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空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

日本の右翼の発想と感覚は女の腐ったような輩のそれと同じである

 今日は日本があの無謀な戦争に負けた日だが。
 それについて語る前に、喩え話を二つしよう。

 J君が隣のC君を虐めて、暴力で従わせて子分にしようとしました。
 で、C君と親しいA君がそれを止め、J君に注意しました。
 しかしJ君はその注意を聞かないどころか、V君も暴力で従わせようとし、そしてさらに酷くC君を虐めました。
 だからA君がきつくJ君をを叱ると、J君は逆ギレしてA君にも不意打ちで殴りかかって喧嘩を仕掛けました。
 それで本気で怒ったA君に、J君はボコボコにやられて降参しました。
 喧嘩の後で、J君は「喧嘩をしてこんなに酷い目に遭いました」と記録に残そうとしました。
 するとJ君の家族の中で争いが起きました。
 J君は「まず自分がC君に暴力を振るった」という喧嘩の原因から記録に残そうとしたのですが、家族の一部が大反対したのです。
「それは余りにも偏った意見だ、自虐はよせ!」と。
 で、その一部の家族がとても頑固に反対するので、J君は喧嘩についての記録をとうとう残せませんでした。

 他人に暴力を振るい酷い怪我をさせ、警察に捕まった犯人がいました。
 その犯人は逮捕の際にも激しく抵抗し、警察官にも怪我をさせました。
 そして捕まった後、「悪いことをしたと、反省していますか?」と問う裁判官に、犯人はこう言いました。
「反省なんてするわけない、悪いことをしたと認めるのは自虐だし、自分に自信が持てなくなるだろ」


 東京大空襲で多くの日本人、それも民間人がアメリカの無差別爆撃により殺された。
 それでその記録を残そうと、都は焼夷弾の残骸や遺品、そして生存者の証言を集めた。
 ただその「日本の民間人が受けた被害」を伝え、見た人にただ「アメリカは酷い!」という印象を与える展示にしない為に、都は先に日中戦争で日本軍が中国の都市に無差別爆撃して民間人を殺傷した事実も展示しようとした
 すると“右翼”と言うより、都民から選ばれた一部の都議サマが大反対したのだ。
 彼らの言い分はこうだ。
「余りにも偏った歴史観だ!」
「自虐史観だ!」

 で、その都議らが激しく反発した為に、集めた遺品や証言を平和記念館を設立して展示する計画は頓挫した

 筆者は問いたい。
 東京大空襲であれだけの大被害を受けることになったそもそもの原因から語り起こすことが、何故「余りにも偏った歴史観」で「自虐」になるのか?
 そもそも、日本軍が中国を侵略しただけでなく、中国の重慶に無差別爆撃をして多数の民間人を殺したのは、動かしようのない、紛れもない事実だ。
 都市に対する無差別爆撃はドイツ軍のゲルニカに対するものが元祖だが、重慶に対する日本軍の無差別爆撃もそれ以上に規模が大きくて酷い。
 つまり先の大戦では、民間人に対する大規模な無差別爆撃はアメリカより先に日本が行っていたのだ。
 その事実から目をそらして「アメリカにやられた、アメリカ軍は酷い!」と騒ぐことこそ、「余りにも偏った歴史観」でなくて何であるか。

 あの戦争では、日本はそもそも“加害者”だ。
 その先に喧嘩を仕掛けた加害者が、やり返されて受けた怪我を「酷い、こんなにやられた!」と騒ぐのは、第三者から見れば笑止千万であろう。
 つまり東京大空襲の被害と重慶に対する無差別爆撃の加害を平行して説明することを「自虐!」と非難する右翼と一部都議こそ、冷静に見れば「余りにも偏った歴史観を持つ愚か者」ということだ。

 日本の右翼は、「日本は正しい、我が国は間違ったことは何もしていない!」と未来の日本人に教え込みたいらしい。
 だから「日本も間違ったことをした」と認める者を「自虐史観で反日の非国民だ!」と敵視する
 彼らによれば、「日本が間違った事や悪い事をしたと認めたら、日本人は自国に自信と誇りが持てなくなる」のだそうだ。

 例えば罪を犯した者、悪いことをした者の更生には、反省が一番大切だと言うではないか。
 しかし右翼の論理では違うのだ。
「自分が悪いことをしたと認めたら、自分に自信が持てなくなる、だから反省するのは自虐でいけない事なのだ」
 日本の右翼は、まさにこう言っているようなものだ。
 悪いことをしても、それを認めず反省など絶対にするな!
 これが我が国の右翼
なのである。
 だから「戦争は中国が仕掛け、アメリカの陰謀で引きずり込まれた」とか「日本は自衛の為、アジアを白人支配から解放する為に戦った」などと、真っ黒を白と言い立てるような「余りにも偏った歴史観」を言い立てている。

 先の戦争で、日本軍が先に重慶に大規模な無差別爆撃をして多数の民間人を殺傷したのは、紛れもない事実だ。
 東京大空襲の被害と悲劇を語るならば、まずその重慶の無差別爆撃から語り出すのがフェアというものと筆者は考えるが、違うか?
 しかし我が国の“右”の人達は「日本が犯した加害には目と口を閉ざし、被害だけを語れ!」と求め、日本の加害を語ると「余りにも偏った歴史観だ!」と騒ぐ
 余りにも偏った歴史観を持っているのは、誰か。
 まさにネットでよく言われる、「自己紹介、乙wwww」というやつである。

 黒川伊保子さんの『女の機嫌の直し方』という本がある。
 黒川さんは人工知能の研究者で、男性と女性の脳と思考の違いを熟知している。
 それによると女性は「ただ話を聞いてもらいたい」のであって「問題の解決は求めておらず」、そして「何があっても自分の味方でいて、自分を依怙贔屓してもらいたい」のだそうだ。
 だから女性に何か“相談”された時、「こうすれば良かったんだよ」とアドバイスするのは厳禁で、特に「君のここも悪かったんだよ」などと注意すると「貴方は私の味方じゃないの!?」とキレられるのだそうである。

 女性の脳は、客観的で公平なジャッジなど求めない。
 女性が求めるのは、「うんうん、わかるよ」と話を聞き、とにかく依怙贔屓して何があっても自分の味方をしてくれることだそうだ。
 笑い話に、女性が「あたしは悪くない!、電柱があたしの車にぶつかってきたの!! あたしを信じないの!?」と逆ギレするものがあるが。
 そこで「常識で考えて見ろよ、電柱がぶつかってくるわけがないじゃないか」と正論で冷静に諭すのは駄目で、「うんうん、わかる、君は悪くない、電柱がぶつかってきたんだよね?」と同情しつつ頷くのが正解
なのである。

 この悪い意味での“女性脳”、我が国の右翼の思考と発想にとてもよく似ていないだろうか。
 戦争を仕掛けたのはどちらか、どんな加害をしたかなど、史実に基づいての公平で客観的なジャッジなどしない。
 とにかく「日本は悪くないし正しい!」という前提で、あくまでも日本を依怙贔屓して歴史や戦争を語る。
 これが我が国の右翼である。

 日本の加害の事実を少しでも語ると、この国の右翼は「自虐史観だ、非国民め、それでも日本人か!」と騒ぐが。
 そんな右翼は「理屈なんていいからあたしの味方をして依怙贔屓してよ!」とヒステリーを起こす“女の腐ったの”と全く同じ
である。

 我が国では思想信条の自由が保証されている。
 だが例えば「1+1=3だ!」と主張するのも、思想信条の自由だろうか
 誰がどう言おうが「1+1=2」だし、思想信条の自由はあるが、個人の感情では動かせない厳然たる事実というものもあるのだ。
 日本が侵略戦争をしたこと、中国の都市に無差別爆撃をしたこと。
 これらは「歴史観の違いの問題」の範疇には入らぬ、議論の余地の無い紛れもない事実
である。

「東京大空襲の被害については大いに騒ぐが、日本がそれより先に中国の都市に対してした無差別爆撃については黙っているべき」
 果たしてこれが、正しい歴史観だろうか?

 東京大空襲の被害と悲惨さについては後世まで永く語り継ぐべきだが、同時に「日本も中国に無差別爆撃をした」という事実も語るのが公平で公正な男性脳であろう。
 それを理解できない、「日本人なら日本を依怙贔屓して、日本の被害だけ大騒ぎして、日本に都合の悪いことは無かったことにしろ!」という悪い意味で女性脳全開なのが、この国の右翼である。

 右翼というと、マッチョで男っぽい人を想像しがちだが。
 しかし「右翼の発想と感覚は女の腐ったようなのと同じ」というのが紛れもない事実なのである。
 東京大空襲の被害を平和記念館を設立して伝える都の計画が、都民の投票で選ばれた右翼系の都議たちの反対で実現しなかった経緯を見ると、その事実がとてもよくわかる。

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天皇を天照大御神信仰や日本神道と切り離せ!

 筆者は宗教も「信じること」も大嫌いだ。
 何故なら宗教は教祖を神と崇め、その教えを理屈抜きで受け入れて信じることを強要するからだ。

 筆者はまず物事すべてを「信じる」のではなく、資料をもとに検証して考えた上で正しいと思えたもののみを受け入れている。
 だからとにかく信じて受け入れることを求める宗教とは、根本から肌が合わない

 そもそも完全無欠な聖人など存在せず、どんな立派な人にも欠点はあるものだ。
 反対に、歴史的に有名なレベルの大悪人にも、少しは良いところもある。
 例えば魔王と呼ばれた織田信長や、あのヒトラーにすら優しい面があった。
 しかし宗教は教祖を立派な神と祭り上げ、どんな批判も許さない
 で、信者は名誉欲も金銭欲も強い野心家の脂ぎったオッサンすら、完全無欠な偉人にしてしまう
 そして「王様は裸だ!」とその正体を見抜いて批判する者を、集団で、徹底的に叩く。
 だから筆者は宗教と、それを熱心に信じる人を嫌っている。

 そんな筆者ゆえ、今はこの国の“象徴”とされている天皇に対する思いも複雑である。
 何故なら天皇は、人間宣言をした今もまだ「祖先は天照大神」という説を否定していないからだ。
 そして伊勢神宮は「天皇の祖先とされている天照大神を祀る」とされている
 つまり天皇は、生きている人間でありながら、我ら国民と同じ人間でありながら、今もなお皇祖神である天照大神から神武天皇までを祀る日本神道という宗教と不可分なのだ。
 それゆえこの国では、天皇に対する批判はタブーに近い状態のままである。

 天皇のことを、英語では“Japanese emperor”と言う。
 文字通り訳せば、日本国皇帝だ。
 そして他国の皇帝や国王は、その者個人の業績により賞賛されたり批判されたり、いろいろ評価されている
 政治家は歴史に裁かれると言われる通り、国政に関与する者は強大な権力を得る代償に、厳しい批判も受けるわけだ。
 だから他国の皇帝や国王は、悪政を行えば容赦なく後の世の歴史家に叩かれる
 それは皇帝や国王であっても神ではなく、「我ら国民と同じただの人」だからだ。
 しかし日本は違う。
 歴史家は非道を働いたり権力欲から戦乱を起こしたりした悪い天皇を批判するのに非常に神経を使い、過去の天皇の悪事についてはとても遠慮がちに書く。
 それは天皇が、日本国民の多くが信じている宗教である神道で祀られている神の子孫だからだ。

 英語ではJapanese emperorなのに、何故日本語では皇帝ではなく、あえて“天皇”と今も表記し続けるのか。

 それはズバリ、「天皇は神でもある」からだ。
 中国語で、天にある最高神を天帝、地上の絶対的な権力者を皇帝という。
 そしてその天帝と皇帝を合わせ、「天の最高神で、かつ地上の支配者」という意味で自称したのが“天皇”なのである。
 つまり日本の天皇は「皇帝より格上」というだけでなく、「我は神でもある」と自称しているのである。
 だから日本の“天皇”からの書状を届けた遣唐使に、当時の中国の皇帝は「無礼な!」と怒った。
 そして伊勢神宮の内宮に祀られているのが、日本神話で最高神とされ、かつ今も「天皇の祖先」とされている天照大神である。
 つまり我が国の“天皇”とは、伊勢神宮と神社本庁を頂点とする、日本神道という天照大神を信仰する宗教と不可分の存在なのである。
 それだけに「今も神を自称する」日本の皇室は、他国の皇室や王室とは全く違う存在なのだ。

 ゆえに天皇を批判するのも難しいし、歴代天皇は正しい歴史的な評価もされていない。
 歴史を詳しく調べてみると、酷い天皇はいくらでもいる。
 我が子に皇位を継がせる為に、邪魔になる弟を殺した天皇など何人もいる。
 だから甥など、平気で殺す。
 そんな天皇は当たり前にいる。
 天智天皇は実の妹と近親相姦を続け、自分が皇位に就く為に政敵は平気で殺し、汚い裏切りも繰り返した。
 孝謙(称徳)天皇は怪僧道鏡を寵愛し、それを批判する人達を文字通りなぶり殺しにして、死ぬまで恐怖政治を続けた。
 後醍醐天皇は野心家で、傍系の出で本家の幼い皇太子が成人するまでの“中継ぎの天皇”なのに、天皇家の財産を独り占めにして、皇位も財産もみな我が子に継がせようと戦乱を起こしたにもかかわらず、「建武の中興を成し遂げた」と今も歴史教科書に書かれている始末だ。
 歴史を詳しく調べれば、歴代天皇の悪事や醜聞などいくらでも出てくる。
 しかし日本の歴史は、それを公然と語るのに非常に腰が引けている。


「北条高時は犬が好きで舞に夢中で、政務をおろそかにして鎌倉幕府を滅ぼした愚か者」
「足利義政は応仁の乱を起こしたくせに茶の湯や絵画に熱中し、銀閣寺を造って政務を放置して戦国乱世を招いた」
「徳川綱吉は人より犬を大事にしたおバカで、犬公方と呼ばれた」
 その種の武士の権力者(執権や将軍)の悪評は、多くの国民が知っている
 むしろ彼らは実際以上に悪く言われ、あざ笑われている。
 しかし酷い天皇の悪行については、歴史を詳しく批判的に見る人だけが知っていて、ほぼ99%の日本人は知らずにいる
 それが歴史を知る者として、腹立たしくてならない。

 足利義政はともかく、北条高時も実際には言われるほど(特に『太平記』で)悪い人ではないし、徳川綱吉が犬を大切にしたのも、彼には彼なりの理屈があった。
 だが武家で失政をした者は実際以上に悪く言われて愚か者とあざ笑われる一方で、天皇の悪行については多くの人が口をつぐんで触れずにいる
 諸外国の皇帝や王は、悪い政治を行った者や人倫にもとる行為をした者は容赦なく叩かれている。
 しかし日本の天皇は、悪政を行おうが人倫にもとる行為をしようが、自国の歴史家にすら叩かれない。

 何故だ?
 それは天皇(とその祖先)が神だから、そして批判すると日本神道と右翼勢力を敵に回すからだ。
 だから怖いし畏れ多いしで、事実すら大っぴらには言えずにいる。

 宗教の信者は怖い。
 何しろ何かを強く信じる“信者”には、「理屈や道理が通じない」のだから。
 事実を示して論理的に説得しようとしたところで、ただ感情的に「侮辱された、許さない!」と激昂し、下手をすれば集団で押し掛けられて騒がれたり、暴力を加えられたりする。
 だから日本神道の信者と右翼勢力が怖い日本人は、武家の失政については遠慮なく叩く一方、天皇の悪事や醜聞についてはほぼ黙るか、目立たぬようにひっそりと書くに留めている

 それにしても、おかしな話である。
「政治家は歴史に裁かれる」という言葉通り、国政に関与した以上、歴代天皇も歴史に裁かれなければならない筈だ。
 今の象徴天皇はともかく、主権者であった昭和二十年までの天皇は業績や行為を歴史家に厳しくチェックされ、落ち度があれば批判されて当然なのだ。
 なのに貴族や武士で権力の座に就いた者は容赦なく批判される一方、歴代天皇はその歴史の裁きをほぼ免れている。

 例えばこの7月に出版された、朝日新聞出版の『歴史道vol.10江戸三百藩の暮らしと仕事』というムック本がある。
 そこには「徳川十五代将軍全採点!」という記事があり、知力・施策・人事外交力・経営力・人気の五項目について各二十点、合計百点満点で評価が下されている。
 88点という高い評価を得た将軍がいる一方、30点という低評価で散々に叩かれた将軍もいる。
 さらに「名君・バカ殿ベスト&ワースト10」という記事もあり、それぞれ名君の業績や、バカ殿の悪行もしっかり書いてある。
 このような書籍は紹介した『歴史道vol.10江戸三百藩の暮らしと仕事』だけでなく、戦国大名や将軍などについて点数やグラフで評価して順位をつけたり、名君の業績や暗君の悪行を書いた本はいくらでも出されている
 しかし天皇については、点数で評価して順位をつけたり、“名天皇”と“バカ天皇”についてベストとワーストの10を書いた本は出されない。
 何故だ?
 やはり「天皇は神だから」で、日本神道という宗教の信者と右翼が怖いからだろう。
 当たり前の他国の王室とは違う、神を自称する宗教と不可分の日本の天皇は本当に恐ろしい。

「天皇は日本国の象徴だから、天皇を悪く言うのは日本を侮辱するのと同じことなのだ」
 そう説明する人もいるかも知れない。
 しかし天皇が我が国の象徴になったのは、第二次世界大戦に日本が負けてからだ。
 それ以前は、天皇はこの国の主権者として政治にも関与していた。
 だから歴代の天皇は、その言動を歴史家に詳しく検証され、正当な評価もされるべきであると同時に、批判されるべき点は批判されるべきなのだ。
 しかし不敬罪が無くなった今も、過去の歴代天皇に対する正しい批判すらはばかられているのが、この国の歴史学と空気なのである。

 皇室は昭和天皇が人間宣言をした今も、天照大神を「天皇家の祖先」として伊勢神宮に参詣している。
 それでは人間宣言を否定し、伊勢神宮と神社本庁を支えているのも同じではないか。
 国民にも「日本国の象徴なのだから、皇室に敬意を持たなければならない」と言う人が少なからずいるが。
 しかし皇室が天照大神信仰や伊勢神宮との関係を続けている以上、「天皇が日本国の象徴」だとすれば、「天照大神崇拝と日本神道は、日本の国教」ということになりはすまいか。

 天皇は他国の皇帝や国王と違い、天の最高神と地上の支配者を合わせた“天皇”という名称からして、宗教的な色彩を強く帯びている
 その天照大神信仰や伊勢神宮との関係を今も続け、昔からの神事を延々と続けている天皇を「我が国の象徴」として拝むことに、宗教ギライで無神論者の筆者は非常に強い抵抗を感じる
 運と才能に恵まれて権力は握ったが元は皆と同じ人間とわかっている他国の皇帝や国王と、神の子孫を自称する我が国の天皇は、性質が全く違うのだ。
 だから筆者は、他国の皇帝や国王と同じ気持ちで天皇を尊ぶことが出来ずにいる。
 何しろ昭和二十年まで、天皇は現人神を自称し、国民を臣下として皆に拝ませていたのだ。
 筆者の父も母も伯父伯母も、みな天皇を神と拝まされた世代だ。
 で、国民は今も「神を悪く言うのは畏れ多いし、何より右翼も怖いから」と、悪い天皇を「悪い」と大っぴらに言うことすら出来ずにいる

 昭和、そして平成と、二代続けて人としてとても立派な天皇が続いた。
 だから国民も「天皇家の人はみな立派なのだ」と思い込んでいる
が。
 歴史を知る筆者は「違う!」と断言する。
 天皇もまた人間であり、俗人と同じように権力欲や野心や「可愛い我が子の為なら何でもしよう」という思いが強い者もいる。
 だから尊敬できる立派な天皇と同じかそれ以上に、悪い天皇も何人も存在するのだ。
 その事実を知らずにいる国民が非常に多い事を残念に思うと同時に、知らぬままでいさせて天皇を神格化したい勢力に怒りと憎しみを覚える。

 どうか皆さん、気付いてほしい。
 天皇は神でも、神の子孫でもない。
 天照大神が天皇の祖先の偉い神だなどと、とんでもない嘘っぱち
だ。
 天照大神? そんなものは存在しないし、伊勢神宮など何も尊くない。
 筆者はまだものを知らない小学生の頃に、元帝国軍人だった父に伊勢神宮に参拝に連れて行かれたことを今も悔やんでいる。
 歴史を学んだ今なら、筆者は伊勢神宮になど決して足を踏み入れない。

 公正であるべきテレビのニュースでも、例えば伊勢神宮は今もまだ「天皇の祖先とされる天照大神を祀る」と説明されている。
“される”の一言を挟んでぼかして誤魔化しつつ、今もなおこの国では、報道機関すら国民に「天皇は天照大神という神の子孫」と印象付けているのだ。
 どうか騙されないでほしい、天皇もその祖先も間違いなく神ではなく、我らと同じただの人だ。

 無神論者で宗教が苦手な筆者にとっては、「祖先は天照大神」と今も信じているらしい、日本神道の崇拝者でもある天皇を「日本国の象徴」と仰ぐのは、非常に辛いことである。
 そして国民の多くが「天皇はみな良い方ばかり」と思い込み、歴代天皇の中に実在する暗君やバカ天皇を批判することすら許されないような空気を、とても息苦しく感じる

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大阪府の人々への素朴な疑問

 先々週にも「保守だが右翼に非ず」と書いた通り、筆者は自由主義者の穏健保守である。
 実態も知らずにソ連や北朝鮮や中国共産党を褒め称えたかつての日本の左翼や、夫婦別姓や同性婚を叫ぶ行き過ぎたリベラル派も大嫌いだが、安倍政権下で勢力を増している「天皇は神の子孫である」とか「教育勅語は良いものだ」とか「日本はアジアの解放の為に第二次世界大戦を戦ったのであって、日本は悪くない」とか、「寝言は寝て言え」と怒りたくなるレベルの知性しか無い右翼はもっと嫌いだ。
 筆者は右であろうが左であろうが独裁政治や国家主義を嫌悪する自由主義者だが、「何でも効率、何でも自己責任」の新自由主義も反吐が出るほど嫌いだ。
 だから選挙については、「自民党が程々に議席を保つのが良い」と思っている。
 第一党も政権与党も自民党で、だが今のような何でも数で押し切れる絶対多数ではなく、野党の言い分もある程度受け入れなければ政治が動かない……というのが、筆者の理想だ。

 そんな筆者から見ると、今の近畿、特に大阪府の政治状況は異常に見える。
 異常と言うより、筆者には理解不能に近い。
 何しろ大阪府の小選挙区で府民から選ばれた衆院議員は、維新の会と自民党、それに公明党だけなのだから。
 維新は経済効率最優先のバリバリの新自由主義で、筆者には現在自民党で主流となりつつある、自民党右派と同じ思想に見える。
 そして今の自民党は、アベ一強だ。
 さらに言えば、公明党は某学会と直結した、信者の為の宗教政党である。
 つまり他県の者である筆者には、大阪人は「維新を支持する新自由主義者と、アベ政治を支持する右翼、それに某学会の信者しかいない」ように見えてしまう。
 右と左が拮抗するのが正常な政治状況なのに、選挙結果を見る限り大阪は「右寄りの人と信者だけ」ではないか。
 随分と変わった所だなと、前回の衆院選の開票結果を見ながら思った。

 ところが筆者は、大阪の人を悪く思えないのだ。
 筆者は大学で、北海道から四国や九州まで、いろいろな地方の出身者と出会った。
 ただ大阪の人は大阪かその付近の大学に行くのか、同じ学科に一人もいなかった。
 だから筆者に、大阪出身の友人はいない。
 ちなみに筆者の親戚は山梨県と東京都と静岡県に多く、親戚も大阪にはいない。
 ただネットオークションで、多くの大阪府の人と取り引きをした。
 ネットオークションにはいろいろな人が出品しており、ネットでのショップを職業としているわけではない普通の人が大多数だから、対応は様々だ。
 いい加減な対応をされたり、妙な物を掴まされたりすることもある。
 だが五百を越す取り引きをしてきた中で、大阪の人で悪い人は誰一人いなかった
 いや、少額の取り引きなのに感謝のメッセージを付けてくれるとか、オマケを付けてくれるとか、感じの良い対応をしてくれるのはすべて大阪府の人だった。
「良い物を良いサービスで安く提供し、まずお客を喜ばせて自分も利益を得る」
 その大阪商人の精神が、皆に行き渡っているように思えた。

 大阪府と言っても地域差があり、○○は良いが△△は柄が悪いというような話も聞く。
 筆者はネットオークションで好きなカメラの落札したところ、その大阪の評判があまり良くない地方の人だった。
 ところが送られてきたのは、とても状態の良い、整備済みのカメラだった。
 その方は「良かったら貴方がお持ちのカメラの整備もする」とおっしゃるので依頼したところ、手持ちの調子の悪いカメラを他より安い値で、とてもしっかり丁寧に整備をして下さった。

 友人も親戚もいないが、ネットオークションで取り引きをした大阪府の方は、みな良い方ばかりだった。
 以前、車のカバーをオーダーメードで注文したのだが、その時に引き受けてくれたのも大阪の業者さんで、最初に届いたものが車のミラーと上手く合わなかったので、その旨連絡したところ、すぐに気持ち良く手直しして下さった。
 その送り返した際の送料も、業者さんが持って下さった。
 とにかく筆者は、大阪の方と取り引きをして良い印象しか持っていない

 なのに何故、選挙結果を見ると「何でも自己責任で弱者も伝統文化も斬り捨てる新自由主義者と、右翼のアベ支持者と、学会員だけの府」ということになってしまうのだろうか。
 それを少し、自分なりに考えてみた。
 聞くところによると、維新が府政を握る以前の大阪府は、政治家とお役人と既得権を握る層が結託して、なかなか府民の為に働かなかったのだとか。
 だから府民が怒って、ちゃぶ台返し的に旧来の停滞した府政をブッ壊す維新を支持したと聞く。
 そして旧来の勢力は自民党を支持し、後は公明党……と。

 そう聞けば「なるほど、大阪には大阪の事情があったのだな」とも思うが、「小選挙区で得ばれた議員は、維新と自民と公明だけ」というのは、やはりバランス感覚がおかしいように思えてならない。
 維新の会は、どう見ても経済効率最優先の新自由主義である。
 働かないお役人は良くないが、公務員の仕事は経済効率だけでは割り切れないもので、芸術や文化や学問や福祉など、利益が上げられなくてもお金をかけなければならない分野もある筈だ。
 経済効率最優先というのは、大阪府だけでなくこの国の、小泉政権から安倍政権の今まで続く自民党清和会の政治の悪い点でもある。

 文部科学省は学力テストをして、各都道府県の小中学生(とその教育委員会)を競わせたが。
 で、その順位が悪いと、当時の知事だった橋下氏は責任を現場の教師に押しつけて罵倒したが。
 大阪には経済的に厳しい場所もあり、ろくに食事もとれない子供に教師が身銭を切って食べさせもしていて。
 そんな状況で頑張っている先生を罵倒する知事。
 筆者はそんな指導者を尊敬できない。

 今のコロナ禍で、奮闘する吉村知事が評判になっているが。
 しかし「そもそもその前に、経済効率優先で保健所を減らしたのは維新ではないか」という話もある。
 というように、基本が新自由主義の維新には無駄を減らし効率化して大阪を良くした面もあるが、弱者に対する温かい目と優しさが足りないようにも見える。
 働かない役人は良くないが、何でも民営で良くなるわけではなく、利益を出せなくても役所がやらねばならぬ公営の事業もあるのだ。
「利益を出せない」ということと「無駄」ということは、イコールではなく別の次元の話
なのだ。

 こんなことを言えば、信者の方に怒られてしまうだろうが。
 徹底した無神論者で宗教ギライの筆者など、「せめて公明党の議席が立憲民主党なり共産党のものになっていれば、弱者にも配慮されるより良い大阪府になるのでは」と思ってしまう。

 筆者に大阪府の友人は一人もいないが、商取引をして「大阪の人は気持ちの良い人が多い」というイメージを持っている。
 それだけに、政治的に右と左のバランスがおかしいどころか、外から見れば府が「新自由主義者と右翼と信者だけ」になっている現状が不思議でならない。
 そこで大阪人に好意を持っているが、大阪人の友人はまだいない筆者に、「なぜ維新が大阪ではこんなに強いのか?」と「この政治状況を、大阪の人はどう思っているのか」を教えていただければ、とてもありがたい。

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テレビにお笑いは絶対必要か?

 最初に書いておく。
 筆者はユーモアのセンスが皆無なわけでも、お笑いが嫌いなわけでもない。
 何しろ『日本の話芸』の落語は毎回録画して繰り返し見ているし、ヒロユキさんの『アホガール』全12巻というコミックスもすべて買い揃え、思い切り笑わせていただいた。
 笑えるコミックスやドラマや小説は、かなり好きである。
 その筆者が、「近年、テレビが下らなく馬鹿馬鹿しくなった」と痛感している。
 理由はズバリ、「やたらに芸人を出している」からである。
 お笑い番組に芸人が出る。
 それは良い。
 しかし笑う必要も無い情報番組や旅番組、果ては報道番組にまで芸人を起用するテレビ局の姿勢に腹が立つ
 芸人の世界には、「爪痕を残す」という言葉があるが。
 その言葉通りに番組に出た芸人は、自分の存在を示そうと無闇に要らぬボケをかましたり、無理にふざけたり、隙あらば茶々を入れたりする
 それがただ「つまらない、くだらない、馬鹿らしい」を通り越し、見ている筆者を心から不愉快にさせてくれる。

 お笑い番組でもない、普通に内容を楽しみたい、内容の面白さで視聴者を引きつけるべき旅番組や情報番組、果ては真面目な社会問題を取り上げた番組で。
 なぜわざわざ芸人にふざけさせ、笑いを取ろうとする必要があるのか。

 それが筆者には、本当に、心から理解できない。

 ドラマや映画などの売り文句に、よく「笑いあり、涙あり」というものがある。
 筆者はそれを見ただけで、その作品に期待するのはやめる。
 何故なら笑いと涙は、両立しにくいからだ。

 古代ギリシアの昔から、お芝居には悲劇と喜劇があるが。
 悲劇と喜劇、皆さんはどちらの方がストーリーを作るのが難しいか、おわかりになるだろうか。
 ズバリ言う。
 悲劇より喜劇を書く方がはるかに難しいと、迷わず断言できる。

 何故なら人が泣くポイントは、大体同じだからだ。
 家族や恋人が難病で死ぬ。
 深く愛し合う二人が、運命に弄ばれて引き裂かれる。
 主人公が非業の死をとげる。
 こうした悲しく辛いシーンでは、人はたいてい泣く。
 皆が泣くシーンで笑えてしまうような人はサイコパスの疑いがあり、精神科の医師の診察を早めに受けるべきだ。

 それに比べて、笑いのツボは人それぞれだ。
 駄洒落やオヤジギャグは今の若い人達をシラケさせるが、それで大笑いできる人も間違いなく、それも少なからずいるのだ。
 例えば筆者は、いわゆる「体を張ったギャグ」では全く笑えない。
 と言うより、イジメに近いように見えて心から不愉快でしかない。
 イジメと言えば、イジリも筆者は大嫌いで反吐が出る。
 芸人同士が事前にお互い了解した上でイジったりイジられたりするなら、それも良い。
 しかし芸人が芸人でもない者、特にスタジオに来ていた一般人の観客をイジるのを見ると、心から腹が立つ。
「お前、何様だよ!?」と。
 だがこうした、体を張った芸や、芸人以外に対するイジリを好きで大笑いできる人達もいる。
 それもかなり大勢。

 筆者は幼い頃、ドリフターズの『8時だよ! 全員集合』が大好きだった。
 親に「下らない、下品だ」と顔をしかめられても、毎週楽しんで見た。
 何故ならドリフの『全員集合』はまず筋書きが作られ、それに沿って何日も稽古を重ねた上で披露された立派な“芸”だからだ。
 そしてどつき合うのはメンバー同士でだけで、ドリフは決して観客の一般人をイジったりしない。
 しかし今は、それとは真逆の筋書きも稽古も無い、芸とはとても言えない反射神経的な“笑い”がウケている
 流石はプロの芸だと唸らせるようなよく練り上げられた笑いより、「悪ふざけが好きな、クラスの面白い男子」レベルの笑いの方が人気だ。
 そしてそのレベルの“お笑い”が、ほぼすべてのテレビ番組を浸食している

 筆者は小咄が好きで、世界各国の小咄もよく読んでもいる。
 ここで筆者の好きな小咄を、三つほど紹介しよう。

 北朝鮮で。
 工場に出勤した労働者が、5分遅刻して逮捕された。
 罪状は、サボタージュ。
 始業時刻より5分早く出勤した労働者も、逮捕された。
 罪状は、スパイ容疑。
 始業時刻ちょうどに出勤した労働者もまた逮捕された。
 罪状は、外国製の時計の不法所持。

 まだロシアが共産党支配のソ連だった頃、アメリカ人とフランス人とロシア人が、「自分の人生で地獄だった時と、天国だった時」について語り合った。
 まずアメリカ人。
 株で大損して借金を抱えて破産寸前で、自殺も考えるほど追い詰められていたあの時は地獄だった。ところがその株が急に値上がりして、一晩で大金持ちになっていた時が天国さ。
 続いてフランス人。
 好きな女の子に何度アタックしてもフラれ続けて、あの時は地獄だった。けれどその子がやっと気持ちを受け入れて、彼女になってくれたんだ、その時は天国だったよ。
 最後にロシア人。
 深夜遅くに、アパートのドアが激しくノックされた。こんな時間にこんなノックのされ方なんて、厭な予感しかしない。けれどノックがいよいよ激しくなるから、恐る恐るドアを開けると、案の定、黒服姿の秘密警察の男たちが怖い顔をして立っていた。その時は地獄だったよ。
 で、その秘密警察の男たちがこう言った。
「お前は、イワン・ペトロビッチ・チュイコフだな?」
「いいえ、それはもう一つ上の階に住む男です」
 この時が天国だったよ。

 いろいろな国の人を乗せた豪華客船が難破した。
 乗客は救命ボートで逃げなくてはならなくなったが、その救命ボートの数が足りず、女性しか乗せられない。
 それで船長は、まずイギリス人の乗客たちの所に行ってこう言った。
「レディー・ファーストでお願いします、女性を救命ボートに乗せて、男性はそのまま海に飛び込んで下さい」
 イギリス人の男性たちはそれに従い、次々に海に飛び込んで行った。
 次に船長は、ドイツ人の乗客たちの所に行った。
「船長命令だ、男は海に飛び込め!」
 果たしてドイツ人の男たちは、次々に海に飛び込んで行った。
 今度は船長は、フランス人の乗客たちにこう言った。
「駄目駄目、危ないから海には絶対飛び込まないで!」
 するとフランス人の男たちは、次々に海に飛び込んだ。
 さらに船長はアメリカ人の乗客たちに言った。
「大丈夫です、乗客の皆さんには充分な保険がかけてありますので、万が一の時には多額の保険金が支払われます」
 アメリカ人の男たちは、次々に海に飛び降りた。
 そして船長は、最後に日本人の乗客の男たちの所に歩み寄り、こう言った。
「他の方々はみな海に飛び降りて、残るのは貴男方だけになりましたが、さあどうなさいますか?」

 これらの小咄に筆者は大笑いしたが、「何が面白いのか全くわからない」と言う人も少なからずいると確信している。
 事実、これらの小咄を披露したところ、ある親しい人は意味をすぐ理解した上で「それはブラック過ぎてジョークじゃないよ、笑えないって」と言った。

 おわかりだろうか。
 笑えるツボとは、人によって本当に違うのだ。
 断言するが、「皆を笑わせるなど、絶対に不可能」なのだ。
 だから「笑いあり、涙あり」のドラマでは、多くの人を泣かせることは可能でも、笑いの部分ではかなりの確率でスベる。
 ゆえに悲劇と喜劇はしっかり分けて造った方が無難で、「悲しくて笑える」悲喜劇を造ろうとすると、まずたいていは失敗する
 と言うか、なぜ悲劇でわざわざ笑わなければならないのか、筆者には理解できない
 悲劇は見て泣けば良いのであって、笑いたければ喜劇を見れば良い。
 筆者はそんなスタンスだから、映画もかなりいろいろ観ているが、喜劇、悲劇、ホラー、アクション、サスペンスとジャンルがハッキリした作品を好み、「笑いあり、涙あり」というような、いろんな要素を盛り沢山にした作品はスルーしている。

 笑いのツボは人それぞれで、ある人が大笑いしたネタが、別の人には面白くないどころか不愉快でしかないことが、笑いの世界には当たり前にある。
 だから「無闇に芸人を起用して、情報番組や旅番組どころか報道番組でまで無理に笑いを取りにゆくのは、ただ不愉快でしかないから本当にやめて貰いたい」と、テレビ業界の人に心から願う。

 だが近年のテレビ局がそんな風になってしまったのは、芸人を起用した方が視聴率を取れているからだろう。
 お笑い番組でもない情報番組や旅番組や報道番組で芸人がふざけるのが、現に視聴者にウケているのだろう。
 と言うのはつまり、テレビを見る者のレベルが劣化した、平たく言えば「国民が馬鹿になった」という事だろうか

 だとしても。
 視聴者が喜ぶ→どの番組にも芸人を起用してふざけさせる……という繰り返しでは、番組の質が落ちる一方で、まともな人のテレビ離れが進み、「テレビを見るのは知的レベルの低い人ばかり」という結果になるのではないだろうか。

 繰り返し言うが、筆者はお笑いや芸人を否定しているのではない。
 筆者はお笑い番組も見るし、芸人さんの練り上げられた芸を見るのは大好きだ。
 ただふざけるべきではない番組でふざけるのや、イジメに近い“体を張った芸”に“イジリ”や、芸とも言えない反射神経的な受け答えで笑いを取ろうとするのは、本当に止めて欲しいと心から願う。
 芸人さんは舞台やお笑い番組に出るべきで、彼らが情報番組や旅番組や報道番組で無駄にふざけて「爪痕を残そう」とあがくのは、ただ不愉快でしかない。
 筆者はそう思うのだが、皆さんは「テレビに笑いの要素は絶対に必要で、旅番組にも情報番組にも報道番組にも芸人がどんどん出てふざけてくれた方が、内容が柔らかくなって面白い」と思うのだろうか?

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断言する、「保守は右翼」ではない!

 このブログで、筆者は己の思想について「基本的に保守だ」と言い続けてきたが。
 しかし今は、主に右翼の人から「左翼だ」と言われることが何度もある。
 だからこの際、はっきり言っておこう。
「筆者は保守だが右翼ではない」
 もっと有り体に言えば、筆者は子供の頃から反共主義者だが、それと同じくらい右翼も大嫌いだ。

 残念なことに、この国では一般に「保守派=右翼」と思われている
 だが筆者は右翼でないどころか、「天皇の祖先は神だと妄語し、戦前戦中の大日本帝国を美化し、A級戦犯を擁護し、靖国神社の遊就館に共感し、第二次世界大戦における日本の侵略戦争を正当化し、日本会議に支えられた現政権を応援する輩」を、反吐が出るくらい嫌悪している。
 平たく言えば、筆者は「右翼ギライの保守」なのである。

 だがやはり、日本では「保守なら右翼思想に共感する筈」と思われている。
 そこで「筆者がなぜ反共の保守派でありながら右翼も大嫌いなのか」を考察しつつ、この国では一緒くたにされがちな「保守と右翼の違い」について書いてみたいと思う。

 筆者が物心ついた頃の日本は、思想的には本当に異常だった。
 何しろ知的レベルが高いと思われている“知識人”達に、子供でもわかる常識が通じないのだから。
 筆者は保育所に通っていた頃から本を読むのが好きで、小学校に入った頃には事典や図鑑なども好きで楽しみながら進んで呼んでいた。
 で、筆者はまだ十歳にもなるかならぬかという頃、その学習大事典に変なことが書いてあるのに気付いたのである。

「北朝鮮は民主主義の進んだ工業国で、韓国は独裁政権の遅れた農業国である」
 本当にそう書いてあった
のである。
 書いてあったのは、共産党系など左翼の出版社の事典ではない。
 思想的には全く色の付いていない、名前を皆が知っているレベルの大手の出版社の大事典に、そう書いてあったである。

 共産主義の北朝鮮は良い国で、韓国は政府が民衆を弾圧する遅れた悪い国。
 信じられないだろうが、程度の低いジョークと思われるだろうが、筆者が子供の頃のこの国の“知識人”達は、正気でそう信じていたのだ。
 だから日本の学者や知識人は、朝鮮戦争についても「確証は無いが、アメリカの支援を受けた韓国が仕掛けたと思われる」と言っていた
 北が仕掛けたのではないかなどと言おうものなら、たちまち右翼の軍国主義者扱いされた。

 ミリオタで古代から現代までの戦史の研究もしてきた筆者が、事実のみを言おう。
「少なくとも緒戦は、戦争を仕掛けた方が勝って優位に戦を進める」
 これが戦争の常識
だ。
 何故なら、充分に準備を整えた上で一気に不意打ちをかけるのだから、「初めのうちは戦争を仕掛けた方が勝つのが当たり前」なのだ。
 だから国力が圧倒的に劣る日本でさえ、太平洋戦争の緒戦では大国アメリカに対し優位に立って戦えたのだ。
 充分に作戦を練り準備も整えて一気に不意打ちをかければ、小国でも大国に対し優位に戦える。
 少なくとも持久戦になり、国力の差が出てくるまでは。
 筆者の知る限り、近年の戦争で自国から攻め掛かって敗れたのは、ムッソリーニのイタリア軍くらいである。

 では、朝鮮戦争について事実を書こう。
 ソ連製の戦車も伴った北朝鮮軍の大軍が、国境線からなだれ込み、僅か数日で韓国の首都ソウルは陥落した。
 北朝鮮軍はその後も破竹の快進撃を続け、韓国軍は釜山の周辺に追い詰められ、米軍の支援を受けなければ日本海に追い落とされて全土が共産化し、日本に亡命政権を樹立しなければならないところであった。

 この事実を見るだけで、「この戦争は北が準備して仕掛けたに違いない」と小学生の筆者にも容易に理解できた
 しかしかつての我が国の学者や知識人達は、「確証は無い」と前置きしつつ、「韓国が仕掛けたと思われる」と皆が本に書き続け、そう発言もした
 もしもその通りだとしたら。
 自分から仕掛けた戦争で、国境線すら越えられずに大敗し、たちまち首都を攻め落とされて釜山の周辺に追い詰められてアメリカ軍にようやく助けてもらうなど、「韓国人はひどい間抜けで腰抜け」ということになる。
 朝鮮戦争の推移から、常識で事実を考えよう。
 あの戦争は、ソ連から軍事的な支援も受けた北朝鮮が不意打ちをかけて攻め込んだのだ。
 そんなことは子供でもわかるし、今はそれが常識になっている。

 しかし筆者が子供の頃には、この国の学者や知識人達は「朝鮮戦争は韓国が仕掛けた」と主張し続けていた。

 筆者が物心つくかつかないかの頃、この国には「べ平連」というグループがあり、知識人や学生の支持を受けていた。
「南北で戦争をしているベトナムに平和を」というのが彼らの主張だが、実際には「ソ連が背後にいる共産主義の北ベトナムを助けて、南ベトナムとそれを支援しているアメリカを非難して叩こう」というのが本音だった。

 事実を言おう。
 アメリカ軍と南ベトナム政府軍は、確かに現地で残虐行為も働いた。
 しかし何故それがわかったかと言うと、ズバリ「アメリカが自由の国だから」だ。
 アメリカは自由の国だから、戦場に記者が同行して取材することを許した。
 だから反アメリカの左翼の者達まで“記者”として前線に出て、アメリカ軍の悪い点を取材し、そしてそれを全世界に報道した
のだ。
 それでアメリカは、戦闘でなく報道でベトナム戦争に敗れたのだ。
 北ベトナム軍でなく、アメリカ軍を非難し戦争に反対する世論に敗れたのだ。
 日本の「べ平連」という連中は、政治的な駆け引きだの報道合戦(プロパガンダ)だのという“裏”は一切知らず、アメリカ軍の戦いは不都合な部分まで自由に見て、北ベトナムについては「北が見せたい、北の都合の良いところ」しか見ずに帰って来て、「アメリカは酷い、北ベトナムは正しいし可哀想」と言い立てたのだ。

 さて、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、日本の知識人たちは何故こうも左翼勢力ばかり「正しい」と盲信して応援してきたのか
 何と彼らには信念があったのだ。
「共産主義者は、戦争を仕掛けない。戦争をする(したがる)のは、戦争で金儲けをしたい資本主義者である」
 彼らは何の根拠も証拠も無く、ただそう信じていた
のだ。
 それも正気かつ本気で。
 本当に愚かすぎたのだ、戦後の日本の左翼は。
 少なくとも筆者が幼い頃のこの国の左翼は、子供よりも馬鹿で常識知らずだった

 だからこの国の左翼たちは、ベトナムを統一した共産主義国家のベトナムと、同じく共産党一党支配である中国が国境を巡って戦争(中越戦争)をした時、思想的に大混乱に陥った。
「戦争をしない筈の共産主義の国同士で、どうして戦争をするのか?」と。
 共産主義の国は、自分から戦争を仕掛けない筈。
 それまで何の理論的根拠も無く正気でそう信じていたのだから、考えが幼稚すぎて、傍から見ていて失笑ものであった。

 そもそも戦争についての考え方も、この国の左翼は異常かつ非常識だった。
 何しろ「どんな理由があろうと、とにかく戦争は良くない」、「自衛の戦争でさえしてはいけない」と言うのだから。
 だとすれば。
「日本軍の侵略と戦った中国軍も、日本軍の真珠湾への不意打ちに怒って戦ったアメリカ軍も悪い」という理屈になる。

 まあ日本には、今もなお「戦争は中国やアメリカが仕掛けたもので、悪いのはABCD包囲陣で、日本はアジアを白人支配から解放する為に正義の戦争をしたのだ」と強弁するキ○○イもいるが。
 その種の精神科や心療内科の診察を受けることを勧めたい人達もいるから、話題をヨーロッパでのナチスとの戦いに変えよう。
 例の日本の左翼の「どんな理由があろうとも、戦争はいかなる場合でも駄目」という理屈に従えば、「ナチスの侵略と戦ったイギリス、フランス、ポーランド等も悪い」という話になる
 つまり今で言えば、「イスラム国に攻められても戦ってはいけない」と。

 かつて日本の左翼に対し、「日本が侵略されても、戦っては駄目なのか?」と問うた人がいる。
 それに対し、当時の社会党の石橋政嗣委員長はこう答えた。
「戦わずに、非暴力で抵抗した方が良い」

 つまり平気で大量虐殺をするナチスや北朝鮮やイスラム国に侵略されても、「ガンジーのように非暴力で抵抗しろ」と
 ナチスや北朝鮮やイスラム国に攻められても「戦争はいけないからと」と戦わず、そのまま征服されて非暴力の抵抗運動をしたらどうなるか、容易に想像がつくだろう。
 強制収容所は満杯になり、虐殺された市民の死骸が山積みになるに決まっている。
 非暴力での抵抗が効果があるのは、相手がアメリカやイギリスのような、少しは道理や理性が通じる国の場合だけだ。
 自分の信念の為には、国民がどんな酷い目に遭わされて殺されても構わない。
 これがこの国の、知識人とも称していたかつての左翼の正体
だ。

 筆者が幼い頃から若い時代までは、こんな輩が“知識人”として学問と言論の世界を牛耳っていた。
 テレビでものを言う学者やコメンテーターから、学校の教師まで、殆ど皆が左翼だった。
 だから筆者は左翼が大嫌いなのだ。
 筆者には、この種の「議論の出来ない、道理や常識の通じない左翼たち」と一人で論争し続けてきた自負がある。
 中学時代から大学を卒業するまで、同級生に「まーた黒沢が逆らってるよ」と白い目で見られながら、左翼の教師や教授と論争をし続けてきた。

 だからソ連が崩壊し、共産主義の駄目さが誰の目にも明らかになった時には、「これでまともな世の中になる」と安堵したものだ。
 ところが世の中は“まとも”にはならなかった。

 話は少し変わるが、筆者は無神論者である。
 と言うより、神様であれ、○○学とかの創始者の偉いセンセイであれ、「何かや誰かを信じる」ということが苦手なのだ。
 例えばある人が、それまで十回約束を守り、約束を違えたことはまだ一度も無かったとしよう。
 筆者は彼がその次の十一回めにも約束を守るかどうかについては、「多分、おそらく、きっと」としか思わない。
「彼なら絶対に約束を守る!」と信じたりはしないのだ。

 筆者は、基本的に物事も人も信じない。
 何故なら「信じるということは、よく見て考えることを自ら放棄すること」だからだ。
 端的に言おう、「信じることとは、思考停止そのもの」なのだ。
 だから神はもちろん「○○センセイの教え」も信じないし、信じることを強要する人は大嫌いだ。

 信じることは楽だ。
 何かを信じれば、自分の目でよく見て、自分で悩みながら考えなくて済むから。

 だから多くの人が「信じたい」のだ。
 自分の目と脳を使わずに、楽をしたいから。

 だが筆者は、自分の目と脳を酷使してでも、自分で考え自分で判断したいと思う。
 皆が右翼の戦前戦中には天皇を神と拝んで「軍人として死ぬのが誇り!」と叫び、皆が左傾化した戦後は一転して左翼思想を口にするような、空気に合わせて生きる文字通りの“馬鹿”には、死んでもなりたくない。

 そんな筆者にとって、「天皇家の祖先は天照大神で、天皇は現人神である」という思想は噴飯ものだし、それを歴史教科書で教えようとするなど狂気の沙汰としか思えない。
 池田某であろうが大川某であろうが天皇だろうが、同じただの人間を神と拝まされることを、筆者は断固として拒否する。

 あの最初から勝ち目のない愚かな戦争を仕掛けた原因を、ABCD包囲陣のせいにして、「やむを得ない自衛の戦争だった」と言い張る者が、この国の大企業の重役だった人間にもいるのだから呆れる。
 既に故人となったがアサヒビール株式会社の名誉顧問だった中條高徳という人は、死ぬまで自分が受けた陸軍士官学校の教育を自慢し、スーパードライも「陸士で教育された戦術で売った」と自慢している
 それだけでなく、「戦争はABCD包囲陣のせいで起きた」だの、「戦後の占領下に決められた事は全て白紙に戻すべき」だのと、戦争と軍国日本を肯定する極右の妄言を何冊もの本に書いて売っている
 それを知り筆者は、元から嫌いだったスーパードライがますます大嫌いになった。

 あの戦争は、史実を客観的に見れば日本が侵略の意図をもって仕掛けたと見るのが常識だが、どうやらこの国では違うらしい。
 それどころか「首相の祖父がA級戦犯で、首相自身も刑死したA級戦犯をこの国の発展の礎となったと褒め称えている」というこの現政権下で、「日本は悪くない、アジアを白人支配から解放する為に戦ったのだ」と正気で言う“戦前復古思想”の人達が急速に増えている
 端的に言えば「天皇陛下の為に死ね」と教えている教育勅語を、一政治家がでなく、閣僚らが再評価し始めたのもまた安倍政権下でだ。
 筆者が受けた、昭和の時代の戦後の教育は明らかに“左”に行き過ぎだった。
 しかし平成から令和にかけての今の日本の空気は、明らかに“右”に偏り過ぎている。


 天皇の祖先を神と言い張る。
 大日本帝国の軍国主義と昭和13年から20年までの侵略戦争を美化して正当化する。
 こんな人達がこの国に増えている現実が、筆者には不快でならない。

 保守とは何か。
 繰り返すが、「保守=右翼」ではない
 幕末にその中身をよく知りもしないくせに“維新”と聞くだけで良いものと思って幕府に暴動を起こした民衆や、同様に中身をろくにわかってもいないのに“改革”というだけで良いものと思い込んで小泉政権を支持して日本を非正規だらけの格差社会にしてしまったB層と呼ばれる大衆のように、とにかく社会や体制を“ちゃぶ台返し”にひっくり返すことを望むのではなく、古くても良いものは残しつつ漸進的に世の中を変えて行こうというのが保守だ。
 だから日本では社民党や共産党の支持者が革新、自民党の支持者が保守と言われるが、例えば中国では自由を求めて今の体制を壊そうとする民主派が“革新”で、共産党の支持者が“保守”になる。
 しかし長くイギリスの統治下で民主政治に市民が慣れている香港では、中国共産党を支持する親中派の市民は“保守”とは言えまい。
 むしろ香港では、これまでの自由と約束されていた一国二制度を守ろうとする市民の方が“保守”だろう。
 その社会により“保守”の立ち位置は変わるものであり、単純に「保守は右翼」と思い込む日本人は無知だ。

 筆者はこの国が豊かで自由で、そして国民は総中流で学校を卒業したらほぼ正社員になれる時代に育った。
 だからそんな時代を愛する。

 軍国主義で二十歳になれば皆が兵隊にされ、思想や言論の自由も無く、天皇を神と拝まされる。
 学生も労組も本分から離れた政治闘争に没頭し、背後でソ連や中共が操る左翼が“知識人”として幅を利かせる。
 合い言葉は自己責任で弱い者は切り捨てられ、多くの者が派遣社員や不正規の職員として貧しい暮らしを強いられ、そのはけ口に愛国心が使われ、弱者や外国人が攻撃対象とされ、非国民や反日という言葉が再び飛び交う。
 どの時代も、筆者は大嫌いだ。
 右翼も左翼も、筆者はどちらも同じくらい嫌悪している。

 筆者は「自由で国民がほぼ正規雇用で総中流だった昭和後期のような時代が続いてほしい」と願う保守だが、大日本帝国を恋しがり軍国日本を正当化する右翼とは人種も脳味噌の構造も違う。
 だからそもそも右翼にはとてもなれないし、なりたくでもない

 この国で“保守”と言うのは、自由で平和で、望めば皆が正規雇用の安定した職に就けた、比較的平等で格差が少ない、昭和の後期のような社会が長く続いてほしいと願う人達ではないか。
 事実自民党で“保守本流”と呼ばれるのは、軽武装で平和を愛し、憲法改正や靖国参拝などのイデオロギーより、各国との友好と経済発展を優先するグループである。
 中曽根康弘、小泉純一郎、そして安倍晋三などの首相は、自民党のトップとしてはむしろ非主流の傍系なのだ。
 憲法改正に血道を上げ、A級戦犯が合祀された靖国神社に参拝したがり、教育勅語や修身など戦前の教育を再評価し、挙げ句の果てには歴史を歪曲し先の大戦の日本が行った戦争の侵略の罪を否定して正当化しようとする輩は正しい意味での保守ではなく、この国を戦前の軍国日本に戻したい復古派の“右翼”だ。

「保守は右翼」と思われがちなこの国で、筆者は己が保守を自認しているのになぜ日本の右翼に強い嫌悪を感じるのか、自民党の重鎮である伊吹文明先生の言葉でよく理解できた。
 伊吹先生は、こう言っている。

「保守という思想は、右翼の国粋主義や排外主義とは全く別物。保守は自分が一番なんてうぬぼれたりしない。保守は個人も大勢の人も間違うという謙虚さから出発する。だから一時の感情に突き動かされるのではなく、長い歴史を越え試行錯誤の結果残った伝統的規範を重視する」


 筆者が歴史を学んだのは、そのせいでもある。
 歴史を長い目で見て、なにが正しいかを見極めたかったからだ。

 例えば天皇制は長く続いたが、天皇がその間ずっとこの国を実効支配していたかと言うと、そうではない
 平安期の摂関時代には実権は藤原氏にあったし、少なくとも承久の乱から江戸幕末までの六百数十年は実権は武士にあり、天皇など飾り物に過ぎなかった。
「大君は神にしませば」と、天皇が公式に神を自称するようになったのは、天武・持統天皇の頃だ。
 しかし宮廷貴族こそ天皇を神として拝んでいたものの、その「天皇は神」という意識や思想が、古代日本から一般庶民にまで行き渡っていたかどうかは大いに疑問だ。
 実際、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの古代の書物を見ても、仏の偉さを書いた話は多くあるが、神としての天皇の偉さを書いた話は殆ど無い。
 それらを見る限り、民衆に「仏は偉大だ」という意識はあったが、「天皇は偉大だ」という意識はあまり無かったように思える。
 時代はかなり下るが、江戸期の町人にとっても一番偉いのは上様(将軍)であって、天皇の偉さを知る者など国学者くらいのものであった。
 だから歴史的に天皇が神としてこの国で絶対的な力を持っていたのは、「平安中期頃までの古代に貴族に対して」と「明治維新から敗戦までの間」に過ぎない
 特に全国民が天皇を神として拝んだ(学校教育で拝まされた)のは、我が国の約二千年の歴史のうちの、例の「明治維新から敗戦まで」の僅か77年間に過ぎない
 この国の右翼は、天皇が神を自称し主権を握っていた古代と、その77年間の「富国強兵、軍国日本」の時代を日本の長い歴史すべてであるかのように言い、「天皇は神で軍国の大日本帝国の時代に価値観と歴史観を戻すのが、歴史と伝統を守る保守だ」と主張する。
 この国の歴史をまともに学んだ者から見ると、我田引水が過ぎて愚かしく、笑止千万である。

 大和民族は世界に冠たる優れた民族と思い込み、中国、そして仏印と諸外国の非難を無視して軍を進めて侵略し、アメリカとイギリスにも同時に戦争を仕掛けて。
 これが伊吹先生の言う「自分が一番なんてうぬぼれ」、「一時の感情に突き動かされ」た末の「個人も大勢の人も間違」った実例でなくて何か。

 その「自分が一番とうぬぼれ、過去には一時の感情に突き動かされて個人も大勢も間違って戦争を犯したと反省する謙虚さ」の欠片も無いのが、今のこの国の右翼だ。
 伊吹先生は「保守は、国粋主義や排外主義とは全く別物」とおっしゃっているが、今の我が国に跋扈している右翼は「国粋主義や排外主義そのもの」ではないか。
 だから筆者が「保守だが右翼は嫌い」だったのは、決して間違いではなかったのだ。

 伊吹先生の話に戻ると、先生はこうも言っている。
「保守とリベラルは決して敵対するものではなく、実際の政治では両者の間を揺れ動くもの」

 社会主義とは、そもそも行き過ぎた資本主義に対する批判と反動から生まれたものだ。
 人権を省みない過酷な労働環境と酷使、それに対する反発で生まれた社会主義は確かに過ちも犯した。
 効率が悪く腐敗も生み、ソ連と東欧の共産圏は崩壊した。
 現在まだ生き残っている共産主義の国は、政治的には独裁を強化する一方で経済を自由化している。
 だから共産主義の国なのに、貧富の格差という矛盾が生じている。

 社会主義や共産主義は駄目だ。
 それは殆どの人の目に明らかになっている。

 ただ「資本主義の一人勝ち」というわけではない。
 日本では小泉元首相が始め、多くの国民が喝采を送った「何でも自己責任」の新自由主義もまた悪だと、筆者は考えている。
 共産主義は敗北したが、資本主義の反省するべき点として、社会主義はそれなりに良い遺産も残した。
 福祉や年金や医療保険、労働組合などだ。
 弱肉強食で何でも自己責任で、「弱者など知らぬ、死ぬまで働き、貧乏人は野垂れ死ね」と言わぬばかりの資本主義を人道的に良い方面に是正したのが社会主義だ。
 だから筆者は「この国が社会主義や共産主義になっては困るが、左翼思想にも良い点があり、社会主義思想と社会主義勢力がある程度あって良かった」と考えている。

 それに引き替え、戦前戦中の日本の、天皇主権の国家や軍国主義社会や右翼思想に、国民の為になるような良い点は何か一つでもあったか?
 社会福祉や医療保険や労働組合のような良い制度を、戦前戦中の軍国日本は何か残したか?
 戦前の軍国日本が残したのは「神である天皇の為に死ね」という教育勅語と、それによる三百万人を越す戦没者だけではないか。
 そしてその教育勅語を「再評価しよう」というのが、安倍政権とそれを支える右翼勢力だ。
 だから筆者は左翼は大嫌いだが、「右翼は左翼よりクズで、存在そのものがただ害悪でしかない」と断言する。

 憲法第九条は非現実的な空想論だと思うし、同性婚や選択制夫婦別姓には断固反対し、行き過ぎた「何でも男女平等」にも疑問を持つが、基本的には自由主義で、右も左もとにかく全体主義は大嫌いだ。
 天皇を神と拝む戦前戦中の軍国日本で生きるのも、隣の共産党支配の中国のような国で生きるのも、どちらも真っ平だと思う。
 こんな「保守だが右翼は嫌い」である筆者は、無謀な侵略戦争を起こし多くの国民と外国人を死なせたA級戦犯を「戦後の日本の繁栄の礎となった」と称える安倍政権が長く続いている今、「左翼だ!」と叩かれている。
 思想的には何も変わっておらず、今も昔も全く同じ主張をしている筆者が、二十世紀には「コチコチの右翼!」と非難され、今は「左翼め!」と噛みつかれているのだから、いやはや、日本人の右から左へ、そしてまた右へとめまぐるしく移り変わる筋の通らぬ変節ぶりには、ただ驚き呆れるしかない。

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沖縄戦についての無知とこの国の右傾化を憂う

 沖縄戦が終結したのは、記録上では6月23日ということになっている。
 しかしそれは日本軍の司令官である牛島満中将らが自決した日であり、そして彼は部下の兵士らに降伏を命じたわけではない
 だから実際には、司令官らが自決して司令部が陥落した6月23日以後も、沖縄での戦いは続いた。
 生き残った日本兵や、日本軍に徴兵された現地の少年兵らはゲリラ戦を続け、8月15日の日本国敗戦後も戦い続けた者もいた。
 それにより、当時の沖縄県の人口の約四分の一である約十万人が死んだ

 ちなみに、沖縄戦では民間人の他に、約十万人の“日本兵”が戦死したが。
 しかしそのうちの三万数千は、現地で徴兵された、16歳以上の沖縄県人の男性である。
 だから「沖縄戦で死んだ約十万人の民間人」というのは、正確には「女子供と老人のみの数」である。
 ゆえに沖縄戦で犠牲になった沖縄県民の数は、沖縄戦の直前に召集された青少年や成人男性も加えれば、13万人を越えると考えるのが正しい。

 唐突だが、話は1945年初頭の、ドイツとソ連(ロシア)との戦場となった地に変わる。
 それまでソ連軍の目標は「奪われた国土の奪還」だったが、それは前年までに果たした。
 そしていよいよドイツ領へ進撃を始めた1945年の初め、ソ連軍のスローガンは「復讐」に変わった。

 ソ連軍の各部隊には、政治的な指導をする共産党員の政治将校が配属されていたが、彼らはドイツ軍がロシアの女子供に対して行った犯罪や、祖国での略奪や破壊工作を数字を挙げて繰り返し語った。
 そしてソ連軍の兵士の家族に何が起こったかを語った。
 政治将校の目的は、ソ連軍の兵士に「誰もがドイツ人に恨みを晴らさなければならない」という感情を持たせることだった。

 具体的に言えば、ソ連兵にはこのようなビラが大量に配られた。

「どこで見つけようとドイツ人を殺せ! あらゆるドイツ人は我々の致命的な敵だ。女子供、老人への慈悲は要らない! 全てのドイツ人を殺せ! 奴らを消し去れ!」

「殺せ、殺せ、君たち勇敢な赤軍の兵士よ、殺せ。ドイツ人に罪の無い者などは誰もいない。スターリン同志の指示に従え、そしてファシストの獣どもを踏みつけよ。ドイツ女の人種的自尊心を力で壊せ。当然の戦利品として捕らえよ。殺せ、君たち勇敢な赤軍の兵士よ、殺せ」

「ドイツ人は人間ではない。それ故にドイツ人という言葉は我々にとって最も忌むべき呪いである。今を以て、ドイツ人という言葉が君達のライフルの引き金を引く。我等はもう話すまい。我らは高ぶるまい。我らは殺すのだ。君達がドイツ人を一人でも殺さない日があれば、それは、無駄な一日である。銃弾で殺せなければ銃剣で殺せ。ドイツ人を生かしておけば、ドイツ人はロシア人を縛り首にし、ロシア女性を犯すだろう。我々にとって山と積まれたドイツ人の死体より楽しいものはない。殺したドイツ人の数だけ数えよ。ドイツ人を殺せ。これが君達の年老いた母の祈りだ。ドイツ人を殺せ。これが君達の子らが懇願する事だ。ドイツ人を殺せ。これが君たちの祖国ロシアの大地の叫びだ。動揺するな。立ち上がらせるな。殺せ」


 そして実際、ドイツ領内に攻め込んだソ連兵の復讐は、残酷どころの話ではなかった。
 特にソ連軍が初めて踏み込んだドイツ領である東プロシアでは、年老いた男性を自宅の地下室に閉じ込め何日もかけて餓死させるなどというのはまだ優しい方で、犯した女性を全裸で生きたまま冬の川に放り込んだり、妊婦を吊して生きたまま腹を裂いて子供を取り出したりもした。
 だからソ連軍が通過した後、そこに住んでいたドイツの民間人で、女はもちろん子供も含めて生き残った者は殆どいなかったという。
 このようにソ連兵はドイツの民間人に、強姦、放火、略奪、そして手当たり次第の殺人をしながら、ドイツの首都ベルリンに向けて進撃した

 その為ドイツ人の避難民は恐怖に駆り立てられ、早く歩けなどとせき立てる必要も無く、必死に逃げ惑った。
 そしてドイツ軍の兵士らは、負け戦と知りつつ同胞の避難民を逃がす為に命を賭けて戦った

 ちなみに、ドイツは総統のヒトラーが死ぬまで降伏を拒んだ為、沖縄同様に国土のほぼ大半が戦場になった
 ドイツの東部はソ連軍に、西部は米英軍とフランス軍に分割占領された。
 そのドイツの当時の人口は6985万人で、第二次世界大戦で軍人が422万人戦死し、そして民間人は267万人死んだ。
 繰り返すが、ドイツの東部に攻め込んだソ連兵は、政治将校に「ドイツ人に復讐しろ!」と教え込まれ、ドイツ兵の捕虜のみならず、民間人を虐殺しながら進撃したのだ。
 ドイツ西部でもアメリカ兵やイギリス兵は親切というわけでなく冷淡で、フランス兵は底意地が悪く略奪と強姦を民間人に広く行った

 しかし数字上では第二次世界大戦で死んだドイツの民間人は、全国民6985万のうち267万人で、割合で言えば4%よりやや少ない
 その総人口の約4%という民間人の死者は、例の「ソ連兵の復讐で虐殺された人のみ」ではなく、「空襲などの戦災で死んだ人もすべて含めて」である。
 それを考えれば、「女子供と老人だけで、県民の約四分の一が死んだ」という沖縄戦が、いかに異常で凄惨であったか、先の大戦における日本軍の行為を正当化と美化したい右翼を除く、まともな理性を持つ者には理解できるだろう。

 沖縄に上陸したアメリカ兵は、日本人に対する復讐を叫び、民間人を犯して殺しながら進撃したか?
 もちろんアメリカ兵による強姦は、沖縄でも少なからず起きた。
 沖縄戦の体験者による、その証言もある。
 それによると、アメリカ兵は昼は民主主義を説き、夜になると「ママさ~ん」と言いながら女を捜しに来たそうだ。
 但しアメリカ兵は日本人に対する復讐など叫びはしなかったし、民間人を殺し略奪しながら進撃したりなどしなかった
 子供にはお菓子を与えてくれたりもした。

 ソ連兵が攻め込んで来た旧満州では、日本人の民間人に対するソ連兵による略奪と強姦が頻発した。
 日本もナチスドイツと同じファシストだからと、日本の民間人に対する略奪や強姦が、ソ連の上層部から公認されていた。
 しかし米英軍が駐留した終戦後の本土では、強姦はあったが政府公認ではなく、ソ連軍が占領した旧満州と違い“組織的”でも“頻発”でも無かった。
 繰り返すが、ソ連軍とアメリカ軍は違う
 なのに同じように国土の殆どが戦場となったドイツでの民間人の死者が約4%で、沖縄戦での死者はなぜ約四分の一にも達するのだ?

 ズバリ言おう。
 皇軍こと大日本帝国の軍隊は、沖縄を守らなかった。
 正確には同胞の避難民を逃がす為に戦った大戦末期の東部戦線のドイツ兵と違い、我が皇軍は沖縄の民間人を守る為に戦うつもりなどまるで無かった
 現地の少年まで戦に動員し、女学生は従軍看護婦に使い、天然の壕であるガマに逃げていた民間人は、軍の邪魔になれば平気で追い出す。
 そして民間人がアメリカ軍に投降することすら許さず、「男は八つ裂きにされ、女は犯され殺される」と脅して自決を強いる。

 これが安倍政権下で勢いを増している右翼らが、史実をねじ曲げて美化して称えている、皇軍の沖縄でした事だ。

 1944年12月、フィリピンのレイテ沖での決戦に敗れた日本軍は、作戦方針を決戦から持久戦に切り替えた。
 以後、大本営は来るべき本土決戦に備え、作戦準備に取りかかった。
 大本営は1945年1月中旬、本土決戦に向けた「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定した。
 そして1月19日、大本営陸海軍両総長は作戦計画大綱の要点を昭和天皇に上奏し、20日に昭和天皇はこれを裁可した。

 その作戦計画大綱には、次のように記されている。


 陸海軍ハ主敵米軍ノ皇土要域方面ニ向フ進攻特ニ其ノ優勢ナル空海戦力ニ対シ作戦準備ヲ完整シ之ヲ撃破ス。
 皇土要域ニ於ケル作戦ノ目的ハ敵ノ侵攻ヲ破摧シ皇土特ニ帝国本土ヲ確保スルニ在リ。


 大本営は米軍がすぐに本土侵攻に取りかかる可能性は低く、まず本土侵攻に向けて本土の外郭要域、作戦計画大綱に言う「皇土要域」を制圧し、本土と大陸や南方の連絡を断ち切り、本土空襲や本土上陸の為の前進基地とした上で本土侵攻に取りかかると考えた。
 ゆえに日本軍としてはその本土外郭要域への米軍の攻撃を迎え撃って攻勢を阻み、戦力を低減させ、作戦を遅らせて本土決戦体制の完成させ、本土を確保すべきと考えた。
 それが大本営の作戦である。

 その作戦計画大綱に、沖縄などについてこう書いてある。

 皇土防衛ノ為ノ縦深作戦遂行上ノ前縁ハ南千島、小笠原諸島(硫黄島ヲ含ム)、沖縄本島以南ノ南西諸島、台湾及上海付近トシ之ヲ確保ス。
 右前縁地帯ノ一部ニ於テ状況真ニ止ムヲ得ス敵ノ上陸ヲ見ル場合ニ於テモ極力敵ノ出血消耗ヲ図リ且敵航空基盤造成ヲ妨害ス。

 つまり沖縄は作戦計画大綱で言う「本土外郭の要域」であり、本土防衛の為に侵攻する米軍の出血消耗を図る要衝とされたのである。
 米軍が上陸した場合は、地上戦により米軍に出血消耗を強要し、飛行場建設を妨害し、本土空襲や本土侵攻の前進基地とさせないよう全力を尽くすのが、沖縄を「守る」皇軍の目的なのである。
 そこに住む住民を守り避難させる事など、全く考慮されていない。
 だから沖縄は、「本土防衛と本土決戦の為に“捨て石”にされた」と言われるのである。

 大本営陸軍部第二課(作戦課)の課長であった服部卓四郎大佐は、戦後にこう書いている。

 沖縄ハ米軍ニ出血ヲ強要スル一持久作戦ト認メ、国軍総力ノ大決戦ハ本土デ遂行スル。

 現場で戦った一兵士個人の思いは、ともかくとして。
 少なくとも日本軍を指揮する大本営は、本土での大決戦に備えて米軍に出血を強いる為に持久戦をさせることのみ考え、そこに住む民間人のことなど全く考慮せずに沖縄を“捨て石”にした事実は間違いない

 そしてドイツ軍が東部で同胞の民間人を逃がす為に必死で戦っていた1945年3月末、米軍の沖縄上陸が始まる。
 日本軍が“守る”沖縄では文字通りに出血消耗戦が展開され、女子供を逃がすどころか、本土決戦の為に民間人も駆り出して巻き込んだ凄惨な戦闘が繰り広げられるのである。
 沖縄の皇軍は民間人のことなど「全く考慮しない」どころではなく、戦争の為に子供や女性まで動員し、邪魔になれば死なせ、降伏も許さず自決を強い、沖縄の方言を喋ればスパイと疑って殺したのだ。

 この史実を前に「日本軍は立派に沖縄を守った」と言える人は、ネトウヨには「批判でなく罵詈雑言だ!」と叱られるだろうが、精神がおかしい。
 彼ら沖縄で戦った皇軍、日本兵が守ったのはあくまでも本土で、戦った目的は「米軍に出血を強い、天皇陛下がおられる本土侵攻を遅らせること」のみである。
 現地の住民の命を守ることなど全く考えないどころか、少年すら兵士にし、女子供にまで「御国の為に死ね」と強いる有り様であった。
 だから沖縄の人、特に沖縄戦を知る現地の人は「軍隊は人を守らない」と信じている

 こんな事件が、かつて沖縄であった。
 中学三年生の少女が男(県外出身の日本人)に攫われ、車で拉致された。
 目撃者もいて、どんな車で連れ去られたかも警察に通報された。
 だが折悪しく、沖縄県警にある数少ないヘリコプターは整備中で、飛べない状況にあった。
 だから県警は、知事に沖縄にいる米軍に協力を頼んだらどうかと提案した。
 しかしその提案を、当時の知事であった大田昌秀氏は断固拒絶した。
 それはただ大田氏が左翼だからだけでなく、少年兵として沖縄戦に駆り出され、その結果「軍隊は人を守らない」という思想を強く持つ“反軍思想”の人に変えられてしまったからだ。
 とにかく軍隊は敵で大嫌い。
 それが沖縄戦で少年兵として戦わされた大田氏の信条だ。
 結果を言おう。
 軍が大嫌いの大田氏(当時の知事)が米軍に協力を頼むのを拒み、それで捜査が進まぬうちに、攫われた女子中学生は強姦された上、「殺さないで」と哀願したのに石で殴り殺された。
 そして犯人はまんまと沖縄から逃げ、鹿児島県でようやく捕まった。

 もし大田氏が当時の知事として米軍に協力を要請して空からも捜索していれば、女子中学生は助かったかも知れない。
 そんな結果論から大田氏を責めるのはたやすい。
 だが大田氏を、極端な反軍思想の持ち主にしてしまったのは誰だ?
 そして県民がそんな大田氏を支持し、知事に当選させたのは何故か?

 日本は、ドイツに比べて「戦争を起こしたことに対する反省が足りない」とよく言われる。
 事実、あの明らかな侵略戦争を「八紘一宇の思想のもと、アジアを白人支配から解放する為の正義の戦争だった」と正当化する輩が一定数いて、公然と歴史をねじ曲げている

 日本の右翼はあの侵略戦争も「アメリカの陰謀だ」と言い、今の憲法は「アメリカに押しつけられたものだ」と非難する。
 そのくせ自分達が大好きな戦前戦中の日本にはまるで無く、アメリカ様から戴いた言論や思想信条の自由を楯にとって、「天皇の祖先は神」とか「戦争はABCD包囲陣のせいで、日本はやむを得ず戦った」とか「皇軍は立派だった」などと言い張るのだから、その厚顔無恥ぶりには呆れ果てる。


 ドイツは「戦争責任を反省している」と、かつて侵略して迷惑をかけた国々にも評価されている。

 そして国民が選挙でナチスに権力を与えてしまったことを深く反省し、ナチス思想を持つことは思想信条や表現の自由にかかわらず法律で禁止している
 日本では自衛隊の海外派兵はさほど抵抗なく政府により押し切られたが、ドイツ人の自国の軍を海外に派兵することに対する抵抗は日本よりずっと強い。
 しかし「軍は人を守らない」などと言うドイツ人は殆ど居ないし、再軍備も日本より早く、自国の軍に抵抗感を持つ国民も日本よりずっと少ない
 ちなみに戦後のドイツ軍は発足当初からドイツ連邦軍という正式な軍隊だが、日本では自衛隊は今も自衛隊のままだ。

 例の大田昌秀氏のような反軍左翼の政治家が、沖縄ではなぜ当選し、日本では自衛隊は今もまだ自衛隊のままで日本軍を名乗れないのか
 それはズバリ、沖縄県民が感じているように「皇軍もアメリカ軍も、県民を守るものではなかったから」だ。

 大日本帝国の軍隊は、何しろ“皇軍”である。
 天皇陛下の軍隊なのである。
 第二次世界大戦中のドイツでは、正式な国軍であるドイツ国防軍と、ヒトラーの私兵であるナチス武装親衛隊の二つがあった。
 そして武装親衛隊は「自分らは総統閣下の命令しか受けない」と、SSの兵卒が国防軍の将軍の命令さえ無視することもあった。
 大日本帝国軍は、言わば全てが天皇の私兵、皆が天皇の武装親衛隊のようなものである。
 だから「国民を守る」などという思想は、皇軍には基本的に無いのだ。
 旧満州で日本人を逃がす為に部下と共に戦った、根本博中将という立派な将軍もいたが、それは全体から見れば旧日本軍のうちの一部に過ぎない。
 当時、満州にいた日本人の多くには、軍は「民間人を置いて先に引き上げた」と認識されている。

 兵士はもちろん、国民も天皇陛下の為に死ね。
 これが右翼が美化する、戦前戦中の大日本帝国の真実
である。

 日本は、この戦争に負ける。
 そんな事は、理性ある日本軍人には1944年の時点でわかっていた。
 しかし1945年になっても、日本は戦争終結を決意できずにモタモタしていた。
 彼ら当時の日本の首脳が、この戦争は日本の負けだと知りつつ講和を進められなかった原因は何か
 それは当時の日本のエラい人達が、「国体の護持」、つまり天皇制の維持を講和の絶対条件にし、無条件降伏を拒否したからだ。
 大日本帝国では、政府も軍も「多くの国民の命よりも天皇が大事」だったのである。
 だから各地の都市が無差別爆撃で焼かれ、東京大空襲があっても、天皇制の維持の為に降伏は絶対にしない。
 そして原爆が広島と長崎に落とされ、満州に中立条約を破ったソ連軍が満州になだれ込み、昭和天皇が「朕はどうなっても良い」と死も覚悟で無条件降伏の受諾を決意なされて、ようやく降伏する始末だ。
 しかもその昭和天皇の決意にも逆らい、あくまでも本土決戦を主張してクーデターを起こしかけた青年将校らもいた。

 旧日本軍の大西瀧治郎中将という、特攻を盛んに行い多くの青年を死なせた将軍など酷いぞ。
 昭和天皇が決意されたポツダム宣言の受諾にあくまでも反対し、「国民の約四分の一の二千万人が特攻で死ぬまで戦えば日本は勝つ」と主張したのだ。
 今では靖国神社に神として祀られ、靖国神社の遊就館で特別にコーナーが設けられ遺書も展示されている大西中将の考えはこうだ。
「特攻によって、日本はアメリカに勝てないまでも負けないということだ。いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とは言えないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」
 だから国民を二千万人死なせようとも戦争を続け、国民に特攻をさせよ……と。
 そして大西中将は、こうも言った。
「ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」

 つまり「国体の護持の為に死ぬことこそ立派で、天皇制を守る為には国民など何千万人死んでも構わない」というのが、皇軍の指導者の本音なのだ。
 昭和天皇が身を捨てる覚悟で終戦を決意して下さったから、筆者の父祖も生き延び、筆者も生まれることが出来たのだが。
 その昭和天皇の決意が無く、軍部にそのまま戦争を任せていたら、軍は沖縄戦と同じ民間人を犠牲にした凄惨な戦いを、この本土でも繰り広げるつもりだったのだ。

 国民に特攻を強いて、国民の四分の一に相当する二千万人も死なせようが、戦争を続けたい。
 死ぬ為に特攻して来る無数の日本人に怯えさせ、日本人を殺し過ぎた米兵の心を病ませて戦争に勝つ。
 こんな事を正気で考える鬼が、立派だとして神さま扱いされているのだから、靖国神社の関係者はもちろん、靖国神社を有り難がって参詣に行く人の人間性や精神性もよくわかる
というものだ。

 事実を言おう。
 皇軍はただ沖縄を捨て石にして、沖縄の人だけを犠牲にするつもりでは無かった。
 御国と天皇陛下の為に、全国民を戦って死なせるつもりだった
のだ。
 沖縄で、皇軍が民間人を守らず犠牲にしたのは史実だ。
 しかし皇軍は本土でも同じように、民間人を守らないどころか戦闘と特攻に巻き込み死なせて戦い続けるつもりだったのだ。
 もし昭和天皇のご決断が無かったら、本土でも沖縄と同様の惨い戦いが繰り広げられただろう。
 それが皇軍、大日本帝国の軍隊の本質である。
 繰り返すが皇軍は天皇陛下を守る軍であり、国民を守るものではないのだ。

 軍は住民(国民)を守らない。
 その大田昌秀氏と多くの沖縄の戦争体験者に刷り込まれた実感は、大日本帝国においては事実
だった。
 一方、戦争末期に軍が避難する国民を守る為に戦ったドイツでは、ナチスの再興は許さないし侵略戦争を起こした反省をしっかりとしつつ、日本と違い軍という存在そのものに国民の反発が無いのだ。
 自国の非をしっかり認めて反省しつつ、「軍隊=悪」とは思わず再び軍隊を持ったドイツと。
 とにかく「軍隊は存在自体が悪で国民を守らない」と思い込む左翼と、史実をねじ曲げて「あの戦争は正義の戦争で悪いのはアメリカと中国であり、皇軍は立派だった」と言い張る右翼とに、マリアナ海溝ほども深く分断されている日本と。
 どちらがまともな国か
、冷静な頭でよく考えていただきたく願う。

 高校などの修学旅行で、沖縄に行く学校が少なくない。
 修学旅行は、実態はともかく建前は勉強だから、ただ綺麗な海などで遊ぶのではなく、沖縄戦の戦地を訪ねて現地の語り部さんの話を聞いたりもする。
 で、本土から訪れた修学旅行生の一人が、沖縄戦の悲惨さを若い世代に伝える語り部のおばあさんに「俺のお祖父さんは、お前らを守る為にこの沖縄で戦死したんだ!」と怒鳴りつけた
 ただ語り部のおばあさんを怒鳴りつけただけでなく、その話を本人が手柄話としてネットに書き込んだ。
 ネットには右翼思想の人が多いから、さらにそれが閲覧数を稼ぎたいまとめサイトに転載もされ、ネトウヨ達から「よくやった!」と褒められていた

 本土から来て戦死した皇軍兵士は、沖縄の人を守るどころか犠牲にし、ただ天皇陛下と本土を守る為の時間稼ぎの戦をしたのだが。
 その子孫が右翼思想に染まった挙げ句に、沖縄で戦死した祖父を美化し、沖縄戦で辛い体験をした語り部のおばあさんを罵倒して、それを得意げにネットでも語る。
 そしてそれが、本土の多くの人から賞賛される。
 残念ながら、これが今の日本の戦争を知らない若い世代の実態だ。
 こんな若者たちが背負うこの国の未来に、はたして希望はあるのだろうかと心から憂う。
 ああ、軍国日本を賛美したい歴史修正主義者の右翼の人間だけは、「ある!」と断言するだろうな。

 筆者はソ連が崩壊して左翼の駄目さが明白になるまでは、現実から目を背けて机上の空論しか言わない左翼に辟易していた。
 そして人にどう思われるか気にせず、言いたいことは言う筆者は、かつて左翼の人達と論争ばかりしていた。
 日本人は「議論=口論」と考えるから、筆者は議論をしているつもりが、相手には口論と理解されていることが多かった。
 だから左翼が力を失って、「これで皆が“まとも”になる」と思っていた。
 ところが今では、中道になるどころか右翼ばかりが増えている。

 民主党政権の失敗の後、それに懲りて森友・加計問題が起きようが、桜を見る会の問題があろうが、黒川検事長を贔屓して検事総長にする為に定年延長を数の力で押し切ろうとしようが、気に食わない同じ自民党の溝手議員を落選させる為に河井案里候補だけ強力に支援して国民の税金から一億五千万円も与えようが、福祉は切り詰める一方でトランプ大統領に媚びて米国製兵器を税金で爆買いしようが、首相とそのお仲間がどんな酷いことをしても多くの人が「民主党よりマシ」と安倍政権を支持しているように。
 今の日本は戦後長く続いた左翼の時代に懲り、リベラル色の強い民主党にも懲りた挙げ句に、反動で“右バネ”が強烈に効き過ぎている。

 教条的な左翼や建前の綺麗ごとばかりのリベラル派がこの国で絶滅危惧種になったのは、良いことではある。
 それで健全な中道になるのではなく、戦前戦中の天皇を神と崇拝し日本人を偉大な大和民族と思う夜郎自大な軍国日本を美化したい右翼の日本人が急激に数を増やしているのだから、右も左も嫌いで“まとも”でいたい筆者としては、今年も沖縄戦が終結したとされている日を迎えて、とても憂鬱だ。

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山本太郎氏と消費税に対する誤解

 山本太郎氏の出馬表明で、筆者は「東京の都知事選は小池百合子氏の再選が決まったな」とすぐに思った。
 石井妙子氏が書いた『女帝 小池百合子』は確かに評判になり、版を重ねている。
 しかし有権者である大衆には、本を読む人より、本を読まない人の方が遙かに多い。
 そして小池百合子氏は、有名なポピュリストの政治家だ。
 その煽動政治を熱狂的に支持する人達が、呆れるほど多くいる。
 だからこそ、現職の小池百合子氏に対抗するには、小池氏に反対する人達が統一候補のもとに結集しなければ勝ち目は無い
 理由はどうあれ、それをぶち壊したのが山本太郎氏だ。
 小池都政に反対する人達が、せっかく宇都宮健児候補のもとに結集しようとしていたのに。
 山本太郎氏は泡沫候補ではなく、なまじ集票力があるだけにタチが悪い。

 実は山本太郎氏は、立憲民主党らが推す反小池の統一候補に協力するかどうか、何度も協議したと言う。
 そして山本氏は消費税を5%に引き下げることを主張して譲らず、それで話し合いが決裂し、立候補に至ったという。
 消費税は国政レベルの問題であり、都政とは直接の関係は無い。
 しかし山本氏は、都知事選の最大の課題を消費税と見ているようだ。
 都道府県知事の選挙の争点とは筋違いではないかと思うが、山本氏が反小池の票を分裂させてでも出馬を決意した消費税について、この機会に語りたい。

 消費税について語る前に、まず言っておくが、筆者も消費税は好きではない。
 同居の家族に持病がある為、我が家の買い物はほぼ筆者の役目になっているが、それだけに消費税が上がる毎にその負担を実感する。
 特に一万円以上のものを買う時には、「こんなに払わされるのかよ!」と愕然とする。
 何しろ一万円のものを買えば千円、十万円のものを買えば一万円もの税金が取られるわけだ。

 だが福祉や医療費にかかる費用が年々増えて国の財政も赤字が膨らみつつある今、感情でなく理性で考えれば消費税の引き上げはやむを得ないことなのだ。
 高福祉の国は税金も高負担なのは常識であり、事実西欧も消費税は日本より高い。
 10%でも、西欧に比べればまだ日本の消費税は低いのだ。
 もし「税金は出来る限り安くすべきだ」と主張するのなら、「何でも自己責任で済ませ、お金がないのは本人が悪いのだから、貧乏人は病院にも行くな、飢えて死んでも知ったことではない」と言い切るべきである。
 繰り返すが、行き届いた福祉を望むなら、国民もそれ相応の税負担を覚悟しなければならない
 だから筆者は、「消費税はキツいが、西欧並みに引き上げられても仕方がない」と考えている。

 消費税について、日本人には一つ誤解がある。
 共産党など左派の人達が主張する、「消費税は貧乏人ほど負担が重くなる、逆累進課税だから良くない」という言い分だ。
 それは確かに消費税は貧乏人の方が負担が重くなるだろうよ、「金持ちも貧乏人も同じものを食い、同じ酒を飲み、同じ服を着て、同じ車に乗る」という前提に立てば。
 だが現実には違うだろう。
 貧乏人が回らない寿司を、本マグロのトロを食べるか?
 貧乏人がキャビアやトリュフやフォアグラを食べるか?
 貧乏人がドン・ペリニョンのロゼや響30年を飲むか?
 貧乏人がベンツの新車に乗るか?
 貧乏人がブランドものの服を着るか?
 そもそも金持ちと貧乏人では、買うもののレベルがまるで違う。


 回らない寿司屋で本マグロのトロを食うのは金のある者だけで、そうでなければ回転寿司に行き、本当にお金が無ければ寿司すら食わずにいる。
 服だってブランドものになど目も向けず、流行も追わず、ユニクロやワークマンで買ったものをボロになるまで着ていれば、消費税の負担も少なくて済む。
 だから金のある者とそうでない者とでは、消費税の負担額がそもそも違うわけだ。
 つまり消費税はお金に余裕のある者がたくさん払い、切り詰めた暮らしをしていればそれほどは払わずに済む性質のものである。
 ゆえに筆者は、左派の人が主張する「消費税は貧乏人ほど負担が重くなる逆累進課税だ」という言い分は間違いだと考える。
 冷静に考えて欲しい。
 お金持ちは高いものを買っているし、消費税もお金のない人達より多く払っているのだ。

 その種の左派の人達に聞くが、日本より高福祉の西欧は、日本よりも消費税率が高いが何故だ?
 西欧は何でも自己責任の新自由主義の国とは違うぞ。
 そんな西欧の福祉の充実した国々で、消費税率が日本より高いのは何故だ?
「消費税=悪」と決めつけるのは止めて欲しいと、心から思う。

 無論、生活に余裕が無く一円のお金も無駄に出来ない人達にとっては、消費税率の引き上げは切実に痛いし苦しい。
 だから消費税率の引き上げは、生活保護費の引き上げ、さらに低所得者層に対する税率の引き下げや補助金の支給をセットで行わなければならない
 そうした低所得者層に対する配慮とケア無しに消費税率を引き上げる為政者は、まさしく鬼である。

 筆者は日頃から家の買い物も家事の一つとして受け持ち、消費税の負担は実感もしているが、低所得者層に対する税の減免や補助をちゃんとした上で消費税はしっかり取るのが正しい道と考えている。
 筆者は服も流行を追わないし、家電製品等のものも基本的に壊れるまで使う主義だ。
 人によく思われたいとか羨ましがられたいという欲求が自分にまるで無いので、見栄を張りたがる人については心の中で「くだらない、馬鹿じゃないの?」と思っているくらいである。
 そんな筆者にとって、消費税は抑えようと思えば抑えられる税金である。
 贅沢はしない、見栄は張らず他人にどう思われようと気にしない、モノは壊れるまで買い換えない。
 それだけで家計の支出と消費税の支払いはかなり抑えられる。

 山本太郎氏は、その都政とは直接の関係の無い消費税の5%への引き下げを強く主張して、小池都知事の再選を阻む共闘を拒んで出馬を強行したが。
 消費税が5%に下がれば「ああ、これで暮らしが楽になった」と心から実感する人がどれだけいるだろうか。

 そしてその税収が減った分を、どこから(一時的にでなく恒久的に)補うつもりなのだろか。
 例えば消費税は、回転寿司やファミリーレストランでつつましく楽しんでいる普通の人達からはそれなりに、一人分で何万円もするような高級な寿司屋やレストランで飲み食いする金持ちからはガッポリ取っている税金なのだが、「消費税率を下げる」ということは、そうした「お金持ちの贅沢にかける税額も安くすることになるのだ」ということを、山本氏はおわかりだろうか。

 高級なレストランでキャビアやフォアグラやトリュフを食えば税金もかなりのもの(千円単位かそれ以上)になるが、よく太っていて美味しい鰯の丸干し五本で248円也をスーパーで買い、家で焼いて食えば税額は19.84円、まあ約20円で済む。
 これが消費税というやつだ。
 それを理解せずに「消費税は逆累進課税で金持ち優遇だ!」と騒ぐ人達の気持ちが理解に苦しむ。
 繰り返すが、日本より高福祉の西欧では、消費税率も現在の日本より高い。

 国民としては、高福祉を望みたい。
 ただ「ではその財源は、どこから出てくるのか?」という話だ。
 国が払うお金というものは、結局は国民が税として払うのだ。
 だから充実した福祉を望むなら、「国民は税負担も覚悟しろ」ということだ。
 もちろんその際には、消費税すら負担する余裕の無い弱者も国民にいることを忘れてはならない。
 で、繰り返し言うが「生活保護世帯や低所得者層には相応の援助をした上で、取れる層からは消費税をしっかり取る」しか道は無いのだ。
 それが嫌なら、新自由主義の「自己責任だからホームレスは助けず放置し、貧乏人は病気になっても病院に行かずそのまま死ね」という社会を容認するしか無い。

 大切なのは「消費税率を下げること」ではなく、「生活保護世帯や低所得者層への援助がしっかり出来ているか?」なのだ。

 そうではなく何とかの一つ覚えのように消費税率の引き下げばかり叫ぶ政治家は、ただ「わかりやすい一般ウケ」を狙っている煽動政治家としか思えない。

 もし税金について政府を責めるなら、「消費税率を下げろ!」ではなく、「国民から取り立てた税の無駄遣いは許さない!」という方面でやるべきだ。
 本当に怒って問題にすべきなのは、日本の今の消費税率ではない。
 戦闘機や迎撃ミサイルイージス・アショアなど非常に高価な米国製兵器の“爆買い”や、賭け麻雀という犯罪行為で辞職した検事長に対する高額な退職金、コロナ禍を悪用した電通への“丸投げ”で消えた20億円など、数々の税金の無駄遣いについて本気で怒るべきだと筆者は考えるが、違うか?


 にもかかわらず山本太郎氏は消費税の5%への引き下げを主張して立憲民主党らと折り合わず、小池百合子氏の再選を阻もうとする有力候補者が二つに割れてしまった。
 山本氏は都知事に立候補するというのに、都政とは直接の関係の無い消費税の問題を振り回して共闘の申し入れを蹴り、立候補を強行したわけだが。
 もちろん立候補は、誰にも許された自由である。
 しかし『女帝 小池百合子』が出版されて話題になっている今、山本氏の立候補の強行で一番喜んでいるのは小池氏ではないかと、筆者は見ている。
 多くの熱狂的な支持者を持つ煽動政治家小池百合子という強大な敵と戦おうという今、都政とは関係のない消費税の問題にこだわり、共闘を壊し小池氏を有利にさせて山本氏は何が楽しいのか、実に不思議である。

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まともに議論できない日本人

 黒川検事長の定年延長を正当化する為の、安倍政権による姑息な検察庁法の改悪について、小泉今日子さんら多くの著名人が反対の声が挙がった。
 残念なのは、「芸能人やアスリートは政治に口を出すな」と、その反対の意志を表明した人達を叩く声が一部から上がっていることである。

 不思議である。
「芸能人やスポーツ選手は政治に口を出してはならない」という法律でもあるのだろうか。
 言論は自由な筈の、この国で?
 例えばアメリカでは、俳優が州知事や大統領にもなっている
 確かアーノルド・シュワルツェネッガー氏など、俳優からカリフォルニア州知事に転身し、そしてその後はまた俳優に戻っている。
 日本にも、国会議員を務めた俳優の中村敦夫氏もいる。
「政治的発言をするなら政治家専業になれ!」という規則があるわけではなく、芸能人が政治家になり、そしてまた芸能人に戻ることも許されている。

 不思議なのは、何人もの芸能人やアスリートが、政治に口を出すどころか、その知名度を政党に利用されて、国会議員になっている。
 それも主に、自民党に多い。
 中村敦夫氏や山本太郎氏などの例外もあるが、国会議員になる芸能人やアスリートの多くは自民党から担ぎ出されている。
 柔道の谷亮子議員とか、不倫で問題を起こした元SPEEDの今井絵理子議員とか、日本の侵略戦争を正当化する為に使われた言葉である八紘一宇を有り難がって再評価する歴史修正主義者で極右思想の持ち主の俳優三原じゅん子議員とか。
 小泉今日子氏や井浦新氏らの、黒川検事長の定年延長と絡んだ検察庁法の改悪に反対する、市民感情としてごく真っ当な発言は、「芸能人やアスリートは政治に口を出すな」と叩かれて。
 しかし芸能人やスポーツ選手であった人が政治に口を出すどころかドップリ足を突っ込んで議員になり、明らかに問題ある言動をとっても、それが自民党からの立候補で安倍政権の味方であれば叩かれない

 つまりそれは、ツイッターでの真っ当な発言たった一つを「芸能人やアスリートは政治に口を出すな」と叩く人達は、安倍政権の岩盤支持層の人達で「政権に味方する者は誰であれ大歓迎だが、安倍様に楯突く者は許さない!」ということなのだろう。
 安倍政権に賛同するなら芸能人でもスポーツ選手でも国会議員にしてもらえるが、しかし政権に反対すると「芸能人やスポーツ選手風情が、黙ってろ!」と罵られるということだ。
 この問題でも、安倍首相を強く支持する人達がどのような人間かが、実によくわかる。

 これを言うと、筆者の身元がある程度明らかになりかねないので言いたくないが、今回はあえて言う。
 筆者の尊敬する上司は、地方公務員で、それなりの地位(首長とも直に接する)にもある。
 その上司が、選挙に絡んでこう言っていた。
「地方自治体の首長を長くやりたければ、多くの人に耳障りの良いことだけ言って、実際には何もしないことだ」

 説明しよう。
 ある知事なり市長なりが何かやろうとすれば、必ず「反対だ!」という人が出てくる。
 Aという政策をやろうとすれば、「反対だ!」と言い出すa'というグループが出来る。
 そしてBという政策をやろうとすれば、反対するb'というグループが出来る。
 さらにCという政策をやろうとすれば、反対するc'というグループが出来る。
 困るのは、その反対する人達は「その知事や市長のする事には何でも反対で、a'=b'=c'」というわけではなく、それぞれ別の人達だということだ。
 で、問題の知事や市長は、何かやろうとすればする程、増えてゆく反対する人達に囲まれてしまうというわけだ。
 だから「地方自治体の首長に長く当選したければ、多くの人に耳障りの良いことだけ言って、実際には何もしないのが良い」と。

 その現実は、筆者にもよくわかる。
 例えば筆者は本質は保守だが安倍政権には大変に批判的である。
 そしてアベ政治と安倍政権をこのブログでも叩き続けて、少なからぬ安倍政権の支持者を敵に回している。
 筆者はウイスキーは大好きだが、サントリーの商法は汚いと思うし、ハイボールも美味しいと思えなく、それを隠さない為に、サントリーのウイスキーとハイボールを好きな人に嫌われている。
 筆者は猫を偏愛しているが、それが為に愛犬家には「ケッ」と白い目で見られている。
 それどころか猫を嫌う人達には、「迷惑な奴だ」と思われているだろう。
 さらに筆者は他人が煙草を吸うこと自体は否定しないが、受動喫煙をさせられる事については激しく嫌悪して怒る為、このブログのコメントにも「嫌煙厨」と書かれた。
 つまり何か自分の意見をはっきり言えば言うほど、こんな電脳世界の片隅のチンケなブログでさえ「この黒沢って奴、生意気でキライ」という人が増えて行くのだ。
 それが現実だ。

 もし敵を作らずに、かつブログの人気を上げたければ。
 反対する人が出ないように、当たり障りのないことを書くことに徹し、特に政治ネタは厳禁する。
 ホッコリしたり元気が出たりするような、明るく優しい話題を選ぶ。
 そして松岡修造氏のように、常に前向きでポジティブに。

 だからエッセイストには、「何でこんなにツッコミが浅い、表面的で当たり障りのない下らないことしか書けないのに、売れていて人気があるのだろう?」というライターがいるのだ。
 その点は、筆者自身よくわかっているのだが。
 それでも性格で、無難で元気の出るホンワカしたブログを書いて人気を得るより、憎まれても思った事をそのまま書く道を選んでいる。

 結局、政治家も何かすればするほど敵が増えて行くし、人気が大切な芸能人なら尚更自分の意見は押し隠さなければならなくなる。
 実際、ある芸能人がただ「犬好き」と言うだけで猫好きは残念に思うし、「猫好き」と言っても犬好きにガッカリされる。
 ただ好き嫌いの問題ですらそうなのだから、芸能人が政治的な発言をするのには勇気が要る。
 つまり検察庁法の改悪の問題は、それを良くわかりつつも言わざるを得なかったほど酷い法案だったということだ。
 しかしそれでも、「芸能人やアスリートは政治に口を出すな」と叩かれる。
 この国の民度は、こんな程度のままで良いのだろうか?
 当たり前の事を言っただけで叩かれるような国が祖国では「情けない」と、筆者は思ってしまう。

 この国では、本当に議論が出来ない。
 何しろ反対意見を言っただけで、「個人攻撃をされた、自分を否定された」と怒り出す人が多くいるのだから。
 だから政治家も、何かすればするほど反対者が増えてゆき、結果的に「耳障りの良いことだけ言って、実際には何もしない人が長く当選する」ということになる。
 政治家ですらそうなのだから、芸能人など人気が大切な仕事の人は、もっと自由にものを言えない。
 こんな国のままで良いのかと、心から憂う。

 小泉元首相が若かりし頃、山崎拓さんと加藤紘一さんと三人合わせてYKKと言われていた。
 その頃、山崎さんと加藤さんは政治や政策について盛んに議論したのだが、小泉さんは頑としてそれに加わらなかった。
 で、山崎さんが「何故議論しない?」と聞いたところ、小泉さんはこう答えたそうだ。
「議論するとブレるから」
 いや、議論して相手の言い分も聞き入れてブレるのが民主主義じゃないのか
 つまり国民が喝采を送った小泉さんの“ブレない政治”は「人の意見を聞かずに自分の思いを押し通す、話し合いと民主主義の否定」であって、数の力と支持率による独裁と言っても良いかも知れない。
 筆者はその小泉さんのまともに話し合おうとすらしない姿勢が、彼が首相になる以前から大嫌いだった。
 だから筆者は、本質は保守だが国民の八割が支持した小泉政権を、ただの一度も支持したことが無い。
 イラクに自衛隊を派遣して、国会で「どこが安全地域なのですか?」と問われ、「自衛隊のいる所が、安全地域です」とおちょくった答えをした時、多くのマスコミと国民は笑ったが、筆者は強い憤りしか感じなかった。
 こんなふざけた、国民を馬鹿にして議会制民主主義を踏みにじる奴が、何故この国の首相なのかと。

 話が通じない、議論できないという意味では、安倍首相はもっと酷い。
 国会で議長から制止されるくらい、首相自ら野次を盛んに飛ばす。
 野党(旧民主党系)の質問には、すぐムキになって言葉を荒らげる。
 丁寧な説明をと言いながら、お得意技は“ご飯論法”で筋を変えた話を長々と繰り返す。
 そして結局は、数の力で押し切る。
 役人の人事も全て官邸で握って、皆に忖度を強いる。

 こんな酷い総理は、戦後で初めてだと筆者個人は思う。

 そんな筆者が、今世紀に入ってただ一つだけ支持できた自民党政権があった。
 小泉さんや安倍総理と同じ清和会だが、福田康夫さんは今も好きだ。
 あの人は論理的で冷静で頭が良く、そして「お仲間でない人とも話ができる人」だった。
 福田さんに安倍総理の半分も、いや1/4も権力にしがみつく欲があればと、今も残念に思っている。

 論理的で冷静で頭が良く、意見が異なる人とも話ができる人が好きで、尊敬もする。
 こう言えば、小泉元総理や安倍首相に筆者がどんな感情を抱くか、皆さんにもおわかりになっていただけるだろう。

 例えばAさんが、Bさんに反対意見を言う。
 しかし人の考えはそれぞれ違うもので、Aさんはただそれを言っただけに過ぎない。
 AさんはBさんの“意見”に反対したのであって、Bさんの“人格”を否定し馬鹿にしたのではない。

 だか多くの日本人は、それを理解しない。
 反対意見を言われると「自分を否定された!」と感じて怒り、相手に敵意を抱く。
 それが日本人の大きな欠点
だと、筆者は考える。

 政治家は、耳障りの良いことを言い何もしない人が長続きする。
 何かすればするだけ、敵が増えてゆく。
 言論人も、何か言えば言うだけ敵が増えてゆく。
 芸能人やアスリートは自民党の議員になるのは許されるが、それ以外は「政治に口を出すな」と怒られる。
 こんな国で良いのかと、本当に悲しく思う。

 日本人にはまず冷静になり、まともに議論ができるようになって欲しいと願う。
 筋が通っているのなら違う意見も聞き、「なるほど」と思ったら相手の意見も取り入れて良い意味でブレるべきだ。
 そうでなければ、この国とこの民族に進歩は無い。

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思想信条と表現は「無制限に自由」なのか?

 多くの国民の皆さんが、「他の政権よりマシだから」という消極的な理由で安倍政権を支持しているが。
 その“他の政権”というのは、恐らく民主党政権を指すのだろうと思う。

 民主党政権が「能力もまるで無いくせに、他者の知恵すら借りようともせずに自分でやろうとした」という困った政権であった事実は、筆者も否定しない。
 ただ、民主党政権は安倍政権と違い、政権に対する批判を自由に許した。
 だから国民の皆さん、特に右翼の皆さんが忌み嫌う民主党政権時代の国際的な報道の自由度は、世界のうちで11位と極めて高かった
 ところがその後の安倍政権下で、政権に好意的であるかどうかによるマスコミの選別と、一部のマスコミとの癒着、「皆様のNHK」を「アベ様の広報」へとの切り替えが強引に進められ、国際的な報道の自由度は右肩下がりに急落し、最新の調査では世界で66位である。

 そんな我が国と比べれば、ドイツは報道の自由だけでなく、過去に犯した侵略戦争に対する反省も、我が日本よりもずっと進んでいる印象がある。
 ちなみに例の国際的な報道の自由度も、ドイツは11位である。
 だから表現の自由も、さぞかし進んでいると思われるだろう。
 ところが。
 実はドイツでは、表現や思想信条の自由には、ある制限が存在するのである。
 それはズバリ、ナチス思想である。
 ドイツではナチス思想を広めることはもちろん、信じたり学んだりすることすら憲法で禁じられている。

 具体的に言おう。
 筆者は中学三年生の時に、あのアドルフ・ヒトラーが書いた『我が闘争』をすべて読んだ。
 実に興味深く読めた。
「なるほど、政治は国民を巧く騙すのがコツか」と。
 あの『我が闘争』は、日本の知的水準の低い右翼の書き物にありがちな、特定の人種や民族に対する罵詈雑言に終始しているわけではない。
 無論、ナチス独特の人種論も書いてある。
 しかしそれより多くを、煽動によりいかにして知的水準の低い国民を動かして政権を取るかについての具体的な手法について割いている。
 だから中学生だった筆者は『我が闘争』を読んで、「政治権力とは、馬鹿な国民を騙し煽動して奪うものなのか!」と衝撃を受けたものである。

 そういう意味で、『我が闘争』は良い本である。
 ナチスの荒唐無稽な人種論については流して読み、国民の煽動の仕方と権力の握り方について書かれた部分を熟読すれば、政治家を目指す者ならヒトラーばりの立派な(?)煽動政治家になれる。
 危険な本ではあるが、現在の我が国にもいる煽動政治家と、そんな奴らに票を入れて権力を与える愚かな大衆について、実によく理解できる。

 ところがこの日本では当たり前に売られている『我が闘争』だが、ドイツでは禁書で、ドイツ国内にはほぼ存在しないのである。
 理由は単純明快で、「ヒトラーが書いたナチス思想の本だから」である。
 ナチス思想を表現することはもちろん、支持したり信じることさえ憲法で禁じられているドイツでは、危険だが上手に使えば学ぶところ大である『我が闘争』ですら、出版して売ることは勿論、正当な理由なく所持することすら禁じられている。

 ナチス式の右手を高く上げる敬礼も。
 ナチスのハーケンクロイツの旗を掲げたり、マークを書いたりすることも。
 ドイツではもちろん憲法ですべて禁止だ。
「戦争はポーランドが仕掛けたもので、悪いのは英仏米露であり、ドイツは国際共産主義から自国と世界を守る為に正義の戦争をしたのだ!」などと信じるのも思想信条や表現の自由では通らず、もしそんな事を公の場で言ったりしたら袋叩きにされる。


 ところが日本ではどうか
 例の「思想信条や表現の自由」ということで、教育勅語や修身の教科書なども含め、戦前の思想を記した本は全て再出版されている。
「天皇は天照大神の子孫である現人神だ!」とか「皇室の祖先は神だ!」と信じるのも、「戦前の日本は今と違ってピリッとした良い国だった」と言い張るのも自由である。
 だから「天皇の為に忠義を尽くして死ね」という教育勅語を、正気で再評価しようという政治家まで現れる始末である。
 それだから先の日本が仕掛けた侵略戦争についても、「戦争は中国が仕掛けたもので、悪いのは米英中蘭のABCD包囲陣であり、日本は白人支配からアジアを解放する為に正義の戦争をしたのだ!」と正気で主張する輩が少なからずおり、そしてそんな戯言を公言しても何も非難されない。

 だからドイツと違い、日本はアジア諸国から「侵略戦争を反省していない」と非難されるのだ。

 言論の自由度が日本より遙かに高いドイツですら、ナチス思想は“表現”することも“信じる”ことも憲法で禁じられている。
 先の大戦を本気で反省するのであれば。
 日本もそれくらい、例えば「天皇は神及びその子孫だという思想、戦前の軍国主義とそれを正当化する思想は憲法で禁止する」くらいしなければ駄目
だと、筆者は考える。
 そのドイツでナチス思想を徹底的に排除するような姿勢が、日本には無い
 だから戦前の日本を美化したい輩は、その大好きな戦前の日本には無かった、安倍首相とその熱心な支持者が忌み嫌う戦後レジームの中で大切に育てられた思想信条や表現の自由を楯に取り、「天皇は神の子孫で、日中戦争や太平洋戦争は悪くないし、教育勅語や修身など戦前の教育は良かった!」と騒ぎ出している。
 そして安倍政権下で、その一派の力が急速に増し、書店ではその勢力の書籍や雑誌が平積みにされているのだ。
 まさに「表現の自由の悪用」である。

 先週も、プロレスラーの木村花さんがインターネットで誹謗中傷を受けて命を落とすという痛ましい事件について、このブログで書いた。
 それを受けて与党自民党が、ネット上での誹謗中傷対策を検討するプロジェクト・チームを発足させた。
 座長は三原じゅん子議員で、SNSでの誹謗中傷に対する法規制も検討するという。
 そして自民党の稲田朋美副幹事長も平内閣副首相との対談で、ネット上での批判や悪口も含むいろんな人の発言に関して「政治家も傷付く」と話し合っていた。
 法律の専門家や被害者団体でなく、与党政治家がネット上での発言に対する法規制の先頭を切ることに対する危機感について、先週書かせていただいた。
 コロナ禍など他の問題では動きが遅い与党政治家が、ネット上の誹謗中傷による木村花さんの死の問題には「素早く、スピード感をもって」取り組んで、さらに自民党内でも右翼的な言動で知られる議員が座長を務めて法規制にも乗り出しているのは何故だろうか、と。

 調べてみると、ネットでの発言を規制したい与党の言い分は、実に身勝手である。
 何故なら与党は安倍政権下で盛んになったヘイトスピーチに、2015年に旧民主党が人種や民族に対する差別的言動を繰り返すヘイトデモなどの禁止規定を盛り込んだ法案を提案したのに対し、自民党だけでなく公明党も難色を示したのである。
 理由は、「表現の自由との兼ね合い」である。
 つまり自民公明両党に言わせれば、「特定の人種や民族に対する差別的言動を繰り返すデモも、表現の自由の範囲内」なのだそうである
 それで与野党が妥協し合い、翌2016年に成立したヘイトスピーチ対策法では、罰則や禁止規定の盛り込みも見送られた。
 つまり今のヘイトスピーチ対策法にあるのは「特定の人種や民族に対するヘイトスピーチは駄目ですよ」という建前だけで、実際にヘイトスピーチをしても罰則は勿論、何をしたらヘイトスピーチで駄目なのかという具体的な規定すら無いのだ。
 平たく言えば、「注意はするが、言い返されたり無視されたりしたらそのまま」なのである。

 笑える。
 そのように表現の自由を楯に取り、ヘイトスピーチ対策法をザル法にしてしまった自民党が、今度は「政治家も傷付くから」と、ネットでの中傷を法規制しようと先頭に立っているのである。

 ネットでの誹謗中傷を安易に規制するのは、表現の自由の観点でとても危険なのだ。
 正当な批判と誹謗中傷の区別すら明確でない現在、安易に“誹謗中傷”を法規制したら、権力者にとって気に食わない批判は全て“誹謗中傷”として処罰の対象にされかねないからである。
 批判と誹謗中傷の区別の難しさと、正当な批判を誹謗中傷と片づけてしまう危険性について、筆者は先週書いた。
 なのに表現の自由を、自民公明両党は実に都合良く使ったり無視したりする
 ヘイトスピーチについては「表現の自由だから」と規制を骨抜きにしておきながら、間違いなく表現の自由の範囲内の正当な批判との区別が難しいネット上の誹謗中傷に対しては法規制に積極的なのだから、自公両党は全く信用ならない。

 また、ネット上での誹謗中傷対策を検討する自民党のプロジェクト・チームの三原じゅん子座長は、「政治批判は何の問題もない」と、批判と誹謗中傷は区別すると言っている。
 しかしその舌の根も乾かぬうちに、ツイッターのフォロワーからの「実名で誹謗中傷する人もいるのでお願いします。芸術も何でもいいのは論外。愛知、広島トリエンナーレ、昭和天皇への侮辱的な画像も」という書き込みに、三原座長は「本当ですね」と賛同している
 ……政治批判、問題大アリ扱いじゃないデスか。
 つまり三原座長の「政治批判は何の問題もない」と言うのは口だけの建前で、本音は天皇や政権批判も抑え込み、ネット世論から芸術まで規制したいのだ。
 まるで三原座長が属する自民党右派が大好きな、八紘一宇の時代の大日本帝国のように。

 筆者は何も、SNS上の誹謗中傷に対する規制に反対と言うのではない。
 SNS上でなくても、投書であろうが面と向かっての発言であろうが、他人に「シネ」とか「キモい」などの侮蔑的な言葉をぶつけて良い筈が無い。
 匿名であるだけに暴走しやすいネットでは、確かに誹謗中傷に対する法規制が必要だと、筆者も考える。
 だが、以下の三点を皆さんによく考えていただきたい。

 ①正当な批判と不当な誹謗中傷を、きっちり区別が出来るのか? その定義をしてからでないと、法規制は許されない。
 ②ヘイトスピーチの規制については「表現の自由だ」と難色を示して骨抜きにした自民公明両党に、ネット上の誹謗中傷に対する法規制を先頭を切って語る資格があるのか?
 ③ネット上での誹謗中傷対策を検討する自民党のプロジェクト・チーム三原じゅん子座長の、賛否両論ある愛知・広島トリエンナーレ等の問題を、実名での誹謗中傷と取り芸術も法規制することを願うフォロワーに「本当ですね」と賛同するやり取りを見て。三原座長の「政治批判は何の問題もない」との、批判と誹謗中傷は区別する旨の発言を信じられると思うか?


 筆者が戦後の「思想信条や表現の自由」に関して、以前から常に「まずいな」と思っているのは、「何でもアリ」になってしまっていることだ。
 思想信条や表現の自由があるから、「何を信じ、何を言っても構わない」と。
 だからネット上での「シネ」や「キモい」、そして公道上での特定の人種や民族に対するヘイトスピーチが表現の自由になってしまっている異常事態だけでなく、他にもいろいろある。
 天皇が天照大神の子孫の現人神と信じるのも。
 戦前の教育勅語や修身の教科書は素晴らしかったと信じるのも。
 今より戦前の日本の方がずっと良かったと信じるのも。
 悪いのはABCD包囲陣で、日本に戦争責任は無い、日本は何も悪くなく刑死したA級戦犯は犠牲者だと信じるのも。
 南京や各地で日本兵が紳士的に振る舞い、捕虜も民間人も殺さなかったと信じるのも。
 そして日本軍はアジアを白人支配から解放して感謝されたと信じるのも。
 これらはすべて、信じることだけでなく世間に広めることが、今の日本では「思想信条と表現の自由」として公然と許されている
のだ。

 人に「シネ」とか「キモい」などと暴言を吐いてはいけないように。
 ドイツでナチス思想を信じたり広めたりすることが、法律で一切禁じられているように。
 アメリカでも人種差別的な言動をとったら非難され糾弾されるように。
 いくら自由な国でも、思想信条や表現は無制限に許されるものではないこと。
 基本的に自由であるべきだが、許されぬ、法で規制しなければならない思想信条や表現があることを、戦後の「何でも自由」という社会で育った日本人にも理解していただきたく思う。

 よろしいか。
 ドイツではナチス思想を、表現するだけでなく信じることすら憲法で禁じられているのだ。

 筆者の身内には戦前に生まれ、国民学校で教育を受けてガチな軍国少国民になり、そして戦後は教科書に墨を塗らされ、「御国の為に死ね!」と言って威張っていた教師らが口を揃えて「民主主義バンザイ」と言い、国防婦人会を含む近所の人達も皆「あの戦争は間違っていた、負けると思っていた」と言い出すのを見て、「もう何も信じない」と人間不信(および政治不信と国家不信)に陥った者がいる。
 ちなみにその身内は、戦前戦中の日本人が朝鮮人と中国人を民族だけで蔑視し差別していた事実も、実体験で知っている。
 その筆者の身内は、安倍政権と今の日本の右傾化を心から嘆いている。
「非国民とか売国奴とか、そんな言葉が公然と使われる時代が生きている間にまた来るとは、夢にも思わなかった」と。
 ちなみにその戦前戦中を知る身内は、「安倍政権下で右傾化した今の日本こそ悪夢」と断言している。

 なぜ今の日本に、再び戦前の大日本帝国を賛美し、教育勅語を修身の授業を良かったものとし、あの侵略戦争を正当化する論外の不届き者どもが急速に増えてしまったのか。
 それは思想信条と表現の自由の悪用だ。
 ドイツがナチス思想を持つことを法律で禁止したように、日本も戦後すぐに旧大日本帝国とその軍国主義を賛美することを憲法で禁止すべきだった。
 そうすれば、こんな右翼ばかりの日本にならなかったのに。
 戦後の日本の自由と平和は、主に戦争が続く暗い時代を生きてきた者たちの、「あんな時代に戻るのは二度と嫌だ!」という感情に頼っていた。
 とにかく個々人の強い感情論であって、しっかりとした論理は無かった。
 だからその大日本帝国の時代を知り戦争を体験した者たちの多くが年老いて死に、それらを知らぬ若い者たちが日本人の大部分を占めるようになれば、「日本は悪くなかった、日本は正義の戦いをした良い国なのだ!」と思わせたい自称“愛国者たち”の思うがままだ。

 誰だって、「自分たちの先祖は、酷いことをしたんだ」とは思いたくなかろう。
 そして古代ローマ帝国の時代から言われているように、人は事実よりも己が信じたいものを信じるものなのだ。
 そして自称“愛国者”は、そこにつけ込んだわけだ。
 だからこそ戦争を強く反省していた終戦直後に、ドイツを見習い、日本も旧大日本帝国とその軍国主義を賛美することを憲法で禁止すべきだった。
 そうすれば今のように歴史を歪曲して過去の日本を美化する馬鹿者どもが、思想信条や表現の自由を楯に取って大手を振ってのさばるような状態にはならなかっただろうに。
 そして戦後の教育がきちんとしていたら、ヘイトスピーチなど殆ど起きなかっただろうに。

 他人に対する「シネ」や「キモい」などは誹謗中傷であって、表現の自由ではないのは当然だ。
 そしてその個人が何か悪いことをしたのならともかく、政治家個人が野次られるならともかく、ただその民族であるというだけで罵声を浴びせるのもまた表現の自由ではなく、法規制すべきだ。
 なのに自民公明両党は、ヘイトスピーチの法規制には難色を示して法案を骨抜きにし、そのくせネット上での発言に対しては「政治家も傷つくのだ」と法規制を積極的に進めたがっている。
 そしてその自民党プロジェクトチームの三原座長は「愛知や広島のトリエンナーレも誹謗中傷だ」という声に「本当ですね」と共感し、芸術表現や政治的発言まで誹謗中傷として縛るつもりでいる。

 繰り返すが、筆者は「思想信条や表現の自由は無制限である」とは思わない。
 もし思想信条や表現の自由が無制限に許されるのであれば、例えば「障害者は役に立たないからみな殺すべきだという思想を持ち、それを広めても良い」ということになる。
 だからドイツは、ナチス思想を持つこと、広めることを法で禁じた。
 許されない思想信条や表現は、間違いなくあるのだ。
 その点で日本は実に遅れている。
 戦前戦中が特高警察が厳しく取り締まり、音楽ひとつ自由に聞けず、「欲シガリマセン、勝ツマデハ」の我慢の時代だったせいか、戦後はその反動で「何でも自由!」になってしまった。

 筆者はネット上の誹謗中傷に対する拙速な規制には反対する。
 それは繰り返すが、正当な批判、特に政治的な批判と誹謗中傷の区別が、日本人には難しいからだ。
 先週も書いたが、議論が苦手で、反論を自分に対する人格否定で個人攻撃と受け取る日本人は、批判を誹謗中傷と受け取る傾向がある
 だからまず批判と誹謗中傷について、異論が出ないようにきっちり定義する必要がある
 また、ヘイトスピーチを「表現の自由だ」と規制に難色を示した自民公明両党は「ヘイトスピーチしたい人達の味方」だし、その彼らが今になってネット上の誹謗中傷の法規制に乗り出すのは、どう見ても恥知らずだ。
 しかもその親玉である三原座長は、芸術や政治の問題にも首を突っ込むつもりのようである。

 ネット上の、批判ではない誹謗中傷について。
 特定の民族に対するヘイトスピーチについて。
 そしてまともな人として持ったり広めたりしてはいけない思想信条や、してはいけない事実や史実の歪曲について。

 筆者個人はよく議論し、国民の合意を得た上で、罰則付きの効果ある法で規制すべきだと考える。
 どうか政治的に偏らない、まともな議論をして、法規制を進めてほしいと願う。

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木村花さんの死を悪用する与党政治家を許すな!(批判と誹謗中傷の区別が出来るか?)

 間違いなく日本人である筆者が、同じ日本人について理解に苦しむのは、「人は好みも考えも違って様々だという事実を認めない、あるいは許さない」ということである。

 ある日本人の学生が、ヨーロッパの某国に留学した。
 そこには諸国から集まってきた留学生がいて、ある日、留学生同士が激しく言い合いをした。
 で、その勢いにビビッた日本人の留学生が、言い合いが収まった後で「凄い喧嘩だったね」と言った。
 すると言われた相手(外国人留学生)は驚いた顔をして、こう答えた。
「喧嘩? ただ議論してただけだろ」
 事実、言い合いをしていた留学生同士はその後も何も根に持たず、前と変わらず仲良くしていた。

 おわかりだろうか。
 宗教や人種の違ういろいろな人と一緒に暮らしてきた人達は、「人は皆、好みはもちろん価値観も考え方も違う」とわかっている。
 だからA君とBさんでは意見が違って当然だし、BさんがA君の意見に反対しても「BさんはA君と違う自分の考えを主張しているだけであり、A君が嫌いで、A君を人として否定し個人攻撃をしているわけではない」と当たり前にわかっている。

 しかし大多数の日本人は違う。
 同調圧力が強い日本人の多くは、「人は皆(主に自分と)同じ」と思うのが好きだ。
 だから空気を読むことを皆に強要するし、自分と他者と考えが違うと焦る
 で、もし自分に対して反対意見など言われたりすると、「悪意をもって自分に個人攻撃された!」と受け取る
 自分の好きなものを相手が嫌いだっただけでも、「自分を否定された!」と傷付く始末だ。
 だから日本人にとっては「議論=口喧嘩」なのである。
「相手と違う意見や好みを持つこと=相手を否定すること」なのである。
 ゆえに日本人の多くは、まともな議論や批判ができないのだ。
 これで国際化など出来るのだろうか。

 そんな日本の中で、筆者はものをハッキリ言い過ぎる異質な人間である。
 だからよく「言い過ぎだよ」と窘められる。
 筆者は自分の意見だけでなく、相手の考えに対する反対意見もキッチリ言う。
 何故なら「人はそれぞれ違う考え方を持っていて当然」と思い、かつ「反論や批判はあくまでも“相手の意見”にであって、相手に対する個人攻撃などではないし、相手を人として否定しているつもりも全く無い」からである。
 しかしその筆者の考えは「空気を読むのが第一に大切で、反論や批判は個人攻撃で相手を人として否定すること」ととらえる日本の中ではなかなか受け入れられず、筆者の空気を無視した物言いのせいで人間関係でトラブルになったことが少なからずある。

 この言いたい放題の筆者のブログにも、お叱りや反論のコメントは多々送られているのだが。
 筆者は「反論や批判=個人攻撃」とは受け止めない。
 感情的な罵詈雑言は無視するが。
 筋の通った反論や批判はありがたく受け止め、考えは違っても学ぶところがあれば感謝し、反省すべき点があれば反省もしている。
 少なくとも筆者は、自分に対する批判や反論は嫌いではない。
 しかし多くの日本人は、とにかく空気を読み皆に合わせることを重んじ、心の中では「違う」と思っていても共感するフリをするのを善とする
 そんな日本人の欠点は「議論と口喧嘩、批判と悪口(罵詈雑言)の区別が出来ない」ことである。
 だから論理的であるべき批判に感情的な悪口が混ざり、そして議論が喧嘩になる。

 プロレスラーの木村花さんが、インターネットで誹謗中傷を受けて命を落とすという痛ましい事件が起きた。
 それを受けて政治家が、と言うか与党自民党がネット上での誹謗中傷対策を検討するプロジェクト・チームを発足させた
 座長は八紘一宇で有名なあの三原じゅん子議員で、SNSでの誹謗中傷に対する法規制も検討するという。
 一見、もっともなようだが、被害者団体や法律家でなく政治家、特に与党政治家がネット上での発言に対する法規制の先頭を切ることに、筆者は違和感以上に危機感を抱く
 何故ならば日本人は議論が下手で、正当な批判と悪質な誹謗中傷の区別が出来ないからだ。
 ちゃんとした批判と感情的な悪口が、言い分に混ざる人もいる。
 さらには正当な批判にも「悪く言われたー、傷付いた!」と騒ぐ人もいる
 批判や反論が相手に対する個人的な悪口と受け取られがちで、議論が喧嘩と受け取られるこの国で。
 正当な批判と法規制すべき誹謗中傷を、誰がどう判断するのだろうか。


 自民党の稲田朋美幹事長代行平内閣副首相との対談で、このネット上での批判や悪口も含むいろんな人の発言に関して「政治家も傷付く」と話し合っていた。
 それは傷付くだろう、政治家も人間なのだから。
 ただ政治家、特に与党の要職に就き権力を握る者は批判されて当然なのだ。
 権力者に対する監視の目や批判の声が無い国の方が、今のこの国よりさらに恐ろしい。
 で、もし与党政治家が「この発言に傷付いた!」と騒いで、ネット上での批判まで法律で規制するようになったら、日本はまるで共産党支配の中国のようになってしまうではないか。

 イジメの問題で、よく「イジメと感じ傷付いた人がいたら、それはイジメだ」と言われる。
 セクハラの問題でも、「受けた方がセクハラと感じたらセクハラだ」と言われる。
 筆者はそれには大反対だ。
 断っておくが、「イジメもセクハラも無い」と言うつもりは無い。
 ただ人を罪で裁くには確かな証拠が必要であるように、イジメやセクハラについても、具体的で客観的なちゃんとした定義が必要だと筆者は考える。
 ネット上の誹謗中傷もそれと同じで、正当な批判と根拠の無いただ貶める為だけの誹謗中傷との区別をきちんとつける必要があると筆者は考える。
 ただ「この発言に傷付いたから」と法規制されてはたまらないと、筆者は思う。
 特に政治家、与党で要職にある政治家に対するネットの書き込みの規制については、本当に慎重であらねばならないと考える。

 例えばもし黒川前検事長の定年延長や桜を見る会などの問題で、批判するネット上の書き込みに対し安倍首相が「傷付いた」と言い出して、法規制と発言の削除を求めてきたらどうする?
 そんな危険があるのに、コロナ禍など他の問題では動きが遅い与党政治家が、ネット上の誹謗中傷による木村花さんの死の問題には「素早く、スピード感をもって」取り組んで、さらに自民党内でも右翼的な言動で知られる議員が座長を務めて法規制にも乗り出している点に、筆者はむしろ恐怖感を抱く。
「木村花さんの死を利用して、自分たちに都合の悪い発言をネットから封じようとしているのではないか」と。
 こう書くと、与党議員に「誹謗中傷されて、傷付いた!」と法規制されそうであるが。

 しかしあえて言う。
 ネット上に溢れる誹謗中傷と木村花さんの死を、政権批判の声を抑える為に政治利用してはならない。
 この国のネットを、中国のネットのような不自由で“大本営発表”的なものにしてはならない。

 議論と口喧嘩の区別も出来ない日本人は、批判と悪口の区別も出来ないが。
 では批判と誹謗中傷は、どう区別するのか
 わかりやすい例がある。
 講談社から出された、闇川コウ氏の画く『U12』というコミックスは酷い。
 悪役は誰が見ても鳩山由起夫元総理とわかる小男で、しかも下半身は丸裸でペニスケースを付けている女子小学生が好きなペドフェリアというド変態(性犯罪者)である。
 鳩山元総理は全く無能で“宇宙人”と呼ばれるほど言葉が通じなかったが、少なくともロリコンの性犯罪者ではない。
 これは作者の闇川コウ氏と出版元の講談社による、明らかな誹謗中傷でしかない。
 これが民主党政権の時代に描かれたというなら、まだ「権力に対する抵抗」という言い訳もできる。
 しかしこの『U12』が描かれたのは、民主党政権が選挙で惨敗し、第二次安倍政権が誕生して何年も後のことだ。
 中国には「水に落ちた犬を打て」という言葉があるが。
 まさにその言葉通り、闇川コウと講談社は落ち目になった鳩山元総理をさらに叩いたのである。

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 この明らかに犯罪で悪質な『U12』を、鳩山元総理が何故名誉毀損で告訴しなかったのか。
 それは元総理が漫画家とその出版元を告訴すれば、問題の『U12』がマスコミに大きく取り上げられ紹介もされてより話題になり、『U12』の売り上げは大きく伸び闇川コウの知名度も高まるからだ。
 そして元総理が得られるのは、『U12』で世間に笑いものにされるという恥辱に見合わない僅かなお金だけでしかなく、告訴はただ闇川コウと講談社を喜ばせるだけに終わる。
 筆者は鳩山元総理については全く評価しないが。
 この人を民主党政権で最初の総理にしたことが、民主党政権で最大の、そして致命的な失敗とも考えている。
 しかしこの『U12』は酷い名誉毀損だし、闇川コウと講談社に強い嫌悪感を抱くと同時に、何も出来なかった鳩山元総理はさぞ傷付いただろうと同情を禁じ得ない。

 ただ、その政治家が本当に変態であったり、犯罪行為を犯していた場合はどうか
 してもいないのに「不倫をした」とか「セクハラをした」などと書き立てるのは、間違いなく誹謗中傷である。
 しかしもし本当に不倫をしていた政治家を、その件で責める記事を書くのはどうか?
 大臣も経験した有名政治家の下着ドロの過去を暴いて「パンツ大臣wwww」と書くのは、誹謗中傷にあたるのか?

 政治家、特に政権幹部と一般人は違う。
 高い倫理観を求められて当然だ。
 一般人なら、下着泥棒をしても警察や検察の処分と示談が済めば「過去の話」だ。
 性犯罪を犯しても、罪を償った後にネットで実名と事件を暴露されたら、誹謗中傷ではないにしろ名誉毀損にあたる。
 繰り返すが、一般人ならば。
 但しそれが政治家であったら、過去の犯罪行為や悪行は「終わったことだし、今更むし返すのは名誉毀損」では済まないだろう。
 政治家も人間だし傷付くのは同じだが、根も葉もない悪意あるデマを我慢する必要はないものの、厳しい批判やお叱りの声はきちんと受け止めるべきであろう。
 安倍首相は、多くの国民が「怪しい、嘘だ」と感じている疑惑に、何の根拠も示さずオウムのように「その批判は当たらない」と繰り返し続けている。
 そしてそんな誠意のない首相とその政権のお仲間が、「政治家も傷つく」と言い、ネット上の誹謗中傷については妙にスピード感をもって法規制を検討している
のだ。

 法律関係者や、被害者や、人権団体の人達などが、ネット上の誹謗中傷について具体的に規制を提案するのは納得できる。
 しかしコロナ対策ですら後手に回っている与党政治家が、検察庁法の改悪やネット上の誹謗中傷についてだけはスピード感をもって対処している点について、筆者は非常に「危ない」と感じている。

 一人の命が失われているだけに、真っ向から反対するのは難しいが。
 ネット上の誹謗中傷についての法規制を、与党政治家が先頭に立って行おうとしている怖さを、一人でも多くの人に気付いてほしいと願う。
 議論が口喧嘩と思われ、批判が悪口で個人攻撃と受け取られることの多いこの国で。
 そもそも貴方は、個人的な敵意のない厳しい批判と、悪意ある誹謗中傷や悪口の区別を、きちんと付けられるだろうか?

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