空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

日本の新聞やテレビは政府の広報と化しつつある

 アメリカのトランプ政権の誕生で再び注目を浴びている小説『1984年』の著者であるイギリスの作家ジョージ・オーウェルが、こんな言葉を言っている。
ジャーナリズムとは、報じられたくない事を報じることだ。それ以外は広報にすぎない

 さて、このジョージ・オーウェルの言葉に当てはめると、日本の新聞に“ジャーナリズム”の名に値するものが、どれだけあるだろうか。

 ここのところ、安倍首相の周辺の人物にスキャンダルが相次いでいる。
 そしてそれらを暴いているのはほぼ週刊誌で、新聞やテレビはそれを引用して後追い報道しているだけである。

 そもそも報道とは権力を監視し、その行動を見張って不正があれば知らせるものである。
 それが出来ている新聞やテレビが、今の日本にどれだけあるだろうか。

 報道の王道とは、隠されていた真実を探り出し、裏付けを行って記事にする「調査報道」である。
 それこそがジョージ・オーウェルが“ジャーナリズム”と認める、「報じられたくない事を報じること」であろう。
 メディア論を教える羽衣国際大の浮田哲教授によれば、その調査報道の対極にあるのが、政府や官庁が発表する情報をそのまま流す「発表モノ」と呼ばれるものなのだという。
 そしてこの「発表モノ」が、欧米に比べ日本の新聞記事には多いとよく言われているそうである。

 政府や官公庁など権力の側が言うことを、疑いもせず裏も取らずにそのまま垂れ流す。
 これが報道の名に値するだろうか。
 ジョージ・オーウェルの言葉を、もう一度繰り返そう。
「ジャーナリズムとは、報じられたくない事を報じることだ。それ以外は広報にすぎない」
 そして日本の新聞やテレビは、政府や官庁の“広報”に成り下がりつつある

 日本の新聞には、かつて大本営発表を垂れ流し、それどころか軍部のお先棒を担いで戦意高揚の為に働いた過去がある。
 その反省を胸に刻んで権力と対峙して良い記事を書くどころか、一部の大新聞やテレビは進んで権力にすり寄り、記者のみならず社長まで首相と会食し、政権に都合の良い独占会見記事を紙面に載せたり、首相の談話を長々と放送したりしている
 まさに「歴史は繰り返す」で、無反省な一部のマスコミは平気で「いつか来た道」を再び辿ろうとしている。

 先日、国会で民進党の長妻議員が安倍首相に自民党の改憲草案についての考えを問うたところ、首相はこう答えた。
自民党総裁としての考え方は読売新聞に相当詳しく書いてあるから、ぜひ熟読していただきたい

 実はこの数日前、読売新聞グループの代表取締役社長で主筆の渡辺恒雄氏は安倍首相と会食し、そしてその後、問題の安倍首相が改憲について語った独占記事が読売新聞の紙面に大きく出されたという過程がある。
 渡辺恒雄氏は以前から政治に強い関心を持ち、政界フィクサーとも呼ばれながら主筆として紙面の編集にも深く関与している。そして政治的に、安倍首相ととても近い。
 それで読売新聞の論調も、常に安倍政権に寄り添い、安倍首相に好意的だ。

 実際、今村雅弘氏が「まだ東北だったからよかった」と発言して復興相を辞任に追い込まれた件についても、他の新聞は社説で「内閣の緩みはすさまじい」、「おごる政権、見過ごせぬ」、「待っているのは懲罰投票だ」、「寄り添う姿勢を損なった」などと、普段は政権寄りの日本経済新聞や産経新聞まで厳しく批判している。
 しかし読売新聞だけは、「『緩み』排して態勢を立て直せ」と、まるで安倍政権を応援しているようである。
 さらに「今回の発言を放置すれば、安倍内閣の復興に対する姿勢が問われかねなかった」と、まるで安倍首相の迅速な処置と指導力を誉めるかのごとくの論調に持って行き、首相の任命責任等については一切触れなかった。
 そして社長が安倍首相と会食し、改憲についての独占記事を「相当詳しく」紙面に載せ、首相も国会で議員の質問に答えず「読売新聞を熟読して」と言い放つ始末だ。
 つまり読売新聞とはジャーナリズムとしての“新聞”ではなく、安倍官邸の広報紙だということだ。
 あの戦争の時代の、大本営発表をそのまま伝えて民衆を政府の言いなりに洗脳しようとした“新聞”と何も変わらない。
 ついでに言えば、その読売系列の日本テレビもまた、安倍政権寄りの姿勢がひどく目立つ。マスコミのくせに政権に何を忖度しているのやら、例の森友学園の問題でも、報道や疑惑の追及に最も腰が引けていて消極的だから笑える。

 しかし残念ながら、その読売新聞が、この日本では最もよく売れているのだ。
 日本の民度はその程度、という事だろう。
 そしてこの先の日本に待ち構えているのは、あの戦争の時代のような、ジョージ・オーウェルが『1984年』に書いたような、思想信条や言論の自由の無い暗い時代ではあるまいか。
 オーウェルの言うように「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることで、それ以外は広報にすぎない」のだとしたら、既に日本の新聞やテレビは報道から広報に大きく変わりつつある。

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『サザエさん』と磯野家を理想とする日本のヘンな保守の人達

 唐突だが、長谷川町子さんの人気マンガで、今では国民的アニメ番組となっている『サザエさん』の主人公、サザエさんのフルネームを、貴方は正確に言えるだろうか

 あの一家は磯野家だから、当然「磯野サザエだろ」って?
 いやいや、実は正解は“フグタサザエ”なのである。
 家にかかってきた電話を、サザエさんは「ハイ、磯野でございます」と取る。
 しかしサザエさんの姓は、あくまでも“フグタ”なのだ。

 マスオさんは確かに磯野家で暮らしているが、磯野の家に婿入りして磯野マスオになったわけではなく、今も“フグタマスオ”である。
 だからその妻のサザエさんも、フグタサザエなのである。
 今も磯野家で暮らしているからと言って、そこを誤解してはならない。

 今の日本国憲法を「アメリカに押しつけられた憲法」と見なして改憲を目指している自民党とそのお仲間は、戦後に制定された日本国憲法が家族制度を壊していると考えている。
 で、自民党の改憲草案では、第24条として「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という条項が加えられている

 今の憲法では、憲法を尊重し擁護する義務を負うのは「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」とされている。
 その意味がわかるだろうか。
 憲法を守る義務があるのは、国民ではなく、国(権力)の側であるということだ。
 憲法とは、国民から権力に向けられた命令で、国家権力を縛るものなのだ。
 これは「今の日本の憲法が押しつけ憲法だから」ではなく、全ての国の憲法に共通した、立憲主義の原則なのである。

 だから今の日本国憲法では、国民が守らなければならない義務は三つだけだ。
 勤労の義務。
 納税の義務。
 教育を受けさせる義務。
 ひらたく言えば「働き、納税し、子供に義務教育を受けさせる」、たったそれだけである。
 しかし自民党や改憲勢力は、それが不満でならない。
 彼らは「アメリカが押しつけた今の憲法で、国民は自分勝手になり、国が弱くなった。国はもっと強い権力を持ち、国民は国や社会に尽くす義務を負うべきだ」と考えている。

 だから自民党の改憲草案では、国民が負うべき新たな義務がどっさり増やされている
 国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る義務。
 国旗及び国歌を尊重する義務。
 領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保する義務。
 常に公益及び公の秩序に反しない義務。
 緊急事態の際には国に従う義務。

 つまり「思想信条にかかわらず日の丸と君が代を尊重し、外国勢力の侵略があれば国に従い、自ら国を守る為に働き戦わねばならない。一部のアジアの国と国民に対するヘイトスピーチは言論の自由だが、反政府デモのような秩序を乱すことはしてはならない。国や自治体の政策に反して、個人の権利など持ち出すのは非国民だ」という事だ。
 そして自民党と改憲勢力は、そこにさらに「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という条項も付け加えた。

 その自民党の改憲草案の第24条の意味を、皆さんは正しくおわかりだろうか。
 社会の自然かつ基礎的な単位は個人でなく家族であって、自民党と改憲勢力の見解では「家族を持たずに1人で生きる者は不自然だ」ということのようだ。

 現代には、悪い意味も含めていろいろな親や子がいる。
 皆さんは、毒親という言葉をご存知だろうか。
「子供が可愛くない、子供を大事に思ってない親などいない」などというのは、現実を知らぬ夢想家の言う空疎な理想論に過ぎない。
 現実には子供を虐待する親、育児放棄する親、一方だけを可愛がってもう片方には冷たく当たる親など、居ても子にとっては“毒”にしかならない親が少なからず存在する。
 また、いつまで経っても自立せず、親元に居続けて親の脛をかじり続け、思う通りにならないと親に暴力を振るう成人した子供もいる。

 こんな例が、実際にあるのだが。
 ある父親が浮気をして、さらに会社の金を何百万円も横領して浮気相手の女と共に失踪した。
 で、残された母が、女手一つで子育てしつつ、夫が横領した金も必死に返した。
 残された母と子はとても苦労して生活し、父親(夫)については失踪者として届け出、やがて家庭裁判所から失踪宣告も出された。
 ところがようやく生活が落ち着いた頃、父親が住んでいるという自治体から、子供に連絡があった。
「貴方のお父さんが病気で働けないでいるのだが、家族として援助してほしい。どれだけお金を出せるか、まずは貴方の収入と資産を教えてほしい」
 父親は横領した金をさらに女に持ち逃げされ、そして病気にもなり生活保護を申請したので、その自治体が子供を捜し出して「親を養え」と言って来たのである。
 失踪宣告が出されている為、母(妻)にはその義務は無いが。しかしどんな親であろうと親子の縁は切れないゆえ、こんなロクデナシな親でも法的には子は援助をしなければならないらしい。
 これ、本当の話である。

 貴方なら、どうだろうか。
 愛人を作り、金を持ち逃げして貴方に酷い苦労をさせた親。
 暴力を振るい、貴方を虐待した親。
 ネグレクト状態で、貴方の世話などしてくれなかった親。
 そんな酷い親でも、子として親の面倒を見るのが当然と思うだろうか。

 例の父親が会社の金を横領して女と逃げた人は、父親の住む自治体の援助の要求を頑として拒んだというが。
 しかし自民党の考える改憲が実現して「家族は、互いに助け合わなければならない」という条項が憲法に加えられたら、どんなクズな親でも貴方は決して見捨てずに死ぬまで助けなければならなくなるのだ。

 なぜ自民党と改憲勢力が、憲法に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という条文も付け加えたいか。
 それは彼らが、戦前戦中のような三世代同居の、言わば『サザエさん』の磯野家のような家を理想にしているからだ。
 三世代同居で幼い子は祖父母が面倒を見て、老いた親の介護は子供(主に嫁)がする
 そうすればこども園の待機児童の問題も、高齢者の介護や孤独死の問題も一挙に解決……というわけだ。
 核家族が多い今は、こども園などの整備も、高齢者の福祉も国や自治体が頑張っている。
 しかし「家族は互いに助け合わなければならない」と憲法に明記してしまえば、国は待機児童の問題も高齢者の介護の問題も家族の問題とし、すべて国民に「憲法に書かれた義務」として押しつけることができるのだ。

 話は再び、『サザエさん』に戻る。
 日本の保守勢力に「理想の家族」と賛美されているこの『サザエさん』は確かに三世代同居だ。
 しかし繰り返すが、サザエさんは磯野家の嫁ではなく、世帯主の磯野波平の実の娘なのである。
 そしてマスオさんも磯野家に婿入りしたわけでなく、フグタマスオのままただ同居しているだけだ。
 ついでに言うと、マスオさんの母親はまだ健在であるが、マスオさんは盆暮れも磯野家で過ごしていて、マスオさんが妻のサザエと一人息子のタラちゃんを連れて実家のフグタ家に帰省する場面はまず見られない。
 つまり戦争が終わった直後の1946年から新聞連載が始まったこの『サザエさん』は、三世代同居と見せながら「夫の姓を名乗りはしているが、夫の家に嫁に入るのではなく、自分の家で自分の両親や弟妹と共に、夫や我が子と暮らし続けている」という、新しい家族像を見せていたのだ。
 その『サザエさん』が21世紀の現在に安倍政権のもとで、右派の改憲勢力に理想の家族像として利用されていると知ったら、1992年に亡くなった長谷川町子さんはどう思うだろうか。

 サザエさんは嫁に出ずに結婚後も親元で暮らし、磯野家の人々も自分達の親戚や知人との付き合いは大切にするものの、それに比べてマスオさんのお母さんの存在感はひどく薄い。
 作中では「おじいちゃん」扱いされている波平さんだが。
 しかし実は波平は、まだ五十代の現役サラリーマンなのだ。
 その妻の舟もまた同年代であろうし、年金や介護の問題はまだ先の話だ。
 タラちゃんも磯野家には専業主婦が二人も(サザエさんと舟)いる為、待機児童の問題とは無縁の存在である。
 こんな現代社会にはレアな、戦後すぐの時代に描かれた女性の理想の家族像(嫁に行かずに実家で夫や子と暮らす)の都合の良いところだけを見て、「これが理想の家族だ!」と持ち上げる日本の保守勢力の脳天気さには呆れかえる。
 もしマスオさんの故郷のフグタ家の母が病気で倒れて要介護になったりしたら、マスオさんとサザエさんは果たしてどうするのだろうか。
 それだけで、この磯野家は崩壊しかねない。
 また、この磯野家の跡は、「サザエさん夫婦→タラちゃん」と継いで行くのか、それともカツオとその未来の妻が継ぐのか、その点でも相続問題で揉めそうでもある。

 無論『サザエさん』はフィクションの漫画で、「もしマスオさんのお母さんが要介護になったら?」とか、「跡継ぎは誰?」とか考える方が大人げないのかも知れない。
 しかしただの漫画だからこそ、「待機児童の問題や介護の問題とも全く無縁で、嫁姑の問題も無く夫の親戚とはろくに付き合わないでいられる」フィクションだからこそ、大の大人の、しかも政治家までが磯野家を正気で理想の家族像のように持ち上げるのが愚かしく見えて仕方がない今日この頃である。

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権力者や有名人になどなりたくない

 何年も前、職場の忘年会の出し物で、筆者が所属していた課で『水戸黄門』をやることになった。
 主役の黄門さまは、もちろん課長である。
 それに異議はない。

 実は筆者は、芝居で『水戸黄門』をやるなら是非やりたい役があった。
 助さんか格さん?
 いやいや、筆者はそんな正義の味方のヒーローをやれるようなキャラクターではない事は、自分でもよくわかっている。
 風車の弥七?
 残念だが、そんな格好の良い役柄は、筆者には似合わない。

 やりたかったのは、実は悪代官である。
 小判がギッシリの菓子折りを貰い、可愛い女子がいたら「よいではないか、よいではないかー」と権力を笠に着て迫る。
 ある意味、「男のロマン」と言っても良いのではないかと、筆者は密かに思っている。

 悪代官は、過去のしかもフィクションの話だが。
 しかし我が日本の北隣には、1人の絶対権力者が他の者すべての生殺与奪の権を握り、カネも女性も思いのままにしている独裁国家が現に存在している。

 例えばもし貴方が、その北の独裁国家の指導者になったとしたら。
「私利私欲なく24時間国民の為に尽くす、清廉潔白な政治をします」
 本音でそう言い切れる人が、果たしてどれだけいるだろうか。
 筆者も含めて、人間は我欲のある弱い人間だ。
 一庶民でいる時には綺麗事を言っていても、いざ絶対的な権力を握り、何でも思いのままにできる立場を得たら、贅沢な暮らしをし、嫌いな者は虐めてお気に入りの者を引き立て、美女を集めて自分専用の“歓び組”を作りかねない人が少なくないのではないだろうか。

 まあ、それでも筆者にも良心はありマスから。
 悪代官は最後には正義のヒーローにやっつけられるべき存在であって、現実に存在して善玉に勝ってはならない事はわかっている。
 で、「最後にはやっつけられる」という前提の上で、賄賂で私腹を肥やし美女に無体な振る舞いに及ぶ悪代官、是非やってみたいなあと思っていた。

 ところが例の職場の忘年会での出し物の『水戸黄門』で、筆者に割り当てられたのは、とんでもなくショボい役だった。
 悪代官どころか、悪徳商人でも、その手下のヤクザどもでもない。
 ついでに言っておくが、うっかり八兵衛でもない。
 ズバリ、“病気のおとっつぁん”だった。

 いや、それでも本番では、与えられた役を精一杯演じさせていただきマシタよ。
 布団に横たわり、ゴホッ、ゴホッと咳込んで。
 そして娘役の女性に背中をさすられながら、「お美津、いつもすまねぇなぁ……」と。
 で、娘の“お美津”が「おとっつぁん、それは言わない約束よ」と言っている時に、ヤクザ達がなだれ込んで来て、借金のカタに娘を悪代官のもとに連れて行こうとする。
 布団から這い出し、ヤクザの膝に縋って「お美津ぅ~!」と悲痛な声を絞り出すものの、ヤクザに蹴られてガクリと崩れ落ちてあえなく死ぬ。
 端役とは言え、病気のおとっつぁんをちゃんと演じられたとは思う。
 それでも最後にはやられる悪役でも、やはりやりたかったデス、悪代官。

 話は変わって、中川俊直代議士が重婚やストーカーなどの女性問題を起こして、経産省の政務官を辞任し自民党も離党した。
 中川代議士だけではない、カネや女性の問題でスキャンダルを起こして世間から叩かれる有名人は数多い。
 筆者は思うのだが。
 政治家にしろ、芸能人にしろ。地位や権力を手に入れると“悪代官化”して、カネや女性など何でも思いのままにしようとしてしまう人が少なくないのだろう。
 そしてまた、権力者や有名人には腹に一物ある商人や女性が寄って来るのもまた事実だ。

 あるミュージシャンがこう言っていた。
「音楽を始める動機なんて、オンナにモテたいからに決まってる」
 それは極論にしても、芸能人に異性に注目されたい気持ちがあるのも事実だろう。
 ホリエモンも「愛もカネで買える」と言っていたように、芸能人でなくともお金持ちになれば女性にモテるのも事実だ。
 実際、結婚を意識する年齢になると、お医者さまや青年実業家や一流企業の社員など収入の高い男性は、婚活でモテモテだそうだ。
 そして政治家には、女性だけでなく利権のおこぼれにあずかろうとする業者も寄って来るようだ。

 権力を握って、世の中を思いのままにしたい。
 有名になって、異性にモテたい。
 そんな動機で政治家や官僚や財界人や芸能人になること自体を、筆者は否定しない。それが法律で許す範囲内であれば、カネやモテを目標の地位を得る為に頑張る活力にしても悪くはないだろう。

 ただ、世の中はそんなに甘くない。
 江戸時代にはある程度の賄賂は悪とみなされず、今のお中元やお歳暮のような感覚で贈答されていた。非難されるのは、田沼意次のように限度を超えて貰い過ぎた場合のみだった。
 明治や大正の頃だけでなく昭和の中頃までは、政治家が妾を囲っていても、騒がれる事は殆ど無かった。「政治家の仕事は、政治をきちんとやる事」という暗黙の理解があって、有力者の女性問題を含めた私生活については、マスコミも見て見ぬ振りをして殆ど報じなかった。
 しかし今は違う。賄賂は犯罪として摘発されるし、女性問題もワイドショーや週刊誌等で厳しく叩かれる。
 この今の日本では、北の国の独裁者と違ってたとえ権力を握っても、カネや女性を思いのままにできるわけではないのだ。
 まあ、首相などの権力者の意向を忖度して、首相や首相夫人に近い人に有利になるよう動くお役人も、今現在もいるようではあるが。

 筆者は本当に無名で無力な上にカネも無い一市民であるが。
 それでも痩せ我慢でなく、政治家や有名人については別に羨ましいと思わない。
 むしろ「いろいろ注目され、好き勝手に出来なくて大変だろうなあ」と気の毒にすら思う。

 良い事ではないし、筆者自身も大嫌いなのだが、不倫をする人はこの世の中に大勢いる。
 ただ無名の一般人の場合、不倫をしても責める人は周囲の人間だけで、離婚して慰謝料を払えばそれで済んでしまう場合が多い。
 しかし政治家や有名人は違う。大勢の記者に追い回されて叩かれ、謝罪の会見をさせられ、地位を失う場合も少なくない。
 確か不倫をした自民党の議員は、議員辞職した筈だ。
 そして芸能人も、ゲスとまで呼ばれて叩かれたりしている。

 不倫でないただの恋愛でも、有名人はマスコミに追い回される。
 アイドルなど、異性にモテて騒がれたいからその仕事を目指したのだろうに。
 なのにAKBなどでは恋愛禁止で、それを破って恋愛した事が暴露されると問題にされる。
 芸能界という美男美女が大勢いる世界にいて恋愛も自由に出来ないとは、空腹でご馳走を目の前にしているのに食べることを禁じられているくらい辛いことだろう。

 筆者の友人に、中学校の教師をしていた男がいる。
 彼はある時、書店に行った。そして雑誌を立ち読みしていたのだが、そのコーナーには少しエッチな雑誌も置いてあった。
 そしてたまたまそこに、教え子の生徒の1人がいた。
 翌日には学校の生徒の間で、もうかなりの噂になっていた。
「S先生が本屋で、エロ本を立ち読みしていた」
 そしてその噂には尾鰭がついて、こう変わった。
「S先生が本屋で、18禁のエロ本を読んでた」
 その噂は、最終的にこうなった。
「S先生が本屋で、18禁のエロ本の封をビリビリ破って中を見ていた」
 中学校のたかが一教師でさえ、地元ではこれくらい人の目に監視され、ただ書店で立ち読みをしただけでもあらぬ噂を立てられるのである。
 政治家や芸能人などの全国の人に顔を知られ、大勢の記者にも日頃から追いかけられている有名人ともなれば、どれだけ人の目を気にして生きなければならないか、想像しただけでも気の毒である。

 政治家など、業者の差し出すお金を貰い、綺麗な女性には「よいではないか、よいではないかー」とやりたいだろうに。
 芸能人や財界人だって、女は股がけし放題でハーレム状態でいたいだろうに。
 しかし権力を握ったら悪代官の真似をするどころか、逆に普通の人よりも清廉潔白に生きているフリをし続けなければならないのだから、さぞ大変だろう。
 モテたくてアイドルになったのに事務所から恋愛禁止を命じられているアイドルには、本当にお気の毒さまと言うしかない。

 有名人が大変なのは、清廉潔白でいなければならないのは“今”だけではないからだ。
 問題を起こす政治家が多すぎるので殆ど忘れられかけているが、例えば少し前には、若い時代の下着ドロの過去を暴かれ、『パンツ大臣』と呼ばれた自民党の政治家がいた。
 政治家だけでなく芸能人でも、無名時代に付き合った相手から週刊誌に告白手記を出されたり、デビュー以前の“ヤンチャ”行為を暴露されてしまったりもする。
 若気の至りによる過ちや恥ずかしい過去の一つや二つ、人には誰しもあるだろうに。
 しかし有名人は、それすらいつ暴かれてしまうかも知れないのだ。
 世間に顔や名を知られている有名人は、本当に大変である。

 筆者は無名で無力で、しかしだからこそ好きな人と付き合い、法律の許す範囲内で好きな事を自由にして暮らしてゆける。
 自分のやりたい事を、誰の目も気にせず、誰にも遠慮せずにすることができる。
 政治家や芸能人がスキャンダルで叩かれているのを見るにつけ、無名で顔を知られていないからこその自由と気楽さを、しみじみと味わっている。

 つい先日も、復興担当大臣が暴言で辞職したが。
 筆者など、このブログで暴言を幾度も繰り返している。
 しかし無名の私人だから、言い過ぎたらその過ちを認めれば許されている。
 本当に気楽だ。
 もし筆者が有名人なら舌禍事件を何度も起こしたであろうし、そしてひどく叩かれ、地位を失う事になっただろう。
 そしてそれを恐れるあまりに、言いたい事も自由に言えない暮らしをするのも、さぞ腹が膨れる思いでストレスが溜まる事だろうと思う。
 少なくとも筆者は、皆に顔を知られ、どこに行っても人に注目されるような有名人になど、本当になりたくない。

 で、その無名でいたい筆者が考える、一番の幸せだが。
 有名にはなりたくない。
 しかしある程度のカネが無いと、老後や病気をした時に困る事はわかっている。
 カネは本当に、「ある程度」で良いのだ。
 何故ならカネがある事を他人に知られると、良くない人達が集まって来る事がわかっているから。
 そしてカネを得る為に、他人に恨まれるような悪い事や、過労死しかねないような長時間労働もしたくない。
 とすると、宝くじが当たるのを待つくらいしか無いですかな。
 まあ、国の年金制度が信用できさえすれば、宝くじなどあてにしなくても済むのだけれど。

 悪代官でもOK、とまでは言わない。
 多少の金銭や女性の問題には目をつぶるから、国民が安心して暮らしていける社会にしてくれる政治家が増えるよう望みたい。
 政権が変わる度に議席数が大きく変動する小選挙区制のせいで、今の国会議員の多くが当選回数3回以下の、政策通でない未熟な議員なのだという。
 小選挙区制と劇場型選挙により、国会議員の質がかなり落ちたと言われるが、筆者も同感だ。以前のような政策通で国民を第一に考え、時には首相や政府にもNOと言う与党議員は、本当に減ってしまった。
 このままでは、国民として政治家より宝くじをあてにするしか、本当になくなってしまう。

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煙草の害に知らぬ顔の、喫煙大好き自民党

 望まない飲酒を相手に強要する行為は、アルハラと言われる。
 ならば喫煙者が自分の煙草の煙を、周囲の煙草を吸わぬ者に受動喫煙させる行為もまた、ニコチン・ハラスメントと呼んでしかるべきであろう。

 煙草は法律で禁じられている物ではないし、喫煙の自由は誰にもある。
 しかし「自分の煙草の煙を周囲の者にも吸わせる権利」は、どこの誰にも無い筈だ。
 だから煙草を吸わぬ者が受動喫煙させられぬよう政府が責任をもって対策を講じるのが、世界の潮流なのだ。

 2020年に、日本で東京オリンピックが開催される。
 そして2004年以降のオリンピック開催都市では、すべて罰則付きの受動喫煙防止策を導入している
 それで厚生労働省は、当初は他のオリンピック開催都市と同様に、飲食店をすべて原則禁煙とする方針だった。
 だが飲食業界などの反発で、小規模なバーやスナックは例外として喫煙を認めることにした。
 この例外付きの受動喫煙対策は、世界保健機関(WHO)ランクでも、4段階のうち上から3番目の水準である。
 ちなみにWHOの調査では、世界の188カ国のうち49カ国が、飲食店やバーも含めて屋内全面禁煙としている。
 だから日本の厚労省の受動喫煙防止策は、オリンピック開催国としては「ユルユル」の最低ランクなのだ。

 しかしそれでも自民党は、この厚労省のユルユルで最低ランクの受動喫煙防止策を「厳しすぎる」と言い、認めない方針を固めた
 自民党は「飲食店が廃業に追い込まれかねない」と言い、飲食業者も禁煙にしたら「店が潰れる」と言っている。

 果たしてそれは、本当だろうか。
 ある飲食業者は、「店に来るお客の半分は煙草を吸う」と言い、だから禁煙にしたら店が潰れると言う。
 しかし日本の2016年の喫煙率は、煙草を販売している側のJTの調査でも19.3%に過ぎない
 と言うことは、もし「店に来るお客の半分は煙草を吸う」というのが真実だとしたら、飲食店に行くのは全体の約4割で、過半数の日本人は日常的に飲食店を利用していないという事になる

 日本の飲食業者は、「お酒を飲む人≒喫煙者」と思い込んでいるのではないか。そして「煙草を吸わない人は、お酒も飲まない」とも。
 だから受動喫煙させられるお客の迷惑など、どうでも良いと思っているのだろうが。
 しかしもし「お酒を飲む人≒喫煙者」だとすると、お酒を飲む日本人は2割しかいない事になる。
 お酒を飲む人がそれほど少数派になっているなら、飲み会など無くなってしかるべきではないか。
 しかし現実には、職場や仲間内での飲み会は今も頻繁に行われている。

 筆者の親しい友人は、中学時代の同級生達と度々同窓会を開いている。
 その友人の中学時代のクラスは非常に仲が良く、卒業してかなりの年月が経った今でも、正月やお盆で皆が帰省する度に、20人前後の同級生達が集まっては酒を飲んでいる。
 しかし喫煙者は、そのうちの2人だけだ。
 で、その2人が古い仲間で良い奴だから、他の18人が受動喫煙を我慢しているのだ。
 飲食業者は「禁煙にしたら、店が潰れる」と言うが、実態はこんなものだ。見ず知らずの他人の煙草の煙には嫌な顔をできるが、友人や上司の煙草には遠慮があって、なかなか嫌と言えずに仕方なく受動喫煙を我慢しているのだ。

 厚労省が最初に示した原則禁煙の案に対して、飲食業者は「店が潰れる、弱いものいじめだ」と猛反発した。
 その飲食業者に聞きたい。
 本当にいじめられている弱いものとは、誰か。
 断言するが、飲食店で煙草の煙にさらされ、受動喫煙させられている非喫煙者達だ。

 と言うと、煙草を吸う者らは「嫌なら、喫煙可の店に来なければいい」と言う。
 しかし世の中には、付き合いというものがある。仕事関係の飲み会で、喫煙者の上司や取引相手に「煙草は吸わないで下さい」などと言えるわけもなく、泣く泣く受動喫煙を我慢している者こそが、いじめられている弱いものなのだ。
 喫煙者の率が2割を切っているこの日本で、何故8割もの煙草を吸わない者たちが受動喫煙の被害を受忍しなければならないのか、筆者には全く理解できない。
 受動喫煙の害が明らかになっている現在、飲食店を含む公共の場所がすべて禁煙であれば、喫煙者の上司や取引相手に受動喫煙で苦しめられる事も無くなるのにと、心から思う。

 それでも飲食業者は、「店に来るお客の半分は煙草を吸う」と言う。
 それを逆に言えば、「店に来るお客の残り半分は煙草を吸わず、受動喫煙を我慢している」ということになる。
 そしてその背後には、受動喫煙が嫌で飲食店に行かない人が大勢いるのだ。
 筆者自身も、禁煙でなく分煙すらされていない、受動喫煙を強いられる飲食店には、仕事の関係でやむを得ない場合以外は極力行かないようにしている。

「自分は煙草を吸わないが、他人の煙草の煙は嫌ではないし、受動喫煙も気にならない」と言う人を、筆者はただの1人も知らない。
 筆者も含めて、煙草を吸わない者は他人の煙草の煙が大嫌いだ。自分が吸わない煙草の、ただ不快なだけでなく有害な煙をなぜ吸わされなければならないのか、全く理解できない。
 受動喫煙を強いられるのは、一種の暴力である。
 そう思うのだが、義理や上下関係などの問題で、煙草を吸わない者は受動喫煙を我慢して同席しているだけなのである。
 それが飲食店にいる、煙草を吸わない約半数の者たちなのだ。

 喫煙者が日本人の約2割で、飲食業者の言う「店に来るお客の半分は煙草を吸う」というのが事実だとすると、煙草は吸わないが飲食店に行く者があと2割で併せて4割になる。
 つまり飲食店に行かない、言い換えれば新たなお客になる可能性のある日本人が6割もいるという事である。
 店を禁煙にすれば、ヘビースモーカーの客は去るかも知れない。
 しかし店の料理や酒に魅力があれば、煙草を吸わない者が新たな客として来る可能性もある筈だ。

 何しろ喫煙者は日本人の2割に満たないのだから、残る8割の非喫煙者をお客にした方が、ずっと利口ではないか。
 その現実を飲食業者はなぜ理解出来ないのか、筆者は不思議である。
 全面禁煙にした海外の例でも、店を禁煙にしてもお客が減るどころか、新たなお客が来て収益が減っていないという調査結果もある。

 今、日本の飲食店では喫煙者が好き放題に煙草を吸っていて、煙草を吸わない者が受動喫煙を我慢させられているのが現状である。
 これは世界の潮流や、2020年のオリンピック開催を考えれば全く異常な事である。
 煙草を吸わない者に受動喫煙を我慢させる日本でなく、煙草を吸う者が周囲の皆に受動喫煙をさせぬよう配慮する日本であるべきだ。
 煙草を吸わぬ者も同席するほんの2~3時間程度の飲食の間でさえ、煙草を吸わずにいられない。受動喫煙の害が知られ、周囲の者に迷惑をかけ健康被害を及ぼしても煙草を吸わずにいられない。ニコチン中毒とは、本当に恐ろしいものである。
 しかし自民党は煙草を吸わぬ者を受動喫煙から守る気などさらさら無く、ただでさえユルい厚労省の受動喫煙対策をさらに骨抜きにしようとしている
 世間での支持率は高いが、こんな政党に一票を入れられないと、心から思う。

 受動喫煙と言えば、癌の大きな原因の一つに喫煙があり、煙草から流れ出て受動喫煙させられる副流煙には、喫煙者が吸う煙より強い毒性がある事が、医学的にも証明されている。
 で、厚労省は「がん対策推進協議会」に、今年度から6年間の次期がん対策推進基本計画の素案を示した。
 その中の煙草対策で、受動喫煙の機会について「家庭では3%、飲食店では15%」にすることを目標としており、がん対策推進協議会の委員から「受動喫煙の割合はゼロにすべきだ」と不満が噴出しているという。
 当然のことである。
 受動喫煙の“目標”が「家庭で3%、飲食店で15%」という事は、「家では3%、飲食店では15%の非喫煙者が受動喫煙にさらされても構わないし、健康に問題もない」という話になるではないか。
 受動喫煙させられる機会は、目標はあくまでも0%にすべきだ。

 こんなユルユルで大甘な厚労省の受動喫煙の規制ですら「厳しい」と言う自民党政権のもとでは、日本は今後も煙草吸い放題の喫煙天国であり続け、筆者を含む非喫煙者はずっと受動喫煙にさらされ続けることになるだろう。

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同性カップルは里親にふさわしいか?

 先日、大阪で男性同士のカップルが里親として認められた。
「LGBTに対する偏見はイケナイ!」という声が大きく、「同性愛なんてキライだ」などと言えなくなりつつある今日この頃の日本である。
 同性のカップルが里親になる事に関しても、「愛さえあれば良いんじゃない?」というのが、大方の論調ではないだろうか。

 しかし筆者は、同性のカップルが親になることについて、どうにも抵抗がある。
 何故なら生物学的に、同性同士のカップルに子が生まれる事はあり得ないからだ。
 単性生殖や雌雄同体の生き物を除き、ほぼすべての動物は雄と雌、父と母の間から生まれてくる。
「両親とも男」とか「両親とも女」という子供は、自然の状態ではまずあり得ない
 だから「同性のカップルが子を持つ」というのは、自然の摂理に反する事なのだ。

 昆虫から類人猿に至るまで、雌雄の区別ある動物は雄と雌とが求め合い交尾して子孫を残し、繁殖してきた。
 その中で、ただ人類の一部だけが同性に愛情を抱き、生殖行動までしている。
 無論、同性同士の性交で子が生まれる事は、生物学的に絶対にあり得ない。
 だから「人類の一部に、同性に性的な愛情を抱く者が存在する」という現実は嫌でも認めざるを得ないが、しかし同時に同性愛者も「自分達は子を持つ事ができない」という現実も受け入れるべきなのだ。
 子を持てない同士だと百も承知の上でカップルになったにもかかわらず、「自分達も子を育てて家族ごっこをしてみたい」など、欲が深いのにも程があると筆者は思う。

 と言うと、LGBTを擁護する人達は、必ずこう反論する。
「愛情の無い男女のカップルと、愛情のある同性のカップルと、どっちが親にふさわしいと思うの! 親の性はどうでも、愛情さえあれば子供は幸せなのよ!!」と。
 また、男女のカップルでも不妊の夫婦は珍しくない為、「子を持てない夫婦が里親になるのとどう違うのよ! 不妊の夫婦が里親になれるなら、同性のカップルだって構わないでしょ!!」とも。

 ちょっと待ってもらいたい。欧州の一部の国とは違い、日本ではまだ同性婚は認められていないのだ。
 一部の地方自治体では近い形で認めているが、日本国としてはまだ認めていない。
 世間では、家族というものはまだ「お父さんとお母さんと子供がいる」という形なのだ。

 それは確かに、今はシングルマザーやシングルファーザーの家庭も増えてはいる。
 しかし「同性の親が二人いる」という家庭は、ごく稀であろう。
 そして同性のカップルのもとに里子に出すという事は、その子供にそうした特殊な家庭環境を受け入れ、かつLGBTに対しての深い知識と寛容さを持つ事を強いる結果になる。
 思春期前の子供に両親が同性であることの意味を正しく理解させ、かつ受け入れさせるのは、非常に難しい事ではないだろうか。
 その送り出される里子が思春期にさしかかる頃の子であれば、里子の気持ちはさらに複雑になる。

 理想主義者は「愛さえあれば良い」、そして「LGBTのカップルのもとで育てれば、むしろ性の多様性に対して理解が深まって、本人にとっても良い」と言うのであろうが。
 ただ心身共に未熟な子供が同性のカップルのもとに里子として送り出された後、思春期を迎えて「両親は同性同士」という自分の環境を素直に受け入れられるか、そしてどのような恋愛観を持つようになるのか、筆者は非常に心配である。

 例えば不妊の夫婦が養子を迎えたとしよう。その子がまだ乳幼児であった場合には、親が告白するまで養父母を実の親だと思って育つだろう。
 また、ある程度の年齢で自分が養子だと知っていたとしても、愛情を持って大切に育てられれば、その子は養父母を自然に「お父さん、お母さん」と呼べるだろう。
 だがその養い親が同性カップルだった場合、その事に子供は躊躇いを感じないだろうか。自分の親が二人とも「お父さん」あるいは「お母さん」であるとか、どちらか一方を男なのに「お母さん」、女なのに「お父さん」と呼ばなければいけないような事態は、子供を混乱させないだろうか。

 死別や離別によるシングルマザーやシングルファーザーは、世間にもよくある事だし、子供も受け入れられるだろう。
 しかし「親がどちらも同性」という生物学的にあり得ないカップルは、子供をひどく混乱させる。
 とりわけ思春期になれば、親の性的嗜好や自分の性のあり方についても、深く悩む事になるのではないか。
「愛さえあればOK」という安易な考えで、同性のカップルのもとに里子に出す事は、出された子供に大きな精神的な負担をかける結果になるのではないかと筆者は危惧する。

「同性のカップルに偏見を持ってはいけない!」
「愛情の薄い夫婦より、愛情ある同性カップルの方が良い!」
 そんな建前じみた理想論を言う前に、まず自分の事として考えてみてほしい。
 普通の家には、お父さんとお母さんがいる。
 けれどボクの家に居るのは、どっちもお父さん(お母さん)だ。
 そのような家庭に、貴方は耐えられるだろうか。
 自分の親が同性で愛し合ってるという現実を、貴方は受け入れられるだろうか。

 同性同士で愛し合うカップルは、現に存在する。
 しかし生物学的に、同性のカップルに子は生まれない。
 だから筆者は、同性のカップルはいかなる形でも子を持つべきでないと考える。

 LGBTに対して正しい理解を持つには、かなりの知識と人間に対する深い理解を必要とされる。
 不惑の年を越えた立派な大人でさえ、「自分の子供がLGBTである」という事実をなかなか受け入れられず、深く悩んだり傷ついたりする。果てには、カミングアウトした我が子を拒絶してしまう親さえいたりするのが現実だ。
 同性カップルのもとに里子に出すというのは、大の大人でさえ受け入れるのが難しい性の問題を、幼い子供に否応なしに「受け入れろ!」と強要しているのと同じだ。

 社会がもっとLGBTに寛容になり、同性婚も、同性のカップルが養子を持つのも当たり前の世の中に既になっているのならば、ともかくとして。
 現状の日本で同性カップルのもとに里子を送り出すのは、理念優先で先走りすぎであり、その負担は結局は最も弱い立場である里子に出された子供にのしかかるのではないかと恐れている。

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WiLLという「コドモで非常識」なオピニオン誌を嗤う

 日本をあの愚かで悲惨な戦争に引きずり込んだ要因の一つである教育勅語が最近妙に持ち上げられ、社会科のみならず道徳の教材としても利用することを認めると、閣議決定された。
 いざ事が起きれば皇室と国家の為に命を投げ出せと教え込んだ部分は意図的に隠され、「親孝行や友情などの大切さを教えるものだ」とのデタラメがまかり通っているのが、安倍政権下の日本の現状である。

 その日本の右傾化の現状は、書店に行くだけでもわかる。
 史実を無視し現実をねじ曲げて解釈する極右のオピニオン誌が、筆者の住むような地方都市の書店ですら、目立つ場所にズラリと平積みにされている有り様だ。

 例えば「オトナの常識」と謳うWiLLという月刊誌など、毎号のように「日本は何一つ悪くナイ、あの戦争は侵略では無かったし、日本軍は立派だった」と言い立て、中国と韓国と民進党などを口汚く罵るのを売りにしているのだが。
 そんな雑誌が書店の目立つ場所に平積みにされ、そしてよく売れているのが今の安倍政権下の日本なのだ。
 ちなみにそのWiLLには、『アッキーのスマイル対談』という、安倍首相夫人の昭恵氏がホストとして誰かを招いて対談する記事が連載されている
 その点を見るだけでも、大学で歴史を学んだ筆者が「史実を無視して戦前戦中の日本を賛美する愚かな極右の妄言」と呆れ果てているWiLLの論調は、安倍政権の歴史観に近いものがあるのだとわかる。

 そのWiLLによると、森友学園の疑惑を野党が追及するのも「魔女狩りごっこ」で「イジメ」で、リニアは「世界に冠たる日本の技術」で「世界を救う」のだそうだ。
 森友学園の問題を追求するのが魔女狩りでイジメなのが、WiLLの認識では「オトナの常識」であるようだが。それに共感する日本人の大人が、どれだけいるだろうか。

 非常に危険な情勢にあり、現地の自衛隊が戦闘状態にあると認めている南スーダンの問題でも、WiLLの言うオトナの常識では「日報なんてどうでもいい、そこに駐留(とどま)ることが大事なんだ」そうだ。

 また、筆者はリニアが通る地元に住んでいるが。
 皆さんは知っているだろうか。WiLLで東海旅客鉄道株式会社の名誉会長と櫻井よしこ氏が対談して「世界に冠たる日本の技術」称えるリニアは南アルプスを貫いて通り、その為に地下水脈を破壊し、大井川の水量が大幅に減ることになるのだ。
 さらに南アルプスにリニアを建設するにあたり、掘り出した土はちゃんと運び出して環境に問題のないよう配慮して処分するのではなく、南アルプスの山中に投棄する計画になっている
 速度が世界一のリニアを作る為には、環境を大破壊しても構わない。
 そんな姿勢で作られるリニアが「世界に冠たる日本の技術」で「世界を救う」とは、本当に笑わせてくれる。
 リニアが作られる地元に住んでいる筆者としては、「それならリニアなど作るのはやめ、南アルプスの自然を救って欲しい」と心底思うのだが。それはWiLLと櫻井よしこ氏の考えでは「コドモの非常識」なのだろうか。

 そしてまた、WiLLは今月号でも飽きずに中国と韓国(および北朝鮮)を叩き、「日本軍は悪くナイ、軟禁大虐殺はデッチ上げだ!」と騒いでいる。
 北朝鮮を叩くのはまあ良い。北朝鮮の指導者が非常識を越えた狂気に満ちた存在で、北朝鮮が危険で邪悪な国である事は事実だから。
 だが毎号のように、「日本は過去に悪い事をした」と思いたくない頭と心の弱い人を洗脳するかのように、「南京大虐殺は無かった」と言葉を変えてプロパガンダを発信し続けるのは、いい加減にやめて貰いたいものだ。
 もちろん表現や言論の自由はある。
 しかし作為的な嘘や悪意に満ちたデマは、その自由の範疇には入らないと筆者は思うが、違うか?

 本年5月号のWiLLには、南京大虐殺について幾つも記事が載せられている。
「腹立つなァ!! 南京大虐殺四十万人……百田尚樹」
「実録映画が証明する・ありもしない南京大虐殺……立命館大学名誉教授北村稔、日中問題研究家松尾一郎」
「南京事件の死者数がわかった・その数1793人……近現代史研究家水間政憲」

 戦前、特に戦中の日本が軍の統制下にあり、言論の自由など無かったのは誰にも否定できない事実だ。報道や映画にはすべて当局の検閲が入り、当局に都合の悪い部分はすべて処分されていた事実を否定できる人は誰も居まい。
 WiLLの5月号では、その日中戦争の最中に日本が制作した『南京』という映画をもとにして、立命館大学名誉教授と日中問題研究家が「ありもしない南京大虐殺」と主張していた。
 で、その立命館大学名誉教授と日中問題研究家の感覚では、中国やアメリカの映画は嘘だらけのデタラメで、日本の映画は無条件で真実という事のようだ。
 そして日本の戦犯たちは、その中国やアメリカの嘘の為に処刑されたのだと言う。

 政治的な思惑のある映画は、どこの国のものでも自国に都合の良い点だけ取り上げ、都合の悪い部分は隠蔽しているものだ。
 それが常識というものだろう。
 だから中国やアメリカのプロパガンダ映画はそのまま真実ではないし、疑って見なければいけないのは当然の事だ。
 しかし同時に、言論が統制され、軍の厳しい監視の目の下で作られた日本の映画の方も信用できないに決まっているではないか。

 だがWiLLで対談していた立命館大学名誉教授と日中問題研究家は、「中国とアメリカの映画は嘘だらけで、日本の映画はそのまま真実」という立場で「ありもしない南京大虐殺」と主張している。
 自称“日中問題研究家”の方は、まあともかくとして。
 この程度の見識で立命館大学名誉教授が勤まるとは、立命館大学や大学教授の質も下がったものだと呆れ果てる。

 さらに「実録映画が証明する」という映像も、16ミリフィルムのやや不鮮明な画面で、南京の蒋介石の邸宅などの外観だけをロングショットで遠くから見せただけで「ほら、略奪の跡など全然ないじゃないか!」と言っているのだから笑止千万だ。
 これを見て「やはり南京で虐殺も暴行も略奪も無かった」と信じる人は、最初から「日本は悪くない、日本軍は正義の戦争をしたのだ!」と信じたい人しかいないだろう。
 本当に映画で「南京大虐殺は無かった」と証明したいなら、日本でも中国でもない中立の第三国の制作による、建物の内部や路地裏まで詳しく写し、市民の肉声も聞いた映像が必要だ。
 言論人や大学教授ともあろうものが、軍や国の検閲も経て日本に都合の悪い部分はすべて削除した“実録映画”とやらをすべて真実だと決めつけ、それを南京大虐殺がなかった証拠だと鬼の首を取ったかのように誇らしげに言い立てるなど、本当に愚かだ。

 さらに「南京事件(南京大虐殺とあえて言いたくないのだろう)の死者数がわかった、その数1793人」との記事を書いた自称“近現代史研究家”がいるが。
 実は筆者も、中国側が言う犠牲者の数には大いに疑問を持っているが。
 で、その近現代史研究家なる水間政憲氏の言う犠牲者の人数が、仮に正しかったとしても。
 貴方の街に、侵略してきた敵兵に殺された1793人の死者が転がっている様子を想像してみてほしい。
 無惨、としか言いようが無い筈だ。
 そして同胞として、怒りが腹の底からこみ上げてくる筈だ。
 中国が主張する三十万とか四十万とかいう人数に比べるから、問題にならないような些細な数と思ってしまうだけの話であって。
 仮に、真実1793人であったとしても。
 それだけの死体が転がっている様を想像すれば、大虐殺と感じて当然だと筆者は思う。

 WiLLに寄稿するような言論人は、常識では理解しがたい奇妙な思考回路を持っている。
 南京大虐殺について、彼らはいつもこう言うのだ。中国側の言う犠牲者数はおかしい、だから南京大虐殺も無かったのだ……と。
 言論や報道の自由のある今の日本でさえ、デモや集会の参加人数が主催者発表と警察発表でかなり違いがあることは、よくあるではないか。
 主催者発表と警察発表に違いがあるからと言って、「デモや集会も無かった」と言い張る人間は馬鹿だけであろう。
 そんな単純な事が、WiLLに寄稿したり、WiLLを買って愛読したりする「オトナの常識」を標榜する人達には、なぜわからないのだろうか。

 昨年惜しくも亡くなられた、筆者も尊敬するある方が、南京事件についてこうおっしゃった。

 犠牲者数が議論されているが、数が問題ではない。虐殺が行われたこと自体が問題なんだ。


 おっしゃったのは、昭和天皇の実弟で、歴史学者でもあり、戦争中には軍人として中国戦線にも行きその実態を見てきた三笠宮さまである。
 日本の右翼とは、本来皇室を尊ぶものではないか。
 にもかかわらず、歴史学者でもなく、戦争中に中国戦線に行った事も無い自称“保守”の者が、三笠宮さまのお言葉を否定するような主張をして恥じないのは、どういう事であろうか。

 また、一水会顧問の鈴木邦夫氏も、こう言っている。

 日本は常に正しい道を歩いてきたのだろうか。過去を振り返ればアジアの国に弁解できないことをしたのではなかったか。そうした過ちも直視し、それでもこの国がいとおしいと思う気持ちが愛国心だと思う。威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心ではないはずだ。


 近年、安倍政権のもとで妙に“売国”だの“非国民”だのといった戦前戦中によく使われた言葉で他者を貶める自称“愛国者”が増えているが。
 鈴木邦夫氏のような姿勢こそ、今の右翼に欠けている正しい愛国心だと、筆者は考える。

 WiLLが何故、自誌を「オトナの常識」と呼びたがるのか。
 それはズバリ、WiLLの論調がコドモで非常識だと自覚しているゆえのコンプレックスによるものと、筆者は考えている。
 本当に大人の常識人が読むオピニオン誌なら、わざわざ「オトナの常識」などと標榜しない筈だ。

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性犯罪の罰則強化には賛成なのだが…

 性犯罪の罰則を強化する刑法改正案が、この3月7日に閣議決定された。
 その刑法改正案の骨子は、以下の通りである。

 強姦罪と強姦致死傷罪の法廷刑の下限を引き上げる。
 強姦罪の加害者と被害者の性差を無くす。
 強姦罪や強制わいせつ罪などを非親告化。
 強制わいせつ罪などで処罰される行為のうち、悪質性の高い一部の行為を強姦罪で罰する。
 18歳未満の子供に、父母などが影響力に乗じて性交やわいせつ行為をした場合の罰則を新設(罪の成立に暴行や脅迫は不要)。
 強姦罪の名称を「強制性交等罪」に変更。


 男である筆者から見ても、どれも納得できる当然の改正である。
 あまり知られていないことだが、強姦と強制わいせつはこれまで、被害者が告訴して初めて罪に問われることになっていた。
 性犯罪に逢った被害者の中には、自分が事件に遭ったことを知られたくないあまりに、被害を受けても泣き寝入りする人もいた。
 だから性犯罪に関しては、事件をたとえ警察官が目撃していても、被害者が「処罰して下さい」と言わなければ、加害者は逮捕もされなかったのだ。
 それが非親告罪とされ、事件が起きれば被害者が申し出なくても処罰されるようになるのは、とても良いことだと筆者は考える。

 また、現在は女性から男性に対するセクハラ等もあるし、同性間における性犯罪もあるだろう。
 だから強姦罪や強制わいせつ罪は「男が女性にするもの」という固定観念から脱却し、性差なく性犯罪が成立するように変更したのもまた、至極当然のことである。
 父母など、つまり保護者が18歳未満の子供に性行為を迫るのを罰則を新設して禁じたのもまた、親や義理の親による性的虐待が問題になっている今日、とても良いことだと思う。

 それにそもそも、強姦いう言葉には、文字から見ても「男が女性にするもの」というニュアンスが込められている。
 しかし現実には、男性がゲイの性犯罪者に襲われる場合も、男性が女性にわいせつ行為をされる場合もある。
 だから強姦罪の名称を「強制性交等罪」に変えるのも、当然のことと言えよう。

 筆者はこの性犯罪に対する刑法改正案を、実に良いことだと思ったが。
 だが性犯罪に遭ったと訴える女性たちは、これでもまだ不満なのだそうだ。
 その被害者によると、被害に遭った時に「体が動かず思考が停止するといった、凍りつく(フリーズする)身体的反応が出ること」が考慮されていないからだそうだ。

 つまり一部の女性たちは、強姦罪の成立に暴行や脅迫の存在が必要とされ、被害者が抵抗しなければ罪に問われないことに異議を唱えているのである。
 彼女らの希望は、「抵抗しなくても、心で嫌だと思っていれば強姦で相手は有罪」ということなのだそうだ。

 筆者には年子の姉がいた為、少年マンガだけでなく少女マンガも読んでいた。
 その姉が読んでいた少女マンガに、こんな場面がよくあった。
 仲良くなった男女がいて、そして男の方が女の子にこう聞く。
「キス、してもいい?」
 すると女の子は機嫌を損ねるのである。
「そーゆーことは、聞くんじゃなくてムードで察して黙ってやって!」
 キスだけでなく、それ以上の行為も聞いて許可を取ってからするのは「ムードを台無しにする、ダサい行為」で、雰囲気を読みその場の流れでするのが、筆者が読んだ少女マンガやハーレクイン・ロマンスなどの恋愛小説の常道だった。
「なあ、キスしていい?」
「胸に触っていい?」
「セックスして、いい?」
 少なくとも筆者が読んだ女性向きの恋愛マンガや恋愛小説には、いちいち確かめるイケメンは一人もいなかった。

 ここで断っておくが、強姦や強制わいせつは「見ず知らずの相手に、いきなり」というのではなく、相手は同じ職場や学校などの顔見知りの知人によるものであることが多い。
 で、二人はそれなりに仲も良く、少なくとも男の方は良いムードだと思っている。
 そして「○○、しても良い?」といちいち相手の女性に聞いて確かめるのはムード台無しのダサい行為で、だから黙ってキスをし、相手の女性も黙ってされるがままになっていたから押し倒した。
 そしたら後から「強姦された! あの時は抵抗しなかったけど、フリーズして体が動かず思考が停止してたのよ!」と警察に訴えられたのでは、男は怖くて女性を口説く事も出来なくなるだろう。

「○○、しても良い?」といちいち尋ねる男はダサいし、ムード台無し。
 そう女性に言われるから黙って押し倒したら、抵抗されなかったのに強姦罪で告訴される。
 これではホント、男は女性に手も出せなくなってしまう。
 女性はすぐ「雰囲気で察して」と言うけれど、言わずにすべて察することが出来るくらいなら、言葉なんて要らないよね。
 人間、それぞれ感じ方も考え方も違うし、言わなければわからない部分も間違いなくある筈だ。

 暗い夜道で、一面識も無い女性に襲いかかって性交するのは、もちろん間違いなく強姦だ。
 しかし顔見知りで、しかもそれなりに親しい仲で、それで「そろそろ、そういう仲になっても良いかな」と思って手を出して押し倒し、抵抗されなかったからコトに至ったら「襲われた、強姦だ!」と言われるのでは、男は本当に草食化するしか無いデスよ。
 だから性犯罪の罰則を強化する一方で、「強制性交等罪」の成立に、暴行や脅迫の存在を必要とする規定が残されたのは尤もな事だと、筆者は考える。

 筆者は決してモテるタイプではないけれど、姉の少女マンガや恋愛小説も読んでいたから、いちいち「○○、して良い?」と尋ねること無く、ムードを読んで黙って手を出していたけれど。
 それでも相手の女性を傷つけてしまうのが怖くて、そっと大事に扱ったつもりだった。
 そしたらある女性に、かなり後になってこう言われたよ。
「貴方の愛撫は優しすぎて、印象が薄いのよね」
 ……口に出して言われなければわからない事って、本当にいろいろあるのだ。

 嫌だと拒否する相手に行為を迫るのは、もちろん犯罪だが。
 しかし何をするにも、男がいちいち「○○、しても良いデスか?」と女性の許可を取らなければいけないような恋愛も、何か味気なくムードに欠けるように感じないだろうか。

 親しくなった女性と行為に及ぶ場合、たいていの男は「拒否されなければ、次に進もう」と考えていると思う。
 だから拒否も抵抗もされずに最後までして、その後で「ゴーカンされた!」と訴えられたら、男は本当に困ってしまう。
 その、性犯罪の被害者女性や弁護士たちの言う「思考が停止して体が動かなくなる」というフリーズという状態まで考慮して女性に接しなければならないとすれば。
 それこそいちいち「○○、しても良いデスか?」と確かめるダサ男になるか、自らリードするのを放棄して女性から誘われるのをひたすら待つ草食男になるしかなかろう。

 拒否して抵抗する相手に性交を強いるのは、もちろん良くないし犯罪だ。
 しかし暴力もふるっていないし脅しもしていないのに、何でもかんで「性犯罪だ!」と叫んだら男は萎縮するばかりだし、非婚化と少子化がますます進む結果になるのではないだろうか。

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年金問題に対する橋下氏の名案

 初めにはっきり言っておくが、筆者は橋下徹氏と大阪の維新の党は大嫌いである。
 しかし筆者は、「嫌いな人や嫌いな政党の言うことはすべて間違っている」とは思っていない。
 反対の立場に立つ嫌いな人や集団も、時には聞くべき意見や納得できる意見も言う。
 だから嫌いで反対している人や政党の意見も頭から否定するのではなく、一度はしっかり聞くべきだと筆者は思っている。
 反対して否定するのは、相手の意見を最後まで聞いてからでも遅くない。

 今、特に若い人たちに年金を払わない人が増えているという。
 その気持ちは、筆者もわからないでもない。
 筆者は現在、年金は欠かさずきちんと支払っているが。
 しかし今の日本は、高齢化が急速に進んでいる。
 年金を払う人が減る一方で、受給する高齢者が増えている現状を考えれば、若い人たちが「どうせ自分達は貰えないのに、払うだけ損ではないか」と思う気持ちもよくわかる。

 今の日本で、年金制度がこのままで良いと思っている人は、殆どいないのではないだろうか。
 年金の支給開始年齢を引き上げるか、年金そのものを減額しなければ、年金制度自体がやがて破綻するだろう。

 かと言って、年金の支給開始年齢を引き上げれば、「定年退職してから年金が支給されるまでの年月を、どう暮らして行けば良いのだ?」という問題に突き当たる。
 元気で再就職できる者は良いが、持病があってフルタイムで働けない者は貯金を切り崩して生きねばならず、それは辛いことだろう。
 また、年金の額そのものを引き下げれば、暮らしに困窮する高齢者も増えるだろう。

 この問題に対し、筆者の嫌いな大阪維新の橋下徹氏が、非常に面白い、検討に値すべき事を言った。
 橋下氏は年金を「ある一定の年齢になったら必ず貰えるもの」ではなく、相互扶助の制度として、あるレベル以上に収入のある高齢者には支給しないようにしたらどうかと提案した。

 大変もっともだと、筆者は思った。
 業績の良い会社の社長や役員、天下りのお役人、それに多額の歳費を税金から支給されている国会議員などの豊かな暮らしをしている人達は、年金など必要としない筈ではないか。
 確かに年金は、必ず貰えるのが前提の制度ではある。
 しかし年金制度の破綻が目の前に迫っていて、制度そのものの改革が必要とされている現状を考えれば、橋下氏の言う「収入の多い高齢者には支給しない」という改革が最も理にかなっていて、多くの人の賛同も得られるのではないだろうか。

 年金の支給開始年齢を引き上げても、年金の額を引き下げても、どちらにしても多くの人が困る事になる。
 しかし金持ちのお年寄りに年金を貰うのを我慢してもらったところで、誰も何も困りはしないではないか。
 だから橋下氏の言う通り、年金を支給するのは、無収入もしくは低収入になった高齢者にだけで良いと筆者は考える。

 痛みを伴わない、もしくは痛みの最も少ない年金制度の改革としてまず考えられるのは、橋下氏の言うように、今は払えば誰でも貰えるのが前提の年金を、収入の少ない人だけが貰える相互扶助制度に変える事しか無いと、筆者は考える。
 高齢でも平均以上の収入を得ている恵まれた老人(社長や会社役員や天下りの役人や国会議員など)に、なぜ年金が必要なのだろうか。

 この「支給するかどうかは、収入に応じて決める」という年金制度の改革は、国会議員がその気になって提案すれば、すぐ実現すると思うのだが。
 しかし国会議員たちは「支給開始年齢の引き上げ」や「支給額の引き下げ」は考えても、橋下氏の言う「相互扶助による収入に応じた支給」は考えたがらない。
 それは国会議員たち自身の多くが、年金を受け取っているからである。

 筆者は軽自動車に乗り服はユニクロやシマムラで買い、築四十年以上の家にカネが無くてリフォームすら出来ぬまま住んでいるビンボー人であるが。
 だがお金については、何とか暮らしていける分だけあれば良いと思っている。
 そして生きてゆくには、お金よりもっと大事なものがあると思っている。
 だから筆者は残業してより多くのお金を稼ぐより、定時退社して家庭生活や趣味にも時間を費やすことの方を選びたい。

 しかしお金持ちというものは、筆者とは考えや価値観がまるで違うようだ。
 お金持ちだからお金に鷹揚というわけではなく、「一円でも多くのお金を欲しい!」という執念があるからこそお金持ちになれるというのが現実であるようだ。

 だから年金の問題でも、「お金持ちには支給しないようにしたらどうか?」と提案すると、お金持ちたちは断固反対するのである。
「そんな事されたら、ワシの小遣いが無くなる!」とね。
 生活には何も困っておらず、庶民より明らかに豊かな暮らしをしていても。
 それでも「ワシの小遣い」程度でしかない年金を確保するのにさえ必死なのが、我が日本のお金持ちなのである。

 年金は収入が乏しくなった高齢者の為の相互扶助の制度に変え、高収入の高齢者には支給しないという橋下氏の案は、筆者には至極もっともに思えるのだが。
 税金から高額の歳費を貰っている国会議員など、自ら率先して年金の返上を国会に提案すべきだと思うのだが、少なくとも現状ではそのような動きは全く見られない。
 国会議員や、天下りの官僚も含めて。
 日本の指導者層というのはその程度の人間であり、「だから日本が良くならないわけだ」と痛感する今日このごろである。

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金原ひとみなるニコチン中毒患者の妄言

 受動喫煙を防ぐ為の禁煙や分煙に腹を立て、「いつでも何処でも煙草を吸わせろ!」とヒステリックに騒ぎ立てる喫煙者の言動を、ある医者が「まるでニコチンが言わせているかのようだ」と評した。

 無論、中には周囲の者に気遣いながら、遠慮しながら煙草を吸っている紳士たちもいる。
 しかし一方で他人の存在にまるで構わず、遠慮の欠片すら無く煙草を吸い、注意しようものなら狂ったように怒り出す喫煙者も間違いなく存在する。

 例えば酒を飲む者が「オレの酒が飲めねえ、って言うのか!」と凄み、周囲の者にも無理に酒を飲ませる行為がアルハラである事は、どこの誰にも否定できない事実だ。
 煙草を吸わない者にも受動喫煙を強いる喫煙者の存在は、非喫煙者にとっては間違いなく“ニコチン・ハラスメント”だ

 筆者はかなり以前に煙草を吸うのを止めた非喫煙者だが、煙草を吸う人に「貴方も禁煙しなよ!」と言うつもりは全くない。
 煙草が有害であるのは事実だが、酒、それに糖分や油を多く含んだ食品も多量に摂取すれば健康に害がある事は同じだ。
 煙草は麻薬と違って合法な嗜好品だし、喫煙者がリスクを承知の上で煙草を吸うのは全く構わないし、個人の自由だと思っている。

 ただ煙草が他の嗜好品と違うのは、有害成分を多量に含んだ煙が周囲に広がり、煙草を吸わない者まで巻き添えに受動喫煙させる事である。
 喫煙者の存在は、「オレの酒をオマエも飲め!」と強要するアルハラの酒乱と全く同じである。
 断言するが、煙草を吸わない者もいる公共の場での喫煙は迷惑だし有害だ。
 だから筆者は路上を含む公共の場での喫煙はすべて禁止し、煙草を吸いたければ自宅か喫煙者専用の店や場所のみで吸うべきだと考える。

煙草の吸い殻P1110323

 路上を含む公共の場所で喫煙する者の存在に、煙草を吸わない者は心から迷惑している。
 写真を見ていただきたい。
 これが煙草の吸い殻だが、フィルターがどれだけタールで茶色に汚れているか、一目でわかるだろう
 だから喫煙者の肺は、タールで真っ茶色に汚れている。
 そしてそのタールで汚れた有害な煙を、喫煙者はフィルターで漉して吸っているのに対し、煙草を吸わない者はフィルター無しにそのままダイレクトに吸わされているのである。
 このフィルターのヤニを見れば、喫煙者が周囲の煙草を吸わない者にどれだけの健康被害を与えているかがわかる筈だ。
 筆者の母の友人にも、煙草など全く吸わないのに夫が喫煙者だったせいで、肺癌になってしまった方がいる。

 喫煙者に説明していただきたい。
 煙草を吸わない者まで、なぜ喫煙者の煙草に肺を汚され、健康を損なわれなければいけないのだ?
 煙草を吸う自由は、無論ある。
 しかし「煙草を吸わない者にまで有害な煙を吸わせる権利」は、どの喫煙者にも無い筈だ。

 煙草を吸わない者は、喫煙者の健康を心配して「煙草は止めたら?」と言っているのではない。
 ただ「巻き添えに受動喫煙させられたくない」という、至極真っ当な主張をしているだけである。

貴方の吸う煙草の煙を、煙草を吸わない私に吸わせないで下さい
 煙草を吸わない者は、喫煙者にただそれだけを望んでいるのだ。
 にもかかわらず多くの喫煙者が、「肩身が狭い、煙草を吸わせてもらえない」と、まるで自分達が被害者であるかのように思っている。
 間違えないでもらいたい。
 喫煙者は、煙草を吸わない者に受動喫煙を強いる加害者なのである。

 この3月7日の毎日新聞の夕刊の『ナビゲート』というコラムに、その被害者意識丸出しで「自分達は煙草を吸わない人に迷惑と健康被害を与えている加害者なのだ」という認識がまるで無い、喫煙者の一方的な言い分が載せられていた。
 それを一読すれば、喫煙者がいかにニコチンに依存し、煙草を自由に吸えないとなるとどれだけ無茶苦茶で手前勝手なことを言うかがよくわかる。
 そのニコチン中毒患者は金原ひとみという作家だが、金原氏が書いた『最初の一服』というコラムの全文をここに引用してみよう。

 今年一月、フランスで全ての煙草が黒いパッケージに統一された。プレーンパッケージ法という、パッケージにつられての購入をなくすためのものらしい。ジタンやゴロワーズなど、フランス人の慣れ親しんできたデザインもこれで見納めだが、今後は日本でジタンやゴロワーズを買って行けばフランス人は羨ましく思うかもしれない。煙草屋のカウンターの向こうは一面真っ黒で、小さい字で書かれた銘柄のみで区別する他なく、煙草屋も苦労しているようだ。
 一方日本では飲食店での全面禁煙が検討されているらしい。つまり日本の数少ない美点の一つが、今消えつつあるのだが、多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランスに対して、路上喫煙が嫌がられる日本はどこで煙草を吸えばいいのか。
 こうした煙草に対する一連の流れは不可解、かつ不愉快にも感じているのだが、喫煙者の権利を訴える気には到底なれず、さらに健康への影響を問いただす必要もない。誰も煙草が体にいいと思って吸っているわけではないからである。
 だが人はパンのみで生きられるわけではない。では霞を食って生きているのか。いや私は煙草を吸って生きてきた。どんな状況、それも悲惨な状況であるほどに煙草の味は引き立つ。何故なら全ての一服は過去へと、その最初の一服へと回帰していくからである。それは誰もが初めて煙草を吸った時、傍にあったであろう世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕したあの一瞬への繰り返される回帰なのだ。


 ……これが喫煙者である女性作家の言い分であるが、突っ込み所が多過ぎて、どこから反論したら良いか困るくらいだ。
 喫煙者は、本当に頭がオカシイ。
 金原氏を全ての喫煙者と同一視してはいけないだろうが、コラムを読んで正直にまずそう思ってしまった。

 まず「日本では飲食店での全面禁煙が検討されているらしい。つまり日本の数少ない美点の一つが、今消えつつある」とあるが、飲食店、お酒を出す店だけでなくレストランや喫茶店でも煙草の煙が流れて来て否応なしに受動喫煙させられている現状を、どこの誰が“日本の美点”などと思っているだろうか。
 飲食店で遠慮なく煙草を吸え、煙草を吸わない者が我慢しているような状況を“美点”だなどと思えるのは、金原氏などごく一部のニコチン依存症のヘビースモーカーだけだろう。
 喫煙者でも紳士淑女なら、少なくとも煙草を吸わない者がいる場所での喫煙は遠慮する。

「多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランスに対して、路上喫煙が嫌がられる日本はどこで煙草を吸えばいいのか」と言うが、路上は幼い子供も含めて多くの非喫煙者がいる場所だ。
 路上喫煙は、その煙草を吸わない弱者に我慢と受動喫煙を強いる事になる。
 だから路上喫煙は嫌がられるのだ。
「どこで煙草を吸えばいいのか」って、自宅や喫煙者だけが集まる場所で吸えば良いだけではないか。
 世の中に酒を飲む者は大勢いるが、殆どは家か飲み屋で酒を飲んでいる。我慢できずに道を歩きながら酒を飲んでいる者がいたとしたら、ひどいアル中と後ろ指を指されるだろう。
 酒飲みは酒を飲むべき場所を心得ているのに、喫煙者はなぜ煙草が我慢できず、仕事中にも食事の前後にも路上でも、つまりいつでも吸いたがるのか、それが筆者には理解できない。
 少なくとも筆者は金原氏のように、路上喫煙して周囲の煙草を吸わぬ人達にも受動喫煙させても平気でいられるような人にはなりたくない。

「多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランス」と、金原氏はまるで「おフランスでそうなのに、日本は遅れているしおかしい」とでも言いたげだが。
 実はフランスは喫煙率が24.1%で世界第9位の、言わば喫煙大国なのだ。
 ちなみに日本の喫煙率は19.3%で世界第23位だ。
 よくフランス大好きで、文化的にも進んだ素晴らしい国だとフランスを崇拝する人がいるが。
 しかし金原氏が大好きな“おフランス”は、少なくとも喫煙率に関しては日本より遅れているのだ。
 だからこそ金原氏の言う“プレーンパッケージ法”なるものを施行してまで、喫煙率を下げようとしているのではないか。
 繰り返し言うが、煙草を吸わない者や幼い子供も多くいる公共の路上での喫煙は「嫌がられて当然」であって、多くの人が歩きながら煙草を吸っているフランスの方がオカシイし遅れているのだ。

 さらに金原氏は喫煙について「健康への影響を問いただす必要もない。誰も煙草が体にいいと思って吸っているわけではないからである」と言うが、煙草を吸わない者は、少なくとも筆者は喫煙者の健康など心配していない
 金原氏も「煙草が体にいいと思って吸っているわけではない」そうだし、金原氏を含めた喫煙者は肺癌なり、喫煙が引き起こす動脈硬化による数々の病気なりで勝手に死ねば良いと思っている。
 心配しているのは、煙草を吸わない者達まで受動喫煙させられる事に対してだ。
 受動喫煙の害は、今では医学的に異論の余地なく証明されている。
 煙草のフィルターにべったりと付着したヤニでわかるように、煙草の煙が体に良い筈が無い。そして筆者ら煙草を吸わない者は、喫煙者のせいで受動喫煙させられ、有毒な煙をフィルター無しにそのまま吸わされているのだ。
 金原氏を含む「煙草が体に良くなくても、わかって吸っているんだから放っておいて!」と言う喫煙者には、「ふざけるな!」と怒鳴りつけてやりたい。
 貴方が煙草で自分の健康を損なうのは勝手だが、周囲の他人の健康まで受動喫煙で巻き添えにするのは、本当に絶対に止めてもらいたい
 繰り返すが、煙草を吸うのが許されるのは、周囲に煙草を吸わない者がいない場所だけだ。

 喫煙者の健康を心配しているのではない、「受動喫煙で煙草を吸わない者の健康まで損なわないでくれ」というのが、今の日本の禁煙や分煙に対する動きなのだ。
 金原氏などの喫煙者は、くれぐれもそこを誤解しないでもらいたい。
 喫煙者が煙草を吸って自分の健康を損なうのは個人の勝手だが、煙草を吸わない他人にまで受動喫煙させる権利は、どの喫煙者にも無い筈だ。

 それにしても、「誰もが初めて煙草を吸った時、傍にあったであろう世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕したあの一瞬への繰り返される回帰なのだ」とは、あまりにも“トンデモ”な理論に恐れ入った。
 たかが煙草を吸うだけで、「自分を否定するセカイの力を凌駕」とか、少なくとも筆者は思いもしなかった。

 以前にも書いたが、筆者はかつて煙草を吸っていた。そして大学生のうちに、キッパリと禁煙して今に至る。
 その筆者が煙草を初めて吸った動機は、まず好奇心だ。それと「大人に見られたい」という背伸びだ。この二つ以外に、煙草を吸い始めた理由は全く無い。
 そして初めて煙草を吸った時には、ただ煙くて気持ち悪かった。
 セカイが自分を否定する力がどうのこうのなどと、全く頭を過ぎりもしなかった。
 また「全ての一服は過去へと、その最初の一服へと回帰していく」とも金原氏は言うが、筆者は煙草を吸っていた時に過去や最初の一服の事など、まるで思いもしなかった。

 だが金原氏は今もなお、煙草を吸うと過去に、「世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕したあの一瞬」に回帰すると言う。
 さらに金原氏は「初めて煙草を吸った時、傍にあったであろう世界を否定する力が、世界が自分を否定する力を凌駕した」のを、“私は”ではなく“誰もが”と言う。
 本当に煙草を吸えば“誰もが”「自分を否定するセカイ」だの「それを凌駕するセカイを否定する力」だのと、セカイ系の中二病のちょっとヤバい感覚にとらわれてしまうのだろうか。
 少なくとも筆者の知る限り、煙草を吸う動機はたいてい好奇心と背伸びとカッコつけで、「セカイが自分を否定する」とか、「そのセカイを否定する力を得た!」とか言う者は誰もいなかった。

 それにしても、たかが煙草を吸っただけで「自分を否定するセカイを凌駕する力」を得たとか、安っぽいファンタジー系のライトノベル小説にも無いような発想と感性には恐れ入る
 そしてその中二病的な感性のお方が、日本では有名な人気作家として生きていられるのだから驚きだ。

 煙草を吸い、そして日常をニコチンに依存するまでに至ると。
 いつでも、どこでも煙草を吸わずにいられなくなり、そんな自分を正当化する為にありもしない日本の美点をデッチ上げたり、フランスの悪い点をさも良い所のように言ったり、他人に対する受動喫煙の害は無視して「健康への影響を問いただす必要もない。煙草が体にいいと思って吸っているわけではない」と居直ったり、果ては「セカイが自分を否定して、喫煙でそのセカイを凌駕する力を得た!」などと中二病そのものの妄想話を持ち出してきたり。
 有名な人気作家ですら、ニコチン中毒になるとこうなるのだという事が、3月7日の毎日新聞夕刊のコラムでよくわかった。
 喫煙とは、本当に恐ろしいものである。

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韓国以下の喫煙大国ニッポン

 筆者はこのブログで、ウイスキー等のお酒についてあれこれ書いている。
 しかしお酒は殆ど家で飲んでいて、自ら進んで店で飲む事は少ない。

 本当は、バーテンダーさんにウイスキー等についての話をいろいろ伺いながら飲んでみたいと、常日頃から思っているのだが。
 それでも筆者が実際にバーに足を運ぶことは、殆ど無い。

 バーに行きたい気持ちはあるし、バーテンダーさんと話もしたい。
 なのにバーに行かない理由は単純だ。
 日本にあるバーの殆どが、分煙どころか「全席喫煙可」だからだ。

 筆者の住む市にも約二十軒のバーがあり、筆者はその全てを調べてみたが、禁煙の店は一軒のみで、それ以外はすべて「全席喫煙可」だった。
 ウイスキーを豊富に置いてあり、かつウイスキー初心者歓迎という店ですら、全席喫煙可だ。
 そして唯一の禁煙のバーは、バーテンダーも女性で品揃えの大半がワインの、女性客を主なターゲットにした店だった。

 筆者は大学生の頃は煙草をかなり吸った。
 味や銘柄にもこだわり、濃く甘い煙の煙草をかなり愛した。
 しかし筆者は、大学を卒業する前に煙草をきっぱりと止めた。

 その筆者にとって、他人の煙草の煙を否応なしに吸わされる受動喫煙は、非常に不愉快である。
 だから分煙すらされておらず全席喫煙可で、他人の煙草の煙が立ちこめた飲食店に、自分のお金を出してまで受動喫煙しに行く気になど全くなれないのである。

 近年の五輪開催地では、健康の為にどこの国でも罰則付きの法律や条令で受動喫煙対策に取り組んでいる。
 だから日本の厚労省も2020年の東京五輪に向けて、飲食店を原則として屋内禁煙にし、一定の排煙性能を備えた喫煙室の設置を認める原案を公表した。
 すると飲食業界ばかりでなく、自民党の受動喫煙対策を検討する部会からも批判の嵐である。

 彼らの言い分はこうだ。
「零細な店がつぶれる」
「職業選択の自由を奪い、憲法違反だ」
「営業の自由に触れる」

 飲食業など16のサービス業でつくる全国生活衛生同業組合中央会などは、受動喫煙に対する規制を「弱いものいじめだ」とまで主張しているが、果たしてそれは事実だろうか。

 ここでまず、日本で煙草を製造している、煙草を吸わせたい側のJTが発表した、2016年の日本人の喫煙率について触れておこう。
 男性が29.7%女性が9.7%、そして男女併せて19.3%である。

 つまり煙草を吸う人は、日本人全体の二割に届かないという事だ。
 それを考えれば、喫煙可の飲食店も全体の二割もあれば充分ではないだろうか。
 外のお店によくお酒を飲みに行く人は主に男性である事を考えても、せいぜい三割で良い筈だ。
 しかし筆者が住む市の約二十軒のバーのうち、禁煙なのは僅か一軒で、残りは全て全席喫煙可だった。
 これが受動喫煙に対する、日本の飲食店の現状である。

 例の飲食業界などの全国生活衛生同業組合中央会は、受動喫煙に対する規制を「弱いものいじめだ」と言うが。
 しかし現実の飲食店では、「喫煙者による受動喫煙というイジメ」が広く放置(あるいは推奨)されているのである。

 自分はマナーを守って煙草を吸っていると自称する喫煙者は、「煙草を吸う時には、同席する人に吸って良いですかと断っている」と言う。
 だが見ず知らずの初対面で通りすがりの誰かならともなく、親しい人や上司や取引相手などに「吸って良いですか?」と聞かれてキッパリ「嫌です」と言える人が、果たしてどれだけいるだろうか

 筆者の従姉の夫は、とても良い人である。
 筆者より年長で、それなりに社会的地位のある人であるにもかかわらず、筆者に気を使って親切にして下さる。
 ただその筆者の従姉の夫は、喫煙者だ。
 昨年の法事で少し休もうと思った筆者が控え室に行ったところ、そこには先にその従姉の夫が居て煙草をふかしていた。
 煙草を止めている筆者にとって、その控え室にこもった煙草の煙はとても嫌だった。
 しかしその従姉の夫が良い人であるのがわかっているだけに、あからさまに嫌な顔をして出て行くわけにも行かず、少しだけ距離を取って世間話をした。

 そのような経験のある煙草を吸わない人は、かなり多いのではないだろうか。
 煙草の煙が不快でも、相手が良い人だとなかなか文句を言いづらい。
 相手が良い人でなくても、上司や取引相手などの利害関係のある相手の場合は、もっと文句を言いにくい。


 今、お酒を出す飲食店に行くと、まずどこの店でも煙草の煙がもうもうとしているが。
 それは一緒に飲むグループの中に何人か喫煙者がいるから、煙草を吸わない大半の者が我慢しているに過ぎない

 繰り返し言うが、日本人の喫煙者は19.3%、男性に限っても29.7%に過ぎない。
 つまり男同士の飲み仲間でも、三割の喫煙者が七割の煙草を吸わない者に受動喫煙を我慢させているというのが現実なのだ。

 特に女性は、喫煙率が9.7%である。
 にもかかわらず非喫煙者の女性を連れてバーや飲み屋に行き、平気で煙草を吸う男は馬鹿である。
 煙草を吸う貴方の姿を見て、女性がカッコイイなどと思っていると信じていたら大間違いだ。本心では嫌なのを、惚れた弱みで黙って我慢しているというのが現実である。
 一割に満たない煙草を吸う女性を除き、大半の女性は髪や服につく煙草の臭いをとても不快に思っているのだ。

 九州看護福祉大の川俣幹雄教授が、ネット調査会社に依頼し、10051人から得たアンケートの回答によると、全ての飲食店の禁煙に賛成する人は73.1%で、反対する人は僅か9.3%だったそうである。
 また、受動喫煙を不快に感じる人は82.2%で、他人の煙草の煙にさらされた場所の最多は飲食店(62.1%)、続いて路上(60.4%)だった。

 どうだろうか。
 これでも飲食店での喫煙を禁止すると「店が潰れる」と言えるだろうか。
 今では煙草を吸わない人、そして煙草の煙を不快に思う人の方が間違いなく多数なのだ。

 だから塩崎恭久厚労相も記者会見で、禁煙にすることで「売り上げが減るんじゃないかという心配があると思うが、売り上げは変わらないことが多い」、そして「受動喫煙がないことで店に行く人が増えることになる。五輪開催国で禁煙にしていない国はない」と発言している。
 まさにその通りである。
 店の経営者は「禁煙にすると経営が苦しくなる」と言う。そう言って煙草を自由に吸わせている貴方の店では、八割の煙草を吸わない者が、付き合いで嫌々喫煙者と同席しているのが実態なのだ。

 筆者も飲食店の煙草の煙を「付き合いで、仕方の無い場合のみ」我慢しているが、それは喫煙者が親しい人か、上司や取引相手などの利害関係のある相手の場合のみである。
 自分のお金を出してまで、無関係な他人の煙草の煙に満ちた店になど飲み食いしに行きたくでもないと心から思う。
 そう思うのは、筆者だけだろうか。

 煙草を吸わない者が今や八割以上で、82.2%の者が受動喫煙を不快に感じ、他人の煙草の煙にさらされる場所として最も多く挙げられたのが飲食店という調査結果を考えれば、禁煙にしたら店が潰れるどころか、塩崎厚労相も言う通りむしろ客が増えると考えるのが常識だろう。
 かく言う筆者も、禁煙のバーが増えたら是非行きたいと思っている。

 繰り返し言うが、今の日本の喫煙率はJTの発表でも二割を切っている。
 なのに何故「禁煙にすると、店が潰れる!」と信じ込んでいる業者が多いのか。
 それは喫煙者はニコチン中毒だから、煙草を吸えないとなるとヒステリックに騒ぐからだろう。
 それで業者は「店が潰れる!」と怯えて政治家に働きかけ、そして一律に原則屋内禁煙とする厚労省の方針がねじ曲げられ、例外規定がいろいろ作られようとしている。

 受動喫煙について議論する筈の自民党の部会ですら一律の規制に反対する人が多く、禁煙でなく「日本は分煙大国を目指すべきだ」という意見が多数なのだそうだ。
 ……分煙どころか、お酒を出す店の大半は全席喫煙可というのが日本の現状なのだが。
 その自民党の受動喫煙について議論する部会に出席している人は、大半が喫煙者ではないのかと疑いたくなってしまう。
 で、国際オリンピック委員会(IOC)が「煙草の無い五輪」を求めていて、リオでもロンドンでも屋内全面喫煙で、韓国の平昌ですら密閉の喫煙室を除いて屋内原則禁煙であるのにもかかわらず、東京は例外規定だらけの最も喫煙に優しい五輪開催地になりそうだ。

 筆者は思うのだが、煙草を吸わない者ももっと声を上げるべきではないだろうか。
 喫煙者が「煙草を吸わせろ、吸えないなら店に来ない!」とお店を脅すなら、煙草を吸わない者も「料理は美味しいし酒も良いが、煙草の煙が不快だからもうこの店には来ません」と、店にきっちりものを言うべきではないだろうか。
 受動喫煙したくない非喫煙者は、禁煙でなく分煙すらされていない店に文句を言わず、ただ黙って行かなくなるだけだ。
 だから飲食業者は、「煙草の煙を不快に思う人の方がずっと多い」という事実に気付かず、ニコチンの禁断症状に駆られてヒステリックに文句を言う喫煙者の声ばかりを聞いてしまうのだ。

 とは言うものの、喫煙者も二割(男性に限れば三割)存在するのも確かだし、その喫煙者の中には人間的に良い人がいるのも事実だ。
 そして喫煙者はよくこう言う、「お酒や脂肪や糖分など煙草以外にも体に悪いものはいろいろあるのに、なぜ煙草だけ悪く言われるのか?」と。
 酒、それに脂肪や糖分を多く含む食物は、摂取し過ぎても害が及ぶのは当人だけだ。しかし煙草は違う。煙草は煙が広がるから、周囲の人すべてに受動喫煙の害を与える
 だから喫煙は、ただ個人の嗜好の問題では済まされない。

 で、筆者は考えたのだが。
 自民党の受動喫煙を考える部会の人達が言うように、日本を本当に“分煙大国”にする気があるのなら。
 まず公共の屋内だけでなく路上も、原則禁煙にする。そしてその代わり、喫煙者の率に応じて今ある飲食店や喫茶店の五分の一程度を、喫煙者専用の“喫煙店”に指定したらどうだろうか。
 今では煙草を吸わない者が大多数なのにもかかわらず、禁煙の店は禁煙の表示をしている。
 そうではなく禁煙が原則で、むしろ煙草を吸える店の方が“喫煙店”の表示をすべきだと筆者は考える。
 今でも多くの飲食店では煙草を吸えるのが前提になっていて、きっちり分煙されているかどうかは中に入ってみないとわからない事が、この日本では多すぎる。
 喫煙者は「禁煙、禁煙とうるさくて窮屈だ」と感じているだろうが、煙草を吸わない者に言わせれば、飲食店でも路上でも、この国では他人の煙草の煙を否応なく吸わされて嫌な思いをする事が多すぎる

 かなりな酒飲みだって、仕事中には酒を飲まないだろう。
 夜まで待って、飲食店に行くか家に帰るかしてお酒を飲むのが普通だ。
 もし昼間から、仕事中にもお酒を飲むようになったら、アル中の廃人扱いされて「病院に行け!」と言われ、職場も首になりかねない。
 アフター・ファイブでも、道を歩きながら酒を飲んでいる者はかなり少ないし、いたらまず間違いなく廃人手前のアル中扱いされる。
 しかし煙草を吸う人達は、どうして他人に迷惑をかけずに喫煙できる時間と場所まで煙草を吸うのを我慢が出来ないのだろう。仕事中でも煙草を吸い、道を歩きながらも煙草を吸い、非喫煙者が周囲にいようがまるでお構いなしだ。
 煙草を吸わない者からすると、そうした喫煙者の行動は、専門の病院での治療が必要な依存症患者の異常行動に見える。

 煙草も法律で認められた嗜好品だから、「吸うのを止めろ、禁煙しろ!」と他人に強いるつもりは毛頭ない。
 ただ他人にまで自分の煙草の煙を吸わせるのは、絶対に止めて貰いたい
 しかし今の日本は政治家ら指導者が喫煙者なのか、受動喫煙に対する規制がザルでユルユルだ。
 喫煙者は二割に過ぎないのに、いかに喫煙が放置され、受動喫煙の害が無視されているのか、煙草の煙で充満する今の日本の飲食店の実態を見ればよくわかる。

 断言するが、少なくとも完全な分煙がされてない飲食店には、筆者は身銭を切って自ら行く事はしない。
 そう宣言する非喫煙者が増えれば、禁煙もしくは完全分煙の店がもっと増えるのではないだろうか。

 今の日本では飲食店でも屋外(路上)でも煙草は吸い放題で、煙草を吸わない者が受動喫煙から守られているのは、ごく一部の飲食店と限られた禁煙地域くらいだ。
 自民党の受動喫煙を考える部会の人達が、日本を本気で「煙草を吸う自由も守りつつ、吸わない者を受動喫煙から守る分煙大国」にするつもりがあるのなら、これは逆にすべきではないか。
 煙草を吸わぬ者が受動喫煙を強いられ、それを避けるには非喫煙者が禁煙のマークや表示がある場所を探さねばならない。これが今の日本の、喫煙に関する状況だ。
 そうではなく、飲食店であろうが路上であろうが屋内外を問わず公共の場所での喫煙は原則禁止とし、煙草は現在の日本人の喫煙率に応じた“喫煙可”の表示のある場所や店、および自宅でのみ吸うのが当たり前の国になって欲しいと、筆者は心から願う。

 喫煙は煙草を吸わぬ者に受動喫煙させ、不快な思いをさせるだけでなく他人の健康に害を与えている。
 にもかかわらず今の日本では、煙草を吸わない者が喫煙者に遠慮して、煙草の煙と受動喫煙を我慢しているのが現実だ。
 そうではなく、「煙草を吸う者の方が遠慮して、煙草を吸わぬ者が居る時くらい煙草を吸うのを我慢すべき」と考える筆者は、間違っているのだろうか。

 煙草を吸わぬ者が受動喫煙を避ける為に禁煙となっている場所や店を探すのではなく、煙草を吸う者の方が“喫煙可”の場所を探す。
 一日も早く日本がそういう国になって欲しいと、心から願う。

 冒頭でも触れた通り、筆者の住む市のバーで禁煙なのは、約二十軒のうち一軒(女性向けのワインバー)だけで、それ以外は全て全席喫煙可だ。
 その喫煙可のバーすべてに「禁煙にしろ!」などと言うつもりは無い。
 しかし日本人の喫煙率は19.3%で、男性に限っても29.7%なのだ。
 それを考えれば、七割のバーが禁煙もしくは分煙でもおかしくない筈だ。

「煙草を吸うお客様もおられますし、禁煙にしたら売り上げが落ちます」と言うバーの店主さまに、逆に問いたい。
 貴方のお店のお客様は、みな煙草を吸っているのだろうか?
 吸わないお客も、少なからず居るのではないだろうか。
 繰り返し言う、煙草を吸わない者は、付き合いで仕方なく同席者の煙草の煙を我慢しているのであって、決して「気にならない」わけでも「全然いやじゃない」わけでもない。
 禁煙にする事で、女性を含めた非喫煙者の新しいお客が貴方のお店に来る可能性にも、飲食店の経営者様は目を向けて欲しい。

 煙草の煙が嫌だから、筆者は喫茶店やレストランも含め禁煙もしくは完全な分煙のされていない飲食店には行かないし、ウイスキーが好きでバーテンダーさんの話も聞きたいくせにバーにも行かない。
 しかし断言するが、禁煙で、かつウイスキーの品揃えが良いバーが近くにあれば、筆者は間違いなく行く。
 日本人の八割は煙草を吸わない。
 そして筆者のように「禁煙なら行く」というお客も、少なからずいる筈だ。
 それとも酒を出す飲食店の経営者は、「酒を飲む人は、みな煙草も好んで吸う。煙草を吸わない人は、酒も飲まないお客にならない人達だ」とでも考えているのだろうか。

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