空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

煙草の害に知らぬ顔の、喫煙大好き自民党

 望まない飲酒を相手に強要する行為は、アルハラと言われる。
 ならば喫煙者が自分の煙草の煙を、周囲の煙草を吸わぬ者に受動喫煙させる行為もまた、ニコチン・ハラスメントと呼んでしかるべきであろう。

 煙草は法律で禁じられている物ではないし、喫煙の自由は誰にもある。
 しかし「自分の煙草の煙を周囲の者にも吸わせる権利」は、どこの誰にも無い筈だ。
 だから煙草を吸わぬ者が受動喫煙させられぬよう政府が責任をもって対策を講じるのが、世界の潮流なのだ。

 2020年に、日本で東京オリンピックが開催される。
 そして2004年以降のオリンピック開催都市では、すべて罰則付きの受動喫煙防止策を導入している
 それで厚生労働省は、当初は他のオリンピック開催都市と同様に、飲食店をすべて原則禁煙とする方針だった。
 だが飲食業界などの反発で、小規模なバーやスナックは例外として喫煙を認めることにした。
 この例外付きの受動喫煙対策は、世界保健機関(WHO)ランクでも、4段階のうち上から3番目の水準である。
 ちなみにWHOの調査では、世界の188カ国のうち49カ国が、飲食店やバーも含めて屋内全面禁煙としている。
 だから日本の厚労省の受動喫煙防止策は、オリンピック開催国としては「ユルユル」の最低ランクなのだ。

 しかしそれでも自民党は、この厚労省のユルユルで最低ランクの受動喫煙防止策を「厳しすぎる」と言い、認めない方針を固めた
 自民党は「飲食店が廃業に追い込まれかねない」と言い、飲食業者も禁煙にしたら「店が潰れる」と言っている。

 果たしてそれは、本当だろうか。
 ある飲食業者は、「店に来るお客の半分は煙草を吸う」と言い、だから禁煙にしたら店が潰れると言う。
 しかし日本の2016年の喫煙率は、煙草を販売している側のJTの調査でも19.3%に過ぎない
 と言うことは、もし「店に来るお客の半分は煙草を吸う」というのが真実だとしたら、飲食店に行くのは全体の約4割で、過半数の日本人は日常的に飲食店を利用していないという事になる

 日本の飲食業者は、「お酒を飲む人≒喫煙者」と思い込んでいるのではないか。そして「煙草を吸わない人は、お酒も飲まない」とも。
 だから受動喫煙させられるお客の迷惑など、どうでも良いと思っているのだろうが。
 しかしもし「お酒を飲む人≒喫煙者」だとすると、お酒を飲む日本人は2割しかいない事になる。
 お酒を飲む人がそれほど少数派になっているなら、飲み会など無くなってしかるべきではないか。
 しかし現実には、職場や仲間内での飲み会は今も頻繁に行われている。

 筆者の親しい友人は、中学時代の同級生達と度々同窓会を開いている。
 その友人の中学時代のクラスは非常に仲が良く、卒業してかなりの年月が経った今でも、正月やお盆で皆が帰省する度に、20人前後の同級生達が集まっては酒を飲んでいる。
 しかし喫煙者は、そのうちの2人だけだ。
 で、その2人が古い仲間で良い奴だから、他の18人が受動喫煙を我慢しているのだ。
 飲食業者は「禁煙にしたら、店が潰れる」と言うが、実態はこんなものだ。見ず知らずの他人の煙草の煙には嫌な顔をできるが、友人や上司の煙草には遠慮があって、なかなか嫌と言えずに仕方なく受動喫煙を我慢しているのだ。

 厚労省が最初に示した原則禁煙の案に対して、飲食業者は「店が潰れる、弱いものいじめだ」と猛反発した。
 その飲食業者に聞きたい。
 本当にいじめられている弱いものとは、誰か。
 断言するが、飲食店で煙草の煙にさらされ、受動喫煙させられている非喫煙者達だ。

 と言うと、煙草を吸う者らは「嫌なら、喫煙可の店に来なければいい」と言う。
 しかし世の中には、付き合いというものがある。仕事関係の飲み会で、喫煙者の上司や取引相手に「煙草は吸わないで下さい」などと言えるわけもなく、泣く泣く受動喫煙を我慢している者こそが、いじめられている弱いものなのだ。
 喫煙者の率が2割を切っているこの日本で、何故8割もの煙草を吸わない者たちが受動喫煙の被害を受忍しなければならないのか、筆者には全く理解できない。
 受動喫煙の害が明らかになっている現在、飲食店を含む公共の場所がすべて禁煙であれば、喫煙者の上司や取引相手に受動喫煙で苦しめられる事も無くなるのにと、心から思う。

 それでも飲食業者は、「店に来るお客の半分は煙草を吸う」と言う。
 それを逆に言えば、「店に来るお客の残り半分は煙草を吸わず、受動喫煙を我慢している」ということになる。
 そしてその背後には、受動喫煙が嫌で飲食店に行かない人が大勢いるのだ。
 筆者自身も、禁煙でなく分煙すらされていない、受動喫煙を強いられる飲食店には、仕事の関係でやむを得ない場合以外は極力行かないようにしている。

「自分は煙草を吸わないが、他人の煙草の煙は嫌ではないし、受動喫煙も気にならない」と言う人を、筆者はただの1人も知らない。
 筆者も含めて、煙草を吸わない者は他人の煙草の煙が大嫌いだ。自分が吸わない煙草の、ただ不快なだけでなく有害な煙をなぜ吸わされなければならないのか、全く理解できない。
 受動喫煙を強いられるのは、一種の暴力である。
 そう思うのだが、義理や上下関係などの問題で、煙草を吸わない者は受動喫煙を我慢して同席しているだけなのである。
 それが飲食店にいる、煙草を吸わない約半数の者たちなのだ。

 喫煙者が日本人の約2割で、飲食業者の言う「店に来るお客の半分は煙草を吸う」というのが事実だとすると、煙草は吸わないが飲食店に行く者があと2割で併せて4割になる。
 つまり飲食店に行かない、言い換えれば新たなお客になる可能性のある日本人が6割もいるという事である。
 店を禁煙にすれば、ヘビースモーカーの客は去るかも知れない。
 しかし店の料理や酒に魅力があれば、煙草を吸わない者が新たな客として来る可能性もある筈だ。

 何しろ喫煙者は日本人の2割に満たないのだから、残る8割の非喫煙者をお客にした方が、ずっと利口ではないか。
 その現実を飲食業者はなぜ理解出来ないのか、筆者は不思議である。
 全面禁煙にした海外の例でも、店を禁煙にしてもお客が減るどころか、新たなお客が来て収益が減っていないという調査結果もある。

 今、日本の飲食店では喫煙者が好き放題に煙草を吸っていて、煙草を吸わない者が受動喫煙を我慢させられているのが現状である。
 これは世界の潮流や、2020年のオリンピック開催を考えれば全く異常な事である。
 煙草を吸わない者に受動喫煙を我慢させる日本でなく、煙草を吸う者が周囲の皆に受動喫煙をさせぬよう配慮する日本であるべきだ。
 煙草を吸わぬ者も同席するほんの2~3時間程度の飲食の間でさえ、煙草を吸わずにいられない。受動喫煙の害が知られ、周囲の者に迷惑をかけ健康被害を及ぼしても煙草を吸わずにいられない。ニコチン中毒とは、本当に恐ろしいものである。
 しかし自民党は煙草を吸わぬ者を受動喫煙から守る気などさらさら無く、ただでさえユルい厚労省の受動喫煙対策をさらに骨抜きにしようとしている
 世間での支持率は高いが、こんな政党に一票を入れられないと、心から思う。

 受動喫煙と言えば、癌の大きな原因の一つに喫煙があり、煙草から流れ出て受動喫煙させられる副流煙には、喫煙者が吸う煙より強い毒性がある事が、医学的にも証明されている。
 で、厚労省は「がん対策推進協議会」に、今年度から6年間の次期がん対策推進基本計画の素案を示した。
 その中の煙草対策で、受動喫煙の機会について「家庭では3%、飲食店では15%」にすることを目標としており、がん対策推進協議会の委員から「受動喫煙の割合はゼロにすべきだ」と不満が噴出しているという。
 当然のことである。
 受動喫煙の“目標”が「家庭で3%、飲食店で15%」という事は、「家では3%、飲食店では15%の非喫煙者が受動喫煙にさらされても構わないし、健康に問題もない」という話になるではないか。
 受動喫煙させられる機会は、目標はあくまでも0%にすべきだ。

 こんなユルユルで大甘な厚労省の受動喫煙の規制ですら「厳しい」と言う自民党政権のもとでは、日本は今後も煙草吸い放題の喫煙天国であり続け、筆者を含む非喫煙者はずっと受動喫煙にさらされ続けることになるだろう。

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同性カップルは里親にふさわしいか?

 先日、大阪で男性同士のカップルが里親として認められた。
「LGBTに対する偏見はイケナイ!」という声が大きく、「同性愛なんてキライだ」などと言えなくなりつつある今日この頃の日本である。
 同性のカップルが里親になる事に関しても、「愛さえあれば良いんじゃない?」というのが、大方の論調ではないだろうか。

 しかし筆者は、同性のカップルが親になることについて、どうにも抵抗がある。
 何故なら生物学的に、同性同士のカップルに子が生まれる事はあり得ないからだ。
 単性生殖や雌雄同体の生き物を除き、ほぼすべての動物は雄と雌、父と母の間から生まれてくる。
「両親とも男」とか「両親とも女」という子供は、自然の状態ではまずあり得ない
 だから「同性のカップルが子を持つ」というのは、自然の摂理に反する事なのだ。

 昆虫から類人猿に至るまで、雌雄の区別ある動物は雄と雌とが求め合い交尾して子孫を残し、繁殖してきた。
 その中で、ただ人類の一部だけが同性に愛情を抱き、生殖行動までしている。
 無論、同性同士の性交で子が生まれる事は、生物学的に絶対にあり得ない。
 だから「人類の一部に、同性に性的な愛情を抱く者が存在する」という現実は嫌でも認めざるを得ないが、しかし同時に同性愛者も「自分達は子を持つ事ができない」という現実も受け入れるべきなのだ。
 子を持てない同士だと百も承知の上でカップルになったにもかかわらず、「自分達も子を育てて家族ごっこをしてみたい」など、欲が深いのにも程があると筆者は思う。

 と言うと、LGBTを擁護する人達は、必ずこう反論する。
「愛情の無い男女のカップルと、愛情のある同性のカップルと、どっちが親にふさわしいと思うの! 親の性はどうでも、愛情さえあれば子供は幸せなのよ!!」と。
 また、男女のカップルでも不妊の夫婦は珍しくない為、「子を持てない夫婦が里親になるのとどう違うのよ! 不妊の夫婦が里親になれるなら、同性のカップルだって構わないでしょ!!」とも。

 ちょっと待ってもらいたい。欧州の一部の国とは違い、日本ではまだ同性婚は認められていないのだ。
 一部の地方自治体では近い形で認めているが、日本国としてはまだ認めていない。
 世間では、家族というものはまだ「お父さんとお母さんと子供がいる」という形なのだ。

 それは確かに、今はシングルマザーやシングルファーザーの家庭も増えてはいる。
 しかし「同性の親が二人いる」という家庭は、ごく稀であろう。
 そして同性のカップルのもとに里子に出すという事は、その子供にそうした特殊な家庭環境を受け入れ、かつLGBTに対しての深い知識と寛容さを持つ事を強いる結果になる。
 思春期前の子供に両親が同性であることの意味を正しく理解させ、かつ受け入れさせるのは、非常に難しい事ではないだろうか。
 その送り出される里子が思春期にさしかかる頃の子であれば、里子の気持ちはさらに複雑になる。

 理想主義者は「愛さえあれば良い」、そして「LGBTのカップルのもとで育てれば、むしろ性の多様性に対して理解が深まって、本人にとっても良い」と言うのであろうが。
 ただ心身共に未熟な子供が同性のカップルのもとに里子として送り出された後、思春期を迎えて「両親は同性同士」という自分の環境を素直に受け入れられるか、そしてどのような恋愛観を持つようになるのか、筆者は非常に心配である。

 例えば不妊の夫婦が養子を迎えたとしよう。その子がまだ乳幼児であった場合には、親が告白するまで養父母を実の親だと思って育つだろう。
 また、ある程度の年齢で自分が養子だと知っていたとしても、愛情を持って大切に育てられれば、その子は養父母を自然に「お父さん、お母さん」と呼べるだろう。
 だがその養い親が同性カップルだった場合、その事に子供は躊躇いを感じないだろうか。自分の親が二人とも「お父さん」あるいは「お母さん」であるとか、どちらか一方を男なのに「お母さん」、女なのに「お父さん」と呼ばなければいけないような事態は、子供を混乱させないだろうか。

 死別や離別によるシングルマザーやシングルファーザーは、世間にもよくある事だし、子供も受け入れられるだろう。
 しかし「親がどちらも同性」という生物学的にあり得ないカップルは、子供をひどく混乱させる。
 とりわけ思春期になれば、親の性的嗜好や自分の性のあり方についても、深く悩む事になるのではないか。
「愛さえあればOK」という安易な考えで、同性のカップルのもとに里子に出す事は、出された子供に大きな精神的な負担をかける結果になるのではないかと筆者は危惧する。

「同性のカップルに偏見を持ってはいけない!」
「愛情の薄い夫婦より、愛情ある同性カップルの方が良い!」
 そんな建前じみた理想論を言う前に、まず自分の事として考えてみてほしい。
 普通の家には、お父さんとお母さんがいる。
 けれどボクの家に居るのは、どっちもお父さん(お母さん)だ。
 そのような家庭に、貴方は耐えられるだろうか。
 自分の親が同性で愛し合ってるという現実を、貴方は受け入れられるだろうか。

 同性同士で愛し合うカップルは、現に存在する。
 しかし生物学的に、同性のカップルに子は生まれない。
 だから筆者は、同性のカップルはいかなる形でも子を持つべきでないと考える。

 LGBTに対して正しい理解を持つには、かなりの知識と人間に対する深い理解を必要とされる。
 不惑の年を越えた立派な大人でさえ、「自分の子供がLGBTである」という事実をなかなか受け入れられず、深く悩んだり傷ついたりする。果てには、カミングアウトした我が子を拒絶してしまう親さえいたりするのが現実だ。
 同性カップルのもとに里子に出すというのは、大の大人でさえ受け入れるのが難しい性の問題を、幼い子供に否応なしに「受け入れろ!」と強要しているのと同じだ。

 社会がもっとLGBTに寛容になり、同性婚も、同性のカップルが養子を持つのも当たり前の世の中に既になっているのならば、ともかくとして。
 現状の日本で同性カップルのもとに里子を送り出すのは、理念優先で先走りすぎであり、その負担は結局は最も弱い立場である里子に出された子供にのしかかるのではないかと恐れている。

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WiLLという「コドモで非常識」なオピニオン誌を嗤う

 日本をあの愚かで悲惨な戦争に引きずり込んだ要因の一つである教育勅語が最近妙に持ち上げられ、社会科のみならず道徳の教材としても利用することを認めると、閣議決定された。
 いざ事が起きれば皇室と国家の為に命を投げ出せと教え込んだ部分は意図的に隠され、「親孝行や友情などの大切さを教えるものだ」とのデタラメがまかり通っているのが、安倍政権下の日本の現状である。

 その日本の右傾化の現状は、書店に行くだけでもわかる。
 史実を無視し現実をねじ曲げて解釈する極右のオピニオン誌が、筆者の住むような地方都市の書店ですら、目立つ場所にズラリと平積みにされている有り様だ。

 例えば「オトナの常識」と謳うWiLLという月刊誌など、毎号のように「日本は何一つ悪くナイ、あの戦争は侵略では無かったし、日本軍は立派だった」と言い立て、中国と韓国と民進党などを口汚く罵るのを売りにしているのだが。
 そんな雑誌が書店の目立つ場所に平積みにされ、そしてよく売れているのが今の安倍政権下の日本なのだ。
 ちなみにそのWiLLには、『アッキーのスマイル対談』という、安倍首相夫人の昭恵氏がホストとして誰かを招いて対談する記事が連載されている
 その点を見るだけでも、大学で歴史を学んだ筆者が「史実を無視して戦前戦中の日本を賛美する愚かな極右の妄言」と呆れ果てているWiLLの論調は、安倍政権の歴史観に近いものがあるのだとわかる。

 そのWiLLによると、森友学園の疑惑を野党が追及するのも「魔女狩りごっこ」で「イジメ」で、リニアは「世界に冠たる日本の技術」で「世界を救う」のだそうだ。
 森友学園の問題を追求するのが魔女狩りでイジメなのが、WiLLの認識では「オトナの常識」であるようだが。それに共感する日本人の大人が、どれだけいるだろうか。

 非常に危険な情勢にあり、現地の自衛隊が戦闘状態にあると認めている南スーダンの問題でも、WiLLの言うオトナの常識では「日報なんてどうでもいい、そこに駐留(とどま)ることが大事なんだ」そうだ。

 また、筆者はリニアが通る地元に住んでいるが。
 皆さんは知っているだろうか。WiLLで東海旅客鉄道株式会社の名誉会長と櫻井よしこ氏が対談して「世界に冠たる日本の技術」称えるリニアは南アルプスを貫いて通り、その為に地下水脈を破壊し、大井川の水量が大幅に減ることになるのだ。
 さらに南アルプスにリニアを建設するにあたり、掘り出した土はちゃんと運び出して環境に問題のないよう配慮して処分するのではなく、南アルプスの山中に投棄する計画になっている
 速度が世界一のリニアを作る為には、環境を大破壊しても構わない。
 そんな姿勢で作られるリニアが「世界に冠たる日本の技術」で「世界を救う」とは、本当に笑わせてくれる。
 リニアが作られる地元に住んでいる筆者としては、「それならリニアなど作るのはやめ、南アルプスの自然を救って欲しい」と心底思うのだが。それはWiLLと櫻井よしこ氏の考えでは「コドモの非常識」なのだろうか。

 そしてまた、WiLLは今月号でも飽きずに中国と韓国(および北朝鮮)を叩き、「日本軍は悪くナイ、軟禁大虐殺はデッチ上げだ!」と騒いでいる。
 北朝鮮を叩くのはまあ良い。北朝鮮の指導者が非常識を越えた狂気に満ちた存在で、北朝鮮が危険で邪悪な国である事は事実だから。
 だが毎号のように、「日本は過去に悪い事をした」と思いたくない頭と心の弱い人を洗脳するかのように、「南京大虐殺は無かった」と言葉を変えてプロパガンダを発信し続けるのは、いい加減にやめて貰いたいものだ。
 もちろん表現や言論の自由はある。
 しかし作為的な嘘や悪意に満ちたデマは、その自由の範疇には入らないと筆者は思うが、違うか?

 本年5月号のWiLLには、南京大虐殺について幾つも記事が載せられている。
「腹立つなァ!! 南京大虐殺四十万人……百田尚樹」
「実録映画が証明する・ありもしない南京大虐殺……立命館大学名誉教授北村稔、日中問題研究家松尾一郎」
「南京事件の死者数がわかった・その数1793人……近現代史研究家水間政憲」

 戦前、特に戦中の日本が軍の統制下にあり、言論の自由など無かったのは誰にも否定できない事実だ。報道や映画にはすべて当局の検閲が入り、当局に都合の悪い部分はすべて処分されていた事実を否定できる人は誰も居まい。
 WiLLの5月号では、その日中戦争の最中に日本が制作した『南京』という映画をもとにして、立命館大学名誉教授と日中問題研究家が「ありもしない南京大虐殺」と主張していた。
 で、その立命館大学名誉教授と日中問題研究家の感覚では、中国やアメリカの映画は嘘だらけのデタラメで、日本の映画は無条件で真実という事のようだ。
 そして日本の戦犯たちは、その中国やアメリカの嘘の為に処刑されたのだと言う。

 政治的な思惑のある映画は、どこの国のものでも自国に都合の良い点だけ取り上げ、都合の悪い部分は隠蔽しているものだ。
 それが常識というものだろう。
 だから中国やアメリカのプロパガンダ映画はそのまま真実ではないし、疑って見なければいけないのは当然の事だ。
 しかし同時に、言論が統制され、軍の厳しい監視の目の下で作られた日本の映画の方も信用できないに決まっているではないか。

 だがWiLLで対談していた立命館大学名誉教授と日中問題研究家は、「中国とアメリカの映画は嘘だらけで、日本の映画はそのまま真実」という立場で「ありもしない南京大虐殺」と主張している。
 自称“日中問題研究家”の方は、まあともかくとして。
 この程度の見識で立命館大学名誉教授が勤まるとは、立命館大学や大学教授の質も下がったものだと呆れ果てる。

 さらに「実録映画が証明する」という映像も、16ミリフィルムのやや不鮮明な画面で、南京の蒋介石の邸宅などの外観だけをロングショットで遠くから見せただけで「ほら、略奪の跡など全然ないじゃないか!」と言っているのだから笑止千万だ。
 これを見て「やはり南京で虐殺も暴行も略奪も無かった」と信じる人は、最初から「日本は悪くない、日本軍は正義の戦争をしたのだ!」と信じたい人しかいないだろう。
 本当に映画で「南京大虐殺は無かった」と証明したいなら、日本でも中国でもない中立の第三国の制作による、建物の内部や路地裏まで詳しく写し、市民の肉声も聞いた映像が必要だ。
 言論人や大学教授ともあろうものが、軍や国の検閲も経て日本に都合の悪い部分はすべて削除した“実録映画”とやらをすべて真実だと決めつけ、それを南京大虐殺がなかった証拠だと鬼の首を取ったかのように誇らしげに言い立てるなど、本当に愚かだ。

 さらに「南京事件(南京大虐殺とあえて言いたくないのだろう)の死者数がわかった、その数1793人」との記事を書いた自称“近現代史研究家”がいるが。
 実は筆者も、中国側が言う犠牲者の数には大いに疑問を持っているが。
 で、その近現代史研究家なる水間政憲氏の言う犠牲者の人数が、仮に正しかったとしても。
 貴方の街に、侵略してきた敵兵に殺された1793人の死者が転がっている様子を想像してみてほしい。
 無惨、としか言いようが無い筈だ。
 そして同胞として、怒りが腹の底からこみ上げてくる筈だ。
 中国が主張する三十万とか四十万とかいう人数に比べるから、問題にならないような些細な数と思ってしまうだけの話であって。
 仮に、真実1793人であったとしても。
 それだけの死体が転がっている様を想像すれば、大虐殺と感じて当然だと筆者は思う。

 WiLLに寄稿するような言論人は、常識では理解しがたい奇妙な思考回路を持っている。
 南京大虐殺について、彼らはいつもこう言うのだ。中国側の言う犠牲者数はおかしい、だから南京大虐殺も無かったのだ……と。
 言論や報道の自由のある今の日本でさえ、デモや集会の参加人数が主催者発表と警察発表でかなり違いがあることは、よくあるではないか。
 主催者発表と警察発表に違いがあるからと言って、「デモや集会も無かった」と言い張る人間は馬鹿だけであろう。
 そんな単純な事が、WiLLに寄稿したり、WiLLを買って愛読したりする「オトナの常識」を標榜する人達には、なぜわからないのだろうか。

 昨年惜しくも亡くなられた、筆者も尊敬するある方が、南京事件についてこうおっしゃった。

 犠牲者数が議論されているが、数が問題ではない。虐殺が行われたこと自体が問題なんだ。


 おっしゃったのは、昭和天皇の実弟で、歴史学者でもあり、戦争中には軍人として中国戦線にも行きその実態を見てきた三笠宮さまである。
 日本の右翼とは、本来皇室を尊ぶものではないか。
 にもかかわらず、歴史学者でもなく、戦争中に中国戦線に行った事も無い自称“保守”の者が、三笠宮さまのお言葉を否定するような主張をして恥じないのは、どういう事であろうか。

 また、一水会顧問の鈴木邦夫氏も、こう言っている。

 日本は常に正しい道を歩いてきたのだろうか。過去を振り返ればアジアの国に弁解できないことをしたのではなかったか。そうした過ちも直視し、それでもこの国がいとおしいと思う気持ちが愛国心だと思う。威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心ではないはずだ。


 近年、安倍政権のもとで妙に“売国”だの“非国民”だのといった戦前戦中によく使われた言葉で他者を貶める自称“愛国者”が増えているが。
 鈴木邦夫氏のような姿勢こそ、今の右翼に欠けている正しい愛国心だと、筆者は考える。

 WiLLが何故、自誌を「オトナの常識」と呼びたがるのか。
 それはズバリ、WiLLの論調がコドモで非常識だと自覚しているゆえのコンプレックスによるものと、筆者は考えている。
 本当に大人の常識人が読むオピニオン誌なら、わざわざ「オトナの常識」などと標榜しない筈だ。

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性犯罪の罰則強化には賛成なのだが…

 性犯罪の罰則を強化する刑法改正案が、この3月7日に閣議決定された。
 その刑法改正案の骨子は、以下の通りである。

 強姦罪と強姦致死傷罪の法廷刑の下限を引き上げる。
 強姦罪の加害者と被害者の性差を無くす。
 強姦罪や強制わいせつ罪などを非親告化。
 強制わいせつ罪などで処罰される行為のうち、悪質性の高い一部の行為を強姦罪で罰する。
 18歳未満の子供に、父母などが影響力に乗じて性交やわいせつ行為をした場合の罰則を新設(罪の成立に暴行や脅迫は不要)。
 強姦罪の名称を「強制性交等罪」に変更。


 男である筆者から見ても、どれも納得できる当然の改正である。
 あまり知られていないことだが、強姦と強制わいせつはこれまで、被害者が告訴して初めて罪に問われることになっていた。
 性犯罪に逢った被害者の中には、自分が事件に遭ったことを知られたくないあまりに、被害を受けても泣き寝入りする人もいた。
 だから性犯罪に関しては、事件をたとえ警察官が目撃していても、被害者が「処罰して下さい」と言わなければ、加害者は逮捕もされなかったのだ。
 それが非親告罪とされ、事件が起きれば被害者が申し出なくても処罰されるようになるのは、とても良いことだと筆者は考える。

 また、現在は女性から男性に対するセクハラ等もあるし、同性間における性犯罪もあるだろう。
 だから強姦罪や強制わいせつ罪は「男が女性にするもの」という固定観念から脱却し、性差なく性犯罪が成立するように変更したのもまた、至極当然のことである。
 父母など、つまり保護者が18歳未満の子供に性行為を迫るのを罰則を新設して禁じたのもまた、親や義理の親による性的虐待が問題になっている今日、とても良いことだと思う。

 それにそもそも、強姦いう言葉には、文字から見ても「男が女性にするもの」というニュアンスが込められている。
 しかし現実には、男性がゲイの性犯罪者に襲われる場合も、男性が女性にわいせつ行為をされる場合もある。
 だから強姦罪の名称を「強制性交等罪」に変えるのも、当然のことと言えよう。

 筆者はこの性犯罪に対する刑法改正案を、実に良いことだと思ったが。
 だが性犯罪に遭ったと訴える女性たちは、これでもまだ不満なのだそうだ。
 その被害者によると、被害に遭った時に「体が動かず思考が停止するといった、凍りつく(フリーズする)身体的反応が出ること」が考慮されていないからだそうだ。

 つまり一部の女性たちは、強姦罪の成立に暴行や脅迫の存在が必要とされ、被害者が抵抗しなければ罪に問われないことに異議を唱えているのである。
 彼女らの希望は、「抵抗しなくても、心で嫌だと思っていれば強姦で相手は有罪」ということなのだそうだ。

 筆者には年子の姉がいた為、少年マンガだけでなく少女マンガも読んでいた。
 その姉が読んでいた少女マンガに、こんな場面がよくあった。
 仲良くなった男女がいて、そして男の方が女の子にこう聞く。
「キス、してもいい?」
 すると女の子は機嫌を損ねるのである。
「そーゆーことは、聞くんじゃなくてムードで察して黙ってやって!」
 キスだけでなく、それ以上の行為も聞いて許可を取ってからするのは「ムードを台無しにする、ダサい行為」で、雰囲気を読みその場の流れでするのが、筆者が読んだ少女マンガやハーレクイン・ロマンスなどの恋愛小説の常道だった。
「なあ、キスしていい?」
「胸に触っていい?」
「セックスして、いい?」
 少なくとも筆者が読んだ女性向きの恋愛マンガや恋愛小説には、いちいち確かめるイケメンは一人もいなかった。

 ここで断っておくが、強姦や強制わいせつは「見ず知らずの相手に、いきなり」というのではなく、相手は同じ職場や学校などの顔見知りの知人によるものであることが多い。
 で、二人はそれなりに仲も良く、少なくとも男の方は良いムードだと思っている。
 そして「○○、しても良い?」といちいち相手の女性に聞いて確かめるのはムード台無しのダサい行為で、だから黙ってキスをし、相手の女性も黙ってされるがままになっていたから押し倒した。
 そしたら後から「強姦された! あの時は抵抗しなかったけど、フリーズして体が動かず思考が停止してたのよ!」と警察に訴えられたのでは、男は怖くて女性を口説く事も出来なくなるだろう。

「○○、しても良い?」といちいち尋ねる男はダサいし、ムード台無し。
 そう女性に言われるから黙って押し倒したら、抵抗されなかったのに強姦罪で告訴される。
 これではホント、男は女性に手も出せなくなってしまう。
 女性はすぐ「雰囲気で察して」と言うけれど、言わずにすべて察することが出来るくらいなら、言葉なんて要らないよね。
 人間、それぞれ感じ方も考え方も違うし、言わなければわからない部分も間違いなくある筈だ。

 暗い夜道で、一面識も無い女性に襲いかかって性交するのは、もちろん間違いなく強姦だ。
 しかし顔見知りで、しかもそれなりに親しい仲で、それで「そろそろ、そういう仲になっても良いかな」と思って手を出して押し倒し、抵抗されなかったからコトに至ったら「襲われた、強姦だ!」と言われるのでは、男は本当に草食化するしか無いデスよ。
 だから性犯罪の罰則を強化する一方で、「強制性交等罪」の成立に、暴行や脅迫の存在を必要とする規定が残されたのは尤もな事だと、筆者は考える。

 筆者は決してモテるタイプではないけれど、姉の少女マンガや恋愛小説も読んでいたから、いちいち「○○、して良い?」と尋ねること無く、ムードを読んで黙って手を出していたけれど。
 それでも相手の女性を傷つけてしまうのが怖くて、そっと大事に扱ったつもりだった。
 そしたらある女性に、かなり後になってこう言われたよ。
「貴方の愛撫は優しすぎて、印象が薄いのよね」
 ……口に出して言われなければわからない事って、本当にいろいろあるのだ。

 嫌だと拒否する相手に行為を迫るのは、もちろん犯罪だが。
 しかし何をするにも、男がいちいち「○○、しても良いデスか?」と女性の許可を取らなければいけないような恋愛も、何か味気なくムードに欠けるように感じないだろうか。

 親しくなった女性と行為に及ぶ場合、たいていの男は「拒否されなければ、次に進もう」と考えていると思う。
 だから拒否も抵抗もされずに最後までして、その後で「ゴーカンされた!」と訴えられたら、男は本当に困ってしまう。
 その、性犯罪の被害者女性や弁護士たちの言う「思考が停止して体が動かなくなる」というフリーズという状態まで考慮して女性に接しなければならないとすれば。
 それこそいちいち「○○、しても良いデスか?」と確かめるダサ男になるか、自らリードするのを放棄して女性から誘われるのをひたすら待つ草食男になるしかなかろう。

 拒否して抵抗する相手に性交を強いるのは、もちろん良くないし犯罪だ。
 しかし暴力もふるっていないし脅しもしていないのに、何でもかんで「性犯罪だ!」と叫んだら男は萎縮するばかりだし、非婚化と少子化がますます進む結果になるのではないだろうか。

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年金問題に対する橋下氏の名案

 初めにはっきり言っておくが、筆者は橋下徹氏と大阪の維新の党は大嫌いである。
 しかし筆者は、「嫌いな人や嫌いな政党の言うことはすべて間違っている」とは思っていない。
 反対の立場に立つ嫌いな人や集団も、時には聞くべき意見や納得できる意見も言う。
 だから嫌いで反対している人や政党の意見も頭から否定するのではなく、一度はしっかり聞くべきだと筆者は思っている。
 反対して否定するのは、相手の意見を最後まで聞いてからでも遅くない。

 今、特に若い人たちに年金を払わない人が増えているという。
 その気持ちは、筆者もわからないでもない。
 筆者は現在、年金は欠かさずきちんと支払っているが。
 しかし今の日本は、高齢化が急速に進んでいる。
 年金を払う人が減る一方で、受給する高齢者が増えている現状を考えれば、若い人たちが「どうせ自分達は貰えないのに、払うだけ損ではないか」と思う気持ちもよくわかる。

 今の日本で、年金制度がこのままで良いと思っている人は、殆どいないのではないだろうか。
 年金の支給開始年齢を引き上げるか、年金そのものを減額しなければ、年金制度自体がやがて破綻するだろう。

 かと言って、年金の支給開始年齢を引き上げれば、「定年退職してから年金が支給されるまでの年月を、どう暮らして行けば良いのだ?」という問題に突き当たる。
 元気で再就職できる者は良いが、持病があってフルタイムで働けない者は貯金を切り崩して生きねばならず、それは辛いことだろう。
 また、年金の額そのものを引き下げれば、暮らしに困窮する高齢者も増えるだろう。

 この問題に対し、筆者の嫌いな大阪維新の橋下徹氏が、非常に面白い、検討に値すべき事を言った。
 橋下氏は年金を「ある一定の年齢になったら必ず貰えるもの」ではなく、相互扶助の制度として、あるレベル以上に収入のある高齢者には支給しないようにしたらどうかと提案した。

 大変もっともだと、筆者は思った。
 業績の良い会社の社長や役員、天下りのお役人、それに多額の歳費を税金から支給されている国会議員などの豊かな暮らしをしている人達は、年金など必要としない筈ではないか。
 確かに年金は、必ず貰えるのが前提の制度ではある。
 しかし年金制度の破綻が目の前に迫っていて、制度そのものの改革が必要とされている現状を考えれば、橋下氏の言う「収入の多い高齢者には支給しない」という改革が最も理にかなっていて、多くの人の賛同も得られるのではないだろうか。

 年金の支給開始年齢を引き上げても、年金の額を引き下げても、どちらにしても多くの人が困る事になる。
 しかし金持ちのお年寄りに年金を貰うのを我慢してもらったところで、誰も何も困りはしないではないか。
 だから橋下氏の言う通り、年金を支給するのは、無収入もしくは低収入になった高齢者にだけで良いと筆者は考える。

 痛みを伴わない、もしくは痛みの最も少ない年金制度の改革としてまず考えられるのは、橋下氏の言うように、今は払えば誰でも貰えるのが前提の年金を、収入の少ない人だけが貰える相互扶助制度に変える事しか無いと、筆者は考える。
 高齢でも平均以上の収入を得ている恵まれた老人(社長や会社役員や天下りの役人や国会議員など)に、なぜ年金が必要なのだろうか。

 この「支給するかどうかは、収入に応じて決める」という年金制度の改革は、国会議員がその気になって提案すれば、すぐ実現すると思うのだが。
 しかし国会議員たちは「支給開始年齢の引き上げ」や「支給額の引き下げ」は考えても、橋下氏の言う「相互扶助による収入に応じた支給」は考えたがらない。
 それは国会議員たち自身の多くが、年金を受け取っているからである。

 筆者は軽自動車に乗り服はユニクロやシマムラで買い、築四十年以上の家にカネが無くてリフォームすら出来ぬまま住んでいるビンボー人であるが。
 だがお金については、何とか暮らしていける分だけあれば良いと思っている。
 そして生きてゆくには、お金よりもっと大事なものがあると思っている。
 だから筆者は残業してより多くのお金を稼ぐより、定時退社して家庭生活や趣味にも時間を費やすことの方を選びたい。

 しかしお金持ちというものは、筆者とは考えや価値観がまるで違うようだ。
 お金持ちだからお金に鷹揚というわけではなく、「一円でも多くのお金を欲しい!」という執念があるからこそお金持ちになれるというのが現実であるようだ。

 だから年金の問題でも、「お金持ちには支給しないようにしたらどうか?」と提案すると、お金持ちたちは断固反対するのである。
「そんな事されたら、ワシの小遣いが無くなる!」とね。
 生活には何も困っておらず、庶民より明らかに豊かな暮らしをしていても。
 それでも「ワシの小遣い」程度でしかない年金を確保するのにさえ必死なのが、我が日本のお金持ちなのである。

 年金は収入が乏しくなった高齢者の為の相互扶助の制度に変え、高収入の高齢者には支給しないという橋下氏の案は、筆者には至極もっともに思えるのだが。
 税金から高額の歳費を貰っている国会議員など、自ら率先して年金の返上を国会に提案すべきだと思うのだが、少なくとも現状ではそのような動きは全く見られない。
 国会議員や、天下りの官僚も含めて。
 日本の指導者層というのはその程度の人間であり、「だから日本が良くならないわけだ」と痛感する今日このごろである。

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金原ひとみなるニコチン中毒患者の妄言

 受動喫煙を防ぐ為の禁煙や分煙に腹を立て、「いつでも何処でも煙草を吸わせろ!」とヒステリックに騒ぎ立てる喫煙者の言動を、ある医者が「まるでニコチンが言わせているかのようだ」と評した。

 無論、中には周囲の者に気遣いながら、遠慮しながら煙草を吸っている紳士たちもいる。
 しかし一方で他人の存在にまるで構わず、遠慮の欠片すら無く煙草を吸い、注意しようものなら狂ったように怒り出す喫煙者も間違いなく存在する。

 例えば酒を飲む者が「オレの酒が飲めねえ、って言うのか!」と凄み、周囲の者にも無理に酒を飲ませる行為がアルハラである事は、どこの誰にも否定できない事実だ。
 煙草を吸わない者にも受動喫煙を強いる喫煙者の存在は、非喫煙者にとっては間違いなく“ニコチン・ハラスメント”だ

 筆者はかなり以前に煙草を吸うのを止めた非喫煙者だが、煙草を吸う人に「貴方も禁煙しなよ!」と言うつもりは全くない。
 煙草が有害であるのは事実だが、酒、それに糖分や油を多く含んだ食品も多量に摂取すれば健康に害がある事は同じだ。
 煙草は麻薬と違って合法な嗜好品だし、喫煙者がリスクを承知の上で煙草を吸うのは全く構わないし、個人の自由だと思っている。

 ただ煙草が他の嗜好品と違うのは、有害成分を多量に含んだ煙が周囲に広がり、煙草を吸わない者まで巻き添えに受動喫煙させる事である。
 喫煙者の存在は、「オレの酒をオマエも飲め!」と強要するアルハラの酒乱と全く同じである。
 断言するが、煙草を吸わない者もいる公共の場での喫煙は迷惑だし有害だ。
 だから筆者は路上を含む公共の場での喫煙はすべて禁止し、煙草を吸いたければ自宅か喫煙者専用の店や場所のみで吸うべきだと考える。

煙草の吸い殻P1110323

 路上を含む公共の場所で喫煙する者の存在に、煙草を吸わない者は心から迷惑している。
 写真を見ていただきたい。
 これが煙草の吸い殻だが、フィルターがどれだけタールで茶色に汚れているか、一目でわかるだろう
 だから喫煙者の肺は、タールで真っ茶色に汚れている。
 そしてそのタールで汚れた有害な煙を、喫煙者はフィルターで漉して吸っているのに対し、煙草を吸わない者はフィルター無しにそのままダイレクトに吸わされているのである。
 このフィルターのヤニを見れば、喫煙者が周囲の煙草を吸わない者にどれだけの健康被害を与えているかがわかる筈だ。
 筆者の母の友人にも、煙草など全く吸わないのに夫が喫煙者だったせいで、肺癌になってしまった方がいる。

 喫煙者に説明していただきたい。
 煙草を吸わない者まで、なぜ喫煙者の煙草に肺を汚され、健康を損なわれなければいけないのだ?
 煙草を吸う自由は、無論ある。
 しかし「煙草を吸わない者にまで有害な煙を吸わせる権利」は、どの喫煙者にも無い筈だ。

 煙草を吸わない者は、喫煙者の健康を心配して「煙草は止めたら?」と言っているのではない。
 ただ「巻き添えに受動喫煙させられたくない」という、至極真っ当な主張をしているだけである。

貴方の吸う煙草の煙を、煙草を吸わない私に吸わせないで下さい
 煙草を吸わない者は、喫煙者にただそれだけを望んでいるのだ。
 にもかかわらず多くの喫煙者が、「肩身が狭い、煙草を吸わせてもらえない」と、まるで自分達が被害者であるかのように思っている。
 間違えないでもらいたい。
 喫煙者は、煙草を吸わない者に受動喫煙を強いる加害者なのである。

 この3月7日の毎日新聞の夕刊の『ナビゲート』というコラムに、その被害者意識丸出しで「自分達は煙草を吸わない人に迷惑と健康被害を与えている加害者なのだ」という認識がまるで無い、喫煙者の一方的な言い分が載せられていた。
 それを一読すれば、喫煙者がいかにニコチンに依存し、煙草を自由に吸えないとなるとどれだけ無茶苦茶で手前勝手なことを言うかがよくわかる。
 そのニコチン中毒患者は金原ひとみという作家だが、金原氏が書いた『最初の一服』というコラムの全文をここに引用してみよう。

 今年一月、フランスで全ての煙草が黒いパッケージに統一された。プレーンパッケージ法という、パッケージにつられての購入をなくすためのものらしい。ジタンやゴロワーズなど、フランス人の慣れ親しんできたデザインもこれで見納めだが、今後は日本でジタンやゴロワーズを買って行けばフランス人は羨ましく思うかもしれない。煙草屋のカウンターの向こうは一面真っ黒で、小さい字で書かれた銘柄のみで区別する他なく、煙草屋も苦労しているようだ。
 一方日本では飲食店での全面禁煙が検討されているらしい。つまり日本の数少ない美点の一つが、今消えつつあるのだが、多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランスに対して、路上喫煙が嫌がられる日本はどこで煙草を吸えばいいのか。
 こうした煙草に対する一連の流れは不可解、かつ不愉快にも感じているのだが、喫煙者の権利を訴える気には到底なれず、さらに健康への影響を問いただす必要もない。誰も煙草が体にいいと思って吸っているわけではないからである。
 だが人はパンのみで生きられるわけではない。では霞を食って生きているのか。いや私は煙草を吸って生きてきた。どんな状況、それも悲惨な状況であるほどに煙草の味は引き立つ。何故なら全ての一服は過去へと、その最初の一服へと回帰していくからである。それは誰もが初めて煙草を吸った時、傍にあったであろう世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕したあの一瞬への繰り返される回帰なのだ。


 ……これが喫煙者である女性作家の言い分であるが、突っ込み所が多過ぎて、どこから反論したら良いか困るくらいだ。
 喫煙者は、本当に頭がオカシイ。
 金原氏を全ての喫煙者と同一視してはいけないだろうが、コラムを読んで正直にまずそう思ってしまった。

 まず「日本では飲食店での全面禁煙が検討されているらしい。つまり日本の数少ない美点の一つが、今消えつつある」とあるが、飲食店、お酒を出す店だけでなくレストランや喫茶店でも煙草の煙が流れて来て否応なしに受動喫煙させられている現状を、どこの誰が“日本の美点”などと思っているだろうか。
 飲食店で遠慮なく煙草を吸え、煙草を吸わない者が我慢しているような状況を“美点”だなどと思えるのは、金原氏などごく一部のニコチン依存症のヘビースモーカーだけだろう。
 喫煙者でも紳士淑女なら、少なくとも煙草を吸わない者がいる場所での喫煙は遠慮する。

「多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランスに対して、路上喫煙が嫌がられる日本はどこで煙草を吸えばいいのか」と言うが、路上は幼い子供も含めて多くの非喫煙者がいる場所だ。
 路上喫煙は、その煙草を吸わない弱者に我慢と受動喫煙を強いる事になる。
 だから路上喫煙は嫌がられるのだ。
「どこで煙草を吸えばいいのか」って、自宅や喫煙者だけが集まる場所で吸えば良いだけではないか。
 世の中に酒を飲む者は大勢いるが、殆どは家か飲み屋で酒を飲んでいる。我慢できずに道を歩きながら酒を飲んでいる者がいたとしたら、ひどいアル中と後ろ指を指されるだろう。
 酒飲みは酒を飲むべき場所を心得ているのに、喫煙者はなぜ煙草が我慢できず、仕事中にも食事の前後にも路上でも、つまりいつでも吸いたがるのか、それが筆者には理解できない。
 少なくとも筆者は金原氏のように、路上喫煙して周囲の煙草を吸わぬ人達にも受動喫煙させても平気でいられるような人にはなりたくない。

「多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランス」と、金原氏はまるで「おフランスでそうなのに、日本は遅れているしおかしい」とでも言いたげだが。
 実はフランスは喫煙率が24.1%で世界第9位の、言わば喫煙大国なのだ。
 ちなみに日本の喫煙率は19.3%で世界第23位だ。
 よくフランス大好きで、文化的にも進んだ素晴らしい国だとフランスを崇拝する人がいるが。
 しかし金原氏が大好きな“おフランス”は、少なくとも喫煙率に関しては日本より遅れているのだ。
 だからこそ金原氏の言う“プレーンパッケージ法”なるものを施行してまで、喫煙率を下げようとしているのではないか。
 繰り返し言うが、煙草を吸わない者や幼い子供も多くいる公共の路上での喫煙は「嫌がられて当然」であって、多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランスの方がオカシイし遅れているのだ。

 さらに金原氏は喫煙について「健康への影響を問いただす必要もない。誰も煙草が体にいいと思って吸っているわけではないからである」と言うが、煙草を吸わない者は、少なくとも筆者は喫煙者の健康など心配していない
 金原氏も「煙草が体にいいと思って吸っているわけではない」そうだし、金原氏を含めた喫煙者は肺癌なり、喫煙が引き起こす動脈硬化による数々の病気なりで勝手に死ねば良いと思っている。
 心配しているのは、煙草を吸わない者達まで受動喫煙させられる事に対してだ。
 受動喫煙の害は、今では医学的に異論の余地なく証明されている。
 煙草のフィルターにべったりと付着したヤニでわかるように、煙草の煙が体に良い筈が無い。そして筆者ら煙草を吸わない者は、喫煙者のせいで受動喫煙させられ、有毒な煙をフィルター無しにそのまま吸わされているのだ。
 金原氏を含む「煙草が体に良くなくても、わかって吸っているんだから放っておいて!」と言う喫煙者には、「ふざけるな!」と怒鳴りつけてやりたい。
 貴方が煙草で自分の健康を損なうのは勝手だが、周囲の他人の健康まで受動喫煙で巻き添えにするのは、本当に絶対に止めてもらいたい
 繰り返すが、煙草を吸うのが許されるのは、周囲に煙草を吸わない者がいない場所だけだ。

 喫煙者の健康を心配しているのではない、「受動喫煙で煙草を吸わない者の健康まで損なわないでくれ」というのが、今の日本の禁煙や分煙に対する動きなのだ。
 金原氏などの喫煙者は、くれぐれもそこを誤解しないでもらいたい。
 喫煙者が煙草を吸って自分の健康を損なうのは個人の勝手だが、煙草を吸わない他人にまで受動喫煙させる権利は、どの喫煙者にも無い筈だ。

 それにしても、「誰もが初めて煙草を吸った時、傍にあったであろう世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕したあの一瞬への繰り返される回帰なのだ」とは、あまりにも“トンデモ”な理論に恐れ入った。
 たかが煙草を吸うだけで、「自分を否定するセカイの力を凌駕」とか、少なくとも筆者は思いもしなかった。

 以前にも書いたが、筆者はかつて煙草を吸っていた。そして大学生のうちに、キッパリと禁煙して今に至る。
 その筆者が煙草を初めて吸った動機は、まず好奇心だ。それと「大人に見られたい」という背伸びだ。この二つ以外に、煙草を吸い始めた理由は全く無い。
 そして初めて煙草を吸った時には、ただ煙くて気持ち悪かった。
 セカイが自分を否定する力がどうのこうのなどと、全く頭を過ぎりもしなかった。
 また「全ての一服は過去へと、その最初の一服へと回帰していく」とも金原氏は言うが、筆者は煙草を吸っていた時に過去や最初の一服の事など、まるで思いもしなかった。

 だが金原氏は今もなお、煙草を吸うと過去に、「世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕したあの一瞬」に回帰すると言う。
 さらに金原氏は「初めて煙草を吸った時、傍にあったであろう世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕した」のを、“私は”ではなく“誰もが”と言う。
 本当に煙草を吸えば“誰もが”「自分を否定するセカイ」だの「それを凌駕するセカイを否定する力」だのと、セカイ系の中二病のちょっとヤバい感覚にとらわれてしまうのだろうか。
 少なくとも筆者の知る限り、煙草を吸う動機はたいてい好奇心と背伸びとカッコつけで、「セカイが自分を否定する」とか、「そのセカイを否定する力を得た!」とか言う者は誰もいなかった。

 それにしても、たかが煙草を吸っただけで「自分を否定するセカイを凌駕する力」を得たとか、安っぽいファンタジー系のライトノベル小説にも無いような発想と感性には恐れ入る
 そしてその中二病的な感性のお方が、日本では有名な人気作家として生きていられるのだから驚きだ。

 煙草を吸い、そして日常をニコチンに依存するまでに至ると。
 いつでも、どこでも煙草を吸わずにいられなくなり、そんな自分を正当化する為にありもしない日本の美点をデッチ上げたり、フランスの悪い点をさも良い所のように言ったり、他人に対する受動喫煙の害は無視して「健康への影響を問いただす必要もない。煙草が体にいいと思って吸っているわけではない」と居直ったり、果ては「セカイが自分を否定して、喫煙でそのセカイを凌駕する力を得た!」などと中二病そのものの妄想話を持ち出してきたり。
 有名な人気作家ですら、ニコチン中毒になるとこうなるのだという事が、3月7日の毎日新聞夕刊のコラムでよくわかった。
 喫煙とは、本当に恐ろしいものである。

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韓国以下の喫煙大国ニッポン

 筆者はこのブログで、ウイスキー等のお酒についてあれこれ書いている。
 しかしお酒は殆ど家で飲んでいて、自ら進んで店で飲む事は少ない。

 本当は、バーテンダーさんにウイスキー等についての話をいろいろ伺いながら飲んでみたいと、常日頃から思っているのだが。
 それでも筆者が実際にバーに足を運ぶことは、殆ど無い。

 バーに行きたい気持ちはあるし、バーテンダーさんと話もしたい。
 なのにバーに行かない理由は単純だ。
 日本にあるバーの殆どが、分煙どころか「全席喫煙可」だからだ。

 筆者の住む市にも約二十軒のバーがあり、筆者はその全てを調べてみたが、禁煙の店は一軒のみで、それ以外はすべて「全席喫煙可」だった。
 ウイスキーを豊富に置いてあり、かつウイスキー初心者歓迎という店ですら、全席喫煙可だ。
 そして唯一の禁煙のバーは、バーテンダーも女性で品揃えの大半がワインの、女性客を主なターゲットにした店だった。

 筆者は大学生の頃は煙草をかなり吸った。
 味や銘柄にもこだわり、濃く甘い煙の煙草をかなり愛した。
 しかし筆者は、大学を卒業する前に煙草をきっぱりと止めた。

 その筆者にとって、他人の煙草の煙を否応なしに吸わされる受動喫煙は、非常に不愉快である。
 だから分煙すらされておらず全席喫煙可で、他人の煙草の煙が立ちこめた飲食店に、自分のお金を出してまで受動喫煙しに行く気になど全くなれないのである。

 近年の五輪開催地では、健康の為にどこの国でも罰則付きの法律や条令で受動喫煙対策に取り組んでいる。
 だから日本の厚労省も2020年の東京五輪に向けて、飲食店を原則として屋内禁煙にし、一定の排煙性能を備えた喫煙室の設置を認める原案を公表した。
 すると飲食業界ばかりでなく、自民党の受動喫煙対策を検討する部会からも批判の嵐である。

 彼らの言い分はこうだ。
「零細な店がつぶれる」
「職業選択の自由を奪い、憲法違反だ」
「営業の自由に触れる」

 飲食業など16のサービス業でつくる全国生活衛生同業組合中央会などは、受動喫煙に対する規制を「弱いものいじめだ」とまで主張しているが、果たしてそれは事実だろうか。

 ここでまず、日本で煙草を製造している、煙草を吸わせたい側のJTが発表した、2016年の日本人の喫煙率について触れておこう。
 男性が29.7%女性が9.7%、そして男女併せて19.3%である。

 つまり煙草を吸う人は、日本人全体の二割に届かないという事だ。
 それを考えれば、喫煙可の飲食店も全体の二割もあれば充分ではないだろうか。
 外のお店によくお酒を飲みに行く人は主に男性である事を考えても、せいぜい三割で良い筈だ。
 しかし筆者が住む市の約二十軒のバーのうち、禁煙なのは僅か一軒で、残りは全て全席喫煙可だった。
 これが受動喫煙に対する、日本の飲食店の現状である。

 例の飲食業界などの全国生活衛生同業組合中央会は、受動喫煙に対する規制を「弱いものいじめだ」と言うが。
 しかし現実の飲食店では、「喫煙者による受動喫煙というイジメ」が広く放置(あるいは推奨)されているのである。

 自分はマナーを守って煙草を吸っていると自称する喫煙者は、「煙草を吸う時には、同席する人に吸って良いですかと断っている」と言う。
 だが見ず知らずの初対面で通りすがりの誰かならともなく、親しい人や上司や取引相手などに「吸って良いですか?」と聞かれてキッパリ「嫌です」と言える人が、果たしてどれだけいるだろうか

 筆者の従姉の夫は、とても良い人である。
 筆者より年長で、それなりに社会的地位のある人であるにもかかわらず、筆者に気を使って親切にして下さる。
 ただその筆者の従姉の夫は、喫煙者だ。
 昨年の法事で少し休もうと思った筆者が控え室に行ったところ、そこには先にその従姉の夫が居て煙草をふかしていた。
 煙草を止めている筆者にとって、その控え室にこもった煙草の煙はとても嫌だった。
 しかしその従姉の夫が良い人であるのがわかっているだけに、あからさまに嫌な顔をして出て行くわけにも行かず、少しだけ距離を取って世間話をした。

 そのような経験のある煙草を吸わない人は、かなり多いのではないだろうか。
 煙草の煙が不快でも、相手が良い人だとなかなか文句を言いづらい。
 相手が良い人でなくても、上司や取引相手などの利害関係のある相手の場合は、もっと文句を言いにくい。


 今、お酒を出す飲食店に行くと、まずどこの店でも煙草の煙がもうもうとしているが。
 それは一緒に飲むグループの中に何人か喫煙者がいるから、煙草を吸わない大半の者が我慢しているに過ぎない

 繰り返し言うが、日本人の喫煙者は19.3%、男性に限っても29.7%に過ぎない。
 つまり男同士の飲み仲間でも、三割の喫煙者が七割の煙草を吸わない者に受動喫煙を我慢させているというのが現実なのだ。

 特に女性は、喫煙率が9.7%である。
 にもかかわらず非喫煙者の女性を連れてバーや飲み屋に行き、平気で煙草を吸う男は馬鹿である。
 煙草を吸う貴方の姿を見て、女性がカッコイイなどと思っていると信じていたら大間違いだ。本心では嫌なのを、惚れた弱みで黙って我慢しているというのが現実である。
 一割に満たない煙草を吸う女性を除き、大半の女性は髪や服につく煙草の臭いをとても不快に思っているのだ。

 九州看護福祉大の川俣幹雄教授が、ネット調査会社に依頼し、10051人から得たアンケートの回答によると、全ての飲食店の禁煙に賛成する人は73.1%で、反対する人は僅か9.3%だったそうである。
 また、受動喫煙を不快に感じる人は82.2%で、他人の煙草の煙にさらされた場所の最多は飲食店(62.1%)、続いて路上(60.4%)だった。

 どうだろうか。
 これでも飲食店での喫煙を禁止すると「店が潰れる」と言えるだろうか。
 今では煙草を吸わない人、そして煙草の煙を不快に思う人の方が間違いなく多数なのだ。

 だから塩崎恭久厚労相も記者会見で、禁煙にすることで「売り上げが減るんじゃないかという心配があると思うが、売り上げは変わらないことが多い」、そして「受動喫煙がないことで店に行く人が増えることになる。五輪開催国で禁煙にしていない国はない」と発言している。
 まさにその通りである。
 店の経営者は「禁煙にすると経営が苦しくなる」と言う。そう言って煙草を自由に吸わせている貴方の店では、八割の煙草を吸わない者が、付き合いで嫌々喫煙者と同席しているのが実態なのだ。

 筆者も飲食店の煙草の煙を「付き合いで、仕方の無い場合のみ」我慢しているが、それは喫煙者が親しい人か、上司や取引相手などの利害関係のある相手の場合のみである。
 自分のお金を出してまで、無関係な他人の煙草の煙に満ちた店になど飲み食いしに行きたくでもないと心から思う。
 そう思うのは、筆者だけだろうか。

 煙草を吸わない者が今や八割以上で、82.2%の者が受動喫煙を不快に感じ、他人の煙草の煙にさらされる場所として最も多く挙げられたのが飲食店という調査結果を考えれば、禁煙にしたら店が潰れるどころか、塩崎厚労相も言う通りむしろ客が増えると考えるのが常識だろう。
 かく言う筆者も、禁煙のバーが増えたら是非行きたいと思っている。

 繰り返し言うが、今の日本の喫煙率はJTの発表でも二割を切っている。
 なのに何故「禁煙にすると、店が潰れる!」と信じ込んでいる業者が多いのか。
 それは喫煙者はニコチン中毒だから、煙草を吸えないとなるとヒステリックに騒ぐからだろう。
 それで業者は「店が潰れる!」と怯えて政治家に働きかけ、そして一律に原則屋内禁煙とする厚労省の方針がねじ曲げられ、例外規定がいろいろ作られようとしている。

 受動喫煙について議論する筈の自民党の部会ですら一律の規制に反対する人が多く、禁煙でなく「日本は分煙大国を目指すべきだ」という意見が多数なのだそうだ。
 ……分煙どころか、お酒を出す店の大半は全席喫煙可というのが日本の現状なのだが。
 その自民党の受動喫煙について議論する部会に出席している人は、大半が喫煙者ではないのかと疑いたくなってしまう。
 で、国際オリンピック委員会(IOC)が「煙草の無い五輪」を求めていて、リオでもロンドンでも屋内全面喫煙で、韓国の平昌ですら密閉の喫煙室を除いて屋内原則禁煙であるのにもかかわらず、東京は例外規定だらけの最も喫煙に優しい五輪開催地になりそうだ。

 筆者は思うのだが、煙草を吸わない者ももっと声を上げるべきではないだろうか。
 喫煙者が「煙草を吸わせろ、吸えないなら店に来ない!」とお店を脅すなら、煙草を吸わない者も「料理は美味しいし酒も良いが、煙草の煙が不快だからもうこの店には来ません」と、店にきっちりものを言うべきではないだろうか。
 受動喫煙したくない非喫煙者は、禁煙でなく分煙すらされていない店に文句を言わず、ただ黙って行かなくなるだけだ。
 だから飲食業者は、「煙草の煙を不快に思う人の方がずっと多い」という事実に気付かず、ニコチンの禁断症状に駆られてヒステリックに文句を言う喫煙者の声ばかりを聞いてしまうのだ。

 とは言うものの、喫煙者も二割(男性に限れば三割)存在するのも確かだし、その喫煙者の中には人間的に良い人がいるのも事実だ。
 そして喫煙者はよくこう言う、「お酒や脂肪や糖分など煙草以外にも体に悪いものはいろいろあるのに、なぜ煙草だけ悪く言われるのか?」と。
 酒、それに脂肪や糖分を多く含む食物は、摂取し過ぎても害が及ぶのは当人だけだ。しかし煙草は違う。煙草は煙が広がるから、周囲の人すべてに受動喫煙の害を与える
 だから喫煙は、ただ個人の嗜好の問題では済まされない。

 で、筆者は考えたのだが。
 自民党の受動喫煙を考える部会の人達が言うように、日本を本当に“分煙大国”にする気があるのなら。
 まず公共の屋内だけでなく路上も、原則禁煙にする。そしてその代わり、喫煙者の率に応じて今ある飲食店や喫茶店の五分の一程度を、喫煙者専用の“喫煙店”に指定したらどうだろうか。
 今では煙草を吸わない者が大多数なのにもかかわらず、禁煙の店は禁煙の表示をしている。
 そうではなく禁煙が原則で、むしろ煙草を吸える店の方が“喫煙店”の表示をすべきだと筆者は考える。
 今でも多くの飲食店では煙草を吸えるのが前提になっていて、きっちり分煙されているかどうかは中に入ってみないとわからない事が、この日本では多すぎる。
 喫煙者は「禁煙、禁煙とうるさくて窮屈だ」と感じているだろうが、煙草を吸わない者に言わせれば、飲食店でも路上でも、この国では他人の煙草の煙を否応なく吸わされて嫌な思いをする事が多すぎる

 かなりな酒飲みだって、仕事中には酒を飲まないだろう。
 夜まで待って、飲食店に行くか家に帰るかしてお酒を飲むのが普通だ。
 もし昼間から、仕事中にもお酒を飲むようになったら、アル中の廃人扱いされて「病院に行け!」と言われ、職場も首になりかねない。
 アフター・ファイブでも、道を歩きながら酒を飲んでいる者はかなり少ないし、いたらまず間違いなく廃人手前のアル中扱いされる。
 しかし煙草を吸う人達は、どうして他人に迷惑をかけずに喫煙できる時間と場所まで煙草を吸うのを我慢が出来ないのだろう。仕事中でも煙草を吸い、道を歩きながらも煙草を吸い、非喫煙者が周囲にいようがまるでお構いなしだ。
 煙草を吸わない者からすると、そうした喫煙者の行動は、専門の病院での治療が必要な依存症患者の異常行動に見える。

 煙草も法律で認められた嗜好品だから、「吸うのを止めろ、禁煙しろ!」と他人に強いるつもりは毛頭ない。
 ただ他人にまで自分の煙草の煙を吸わせるのは、絶対に止めて貰いたい
 しかし今の日本は政治家ら指導者が喫煙者なのか、受動喫煙に対する規制がザルでユルユルだ。
 喫煙者は二割に過ぎないのに、いかに喫煙が放置され、受動喫煙の害が無視されているのか、煙草の煙で充満する今の日本の飲食店の実態を見ればよくわかる。

 断言するが、少なくとも完全な分煙がされてない飲食店には、筆者は身銭を切って自ら行く事はしない。
 そう宣言する非喫煙者が増えれば、禁煙もしくは完全分煙の店がもっと増えるのではないだろうか。

 今の日本では飲食店でも屋外(路上)でも煙草は吸い放題で、煙草を吸わない者が受動喫煙から守られているのは、ごく一部の飲食店と限られた禁煙地域くらいだ。
 自民党の受動喫煙を考える部会の人達が、日本を本気で「煙草を吸う自由も守りつつ、吸わない者を受動喫煙から守る分煙大国」にするつもりがあるのなら、これは逆にすべきではないか。
 煙草を吸わぬ者が受動喫煙を強いられ、それを避けるには非喫煙者が禁煙のマークや表示がある場所を探さねばならない。これが今の日本の、喫煙に関する状況だ。
 そうではなく、飲食店であろうが路上であろうが屋内外を問わず公共の場所での喫煙は原則禁止とし、煙草は現在の日本人の喫煙率に応じた“喫煙可”の表示のある場所や店、および自宅でのみ吸うのが当たり前の国になって欲しいと、筆者は心から願う。

 喫煙は煙草を吸わぬ者に受動喫煙させ、不快な思いをさせるだけでなく他人の健康に害を与えている。
 にもかかわらず今の日本では、煙草を吸わない者が喫煙者に遠慮して、煙草の煙と受動喫煙を我慢しているのが現実だ。
 そうではなく、「煙草を吸う者の方が遠慮して、煙草を吸わぬ者が居る時くらい煙草を吸うのを我慢すべき」と考える筆者は、間違っているのだろうか。

 煙草を吸わぬ者が受動喫煙を避ける為に禁煙となっている場所や店を探すのではなく、煙草を吸う者の方が“喫煙可”の場所を探す。
 一日も早く日本がそういう国になって欲しいと、心から願う。

 冒頭でも触れた通り、筆者の住む市のバーで禁煙なのは、約二十軒のうち一軒(女性向けのワインバー)だけで、それ以外は全て全席喫煙可だ。
 その喫煙可のバーすべてに「禁煙にしろ!」などと言うつもりは無い。
 しかし日本人の喫煙率は19.3%で、男性に限っても29.7%なのだ。
 それを考えれば、七割のバーが禁煙もしくは分煙でもおかしくない筈だ。

「煙草を吸うお客様もおられますし、禁煙にしたら売り上げが落ちます」と言うバーの店主さまに、逆に問いたい。
 貴方のお店のお客様は、みな煙草を吸っているのだろうか?
 吸わないお客も、少なからず居るのではないだろうか。
 繰り返し言う、煙草を吸わない者は、付き合いで仕方なく同席者の煙草の煙を我慢しているのであって、決して「気にならない」わけでも「全然いやじゃない」わけでもない。
 禁煙にする事で、女性を含めた非喫煙者の新しいお客が貴方のお店に来る可能性にも、飲食店の経営者様は目を向けて欲しい。

 煙草の煙が嫌だから、筆者は喫茶店やレストランも含め禁煙もしくは完全な分煙のされていない飲食店には行かないし、ウイスキーが好きでバーテンダーさんの話も聞きたいくせにバーにも行かない。
 しかし断言するが、禁煙で、かつウイスキーの品揃えが良いバーが近くにあれば、筆者は間違いなく行く。
 日本人の八割は煙草を吸わない。
 そして筆者のように「禁煙なら行く」というお客も、少なからずいる筈だ。
 それとも酒を出す飲食店の経営者は、「酒を飲む人は、みな煙草も好んで吸う。煙草を吸わない人は、酒も飲まないお客にならない人達だ」とでも考えているのだろうか。

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稲田防衛相の発言に見る日本の政治の劣化

 時折、裁判の判決で世間の常識とはかけ離れた判決が出て驚かされることがある。
 だから裁判に一般国民も参加させる、裁判員制度が出来たのだが。
 法律家の常識と一般人の常識には、やはり見過ごせないズレがある事が、衆院予算委員会の稲田朋美防衛相の答弁でも明白になった。

 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊の昨年7月の日報に、南スーダン政府軍と反政府勢力との間で戦闘が生起したと記述されていた。
 その事について、稲田防衛相は「法的な意味での戦闘行為ではない。武力衝突だ」と説明した。
 その陸上自衛隊の日報によれば、その“戦闘”で政府軍と反政府勢力の双方合わせて150人の死傷者が発生した模様だという。
 稲田防衛相は、これを「戦闘行為ではなく、武力衝突だ」と言う。
 戦車が出動して双方に多数の死者が出るような、現地に駐屯していた各国のPKO部隊でさえ危険すぎて仲裁に入れなかった激しい戦いが、戦闘行為ではなく武力衝突だと言うのである。

 稲田防衛相によれば、現地に派遣された陸上自衛隊の日報にある“戦闘”という言葉は「一般的な辞書的な意味」であり、「法的意味ではない」と言う。
 戦闘の意味が、辞書にもある一般的な意味と法律による意味は違うのだと、筆者は初めて知った。

 稲田朋美防衛相という方は、軍事に関してはど素人だが法律のプロである。
 今では首相になった安倍晋三氏に誘われ、渡部昇一氏らに応援されて政治家になる以前には、稲田氏は弁護士であった。
 その稲田防衛相が、一般的な辞書的な意味と法的な意味では、戦闘の意味が違うのだと言う。
 稲田氏によれば、法的な意味で言う戦闘とは「国対国や、国と『国に準ずる組織』の間での武力紛争」なのだそうである。

 ならば、例えば明治十年の西南戦争について考えてみよう。
 これは中央での政争に敗れた西郷隆盛が、鹿児島の不平士族に擁されて起こした反乱だが。
 当時の鹿児島は独立国でもなければ、西郷らも国に準ずる組織を作り上げて日本という国と戦ったわけでもなかった。
 だから稲田防衛相の解釈に従えば、西南戦争は「法的な意味では戦闘ではない」という事になる
 熊本城の防衛戦も田原坂の戦いも、すべて戦闘でなく武力衝突で、西南戦争もこれからの歴史教科書では『西南武力衝突』と書き換えねば法的に整合性が取れなくなるだろう。

 ついでに言えば、幼い明治天皇を擁し錦旗を掲げた薩長軍が、大政を奉還した徳川慶喜が率いる幕府軍と戦った鳥羽伏見の戦いも、『鳥羽伏見の武力衝突』という事になる。
 まだ実質的に政権を取っていない薩長軍と、政権を奉還した形をとっている幕府軍との戦いは、稲田防衛相の言う「国対国や、国と『国に準ずる組織』の間での武力紛争」に該当していない。

 国対国や、国と『国に準ずる組織』の間での武力紛争以外は戦闘ではない。
 そんな事を言っていたら、源平合戦も南北朝の争乱も応仁の乱もすべて戦闘でなく、ただの武力衝突という事になってしまうではないか。

 我が国の憲法第九条に、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、そして「国の交戦権は、これを認めない」とある。
 だから稲田防衛相と現政権は、もし南スーダンに派遣された自衛隊が危険な目に遭っても、「これは単なる武力衝突であって、戦闘ではアリマセンし、国の交戦権を行使したわけでもアリマセン」と言い逃れるつもりなのだろう。

 危険な紛争地帯に、憲法に触れる可能性があるのにあえて自衛隊を派遣した。
 それを正当化する為に、戦闘の意味を「一般的な辞書的な意味と法的な意味は違う」などと詭弁を弄し、戦闘を武力衝突なのだと言い張る。
 筆者はアメリカの法廷を舞台にした映画で、辣腕の悪徳弁護士が手前勝手な法解釈をして、黒も白と言いくるめるシーンを時々見てきたが。
 衆院予算委員会で戦闘の意味解釈について自説を述べる稲田防衛相を、「さすがは黒も白と言い張る辣腕弁護士だ」と皮肉な思いで見た。

 しかしそれにしても。
 このような映画の悪徳弁護士顔負けの詭弁を弄する方が防衛相に任じられ、そして地元民にも支持され国会議員に選ばれている現実に、日本の政治がいかに劣化しているかを痛いほど見せつけられた。

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2月11日と建国記念の日について考える

 今日は、建国記念の日である。
 建国記念日でなく、建国記念日である。
 その違いに大きな意味があるらしい。

 まず前提として言っておくが、筆者は徹底した無神論者で、今までどんな宗教も信じたことは無い。
 キリストやアラーなどの著名な神だけでなく、皇祖神である天照大神とそれに連なる神々や日本の神話も信じていない。

 筆者の知人に、対人関係に悩み鬱病になってしまった人がいる。
 その知人は専門の病院に月に一度通いつつ、普段は普通の暮らしをしている。
 その知人が、先日、病院で少し怖い患者さんを見かけたそうだ。

 知人の通う病院の医師は治療に定評があり、待合室は診察を待つ患者でいつもいっぱいだ。
 で、その中に、年老いた母親に連れられた、中年に近い男性の患者が居たそうだ。
 知人によると、その患者は最初から様子が他の人とは違っていたそうだ。
 何もない宙を、じっと凝視し続けていて、その視線を動かさない。
 そしてやがて、そこに居る誰かに語りかけられてでもいるように、真剣な顔で何度も頷き始めた。

 妙だなと知人が思っていると、ついにその患者は声に出して返事もし始めた。
「はい、はい、そうです」

 その患者は何も無い宙の一点を凝視し、存在しない“誰か”との会話を続けた。
「はい、はい。いえ、今日は会社がありますから」
 そして更に、その患者は硬い表情でこんな事も言った。
「ここへ来ると、殺されると言われた」

 付き添っていた年老いた母親が、慌ててその患者の膝を叩いて注意した。
「夢よ、誰も居ないの!」
 するとその患者は頬を膨らませ、母親をキッと睨み返した。
「違う、居るんだよっ」
 そしてその患者は目を宙の一点に戻し、再び頷いて見えない誰かとの“会話”を始めた。

 冷静な傍の者には何も見えないし、何も聞こえない。
 しかしその当人には確かに見えて、確かに聞こえている。
 神とか神の声とか宗教とは、そのようなものであろうと筆者は考えている。

 目にも見えず耳にも聞こえないものを、「見えた、聞こえた」と信じられるかどうか。
 それが神や宗教を信じられるかどうかの境目であろうと筆者は思う。
 で、筆者は「天照大神が存在し、その子孫が天から降りて来て日本を統治した」などとはとても信じられないし、自ら人間宣言をした筈の「天皇の祖先が神である」だのという戯言も全く信じられない。

 そこで、話は今日の“建国記念の日”に戻る。
 なぜ今日が、建国記念の日なのか
 それは大和朝廷が自らの政権の正当性を主張する為に書かせた日本書紀に、史実でも何でもない神話に基づいて、初代天皇の神武天皇が即位した日が2月11日だと書かれているからだ。
 ちなみに神武天皇は神話にだけ存在する架空の天皇で、神武天皇が存在した証拠は全く無いし、その存在を肯定するまともな歴史学者は誰もいない。
 その架空の天皇が即位したとされる神話上の日が、我が日本国の建国の日とされているのである。

 確かに日本には、確実な証拠に基づいて、いつ建国したと言い切れる日は存在しない。
 だから神話に基づいてでも、2月11日にするしかないとも考えられるが。
 ただ物事は、そう簡単なものではない。

 維新を成し遂げ、「封建的な江戸幕府を打ち破って文明開化を進めた」事になっている明治政府は、実は天皇を神とする祭政一致の政治を押し進めた。
 そしてその一環として神話は事実(史実)とされ、例の2月11日が紀元節、建国祭の日として定められた

 皆さんは、四大節をご存知だろうか。
 天皇が神で、日本が大日本帝国だった時代には、元日である四方拝と、天皇誕生日である天長節と、明治天皇の誕生日の明治節、それに例の2月11日の紀元節が四大節と呼ばれ、祝祭日にされていた。
 だから祝祭日とは言え、ただ仕事や学校を休んで遊んでいて良いというものでは無い。
 実際にその時代を生きた人に聞いた話なのだが、子供らはその四大節の日には登校し、校長等の訓辞を聞き、御真影(天皇の写真)を拝んだり歌を唄わされたりしたという。
 2月11日の紀元節は、祭政一致で天皇が神であった時代の重要な祝祭日の一つだったのだ。

 その「天皇は神である」とする大日本帝国の祭政一致の時代の、神話に基づく重要な祝日である紀元節(建国祭)が、天皇自ら人間宣言をして国民主権の国家になった今も“建国記念の日”とされている事に何の違和感も持たない方がいるとしたら、政治的によほど鈍感な人か、今も天皇を神と信じる極右の国家神道の信者のどちらかであろう。

 だから紀元節(建国祭)は、戦後に廃止された。
 しかし皇祖神である天照大神を祀る神社本庁や、自民党や、日本が天皇統治の神国であった時代が恋しい右翼勢力が運動を繰り返して、1966年についに建国記念の日として蘇らせてしまった。

 ちなみに元日と天皇誕生日は祝祭日だし、11月3日の明治節に至っては“文化の日”として祭日になっている。
 つまり天皇が神であった祭政一致の大日本帝国の四大節は、今の世にすべて蘇っているという事だ。

 戦後、昭和天皇は人間宣言をされた。
 常識的に考えれば、そこで天皇は神ではないし、日本書紀や古事記等に書かれている国生みの物語や天孫降臨などの神話も史実とは違う事が誰の目にも明らかになった筈だ。
 しかし神社本庁や右翼勢力の見解によれば、「昭和天皇は神である事を否定されたが、神の子孫である事は否定されていない」そうである。
 ……神の子孫だが神ではなく人間って、いったい何なのだろう。
 それでか極右の論客は、天皇の存在について「神ならず、人ならず」などと、わけのわからない事を言い出す始末だ。

 今もなお大日本帝国の時代の国家神道を信奉して、神話を史実と信じ、天皇も神の子孫と信じている人が多くいる。
 それどころか、あの日本が引き起こした愚かで悲惨な戦争の記憶が薄れ、その時代を直に知る人が激減するにつれ、卑小な自分の自尊心を満たす為に愛国心に縋りつき、「日本は素晴らしい神の国、日本は悪くないし侵略などしていない、大日本帝国は良かった!」と信じたい“右”の人が逆に増えて行く始末だ。

 2月11日を建国の日だと言い張る人達は、「日本書紀という歴史書に書いてあるからフィクションでなく真実だ!」と言い張る。
 右の人達に言わせれば、日本書紀は日本という国が書き上げた最古の正史で、現在の天皇もこの「正史」によって正統性が保証されているのだそうだ。
 そして「日本国憲法第一条に『主権の存する日本国民の総意に基づく』とあるから、日本書紀も正統性が主権の存する日本国民にも認められていて、決して出鱈目でない」のだそうだ。
 賢明な読者の皆さん、右の人達の言うこの論理の筋が理解できるだろうか?

 さらに右の人達によれば、「建国記念の日の正当性を否定する=日本の象徴である天皇を否定する=天皇の正統性を現す日本書紀を否定する=日本国そのものの正統性を否定する事になる」などと、まるで筋の通らない滅茶苦茶な事を言う。
 で、最後に右翼のお決まりのあの捨て台詞、「日本の正統性すら否定するほど日本がお嫌いなら、どうぞどこかお好きな国に移住すればいい」という言葉が出て来る。

 この種の右の人達は、本当に愚かだ。
 右翼は日本書紀が日本最古の正史で、だから書かれている事は神話も含めてすべて真実だと言い張る。
 だが歴史書というものは、当時のその国の政府の正当性を主張する為に、勝者(政権にある側)に都合良く書き換えられている事は、歴史を少しでも学んでいる者なら誰でも知っている事だ。
 あの大日本帝国の歴史教科書にどれだけ嘘偽りがあり、戦後にどれだけ墨で塗り潰されたか、右の人達は理解しているのだろうか。

 日本書紀について言えば、あれは「当時の大和朝廷の正当性を主張する為に神話や偽りも混ぜて書かれたもの」であって、決して日本という国の正しい歴史そのものではない事は、まともな歴史家なら誰でも知っている事だ。
 歴史学という概念も、思想信条や表現の自由も無い時代に、史実と神話をこき混ぜにして、朝廷の為に政権ベッタリの立場で書かれた日本書紀を「そのまま真実」と受け取るなど、頭がオカシイとしか言いようがない。
 日本書紀をすべて真実、神話も真実と言い張るのは、今もまだ天皇を神と信じ、戦前戦中の国家神道を信奉している極右だけだ。

 日本だけでなく、ギリシャやローマなど歴史の古い国はそれぞれ神話を持っている。
 だが韓国を除く多くの国は、神話と史実は区別して考えている。
 例えばローマは、神話ではロムルスとレムスが建国し、後に天に上がってクイリヌスという神になったとされている。
 だがそれが史実で、ロムルスとレムスが実在したと信じる者など、今のローマには殆どいない。
 しかし日本では、神話を創った天皇が神を名乗り、そしてそのまま代を重ねて現在に至ってしまった
 だから今もなお「神話は史実で、天皇は神話の神の子孫だ」と本気で信じる、言わば天皇教の信者が大勢いて、この国の政治すら動かしている始末だ。

 文明開化した筈の明治政府は祭政一致の政治を行い、天皇の神格化を徹底的に押し進めた。
 例の治安維持法の成立後には、「天皇以外の存在を神として信仰している」という理由で、キリスト教徒まで特高警察が逮捕して、酷い拷問に遭わせる始末だった。
 そのようにして、大日本帝国は「天皇は神だ! 神話は史実だ!」と国民を恐怖と洗脳で教育した。
 そんな社会で特別な地位にあった神社が、かつての国家神道の時代に恋いこがれてこの国を大日本帝国の昔に戻そうと動いている。
 安倍首相の念願である憲法“改正”を、天照大神を祀る伊勢神宮や明治神宮や神社本庁などが後押しし、初詣に訪れた参拝客に憲法改正の署名を求める神社が幾つもあるのも、その動きの一つだ。

 宗教を信じる者は、物事を事実と理性で考える者にとってとても困った存在だ。
 何しろ“信者”は冷静な傍の者の目には見えず、声も聞こえない架空の神の存在を現実のものと信じ切っているのだから。
 物事を事実と理性で考える者が、神と宗教を信じる者と会話(議論)をするのは、冒頭で述べた筆者の知人が病院で見た、幻覚が見え幻聴が聞こえる人と会話しようと試みるのに似ている。
 そして日本の右の人達にとっては日本は今も神国で、天皇はその頂点に立つべき神なのである。

 さらにその信仰が高じて狂信に至ると、自らの神の言葉さえ耳に入らなくなる。
 例えば今上天皇自ら、「国旗や君が代は強制でないのが望ましい」とおっしゃられたのに。
 しかし現実には、教育現場で国旗と君が代の強制が強力に押し進められている。
 この2月11日を建国記念の日にする事についても、昭和天皇の実弟であられる三笠宮さまも歴史学的な見地から反対されていた。
 しかし天皇を神とする大日本帝国が定めた、神話に基づく紀元説(建国祭)の日が、そのまま建国記念の日となっている。
 天皇陛下や皇族の方でさえ同意されていない大日本帝国の時代への逆戻りが、神社本庁や日本会議などを中心とする右の勢力の力で押し進められているのが現実だ。
 例の「日本書紀は正史で神武天皇も存在して2月11日に即位したのも真実で、それを否定する者は日本から出て行くべき」と考える右の人達は、三笠宮さまも日本から出て行くべきだったと考えているのだろうか。

 冒頭で述べた通り、筆者は無神論者だ。
 ただ信仰を持つ者に、「神など信じるな!」と強要するつもりはない。
「鰯の頭でも何でも、信じたければ勝手にどうぞ。ただその信仰を、他人にまで押しつけないでくれ!」というのが、筆者の宗教に対する姿勢だ。

 しかし自分の信じる神を周囲の皆にも信じるよう強要したくなるのが、宗教というものの本質らしい。
 何しろ神は、信者にとっては何よりも素晴らしいものだから。
 その自分の神を信じない者は、信者にとっては「自分を否定する鬼で悪魔で劣った存在」なのだ。

 で、日本の“天皇教”の信者達は「天皇や神話を否定するのは、日本を否定する事だ」と考えるだけでなく、自分をも否定されたように感じ、天皇の神格化や戦前回帰に反対する者を敵視して、「日本を出て行け!」と罵声を浴びせる。
 少なくとも今の日本は自由な国民主権の国の筈だが、右の人はそんな日本が嫌いで、この国をもう一度祭政一致で国家神道の、天皇を中心とした神の国にしたいらしい。そしてその邪魔になる人達には、「日本を出て行け!」と。

 日本の右の人達は、神話や伝説をも史実とする韓国の歴史を「フィクションだ!」と嘲笑するくせに。
 なのに自分達の国の神話はフィクションではなく、正史なのだと言い張る。

 同じ日本人として、日本の右翼の愚かさには呆れ果てる。「韓国の神話や伝説はフィクションだが、日本の神話や伝説は真実の歴史だ」とか、どうしたらそのような手前勝手な屁理屈がこねられるのか。
 韓国人の自国の歴史に対する態度をあざ笑う前に、まず「人のふり見て我がふり直せ」と言いたい。

 で、「2月11日が建国の日」というのは、明らかにフィクションだが。
 しかし「この日本という国は、いつ建国したか?」と言うと、「わからない」というしかないのが現実だ。
 日本にはまず各地に縄文人が住んでいたが、人口は少なかったし、ばらばらで統一もされていなかった。それを大陸から渡来した人々が征服し、まとめて一つにしたのだが、それが何年何月何日という確かな時は無い。
 大和朝廷が成立した後も、北には蝦夷が、南には熊襲や隼人がいた。
 朝廷の勢力が本州の北端に及ぶようになったのですら、平安時代もかなり終わり頃になってからだ。
 だから「日本の建国記念日は、いつがふさわしいか?」という問題は、甚だ難しい。

 右の「天皇陛下や昔の日本バンザイ!」的な思考を嫌う左の人達の中には、戦後に今の民主的な新憲法が制定された日や、サンフランシスコ講和条約が調印または発効して日本が再生した日などを挙げる人もいるが。
 しかし「紀元二千六百何十年」という話はデタラメのフィクションだが、少なくとも天皇を中心とする勢力が日本の大半を制圧して千五百年以上経つのは事実だ。
 第二次世界大戦に負けようが、そのずっと以前から日本という国が存在したのは、誰にも否定できない事実だ。

 では、何月何日が日本の建国の日にふさわしい?
 正直に言って、筆者にも「よくわからない」というのが本音だ。
 だから「日本書紀や神話に書かれている神武天皇即位の日を史実と信じて、積極的に」ではなく、大半の人は「他に適当な日が無いから、とりあえず」という感じで、戦前からの2月11日を建国記念の日と認めているのではないだろうか。

 右の人達は天皇の祖先は神であり神話は真実で、その「日本の象徴である天皇を否定するのは、日本国そのものを否定する事だ」と言う。
 しかし今の日本は天皇主権で祭政一致の神国ではなく、思想や信仰の自由が認められている国の筈ではないか。
 天皇を神と認めない日本人や天皇制に反対の日本人が居ても当然良い筈で、誰も「日本から出て行け!」などと罵る権利など無い筈だ。

 現代の治安維持法とも言われるテロ等準備罪の成立に向け、安倍政権が力を入れているが。
 かつての治安維持法で、キリスト教徒が「天皇を神として拝まない」という理由で特高警察に逮捕されて酷い拷問を受けたように。
 神社本庁ら天皇を神としたい勢力の圧力で、天皇を神や神の末裔と認めなかったり、神話を史実と認めない者が同じように国家の敵として迫害される日が来ないよう、この建国記念の日に強く願う。
 何しろ今でさえ、日本書紀などの神話を史実と認めないだけで、右の人達から「日本から出て行け!」と罵られるのだから。

 誤解して欲しくないが、筆者は天皇制に反対しているのでも、天皇に敵意を持っているわけでもない。
 ただ無神論者の筆者は、天皇を同じ人間の、日本国のエンペラーとして見ていて、現人神であるとか祖先は神であるとかの、宗教や神話が絡む問題には一切否定的なだけだ。
 天皇も同じ人間で、だから今上天皇をはじめ尊敬できる素晴らしい方が幾人もおられた反面、我欲が強かったり残虐だったりする悪い天皇もまた幾人もいた史実も、大学で国史を専攻して知っている。
 しかし日本の少なからぬ右の者にとっては、神話は史実で、神である天皇は無謬なのだ。

 無神論者で、感情や信念でなく事実をもとに物事を考える筆者としては、祭政一致で神道が国教で天皇が神だった時代の四大節の一つである、神話による紀元説がそのまま建国記念の日とされている現状が非常につらい。
 今日のこの日が、なぜ“建国記念日”でなく“建国記念の日”なのか。この“”の字に、「神話に基づく2月11日という日が史実かどうかにかかわらず、とにかく建国という事実を祝おう」という気持ちが込められているのだと言う。
 しかし現実には、格差が大きくなり不満を持つ者が“叩くべき敵”を求めている今日の日本で、「神話は史実だ!」と強弁する神社本庁や右の人達が勢力を増し、神話は史実と違うと言うだけで「日本から出て行け!」と罵られている。

 客観的には見えないものが見え、聞こえないものも聞こえてしまう“信者たち”に、事実と論理に基づいた理性的な話は通じない。
 事実が無視され個人の信念や感情で物事が判断される今日、まともな話が通じない人が非常に増えつつあるように思える。
 我が国の神話は史実で、皇祖は天照大神で天皇も神、そして戦前の時代は社会の統制がピシッと取れていて良かった。そう信じている右の人達にいくら理をもって事実を説いても「日本から出て行け!」と罵声を浴びせられるだけだ。

 ネットの時代の今は、自分の見解に合うニュースや自分と同じ意見だけ検索する人が多いと聞く。
 しかし筆者はただ自分の意見を主張するだけでなく、反対の考えの人の意見も聞いてみたいと思う。
 で、この建国記念の日についても、いろいろな立場の人の意見を聞いてみようと思った。
 まず、天皇は神だと教え込まれていた時代に神話によって制定された、戦前の紀元節と全く同じ2月11日で良いものか。
 そしてもし変えるならば、長い歴史を持ち、かつ今は自由な民主主義国家であるこの国に、建国の日としてどんな日がふさわしいか。
 この二点について、いろいろな立場の意見を検索してみたのだが。

 ……まるで話にならなかった。
 そこには、事実でない神話に基づいた今の建国記念の日に疑問を持つ人を、非論理的な感情論と個人的な信念で罵倒する、日本の神話をそのまま史実と受け取り天皇を神の子孫と信じる極右の人達の声に満ち溢れていた。
 ネットにはいわゆるネトウヨが多いと言われているが、「これほどまでか!」と呆れるほどだった。

 同じ日本語を話す同じ日本人なのに、天皇を神と崇拝して天皇が国の元首であった時代を理想とする右の人とは、本当に話が通じない。
 彼らには、どんな論理も史実も歴史学の初歩の常識も通用しない。
 ただ“神国日本”の神話は史実で、天皇はそのありがたい神さまの子孫で日本人の大親様と信じ、それがわからない者は日本から出て行け……と知性に欠ける荒い言葉で吠えたてるだけだ。
 そこにいるのは、当人が信じる大切な神さまと神話を認めない人は絶対に許さない、知性に欠ける言葉の通じない狂信者たちだった。
 おそらくその日本の右の人達は、普通の常識のある人達とは目に映るものも耳に入る言葉もまるで違っているのだろう。

 本当は今日の“建国記念の日”を機に、あるべき建国記念の日について事実や史実に基づき論理的かつ理性的な議論がしたかったのだが。
 ネットで検索する限り今の日本ではそれは無理で、右の人達が信じる神話に疑問を持つだけで、「日本から出て行け!」などと罵倒されるだけと、よくわかった。
 安倍政権の支持率が高い理由もよくわかったし、そんな日本の現状を寂しく思う。

 と書くと、どうせすぐ「日本から出て行け!」と言われるのだろうな。

 しかし日本の右の人には日本語が通じない事は承知の上で、あえて言っておく。
 今の日本は、右の方々が憲法を変えて(改正とはあえて言わない)戻したい、国民皆が天皇を神の子孫wwwwwと信じる天皇主権で祭政一致の大日本帝国ではないのだ。
 この思想と言論の自由のある今の日本では、「天皇は神の子孫ではなく我らと同じ人で、神話はフィクションだ!」と言う権利もあるし、そんな筆者も立派な日本人であり、この国から追い出す権利など誰にも無いのだ。
 それが理解できない右の人こそ、タイムマシンでも開発して大好きな大日本帝国の時代にでも、天皇親政の古代にでも行けばよい。

 筆者は人の声に敏感で、大声を出す人や、がさつな喋り方をする人は大の苦手だ。
 だから今のNHKテレビ小説『べっぴんさん』は、筆者の毎日の苦痛になっている。
 別にストーリーにも役者さんにも文句はないのだが、主題歌が筆者にはとても聞き苦しい。
 大勢いるファンの方々には大変申し訳ないのだが、あの妙にねちっこいだみ声が、人の声に敏感すぎるらしい筆者には、聞いていてとても苦痛なのだ。
 で、「ミスチル、声、嫌い」でググってみると、筆者と同じように嫌いという声が案外多かった。

 しかし筆者はそれで安心せず、「ミスチル、好き」でも検索してみた。
 するとミスチルの歌詞の素晴らしさを褒める声が多くあった。
 で、『べっぴんさん』の主題歌を、声ではなく歌詞に重点をおいて聞き直してみた結果、個人的に好きにはならないものの、ミスチルにファンが多くいる理由も理解できた。
 そのように筆者は、反対意見や嫌いなものの中にも良い点がないか、とりあえずチェックするようにしている。

 だが日本の右翼についてだけは、彼らの言い分を聞けば聞くほど「間違っている」という確信と嫌悪感が深まる一方だった。
 天皇は神の子孫で神話も史実、そしてあの戦争は正しい戦争だったと言い張る彼らの、自己の思想に対する狂信と独善の酷さは呆れるばかりで、とても同じ人間とは思えなかった。
 事実を見ず異論に耳を傾けず、ただ自分達の脳内にある“見たいもの”と“聞きたい言葉”だけで世界を構築している。
 知人が病院で見た、現実を否定し他人には見えないものを見て他人には聞こえない声を聞く患者さんと何も変わらないようだ、今の日本の右翼は。

 今の若い右翼やネトウヨと呼ばれる人達は、次の言葉をじっくりと読んでほしい。

 日本は常に正しい道を歩いてきたのだろうか。過去を振り返ればアジアの国に弁解できないことをしたのではなかったか。そうした過ちも直視し、それでもこの国がいとおしいと思う気持ちが愛国心だと思う。威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心ではないはずだ。


 この言葉は日本の右翼の大物である一水会顧問鈴木邦夫氏が、2013年6月21日に毎日新聞の記者に語った言葉だ。
 このように過去を振り返り、感情より事実を重んじて、自分の過ちも直視して黒を白と言い張らない知性と理性のある右翼が、今の神社本庁や日本会議などの右の勢力に存在するだろうか。
 例えば靖国神社の遊就館の戦争観を見れば、今の日本の右の勢力がいかに事実と史実から目を逸らし、見たいものだけを見て聞きたいものだけを聞き、世界に通用しないひどい理屈で黒を白と強弁しているかがよくわかる。
 過去は振り返らず過ちは故意に見ず、威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心と思う者ばかりなのが、今の日本の右翼だ。
 そしてその日本会議と神社本庁が、安倍政権を支えて日本を動かしている。

 建国記念の日でありながら、「神話に基づく架空の初代天皇が即位したフィクションの日が、戦前の紀元節のまま建国記念の日になってもいいの?」という疑問を口にするだけで、「日本から出て行け!」と罵声を浴びせられる。
 その現状を、大学で歴史を学んでいた頃に同級生達から右翼のレッテルを貼られていた者として心から憂う。

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【長文】南京大虐殺と朝鮮人従軍慰安婦の問題について考えてみた

 何か議論をしたり、新聞や雑誌等の記事を読んだりする時、筆者は「……と思いたい」と言ったり書いたりする人の意見は全く信用しないことにしている。
 何故なら「……と思いたい」と言ったり書いたりする人は、事実をもとに物事を判断するのではなく、自分の願望を優先して物事を見ているからだ。

 しかし残念ながら、事実から目をそむけて自分の願望のみに従って物事を判断する人が非常に多い。
 と言うより、その種の自分の感情最優先の人が増えているのが現実だ。
 そして今、ポスト・トゥルースと呼ばれる、物事が感情や個人的な信念で判断され、事実は無視される状態に世界が陥っている。

 例えば隣同士である日中韓の三国も、このポスト・トゥルースの、事実より感情を優先する思考によっていがみ合っている。
 例えば中国人も含めた観光客を迎えるのが仕事である筈の、ホテルを経営するアパグループが、自社のホテルの全客室に、グループの代表者が書いた南京大虐殺を否定する書籍を置いた。
 その全ての中国人に喧嘩を売るような行為も、現在の「事実より感情や個人的な信念が優先される」状況の一例だろう。

 ホテルの全客室に南京大虐殺を否定する書籍を置く行為の意味がわからなければ、「アメリカのホテルチェーンの全客室に、『広島と長崎への原爆投下は正しく、戦争を早く終わらせ多くのアメリカ人と日本人の命を救った』という趣旨の書籍が置かれている状況」を想像してみればいい。
 日本人ならば当然腹が立つし、「そんなホテルになど、絶対に泊まるものか!」と思うのではないか。
 広島と長崎への原爆投下は間違った行為だと、少なくとも日本では殆どの者が思っている。原爆を投下した責任者が、戦争犯罪人として裁かれない事に不満を持つ者も少なくないのではないか。
 しかしアメリカでは、「原爆投下は正当で、戦争を早く終わらせ、多くのアメリカ人だけでなく日本人の命をも救った」と信じている者が多くいるのが現実だ。

 同様に、南京大虐殺もある種の思想信条を持った日本人達にとっては「中国によるデッチ上げ」だが、被害に遭った中国人にとっては「日本軍の残虐行為の象徴」なのだ。
 南京大虐殺については、日本人の間でも意見がわかれていて、「無かった」と信じる者だけでなく、「あった」と思っている者も多数いる。
 にもかかわらず、日本人の学者でも意見がいろいろある南京大虐殺について、「無かった」という立場の書籍のみを全客室に置くアパグループの行為は、極右で自称愛国者の日本人を間違いなく喜ばせるだろう。しかし同時に、その行為はただ中国人を怒らせるだけでなく、感情や信念より事実に基づいて物事を判断する理性的な日本人をはじめとする、多くの人を不快にさせた。

 と書くと、必ず「オマエは日本人のくせに、日本を悪く言うのか!」と怒り出す人が出て来るだろう。
 そこなのだ。
 日本が好きなあまり、日本は素晴らしい国で間違った事などしていないと思いたいあまり、日本の非を認めるのは絶対に許さない。そして黒を白と言い張るような、傍から見れば見苦しく愚かしい言動に走る。
 これぞ、事実を二の次にして感情や信念で判断する、ポスト・トゥルースの今の時代の日本の現状であろう。

 北九州の第124連隊の一兵士で、中国、ガダルカナル島、そしてインパールと転戦した高崎伝氏の『最悪の戦場に奇跡はなかった』という戦記が、光人社NF文庫から出版されている。
 極右の人達が英雄視する“皇軍”が戦場でいかに戦ったか、その現実がリアルに書かれているので、戦争を知らない世代、特に百田尚樹氏の小説などを読んで「日本軍、カッコいい!」などと思っている方は、特にご一読願いたい。

 その『最悪の戦場に奇跡はなかった』の初めの方に、「敵地では老若男女の区別なく少しでもおかしい奴と見ればバッサリ、チョン斬っていた」と書いてある。
 その高崎伝氏の部隊では、氏の知る限り、一人の捕虜もとらなかった(つまり投降した者もみな殺した)と言う。
 その著書の中では、捕らえたアメリカ軍のパイロットに酷い拷問をして、殺害した上に死体を皆で食ってしまった事も書いてある。
 今、一部の右寄りの人達が美化して考えている“皇軍”の実態が、これなのである。

 また、問題の“南京大虐殺”に至った南京攻略は、日本の政府や軍の総司令部の許可を得て行ったものではなく、現地の関東軍の独断によるものだった。
 だから予算もつかず、弾薬や食料等も今ある分だけで戦わねばならなかった。
 日本軍には元々補給を軽視し、補給を担当する輜重兵を「兵隊の内に入らない」と馬鹿にする傾向があった。何しろ作戦行動に出る時にも、最初に二十キロ程度の米を各自に持たせ、「後は現地調達せよ」というような事が多かった。

 その日本軍の関東軍が、政府や軍中央の許可のないまま、手持ちの食料のみで南京まで進撃して攻め落としたのだ。
 捕虜はとらない(殺す)。
 老若男女を問わず、少しでも怪しいと見た者も殺す。
 物資は足りなくなれば現地調達。

 それを考えたら、現地で日本軍がどんな暴虐ぶりを示したか、容易に想像できるというものだ。

「日本軍の軍紀は世界一厳しいから、虐殺とかあり得ない」と言い張る人達がいるが。
 では日中戦争でどれだけの中国兵を捕らえ、そしてその捕虜をどう扱ったのか、具体的に教えていただきたいものだ。
 少なくともアメリカ兵やイギリス兵の捕虜は、日本などにある程度の数は収容されていた。
 しかし連戦連勝を重ねていた筈の中国戦線で、日本軍は捕らえた捕虜をどう処遇していたのだろうか。
 日本軍は、投降した中国兵を殆ど殺していた。
 そう考えねば、日本軍が捕らえた中国兵の捕虜をどこにどう収容したかの記録が少なすぎる理由の説明がつかない。
 例の『地獄の戦場に奇跡はなかった』を書いた高崎伝氏は、捕虜は一人もとらなかった(すべて殺した)と述べているし、怪しい者は老若男女関係なく殺したとも言っている。
 つまり日本軍は中国で、投降した捕虜だけでなく民間人も殺したということだ。

 日本の極右の人達は、日中戦争も「中国が仕掛けたものだ」と言い張っているが。
 しかし中国の指導者の意図はどうあれ、一般の中国人にとって攻め込んで来た日本兵は、間違いなく敵国の侵略者である。

 戦争で敵国に攻め込んだ場合、問題になるのがそこの民間人にどう対処するかである。
 戦争を仕掛けたのがどちらにせよ、中国に住む中国人にとって日本兵は敵の侵略者である。
 そして民間人に、敵の侵略者に従う義務はあるのだろうか?
 憎い侵略者と戦おうと思う者は、民間人にも少なくない。
 だからドイツ軍もフランスではレジスタンスに、ロシアや旧ユーゴスラビアではパルチザンに苦慮した。ベトナム戦争でも、アメリカ軍は民間人の中に紛れて抵抗を続けるベトコンに手を焼いた。

 敵国に侵略された場合、その国の軍人だけでなく民間人もまた抵抗勢力となり、侵略者に対しテロ活動を続ける。
 そしてまた、戦いに敗れた兵士が軍服を脱いで民間人の中に紛れてしまえば、兵士と民間人の区別はまずつかない。
 だから敵国に攻め込んだ場合、軍服を脱いで抵抗を続ける兵士や侵略者と戦いたい民間人と、戦う気の無い一般の民間人の区別がつかないのが現実だ。
 当時の中国にも、便衣隊といって、民間人の服を着て抵抗運動をするグループが多く出現した。
 で、猜疑心のあまり、罪の無い民間人まで殺してしまうことになる。
「老若男女の区別なく少しでもおかしい奴と見ればバッサリ、チョン斬っていた」と著書に書いた、元日本軍兵士の高崎伝氏のように。
 そして罪の無い民間人を殺せば殺すほど、その侵略軍は現地の人達により憎まれ、抵抗運動をより盛んにするという悪循環に陥る。

 話は少し飛ぶが、防壁に守られた都市や砦を攻略するのは大変だ。安全な物陰や銃眼から撃ってくる弾に身をさらして、防壁に突撃して行くのだから。
 当然、攻める方は多くの死傷者を出すことになる。
 だから攻める側の兵は、守っている兵を強く憎むことになる。
 例えばノルマンディー上陸作戦でも、海岸のトーチカから散々に撃たれて多数の死傷者を出した米英軍は、投降したドイツ兵をその場で射殺したりした。
 アメリカやイギリスの兵隊でさえ、そのような行為に及ぶ事もあったのだ。「捕虜になるな」と教えられ、また捕虜を殺すのも当たり前だった日本軍が南京城を攻め落とした後、敗れた敵兵や南京の市民に紳士的に振る舞ったなどと思えるだろうか。

 南京大虐殺と言われている事件について、まとめて考えてみよう。
 まず前提として、日本軍は中国兵の捕虜をとらなかった(殺した)。
 そして便衣隊という民間人の服を着て破壊工作をする中国人もいた。
 だから日本軍は、中国人の民間人も少しでも怪しいと思えば老若男女関係なく殺した。
 また南京城攻略直後は、日本軍の兵士たちも気が立っていた。
 さらにそもそも南京攻略は、政府や軍中央の許可のない現地軍の独走だから、食料等の補給も不十分であった。
 それらを考えれば、南京大虐殺は「あった」と考えるのが自然ではないだろうか。
 事実、南京に住んでいたドイツ人が、日本軍の虐殺行為を報告している。
 さらに日本人にも、「付近の川が、中国人の死体で埋まっていた」と証言している人がいる。

 南京大虐殺を否定する日本の右翼の人達は、中国があげている20万人以上という被害者数を理由に、「南京大虐殺などデッチ上げだ、無かったんだ!」と主張する。
 当時、南京市内には20万人もおらず、中国側の言う被害者の数は南京の人口を超えているそうだ。
 南京で日本軍に殺されたと言われている人の数が、当時の南京市の人口より多い。
 それは確かにおかしい。

 話はまた少しそれるが、「東京」と言った時、皆さんはどこを想像するだろうか。
 23区内だろうか、周辺の市も加えた都市圏だろうか、それとも奥多摩まで含めた東京都すべてだろうか。
 中国の南京もそれと同じで、中国では南京城内だけでなく、その周辺部のかなり広い範囲を“南京”と呼んでいるそうだ。
 つまり南京大虐殺を「無かった」と主張する日本の右翼は市内の人口だけを問題にしているのに対し、中国側は南京市の周辺を広く“南京”として、殺された者の数を最大限まで多く見積もっているわけだ。

 また、アパグループの代表などの、南京大虐殺を「無かった」と主張する日本の右翼は、南京市内の市民の人口だけを問題にしているが、中国軍の兵士はその人口のうちには入っていない
 中国戦線で、日本軍は基本的に捕虜を生かしておかなかった。
 そして南京でも市民だけでなく、日本軍は戦意を無くして投降した捕虜も殺した
 だから日本軍が進撃して南京を攻め落とした間に殺した中国兵と民間人をすべて合わせれば、中国側の死者の数は、中国の言う通りに20万人を越すかも知れない。

 つまり南京大虐殺を巡る死者の数の相違は、日本の右翼が南京市内の民間人のみに限定してものを言い、それに対し中国側が日本が南京に進撃した過程で殺された捕虜や民間人すべてを数えて言っていることによって起きている。

 それにしても、言論の自由はあるにせよ、南京大虐殺を「無かった」と言う日本の右翼は馬鹿だ。
 例えばアメリカのトランプ大統領の就任式に集まった人数の問題でも。
 マスコミは証拠の写真を出して25万人と言い、トランプ大統領は「150万人はいた!」と言い張っている。
 ただどちらが主張する人数が正しいにせよ、「何十万もの人が集まった」のは事実だ。
 その主張する人数に疑問があるからと言って、「就任式に観衆が誰も来なかった」という事には、絶対にならない。

 例えばこの民主国家で報道や言論の自由のある日本でも、デモに集まった人数が、主催者発表と警察発表にかなり差がある事など、よくあるではないか。
 その双方が主張する人数に差があっても、デモがあった事実に変わりはない。
「デモの主催者が言う人数は間違いだから、デモも無かったんだ」などと言い張る者は、「馬鹿か?」と言われても仕方なかろう。

 それと同じで、「中国が言う犠牲者の人数は間違いだから、虐殺も無かったんだ」と言い張るのは、いくら日本が好きだからと言っても、贔屓の引き倒しの愚かな行為だ。
 たとえ犠牲者が20万人でなく、それより一桁少ない2万人でも、大虐殺は大虐殺だろう。

 日本が好きだ、だから中国の言うことは嘘で、日本軍は中国人を虐殺などしていないと思いたい。こうした感情が、南京大虐殺を否定する愚かなこじつけ論に飛びつかせているのだろうが。
 しかし「……と思いたい」という感情(願望)に流されて事実から目をそむけ、自国が過去に犯した過ちすら直視できずに「無かった、デマだ!」などと騒いでいると、隣国との関係は悪くなるばかりだ。

 今の中国政府には、確かに問題は多々ある。
 しかしだからと言って、日本が過去に犯した悪事も無かった事にして良い理由にはならない。

 難しいのは、かつての日本軍の兵士すべてが極悪非道だったわけではない事だ。
 南京に進軍した日本軍の中にも立派な指揮官がいて、白旗を掲げて迎えた村で、何の乱暴狼藉も働かずにそのまま去って行った部隊もあるという。
 だから困るのだ。

 中国で敵兵だけでなく民間人も殺し、戦犯として勾留されたある日本軍兵士は、取材に訪れた新聞記者に苦しげにこう言って取材を拒んだという。
「お祖父ちゃんが昔、中国で人を殺した……って、孫に言えますか」

 例の『最悪の戦場に奇跡はなかった』を書いた高崎伝氏は、その著書の中で自分や自分の部隊の行った悪い事も率直に書いている。しかしそんな人は僅かで、戦地で残虐行為をした多くの兵は、その過去を死ぬまで黙っている
 そして自らに恥じる所の無い、立派な将兵だけが声高に「日本軍は酷い事などしていない!」と言い張り、その声に「日本は良い国なんだ、悪い事なんてしていない!」と信じたい右の人達が飛びつく結果になっている。

 日本兵だけでなく、ナチスの兵士だろうが、ロシア兵だろうが、アメリカ兵だろうが、どこの国にも良い人と悪い人の両方がいる。
 だからどこの国の人間が良いとか悪いとか決め付けられない。
 ただその総体を見て、「この国は、あの国で悪い事をした」と言われる事はある。
 そして南京大虐殺で何万人が死んだかの人数はどうあれ、日本軍が中国で悪い事をした事実は誰にも否定できない。少なくとも「……と思いたい」という願望や感情や信念でなく、現実をもとに考える理性的な人であれば。

 筆者は中国共産党は嫌いだし、媚中でも反日でもないが。
 ただ両国のもめ事になりがちな南京大虐殺については、いろいろな資料をもとに「中国の主張する死者の人数には疑問はあるが、虐殺と言われる行為はあっただろう」と推定している。
 が、もう一つの隣国である韓国が何かと言えば蒸し返す従軍慰安婦の問題については、韓国の主張に全く同意できない。

 韓国が持ち出す従軍慰安婦の問題を聞いた時、筆者がまず思ったのは「韓国には、売春婦っていなかったの?」という事だった。
 筆者がまだ子供だった頃、男の大人達は、よく韓国にキーセン観光とやらに行ってご満悦だった。
 キーセン観光の意味はよくわからなかったが、あまり感心できない種類の大人の遊びである事は、何となくわかった。

 韓国とそれに同調して、従軍慰安婦の問題で日本政府を追求する日本のジャーナリスト達の説によれば、日本軍は韓国の売春婦を利用するのではなく、韓国の何も知らない普通の少女ばかり拉致して性暴力の限りを尽くした事になっているが。
 どこの国にもいる売春婦や、筆者が幼い頃に大人達がよく利用していたキーセン達は、戦時中にはいったいどこに行ってしまったのだろうか。
 筆者には、それが不思議でならなかった。
 だから南京大虐殺は「あった」と思うが、韓国の従軍慰安婦については納得の行かない事ばかりだった。
 だいたい、同胞の何も知らない少女たちが日本軍に拉致され性奴隷にされて、おとなしく黙っているほど韓国人の男性は腰抜けなのだろうか

 で、不思議に思っていたところ、アメリカ軍の捕虜になった韓国人の日本兵が、「従軍慰安婦を日本軍が狩り集めた事はない。もしそんな事をしたら、韓国人が暴動を起こしただろう」と証言したと、毎日新聞の記事に載っていた。
 そしてまた、韓国の大学教授(女性)が従軍慰安婦には日本軍の直接の関与は無く、親などに売られた少女が韓国人の業者の斡旋により従軍慰安婦とされたと本に書いた。
 なるほど、と納得した。

 筆者の母の知人(日本人の男性)は、戦時中に韓国に住んでいた。
 その方の言うところによれば、「中国人は何も怖くなかったし、中国人街は平気で歩けた。けれど韓国人は怖くて、夜など韓国人の住む街は危なくてとても一人では歩けなかった」そうだ。
 支配者層であった日本人の男性にそう言わせるほど怖い韓国人が、同胞の少女らを日本兵に拉致され性奴隷にされて黙っているだろうか。
 当時の韓国人が日本軍の従軍慰安婦の存在を許していたのは、少女を売ったのも、日本軍の慰安所に斡旋したのも同胞の韓国人だからだ。

 そもそも韓国は、日本軍に占領された他のアジア諸国とは違う。
 武力を背景にはしたが、名目上は合併して日本に組み入れたのであり、軍が侵略して植民地にしたわけではない。
 だから現実には差別されたものの、韓国人は建前は日本国民として扱われた。
 花岡鉱山など日本国内で酷使された中国人達は、強制連行されて奴隷労働を強いられたのだが。
 しかし戦争中や戦争前に日本に来た韓国人達は違う。韓国にいるより豊かになる可能性を求めて、自分の意志で日本に来た者も少なくない。
 韓国の大統領のパク・クネ氏の父親の、パク・チョンヒ元大統領など、かつては大日本帝国陸軍の中尉だった。

 現実には強制的な合併だが、名目上は条約による合意の上での合併だ。
 現実には差別があったが、名目上は韓国人も同じ日本国民だ。
 だから同じ日本に恨みを持つ国でも、中国と韓国は一緒に考えてはならない。

 1957年に売春防止法が成立するまで、日本では人身売買が行われ、売春も公然と行われていた。
 特に凶作の時には日本の農村の多くの少女が売春宿に売られ、それを放置しておく日本政府に対する憤りが二・二六事件の一因にもなった。
 で、同じように韓国でも貧しい農民の娘が売られ、そしてただ最終的な買い手が日本軍の慰安所だったに過ぎない。
 慰安婦になったのはその韓国の少女の意志では無いだろうし、その少女は辛い思いをした事だろう。
 しかし彼女を売ったのは韓国人の親であり、日本軍に斡旋したのも韓国人の業者だ。
 日本兵が銃剣を突きつけ、韓国の少女を拉致して性奴隷にしたわけでは無いのだ。
 しかし韓国では、その事を口にしただけで恥知らずの非国民と罵られる。
 例の、従軍慰安婦は日本軍が強制的に狩り集めたのではないと本に書いた大学教授は、何と裁判にかけられる始末だ。

 かつて東ヨーロッパに、ユーゴスラビアという国があった。
 そのユーゴスラビアは第二次世界大戦でドイツ軍に占領されたが、そのドイツ軍に対する国内の対応はばらばらだった。
 セルビアはドイツに抵抗したが、セルビアと仲の悪いクロアチアやスロベニア、それにユーゴスラビアのイスラム教徒はナチスドイツに協力した。で、第二次大戦中は、その親ドイツ派と反ドイツ派で血で血を洗う内戦状態にあった。
 で、結局勝利したのは、セルビアの共産党だったが。しかしそのセルビア共産党の指導者は、クロアチア人のチトーだった。
 そしてチトーは、戦後、国内の融和に努めた。
 その為にチトーとその配下は、捕らえたドイツ兵の捕虜を虐待した。ドイツ兵の捕虜たちを酷い拷問に遭わせ、「自分は何十人もの民間人を殺しました」と嘘の自白をさせたのだ。
 つまりチトーは、戦争中の内戦による死者をすべてドイツ軍のせいにする事で、内戦の傷痕を帳消しにして国内をまとめようとしたのだ。

 従軍慰安婦に対する韓国人の態度は、そのチトーの対応に似ているように思える。
 娘を売った韓国人の親も、娘を日本軍に斡旋した韓国人の業者の存在も「無かったこと」にして。そして可哀想な少女を、日本軍が無理に連れ去って性奴隷にした事にしているのだから。

 第二次大戦後、中国も蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の間で内戦が起きたが、どちらもそれを日本のせいにはしていない。
 しかし第二次大戦後に韓国が北朝鮮と分裂して内戦状態に陥ったのも、韓国人によると「日本が支配したせい」なのだそうだ。
 何でもかんでも、悪いのはすべて「日本のせい」なのだ。
 日本から仏像を盗み出しても、数百年前に倭寇に奪われたものだからと、やはり「日本のせい」にして返さないのだから、韓国という国には呆れ果てる。

 韓国の釜山の日本総領事館の前に設置された慰安婦像の前で騒ぐ韓国人たちを見るとたいてい若い層で、日本が支配した時代を直に知るお年寄りの姿は殆ど見ない。
 従軍慰安婦について本当に怒るとすれば、同世代の老人たちではないだろうか。
 しかし実態を知る筈の韓国の高齢者は殆ど何も言わず、慰安婦像の前で騒いだり、テレビのインタビューに答えて日本を悪く言うのは、実態を直に知っている筈のない若い世代ばかりである。
 それは何故か。
 過去のいわゆる“日帝支配”の時代を生きた高齢者は、娘を売る親が韓国にいた事を知っているから黙っている。
 そして日帝支配の時代を知らず、イ・スンマン(李承晩)政権以降の徹底した反日教育を受けた世代がその韓国人にとって不都合な真実を受け入れず、「何もかも、すべて日本が悪くて日本のせい」と騒いでいるのだ。

 従軍慰安婦と言うと、韓国人の慰安婦だけが注目され、韓国人ばかり慰安婦にされているような印象を世界に与えているが。
 実は従軍慰安婦には、日本人もフィリピン人も中国人もいたのだ。
 同じように売られてきたのに、なぜ韓国人だけ強制連行されたかのように騒ぐのか、その理由が筆者には理解できない。
 従軍慰安婦の徴募にあたった業者は、人身売買だけでなく拉致も行ったと言う。そしてその拉致を、韓国人は強制連行と言うのだろうが。
 しかしその拉致を行ったのは業者(女衒)であって、日本軍ではない。
 そしてまた、娘を業者に売った韓国人の親がいた事実も忘れてはなるまい。
 しかし韓国人は、その「同胞の少女を日本軍に売った韓国人もいる」という現実から目をそむけ、すべてを日本のせいにしたいのだ。
 例の「韓国人は悪くない、悪いのはすべて日本と思いたい」という、事実より感情や信念や願望を優先するポスト・トゥルースというやつだ。

 そんな韓国とずっと隣同士でいなければならないのは、日本としても甚だ厄介な事ではあるが。
 しかし日本人も、韓国ばかりを悪くは言えない。
 何しろ「日本は悪くないと思いたい」という一念で、「南京大虐殺など無かった、中国のデッチ上げだ!」と言い張る輩がいるのだから。
 そしてその中には安倍首相と仲の良い、高名な大学教授やジャーナリストもいる。

 さらにアジア・オリンピック評議会(OCA)主催の冬季アジア札幌大会に、選手村として利用されるアパホテル&リゾート札幌の全客室にも、アパグループの代表者が書いた南京大虐殺を否定する書籍を置き、OCAからスポーツ理念に基づく対応を求められる始末だ。
 中国の選手団も来ると当然わかりつつ、それで南京大虐殺を否定する書籍を全客室に置きつつあえて選手村として立候補するのだから、アパグループは確信犯で中国に喧嘩を売っているのだろう。

 そのアパグループの行動に、「言いたい事をはっきり言っていて良いと思う」と賛同する日本人(特に男性)が多いのには呆れる。
 美容外科医として、そして漫画家の西原理恵子氏の内縁の夫としても知られる高須克弥氏など、その報道を知り「アパホテルに泊まりに行きたくなりました」と語った。
 繰り返すが、全客室に『広島と長崎への原爆投下は正しく、戦争を早く終わらせ多くのアメリカ人と日本人の命を救った』との書籍が置かれているホテルチェーンがあったとしても、「言いたい事をはっきり言っていて良い、泊まりに行きたくなりました」と言えるだろうか。
 少なくとも筆者は、一人の日本人としてそれは出来ない。

 日本人として、日本を愛する気持ちは筆者にもある。
 しかしだからと言って、過去の日本の過ちまで「無かったこと」にしようとするのは、人として間違っていると筆者は考える。
 日本が好きだからと黒も白と言って日本を美化するのは、間違った愛国心だ。
 過去の過ちは過ちとして認め、再び間違った道に進まないよう心がけるのが真の愛国心だ。
 日本人も日本軍も立派だと信じたいあまり、日本に都合の良い数字と発言だけ取り上げて「南京大虐殺は無かった」と言い張るのは、ナチのホロコーストすら否定するネオナチにも共通する歪んだ愛国心だ。
 そう言えば、グループの全客室に南京大虐殺を否定した書籍を置くアパホテルの行動に賛同する高須克弥氏は、ホロコーストにも懐疑的で、あの『アンネの日記』もデッチ上げだと主張していた。

 とにかく筆者は右でも左でもなく(大学生の頃は右翼と呼ばれていたが)、ただ感情や信念より事実を優先して冷静に物事を判断したいだけだ。
 で、事実のみを検討した結果、南京大虐殺については「中国が主張する犠牲者の数に疑問はあるが、虐殺と言われる行為はあった」、そして従軍慰安婦については「日本軍による直接の強制連行は殆ど無かった」と判断している。
 日本の“右”の人達は「日本は悪くない」と思いたい感情から南京大虐殺も従軍慰安婦の強制連行も否定する。そして“左”と言うか“リベラル”な人達は「何もかも日本が悪かったと認めるべき」という感情から南京大虐殺も従軍慰安婦の強制連行も「あった」と言う。
 しかし感情は二の次にして事実をもとに考える筆者は、そのどちらにも属さない。

 ただ一つ、当時はオランダの植民地だったインドネシアで捕らえたオランダ人の女性に日本軍が性的暴行を加え、主に将校用の慰安婦にしたのはどの右派の論客も否定できない紛れもない事実で、この件については被害を受けた女性達に謝罪するしかないし、事実日本も謝罪している。

 それと韓国の従軍慰安婦の問題は同一ではないし、働かされた場所が日本軍の慰安所という事で日本にも責任の一端はあるだろうが、まず責められるべきは娘を売った韓国人の親と、拉致までして少女を日本軍に周旋した業者であろう。
 もし日本政府が韓国の従軍慰安婦に謝罪して賠償せねばならないのなら、日本政府は日本人やフィリピン人や中国人の慰安婦にも謝罪して賠償せねばならない筈だ。
「なぜ韓国の従軍慰安婦にだけ?」という疑問が、筆者の胸に残る。

 娘を売った親や日本軍の為に少女を集めた韓国人の存在は「無かったもの」にして日本だけを責める今の韓国のやり方はカッコ悪いし、同様に当時の日本軍の実態をあえて無視して、南京市内の人口だけを根拠に「大虐殺は無かった」と言い張る一部の日本人もカッコ悪い。
 それ以外のどんな問題であれ、物事は感情や個人的な信念でなく、ただ事実をもとに判断すべきだと、声を大にして言いたい。

 事実に目を向けずに感情で判断し、「……と思いたい」という願望を優先した民衆が、かつてヒトラーを生み、そして今、トランプ大統領を生んだ。
 その事を忘れずに、今の日本の現政権の政策の是非も事実のみで冷静に判断して、次の選挙で一票を投じて貰いたいと心から願う。

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