の無力で何も出来ないちっぽけなただの一人に過ぎなかった。
 そしてそのせいで、自分という存在を冷静かつ客観的に眺める事ができるようになった。
 で、自分自身を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と突き放して見ることが出来るようになったわけだ。

 筆者は思うのだが。
 何の為に生きているのだとか、自分がこの世に生まれてきた意味などについて考えて悩む人達は、きっと周囲に良い人達がいて、親にも優しくされ良い友達にも恵まれ、大切にされて育ってきたのではないだろうか。
 イジメられたり、毎日の生活に窮して困っていたりして苦しい生活を送っていたら、それこそ今日を生き抜くのに必死で、生まれた意味などについて悠長に考えているゆとりも無いよ。

 冷徹に言い切ってしまえば。
 人など、ただ生まれただけでは70億人のうちのとるに足りない塵芥のような1人に過ぎない。
 そんなちっぽけで無力な存在と思いたくないから、人は「自分は何の為に生きているのだろう?」とか、「自分がこの世に生まれてきた意味は、一体何なのだろう?」とか、くだくだ考えて悩むのだ。
 70億も用意されてある筈も無い「自分が生きる意味」や「この世で果たすべき自分の使命」を、追い求めて悩むのだ。
 無い物ねだりとは、まさにこのことだろう。

 自分を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と見なしている筆者は、こう考えている。
 生まれてきた意味や使命だのは、神が与えてくれるわけでも、最初から用意されているわけでもない。
 それらは自分で探して見つけ、努力して自分自身に何らかの付加価値を付けることで得られるのだ。

 そして初めて、無個性な無数の働き蟻のうちの1563号(仮)を脱して特別な存在になれる。
 イチローも横綱白鵬も五郎丸選手も、天賦の才能はあったにせよ、自ら並外れた努力をしたから、今のような特別な存在になれたのだ。
 生きる意味や使命とは最初から絶対者に与えられるものでなく、自ら探し自ら努力して得るものだと、筆者は確信している。

 ただ筆者は努力はしたが才能が足りず、若い頃には写真家を目指したものの挫折してしまった。
 だがその努力は、決して無駄になったとは思わない。
 写真を撮るのは、今でも楽しいし大好きだ。
 間違いなく、筆者の生きる楽しみの一つになっている。

 二十代の終わり頃に、筆者は生死に関わる大病をした。
 病名を言ってしまえば、関係者には「ああ、あいつか!」と特定されてしまうので、詳細については語らないが。
 日本では筆者が二十人目の患者という珍しい病気で、執刀した主治医が「学会に論文を発表できる」と大変に喜んでいた。

 七時間以上かかったものの、手術そのものは成功し、筆者は命が助かった。
 しかし予後が悪く、今も左足に後遺症を残していて、その後遺症の治る見込みは無い。
 だが筆者は、日本で二十人目という奇病にかかったことも、後遺症が残ってしまったことも、別に何も苦にしてはいない。

 病気になると、よく「何も悪い事はしてないのに、何で自分がこんな病気に……」と悩み、神や天を恨んだりする人がいるが。
 正直に言って、そういう人達の気持ちが筆者にはわからない。
 病気は運だ。
 不摂生による自己責任の病気もあるが、筆者の場合は生まれつきの体の欠陥による、本当に不運としか言いようの無い大病だった。
 そして不運は、誰のせいでもない。
 神のせいでも、何かの因果によるものでもない。
 たまたま生まれつき体に欠陥があったという不運で大病をしたが、誰を恨んでも意味もないし、何にもならないではないか。
 だから大病をして後遺症を抱えたまま生きている事について、筆者は「何で自分がこんな体に……」などとくよくよしたりしないし、「仕方のない不運だった」と割り切っている。
 その後遺症の他にも、アレルギー持ちだったり、メニエール病の後遺症で左耳の聴力に問題があったりもするが、「そういう体なんだ」と割り切って生きている。

 何しろ自分の存在を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と思って生きているような人間だから。
「何の為に生まれて来て、何の為に生きているのだ?」などと考える事は全く無い。
 それでも筆者は、生きていて「楽しい」と言い切れる。

 ちなみに筆者は金持ちでも何でもない。
 収入で言えば、間違いなく低収入の部類だろう。
 家族(要介護の親)はいるが、未婚だし。
 乗っている車は、中古で買った軽自動車だし。
 着ている服はユニクロが多いし、ワークマンに寄って買う事も少なくない。
 親が建てた一軒家に住んでいるものの、築四十年で地震によりちゃんと開かない戸もあるくらいだ。
 それでも生きていて楽しい、と思う。

 趣味にしている写真だが、わかる人にはわかると思うが写真を続けるにはお金がかかる。
 しかし銀塩写真がデジタルに変わったおかげで、フィルム代や現像料が不要になり、経済的な負担はかなり減った。
 ただデジタルカメラの技術の進歩は早く、最新の技術を取り入れた良いカメラで撮ろうと思えば、それはかなりお金がかかるが。
 しかし新製品が早く出るということは、性能にそれほど問題のない旧製品が中古市場に出て来るのも早いということである。
 で、割り切ってカメラも中古を買えば、写真を安く楽しめる。
 格安のジャンク製品の中から使えそうなものを探すのも、また楽しい。

 筆者は本やコミックスを読むのも好きだ。
 これも新刊で買えればそれに越したことはないのだが、無理なら古本屋を探せば面白いものが財布に優しい値段で手に入る。

 お金は、あるに越したことは無い。
 しかし無いなら無いで、それなりの楽しみ方もある。
「お金が無ければ何も楽しめない」などということは無いと、少なくとも筆者は思う。

 何しろ自分自身の存在を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と見なしているような人間だから。
 筆者は生殖の結果としてただ生まれ、そして死ぬまで生きるまでのことだと、自分の人生を割り切っている。
 挫折も失敗も数々したけれど、辛い経験もいろいろしたけれど、それでも「生きていて楽しい」と思う。
 楽しいことは、探せば身近に幾つでもある
 大切なのは、その楽しいことを見つけ出す感性があるかどうかだ

 筆者は今、古い家で年老いた親と年老いた猫の世話をしている。
 自分がいる事で、この親と猫の為になっている。
 それだけで、「生きる意味」など充分だと筆者は思っている。
 自分がいなければ生きて行けない人と猫がいる。
 だから生きる。
 それで充分ではないか。

 無論、親も猫もいずれあの世に行き、筆者は一人になるだろう。
 その時には、筆者の「生きる意味」は無くなってしまうのかも知れない。
 だがそれでも、筆者は生きる事を止めないだろう。
 少なくとも筆者は、楽しい事は世の中にいろいろあることを知っているから。

 自分が生きる意味や、何の為に生まれて来たのか悩んでいる人達に言いたい。
 そんな事を小難しく考えるのは、もう止めようよ。
 世界的な視野で見れば貴方は70億分の1の存在でしか無いし、貴方など居なくても世の中は何も困らないだろう。
 しかし貴方の周囲には、貴方を必要としている人がいるのではないか。
 家族でも職場でも友人でも、「貴方が居ないと困る」と言ってくれる人が一人でも居れば、貴方が生きている意味は充分ある筈だ。
 そしてこの世には、楽しい事がたくさんある。
 それを見つけて、死ぬまで楽しく生きようよ。

PageTop

作家が顔写真を公開する必要は無い

 初めに前提として言っておくが、筆者は本もコミックスも大好きで、小学校の低学年の頃から今に至るまでよく読んでいる。

 筆者の両親は共稼ぎだった。
 で、当然その子供である筆者は、いわゆる“鍵っ子”だった。
 筆者の姉は、その事を今も「寂しかった」と言っている。
 しかし筆者は、寂しいなどと少しも思わなかった。

 鍵っ子とは言え、小学校に入りたての頃には、いわゆる学童保育に入れられていた。
 それは筆者の希望ではなく、親の配慮だった。
 しかし生まれつき集団行動が苦手だった筆者にとって、学童保育の時間は苦痛でしかなかった。
 好きでもない“友達”と一緒に遊ぶより、一人で好きな事に熱中している方が余程も楽しかった。
 だから筆者は、小学校の低学年のうちにさっさと学童保育を退会させて貰い、立派な(?)鍵っ子として家で一人遊びをしながら親の帰りを待っていた。

 姉は鍵っ子の暮らしを「寂しい」と言ったが。
 しかし家に帰れば一人でも、親は居なくなったわけではなく、夜になればやがて帰って来るのだ。
 なのに何故寂しいのか、筆者にはまるでわからなかったし、今も理解できないままだ。
 姉は一人で居るのが寂しい、他人とのコミュニケーションの中で生きている人間なのだろう。
 だが筆者にとっては、好きでもない他人に気を使って調子を合わせ、楽しくもない遊びに参加させられるのは、ただただ苦痛でしかなかった。

 家に帰れば、大好きな玩具や本が待っている。
 それらの好きなものに囲まれて過ごしていれば、時間などあっと言う間に経って行く。
 その時間は幼かった筆者にとって、何にも代え難い“至福の時”だった。
 それに比べれば、学童保育で嫌いな同級生や意地悪な上級生達に囲まれ、好きでもない遊びをさせられながらただじっと耐えて過ごす時間など、苦行の時でしかなかった。

 筆者には、幼い頃から想像力があった。
 そんな筆者にとっては、体を使って大勢で遊ぶより、自分の脳内に作り上げた空想の世界で遊ぶ方が楽しかった。
 だから本は、幼い頃から筆者の友だった。
 そして姉が少女漫画を読むようになってから、筆者もコミックスを読むことも覚えた。
 音楽を聴くのも好きだし、DVD化された映画を見るのも好きだ。
 おかげさまで、休日に全く外出しなくても、一人で充分に楽しく一日を過ごせる。

 で、今でも本やコミックスなどを読み耽って一日を過ごす事も珍しくないのだが。
 本やコミックスを読んでいて、ここのところ少々気になる事がある。
 コミックスでは、作者の顔写真が公開される事はそう多くない。著者近影の代わりに飼われているペットの写真が載せられたり、かなりデフォルメされたリアルとはほど遠い似顔絵が載せられる場合が多い。
 しかし小説の場合、著者近影で本人のリアルな顔写真が出される事が少なくない。
 新聞や雑誌等のインタビューや、新刊の広告でも作家自身の写真が大きく載せられる事が多い。
大切なのは作品の中身で、作者の顔は関係ねーだろ!
 そう思うのは、筆者だけだろうか。

 かなり以前、筆者は宇宙で二大勢力が戦うSF小説を読んだ。
 十巻以上続く大作で、登場人物は魅力的な美男美女ばかりだった。
 面白かったデスよ、作品自体は。
 ただ著者近影の写真で見る作者は、ブサイクでしかも胴回りに贅肉のついた、どこからどう見ても絵に描いたような“キモオタ”そのものだった。

 いや、別に作者が太っちょなキモメンでも、作品の質さえ良ければよいのだ。
 小説とは、本来そういうものだろう?
 けれど本に載せられた著者近影の写真で、不細工な顔と崩れた体形を見せられてしまうと、読者が残念に思い、こう言いたくなってしまうのは仕方のない事ではないだろうか。
「この顔で、美男美女の恋愛を書いていたのか」

 以前、ある女性の作家が“大人の恋愛小説”を書いて、ある新聞のインタビューに応じていた。
 そして記事に添えてその作家の顔写真が、三段抜きくらいの大きさで載せられていた。
 はっきり言って、すっごいブスだった。
 それで大人の恋愛小説wwwって……。
「喪女の妄想、乙!」
 その作家の作品を読みもしないで、ついそう思ってしまった。

 既に亡くなってしまったが、松本清張という偉大な小説家がいた。
 顔について言えば、彼もまた不細工だった。
 しかし彼の場合は存在感と凄みのある不細工さであって、しかも書いていたのは重厚な社会派の推理小説だった。
 もし松本清張氏がなまじイケメンだったら、むしろ「作風に似合わない、あんなチャラ男風だとは思わなかった」とガッカリされただろう。

 ただ恋愛小説の場合は、作者もまたそれなりの容姿でなければ読者を失望させるのもまた事実だろう。
 自身の恋愛経験はどう見ても少なそうな外見を、インタビューや新刊広告や著者近影の写真で見てしまうと、作品そのものの説得力にも大いに影響してしまうのだ。
 どう見てもモテそうもない容姿の作家の書く恋愛なんて、喪女や喪男の脳内妄想である現実が、ありありとわかってしまうからね。

 人は、どうやら有名人の顔に興味があるらしい。
 だから作家に関しても、本を読んで感動したら「作者はどんな顔をしているのだろう?」とつい興味を持ってしまうのだろう。
 だからマスコミもインタビュー記事で顔写真を大きく載せるし、出版社も新刊広告に顔写真まで載せているのだろうが。
 しかし作家というものはテレビのタレントではなく、あくまでも書いた作品で勝負するものではないか。
 なまじ顔を見るとガッカリしてしまい、「俺はこのキモメンの妄想を読んでいたのか」と夢を壊されてしまう事も、間違いなくある。

 断言するが、作家で著者近影やインタビュー記事や新刊広告に顔写真を大きく載せて良いのは、元々見てくれに自信のある、文化人wwwとしてテレビにも出てものを言いたい人だけだ。
 なのに昨今では、顔や見栄えが悪い作家でも、平気で素顔を曝している。
 出版不況と言われる現状の中で、それが本を売る為の精一杯の努力なのかも知れないが。
 美男美女とは程遠い、冴えない中年過ぎのオジサンやオバサンの作家が、新刊広告の中でニッコリ笑っている顔写真を見ると、見苦しいと言うよりむしろ気の毒で痛々しく思えてくるくらいだ。

 幼い頃から今までずっと本を読むのが好きだった筆者としては、小説は読者に夢を売るものだと思っている。
 そしてその小説のセカイが造る夢に、幼かった筆者がどれだけ救われてきたことか。

 繰り返し言うが、作品の質に作者の顔は関係ない。
 例えば絵などでは、作品にいちいち画家の顔写真など添えたりしないではないか。
 音楽もまた、特に顔写真が必要とされるのは流行のアイドル歌手だけだ。
 小説もまた、書かれた作品の質でのみ評価すべきものであると、筆者は信じる。
 しかし人は、筆者も含めて俗人は、つい顔に興味を持ちそれに騙されてしまう。
 だからこそ小説家は、なるべく顔は表に出さない方が良いと筆者は考える。

 著者近影やインタビューや新刊広告などで、イケメンでも美女でもない作家が顔を曝しても、庶民のくだらない好奇心を満たすだけで、良いことなど一つもない。
「へえ、こんな冴えないオッサンだったのか」
「こんな顔で、よく恋愛モノなんて書けるね。実体験が無いから、いろいろ空想してるのか」
 一般の人にはそう笑われ、元からの読者を失望させるだけだ。

 その点を、漫画家さんは良く理解しているようだ。
 著者近影はたいてい似顔絵かペットの写真で、顔写真を公開している漫画家はごく一部の売れっ子か、容姿に自信のある人だけだ。
 だからこそ凄い冒険物語を描いても、めくるめく恋愛物語を描いても、読者の夢を壊さずに済む。

 それにしても、新聞にしても雑誌にしても、マスコミは何故作家を含めた有名人達に、大きな顔写真を求めるのだろうか。
 顔写真で読者に人柄も伝わるというのは、マスコミの大嘘だ。顔写真でわかるのは、現実には容姿の善し悪しくらいでしかない。

 例えば筆者は、あのAKBでは渡辺麻友さんを推すが。
 それはただ、顔写真が可愛くて見かけが筆者の好みだからだ。
 筆者はそれなりに長く人間をやってきたつもりだが、それでも顔写真(グラビア)を見ても、渡辺麻友さんの人柄までは全くわからない。
 それが現実ではないか。
 一枚の、或いは数枚の顔写真を見ただけで相手の人柄まで正しく読み取れる人になど、少なくとも筆者は全く会った事が無い。
 顔写真を見ただけで、会った事も無い相手の人柄まで見抜けてしまう人は、おそらく霊能者だけではあるまいか。

 それにしても、新聞や雑誌の記者は狡い。
 自分達は「顔写真でも人柄が伝わる」というような綺麗事を言い、相手の大きな顔写真を撮って紙面に載せておきながら。
 自分達記者の顔写真は載せないか、載せても本当に小さくしか出さない。
 マスコミも「顔写真で人柄も……」とか言いつつ、本音ではただ「顔を見てみたい」という、読者の下らない好奇心を満たす為に、取材相手の顔写真を要求しているのだろうな。

 大衆(新聞や雑誌の読者)が有名人の顔写真を見たがるのは、ゲスの好奇心に過ぎない
 筆者はそう確信しているし、テレビタレントになれるレベルの容姿でもない作家が顔をマスコミで曝すのは、その作家にとってマイナスにしかならないし、その作家の作品に夢を抱いている読者の為にもならないと筆者は確信している。

PageTop

バイクに乗るならフルフェイスのヘルメットを!

 このブログを読んで下さっている方の中に、あるいは読んで下さっている方の家族や親しい知人に、オートバイに乗っている方はいらっしゃるだろうか。
 もしいらっしゃるとしたら、ヘルメットにはお金をケチらず、出来ればフルフェイスの良いものを買ってお使いになる事を是非すすめる。

 筆者はその昔、免許は持っていたものの車を買うだけのお金が無かった大学生時代には、原付のバイクに乗っていた。
 原付と言っても、馬鹿にしてはいけない。
 その昔の原付にはスピード・リミッターなどというものは付いておらず、50ccなのに5段変速で最高速度も90km以上出る、文字通りのスポーツタイプのバイクが平気で売られていた。
 原付の法定最高速度は時速30kmなのにもかかわらず、である。

 で、若かった筆者も、そのスポーツタイプの原付に乗っていた。
 だからヘルメットも、頑張って2万円以上出して、フルフェイスのそれなりに良い物を買った。
 そしてそのおかげで、命を救われたとまでは言わないが、少なくとも大怪我を負わずに済んだ事がある。

 その時筆者は車の流れに合わせ、国道をだいたい時速50kmくらいで走っていた。
 原付としてはもちろんスピード違反だ。
 しかし特に無茶をして飛ばしていたわけではない。
 原付の場合、法定最高速度の30kmを厳守してすべての後続車に追い抜かされながら走るより、ある程度の速度を出して車の流れに合わせて走った方が、むしろ安全で他の車の邪魔にもならない事もある。
 無論それは車の流れが40~50km程度の、比較的ゆっくりめな時の話で、原付でそれ以上の速度を出すのはやはり危ない。

 で、筆者も50km程度の車の流れに合わせて、国道を普通に走っていたのだが。
 ただその日は雨だった。
 そして前を行く車が、急ブレーキをかけた。
 それで慌てて急ブレーキをかけた結果、前輪がロックして路面を滑り、見事に転倒してしまった。
 その時筆者は、前に投げ出される形でアスファルトの道路上に、うつ伏せに叩きつけられた。
 もちろん長ズボンは穿いていたが、それでも両膝に怪我をして、内出血もかなり酷かった。
 そして掌もざっくり切って、ハンカチで縛っても血がなかなか止まらなかった。
 それでも、頭と顔だけは何事も無かった。

 それは間違いなく、少し無理をして買ったフルフェイスのヘルメットのおかげだった。
 そのヘルメットを脱いでみたところ、右の顎の部分にかなり酷い引っかき傷が何本も走っていた。
 そして右のこめかみの部分にも、引っかき傷の痕があった。
 もし筆者がフルフェイスの丈夫なヘルメットでなく、ジェット型やハーフ型のものを選んでいたら、間違いなく今も残る傷が顔に残っていただろう。
 それどころか、顎の骨や歯を折っていた可能性だってある。

「オマエ程度の顔じゃ、傷くらいついたって、どうって事ないだろ」って?
 とんでもない、元々良くない顔だからこそ、そこにさらに傷が残って、もっと酷い顔になったら困るじゃないか。
 それに元々の顔がどうだろうが、バイクで転倒して顔を打って、顎の骨を折りでもしたら後が大変だ。
 しばらく固形物は食べられないし、話をするのも辛いしで、想像しただけでゾッとする。

 オートバイ用のヘルメットには、大きく分けて三種類がある。
 モトクロス用やハイブリッド型とかいうのもあるが、ここはフルフェイスとジェット型とハーフ型の三つに話を絞らせていただきたい。

ヘルメット④   ヘルメット③

 まずは、一番安くて手軽なハーフ型だが。
 これは本当にお勧めできない。
 何故ならこれで守られているのは頭頂部だけで、側頭部も後頭部も、そして額も充分には守られていないからだ。
 このヘルメットで転倒して横に倒れ、路面に側頭部をぶつけると、耳がちぎれる……という話も聞く。
 さらに顔が丸出しだから、筆者のように前に飛んで倒れた時にはかなり酷い事になる。
 にもかかわらず、このヘルメットの愛用者には、庇を上に押し上げて額を丸出しにした、だらしないスタイルで平気で走り回っている輩がいる
 これで事故にあったら、前頭葉はまともに衝撃を食らうだろう。
 だからこのハーフ型のヘルメットを愛用しているバイク乗りは、悪い意味での命知らずとしか言えない。

ヘルメット②

 続いてジェット型だが、これは少なくとも頭部と耳はしっかり守れている。
 しかも開放感もあり視野も広いだけでなく、ヘルメットを被ったまま飲食や喫煙もできる為、使い勝手もなかなか良いらしい。
 ただこのジェット型でも、顔は無防備である事を忘れてはいけない。
 筆者がもしこのジェット型のヘルメットを使っていたら、あの転倒した際に間違いなく顔に酷い怪我をしていただろう。
 また、ジェット型のヘルメットの場合、ゴーグルを使用するかシールドを付けていないと、雨や埃、それに虫が目に入って大変な目に遭うことになる。

ヘルメット①

 その点、フルフェイスはあらゆる面で万全だ。
 体はともかく、少なくとも頭と顔はしっかり守られているし、雨や埃や虫の心配もない。
 視野が狭いと言う人もいるが、慣れるしただ顔をしっかり振ってよく見れば良いだけだ。
 それはもちろん、コンビニや銀行などを利用する際にはきちんとヘルメットを脱いで店内に入らないと、大変な騒ぎにはなる。
 しかし店に入る時や飲食の際にヘルメットを脱ぐ手間くらい、安全を考えればどうと言う事もなかろう。

 筆者がフルフェイス型のヘルメットをまず買ったのは、ただカッコ良かったからだ。ショウエイの、銀と青のラインが入った白いフルフェイスのヘルメットの見かけに惚れたのだ。
 しかし転倒した時に、顎の部分に深くついた傷跡を見てからは、怖くてフルフェイス以外のヘルメットが使えなくなってしまった。

 それは確かに、原付のスクーターにフルフェイスのヘルメットというのは大袈裟に見えるかも知れない。
 しかし原付のスクーターだって(法律違反だが)60km近くは出せてしまうし、正面衝突とか、筆者のように前方に投げ出される時もある。
 そんな場合、ジェット型では顔を守れない。
 ハーフ型をいい加減な被り方で使用した時には命の危険もある事は、言うまでもない。

 先日、事故や事件を題材にした『警察24時』を見た。
 その中で、原付(スクーター)の大学生が、強引に右折して来た車に轢き逃げされた事件が取り上げられていた。
 もちろん、悪いのは強引に右折し、さらに事故後に逃走した車の加害者である事に違いはない。
 そして被害者の父親が語る悲しみの言葉には、胸が痛くなった。
 ただ筆者は番組で流された、スクーターに乗る被害者の事故直前の姿が気になってならなかった。
 事故現場近くの防犯カメラに映っていた映像で見ると、被害者は例のハーフ型のヘルメットを、よく若者がやるように額の上まで庇を押し上げて被っていた。
 その顔だけでなく額まで丸出しにした状態で、強引に右折して来た車と衝突したのである。

 被害者の大学生は、搬送先の病院でやがて亡くなった。
 そしてその死因は、脳挫傷だった。
 繰り返し言うが悪いのは強引に右折した上に事故後に逃げた加害者で、被害者の大学生に落ち度は無いし責めるつもりは全くない。
 ただヘルメットの種類による安全性の違いを身をもって知っている筆者としては、本当に残念でならないのだ。
 もし被害者の大学生が、ハーフ型のヘルメットを額の上まで押し上げて被るのでなく、せめてジェット型のものを、出来ればフルフェイス型のものを正しく着用していたら、怪我はしても大切な命を落とさずに済んだのではないかと思うと、本当に残念でならない。

 いくら自分が交通法規を守って正しく運転していても、事故の被害者になる場合も間違いなくあるのだ。
 だからバイクに乗る人は、被害者になった場合に己の命を守る為にも、是非ヘルメットは良いものを選んで貰いたいと思う。
 そしてもし家族なり友人なり、貴方にとって大事な人がハーフ型のヘルメットを(例の額の上に庇を押し上げるような感じで)無造作に被っていたりしたら、「死にたいのか!」と本気で叱ってあげてほしい

 原付のスクーターやカブにフルフェイスのヘルメットというのは、大袈裟に見えるし何となく恥ずかしいのもわかる。
 しかし原付でも、事故に巻き込まれれば死ぬ事もあるのだ。
 死なないまでも、転倒するだけでもかなり痛い目に遭う。
 だから原付でも、ヘルメットは出来ればフルフェイス型を被った方が良い。
 特に女性は顔に傷がつかないよう、フルフェイス型を選ぶ事をお勧めしたい。

ヘルメット⑤P1110533

 数日前に、筆者はある店の駐車場で、前カゴにフルフェイスのヘルメットを入れたスーパーカプを見た。
「スーパーカブに、フルフェイスのヘルメットなんてwww」と笑う人もいるかも知れないが、少なくとも筆者は「命を大切にしている、よくわかっている人だ」と感心した。

PageTop

視野の狭い子供に罪はない

 筆者は未婚で子供がいない上に、病弱だったせいもあって、自らの子供時代にも親も認めるおとなしい子供だった。
 外で駆け回る事などまずした事が無く、屋内で本を読んだり一人遊びをする事が多かった。

 それでか、元気すぎて騒々しい多動な子供は、今も苦手だ。
 だからスーパーなどの店で大声を出して騒ぐ子供が居ると、つい顔をしかめてしまう。

 幼い頃から本が好きな筆者にとって、各種の本を取り揃えている大型書店は天国のような場所だ。
 しかしその書店にも、元気で多動な子供はやって来る。
 ただ大声を出されるだけでなく、店内を走り回られたりすると溜め息をつきたくなってしまう。

 書店やスーパーなどの店で、親から離れて走り回る子供に突き当たられかけ、こちらが危うく避けた事は数限りなくある。
 そしてその度に、その子供に鋭い目を向け、舌打ちの一つも打ちたくなってしまう。

 子供は、なぜ店内で“暴走”して人に体当たりしそうになるのか。
 その事が、筆者は不思議でならなかった。
 そしてその謎が、つい先日やっと解けた。
 大人と比べ、子供は視野がかなり狭いのだという。

 スウェーデンの児童心理学者の研究によると、大人は水平方向に150度見えているのに対し、6歳児は90度しか見えていないという。
 同様に、垂直方向に大人は120度見えているのに対し、6歳児が見えているのは70度なのだそうだ。

 端的に言えば、子供にはただ前しか見えておらず、右も左も上も下も視野の外という事だ。
 だから元々衝動を抑えにくい子供が、興味をひかれたものに向かって走り出すと、他の人やモノにぶつかるのだ。
 まるで体当たりするように駆けて来る子供に、悪意は決してない。
 視野の関係で、ただ見えていないだけなのだ。

 交通事故の原因に、「子供の飛び出し」というものがある。
 そしてそれは、子供の視野の狭さによるものである事が少なくない。
 客観的に見れば、走る車の前に子供が飛び出したのでも。
 視野が狭い故に近付く車が目に入っていなかったその子供の立場で言うと、「車がいきなり出て来てはねられた」という事になる。
 だから小学校の交通安全教室では、「右と左を見て、また右を見てから渡りましょう」と念を押す。

 しかしスーパーや書店などのお店が危険な場所とは、誰も思いはしないから。
 だから子供は「人が大勢いて商品もたくさんあるお店の中では、右や左をよく見て前に進みましょう」などと誰にも教えられる事も無く、興味を惹かれたモノに向かって真っしぐらに突進して行く事になる。
 そしてその結果、子供の狭い視野の外にある他人や商品にぶつかったり、ぶつかりそうになったりするのだ。

 前にも触れたが、筆者は親も認めるほど、男の子にしては手の掛からない大人しい子供だった。
 多動性は全く無く、一つの事にずっと夢中になり続ける子供だった。
 だから興味のあるモノに目と心を奪われ、その前でじっと動かなくなったりはした。
 しかし外で大声を出したり、暴れたり、勝手に駆け出したりした事は全く無い。
 その筆者でも、住んでいた地方都市の、大人になった今になれば田舎のダサいデパートもどきに連れて行って貰う時には、とても嬉しくて興奮した。

 女の子のように大人しい子供だった筆者でさえ、そうだったのだから。
 元気の塊のような、男の子らしい活発な子供が楽しいもので一杯のお店に行ったら、興奮してはしゃぎ回りたくなっても仕方ないだろう。

 無論、お店は子供の遊び場ではないし、店内を子供が駆け回るのは良くない事だ。
 しかし店内で興奮して駆け回る子供に体当たりをかまされても、悪いのはその子供ではない。
 責任は、ちゃんと手を繋ぐなりして注意せずに、我が子を好きに“放牧”していた保護者にある。

 だから筆者は、店内で騒いで走り回る子供が居ても、嫌な顔をするのは止めようと思った。
 その子供にぶつかられそうになっても、今後はただ苦笑いして避けようと思う。
 店内を突進する子供に体当たりされても、咎めるような目は、その子供ではなく親の方に向けるべきなのだ。

 元々性格に問題のある筆者ゆえ、このブログでも毒ばかり吐き、少なからぬ人達を不快にさせてきたことと思う。
 だから2016年最後の日の今日くらい、少しは他者に優しい気持ちを持とうと思い、この駄文を書いた次第だ。

PageTop

客商売は難しい(店を立派にして評判を落としたS屋のこと)

 ブロ友、と言っては相手の方に失礼かも知れないが、このブログによくコメントを下さるある方に、筆者のお勧めの店はあるかと尋ねられた。
 その時、真っ先に思い浮かんだのはS屋の事であった。

 S屋は主に鮮魚を出す食堂で、筆者はそこに職場の先輩に連れて行かれた。
 そのS屋には、本当にいろいろ驚かされた。
 まず外観が非常にボロいのである。
 いかにも場末の大衆食堂という感じで、ドアも自動どころかサッシですらなく、木製の軋む古ぼけた引き戸だった。
 中も薄暗く、テーブルも極めて安っぽく、椅子はビニールの背当てと腰を下ろす部分が付いている金属パイプ製だった。
 そしてその薄暗い店の中で、地元の馴染み客らしい人が数人、ただひたすら飯を食っていた。

 トンデモナイ店に連れて来られてしまった。
 筆者はそう思って、渋い顔になりかけるのをようやく堪えた。
 ところが出された食事を見て、筆者はまた驚いてしまった。
 鮮魚中心の沢山の料理が出され、しかもまたそれが文句無しに美味いのである。
 さらに値段も安く、お腹いっぱい食べて千円札でお釣りが返ってきた。

 後で知った事だが、そのS屋は美味くて安い店という事で地元の人は誰もが知っていて、食通の人は地元民でなくてもS屋の名を知っていた。
 店はボロだし内装にもお金はかけないが、味ならば付近のどこの店にも引けを取らず、美味しい料理を安い値段で地元のお得意さんに提供する。
 S屋とは、そういう店だった。

 そのS屋は仕出しの注文も受けていた他、小さな宴会場もあった。
 で、父の七回忌の法事をしなければならなかった筆者は、「ひとつ親戚連中も驚かせてやれ」と思い、法事の後の食事をそのS屋で行うことにした。
 S屋に予約に行き話を聞くと、宴会は一人二千円から四千円でやっていると言う。
 そこで筆者は、S屋のおかみさんにこう頼んだ。
「一人五千円で、出来るだけ料理を出してほしい」
 値切るのではなくより高くと頼んだのだ、おかみさんも即座に承知してくれた。

 さて、法要が終わってS屋に親戚一同を連れて行くと、皆の表情が渋いものになるのが筆者にもはっきりとわかった。
 何しろ筆者は、伯父伯母ら親戚に昔から「出来損ないの子」と言われてきた。
 それだけに、血の繋がりのない義理の伯父伯母たちだけでなく、普段は筆者に優しくしてくれていた血縁のある伯父や伯母たちまで不安げな顔になってきた。
 店の外観を見て、「カネをケチって、場末の大衆食堂でどんなヒドいものを食わせる気か。この非常識なヤツめ」と思っているのがありありとわかる。
 通された宴会場もまた薄暗く、掃除はきちんとされているものの、部屋はボロだし畳も所々擦り切れている。
 やれやれ、と席についた親戚たちの目が、運ばれてきた料理を見て驚きに変わった。
 様々な大皿や鉢に、海鮮料理を中心とした料理が次々に運ばれて来て、食卓に隙間なくぎっしりと並んだのだ。
 S屋が安くて量も多いのを知っていた上で、「宴会は二千円から四千円」と言われたのをあえて五千円で頼んだ筆者だったが、これほど品数多くかつ豪華な食事になるとは思っていなかった。
 筆者でさえそうだったのだから、知らずに連れて来られた親戚たちは目を丸くし、そして夢中で料理を食べ始めた。

 そのS屋での食事は筆者の親戚たちにも本当に驚かれ、後々まで「あそこの食事は美味しかった」と言われた。
 店の外観や内装には殆どお金をかけず、「とにかく美味しい料理をお客に安く提供しよう」というS屋の姿勢には、筆者も心から共感を抱いた。

 ただ残念ながら程なく筆者は転勤になってしまい、S屋の地元から少し離れた職場に行く事になってしまった。そしてその新しい職場がなかなか忙しく、S屋に行く機会は少なくなってしまった。
 そしてそれから数年も経たないうちに、S屋は改装され新しくなった。
 その新しいS屋は和風レストランのような立派な店構えで、ただの空き地も同然だった駐車場も、コンクリートで舗装された広いものに変わった。

 改装するのに、銀行などから多額の融資でも受けたのだろうか。
 同じ店とは思えないほど立派になった新しいS屋の評判は、決して芳しくなかった。
 不味いというわけではないが、味が落ちたとそれまでのS屋のファンは口々に言った。
 お値段もそれなりになり、本当に普通の海鮮料理屋になってしまった。

 それまでのS屋はいかにも場末の小汚い大衆食堂といった雰囲気で、知らない人は入るのに二の足を踏むような雰囲気があった。しかし地元の人と食通はみな知っていて、固定客がしっかりついていた。
 一方、小綺麗な和風レストランのようになったS屋は、街道を通る一見の旅行客も気軽に入れるような雰囲気になったものの、「料理にすべてをかけていて、とにかく安くて美味い」という取り柄を無くしてしまった。
 だからそれまでの常連さんは、次々にS屋から離れていった。

 S屋は店を新しくして味を落としたと、知る人は皆そう言っていた。
 しかしもしかしたら、新しいS屋の料理の味はそれほど落ちていなかったのかも知れない。
 かつてのS屋は、本当にボロで小汚かった。
 だからこそ、出されるボリュームたっぷりで美味しい(しかも安い)料理に対する驚きが大きかった。
 だが新しい小綺麗なS屋には、その店の見かけと出される料理に対するサプライズが無い。
 ボロな店で安くて美味しい料理を出されれば良い意味で予想を裏切られた驚きが大きいが、小綺麗な店でお値段相応の美味しい料理を出されても「普通にウマいね」で終わる。
 そういう意味で、小綺麗かつ大きな店になったS屋は「味が落ちた」と言われたのかも知れない。

 また、かつてのS屋は「地元民と通だけが知っている隠れた名店」だったが、新しいS屋は街道沿いに目立つ看板も掲げた入りやすい大きな店になってしまい、通うにしても「オレだけが知っている穴場」のような優越感を持てなくなってしまった。

 店の外見や内装はボロのままほぼ放置して、料理の味だけにかけていたかつてのS屋は、地元民と味を知る人達に愛されてきた。
 間違いなく安めだった価格設定から見ても、S屋は儲けよりお客の満足を第一に考えて営業していたと思う。そしてその結果として口コミで名が知られ、店に来るお客が増えて黒字経営が続いた。
 それで店を新しく大きく綺麗にし、目立つ看板も掲げたら「味が落ちた」と言われ、以前からの客たちが離れてしまった。
 商売とは本当に難しいものだと、S屋のことを思い出してつくづくと思った。

PageTop

旅人には小さな親切を!

 今、プロ野球ではカープが絶好調で、リーグ優勝も手中にした。
 実は筆者は、幼い頃はカープも広島も大嫌いだった。

 今のカープを応援しているカープ女子達のような、若い世代の人達は知るまいが。
 昔のカープのファンは実に凶悪で乱暴だった。
 昔のカープファンすべてがそうだとは言わないが、少なからぬカープファンが行き過ぎた「贔屓の引き倒し」の乱暴狼藉を働いていた。

 ホームの広島球場でカープが試合に負けると、ただ相手チームの選手に酷い罵声を飛ばすだけではない。時には大勢のカープファンが観客席から球場になだれ込み、引き上げて行く相手チームの選手達に集団で襲いかかるような真似もした。
 大勢の暴徒に襲われたのだから、たまらない。身の危険を感じた相手チームのある選手が、持っていたバットを振り回して自分とチームメイトを守った。
 すると集団で襲ったカープファンでなく、バットを振り回して身を守った相手チームの選手の方が暴行の容疑で警察(広島県警)の取り調べを受ける結果になった。
 その光景をテレビで見ていた筆者は、カープとそれを応援する広島県民が大嫌いになった。

 何しろ当時の筆者は、まだ小学生だった。
 負けると暴れて騒ぎ、時には相手チームの選手に襲いかかったりする広島球場のカープファン達の姿は、幼かった筆者の心に「広島の人=凶暴な野蛮人」という印象を焼き付けるのに充分だった。
 そしてそんな広島の人が住む広島県も、さぞかし人の心が荒れた嫌な土地だろうと思い込んでいた。

 話は少し逸れるが、筆者は高校生の頃からずっと写真を趣味にしている。
 で、若くまだ元気な頃には、カメラを持ってあちこちに旅に出かけていた。
 筆者が撮影旅行に行く時には、たいてい車で出かける。旅の荷物に加えて複数台の一眼レフカメラや交換レンズ等を持って公共交通機関で移動するのは、とても大変な事だからだ。
 そして筆者は車の運転を苦にしないというより、むしろ好きな方である。
 だから撮影旅行には車に好きなだけの撮影機材と荷物を積んで出かけ、気が向くままにあちこちを移動して回った。

 ただ写真というのは存外お金のかかる趣味で、カメラや交換レンズその他の機材にかなりの出費を強いられる。
 しかも筆者はクラシック・カメラという特にたちの悪いものにもとりつかれていて、冷静に見れば実用性の薄い古いカメラにもかなりのお金をつぎ込んでいた。
 そんな具合で、自由にできるお金の大半は写真に費やしている有り様だったから。車など「動けば充分」と、いつも古いポンコツの車にばかり乗っていた。

 中古車屋で安く売られている、古い車は財布に優しいですゾ。10~30万円くらいの車を最初にキャッシュで一括払いしてしまえば、後は毎月のローンを支払う必要がないのだから。
 で、廃車にするしかない状態になるまで、徹底的に乗り潰すというわけ。
 ただそうした古い車は、たまに故障する。
 そしてそれが旅行して遠出した最中だったりすると、かなり痛い目に遭う。

 実は電装系のトラブルで、撮影旅行に出掛けた中国山地の田舎で車の調子が悪くなってしまった事があった。
 しかもその場所は、凶悪なカープファンが跋扈するあの広島県内だった。
 それで恐る恐る現地(庄原市の町外れ)の自動車工場に行ったところ、その家族経営の自動車修理業の人達はとても親切だった。
 問題はヒューズのトラブルで、修理費など数百円にしかならなかったが。
 しかしその修理工場の人達は明るく親切で、車のナンバーを見て遠方から来た旅人だと見て取ると、いろいろ心配して道案内もしてくれた。
 それでずっと広島県に“鬼のようなカープファン”のイメージを重ねていた筆者は、コロッと印象を変えてしまった。
「広島の人って、良い人じゃん」

 旅を続けて次に出会った広島県の人も、少しおせっかいなまでに親切な良い人だった。
 だからそのせいで筆者の広島県に対する偏見はすっかり無くなり、今ではむしろ広島県に好感を持っているくらいだ。

 ちなみにカープファンが凶悪で乱暴だったのは、まだカープが弱くていつも5位か最下位を低迷していた頃の話だ。
 一度優勝して普通に強いチームになってからは、ファンにも心のゆとりが出来てきたのか、カープファンもすっかり良識的になり大人しくなった。

 だが「贔屓の引き倒し」という言葉がある通り、好きなチームに過度の愛着を持って行き過ぎた応援をするのは自制した方がいい。
 例えば試合の結果に腹を立て、相手チームに罵声を浴びせかけたり、相手チームのファンや選手に暴力を振るったりすると、本当にそのチームとホームタウンのイメージが悪くなるから。
 筆者も幼い頃に凶暴な一部のカープファンの姿を見たばかりに、「広島県民=凶暴」というイメージを抱いてしまった。そして実際に広島を旅して現地の広島の人達と触れ合うまで、その偏見が消える事は無かった。
 特に本拠地の名をチーム名に付けている場合、一部のファンが粗暴でマナーの悪い行動に走ると、「あそこの人間は民度が低い」と思われかねない。そしてその偏見を解くのは、容易な事ではないのだ。

 旅先でのトラブルと言えば、筆者は金沢に撮影旅行に出掛けた時にも車の故障で痛い目に遭った。
 真夏に車がオーバーヒートしてしまって、路肩に車を停めてボンネットを開けてみると、冷却水が殆ど無くなってしまっていた。
 すると車を停めた近くの家のお兄さんが出て来て、一緒に原因を考え、わざわざ家のホースを伸ばしてラジエーターに水を入れてくれるなどして面倒を見てくれた。
 だが水を入れてもそのまま漏れるばかりで、結局JAFに救援を頼んだのだが。
 そのJAFの隊員も、ただ車を修理工場に運んでくれただけでなく、移動する足が必要な筆者をレンタカー会社まで連れて行ってくれた。
 そして修理工場の親父さんも、難しい顔をしつつ、筆者の旅のスケジュールに合わせてその日の夕方までに冷却水の水漏れを大急ぎで修理してくれた。

 その話を金沢在住の友人に話して、「金沢の人はみんな親切で良い人だった」と言ったところ、その金沢の友人は苦笑いしてこう答えた。
「金沢の人は見栄っ張りだから、よそから来た人には違うのよ」
 だとしても、他県から来た見ず知らずの旅行者に、金沢の人が親切だったのは確かだ。
 だから筆者の脳内では、「金沢の人=親切」という事になっている。

 これは車の故障には関係ないが。
 青森県に撮影旅行に行った際、ある日本料理店にフラリと立ち寄った。
 一人だったからカウンター席に座り、静かに待って出された料理を静かに食べたが、これがとても美味かった。
 それで翌日も立ち寄ってまたカウンター席で夕食をとったのだが、その際は店主が筆者の顔を覚えていて話しかけてくれた。で、八戸三社大祭の感想や青森市のねぶたとの違いから、いかに八戸市の三社大祭を日本全国に有名にさせるかまで、いろいろ楽しく語り合った。
 その店主は別れ際に、八戸から遠く離れた所まで帰る筆者の心配までしてくれたが。
 後に知ったことだが、その店主はただの店の親父ではなく、青森県日本料理技能士会の会長を務めている方だった。しかし少しも威張らず、気さくな話しやすい良い方だった。
 その日本料理店の店主だけでなく、朝市のおばさん達も商売っ気の無い人の良さを丸出しにした方ばかりで、朝早く起きて朝市を見て回るのもとても楽しかった。
 それで筆者の脳内では、「八戸の人も良い人」という事になっている。

 いや、現実の人間はそんな単純なものではない。
 どこの人も良い人と悪い人の両方がいて、筆者は広島と金沢と八戸で、ただたまたま良い人と出会っただけに過ぎない。
 その事はわかっている。
 しかし旅先で出会ったその土地の人が親切だと、「その土地の人=親切で良い人」と思い込み、その土地に好感を抱いてしまうのも人情だ。
 だからもし貴方に郷土愛(地元愛)があったら、たまたま訪れた旅人にはちょっと親切にしておいた方がいい。ただ少し愛想良く親切にしただけで、旅人は「この土地の人は親切で、この土地も良い所だ」と思い込んでくれマス。
 東京オリンピックが四年後に迫る今、「おもてなしの心」だの何だのと言われているけれど、おもてなしなどと大袈裟な事を考える必要はない。
 人として当たり前な、ただちょっとの親切。それだけで、遠くから来た旅人は充分感動してくれるものなのだ。

PageTop

こんなベンツのオーナーは嫌だ

xs4-080310-009.jpg

 私は持病があって、月に何度か通院しています。
 私の主治医は大病院から独立して個人のクリニックを開業しているのですが。
 名医と評判も高く、通院患者も多くて駐車場に空きが無い場合もしばしばあります。

 で、数少ない空いた場所を見つけて車を止めようとしたら、この有様です。
 ベンツが白線を踏んで無造作に停めてあったので、誰もその隣に駐車できなかったのですね。

 私はこういう車の止め方をする人を軽蔑します。
 他の人の事を考えて一度切り返す配慮の無い人を、心から軽蔑します。

 私だって、別にそれほど運転が上手いわけではありませんが。
 それでも駐車したら必ず確認して、停めた位置が偏っていたら切り返すくらいの配慮はしています。
 面倒かどうかは関係ありません。
 それが常識と思うからです。

PageTop