空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

日本を侵食するLINE中毒の害悪

 これはあくまでも、筆者の個人的な好みの問題なのだが。
 筆者は多くの日本人が夢中になっているLINEというやつが、心底嫌いだ。
 誰に勧められても、断固としてやっていない。

 世の皆がやっているLINEを、筆者はなぜ嫌いなのか。
 それはズバリ、筆者は「一人でいる事に耐えられない、常に誰かと繋がっていたい寂しん坊」ではないからだ。
 というより逆に、仕事でも趣味でも物事は何でも集中して没頭したい人間で、むしろ「一人の時間を充分に持てないと耐えられない」のだ。

 いや、別に「家族も友人も要らない」というわけではない。
 家族との団欒や友人との交流は、それはそれでちゃんと楽しんでいる。
 ただ読書や映画鑑賞や音楽鑑賞など、趣味に一人で取り組める時間がどうしても欲しいのだ。
 そうした大切な自分の時間を、LINEの頻繁な着信に妨げられるのは大迷惑だ。

 それはもちろん、「家族に起きた困り事や友人の悩み事より、自分の時間の方が大事」とは言わない。
 家族や友人の重大事には、趣味はもちろん、場合によっては仕事も放り出して対応する。
 ただLINEで伝えられる事の大半は、「どうでもいい、下らない事」だ。
「今、何してるー?」とか。
「夕食は××でステーキ食った、めちゃウマ!」のような。
 そんなどうでもイイ事で、着信音を鳴らして貴重な一人の時間を邪魔して欲しくないのだ。
 増してや仕事中の大して意味のないLINEは、心の底から鬱陶しい。

 と言うと、「設定を変えて着信音を鳴らないようにすればいい」と説明されるが。
 しかし着信音を消して趣味や仕事に没頭していると、溜まった大量の着信の処理に後で悩まされる事になる。
 大して意味の無いメッセージへの返事に少なからぬ手間と時間を取らされてしまう現実については、いずれにしろ同じなのだ。

 また、LINEは既読のサインがつくから厄介だ。
 趣味や仕事に没頭している時の、無駄話レベルの意味の無い内容の着信への返信を後回しにしていると、「既読スルー」と非難される。
 その既読スルーが嫌だからと、読まずに放っておいてもまた、LINE中毒患者には責められるのだから手の打ちようがない。

 そして近頃では多くの企業や商店がLINEを利用し始めていて、広告メッセージをやたらに送りつけてくる。
 それで仕事や趣味の時間を妨げる、LINEの無意味なメッセージの着信は増えて行く一方だ。

 人には、大きく分けて二通りがあって。
 意味の無い無駄話の類のお喋りが好きで、一人で静かにしている事が耐えられない寂しがりと。
 人と喋る時は何か意味や中身のある事が多く、仕事も皆とワイワイやるより一人で集中してやる方が得意で、オフでも一人で過ごす時間を大切にしている人と。
 前者の「一人で過ごすのが苦手で、常に誰かと繋がっていたい人」には、LINEはこの上なくステキなアプリなのだが。
 後者の、筆者のような何かを集中してやる一人の時間を大切にしている者にとっては、LINEは「この上なくウザくて鬱陶しいもの」でしかない。

 いや、筆者は個人的にLINEは大嫌いだが、「LINE大好き、これが無いと寂しくて生きて行けない!」という人が少なからずいる現実も、ちゃんと理解している。
 だからLINEは、「好きな人がやり、LINEに向かない性格の人達は放っておいてほしい」と思っている。
 LINEをやるかどうかは、あくまでもその人の自由だ。
「皆がやっているのだから、オマエもやれ!」と押しつけて良いものではないと、筆者は考える。
 だがLINE好きのLINE信者達は、その「LINEをやらない自由」を決して認めてくれない。
「皆がやっているのだから、オマエもやれ! でないと連絡に不便だ!!」と言い立てて責める。
 それでもLINEをやる事を拒むと、友達の輪から外され、疎遠にされてしまったりする。

 LINEをやる事を拒んだくらいで疎遠になってしまうような人など、そもそも親しくなる価値も無い下らない輩なのだが。
 それでも「LINEをやる、やらない」で人間関係まで損なわれてしまう現実が、筆者には非常に残念でかつ嘆かわしく思える。

 LINE信者達は、「LINEは日本の会社だ!」とあくまでも言い張る。
 しかし親会社は韓国の企業で、LINEのサーバーも韓国に存在する現実は、誰にも否定できない。
 韓国政府や情報機関がその気になれば、データをチェックすることもできるのではないか。
 仮に国家の機密を知り得る立場にある官僚や、先端企業の情報を知り得る立場にある者が、もしLINEでプライベートなやり取りをしていたら。
 そしてそれが不倫などの、人に知られては困る内容だったとしたら。
「その事をバラされたくなかったら、言うことを聞け」
 そう脅迫する者が、絶対に現れないとは言い切れない。
 そこまで言わないまでも、LINEをする者は自らの通信内容の管理を外国企業にそっくり委ねているわけだ。

 だから情報をきちんと管理している人は、LINEでのやり取りは飲み会の打ち合わせとか、「今、何してるー?」などの下らなく大して意味の無いものに限っている。
 国家や会社の機密であれ、私的な秘密であれ、「他人に知られたら困ることは、LINEではやり取りしない」というのは半ば常識だ。
 少なくとも筆者は、そう思っていた。
 しかしそんなLINEを、ビジネスに利用している企業が増えている。
 筆者が利用しているショップの少なからずが、顧客とのやり取りにLINEを利用し始めている。

 筆者は長年、フレンドリーというガソリンスタンドのカード会員になり、ガソリンの給油をするだけでなく、冬場には灯油もそこで買っていた。
 しかしそのフレンドリーはただLINEを利用するようになっただけでなく、カード会員との連絡はLINEのみにして、LINEをやらない顧客はカード会員から排除した。
 LINEをする者のみ会員として認めるが、LINEをやらない客は高い値段でガソリンや灯油を買って貰いますよ、ということだ。
 筆者は長年、そのガソリンスタンドを使い続けてきたのだが。
 しかしそのフレンドリーというガソリンスタンドは、LINEをやらない筆者をお得意様から外してカード会員の資格を一方的に剥奪した。
 だから筆者は今後一切、そのフレンドリーを利用するまいと固く決意した。

 繰り返すが、LINEについて筆者は「やりたい人はやり、やりたくない人はしなければ良い」と思っている。
 しかし現実には、一人ではいられない寂しい人が多く、しかも同調圧力が強くて「数の多い方が正義」というこの国では、LINEをしない者は変人として排除されつつある

 現在の日本で、LINEをやらない自由は「ない」とまでは言わないが。
 あえてLINEをやらないで通している筆者には「LINEをやれ!」という圧力があちこちからかかり、それを拒んでいる為に仲間外れにされたり、「連絡が取りにくくて不便だ」と嫌味を言われたりしているのが現実だ。
 まあ、メールや電話での連絡すら「不便だ」と言うような人間とのお付き合いは、「こちらからお断りだ!」と言いたいところだが。
 それが上司や取引先などの上の立場の人だと、あからさまにそうも言えないのが辛い。

 筆者が大学生の頃、筆者には同じ学科に十人くらいの遊び仲間がいた。
 しかしその遊び仲間は、大学二年の終わり頃に分裂した。
 その原因は、仲間達のリーダー格の、二浪していた為に年長で、しかもいろいろ遊び慣れてもいたイトーという男が、仲間達に麻雀をさせようとした事だった。

 はっきり言うが、筆者は麻雀は嫌いだ。
 理由は簡単だ。
 何故なら「四人揃わないと出来ない」からだ。

 麻雀は、ゲームとしては面白いと思う。
 しかし例の「四人揃わないと……」という宿命ゆえ、一旦その仲間に加わるとメンバーが固定しがちになり、「やろうぜ!」と声をかけられた時に断りにくくなる。
 四人揃わないと出来ないから、メンバーに加わってしまうと抜けにくくなるし、誘う方の誘い方もしつこくなりがちだ。
 その麻雀のベタベタ、ズルズルの人間関係が、筆者はとても嫌なのだ。

 筆者は大学では歴史を学んだが、歴史は実は筆者が二番目に学びたかった事だ。
 実は筆者は、写真の道を究めたかった。
 だから本当は、大学もその方面に進みたかった。
 しかしその芸術学部写真学科は、学費がとても高かった。
 そして我が家には、その学費を出せるような金はとても無かった。
 で、筆者はまず学費で大学を選び、そして大学では写真の次に好きだった歴史を学んだ。
 その傍ら、いろいろなアルバイトをしてお金を稼ぎ、そして写真を撮った。
 大学の講義が済んだらダラダラ麻雀を打っている暇など、とても無かったのだ。
 筆者には、やりたい事があったから。
 講義の後で麻雀をして飲み会をして……という時間とお金の使い方など、本当に無駄としか思えなかった。
 だから筆者は、その遊び仲間から外された。
 同時に、麻雀と酒で繋がるような腐れ縁的なベタベタした付き合いをしたがらなかった他の二人も、遊び仲間から外された。
 そして残った“麻雀組”の結束はより固くなり、学内でも外でも常に一緒に過ごしていた。

 筆者はただリーダーに勧められた麻雀をしなかっただけで、仲間が悩んでいた時には相談にも乗ったし、決して仲間から距離を置いたつもりはなかった。
 自分のやりたい事(バイトをして写真を撮る)をしつつ、大学で会えば話もしてコミュニケーションもとったし、仲間に助けが必要な時にはちゃんと手も貸した。
 それでも「皆が始めた麻雀をやらなかった」というだけで、仲間から外されてしまった。

 今の日本の、LINEをしない者は排除される風潮を肌で感じつつ。
 筆者は大学時代に、麻雀をやるのを断ったが為に仲間外れにされた時のことを、鮮やかに思い出した。

 この国では、数こそ正義なのだ。
 良い悪いでなく、個人の都合や事情も関係なく、とにかく皆がやるものをやらない者は排除され、仲間外れにされる
「オマエもLINEをヤレ!」
 筆者も幾度となくそう求められ、拒むと距離を置かれた。
 今やガソリンスタンドのような店でさえ長年の顧客にもLINEをやる事を求め、それを拒んだ筆者はカード会員から除名される始末だ。
 そのガソリンスタンドの名前が“フレンドリー”だというのが、実に皮肉だ。
 LINEをやる人とやらない人が共存するのではなく、LINEをやらない人が排除され、商品もより高い値段で買わされる時代に、本当になっている。

 今は、一日ずっと暇さえあればスマホをいじっている人が少なくない。
 ゲームをしている人もいるが、そのスマホ中毒のような人達の大半がやっているのはLINEだ。
 自分の時間の大半をLINEでの「今、何してるー?」程度の、無駄話レベルのやりとりに費やして何が楽しいのだろうと、時間を忘れて没頭したい趣味を複数持つ筆者は思ってしまう。

 LINEをグループでやり、一日中ずっと誰かとやりとりしていれば、一人で居ても「誰かと繋がっているんだ!」という感覚を持てて寂しくならずに済むのだろうが。
 だが人は、皆がいつも誰かと繋がっていたいわけではない。
 熱中できる仕事や趣味を持っている者は一人でも決して寂しくなく、そんな者にとってはLINEに費やされる時間は無駄としか思えないのだということを、日本に多くいるライン中毒の方々に、どうかご理解いただきたいものだ。

 熱中できるものが無くて寂しい人には、LINEは有り難いものだろうが。
 若い人にはいつもスマホを片手に持ち、それこそ朝から寝る前まで、食事中も、人と会っている時にも誰かとLINEを続けている失礼で非常識な人がいる。
 本当に世の中の皆が一日中LINEばかりするようになったら、日本人はバカになるのではないかと、筆者は危惧している。

 人とコミュニケーションを取るのに、何で直に会うのでも、電話で話すのでも、メールでさえもなく、LINEでないと駄目なのか。
 それが筆者にはさっぱりわからないし、大して意味の無い無駄に近いやり取りを暇さえあれば続けていることを「時間の無駄」と感じない理由が、正直に言って筆者には理解できないでいる。

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安倍晋三以外にも、首相を務められる人材はこの国に幾らでもいる!

 安倍政権下で、道徳が学校の正式な教科となった。
 人がどうあるべきかや善悪の判断を、国の検閲を合格した教科書で教え、そして成績を学校や教師が評価するらしい。

 価値観やものの考え方は人それぞれであり、多様性が重視されている現在、国が決めた道徳を皆に一律に押しつけ、そして成績を評価するなど、時代に逆行するナンセンスな行為だと筆者は思うが、皆さんはどう思われるか。

 今は治安は悪い。
 昔は良かった。
 多くの人がそう思い、そしてその中の少なからぬ人達はこう信じている。
「今は個人の自由ばかり重んじて、昔のように修身を学校で教育しないから日本が駄目になったのだ」

 現実に数字で見れば、犯罪は、特に凶悪犯罪は修身を皆に教え込んでいた戦前や、道徳が教科で無かった時代よりも明らかに減っているのだが。
 しかし政権の座にある人達も「修身や教育勅語や道徳がしっかり教えられないせいで、戦後の個人主義で自由主義的な教育で社会が悪くなった」と考えている。そして時代に逆行して修身や教育勅語を評価する日本会議のお仲間の政治家たちは、愛国心を含む道徳を正式な教科として学校で子供達に教えさせることを決めた。

 官僚の人事権を内閣人事局で一手に握り、官僚に忖度を強要し森友や加計の問題など尽きない深い疑惑を抱えているあの安倍政権が、国民には道徳を学ぶことを強要し、そして成績をつけて評価もしようというのである。
 これはギャグか。
 ブラック・ジョークにしても、とても笑えぬ。

 孔子とその弟子の問答を収録した書で、大名や武士など日本のかつての指導者らも学んできた論語に、道徳についてこう書いてある

 君子はこれを己に求む。
 小人はこれを人に求む。


 その道徳を学校の正式な教科にさせた安倍総理が“君子”であるか“小人”であるか、安倍氏を「アベちゃん」と慕って褒め上げる一部の人達以外の、理性と知性のある人にはすぐにわかる筈だ。

 新年度が始まり、全国の公官庁や企業で多くの新人を迎え、新任式や入社式が行われたが。
 この四月四日、国家公務員合同初任研修の開講式に出席した安倍総理は、新たに採用された公務員らにこう訓示した。

「高い倫理観の下、細心の心持ちで仕事に臨んでほしい」

 オマエが言うな!
 即座にそうツッコミを入れたくなったのは、おそらく筆者だけではなかろう。

 まだ充分な思考力や判断力も無い幼い子供に教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせ、「安倍首相がんばれ、エイエイオー!」と叫ばせる学園の教育方針に賛同し、妻をその学園の名誉校長にさせたくせに。
 そしてその学園に、異様に安い値で国有地を払い下げたくせに。
 その事が問題になるとすべての罪を学園の理事長と役人達に押しつけ、自分と妻だけは知らぬ顔をして逃げ切ろうとする。
 その森友の籠池理事長について、かつては教育方針等を誉めていたくせに、問題が明らかになると一転して「しつこい人」と貶める。
 この安倍総理の、どこに「高い倫理観」があるか。
 どこに道徳教育を語る資格があるか。


 道徳心も倫理観も無い破廉恥な右翼政治家のくせに、他人にはそれを強く求める。
 厚顔無恥としか言いようのない、本当に戦後最低最悪の政治家が今の日本を統治している。


 にもかかわらず、森友や加計の疑惑がこれだけ明らかになっても安倍総理の支持率がまだ三割以上もある最大の理由は、世論調査によると「他にふさわしい人がいないから」だそうだ。
 本当にそうなのか?
 日本という国には、そんなに人材がいないのか?

 かつての民主党政権と比べて、「鳩山氏よりマシ」と言いたくなるのも、わからないでもない。
 筆者個人は「安倍などより、鳩山の方がまだマシ」と思うが、そこは人それぞれであろう。
 しかしただかつての民主党と比較するでなく、自民党の中もよく見ていただきたい。
 自民党の中にも、本当に安倍総理よりマシな人はいないと言うのか?
 小泉進次郎氏でも石破氏でも岸田氏でも、安倍氏よりマシな人はいくらでもいる。
 むしろ“安倍氏とそのお仲間”よりマシでない人を探す方が難しいくらいだ。

 困った時には北朝鮮、という言葉をご存知か。
 北朝鮮がミサイルを撃ち、その脅威が強まれば強まるほど、右翼政治家で国家主義者で北朝鮮や中国には強硬姿勢の安倍氏の支持率が上がる

 ここでナチス政権のナンバー2のヘルマン・ゲーリングが、戦後にニュルンベルグでインタビューに答えて語った言葉を紹介しよう。
 ゲーリングは民主主義の国でも国民を戦争に向かわせる事は可能だと言い切り、その方法をこう説明した。

 国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。


 だから安倍総理は北朝鮮や中国の脅威を、ことさらに言い立て、強硬姿勢で自らをアピールする。
 そして安倍氏を熱烈に支持する人達は、平和と対話を求める人達を反日で売国の非国民と貶め、「北朝鮮の脅威に対抗できるのは、安倍さんしかいない」と言い切る。

 だが現実を見てみよう。
 安倍総理とそのお仲間と支持者達が北朝鮮の脅威を言い立て、「もっと強硬姿勢を!」と騒いでいる間に、北朝鮮は中国、韓国、そしてアメリカとも水面下で交渉していた。
 そして気付いた時にはキム・ジョンウンは中国の首脳と会談し、さらにトランプ大統領や韓国のムン大統領と会う約束も取り付けていた。
 安倍総理と日本が強硬策一辺倒で騒いでいる間に、日本だけが取り残されて中・韓・北朝鮮・アメリカで話し合いが進んでいた。

 それでも日本は態度を変えず、河野外相が「北朝鮮には核ミサイルを発射しようという動きがある!」と言い立てた。
 ところが即座に、中国や北朝鮮ではなく、最も頼りにしているアメリカからそれを否定する声明が発表される始末である。
 これでも「北朝鮮や中国に対抗できる指導者は、日本には安倍サンしかいない!」のか?

 森友・加計問題や強引で不遜な国会運営などで、安倍総理がどれだけ失態や醜態を曝しても。
 それでも安倍氏の戦前大好きな右翼的な政治思想と北朝鮮に対する強硬姿勢を支持して、総理は「安倍サンしかいない、他にふさわしい人がいない!」と盲信している人達が、今もまだこの国に三割以上もいる。
 支持率と人口を考えれば三千万を越える日本人が、こんな道徳や倫理観を人に語る資格の無い“小人”しか、総理にふさわしい人が他にいないと信じているらしい

 彼らが思うように、あんな安倍氏以外に、この日本に総理を務められる人が居ないのだとしたら。
 今の日本とは、なんと嘆かわしい情けない国であろうか。

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日本人はバカになりつつある

 テレビや新聞の報道によると、近年、日本の学生の読解力が低下しつつあるという。
 学力テストをすると、総合的な点数は他国とも比べて決して悪くないのだが。
 ただ国語はもちろんそれ以外の教科でも、長い文章を読んで答えを出す問題の正解率が、日本人は良くないそうだ。
 学力テストだけでなく、家電製品等の取扱説明書すら読めない人が、今の日本には少なくない。
 どうやら日本人は、バカになりつつあるらしい。

 その現実を、ネットの某巨大掲示板を閲覧していても強く感じる。
 筆者は例えばある日、こんな投稿を読んだ。

 彼氏の運転が嫌だ。
 彼氏は車の流れがどうあろうと、制限速度を超えて走らない。
 そして道路沿いに店とか自分の気になるものがあると、躊躇わずにブレーキを踏んでそれを見る。
 そのくせ目の前の信号が黄色になると、「急げー!」と言ってアクセルを踏んでスピードを上げて通過する。
 当然、後続車は赤信号で取り残される。
 こんな彼氏の運転が、本当に嫌だ。


 このコメントが投稿されると、少なくとも筆者にはとても意外な反応が多く返ってきた。
「制限速度を守って走って何が悪い!」

 そんなコメントが一件だけなら、「彼氏乙!」とでも言うところだが。
 彼氏の運転が嫌だと言う投稿者の気持ちがわかると言うコメントと、その「制限速度を守って走って何が悪い!」というコメントは、ほぼ半々だった。

「制限速度を守って走って何が悪い!」って、問題の“彼氏”の運転は、決して安全運転ではないよね?
 まず運転中も脇見をしていて、気になるものがあれば後続車の迷惑も構わずブレーキをかけているし。
 そしてそれまで車の流れを無視してノロノロ走っていたくせに、信号が変わりそうになると急にスピードを上げて信号を通過している。
 その時には後続車が必ず赤信号で取り残されているのだから、彼氏は黄色かもしくは赤に変わった直後の信号を通過しているであろうし、その時には制限速度も超えていたであろう。
 普通の頭と読解力があれば、それくらいの事は容易に推察できる筈だ。
 しかし今の日本人にはそれすら出来ずに、「制限速度を守って走って何が悪い!」と言い張る知的に残念な人が、少なからずいる。

 また、こんな話もある。
 ある人が、チェーン店ではない小さな店だが、知る人ぞ知るラーメン屋で食事をしていた。
 するとそこに、大学生くらいの美男美女のカップルが入って来た。
 そのカップルの青年の方は、「ここのラーメンは、すごく美味しいんだよ!」と言い、女性も「私、ラーメン大好き!」とニコニコしていて。
 そして青年は、「奢るから、何でも好きなものを頼んでね」と言い、自分はチャーシュー麺を頼んだ。
 女性は嬉しげにメニューを見たあげく、「これ!」と選んだ。
 その店で一番高い(二千円)、大きなボウル一杯くらいの量のある、全部乗せスペシャル麺だった。
 だから当然、青年は止めた。
「すごく量があるから、止めた方がいいよ?」
 そして店員さんも出て来て、両手で輪を作って見せて「このくらいの量になりますから、女の方が食べるのは無理ではないかと……」と止めた。
 だが女性は、「大丈夫、絶対食べられるもん!」と聞かない。
 青年は「まずは一回、普通の量のラーメンを食べてみて。それを全部食べ切れたら、次は必ず全部乗せスペシャル麺を奢るから」とまで言った。
 すると女性は、「私が一番高いものを頼んだから、奢りたくないからそういうこと言うんだ!」とまで言った。
 そこまで言われてしまって、青年は女性の為に全部乗せスペシャル麺を頼んだ。
 運ばれてきた“それ”は、本当に巨大な丼で量も凄かった。
 それを見た女性は、「わー、すごーい!」と嬉しげに、まずスマホで写真を何枚も撮って。
 それから少しだけ箸をつけ、殆どを残して丼を押し戻し、「おなかいっぱいー、ごちそうさまー」と言った。
 すると青年は五千円札を出し、「こんなに残してしまってすみません、ご迷惑をかけました、お釣りはいいですから」と店の人に一礼し、女性を残して店を出て行った。
 その青年の後を、女性とお釣りを持った店員さんが慌てて追いかけていった。
 で、居合わせて一部始終を見た人が、翌日、職場で仲の良い同僚4人に話して、「彼女さん、やらかしちゃったね。これは振られるよね」と言ったのだが。
 その同僚4人のうち、2人はそれに同意した。
 しかし残る2人はこう反論した。
「彼女は悪くない、店で食べきれないものを残して何が悪い、彼氏は心が狭い!」

 例の一件を見届けた人は、カップルの女性の行動以上にその同僚2人の反論に驚いて、某巨大掲示板にもその事を投稿したのだが。
 ええ、某巨大掲示板のコメントも割れマシタ。
 半々とまでは言わないものの、「女性が非常識」という意見が六割で、「残して何が悪い!」と女性を擁護して青年を責める意見が四割だった。

 確かに食事を出す店では、大盛りはあっても小盛りがある所は少ない。
 で、元から少食な人が、店で出された普通の一人前を食べきれずに残してしまうのは仕方がないと、筆者も思う。
 だがこのカップルの場合は、そのケースとはいろいろ違うだろう。
 まず青年だけでなくお店の人までが、量が多くて普通の女性にはまず食べきれないであろうことを、事前に説明した。
 そして青年はまず普通の一人前を食べてみて、それが食べきれたら全部乗せスペシャル麺を奢るからとも言った。
 しかし女性はそれでも「食べきれる!」と言い切り、さらに「一番高いものを頼んだから、奢りたくないんだ」と、青年をケチと揶揄して侮辱するようなことまで言った。
 そこまで言って奢らせたラーメンを、「精一杯食べたけれど無理でした、ごめんなさい」と申し訳なさそうに残すのではなく、形だけ食べて殆どを残して「ごちそうさまー」は、青年に対してもお店に対しても、あまりにも失礼で非常識過ぎないか。
 さらに食べる前にスマホで何枚も写真を撮っていたあたりでも、その女性がいわゆる“インスタ蠅”と呼ばれる人であろうことが推察できる。
 そのインスタの為にその店で一番高い特盛りのラーメンを頼んで大部分残すにしても、自分で金を出すならまだ良い。
 他人にそこで一番高いものを奢らせ、しかも殆ど残して平気な顔して「ごちそうさまー」は、普通の感覚では「あり得ない」と思うのだが。
 しかし今の日本人は、少なからずの人がその過程をすっ飛ばして、「店で残して、何が悪い!」と言い出す。
 匿名で、人のエゴやら汚い本音やらが渦を巻いているゴミ溜めのようなネットの某巨大掲示板だが。
 しかしそんな某巨大掲示板だからこそ、今の日本人の本性がよくわかる。

 まず全体をしっかり読み通して状況や人の気持ちを察する力が無く、そして「制限速度を守ってなぜ悪い?」とか「店で食べ物を残したらいけないという決まりでもあるのか?」などの極論に飛びついて人に噛みつく。
 常識の通じない、その種の残念な頭と心の日本人が、近年急激に増えているように思えてならない。

 話が噛み合わないのが、「彼氏の運転マナー」や「彼女の食事マナー」レベルの話なら、まだ良い。
 これが歴史認識や政治の問題になると、日本のという国の存亡にまでかかわってくるから困るし、怖い。

 例えば先の大戦について、「自衛の戦争で、アジアを白人支配から解放して感謝されている」と声高に主張する人達が安倍政権下で急激に増えているが、彼らも全体をあえて見ずに自分の心に引っかかった片言隻句にのみ飛びつく、紛うかたなき愚か者だ。
 その典型的な例だが、彼らはよく中国が言う犠牲者の数が多すぎることを理由に、「だから南京大虐殺は無かったのだ」と騒ぎ立てている。
 だが、第二次世界大戦中に陸軍の参謀将校として実際に中国に行かれた、昭和天皇の弟の三笠宮さまが、南京大虐殺についてこうおっしゃられている。
「犠牲者数が議論されているが、数が問題なのではない。虐殺が行われたこと自体が問題なんだ」
 まさに至言である。

 しかし現実には、ただ「数が食い違うから」と、日本が過去に犯した虐殺まで無かったことにしようと強弁する厚顔無恥な日本人が増えている。
 ドイツは過去の過ちはきちんと認めた上で、愛国心を持ち、立派な国を作っている。
 日本人には、何故それが出来ないのか。

 日本では、少なくとも安倍政権下の今の日本では、日本の過去の過ちを認める者は自虐史観で反日の非国民という扱いになるのだから情けない。

 学力テストでも「日本人は文章を読んで解く力が劣る」という結果が出ている通り、今の日本人は全体を把握することが苦手で、自分の心に引っかかった一部の言葉にのみこだわる人が増えている。
 近頃、戦前と日本の侵略戦争を美化する右翼が増えているのも、その日本人がバカになりつつある現れの一つではないかと、筆者は非常に危惧している。

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日本の右翼は国家に巣食うモンスターペアレンツである

 世の親達の中には、モンスターペアレンツ、略してモンペと呼ばれる人達がいる。
 たいていの親達は、我が子が可愛い。
 だがこのモンスターペアレンツと呼ばれる親達の愛は行き過ぎていて、かつ盲目的で、周囲の人達に多大な迷惑を与えている。

 例えば我が子が万引きをしたとして。
 まともな親ならば子供を厳しく叱り、かつ被害を与えた店には誠心誠意謝る。
 しかし近年では、違う反応をする親達が出て来ている。
 とにかく“可愛い我が子”を護り、黒を白と言い立て逆ギレして責任転嫁し他を責めるのだ。
「うちの子が万引きなんかするわけがない、濡れ衣だ!」
「うちの子はそんな事する子じゃない、誰か他の悪い子に脅されたんだ!」
「万引きしたのは、店の構造や商品の置き方が悪いからだ!」
「カネは払ってやる、だからいいだろ!」
「こんな安物を取ったくらいで、うちの子の一生を台無しにする気か!」
「名誉毀損だ、訴えてやる!」
「こんな店、潰してやるぞ!」
 そしてこんな態度を取ることが“わが子への愛”と信じているのだから、質が悪い。

 この種の親は、我が子が学校でイジメや暴力などの悪いことをしても、絶対に非を認めない。
 そして責任を学校や教師や他の級友に押しつけ、大騒ぎして他を責める。
 こうしたモンスターペアレンツは、周囲の常識あるまともな親たち皆から白い目で見られ、軽蔑されている。
 そしてたいてい孤立しているのだが、この種のバカ親は周囲からどう見られても気にしないでやりたい放題なのだから、始末が悪い。
 この種の困った親は、警察のお世話になるか裁判沙汰になって皆から制裁されるまでノンストップで暴走する。

 このモンスターペアレンツと全く似た行動と思考をしているのが、日本の右翼の自称“愛国者”たちである。
 近年、書店でよく平積みにして売られている『歴史通』や『WiLL』や『月刊Hanada』などの右翼系の雑誌を見れば、彼らの思考はよくわかる。
「悪いのは中韓と連合国で、日本は全く悪くナイ!」
「第二次世界大戦も自衛の戦争だ、日本はあの戦争でアジアを白人支配から解放して皆から感謝されている!」
「南京大虐殺も沖縄で住民を酷い目に遭わせ集団自決を強いたのも、全部でっち上げ!」
 彼らは日本が過去に犯した悪い事は何もかもすべて「サヨクと中韓のでっち上げ!」と言い張り、日本に都合の悪い史実と正面から向き合う日本人を敵視し、「反日で自虐史観の持ち主の非国民」と貶める。
 そのあたりの日本の自称“愛国者”の反応と思考が、幼稚で愚かで傍迷惑なモンスターペアレンツと驚くほど似通っているから呆れる。

 考えてもらいたい。
 我が子が何か悪い事をしたら、きちんと叱って正しい道に導くのが本当の愛ではないか。
 例のモンスターペアレンツのように我が子の犯した罪は決して認めず、黒を白と言い張り都合の悪い事実から目を背けて無かったことにして、責任を他に押しつけて我が子を甘やかしたら、大事な我が子が“駄目な子”になるのは明白であろう。

 だから同じ第二次世界大戦の敗戦国でも、ドイツは二度と同じ過ちを犯さぬよう、自国が過去に犯した罪ときちんと向き合っている
 例えばベルリンのシェーネベルク地区のバイエルン広場近くの道には、ナチスの時代にドイツ人がユダヤ人にどれだけ酷い事をしたかを示す看板が、電灯に数多く掲げられている。
 そしてそこに住むベルリン市民はそれを「反ドイツでドイツを貶める自虐史観」だなどと、殆ど誰も思っていない

 その自国の過去の過ちを記録する看板を掲げている事について、付近に住むある住民は日本のテレビの取材に対してこう言った。
「とても伝統を意識した地区に住んでいて、ナチズムが荒れ狂っていた時代を毎日思い出します。その時代を記憶に留めて忘れません」
 テレビが意図的に“サヨクで自虐史観のドイツ人”にインタビューしたわけではない。
 そのドイツの過去の過ちを示した看板のガイドツアーが多く行われていて、ガイドは地域の住民がつとめている。
 そして自国の負の歴史を未来に示し続ける看板は、これまで一度も壊されたことは無いという。

 また、ベルリンの中心部のブランデンブルク門近くの多くの市民が目にする場所に、ホロコースト記念碑が建てられている。
 その事について、市の学芸員アダム・フロニウス氏はこう語っている。
ドイツ人が責任を持って歴史と向き合う意識の現れです」
 そしてフロニウス氏は、こうも付け加えた。
当時起こった事に対し責任を負うということが、国民のアイデンティティーなのです」

 ちなみにそのホロコースト記念碑の建設は議会で決議され、ドイツの国費で建てられた。
 そのホロコースト記念碑について、フロニウス氏はこう語った。
ドイツ人の自己理解の象徴なのです」

 過去に犯した自国の過ちから目を背けず、きちんと向かい合う。
 これがドイツとドイツ人だ。
 過去に犯した自国の過ちは認めずに歴史を美化し、事実にきちんと向かい合おうとする人を「自虐史観で日本を貶める反日のサヨク」と叩いて罵る。
 これが日本と日本人だ。

 南京大虐殺や植民地支配など、過去に日本が犯した悪行を認めない“愛国者”たちは、よくこう言う。
日本がそんな酷い国だと認めたら、愛国心を持てなくなる
 正気でそう言い張る、日本の“愛国者”たちに問おう。
 ドイツではナチスの犯した罪が徹底的に教育されていて、ドイツが犯した悪行について誰もが知って認めている。
 ではその自国の負の歴史も教えられた今のドイツ人達は、愛国心は持てずにいるのだろうか?

「自国の過去の罪を教えられたから、今のドイツ人達は愛国心を持てずにいる」
 そんな阿呆なことをほざく輩は、どこにもいない。

 日本の右翼の重鎮で一水会顧問である鈴木邦夫氏が、毎日新聞の取材にこう語っている。

 日本は常に正しい道を歩いてきたのだろうか。過去を振り返ればアジアの国に弁解できないことをしたのではなかったか。そうした過ちも直視し、それでもこの国がいとおしいと思う気持ちが愛国心だと思う。威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心ではないはずだ。


 これこそが、真の愛国心だ。
 筆者も全く同感する。
 かつての日本には、こんな知的で現実を直視できるまともな右翼がいた。
 しかし安倍政権下の今の日本にいる右翼は、「過去の過ちから目を背け、威勢のいいことを言い、ただその声の大きさを競うことだけが愛国心と信じる」愚か者ばかりになっている。

 実はドイツも、戦後すぐから過去と向き合うことが出来ていたわけではなかった。
 例のホロコースト記念碑が建てられたのも2005年で、戦後数十年は過去の負の歴史についてあまり語られなかった。
 ドイツ人にとっても、過去の歴史と正面から向き合うのは非常に困難だったのだ。
 だがドイツとドイツ人は、過去と向き合い自国の負の歴史を記憶に留めて忘れないことを選んだ
 そして日本会議や神社本庁とそのお仲間が権力を握り、ナショナリストと呼ばれる安倍氏が首相としてこの国を治めている日本は真逆の道を進み、過去の歴史をねじ曲げて美化し、過去の日本の過ちを直視しようとする者を「自虐史観で日本を貶める反日サヨク」と罵倒するのが当たり前になりつつある

 過去の過ちをしっかり記録と記憶に留め、ナチズムが荒れ狂った時代を忘れず毎日思い出しているドイツ人と。
「日本が酷い事をしたと認めたら、愛国心を持てなくなる」と言って過去の過ちを歴史から消し去ろうとする日本人と。
 
どちらがより立派な本物の愛国者か、筆者には議論の余地がないように思える。

 日本が原爆や東京大空襲の悲惨さを海外で訴えても今一つ共感を得られないのは、日本は自国の戦争被害を言い立てるだけで、先の大戦で日本がアジア諸国に与えた被害に対する反省の表明が足りないからではないか。
 議論の余地なく戦争を仕掛けた加害者である日本が、その事を忘れたような顔をして自国の戦争被害ばかり言い立てても、やはり国際的には共感を得られまい。

 例えば日本軍はあの戦争で中国軍を破り、中国の奥深くまで攻め込んだが。
 その勝ち戦で、どれだけの中国兵の捕虜を取ったか。
 何万どころか何十万もの捕虜がいてしかるべきなのに、現実には日本軍に捕らえられて戦後まで生き残った中国人の捕虜は殆どいない。
 中国に攻めて行った日本軍の多くは、捕虜は取らずにほぼ殺していた
 中国からガタルカナルやインパールに転戦した体験を『地獄の戦場に奇跡はなかった』という著書にまとめた高崎伝氏も、「自分の連隊ではただの一人も捕虜は取らず、敵や怪しいと思った者はみな殺してきた」と明言している

 また、中国の大陸内部まで攻め込んだ日本軍の補給は、きちんとなされていただろうか。
 もちろん否である。
 だから前線の部隊の兵士は、現地調達という略奪を日常的にしていた。
 そしてその際には、婦女暴行や殺人もしていた。
 中国では今もなお反日感情が強いが、恨まれても仕方のないことを、日本軍は中国でしている。
 中国だけでなく、フィリピンなどの東南アジアでも日本軍は酷い事をしている。

 そしてその事を学校で教えるどころか、事実として認めるだけでも「自虐史観で反日だ!」と、今の日本の右翼は騒ぐ。

 過ちを認めずに黒を白と言い張る人と。
 過ちは認めてきちんと謝罪できる人と。
 どちらが人として尊敬されるか、それが今の日本の右翼にはわからないのだから恥ずかしい。

 ドイツ人は過去の罪としっかり向き合った上で、ドイツという自分の国を愛している。
 そして日本の右翼の鈴木邦夫氏も、「日本がアジアの国々にした過ちも直視し、それでもこの国がいとおしいと思う気持ちが愛国心だ」と語っている
 今の日本の右翼はなぜそのような気持ちになれず、黒も白と言い立ててただひたすらに我が子を庇うモンスターペアレンツのような恥ずかしい言動を取り、心ある周囲の人達から顰蹙と軽蔑を買うような真似を続けているのか、それが不思議である。
 そして同じ日本人として、そのような自称“愛国者”が少なからず存在する現状を情けなく、恥ずかしく思う。

 よく考えてもらいたい。
 我が子を駄目にする早道は、子供が悪い事をした時に叱らず、庇って甘やかすことだ。
 国もそれと同じで、自国の過ちを認められずに黒も白と言い張る国家は駄目になる
 例えば正しい情報を認めず、自国を過大評価して、己に都合の良いようにだけ考えて突っ走った結果が、先の大戦の惨めな敗戦ではないか。
 人も国も、己の過ちをきちんと反省できないものは駄目だ。
 今の日本にはびこる右翼は、我が子可愛さに我が子の非は一切認めないで我が子を駄目な子にする、傍迷惑なモンスターペアレンツそっくりである。

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成田緑夢選手の名前に思う

 先日終わった平昌パラリンピックで、成田緑夢選手がスノーボードで金メダルと銅メダルを取った。
 筆者は「良かったね」という気持ちと、「気の毒に」という気持ちを、同時に抱いた。
「差別だ、障がいを持つ者への蔑視なんてサイテーだ!」って?
 違う。
 筆者が上記のような感情を抱いたのは、成田選手の名前に対してだ。

緑夢”で「グリム」だなど、フリガナや解説なしに誰が正しく読めようか。
“緑夢”という名前を初めて見て「ぐりむ」と読めた人は、親以外には誰一人いないだろうと思われる。
 人の名前は、頓知のクイズではないのだ。
 名付けた親は「緑=グリーンで、それに夢の“む”を足して縮めてグリムだ!」と、気が利いた良い名前を付けたつもりでいるのかも知れないが。
 しかし『緑』という漢字にグリーンなどという読みは絶対に無いし、それに“夢”を合わせて縮めて、半端な英語と漢字の音読を組み合わせて「グリム」だなど、絶対にあり得ない間違った読ませ方である。

 断言するが。
 我が子に“緑夢”で「グリム」と名付けるなど、自分の娘に“青馬”という漢字を当てて「ブルマ」と名付けるレベルのセンスである。

 誤解しないで貰いたいが、筆者は成田選手自身を揶揄中傷するつもりは全くない。
 冒頭で述べたように、「気の毒に」と同情している。
 そして我が子に“緑夢”で「グリム」などという、フリガナや説明なしには誰にも絶対に読めない変テコな、と言うよりどう考えてもあり得ない読み方の名前を付けた成田選手の親に怒りを感じている。
 筆者の感覚では成田選手が被害者で、親は彼に一生の“重荷”を負わせた加害者である。

 成田選手の名前について、筆者が何故そんなことを思うのか。
 それは筆者自身が、親に付けられた自分の本名が大嫌いだからである。
 このブログで名乗っている黒沢一樹という名はネット上での名前であって、実は本名はもっと違う、俗に言う“シワシワネーム”だ。
 時代劇に出てくるレベルの名前で、ただダサいだけでなく本当に古くさい。

 大学時代の友人にも、時代劇に出て来そうな古風な自分の名前を嫌っている者がいた。
 ただその友人の名は、「輝宗」とか「正盛」といった種類の、大名や武将のような立派な名前だった。
 少し仰々しくはあるが、少なくとも恥ずかしい名前ではないから、彼はまだ良い。
 しかし筆者の本名は、商家の手代や貧乏なお百姓などにありがちな、下っ端の小者のイメージしか湧かない類の名前である。
 事実『水戸黄門』にも、何度か筆者と同じ名のキャストが出て来た。
 悪代官に虐められる哀れな水呑み百姓や、主人を陥れようとする小ずるい手代などの、本当にろくでもない役柄ばかりだった。

 筆者にその貧乏くさくて古くさい嫌な名前を付けたのは、筆者の父である。
 父が「この名前にしよう」と言い出した時、母はぎょっとして反対したそうである。
 だが父は、「絶対、この名前が良い!」と言い張った。
 そして筆者の父はただ亭主関白で人の意見に耳を傾けないだけでなく、酒乱に加え、飲むとDVも働く種類の人間だった。
 だから母も反対できずに、筆者は父の意のまま、時代劇ですぐやっつけられてしまう貧乏百姓や狡い手代のようなシワシワネームになってしまった。

 筆者は父に付けられた本名を、今もまだ嫌いでたまらないでいる。
 だからこそ多感な思春期には、ダサ過ぎる自分の名前が本当に苦痛で苦痛でならなかった。
 ただ名前を変えたいが為に、「本名を捨てて芸名を名乗れる職業につきたい!」と、本気で思っていた時期もある。
 残念ながら筆者は顔も良くない上に小柄なので、俳優やタレントなどになれる筈もなく、実生活では今も仕方なく大嫌いな本名を名乗り続けて生きている。
 このことが、今もまだ苦しい。

 徳川家康は、「人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くが如し」という言葉を残したが、名前とはまさにその「一生背負って行かねばならぬ重き荷」だ。
 生まれてからずっと、色気づいた思春期にも、社会に出ても、そしてジジババになっても、死んで戒名に代わるまでそう名乗り、周囲からもそう呼ばれ続けなければならないのだ。
 その親から付けられた名前がごく普通で嫌いでないなら、その人は幸せだ。
 そして付けられた名前が変で嫌いだと、その人の人生はずっと苦痛だ。
 同僚にも、友達にも、親戚にも、病院の診察の順番待ちでも、死ぬまでその大嫌いな名前で呼ばれ続ける。
 本当に辛い。
 だから「子供の名前はよく考えずに気分で無責任に付けるな!」と、世の親たちに声を大にして言いたい。

 だいたい多くの親たちは、「もし自分が老いて死ぬまで一生、その名前を名乗り続けなければならないとしたらどんな気持ちになるか?」という想像力が欠けている。
 自分でない違う人間が名乗るものと思って、無責任に変テコな名を付けるバカ親が、近年急増中である。

 そのバカ親たちの決まり文句を、一つ紹介しよう。
「他の子とかぶらない、世界で一つだけの名前を付けてあげたい」
 そしてその揚げ句に、フリガナ無しでは誰にも読めない、妙ちきりんな名前を付けて、我が子に名前で一生苦労させるのだ。

 同じ名前の他人がいて、何が悪い?
 日本の人口は約一億二千万だが、その誰ともかぶらないたった一人だけの名前など、相当に妙で変わった名前に決まっている。

 なのにそれに気付かず、誰にも読めない、日本語としても間違っていて漢字の読み方としてもあり得ないDQNネームやキラキラネームの類を我が子に付けるバカ親が多すぎる。
 こうした「世界に一つしかない」DQNネームやキラキラネームを子供に付けることもまた虐待の一種ではないかと、時代劇に出てくる小者のような自分の名前を苦にし続けて生きている筆者は、大袈裟でなく思っている。

 筆者は『ちびまる子ちゃん』のお父さん役の“父ヒロシ”を、とても羨ましく思っている。
 ヒロシという名はとても平凡ではあるが、自分で名乗って、人に呼ばれて恥ずかしい事は全くない。
 そして「他の子とかぶらない、世界で一つだけの名前を付けよう」と張り切る親は、ヒロシに限らず平凡な名前の人に少なくない。
 普通の名前を付けられた人は知らないのだ、「変な名前を名乗り、そして人から呼ばれ続けなければならない苦痛」を。
 普通でいられる当たり前の幸せに気付かず、奇怪であり得ない珍名を得意げに付けて我が子を一生苦しめるのだから、迷惑な話である。

 繰り返すが、名前とは「生まれてから死ぬまで、自らそう名乗り、周囲の人からもそう呼ばれ続けるもの」なのだ。
 もし自分自身が、一生その名で呼ばれ続けたら。
 そう想像してみることすら無く、フリガナ無しにはまともに読めない名を子に付ける親の存在は、本当に迷惑
だ。
 たとえ読めたとしても、名乗るのが恥ずかしいようなDQNネームやキラキラネームやシワシワネームを子に付ける親も同類だ。

 DQNネームやキラキラネームとは、少し違うのかも知れないが。
 雛子や蕾や若葉など、若いうち限定でしか似合わないような名を子に付ける親もバカだし迷惑だ。
 確かに生まれて間もない頃の我が子は、雛や若葉のように可愛いだろう。
 しかしその幼い我が子も、いずれはオバサンになり、オバアサンになるのだ。
 平均寿命が当たり前に八十歳を越えている、この世の中である。
 例えば病院の受付で、「森野若葉さまー」と大きな声で呼ばれて。
 八十を過ぎた枯れ木のような老女が、それに応えて立って出て行かねばならないのは、当人としても辛いことではないか。

 筆者は、アマゾンなどの通販を時々利用しているが。
 そして配送業者さんは、その荷物を手渡す時に「○○△△さんですね?」とフルネームで確認する事が多い。
 筆者の本名は、シワシワネームだがまず間違いなく読める字だから、まだいい。
 しかし成田緑夢さんのような名前の場合は、「あの、なりた……えーと……」と業者さんが言葉に詰まる場合が多々あったろう。

 荷物の受け渡しだけではない。
 フリガナ無しには読めないDQNネームを親から付けられた子は、死ぬまで一生、何千何万回と、自分の名前の呼び方を接する人達に説明し続けなければならないのだ。
「他の子とかぶらない、世界で一つだけの名前を付けよう!」と張り切るバカ親は、我が子に一生負わせたその名前という“重荷”に気付かないのだから呆れるし、本当に困る。

 フリガナなしには読めない珍名が激増している昨今だ。
 ただ配送の荷物だけでなくありとあらゆるものに、名前だけでなくフリガナの記入も必ず求められる時代が数年のうちに来るのではないかと、筆者は予想している。
 人に普通に読めてこそ名前で、フリガナ無しではまともに読めぬ名など、名前の意味をなさないと筆者は考える。

 ただ成田選手の“緑夢”で「グリム」という名は、どう考えても読めないし、漢字の使い方として間違っているが、少なくとも人の失笑を買うような恥ずかしい名前ではない。
 だが世の中には“騎士”で「ナイト」どころか、“愛保”で「ラブホ」や“泡姫”で「アリエル」のような、当人の尊厳にかかわるような酷い名前を正気で子供に付けるクズ親もいる。
“七音”で「ドレミ」だの、“黄熊”で「ぷう」だのという名前も、人から失笑を買う類の虐待に近い名付けだろう。

 バカな親に付けられた名前で苦労する、気の毒な子供が一人でも減るように。
 我が子に名前を付けるなら、まず「名前は年老いて死ぬまで使う一生もの」ということを念頭に置き、そして「フリガナや説明が不要で、オッサンやオバサンになった自分がそう名乗り、人からもそう呼ばれて恥ずかしくない名前を付けるべき」ということを、是非とも肝に銘じていただきたい。

 パラリンピックで金メダルと銅メダルを取って、成田選手の“緑夢”で「グリム」という名前の読み方が日本中に知られるようになった。
 そのことについて筆者は心から「良かったね」と思うと同時に、これまでまともに名前を呼んでもらえずに苦労しただろうことに「気の毒に」と、つくづくと思った次第である。
 バカな親に変な読めない名前を付けられると、子供は本当に、一生苦労し続ける。
 その子供の苦労を、名付ける親は少しは考えていただきたい。

 ちなみに筆者に『水戸黄門』のやられ役の下っ端にしか出て来ないようなシワシワネームを付けた父は、父の世代にしては現代的で普通な良い名前を付けられていた。
 父の父の名は善治(ぜんじ)で、父の兄も忠治(ちゅうじ)と、読み方から下手をすれば時代劇のやくざのような名前だが、父だけは政明だ。
 そしてその父が、我が子には自分の父親や兄よりもっと古くさい、時代劇のお百姓や商人でしか見ない種類のシワシワネームを付けたというわけだ。
 筆者の父だけでなく、親にまともな名前を付けてもらい、名前にコンプレックスが無く、自分の名前で苦労した事の無い者ほど、己の子に変な名前を付けたがる傾向があるように思える。
 本当に、困ったものである。

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生活保護費の削減に見る安倍政権の本質

 ネットなどでは、生活保護受給者は“ナマポ”などと呼ばれ、働かずに他人が払った税金で生きている穀潰しの狡い怠け者のように批判され、揶揄中傷や蔑視の対象となっている。
 そして安倍政権は、この10月から生活保護費を5%削減すると決めた。
 この決定に少なからぬネット住民が共感し、「やっぱり総理が安倍さんで良かった、安倍さんのする事は正しい!」と喜んでいるだろう。

 だがちょっと待ってほしい。
 生活保護受給者は本当に狡い怠け者で、ただ楽をして他人の税金で食っているのだろうか。
 そして生活保護費は、まだ切り詰める余裕があるほど充分に支給されているのだろうか。

 毎日新聞の報道によると、東京都に住む五十代のある女性は、過労で体調を崩し、そして離婚もして現在も通院中で働くことが出来ずに生活保護を受給している。
 その女性が受け取っている生活保護費は、月額約7万7千円だそうだ。
 これで憲法が保証している、「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことが出来るだろうか。
 事実、その女性は暖房もろくに使えず、布団に入って寒さをしのいでいるという。
 その女性の他にも、生活保護受給者には「室温が40度になっても冷房をつけない」とか、「風呂は週に一回」という暮らしをしている人達がいるそうだ。
 そして安倍政権は、その生活保護費をさらに切り詰めるという。

 安倍政権が言う生活保護費を削減する根拠は、現在支給されている生活保護費が、生活保護を受けていない国民のうちの、最も低い所得層の人達の収入を上回ったからだという。
 働いていない人が、働いている人より高額の生活保護費を貰えている。だから生活保護費をカットしよう。
 そう考える安倍政権の方針を、もっともだと思う人も少なくなかろう。

 しかしちょっと待って欲しい。
 安倍政権が生活保護費受給者と比較している、「生活保護を受けずに働いて自力で暮らしている、最も低い所得層の人達」とは、どんな人達だろうか。
 最低賃金ぎりぎりの時給でようやく生きている、この格差が拡大した日本の社会の最下層の人達だ。
 彼らは金がなくて病気になっても病院にも行けず、肉の中では一番安い筈の鶏肉すらろくに食えずにモヤシばかり食べているという。

 筆者のようなごく少数のひねくれ者を除く多くの日本国民が支持した、小泉純一郎元首相による小泉改革のせいで、この国は派遣やパートやバイトで働く人で溢れる格差社会になった。
 そして「景気が良くなった」と自画自賛する安倍政権下で、富める人だけさらに金持ちになり、貧しい人はより苦しい生活を強いられるようになった。
 働く者の多くが正社員で国民が総中流だった時代など、今では夢の話だ。
 今の日本は間違いなく格差社会で、その格差は安倍政権下で間違いなく拡大している
 その格差社会の最下層でどん底の暮らしをしている人達の収入と比べて「生活保護費をもっと切り詰めよう」とは、本末転倒ではないか。

 生活保護費が増えたわけではない。
 低賃金で働く非正規の労働者が増え、格差の下の層で暮らす国民の収入が下がったのだ。
 であるのに「生活保護費をより低い方に合わせよう」という安倍政権の政策は、本末転倒であるという以前に冷酷非情である。
 国民を導く政治家に必要な情が、安倍政権には無い
 毀誉褒貶ある田中角栄元首相だが、その田中元首相を含め、かつての自民党の政治家には弱い者に対する情が、間違いなくあった。
 しかし小泉政権以来の21世紀の自民党の政治家には、それが全く感じられない。

 働いても収入が生活保護費を下回る者がいる
 だとすれば生活保護費を切り下げるのではなく、最低賃金を引き上げ、働けばまともな暮らしが出来るようにするのが筋ではないか。
 しかし安倍政権はその真逆の道を突き進み、広がる格差は放置して、生活保護費を切り詰めようとしている
 安倍政権は戦後の日本で最低の政権だと、筆者は確信している。

 嘆かわしいのは、その安倍政権の弱い者イジメの政策を、少なからぬ国民が支持していることだ。
 労働者は低賃金でこき使いたい経営者側が、格差の拡大に目をつぶり高プロや裁量労働制などの“働き方改悪”をごり押ししたい安倍政権を支持するのは、よくわかるが。
 その安倍政権を所得の低い層も支持し、ワーキング・プアの人ほど生活保護受給者を叩き、今回の生活保護費の切り下げにも賛成し、「働かない者が俺たちと同じ暮らしをするなど不届きだ、生活保護費などもっと下げろ!」と溜飲を下げている
 弱い者が自分たちを苦しめている権力に立ち向かうのではなく、より弱い者を叩いて良い気分になっているのだから情けない。

 確かに生活保護を受けている者には、不正受給者も少なからずいる。
 ある実例を紹介しよう。
 子供を連れて離婚した女が、病気や子育てを理由に働かず、生活保護を受給して。
 そしてその女は恋愛をして、ある男(定職あり)と恋愛関係になり、一緒に暮らすようになった。
 しかし夫婦同然の暮らしをしながら、その女は男と結婚せず、内縁関係でい続けた。
 それは生活保護費を受給し続ける為だ。
 定職のある男と結婚してしまえば、生活保護費は打ち切られる。だから女は男の存在を役所に隠して、生活保護費を家計の足し及び小遣いにし続けたというわけだ。

 こんな例だけでなく、「一市民には強いが、声の大きな圧力団体に弱い」と言われる役所は、すぐ役所に押し掛けて「差別だ!」などと騒ぐ組織がバックに付いている人には、生活保護を容易に認めてしまうらしい。
 あと、生活保護を不正に受給しようという人達には、893関係者もいる。

 そうした生活保護費を不正に受給して、税金で楽をして暮らしている人達に対する怒りはもっともだ。
 しかしだからと言って、「生活保護を受ける者はみなクズだ、生活保護など止めてしまえ!」という極論に走ってはならないと、筆者は考える。
 生活保護の不正受給は駄目だということと、生活保護という制度の是非は別問題だ。

 考えて貰いたい。
 今は核家族が多く、少子化で兄弟姉妹の数も少ない。
 もし両親が亡くなったら、その後は天涯孤独になり頼るべき人が無くなってしまう人は少なくない。
 そして皆が皆、退職金や老後の年金が充分な官公庁や大企業に勤めているわけではない。
 勤めていた中小企業が倒産し、非正規で働いていて貯金も殆ど無くて。そして両親も亡くなり、さらに病気になって働けなくなった人のことを想像してみて貰いたい。
「生活保護など要らない、すべて自己責任だ」と言う人達は、無収入になりかつ働けなくなった人は、ホームレスになり餓死すれば良いと思っているのだろうか。
 筆者は生活保護は必要な制度だし、それが必要な人は絶対にいると考える。
 ただ同時に、その生活保護の不正受給は絶対に許すべきでなく、詐欺として厳しく罰するべきだとも考えている。
 その不正受給者の背後に893や圧力団体が存在するなら、警察とも連携し、告訴もして厳しく当たるべきであろう。

 要点をまとめる。
 生活保護の不正受給に対する怒りを、生活保護受給者すべてに向けることは間違っている。
 格差の拡大による生活の苦しさへの鬱憤を、生活保護受給者に向けるのも間違っている。

 ワーキングプアで、もしフルに働いても収入が生活保護費より低い人がいるとしたら。
 間違っているのは生活保護という制度ではなく、労働環境と最低賃金の方
である。
 働いても収入が生活保護費より低い人がいるのなら、生活保護費を低く下げるのでなく、最低賃金を引き上げ正規の労働者を増やすのが正しい政治のあり方だ。
 最底辺で働く者の収入が生活保護費を下回っている現状を見たなら、「アベノミクスで豊かになった!」などと誇らず、己の政策の冷たさを恥じるべきだ
「最底辺で働く者の収入が生活保護費より下がったら、生活保護費をもっと下げるべき」などと考える首相と内閣の構成員は、政治家として最低である。
 よって、安倍首相とその内閣の大臣らは、最低の政治家である。
 無論、生活保護の不正受給には厳しく対処すべきだし、役所は警察等とも連携して圧力団体にも屈せず立ち向かうことも必要である。

 最後に書いておくが、生活保護というのは、受給していない者が思うほど甘い制度ではない。
 例えば生活保護家庭の子供が高校に進学すれば、部活にも興味を持つようになるだろう。
 しかし学校の部活動には、それなりにカネがかかる。
 進学先が公立だろうが、ユニフォームだの、用具だの、遠征費だのが必要になる。
 だが生活保護費では生きて行くのに精一杯で、とてもそんなお金を出す余裕など無い。
 それである生活保護家庭の子供が、バイトをして部活にかかる費用を自分で稼いだ
 するとどうなるか?
 その子供のバイトの稼ぎは、生活保護費の不正受給とされるのだ。
 何故なら制度上子供の稼ぎも「世帯の収入」とされる為、子供がバイトで稼いだ分だけ、その世帯は生活保護費を減額されることになる。
 だからもしその子が部活で使うユニフォームや用具や遠征費を稼ぎたければ、「まず先に生活保護費の分を稼ぎ出し、さらにそれ以上働いで稼げ」という話になる。
 高校生のバイトで、生活保護費を越えるくらい稼ぐなどまず無理だろう。
 だから生活保護家庭で育った子供は、「趣味も持つな、部活にも入るな」という話になる。
 現実問題、お金のかからない趣味など殆ど無く、生活保護を受けている者は「ただ生きていられるだけで満足しろ」ということのようだ。
 老い先短い老人なら、それでも良いだろうが。
 将来のある子供にもそれを求め、「子供がバイトして稼いだ分も不正受給で、生活保護費は減額」というのは、少々厳しすぎると筆者は思う。
 まあ「生活保護家庭の子供が趣味など持つのは、成人し独立して稼ぐようになってから」という事なのだろうが。

 また、生活保護費で生きている人達は、葬式の香典も結婚式のご祝儀もとても出せず、だから冠婚葬祭に出られない為、交際範囲がとても狭くなるという。
 さらに本人が亡くなった後の始末にも、最低限の葬儀でもまず20万円は必要になるが、生活保護を受けている者にそんな貯金などある筈もなく、そのまま焼かれて無縁仏になるという。
 不正受給している者は別だが、本当に事情があって生活保護を受けている者はただその日を生きて行くのが精一杯で、死んでもそのまま無縁仏なのだ。
 そういう人達を“ナマポ”と蔑視し、不正受給している狡い怠け者と同一視して安倍政権と一緒になって叩き、生活保護費の切り下げに「賛成だ、もっと引き下げろ!」と溜飲を下げる人達の心の冷たさに、筆者は何か寒々としたものを心に感じる。

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京セラの稲盛和夫氏は本当に『思い邪なし』の偉い人なのか?

 筆者は“左”にも“右”にも寄りたくないので、新聞はとりあえず毎日新聞を購読しているが。
 その毎日新聞の経済面に、京セラ創業者である稲盛和夫氏の伝記、『思い邪なし』が長期連載されている。
 記事は毎回5段もの量でかなりの長文で、連載は今月で百回に迫ろうとしている。
 その稲盛氏の思想を信奉する人は数多く、筆者の知人にも稲盛イズムとやらの“信者”がいる。
 この種の稲盛氏を褒め称える文章や人々を見る度に、筆者は何とも言えない不快な気分になる。

 筆者は写真はフィルムで撮るのが当たり前だった時代から、写真に熱中してきた。
 そして写真はフィルムで撮る時代には、「写真はレンズで決まる」というのが常識だった。
 デジタル全盛の今は、写真の出来を決めるのは、処理プロセッサーだの、PCでの画像処理だの、いろいろな要素がある。
 しかし写真をフィルムで撮っていた頃には、後で画像をいじる事など出来なかったし、詳しい人なら「10万円のボディに5万円の交換レンズを付けて撮るより、5万円のボディに10万円のレンズを付けて撮った方が綺麗に撮れる」と知っていた。
 だから写真がデジタルでなくフィルムだった時代には、写真に凝る人はカメラよりレンズに気を使い、良いレンズを買い集める事に熱中していた。

 筆者もその一人で、最初はオリンパスのカメラで写真を始めたものの、次第に他のメーカーのレンズにも興味が湧いてきた。
 写りを決めるのは、カメラ本体ではなくレンズである。
 しかし他社の評判の良いレンズを使うには、他社のカメラ(ボディ)も買わねばならない。
 で、筆者はオリンパス以外の他社のレンズも夢中になって買い集め、それを使う為に他社のボディも渋々買った。
 その結果、筆者は殆どのメーカーのレンズ(とカメラ)を買い集めてしまった。
 ニコン、キヤノン、ペンタックス、ミノルタ、リコー、フジ、ローライ、フォクトレンダー、それにライカと、いつの間にか数え切れないほどのレンズとカメラを買い揃えてしまった。
 ロシア製のキエフなどという、マイナーなカメラまで持っている。
 金など無いから、買った物の大半は中古品だが。
 それでもかなりのお金を、レンズとカメラに投じた。
 だから愛車はずっと軽自動車だし、海外旅行にも行ったことが無い。
 服もユニクロばかりだし、時にはワークマンのものも買う。
 それこそ、「写真=命」で生きていた。

 写真に詳しい方は、もうお気付きだろう。
「殆どのメーカーのレンズとカメラを買った」と言いつつ、あるメーカーの製品が無いことに。
 コンタックスだ。
 コンタックスのカメラは、ドイツのカール・ツァイス製のレンズを付けている。
 だからレンズのマニアなら垂涎の的だし、筆者もカメラ屋に行った際にコンタックスのカメラを勧められたことがある。
 しかし筆者は断った。
 良いレンズは何としてでも欲しいと思ってしまう筆者だが、コンタックスのレンズだけは欲しくない
 何故なら、そのコンタックスのレンズを付けるカメラを扱っているメーカーが、稲盛氏のあの京セラだからである。

 筆者がまだ大学を出て間もない若造だった頃、所用があって、コンタックスのカメラを扱う地元の京セラの営業所を訪ねたことがある。
 あらかじめはっきりさせておくが、取引の金額は僅かではあったものの、立場は筆者が客だ。
 営業所を訪ねた筆者は、カウンターの向こうにいた京セラの社員に「すみません」と挨拶し頭を下げて一礼し、その後に用件を敬語で丁寧に述べた
 カウンターの向こうにいた京セラの社員は、三十代の小太りで脂ぎった男で、筆者の挨拶に頷き返すことすらせず、ジロリと不躾な目で見返したまま、口をへの字に曲げて返事もせずに無言で話を聞いた。
 そして用件を聞き終わると、その男はカウンターの後ろに向けてただ顎をしゃくった。

 もちろん無言のまま、ニコリともせずに。
 すると後ろから若い(可愛い)女性社員が小走りに出て来て、申し訳なさそうに、丁寧に応対してくれて用件が片付いた。

 その時の筆者は若造だったし、しかも小柄で童顔だ。
 そして持っている金はすべてカメラとレンズに費やしてしまっている為、服装もユニクロにジーンズだった。
 それにしても営業所の社員たる者が、一礼して用件を丁寧に話す客にお辞儀ひとつ返さず、返事の代わりに無言のまま顎をしゃくるという対応があるだろうか。
 しかもそれが、稲盛イズムとやらを叩き込まれている筈の、京セラの営業所での話なのだから呆れる。

 筆者はカメラに関する用事で、その京セラの営業所を訪れたのだが、京セラはカメラばかり扱っているわけではない。
 おそらくカウンターの向こうに座っていた件の京セラの社員は、カメラの担当ではなかったのだろう。
 それにしても、だ。
 挨拶をされて頭を下げられたら礼を返すのが人としての常識だし、聞いた話が担当外の事だったら、「済みません、すぐ担当の者に代わります」と受けるのが社会人の常識ではないか。
 来た客が若造でスーツ姿でなく、自分の職務の担当でない話だったから礼も返さず黙ったまま顎をしゃくるなど、社会人どころか人間失格であろう。
 こんなクズが社員にいるのだ、稲盛イズムとやらもたかが知れていると、筆者は心から呆れたものだ。
 こんな社員がいるのに、よく人生訓やら人の道やらを偉そうに説けるものだと、その京セラの営業所で稲盛和夫氏に対して心から軽蔑の念を抱いた。

 と言うと、「どんな組織にも駄目な人間はいるものだ、それは仕方ないし、稲盛さんのせいではないよ」と言う方もいるだろう。
 だが筆者がその京セラの営業所を訪れた時、そこに居た社員は件の男と若い女性の二人きりではなかった。
 営業所にはもっと他に、京セラの社員が何人もいたのだ。
 そして筆者と件の社員のやりとりを皆が見て聞いていたのに、その社員の無礼な対応を諫める者は誰もいなかった
 顎をしゃくられて出て来た女性社員が申し訳なさそうな表情こそ見せたものの、それだけである。
 つまり駄目なのは筆者と応対した件の社員一人だけでなく、その京セラの営業所の皆が腐っていたということなのだ。

 自社の社員が客に無礼な態度をとっていたら、普通は慌てて出て行って謝るだろう。
 そうする者がいなかったという事は、京セラ全体が「身なりの良くない少額の取引相手など客ではなく、無礼な応対でOK」と思っている、という事だ。

 例の毎日新聞の連載記事『思い邪なし』のある回に、稲盛氏の若い頃の苦労話が載せられていて笑えた。
 京セラがまだ無名だった頃、小さな仕事でも取る為に稲盛氏が部下と二人で売り込みに回り、その先の会社で冷たい、素気ない対応をされて辛い思いをした思い出が書かれていたが。
 それを読んで、筆者は稲盛氏本人にこう伝えたくなった。
 稲盛さん、貴方の部下の社員は、少額だが京セラに金を落としに、商品を買いに行った客が頭を下げて挨拶をしても返事もせず、睨むような目で黙って聞いた揚げ句に顎をしゃくるような無礼な対応を平気でしていますよ、と。
 そしてそれを諫める他の社員も誰も無しだった。
 そんな社員たちを抱えて、よくもまあ偉そうに人生訓だの何だの語れるものだと、ほとほと呆れる。

 その一件以来、筆者にとって「京セラは憎い敵!」で、その京セラが扱うコンタックスのカメラは、どんなにレンズが素晴らしくて写りが魅力的でも、絶対に買わないで通している。
 コンタックスだけでなく、京セラに関係するものは極力使用しない、そして京セラとは絶対に取り引きしないようにしている。

 こんな筆者の姿勢は、極端で頑な過ぎるだろうか。
 しかし稲盛イズムとやらを唱え、経営論や生き方を偉そうに説くくせに、部下に“あんな”人間がいて、さらにそれを許容している営業所があるのでは、稲盛和夫という経営者も、金を儲ける才能はどうあれ、人としてはとても尊敬できないなと心から思った。

 どんな組織にもクズはいる、というのは真実だろう。
 ただ社員は、特にお客など社外の人と接する仕事の社員は、一人一人がその会社の“顔”なのだ。
 例えば貴方がある会社に行き、そこの社員に非常識かつ非礼な対応をされたとしたら。
「たまたまこの社員だけが悪いのであって、この会社そのものは悪くないのだ」などと思えるだろうか。
 思えるとしたら、貴方は大人でとても立派だ。
 しかし世の中の人間の多くは、筆者も含めて大人げないし、あまり立派でもない。
 だからある会社で非礼な対応をされたら、「どこの組織にも駄目な奴はいるし、悪いのはこの社員だけだろう」などと寛大に許したりせずに、「この会社はふざけてる!」と思って怒ってしまうだろう。
 筆者が今もなお京セラを嫌っていて、稲盛氏を褒め称える稲盛イズムの信者たちを冷たい軽蔑の目で見ているように。

 どんな組織にもクズはいる。
 それは確かに真理だ。筆者も認める。
 だから大切なのは、そのクズが社外の人(特に客)に無礼な態度を取った時に、周囲の同僚や上司がどう対応するかだ。
 そのクズをすぐに叱ってフォローをしないと、「この会社は駄目な会社だ」というイメージがお客の心にずっと後まで残る。
 筆者など、そのクズ社員がいたせいで今も稲盛氏を尊敬できないでいるし、事ある毎に周囲の人に京セラの悪口を言っている。
 だからクズ社員に対する処置はきちんとしておかないと、その会社は後々まで損をする。
 社員の中にも上にコネのある人もいるだろうし、何かあるとキレる問題のある人だから関わらないようにしていたとか、例の京セラの営業所にもいろいろ事情があったのかも知れないが。
 しかしそのような“お家の事情”である社員がお客に非常識な態度を取っても許していると、お客に恨まれて社外に悪印象を残すことになるから、組織内のクズは早々に切っておく方が結局は社の為になるのだ。

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オリンピック報道に見る日本のマスコミの劣化と亡国

 この前の日曜に、ようやく冬季オリンピックが終わった。
 オリンピックが終わったのを、「もう」と思うか、「ようやく」と思うかは、人それぞれであろうと思うが。
 筆者はオリンピックと、メダルラッシュとやらに沸いたこの日本ではおそらく少数派であろう、「ようやく」という一人である。

 オリンピックが始まった古代ギリシャでは、オリンピック期間中には戦争も休戦になり、戦っていた敵同士もスポーツを楽しんだ。
 これをエケケイリア、オリンピアの休戦という。
 かつての古代ギリシャでは、オリンピック開催中はギリシャ全土が本当にオリンピック一色になった。
 古代のギリシャ人がどれだけオリンピックに熱中していたか、その一例を示そう。

 皆さんは、紀元前480年のテルモピレーの戦いをご存知だろうか。
 ペルシャと古代ギリシャは何度も戦っていて、紀元前480年、ペルシャ帝国のクセルクセス一世は数万もの大軍を率いてギリシャに攻め込んだ。
 それを防いだのはスパルタの王レオニダスで、彼が率いた兵は僅か300であった。
 レオニダスとその配下のスパルタ兵は、テルモピレーの地形も利用して勇戦し、よく戦ったもののそこで全滅した。
 ギリシャの危機に、何故スパルタ以外のギリシャの都市が積極的に戦おうとしなかったのか
 それはその紀元前480年が、オリンピック開催の年だったからである。
 ただそのレオニダスとその配下の勇戦と犠牲に目を覚ましたギリシャ人達は、サラミスの海戦などでペルシャ軍を破り、ペルシャの侵略を防いだ。

 オリンピックの間は、古代ギリシャでも戦争すら休戦する約束になっている。
 しかしそれはギリシャ内だけで通用する常識であって、ペルシャ人にはまるで関係のない話である。
 オリンピック期間中であっても、戦争その他の諸問題は間違いなく変わらずに存在する
 スポーツは確かに素晴らしい。
 しかしスポーツは平和や社会の安定があってこそ楽しめるものであり、「オリンピックの間は、争い事も社会の諸問題も忘れて皆がスポーツを楽しむべき」などと考えるのは大間違いである。

 しかし今も、「オリンピック期間はただスポーツを楽しめば良い」と誤解している輩が、この国には少なからずいる
 マスコミですら、そう誤解しているように見える。
 例えばオリンピック期間中のある日のNHKニュース9では、放送開始直後から33分間、ぶっ続けでオリンピックのニュースを放送していた
 放送していたのは、競技のハイライトや結果だけではない。
 スケートの羽生選手の演技のノーカット放送(5分を越える)に始まり、選手のインタビューが長々と報じられ、他の競技についても放送され、果ては女子カーリングの選手が何を食べているかなどといった些末な事まで延々と放送し、ニュースの半分以上の時間をオリンピックに費やした後で、ようやく社会問題に関する報道が始まった。
 と思えば、9時45分頃にはいつものように天気予報になり、続いてまたスポーツニュースが始まり、当然のようにニュース9の放送が終わるまでオリンピックの情報が流された。

 一時間の“ニュース”のうち四分の三がオリンピックに費やされ、天気予報も除けば、社会問題や事件は僅か10分ちょっとしか報じられなかった。
 この日だけでなく、オリンピック期間中はテレビのニュースも新聞も同じようにオリンピック関連の報道一色に染まっていた。
 オリンピック期間は戦争すら休戦になった古代ギリシャのように、マスコミも世の人達もまるで「オリンピック期間中は、紛争も外交問題も政治問題も事件や犯罪も起きず、世の中は平穏無事である」と言いたげである。

 本当にそうか?
 オリンピック期間中は今でも、「紛争も外交問題も政治問題も事件や犯罪も起きず、世の中は平穏無事」なのか?
 そんな事は無い、オリンピック期間中もシリアでは内戦が続き、エルサレムではアメリカとトランプ政権の後押しを得たイスラエルがパレスチナ人を虐めている。
 国内でも国会が開かれ、「定額働かせ放題制」としか言いようのない裁量労働制も含めた働き方改革の問題や、それに関連して安倍首相が嘘のデータをもとに雇用者側に都合の良い発言をしていた問題や、佐川国税庁長官が森友学園問題で虚偽の答弁をしていたことを証明する記録が出てきた問題など、重要な問題が次々に出てきている。

 しかしニュースで報じられるのはオリンピックのことばかりで、メダルを取った選手の演技やインタビューを繰り返し垂れ流し、果ては女子カーリングの選手が“もぐもぐタイム”とやらで何を食べているかなどをさも国家国民の重大事のように、優先して報道している

 皆さんは、「小さく産んで、大きく育てる」という政治家や官僚の国民を騙す常套手段をご存知か。
 かつての治安維持法も、そうであったが。
 国民を縛る法律は、最初はさも「貴方には関係のない事ですよ」と言いたげに、ごく一部の人だけが対象のように見せかけて成立させて。
 そして法律を一旦成立させたら「こっちのもの」で、対象をどんどん広げ、いつの間にか多くの国民がその法律に縛られているというヤツだ

 今、政府と自民党が押し進めようとしている働き方改革(改悪)の裁量労働制もまさにそれで、国会で審議されている法案が成立したら最後、多くの従業員が裁量労働制に取り込まれ、残業代ナシで会社に命じられた仕事を終えるまで長時間労働をさせられることになるだろう。

 幸いにして働き方改革に関する法案は、まだ成立していないが。
 その現状ですら、「出版社に勤めたばかりの新卒の社員が毎月百時間を越す残業を強いられ、激務の果てに職場で倒れ、体を壊して退職せざるを得なくなった。それで未払いの残業代の支払いを求めたところ、契約でお前は裁量労働制になっているからと、支払いを拒否された」という事例まである。
 その件については、2月24日にTBSの報道特集で放送されている。

 入社一年目の新人社員もまた裁量労働制の範囲内に含め、残業代ナシで倒れるまで働かせる。
 現状でもこんな事がまかり通っているこの日本で、もし経営側が求める裁量労働制の拡大が国会で可決されたら、きっと貴方もタダで倒れるまで働かされることになるだろう。

 最初に決めた給料さえ払えば、後はいくらでも好きなだけ働かせることが出来るのだ。
 経営側から見て、こんな美味しい、使い勝手の良い話はない。
 だからもしこのまま政府案通りに働き方改革が進められたら、例の法律は「小さく産んで、大きく育てる」というやつで、多くの働く人が裁量労働制に取り込まれ、「定額で倒れるまで働かせ放題」になるだろう。
 繰り返すが、財界と政府と自民党が押し進めたい働き方改革の裁量労働制とは、「定額働かせ放題制」なのだ。
 貴方の働き方、貴方の生き死ににも関係する重大な法案が国会で審議されているというのに、マスコミ、主にテレビのニュースではオリンピックのことばかり報じられていた
 民放のニュースも、ニュースと言いつつオリンピック中心の報道が目立ったが。
 特にNHKは、政権に都合の悪い報道は努めて避けて、オリンピックでの日本選手の活躍ばかり報じているように見える。

 NHKは毎週土曜日に、『ニュース深読み』という報道番組を放送しているが。
 最近は“深読み”ではなく、あえて政治の問題を避けた『ニュース浅読み』となっている
 今、国会では働き方改革や、佐川国税庁長官の偽証疑惑や、受動喫煙対策が骨抜きにされかけている事などが問題になっているというのに、2月24日の番組で報じられたのは「オリンピック、ピョンチャンから東京へ」だった。

 こうしてマスコミがオリンピックの事ばかり報じて政治や社会の問題から国民の目を逸らしている間に、裁量労働制の拡大などがどんどん進められ、気がついたら国民の暮らしや労働環境がより厳しいものになってゆく事だろう。
 権力を監視するのが役目の筈のマスコミの中に、権力にすり寄るものらが出てきているだけでなく、さらに報道をオリンピック一色に染めて国民の目を塞ぎ、国民を阿呆にしようとしている。
 こんな今の日本のマスコミの現状を、筆者は深く憂う。

 断っておくが、筆者は何も「オリンピック関連の情報をニュースで流すな」と言いたいのではない。
 ただニュースで流すのはダイジェストと結果で充分で、オリンピック期間中も、ニュースや報道番組では主に政治や社会の問題を報じるべきではないかと言いたいのだ。
 オリンピックのことは特別番組として別枠で報じ、ニュースはニュースとして平常通りに政治や社会の問題をきちんと報じるべきではないか。
 なぜ重要な社会問題に関する報道を削ってでも、全国民がオリンピックの競技をいつでも生中継で見られるようにしなければならないのか、それが筆者には理解できない。

 オリンピックの期間は戦争すら休戦にした、古代ギリシャの頃ならいざ知らず。
 国際紛争や外交問題、社会問題や事件事故は、オリンピックに関係なく休みなしに起きているのだ。
 犯罪者も、悪法を数の力で通したい与党議員も、オリンピック期間にせっせと働いている。
 佐川国税庁長官と森友学園に関する新たな資料が出されたのも、オリンピック期間に入ってからだ。
 裁量労働制や佐川国税庁長官の疑惑などに対する政府与党の姿勢を見ていると、「国民の目がオリンピックに向き、報道もオリンピック一色になっているうちに片づけてしまおうと企んでいるのではないか」と疑いたくなる。

 それだけに、二年後の夏の事を想像すると、筆者は今から恐ろしくなってくる。
 他国で開催されたオリンピックでさえ、この国のマスコミと国民はこれだけオリンピック一色になれるのだ。
 日本で開催される東京オリンピックの際には、どれだけのお祭り騒ぎになるだろうか。
 安倍首相がまた自民党の総裁に再選され、2020年のオリンピックの際の首相もまだ安倍氏だったとしたら。
 安倍首相の念願の憲法改悪をし、安倍首相が大好きな刑死したA級戦犯を復権させ教育勅語を復活させて、この国を安倍首相や彼を支える右翼や神社勢力が考える“美しい国”、戦前の日本に戻す絶好のチャンスになるのではないか。
 だからこそ「ニュースや報道はオリンピック期間も、オリンピック一色にしてはならない」と、筆者は考える。
 繰り返すがオリンピック期間中も、政治や社会は変わらずに動き、紛争や事件も絶えず起き続けているのだから。

 この冬季オリンピックの最中にも、マスコミがろくに報道せず、多くの国民が知らないうちに国会では多くの重要な法案が審議されていた。
 そして「充分審議したから」と裁量労働制の拡大を含む働き方改悪が数の力で可決され、貴方も定額で倒れるまで残業を強いられるようになるかも知れない。

 重要法案の審議や、政府に都合の悪い情報を白状するのをオリンピックの時期に合わせる政府の狡いやり方にも腹が立つが。
 それ以上に、そうした社会の重要問題を片隅に追いやって、ニュースや報道番組までほぼオリンピック一色に染めて国民を阿呆にするこの国のマスコミの姿勢に、筆者は強い憤りを覚える

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自衛隊に対する正当な非難も許さぬクソなネトウヨども

 例えば貴方の家(アパートや借家ではなく持ち家)に、可燃性の危険物を積んだ大型車、タンクローリーの類が突っ込んできたとしよう。
 そして貴方の自宅は大破し、さらに炎上して丸焼けになった。
 しかもその家の中には貴方の子供も居て、死んでもおかしくない状況の中、怪我を負いながら命からがら逃げ出してきた。
 その子供は心に深い傷を負い、恐怖に怯えて泣いている。
 それでも貴方は自宅に突っ込んできた大型車を責めず、「わざと起こした事故ではないし、その大型車の運転者は死んだのだから」と許すことが出来るだろうか?

 わざとではないにしろ、運転者は死んだにしろ、自宅を倒壊させ丸焼けにして家族の命まで奪いかけたその大型車は許せない。
 そう思うのが、当然の感情ではないだろうか。
 ところがその事故の加害者が自衛隊だと、「わざとでないし、家族も死んでないのだから構わないではないか」と、被害者の気持ちを逆撫でする発言を平然とする日本人が、今は大勢いるのである。

 先日、佐賀県神埼市で自衛隊のヘリが民家に墜落し、そこの家は大破し全焼した上に、家にいた女児も怪我をした。
 で、その事故について家の持ち主である女児の父親が「許せないですよね」とコメントしたところ、ツイッターで非難と罵声が浴びせられている。

「何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ」
「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」
「死ななかっただけいいじゃないか」


 つまり今の日本人は、自宅に自衛隊機が落ちて家が倒壊して丸焼けになり、怪我をしながら命からがら逃げ出してきた我が子がショックで泣いていても、「わざと落ちたのではないから許すし、まず亡くなった自衛隊員の事を考えて、子供が怪我をしても命が助かっただけ良いと思う」ものらしい
 少なくとも、ツイッターを活用している日本人たちは。

 今のようにドライブレコーダーが普及していなかった、何年も前の話だが。
 筆者の友人は自動車事故で裁判になり、その弁護士費用と賠償金を払うのにとても苦労した。
 その為に職場に内緒で深夜の副業もして、くたくたに疲れ切っていた。
 友人は車を運転中、脇から飛び出してきた車を避ける為、咄嗟に急ハンドルを切った。
 結果、友人の車は隣の車線にはみ出し、併走していた別の車と衝突した。
 そしてその事故の責任は、すべて友人に負わされたのである。

 事故のそもそもの原因は、脇から飛び出してきた車である。
 しかしその車はそのまま走り去ってしまい、咄嗟のことで友人はその車のナンバー等を記憶するゆとりもなかった。
 ドラレコも無かった時代のことだから、「飛び出してきた車を避けたのだ」という友人の言葉を裏付ける証拠も無く、その車は逃げ得になってしまった。
 そして事故は「友人が急に隣の車線に突っ込んだから起きた」ことにされ、賠償も弁護士費用も友人が負担することになってしまったのである。

 わざとぶつけたのではなく、危険を避ける為に咄嗟に急ハンドルを切った友人には気の毒だが、第三者として冷静に考えれば、その裁判の結果は仕方の無いことだろう。
 友人の立場で考えれば、友人も被害者だし気の毒だ。
 しかし併走していて友人の車にぶつかられた車からしてみれば、「隣の車線の車がいきなり急ハンドルを切って体当たりしてきた」のだ。
 そしてドラレコも無く、友人も「脇から飛び出してきた」という車のナンバー等を覚えていない以上、事故は友人が急ハンドルを切り隣の車線に突っ込んだから起きたとされても仕方がないわけだ。
 結果論だが、友人は急ハンドルを切って避けるのではなく、急ブレーキをかけつつ脇から飛び出してきた車にぶつかれば良かったのだ。
 そうすれば事故の主な原因は脇から飛び出してきた車にあると立証されたであろうし、少なくとも隣の車線の車にぶつかることも無かった。

 この友人の事故のように、わざと起こしたわけではなくとも許されない事故は、世の中に数多くある
 もし「わざとでなければ許される」のであれば、世の中から“過失致死”や“過失傷害”という事件事故は存在しなくなる筈だ。
 例の佐賀県神埼市で自衛隊のヘリが民家に墜落した事故で、家を全焼され子供にも怪我をさせられた被害者の「許せないですよね」とのコメントを、「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」と非難するツイッター民は、そんな単純なことも理解できないらしい。

「何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ」
 そう呟くツイッター民は、どんな被害を受けても加害者が死ねば許され、被害者は我慢すべきとお考えらしい。
「死ななかっただけいいじゃないか」
 という発言にも、「わざとの事故でなく、加害者が死んでいればそれでチャラで責めるべきではない」という思考が見て取れる。

 そんなツイッター民に問おう。
 わざとの事故でなく、そして加害者が死んでいれば、貴方は家が全焼して子供も怪我をして心も傷ついても許せるのか?
 そもそも貴方は、「わざと」でなければ、どんな事故も許せるのか?
 その覚悟もないくせに、自衛隊機の事故の被害者を責めるのは、あまりにも無責任すぎる。

 大型車が道路脇の民家に突っ込むような事故は、そう珍しいことではない。
 その場合、同情は突っ込まれた民家の住民に向けられ、事故が「わざと」でなく、そして車の運転者が死んだとしても全責任は加害者が負うのが常識だ。
 そして被害者が加害者に怒るのはもっともなことと思われ、「わざとではないのだし、亡くなった運転手の事を考えろ、死ななかっただけマシだろ」などと被害者を責める者は誰もいない。
 しかし佐賀県のヘリ墜落事故では、少なくともツイッター上の非難は被害者に向けられている。
 わざとではないのだし、亡くなっている搭乗員のことを考えろ、子供は死んでないんだろ……と。

 以前、民間機が飛行場近くの民家に墜落したことがあった。
 その時には、非難はその落ちた飛行機のパイロットに向けられていた。
「わざとの事故ではないのだ、みな亡くなっている搭乗員たちのことを考えろ、被害者は死んでないのだから良いだろ」などと寝ぼけた暴論を吐く馬鹿は、誰もいなかった。
 しかし佐賀県のヘリ墜落事故では、非難が家を破壊全焼され子供まで怪我をさせられた被害者に向いている。
 何故か。
 それは加害者が、自衛隊だからだ。

 かつて自衛隊は、心ない阿呆な左翼から「人殺しの為の組織で税金泥棒」だと非難されていた。
 しかし今は逆に、「お国と国民の為に命をかけて働く立派な人達」という意識が強くなり、日本の右傾化と併せて「自衛隊のする事に文句を言うな」という空気にこの国が染まりつつある

 普通の事故なら、「わざと」でなく加害者が死んでいようと、そして被害者に死者は無くとも、非難は加害者に向けられるのに。
 なのに自衛隊や米軍機の事故なら、加害者を責めるとむしろ被害者の方が非難され罵声を浴びせられる。

 戦後の個人の自由を重んじる民主的な日本を嫌い、天皇中心で国家が国民を統制する昔の日本を“美しい国”と信じ「戦前の日本を取り戻したい」と願う、今のこの安倍政権下で。
 沖縄で米兵が起こした交通事故に対する産経新聞の、米兵の美談をねつ造して沖縄の新聞を罵ったフェイク報道でもわかるように、自衛隊や米軍が特別扱いされ、その事故を責める者は非国民扱いされる風潮が起きていることを、心から憂う。
 自衛隊を税金泥棒扱いしたかつての左翼も間違いなくクソだが、自衛隊による事故の被害者にネット上で罵声を浴びせるネトウヨも同じようにクソ過ぎる。

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懲りずにまた“右”に走り愛国心に心の拠り所を求める愚かな日本人

 このブログをご覧になって下さっている方は御存知のことと思うが、筆者は安倍総理とアベ政治が心の底から嫌いである。
 ただ嫌いというより、憎悪しているといった方がより正確だ。
 安倍総理は戦後の総理で最低最悪の総理だと、筆者は断言する。
 こんな筆者を「根っからの左翼だろう」と思う人も少なくないのではないだろうか。

 だが断言するがそれは違う。
 筆者は2000年に小泉政権が誕生するまでは、生まれてからずっと一貫して自民党を支持してきた保守主義者である。
 筆者の学生時代には知識人と言えば左翼ばかりで、大学でも教授や講師らだけでなく学生も殆どが左翼だった。
 そんな中で自分の思うところを臆せず歯に衣着せずに言い続けた筆者は、皆から「コチコチの右翼」と言われた。

 その筆者が今アベ政治を批判し続けているのは、右翼から左翼に転向したからではない。
 右翼と呼ばれて孤立していた昔から、筆者の主義主張は殆ど変わっていない。

 変わったのは、周囲の日本人たちだ。
 それほど長いとも言えない筆者の人生の間で、日本人の思想、と言うより空気は左から右へと恐怖を覚えるほど大きく変化している

 筆者の学生時代の左翼は、今振り返ってみても本当に頭がおかしかった。
 マルクスの思想を盲信していて常識も議論も通じず、大袈裟でなく「狂っている」としか言いようが無かった。
 何しろ筆者が小学生の頃に読んだ学研の学習百科大事典には、「朝鮮民主主義人民共和国は計画経済による進んだ重工業国で、大韓民国は独裁政治の遅れた農業国である」と明記されていたくらいだ。
 だから今では「北朝鮮が仕掛けた」というのが通説の朝鮮戦争も、以前の日本の学者やインテリ達は「南が仕掛けた」と信じていた

 戦争というものは、少なくとも緒戦は仕掛けた方が優勢に戦を進めるのが常である。
 先に攻めた方は、まず勝てるよう準備をしてよく作戦も練り、相手の不意を打って攻めかかるのだから、勝って当たり前なのである。
 だから日本軍もパールハーバーで大勝し、イギリスの戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズも沈め、マレーで電撃戦を展開してシンガポールも攻め落とせたのだ。
 歴史的に見て、近代の戦争で自ら仕掛けた戦争ですぐに敗れたのは、イタリア軍くらいのものである。

 朝鮮戦争でも、北朝鮮軍は国境を突破してあっと言う間にソウルを攻め落とし、韓国軍と難民を釜山とその周辺に追い詰めた。
 さらにその北朝鮮軍には、ソ連の戦車や戦闘機が大量に投入されていた。
 もし朝鮮戦争を仕掛けたのが、かつて左の人達が言っていたように韓国だとしたら。
 自分から仕掛けた戦で緒戦から大敗し、首都を攻め落とされて半島の南端まで追い落とされた当時の韓国の人達は、本物の“アホの子”である。
 ソ連の支援を受け、その軍事力を背景に攻め込んできたから北朝鮮は勝てたのだ。
 少なくとも、緒戦では。
 そして米軍が韓国の支援に回ると、一転して北朝鮮は敗退することになる。
 だが米軍の接近を恐れた中国軍が北朝鮮を助け、戦線は37度線で膠着して今に至る。

 朝鮮戦争で緒戦は北朝鮮軍が優勢だったのは、北が先に戦争を仕掛けたからだ。
 そして北朝鮮軍には、大量のソ連製の戦車や戦闘機が配備されていた。
 だから北は緒戦では勝てた。
 そんな自明の理を、以前の日本の学者やインテリ達は頑として認めなかった。
 そして彼らはこう言った。
「共産主義の国は決して自分から戦争を仕掛けない。だから戦争を仕掛けたのは、資本主義国である韓国やアメリカの方である」
 マルクスやらレーニンやら毛沢東やらの教義を盲信して、正気でそのようなことを言い立てた。

 防衛問題についても、かつての左翼は本当に「頭がおかしい」としか言いようがなかった。
 何しろ彼らは、「戦争を起こすのは日本やアメリカなどの資本主義諸国で、共産主義の国は戦争を仕掛けない」と本気で信じていたから。
 だから彼らの感覚では悪いのは日米などの西側諸国で、「日本が自衛の為の武器すら捨てて丸腰になり、駐留米軍も追い出せば平和になる」と、心から信じていたのだ。
 何しろ金日成の北朝鮮を“地上の楽園”と、正気で思っていたのだから。
 日本のかつての左翼の頭の中は、ごく単純に「資本主義国=悪、共産主義国=善」と色分けされていたのである。
 ……愚かの極み、である。
 そして筆者は「こう思いたい」という感情論ではなく、「資本主義にも欠点はあるが共産主義はもっと悪いし、理想では国は守れない」という現実に基づいた話をして、ずっとコチコチの右翼扱いされてきた。

 しかし筆者は、自分が右翼だなどと、全く思っていなかった。
 何故ならば筆者は昔からあの戦争も「日本が起こした侵略戦争」と認めていたし、天皇主権の大日本帝国も大嫌いだ。
 安倍総理は日本会議や神道政治連盟などの「天皇が神であった時代の大日本帝国が大好き!」な右翼勢力と手を組んで、何かと言うと戦後レジームを非難し、A級戦犯を賞賛し教育勅語も評価して、日本をまた戦前戦中のような国に引き戻そうとしているが。
 筆者はその安倍総理が大嫌いな、戦後の自由で平和な日本を好きで愛している保守なのである。
 そして「戦後レジームをブッ壊せ!」と旗を振る安倍総理の支持率が五割近い今、筆者のような“保守”はめっきり少なくなっている。

 ずっと昔から、筆者は同じ事を主張し続けているのに。
 昔は「コチコチの右翼」と言われ、今は「反日の左翼」と言われる。

 それほど今の日本は、恐ろしいくらい右傾化しているのだ。
 戦時中に、社会主義者どころか自由主義者まで“非国民”と呼ばれたように。
 今は個人の価値を重んじる自由主義者で穏健保守の筆者までサヨク扱いだ。


 確かにドイツの民衆も、「民主的な選挙でヒトラーを指導者に選んだ」という誤りを犯したが。
 しかしドイツは二度と過ちを繰り返さぬよう、戦後に深く反省をしている
 それに引き替え、日本はどうであろうか。
 戦後、日本は一気に左傾化した。
 政治的には自由主義で民主制だが、インテリ層はほぼ左翼で、そうでない人達は軍国主義者扱いされて叩かれた。
 筆者の見るところ、日本の戦後社会を覆っていた左翼的な思想はほぼ空気やムードによるもので、現実に基づいた理論的なものではなかった。
 そして同じように、今の日本も現実に基づかない、「こうであってほしい」という願望による右翼的な空気やムードに覆われ、過去の日本の過ちも率直に認めるリベラル派は、保守中道の自由主義者まで「反日で自虐史観の左翼!」と叩かれている

 戦後の日本を支配していたのは、「とにかく戦争はイヤだ!」という、理屈抜きの空気だった。
 多くの者はただ「戦争はイヤだ!」と叫ぶだけで、どうすれば日本を守れるのかといった具体的で現実的な議論をしようとする者は嫌われ、戦争をしたい右翼というレッテルを貼られた。
 ところが近年、そうした反戦運動を支えてきた、戦争を直に体験している世代が次々に亡くなって、急速に数を減らしている。
 そして今の世を生きている日本人は、大学で日本史を学び、かつミリオタでもある筆者も含めて、戦争を知らない者が大多数だ。
 現総理も含めて政治家たちもまた、戦争をほぼ知らない。
 そして小泉政権下で日本は格差社会と化し、富める者と貧しい者に二極分化した
 で、希望を失い自信をなくしつつある日本の大衆の心を掴んだのが、ズバリ愛国心である。

 自分に自信を持つのは、なかなか大変なことである。
 日本が総中流であった頃は、多くの者が「自分は少なくとも人並み」と思えた。
 しかし今は違う。
 ブラック企業で酷使されている者や、派遣の仕事でその日をようやく食いつないでいる者が、どうして自分に自信や明日に希望を持てようか。
 自信や希望など、何か特別な才能があるか、あるいは経済的にゆとりのある者しか持てないのだ。
 だが例外が、一つだけある。
 愛国心は、何の取り柄も無いその国の最低辺の国民にも自信を与えてくれる

 自信を持つには、能力なり容姿なり財力なり、何かしら抜きん出たものが必要で、努力も人並み以上にしなければならない。
 自分に自信を持つ為には、相当の資格と努力が要るのだ。
 しかし愛国心に関しては、資格も努力も何も要らない
 ただ日本人に生まれさえすれば良いのだから。
「日本はスゴい、大和民族は世界一だ!」
 戦前戦中の日本人のように、本気でそう信じることさえ出来れば、その“素晴らしい日本国”の一員である自分も、立派な人間と思えて自信を持てるようになる
 たとえいつ首を切られるかわからない、しがない派遣社員であっても。
 自国を素晴らしい国と信じ、そして自分もその民族の一員の愛国者であると思えば、自分も立派な人間になったような気分になれて自信を持てるのだ。
 これが戦前戦中の日本やナチス時代のドイツを支配した、そして今の日本でも黴菌のようにしぶとく増殖しつつある“愛国心”というやつの正体だ。

 戦後の日本の論壇を支配していた左翼が大嫌いで、しかし日本の戦争責任も正視して認める筆者としては、胸くそが悪くなるような雑誌やオピニオン誌が近年急激に発行部数を増している。
 南京大虐殺は無かっただの。
 あの戦争はアジアを白人支配から解放する、正義の戦争だっただの。
 正しい歴史を学んだ者なら「馬鹿か!」と一蹴するしかないトンデモな暴論が、毎月何万部も発行されている雑誌に、繰り返し記事にされ喧伝されている。
 そして正しい歴史を知らない、と言うより自分の耳に心地良く響かない、日本に都合の悪い事実は知りたくない知的レベルの低い層を「日本は立派で何も悪くなかったんだ!」と洗脳している

 善悪の問題ではなく、心理学の問題として語ると、「イジメは止められない」という。
 何故なら、イジメは気持ち良いからだそうだ。
 それはそうだろう、自分が努力して尊敬される人になるより、周囲の誰かを引き下ろし、自分より下の存在を作る方が楽だから。
 そしてその下と見なした存在をイジメれば、強い人間になったように思えて優越感に浸れる。
 だから今の日本の“自称愛国者”は、韓国と中国を叩きたがる
 韓国人と中国人を叩いて馬鹿にすれば、日本人である自分が偉くなったような気分になれて気持ちイイからだ。
 かつての戦前戦中の日本人も、朝鮮人と中国人を差別していい気になっていた。
 戦後七十年が経ち、歴史はまた繰り返しているのだ

 ドイツ人はかつてのユダヤ人差別を大いに反省しているが、日本人は歴史から何も学んでないようだ。

 小学館という大出版社から、『東京裁判をゼロからやり直す』という本が出版された。
 曰く、「この一冊で反日自虐史観を完全論破!」。
 曰く、「日本軍=悪の洗脳を解け!」。
 曰く、「人種平等を訴えた日本は欧米の厄介者だった」。
 曰く、「GHQによる洗脳は中韓に利用され続けている」。

 ……やれやれ、また「日本はアジアを白人支配から解放する為に戦ったんだ、日本は何も悪くないモン!」という、正しい歴史をねじ曲げて黒も白と言い張るトンデモ史観の繰り返しデスカ。
 反論するのも馬鹿らしいが、これらの暴論を信じている人に尋ねる。
 今の右翼は「日本はアジアを白人支配から解放して……」とか言うが、「日本の兵隊サン、来てくれてありがとう!」と感謝しているアジアの人が、現実にどれだけいるか?
 例えばフィリピンに行って、「日本の兵隊サン、アメリカから解放してくれてありがとう!」と言うお年寄りがどれだけいるか、確かめてみるがいい。
 戦争を体験した現地のフィリピンのお年寄りは、殆どみな日本兵を恨んでいるんだよ。
 日本軍を歓迎した現地のアジア人といったら、ビルマ(ミャンマー)の反政府の少数民族くらいのものだ。

 日本は言論が自由だから、そういう日本の侵略の被害を受けた国に失礼な誤った史観のトンデモ本ですら、出版する自由もあるのだろうが。
 ただそれを出版したのが右翼系の札付きの出版社でなく、立派な大手の出版社(小学館)である事にも、今の日本の右傾化の度合いがよく現れている。
 言論の自由と言えば、ドイツは言論の自由度では今の日本より遙かに上位だが、それでもナチス思想を広める事は法律で禁止されている。
 しかし戦後の日本では、表現の自由の名の下に、戦前戦中の皇国史観や軍国思想をそっくりそのまま広めることも、全く禁止されていない。

 そして左翼が強かった時代には一顧だにされなかった戦前戦中の日本を美化する右翼思想が、愛国心に自信の拠り所を求める戦争を知らぬ若い層に、今は広く受け入れられつつある。

 それにしても、皆が左翼で筆者などコチコチの右翼と呼ばれていたのが、今は見回せば皆が右翼で筆者は立派な“反日で自虐史観の左翼”扱いだ。
 昔から変わらずずっと保守の自由主義者で、ただ「侵略戦争は駄目だが、自衛力は必要」と考えているだけなのに。
 日本という国は、どうしてこう軍国主義から左翼へ、そしてまた右翼へと、振れ幅激しく揺れ続けているのだろうか。
 この日本人の変わりやすさに、筆者は恐怖すら覚える。
 かつて戦争に反対する者を非国民扱いしていじめ抜いたように。
 今の日本人はまた右翼に戻り、同調しない者を“反日”だの“売国”だのと罵声を浴びせていじめ始めている。


 スペインの思想家ホセ・オルテガが、大衆について「熱狂しやすく画一的でぶれやすい人々」と呼んだ
 日本国民は、オルテガの言うその「熱狂しやすく画一的でぶれやすい人々」そのものだ。
 かつては皆が戦争に熱狂し。
 そして戦後は安保闘争や全共闘など、左翼運動に熱狂し。
 さらに日本会議や神道政治連盟などの策動で、またも右翼思想と何かにつけ「日本はスゴい!」と言いたがる馬鹿げた愛国心に踊らされつつある今の日本だが、この国が戦前戦中のような暗い時代に戻らないよう、心から願う

 世界に冠たる大和民族といい気になって、侵略戦争に乗り出して。
 そして「戦争はもうコリゴリだ!」という感情論から、皆が左翼に走り、憲法第九条さえ厳守すれば戦争にならぬと信じて。
 さらに戦争の痛みを直に知る人が激減し、格差社会の中で自信を失い、自己の存在価値を見失った人達が愛国心に拠り所を求めている現在、この右傾化の波を押し止めるのは難しいのではないかと、筆者は悲観している。
 日本の経済が良くなり、一部の人だけが富むのではなく、多くの人が安定した暮らしができるようになるまで、今の右傾化は続くであろう。

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