空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

『忠臣蔵』など大嫌いだ

 毎年十二月になると、必ず忠臣蔵と赤穂浪士のドラマが放送されたり、芝居が上演されたりする。
 日本人は、昔も今も本当に忠臣蔵と赤穂浪士が大好きである。
 しかし筆者は、断言するが忠臣蔵は大嫌いだし、赤穂浪士の行動にも少しも心を動かされない

 忠臣蔵が好きで赤穂浪士が大好きな人達は、決まってこう言う。
「喧嘩両成敗なのに、浅野内匠頭は即日切腹させられ、吉良上野介だけお咎め無しなのは不公平だ!」
「吉良上野介はたくさんの賄賂を取り、清廉潔白な浅野内匠頭をいびって虐めた悪い奴だ」
 しかしそれは、どちらも誤解で史実ではない。
 小学生の頃から歴史が好きで、大学でも史学を学び日本史を専攻した筆者は、日本人の忠臣蔵好きと赤穂浪士びいきについて、心底理解に苦しむ。

 今でも学校の教師や職場の上司などに、「喧嘩両成敗だ」と言って、生徒や部下の争いを裁く者たちがいるが。
 そもそも『喧嘩両成敗』とは何か。
 その起源は、戦国時代に遡る。
 他国との戦に一致団結して全力を挙げなければいけないのに、同じ家中で喧嘩などして仲間割れをしていたら困る。
 それでその同じ家中での喧嘩を防ぐ為にあちこちの大名家で制定されたのが、「喧嘩をしたら、どちらが悪くても両方を同じように罰する」という、喧嘩両成敗の家法だ。

 考えてみれば、喧嘩両成敗とは随分と乱暴な法律だ。
 相手からどんな酷い侮辱を受けようと、それに応じてはならぬのだ。
 たとえ相手が暴力を振るってきて、身を守る為にやむなく応戦したとしても、喧嘩両成敗として、喧嘩を仕掛けてきた方と同じように罰せられてしまうのである。

 仕掛けられた喧嘩にやむなく応じても、喧嘩両成敗で同罪なのである。
 こんな馬鹿な話は無いから、今では喧嘩があれば詳しく事情を聞くのが普通だ。「先に手を出したのは、どちらか?」とか、「そもそも喧嘩の原因は何なのか?」などと。

 今では、喧嘩は先に手を出した方が悪いという考えが一般的だ。
 しかし中には、先に手を出すに至るまでに、我慢しきれない何かがあった場合もあるから、どちらにどれだけ非があるか喧嘩を裁くのは、なかなか大変である。

 それで喧嘩に至るまでの事情を双方から詳しく聞いて、いろいろ考えて裁くのが面倒な余り、喧嘩両成敗と言って単純に断罪してしまおうとする頭の悪い人が、今でもまだ少数ながら存在するのだから呆れる。
 断言するが、今でも「喧嘩両成敗だ」と人を裁く人は馬鹿だ。
 それは仲間内での喧嘩は絶対に許されない、戦国時代の特別な掟だからだ。

 ちなみに戦国時代の島津家でも、家法に喧嘩両成敗の規定がある。
 但し島津家の家法ではただ「喧嘩をするな」と定めているのではなく、「無法な事をされたら堪え、上役に報告してその裁定を受けろ」とある。
 つまり侮辱されたり暴力を振るわれたりしたら、その場は堪え、今の学校や職場で言えば、先生なり上司に言いつけてその判断を受けろということだ。
 今では、売られた喧嘩を買うより、先生や上司に言いつける方が卑怯な事のように受け取られそうだが。
 しかし戦国の世では同じ家中での喧嘩は厳禁で、上役に言いつけてその判断を仰ぐ事の方が正しくて道理にかなっているのである。
 このように、善悪の価値観は時代によって変わるものなのである。

 さて、話は吉良上野介と浅野内匠頭の話に戻るが。
 浅野に同情し吉良を憎む人達は、口を揃えて「喧嘩両成敗なのに」と言う。
 しかし浅野が切腹させられた例の刃傷事件は、果たして『喧嘩』であろうか。
 喧嘩とは双方が睨み合い、「やるかっ、この野郎!」、「おお、かってやらあ、かかって来いや!」という感じで始まる場合が多かろう。
 一方が相手に襲いかかり、反撃しない相手をボコボコにするのは喧嘩ではなく、間違いなくただの暴力である。
 だから浅野が刃傷事件を起こして裁かれる時、「吉良は刀を抜いたか?」という事が問題にされた。

 もしも切りかかって来た浅野内匠頭に、吉良上野介も刀を抜いて応戦していたなら、身を守る為でも喧嘩両成敗として吉良も浅野と同罪にされる。
 しかし吉良は、刀を抜かなかった。
 と言うより、吉良はショックで失神しかけていて、とても刀を抜ける状態ではなかった。
 だから浅野内匠頭の刃傷事件には喧嘩両成敗は適用されず、一方的に切りかかり勅使を迎える大切な場を血で汚した大罪人として、即日切腹を命じられたのだ。

 繰り返すが、浅野内匠頭の刃傷事件は決して『喧嘩』ではなく、あくまでも「一方的な暴力」なのである。
 だから「喧嘩両成敗なのに、吉良だけ許されるのは片手落ちで不公平だ」という言い分は、全くの筋違いなのである。

 加害者と被害者が何らかの遺恨のある顔見知りだったにせよ、全く見ず知らずの通り魔的な犯罪だったにせよ。
 加害者が一方的に斬りかかった傷害事件で、『喧嘩両成敗』として無抵抗の被害者まで加害者と同罪とされたのでは、被害者はたまったものではない。

 即日切腹という裁きは、大名に対しては拙速すぎる面は確かにある。
 しかしそれでも、「浅野は重罪で、吉良は無罪」という裁定そのものは決して間違っていない。

 なのに浅野と吉良に対する裁きを「喧嘩両成敗なのに、片手落ちで不公平だ」と言う人は、そもそも『喧嘩』というものの意味をわかっていない。
 もしも浅野内匠頭の刃傷事件が『喧嘩』なら、無抵抗な者に対する一方的な暴力もすべて喧嘩で、傷害事件の被害者も加害者と同罪という事になる
 浅野の刃傷を『喧嘩』と見て、吉良は無罪の裁きを「片手落ちで不公平」と言う人の思考が、筆者には全く理解できない。

 まあ、中には「浅野は吉良に散々虐められてきたから遺恨があり、殿中での刃傷事件もその喧嘩のうちなのだ」と言い張る人もいるだろうが。
 では「吉良が浅野を虐めていびった」と言う人達に聞きたいが、その吉良が浅野を虐めたという史実はあるのだろうか。
 現在言い伝えられている「吉良のイビりやいやがらせの数々」はみな、討ち入りが成功し赤穂浪士が評判となった後で、講談や芝居や物語などで創作されたフィクションだ。
「吉良が浅野にこんな嫌がらせをした」という確かな史実は、全く残っていないというのが現実だ。

 とはいうものの、「吉良と浅野の関係に何も問題は無かった」という訳でもない。
 赤穂の浅野家の家風や、内匠頭の人柄を調べれば調べるほど、「吉良と浅野は、そりが合わなかっただろうな」と思える材料が出てくる。
 そして筆者は、浅野内匠頭の刃傷事件の原因は、吉良よりむしろ浅野の側にあったのではないかと考えている。

 その浅野の側の問題を取り上げる前に、「吉良が強欲で多額の賄賂を欲しがった」という定説について話しておきたい事がある。
 浅野と赤穂浪士の立場に立った物語では、よく吉良の強欲さと賄賂について取り上げられるが。
 賄賂、賄賂と言うが、その金品を贈る事に対する考えが、江戸時代と今とではかなり違うのだという事実をまず知っておいていただきたい。
 役人に金品を贈る事は、今では賄賂で悪い事とされている。しかし江戸時代には、お役人に世話をして貰うにはお礼をするのが当たり前、という風潮であった。
 ある意味、賄賂と言うかお礼や付け届けも給料のうち、という感覚だった。
 ただそのお礼や付け届けにも限度や常識があり、多く受け取りすぎると非難された。

 例えば今でも、お中元やお歳暮という慣習はまだ残っているが、世間ではあれを賄賂とみなさないではないか。
 ただ高額すぎるお中元やお歳暮は問題とされ、賄賂と思われてしまう。
 世間一般の常識のうちなら良いが、常識を越えて多額だと賄賂とされ非難される。江戸時代の付け届けも、今のお中元やお歳暮に対する感覚と同じだ。

 で、吉良などの高家が、浅野などの大名から受け取っていた、式典についての指導の謝礼だが。
 これはあくまでも謝礼であって、賄賂とは違う
 例えば吉良は、並の大名よりも格も官位も高く朝廷との折衝もしていたが、禄高は四千五百石である。
 これではとても、諸大名だけでなく朝廷の公家たちとも体面を保ちつつ付き合っては行けない。
 吉良が高家筆頭として幕府と朝廷の間に立ち、公家らと付き合って行けたのは、式典のやり方を諸大名に指導してその謝礼を受け取っていたからだ。
 だから吉良は諸大名から受け取った謝礼で私服を肥やしていたわけではなく、それがあるからこそ高家としての体面を保つ事が出来たのだ。

 さて、その賄賂ではなく勅使を接待する御馳走役の指導料を、浅野はしっかり届けていただろうか。
 実は答えは、否なのである。
 御馳走役は、三万石から十万石の大名の中から毎年二人ずつ選ばれるが、浅野と同役の御馳走役の伊達左京亮は三万石の小大名でありながら、早速に加賀巻数巻と黄金百枚と狩野探幽の双幅を吉良に贈った。
 しかし浅野は、「謝礼は大役が済んだ後でいい」として贈らなかった。

 浅野家の手落ちは、まだある。
 財政難に悩んでいた幕府は、その数年前に小判の質を落とした。そしてその為、小判の価値が落ちて激しいインフレに世間は見舞われていた。
 だから御馳走役として勅使の接待にかかる費用も、以前とは比べものにならないほど高額になっていた。
「以前とは」と書いたが、浅野内匠頭が御馳走役を命じられるのは、刃傷事件を起こす元禄十四年のこの時が初めてではなかった。
 浅野内匠頭はこの十八年前にも、十九歳の時に御馳走役を命じられていて、これが二度目であった。
 その勅使の接待にかかる費用はすべて、御馳走役の大名が負担するのだが、十八年前の時にかかった費用は約四百両だった。
 しかしその後、幕府による小判の改鋳が行われた結果、接待にかかる費用も激増した。
 前年に御馳走役を務めたある藩では千百両かかったという話も、藩の留守居役が聞いて知っていた。
 しかし浅野家は「そんなにかかる筈がないだろう」と甘く見て、七百両で予算を組んだ。
 前年に千百両かかったという他藩の話を信じず、浅野家は十八年前に御馳走役を務めた自らの経験から七百両と踏んだのだ。

 思うに、浅野は十八年前にも御馳走役を務めた経験があるから、「やり方など、いちいち吉良に聞かずともわかる」くらいに思い、吉良を軽く見ていたのではないだろうか。
 だから払うべき謝礼も、「後で良い」などと思っていた。
 そして出して来る勅使接待の予算も、当時のインフレを無視した前年のものよりかなりショボいものでは、吉良も頭に来るだろう。
 しかも赤穂藩は五万石ながら塩田も持ち、収入はある筈なのである。
 吉良としては、「このケチめ」と嫌味の一つも言いたくなるだろう。

 ただ浅野家とて、決して金があるのにケチだったわけではない。
 赤穂の浅野家は、代々武を重んじていた。
 だから有事の際に備えて、家来の数も多く備えていた。
 例えば家臣の数は、一万石につき二百人というのが普通である。
 しかし赤穂の浅野家は、五万石で千二百人もの家来を抱えていた。
 だから人件費が多く、塩田による収入はあっても決して豊かというわけではなかった。
 だがそれは浅野家の事情であって、だからと言って勅使の接待にかかる費用を安く見積もっても良い理由にはならない。

 なぜ浅野家は御馳走役の見積もりが甘く、吉良への謝礼も後回しにしてしまったのか。
 それはズバリ、江戸留守居役の人選ミスだ。
 各藩の江戸留守居役とは、武士というより外交官のようなものだ。だから江戸留守居役の子は、武芸よりも酒や遊びを覚えさせられるとも言う。
 幕府の要人をもてなしたり、他藩の留守居役と付き合い情報交換をするのが仕事だからだ。
 しかし武を重んじる浅野の浅野家は、堀部弥兵衛のような武張った男を江戸留守居役に任じた。
 中山安兵衛の高田馬場の仇討ちの話に感激して、安兵衛を婿にしてしまうような人物だ。
 このような者が江戸留守居役として、幕府の要人に贈り物をして接待したり、他藩の留守居役と酒を飲みながら情報交換し合ったりできるとは、とても思えない。

 勅使の御馳走役は、気も金も使ういやな役目である。
 そしてその御馳走役は、三万石から十万石の大名の中から毎年二家ずつ選ばれる事は、前にも書いた。
 江戸時代の日本にはおよそ三百ほどの藩があるが、何十万石というような大藩はそう多くなく、大半はその三万石から十万石程度の藩である。
 その御馳走役も、藩の数から考えれば一生に一度回って来るかどうかであろう。
 なのに何故、赤穂の浅野には十九年に二度も回って来たのか。
 これは何の証拠もない私見だが、赤穂藩とその江戸留守居役は、幕府の奥右筆や老中などに充分な付け届けをしてなかったのではないか。
 そのような者らが、吉良ともうまく付き合えるわけがあるまい。
 相役の伊達左京亮が、御馳走役に任じられるとすぐに吉良に莫大な謝礼をしたのに、浅野は「後で良い」と考えて放置していたことにも、その一端が現れている。
 さらに勅使の接待にかかる費用の見積もりも、他藩で前年に実際にかかった額より何百両も安いのでは、吉良に白い目で見られても仕方あるまい。

 さらに浅野内匠頭は、大名火消しを務めた際に自ら火中に飛び込んだり、消防訓練も抜き身の薙刀を握り、手討ちにしかねぬ気迫で指揮をしたともいう。
 そのように激しやすい性格の人間が、「謝礼も払わず、勅使接待の予算もケチりおって」と不満の吉良上野介に嫌味でもチクチク言われたら、どうなるであろうか。
 それが例の刃傷事件に結びついたように、筆者には思える。

 また、あの刃傷事件については、吉良に斬りつけた浅野を取り押さえた梶川与惣兵衛の日記がよく史実として引用される。
 ただその『梶川与惣兵衛日記』には、二種類がある。
 突発の事態の発生とそれへの対応を起きた通りに再現して書いているものと、状況や出来事を後から思い出して書き直したものだ。
 世に伝わっている、浅野が「この間の遺恨、覚えたるか!」と怒鳴りながら吉良に切りつけたというのは、その後者の後から思い出して書き直した日記に記載されていることだ。
 より早く書かれた最初の日記の方には、ただ「内匠殿声かけ切りつけ」としか書かれていない。
 正しい事はわからない。
 しかし浅野が何を言って斬りかかったか、近くにいて取り押さえた梶川にもよく聞き取れず、後に赤穂浪士の討ち入りが評判になった後で、「きっとこう言っていたのだろう」と推測して書いた可能性もある。

 浅野が刃傷に至った正確な原因はどうあれ、浅野は切腹で吉良はお咎めなしという幕府の裁定を、筆者は正しいと考える。
 あの刃傷事件は浅野の一方的な暴力で、どう見ても喧嘩ではない。あれを「喧嘩両成敗なのに不公平だ」という人は、知恵が足りないか頭がおかしいかのどちらかだ。

 ただ喧嘩両成敗という分かりやすさは、物事を深く考えない大衆にはウケた。
 そして幕府の裁きに対する抗議でもある赤穂浪士の討ち入りは、貨幣改鋳による超インフレや、生類憐れみの令などで幕府やお偉方に不満を抱いていた庶民の心をスカッとさせた。
 で、いろいろな講談や芝居や物語にもなり、「吉良は悪で赤穂浪士は忠義の士」というイメージが、今に至るまで定着しているというわけだ。

 それにしても、この件を裁いた徳川綱吉という人は妙な人である。
 例の生類憐れみの令などから、愚かな人のように思われているが、実は違う。学問をかなり熱心にやった、ある意味では賢い人なのだ。
 ただその『賢さ』というのが、かなり偏っている。

 例えば現在では、学問と言えば国語・数学・理科・社会・英語など広い範囲を学ぶ。
 しかし綱吉の時代の学問と言えば、まず儒学である。礼儀やら忠孝やら、そういうものを学ぶのである。
 そして綱吉は、現実よりも儒学の本に書いてある理屈や理論の方を重んじた。
 例えば生類憐れみの令を押し通したのも、親孝行が人の道と信じていたからだ。
 綱吉は晩年、甥の家宣に将軍職を譲る時、「生類憐れみの令が悪法であることはわかっている、だが余の死後も決して変えずに残してくれ」と言い残した。
 それはその生類憐れみの令が、綱吉の母の望みによるもので、綱吉の学んだ儒学的な価値観では「たとえ悪法で庶民を苦しめても、親の希望を叶える孝行が大事」なのである。

 そして皇室を敬う気持ちもある綱吉は、浅野内匠頭の刃傷事件も「勅使に対し無礼な!」と激怒してすぐに切腹を命じ、一方の無抵抗だった吉良上野介は許したのだ。
 その吉良の屋敷に討ち入り、上野介の首を取るのは、明らかに綱吉と幕府の裁定に異議を示す行為である。
 しかし綱吉の不思議なところは、その赤穂浪士の行動については、忠義の家臣と感動したというのである。

 結局綱吉は、赤穂浪士を丁重に扱わせた上で切腹させたが。
 それも浅野内匠頭の時のように即断するのではなく、いろいろな考えの学者らに議論させ、考え抜いた上で名誉ある死に方をさせた。
 綱吉という人の頭にあるのは、とにかく儒学の本にある忠孝なのである。
 庶民がどう思うかとか、庶民の苦しみとか、この人にはそのような事は二の次、三の次でしかないのである。

 忠臣蔵のせいで、吉良上野介は日本中で悪役扱いされているのに。
 吉良の領地であった愛知県吉良町の人達は今も吉良上野介を慕い、その善政を称えて神として祭っているという。
 それを考えれば、吉良上野介が忠臣蔵に描かれ、そして多くの日本人に思われているような悪人とは、とても思えない。
 講談や芝居や物語の忠臣蔵と、史実とは違う
 その物語をそのまま事実と受け取り、一方的に「吉良は悪い奴で、浅野はその犠牲者だ」と思い込むのは愚かだ。

 筆者は前に、赤穂の浅野家の家臣は約千二百人いたと書いた。
 それに対し、吉良邸に討ち入った浪士は僅か四十七人である。
 数から考えれば、討ち入りをした浪士らは家中の一握りの過激派とも言えるだろう。
 その四十七人のせいで、残りの千百五十人とその家族はどうなったであろうか。
 討ち入った四十七人が義士と称えられ、芝居や講談にもなる中、討ち入らずに生き残った大多数は赤穂の元浅野の家臣とも言えず、再仕官もかなわず世の中の片隅でひっそりと、みじめに生きて行くしかなかったであろう。

 浅野家の家中に、岡林杢之助という人がいる。
 元は旗本の次男だったのが、浅野の岡林家に養子として入ったのだ。
 浅野内匠頭が刃傷を起こし藩が取り潰された後、杢之助は大石内蔵助らの仲間には加わらず、江戸の実家に戻っていた。
 しかし討ち入りが成功して江戸で評判になると、兄弟たちに「我が家の恥」と言われ、泣く泣く切腹させられたという。

 この岡林杢之助のことを思えば、討ち入りに加わらなかった千百五十人の浅野家の家臣とその家族がどれだけ肩身の狭い、辛い思いをしたかが想像できるだろう。
 筆者は討ち入って名誉の死を遂げた浪士らに感動するのではなく、残る千百五十人の赤穂の元藩士らの生きづらさに同情する

 作家の海音寺潮五郎氏も赤穂浪士についての本を書いていて、その中で赤穂浪士の行動を批判する人達の意見にも一理あることを認めつつ、氏はこうも言っていた。
 赤穂浪士に共感しない人は、日本人の情がない。

 その日本人としての情がないらしい筆者は、浅野内匠頭の刃傷に対する幕府の裁きを「喧嘩両成敗なのに、不公平だ」と言う人は、喧嘩も意味すらわからない馬鹿だと思う。
 そして浅野内匠頭や四十七人の赤穂浪士より、筆者は討ち入りに加わらなかった残る千百五十人の元赤穂藩士たちのその後の生き辛さと、今もずっと悪者にされ続けている吉良上野介の方に心を寄せる

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源義経は断じて“英雄”などではない!

 今の日本でも、筆者には小泉元首相と安倍首相がなぜこれだけ庶民に支持されているのか、まるで理解が出来ないのだが。
 現代だけでなく、歴史上の有名人でもなぜこのような人物が庶民に愛されて英雄視されているのか、まるで理解に苦しむ人物がいる。

 筆者にとってその「本当はクズなのに、庶民には英雄視され慕われている代表的な人物」は、ズバリ源義経である。

 日本の庶民にとって義経は伝説的な英雄であり、その義経を殺したという事で、兄である頼朝の評判は実に悪い
 しかし筆者は、その日本人の“常識”に、以前から疑問を持ち続けていた。
 日本人の特性である「空気を読んで、皆が当然としている事は自分も素直に受け入れる」という性質が皆無の筆者は、幼い頃からこう思い続けてきた。
 義経は、本当に皆が信じているように立派な英雄なのだろうか。
 頼朝は、本当に冷酷で酷い兄だったのだろうか。

 で、「義経は悲劇の英雄で、兄の頼朝は酷い」という“日本人の常識”を素直に受け入れる事なく、義経と頼朝の実像について、伝説によらず史実に従って調べてみた。
 ちなみに筆者は小学生の頃から社会科、特に歴史が好きで、大学では史学科国史専攻コースで主に日本の平安時代の歴史について学んでもきた。

 義経と頼朝について語る前に、「常識とは国や時代によって違うものだ」という事実を理解していただきたい。
 例えば江戸時代まで、女性は眉を落とし、お歯黒と言って歯を黒く染めるのが当たり前だった。
 今そのようなメークをすれば「キモッ」と思われるが、昔の人々は男女共それを「綺麗!」と思っていたのだ。
 鯨や海豚を食べるのは我が国の伝統であり、それを外国人が野蛮と決めつけるのは、他国の文化を蔑視した傲慢な行為である。

 で、義経と頼朝は一応“兄弟”であるが、兄弟関係についての感覚は今と当時ではかなり違う。
 平安時代には結婚は一夫多妻が当たり前で、特に権力者は複数の女性を妻としていた。
 と言ってもハーレムや江戸時代の大奥などと違い、己の屋敷に複数の女性を同居させるのではなく、当時の日本の男性はそれぞれの女性の屋敷に通っていた。そして生まれた子供達は、それぞれの母の許で育てられるのである。
 だから当時は今の時代で言う兄弟の他に、同じ父から生まれたものの違う家で育ち、ろくに会った事もなく感覚的には他人も同様の異母兄弟(姉妹)が大勢いたのである。

 で、義経と頼朝は、その異母兄弟なのである。
 義経の母は源義朝の妾である常盤御前で、頼朝の母は義朝の正妻の、熱田大宮司藤原季範の娘である。

 話を進める前に、ここで当時の家督や地位の相続について話をしておきたい。
 後の世の武士社会では、正妻の長子が家督を相続し父の地位と財産を受け継ぐのが当たり前になっているが、この時代は違う。
 平安時代から鎌倉時代前期にかけては、ものを言うのは母の家柄もあるが、まずは当人の実力だったのである。
 つまりこの時代の兄弟とは、血を分けた大切な存在と言うより、「父の地位や財産を奪い合うライバル」という面があったのだ。

 はらから、という言葉がある。
 漢字では同胞と書き、兄弟姉妹、あるいは同国民という意味で今では理解されている。
 しかし本来は、「同じ母から生まれた兄弟姉妹」という意味だった。
 つまり裏を返してみれば、「同じ母から生まれた者たちこそが本当の兄弟姉妹であって、異母兄弟には兄弟という感覚が無い」という事でもある。

 しかしその“はらから”ですら、氏長者(一族の長)の座や父の地位や財産がかかって来ると、憎しみ合い争い合う事になる場合も珍しくない。
 例えば平安貴族で最も有名な人物は藤原道長であろうが、彼は父である藤原兼家の第五子であった。
 長兄は藤原道隆で、道隆と道長は同母の“はらから”であった。
 で、父兼家の跡を継いだのは、道長ではなく道隆だった。そして道隆は、己の地位や財産を我が子の伊周に譲ろうとした。
 しかし道長は、道隆の死後に若い伊周を陥れて失脚させ、己が藤原氏の氏長者となり政権を握ったのである。
 己の権勢欲の為には、同母の兄弟や甥すら陥れる。これが当時の貴族や武士の実態であった。

 長子が跡を継ぐと決まっていた後の武士の世と違って、この時代には誰が跡を継ぐかは非常に微妙であった。
 跡を継ぐには、まず有能でなければならない。
 そうでなければ、他の兄弟に蹴落とされる。
 特に跡を継いだ者が若く、そして世慣れて有能な叔父がいた場合には、若い後継者がその叔父に蹴落とされる事も少なくない。

 同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても、必ずしも仲が良いとは限らないのは、今の世であっても変わりあるまい。
 特にその家にある程度の財産があったりすると、それを巡ってのトラブルが起きかねない。
「跡を継ぐのは俺だ!」と遺産の大半を己のものにしようとする長男と、「いや、平等に分けろ!」と主張する他の兄弟達との争いなど、現代の日本でも珍しくないではないか。
 だから高い地位と多くの所領を持つ貴族や武士たちの兄弟間で、出世や相続を巡って争いが起きない筈が無いのだ。
 そして義経と頼朝は例の“はらから”ではなく、まるで違う屋敷で生まれ育った異母兄弟なのである。

 想像してみてもらいたい。
 もし貴方の家に、それまで顔も見た事も無い妾の子が「弟です」と名乗って突然現れたとしたら。
 貴方はその妾の子に対し、弟としての情を感じる事が出来るだろうか。
 ましてやその“異母弟”は、同じ父の血を引くゆえに、貴方の地位と財産を継ぐ権利もあるとしたら。
 親愛の情を抱くどころか、心の中では敵として警戒するのが当然ではないだろうか。

 で、問題の義経だが、頼朝にとっては「一度も会った事も無い異母弟」で、しかも「同じ源氏の棟梁の血も引いている=自分にとって代わる権利もある」のである。
 ドラマや伝記物語などでは、義経と頼朝が初めて会うシーンでは、よく手を取り合って涙の対面をさせているが。
 現実には頼朝は、義経に弟という実感や情など持ち得なかっただろう。
 そして同じ母の許で同じ屋敷で育った“はらから”でないにもかかわらず、同じ父の血を引いているとなれば、警戒せざるを得ない。
 それがこの時代の、異母兄弟の実態だ。

 想像してみて貰いたい。
 貴方は会社経営者の息子で、急死した父の跡を継いだ新社長だ。
 そこにそれまで会った事も無かった妾の子が「弟です」と現れたら、「おお、よく来てくれた!」と心から歓迎できるだろうか。
 そしてその妾の子が「兄さんの会社の役員にして下さい」とか言ってきたら、「こいつめ、俺の会社を乗っ取る気ではあるまいな?」と疑念を持たないだろうか。
 異母兄弟を信用し、兄弟の情を抱くようになるのは、その異母兄弟がどう振る舞うか次第ではないだろうか。
 いきなり現れた、初対面でしかも自分の地位を脅かす可能性もある異母兄弟に、すぐに「肉親の情を持ち歓迎しろ」と言われても、無理な話だと思う筆者は冷たい人間なのだろうか。

 で、その義経だが、彼はその再会後の兄頼朝に対する振る舞い方を誤った。

 平氏は公家社会の中で貴族として出世する事で、端的に言えば貴族化する事で日本の政権を握ろうとした。
 しかし頼朝は京から離れた鎌倉の地で、武士の棟梁として武家政権を作り上げようとした。
 そして十三歳まで京で暮らしていた頼朝は、貴族が武士を操る方法もそれなりに知っていた。

 当時は天皇ではなく上皇が朝廷の実権を握る院政期だったが、その上皇らは「源氏が力を伸ばしたら平氏を引き立て、平氏が力を伸ばしたら源氏を引き立てる」という手法をよく使った。力を持つ者同士を争い合わせる事で武士の力を削ぎ、朝廷の権威と権力を保っていたのだ。
 だからそれを恐れた頼朝は、配下の武士らが勝手に朝廷と接触して官位などを貰うのを禁じた
 そしてそれを真っ先に無視したのが、誰あろう義経である。

 義経は後白河法皇に接近して勝手に官位を貰っただけでなく、京に残っていた平氏の姫の婿になったりもした。
 義経としては、「自分のおかげで戦に勝てたのだから、このくらいは構うまい」と思っていたのだろうが。
 しかし平氏との戦で手柄を立てたのは、何も義経一人だけではない。
 そして義経一人で戦ったわけでもなく、平氏を滅ぼせたのは坂東の諸将と何万もの兵の力があってこそである。

 頼朝に禁じられていたから、他の多くの武将は官位を欲しくてもその申請は頼朝に任せていた。
 しかし義経は後白河法皇に接近し、頼朝の許可なく高い官位を朝廷から貰った。
 それはもちろん、後白河法皇と朝廷の純粋な好意によるものではない。鎌倉の本拠から動かず東国に強い勢力を持つ頼朝を牽制し、それに対抗させる為に義経を寵愛し引き立てたのである。
 そして義経はそれを理解せず、後白河法皇と朝廷の甘い誘いに乗り、仇敵平氏の姫の婿になったりもした。
 戦は強かったかも知れないが、義経は政治的にはかなりの馬鹿である。

 義経は頼朝の弟である。
 その頼朝の身内が、真っ先に頼朝の命を無視して朝廷と接触し勝手に官位を貰ったりしたら、他の諸将に示しがつかぬ。
 義経は「弟だから少しぐらい勝手な事をしても許される」のではなく、「一族で弟だからこそ、頼朝の命を率先して守らねば皆の手本にならぬ」のである。
 だから同じ父から生まれ源氏の棟梁の血を引く弟が勝手な行動を取り、後白河法皇と朝廷に利用され鎌倉の頼朝の対抗馬に押し上げられかけた時、頼朝としては厳しい態度で接しなければならなかったのだ。
 ゆえに頼朝が義経の勝手な行動を許さなかったのは、政治的に全く正しい。

 もし頼朝が義経に甘い態度で接していたら、義経は後白河法皇と朝廷に取り込まれ、せっかく頼朝の許に一つにまとまりかけていた東国の武士は京の義経派と鎌倉の頼朝派に分かれて相争い、院政と戦乱の世が続いたであろう。
 朝廷が実権を握り続け、義経がその番犬として働く世を良しとする方は、「手柄を立てた弟の義経をイビる頼朝は酷い」と言えば良い。
 しかし「朝廷と貴族が支配する古代から、武士が支配する中世に移り変わるのは時代の必然」とお考えの方なら、頼朝が己の命を無視して後白河上皇や朝廷に接近した義経に厳しい態度をとった理由がおわかりであろう。

 それでも初めから頼朝を倒し己が源氏の棟梁になるつもりで、その布石として後白河法皇に接近し平氏の姫の婿になったのなら、まだ理解できる。
 しかし義経は京で反頼朝勢力を結集しようという姿勢も見せず、ただ後白河法皇に寵愛され高い官位を貰って浮かれていたのだ。そして頼朝に叱責されると慌てて鎌倉に戻ろうとし、それを拒まれると泣き言を言う有り様だ。

 落ち度は義経にあるのだし、鎌倉での対面を拒まれたのならどこぞの寺にでも籠もって謹慎し、反省の姿勢を見せれば良かったのだ。
 しかし義経は、頼朝に鎌倉入りを拒まれると今度は後白河法皇に、頼朝追討の宣旨を貰おうとする始末だ。
 が、政治力が皆無で反頼朝の根回し工作もして来なかった義経に味方する武士などまるで無かった。そして後白河法皇と朝廷にも見放されて奥州に落ち延び、頼った奥州藤原氏を道連れにして滅びてしまうお粗末さだ。

 義経をひいきにして英雄視する人達は、義経の戦の強さを褒め称える。
 しかし義経は、本当に「戦の天才で英雄」だろうか。

 よく「戦争にルールは無い、どんな汚い手を使っても勝った方が偉い」と言う人達がいる。
 違う。
 戦にもルールはちゃんとある。例えば現代の戦争では使ってはならない兵器もあるし、捕虜は虐待してはならないし、病院などを攻撃してはならないと決まっている。
 それらの戦争に関する国際法に違反すれば、多くの国から非難される。

 で、当時の日本での戦は、まず両軍が向かい合い、独特な音を放つ雁股の鏑矢を敵軍の頭上に射て開戦を通告し合ってから始めるものなのだ。
 そして戦も一騎打ちが基本で、それも「ヤアヤア、我こそは○○の国△△の住人、黒沢の樹一郎なるぞ」と名乗りを上げ、身分のある強そうな良き敵を見つけて戦うのだ。
 現代から見れば馬鹿げているかのように思えるかも知れないが、これが当時の戦というものだったのである。
 まずこの事を頭に置いてから、義経の“天才的”な軍略とやらを見て行きたい。

 義経の戦と言うと、まずは一ノ谷の戦が有名だ。
 鵯越えの険を下り、油断していたおマヌケな平氏の背後を突いて破ったとして知られている。
 しかし本当に平氏はおマヌケで、その隙を突いて奇襲した義経は偉かったのだろうか。
 もう一度言う、当時の戦は両軍が向かい合い、鏑矢で開戦の合図をし合ってから一騎打ちで正々堂々と戦い合うのが基本だ。
 敵の背後からいきなり襲いかかる。
 このどこに、正々堂々の姿勢があるのだろうか。
 しかもこの時、平氏は西国で勢いを盛り返し、京の都を奪回する勢いを見せていた。それで朝廷が仲介に立って、平氏と源氏は和平交渉をしていたのだ。
 その和平交渉の真っ最中に、義経は背後から予告も無しに襲いかかって来たのだ。

 続いて屋島の戦について見てみよう。
 この時もまた、義経は背後から平氏の軍を襲った。それも民家を焼き払い、大松明(おおたいまつ)と称して大軍に見せかけて襲ったのだ。
 このどこに、正々堂々の姿勢があるのだろうか。
 義経の勝利の為に家を焼き払われた付近の住民たちの気持ちを考えると、筆者は義経の“知略”を称える気になどとてもなれない。

 そして壇ノ浦の戦だが、初めは平氏の軍が優勢であった。
 そこで義経は、平氏の軍船の水夫たちを弓で射させた。
 この時代では水夫は非戦闘員と見なされ、水夫を射る事など無かった。この時代の戦とは、武士同士が戦い合うものだったからだ。
 しかし義経が水夫を射させた為に平氏の軍船の動きは鈍り、戦は一気に源氏に有利になった。
 戦に勝つ為にはルール無用で、正々堂々の戦より奇襲を好み、民家も焼き払うし非戦闘員の水夫も殺す。これが“英雄”義経の実態だ。

 その壇ノ浦の戦で、義経は平氏の猛将平教経に一騎打ちを挑まれた。
 すると“英雄”義経は、船から船へと飛び回って逃げたのである。
 これが伝説になっている「義経の七艘飛び」の真実だ。

 平忠度にしても平敦盛にしても、平氏の名のある武将は一騎打ちを挑まれれば充分逃げられても引き返して戦い、そして討たれて死んだ。これが当時の武将の美学というものだ。
 しかし義経は船から船へと飛び移り、一騎打ちから逃げ回ったのである。
 挑まれた一騎打ちから逃げ回る卑怯でみっともない行為すら、義経大好きのいわゆる“判官びいき”の人達の手にかかると、船から船へひらりひらりと飛び回る、七艘飛びの英雄譚に作り替えられてしまうのである

 義経は武勇に優れていて強い。
 何も疑わず素直にそう信じている人が多いが、「京の五条の橋の上で、弁慶を打ち負かした」というのは伝説、フィクションである。
 どの戦で敵のどの武将を討ち取ったという実際の義経の“武勇”は、少なくとも史実には全く残されていない。

 義経は政治的に全く無能で、頼朝の命を無視して後白河法皇や朝廷にうまうまと利用され、「戦に強い」と言っても当時の戦のルールを無視した奇襲ばかりで、民家にも火を放つし非戦闘員も殺す。そして自分が強い相手から一騎打ちを挑まれれば逃げ回る。
 これでも「義経は可哀想な英雄で、頼朝は弟を殺す酷い人」だろうか。

 筆者には、どうしても理解できない事がある。
 義経が死んだ八十数年後に、元軍が日本に攻めて来る。
 いわゆる元寇である。
 この時も日本の武士たちは、伝統的なやり方で元軍を迎え撃った。
 例の鏑矢を射て開戦を布告し、一騎打ちを挑んだのである。
 すると元軍の兵士らは頭上を飛ぶ鏑矢の音をゲラゲラと笑い、一騎打ちを挑んだ日本の武士を皆で囲んで殺したのだ。
 この事を、多くの日本人は「元軍の奴らは酷い」と感じる。
 いちいち鏑矢で開戦の合図を敵に送り、一騎打ちの戦いを挑んだ日本の武士を「おマヌケ」とは思わないのである。
 しかしその同じ日本人が、義経のルール無視の汚い戦を知略と称え、それに敗れた平氏をおマヌケだと笑うのである。

 同じように正々堂々の戦をしても。
 平氏はマヌケで、義経は知略ある英雄。
 しかし元軍を迎え撃った日本の武士は立派で、元軍は酷い奴ら。
 これぞまさに、ダブル・スタンダードというやつであろう。
 義経の汚い戦を知略と褒め称え、正々堂々と戦おうとした平氏をおマヌケと言うのなら。
 元寇で正々堂々と元軍を迎え撃とうとした日本の武士たちをも、同じようにおマヌケと笑ってやらねば不公平だし矛盾している。

 不思議なものだ。
 屋島の戦では民家を焼き払って大松明と言い、壇ノ浦の戦では当時は非戦闘員とされていた軍船の水夫を射殺させた。
 その庶民に多大な迷惑をかけた義経が、当の庶民たちに悲劇の英雄と愛され、それを殺した頼朝は「弟殺しの酷い奴」と憎まれている
 大企業を優遇しつつ国民には痛みに耐えよと求めた小泉政権や、国民の自由や権利を制限して義務を押しつけたくてたまらない安倍政権が庶民に支持されている点を見ても、筆者には「今も昔も、日本の庶民はマゾばかりなのではないか」と思えてならない。

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先の大戦中の日本で「お国の為に」何万もの犬や猫が殺された事実を知っていますか

 先の第二次世界大戦についていろいろ学べば学ぶほど、「日本とは、世界の常識からかけ離れた何と異質な国なのだろう」と思わされる。
 その最たるものが、武士道精神を我田引水の上曲解した命の軽視と死の美化だ。

 例えば大戦初期の日本軍の“名機”ゼロ戦だが、あのゼロ戦の驚異的な空中格闘戦での機動性は、パイロットや燃料タンクを敵弾から守る防弾板を無くして軽量化した結果得られたものであった。
 そしてその事がアメリカ軍にも知られてしまった後は、ゼロ戦はアメリカ軍の戦闘機に容易に撃墜されてしまうようになった。
 また、日本軍の爆撃機に一式陸攻という飛行機があったが、この機も航続距離を伸ばすために(爆弾をたくさん搭載する爆撃機でありながら)防弾板を無くして燃料等をたくさん積んでいた。
 そのためこの一式陸攻は少し敵弾を受けただけですぐに火を吹いて撃墜され、そのためアメリカ軍のパイロットからは、「一発で火がつく」という意を込めて“ワンショット・ライター”と呼ばれていた。

 日本軍の戦車もまたひどく時代遅れの設計で、装甲だけでなく火力も弱かった。主力戦車である九七式中戦車“チハ”の主砲は、アメリカ軍の軽戦車の装甲すら撃ち抜けず、逆にアメリカ軍の軽戦車にその装甲を撃ち抜かれる有様だった。
 だから日本軍の戦車は連合軍の戦車に全く歯が立たず、ブリキの棺桶とまで呼ばれていた。
 で、欧州の戦線ではドイツ軍の戦車に全く歯が立たずにお払い箱になった米英軍の旧型戦車が、太平洋の戦線に回されて日本軍を相手に主力戦車として戦い続けたのである。

 ただ欧州の戦線では圧倒的な強さを誇ったドイツ軍の戦車だが、強さと性能に凝り過ぎたせいでその絶対数が少なかった。連合軍の圧倒的な数の戦車に悩まされていたのは、ドイツ軍も日本軍と同じだったのである。
 で、ドイツ軍は敵の戦車に歩兵だけで対抗する為に、ただ勇気だけでなく頭も使った
 ドイツ軍はまず、地雷に磁石を付ける事を考えた。たったこれだけの工夫で、兵士は自分の命を犠牲にする事なく、敵戦車の車体に簡単に地雷を取り付ける事が出来るようになったのである。
 さらにライフル銃くらいの大きさと重さで一人で持ち運べ、女性や少年でも簡単に操作できる使い捨ての対戦車ロケット砲“パンツァー・ファウスト”を開発して大量に生産した。
 それで自らの命を落とす事なく敵戦車を何両も撃破した兵士が、ドイツ軍の中に大勢出たという。

 しかるに我が日本軍はどうか。
 個人用の簡易式の対戦車ロケット砲どころか、爆薬に磁石を取り付けただけの吸着地雷すら作らず、兵士に自ら爆弾を抱えて戦車のキャタピラに飛び込み爆死する事を命じたのである。
 当時の日本には、地雷にただ磁石を付ける知恵すら無かったのか。
 それとも「兵士の命より磁石の方がモッタイナイ」と思っていたのか。
 そのどちらにしても、あの戦争を指揮した日本軍の上層部は愚かとしか言いようが無い。

 当時は日本国内でも、各学校に配属された将校らが、その学校の生徒である少年たちに、敵戦車に竹槍wwwで突撃する訓練を行なった。
 その軍事教練を受けたある少年が、教官に「竹槍で、本当に戦車を止められるのでしょうか?」と当然の質問をしたところ、彼はその教官に「バカモノ! お前らのはらわたが敵戦車の履帯(キャタピラ)に絡みつき、大和魂が敵戦車を止めるのだ!!」と怒鳴られて叱られたそうである。
 大和魂の籠もったはらわたが、キャタピラに絡みついて敵戦車を止める。だから敵戦車に飛び込んで死ね。
 当時の日本軍を指揮する者はこういう感性でいたのだから、本当に呆れ果てる。

 第二次世界大戦で、ドイツ軍は捕らえたロシア兵を残虐に扱ったが、ロシア兵もまた捕らえたドイツ兵を残虐に扱った。
 ロシアのある戦線で、ドイツ軍の武装親衛隊(武装SS)の兵士らがロシア軍の捕虜になった。
 そのロシア軍の兵士らは、捕らえたドイツ兵の捕虜の手を針金で縛り上げて道路脇に立たせ、走るロシア軍の戦車の前に捕虜のドイツ兵たちを突き飛ばし、戦車に轢き潰させて殺したそうだ。
 そのドイツ兵たちを轢き殺したロシア軍の戦車は止まる事なく走り去ったが、それは「ドイツ軍の親衛隊員には大和魂が無かったから」なのだろうな、例の日本軍の教官に言わせれば。

 特攻と言うと、飛行機で軍艦に体当たりする神風特攻ばかりが注目されるが。
 あちこちの戦線で行われた、上官の命令で敵戦車に爆弾を抱えて(背負って)体当たりさせられた兵士たちもまた、意に添わぬ“特攻”を命じられた者たちのうちに入れるべきであろう。
 待ち構える敵の機銃の前に、喊声を上げて銃剣で突進して行く“バンザイ突撃”もまた、特攻と実質は何ら変わるまい。

 兵士の武器や装備品を作るのにはお金がかかるが、新しい兵士なら召集令状の切手代だけで集められる。だから日本軍では、「兵士は最も安い兵器」とも言われていた
 ゆえに戦場で死ぬことを、日本軍の指揮官らは平気で部下たちに強要した。
 こうした命を軽視する日本軍の体質を非難するどころか、むしろ特攻で「お国の為に」死ぬことを美化するような風潮が今もなお国内に根強く残っている事を、いや、安倍政権と右傾化する世の中で逆に強まっていっている事を、筆者は深く憂慮する

 何しろ安倍政権の大臣サマである稲田朋美氏などは、「国の為に命を投げ出す覚悟があるのが真のエリート」だの、「靖国神社は不戦の誓いをする場所ではなく、ひとたび事あらば後に続きますと誓う場所」だとの公言しているが、それが何の問題にもならないような時代になっているのだ。
 靖国神社で「ひとたび事あらば後に続きます」って、「戦死する」って言ってるわけだよね。国を守る戦いに出て、生きて帰って来るわけではなくて。
 筆者は少なくとも20世紀のうちは自民党を支持し続けてきた保守思想の持ち主だが、安倍政権下で日本が間違いなく保守化しているのを感じる。

 日本軍の特攻は、あのナチスのヒトラーは称えた。しかし部下の将軍たちは、武装SSの将軍も含めて皆が特攻を否定し反対した。
死ねと命じるような事をしたら、兵の志気が下がる」と。
 特攻を命じた日本の将軍や、特攻による死に美を感じる日本人と。
 特攻を否定しそれに反対したナチスの将軍たちや、戦って死ぬのではなく生き抜く事を選んだドイツ人と。
 果たしてどちらの感性の方が“まとも”であろうか。

 筆者は「何が何でも戦争には反対」という、憲法第九条の信奉者ではない。
 もし我が国が敵国の軍隊に侵略されたら、進んで自衛隊に志願こそしないまでも、敵軍が郷土に迫って来たら銃を取って戦うくらいの気持ちは持っている。
 しかし、だ。
 特攻やバンザイ突撃の類は絶対にしたくないし、そう命令されても拒否する。
 もし侵略を受けたら戦って侵略者を撃ち破り、そして生きて帰って来たいのだ。戦闘の際に戦死する可能性は間違いなくあるだろうが、それでも最初から死ぬつもりも、そして靖国神社に祀られるつもりも無いのだ。
 そう考える筆者は、稲田氏の考えによれば“エリート”の資格は無いのであろうな。
 そして日本人の中には、今も特攻を肯定して英雄視し、戦争で死ぬ事を美化する者が(戦争を知らぬ戦後生まれの者の中にも)少なくない。

 少なからぬ日本人が、特攻や死ぬ為の無謀な攻撃で命を落とした兵士を英雄視して美化する反面、イスラム原理主義者の自爆テロについては「理解できない、キチガイじみている」と言う。
 しかし日本人という立場を離れて世界人類の普遍的な観点から見れば、日本軍の特攻もイスラム原理主義者の自爆テロと何ら変わらぬ行為なのだ。
 学徒出陣して戦没した若者らの手記や日記や書簡を収めた『きけわだつみのこえ』や、実際に過酷な戦場で戦った元兵士の戦記なども読んだ上で、叩かれるのも承知であえてそう言う。
 そう考える筆者は、WAC出版の『歴史通』や『WiLL』などの愛読者や安倍政権の閣僚から見れば、間違いなく「自虐史観の非国民で売国で反日」なのだろうな。

 何しろ同胞である日本人に「お国の為だ」と爆弾を抱えて死にに行かせ、そしてそうした死に美を感じるような国民だから。
 戦時には人の命すら軽んずるのだから、動物に対してはもっと非情になる。
 皆さんはご存知だろうか。
 戦時には馬や牛などを戦争の為に供出させただけでなく、ペットの犬や猫まで供出させたのだ。
 供出って、殺すんだよ。「軍用の皮革や、コートの毛皮にする」って名目でね。

 何しろ元々資源の乏しい、他国と仲良くして貿易をしなければ生きて行けない我が国が、中国への侵略戦争に踏み出したわけだから。
 その結果、世界各国から経済制裁を受けて、太平洋戦争を始める前から日本は物資不足に陥っていた。
 で、東京大学出版会の『帝国議会衆議院委員会議録昭和編114』によると、真珠湾攻撃に至る前年の1940年の段階で、不足する食糧や皮革の対策として、軍用犬以外の犬猫の撲殺が提案されている
 撲殺、だぞ。
 それまでそれぞれの家庭で可愛がられてきた犬や猫たちを、「お国の為に」撲殺しようというのだ。
 これが滋賀4区の有権者たちが当選させた、自民党の武藤貴也衆院議員が「現行の憲法の国民主権と平和主義と基本的人権の尊重のせいで無くなってしまった、滅私奉公の美しい精神」があったという、戦前の日本の実態なのである。

 その武藤議員は更に「戦争に行きたくない若者は利己主義」と言い、しかし己は議員枠の未公開株があるなどと知人に持ちかけた事が公になり、世間から「利己主義なのはどっちだ?」と非難されて自民党を離党した。
 しかしそれでもまだ国会議員の座にしがみつこうとしている武藤氏の姿に、部下には死にに行くような無茶なインパール作戦を強要し、そのくせ己は戦線のかなり後方で芸者遊びなどをしていた牟田口廉也中将や、何百人もの部下には特攻を命じながら己は安全な後方に逃げた富永恭次中将などの、かつての日本軍の愚将たちの姿を連想するのは、筆者だけであろうか。

 ここからは、この8月12日の毎日新聞の『銃後のくらし③犬猫供出』の記事を引用するが。
 82歳になる大阪府八尾市の高島誠代さんには、生まれた時から猫のタマが側にいて、良い遊び相手になっていた。
 そして高島さんが成長するにつれてタマは年老い、おばあさん猫になっていつも暖かなかまどの側で寝ているようになったが、それでも高島さんが呼べば「ニャー」と答えた。
 ところが太平洋戦争は始まったもののまだ勝ち戦だった1942年の夏に、当時高島さんが住んでいた岡山県讃甘村(現美作市)の役場から、猫を供出するよう指示された。「氷点下40度にもなるアッツ島を守る兵隊さんのコートの裏毛になる。お国の役に立つめでたいことだ」と。
 高島さんはタマが殺されるなど嫌で可哀想で、何とか隠せないかと母親に懇願した。しかし母親に「お国のお達し。逆らうと憲兵が来る」と言われ、高島さんが近所の神社に隠れて泣いている間に、父親がタマを役場に持って行ってしまった。
 そして高島さんは、戦後70年も経った今もタマのことを思い出し、やりきれない気持ちになるという。

 戦争が長引くにつれ、ペットは「無駄飯食い」と言われるようになったそうだ。
 そして1944年12月17日付の毎日新聞にも『犬すべて供出と献納 皮革は重要な軍用資源に』という見出しで、軍需省が翌年3月まで供出運動の全国展開を決めたと伝えている。
 実際、北海道庁広報には、各自治体や警察署などに向け、飼い犬だけでなく猫の毛皮の供出の割り当てが記載されている。
 そして動物の供出に詳しい児童文学作家で『犬やねこが消えた』(学習研究者)の著者の井上こみちさんによると、「北海道は1944年度に犬皮1万5千枚、猫皮を4万5千枚集めた記録がある」という。

 1944年の北海道だけで、約1万5千頭の犬と4万5千頭の猫が殺されたのだぞ。
 戦争全期間で、日本全国でどれだけの犬と猫が「お国の為に」殺されたのか、想像するだけでゾッとするし、激しい怒りを覚えるのは筆者だけだろうか。

 国策を誤り多くの人を特攻などで死なせただけでなく、何の罪も無い犬や猫まで殺す「お国」などクソくらえ、何が“美しい国”だ、フザケルナ、と筆者は思う。
 こんな筆者を「日本を貶める反日で売国の徒」と呼びたければ呼ぶがいい。どう呼ばれようが、「十死零生」の特攻を美化し、さらには犬猫まで殺すような“愛国者たち”の仲間にだけは、死んでもなりたくないね。

 当時の軍需省は、犬の皮革の用途として航空帽や飛行服や防寒用具などを挙げている。そして事実福岡県嘉麻市の碓井平和記念館には、後ろ身ごろの裾内側の一部に犬の毛皮が使われた兵隊用防寒コートが現存している。
 しかし猫の毛皮を利用したものは、毎日新聞の取材では見つからなかったという。

 犬の皮革は実際に軍用に使われたようだが、それを使った兵士たちは「犬もお国の為に役に立ってくれた」と喜んだだろうか。
 そして犬たちも、「お国の役に立てた」と喜んで殺されただろうか。

 想像してもらいたい。
 ずっと人間の側で可愛がられて暮らし、おばあさん猫になって暖かなかまどの側で寝て晩年を送っていたのが、いきなり家族から引き離されて。
 そして使われた証拠もない毛皮を取るという名目で、「お国の為に」と撲殺される猫の姿を。
 そこまでして戦争を続ける「お国」など、本当にクソだと筆者は思う。

 実際、「お国の為に」と供出させられた犬も、一部は皮革として使われたものの、どうもそうでもない部分もあるようだ。
 栃木県のある男性は、近所の山中で大量の犬の死体を見たと証言している。

 動物と人間の関係史を研究する早稲田大学文学学術院の真辺将之准教授(日本近現代史)は、毎日新聞の取材に「飼い犬や猫の供出は実質的な必要性よりも、人間でさえ生活に困る中で国民の鬱憤のはけ口や、国への貢献度の誇示、忠誠心の引き締めに用いられたのではないか」と語っている。

 物資が不足し食糧も乏しくなる中で、ペットは「無駄飯食い」という声が上がったと言うが、そもそも当時の日本が物資が不足し食糧も乏しくなったのは、日本が戦争を始めたからではないか。
 と言うと、WAC出版の『歴史通』に寄稿するような戦前大好きの右翼たちは、必ず欧米のブロック経済やABCD包囲陣を理由に挙げる。そして安倍首相も、この8月14日に出した戦後70年談話でもそのような事を匂わせている。
 しかしだ、欧米がABCD包囲陣や経済制裁で日本を追い込んだのは、日本が中国に攻め込み侵略したからだ。
 ABCD包囲陣や欧米の経済制裁より日本の侵略の方が先なのは、明らかな事実だ。
 そうした原因を無視して、責任を欧米の経済制裁に転嫁し、あの戦争を「やむを得ない自衛の戦争だった」と主張する人間は己の非を素直に認める勇気の無い卑怯者だと申し上げる。
 国際的な非難を無視して中国での戦線を拡大し、さらには真珠湾攻撃に打って出る前に、外交交渉で一定の国益は守りつつ譲るべきところは譲れば、あの戦争は避けられた筈なのだ。

 だから筆者は「先の戦争で命を落とした日本人の尊い犠牲の上に、今の日本の繁栄が築かれた」いう論調に、非常に抵抗がある。
 あの戦争は日本国全体が避けようと努力すれば避けられた筈だし、兵士や民間人も含めて三百万以上もの日本人が命を落としたのは、当時の日本の指導者が愚かで進むべき道を誤り、そして国民もその指導者や当時のマスコミに導かれるまま戦時色に染まってしまったからだ。
 先の戦争で命を落とした人たちがいるからこそ今の繁栄があるのではなく、当時の我が国の指導者たちが賢明であれば、あの三百万の日本人は死なずに済んだのだ。少なくとも筆者は、そう理解している。

 話を戻そう。
 我が大日本帝国は欧米との交渉の道を選ばすに戦争を進め、そして物資が不足し国民は食べる物にも困るようになった。
 だから「ペットは無駄飯食いだ」って?
 とんでもないよ、当時は食料は配給制で、農家は別として、大部分の国民に与えられる食料は平等だったのだ。
 そして農家も食料があり余っていたわけではなく、作物の多くは供出を命じられ、米に芋や豆などを混ぜてようやく食いつないでいた。筆者の母方の祖父母が農家の出だったから、その当時の苦しい生活の話は直に聞いて知っている。

 で、その配給制に犬や猫の分がある筈も無く、飼い主は自分たちの乏しい食料の中からペットの餌を与えていたのだ。だから「無駄飯食い」だなどと非難される筋合いは無いし、増してや「お国の為に殺せ」などと、とんでもない話である。
 しかし右翼の人達が大好きな愛する“お国”は、その犬や猫まで殺させたのだ。飢えた(ペットを飼っていない)国民の鬱憤を晴らし、さらには国への貢献を誇示させ、忠誠心を引き締める為に

 と言うと、「国だって勝つ為に必死だったのだ、お国の為に命を投げ出した兵隊さんの事を考えれば、犬猫の命など些細なものだ」と反論されるだろう。
 しかしだ、そもそも戦争は人間が勝手に始めた事だろうが。
 たとえそれが侵略戦争であれ、敵国の侵略から祖国を守る正義の戦争であれ、動物には何の関係も無い事だ。
 安倍政権になってから、妙に愛国心の大事さが強調され、教科書にも愛国的な内容が盛り込まれる事になった。
 しかし動物には、国も何も関係ないのである。
 お国のために戦争をしたければ、人間同士が勝手に殺し合えば良いのだ。

 何の罪もない犬猫を殺して、「兵隊さんのコートの裏毛になる。お国の役に立つめでたいことだ」だって?
「フザケルナ、まずオマエがそのお国の為に先に死ねよ、このクズ野郎!」と言いたいね。その方がずっとめでたいし、世の為になる。


「人間が勝手に始めた戦争に、動物を巻き込むな! 殺し合いをしたければ人間だけでやれ!!」と強く主張したい筆者は、やはり反日で売国なのだろうか。
 日本を貶める自虐的な史観と言われようがどう叩かれようが、「お国の為」に飼い犬や飼い猫まで何万匹どころか、おそらく何十万匹も撲殺してまで戦争をしたかつての日本の指導者どもは「クズ野郎だ」と筆者は断言する

 そして安倍首相はその刑死したA級戦犯たちを「昭和殉難者」と称え、「彼らの礎の上に今の日本の繁栄が築かれた」とも言っている。
 そんな安倍首相を以前は過半数の日本人が支持し、今は不支持の割合の方が高くなってきたとは言え、それでも三割を越える日本人が彼を支持している。
 筆者が戦後の日本の総理で最も嫌いなのは安倍首相だが、安倍首相自身よりも彼を支持し続ける日本人がこれほど多い現実の方が、筆者はもっと恐ろしいし、嘆かわしい事だと思っている。

 日本人は空気に流されやすく、右から左へ、そしてまた右へと一気に変わり、そしてその事を「みんなそうだから」と恥じない民族だ。
 だから戦前は「兵隊さんバンザイ!」で「鬼畜米英」で、兵士はイスラム原理主義のテロリスト顔負けの特攻や自爆攻撃もするし、国民もペットの犬や猫まで殺してしまう。それが戦争に負ければ子供は「ギブ・ミー・チョコレート!」で、大人はみんな左翼になってしまう。
 事実、筆者の幼い頃に出版された大事典には「北朝鮮は工業化の進んだ良い国で、韓国は軍事政権の遅れた国だ」と載せられていたし、当時のいわゆる“知識人”の間ではそれが常識だったのだ。

 この極端から極端へ変わりやすい国民性を、筆者はひどく恐れる。
 事実、今世紀に入り小泉純一郎元首相の時代から自民党は清和会に牛耳られ、その国民の大多数が熱狂的に支持した小泉元首相の手で日本が格差社会へと変わった。そしてその過程で落ちこぼれた層は愛国に自らの自信を、そして韓国人と中国人を叩くことに不満の解消を求めるようになり、少なくとも20世紀の後半にはまともに相手にもされなかった、WAC出版の『歴史通』などに見られるような戦前回帰的な論調がまた幅を利かすようになってきた。

 日本人はすぐ空気を読んで、極端から極端に変わるから。
 戦争を始めれば捕虜も残虐に殺すだけでなく、自らも特攻をして死に、ペットの犬や猫さえ「お国の為に」と殺させる。
 そんな時代が再び来る事を、筆者はとても恐れている。
 先の戦争の際に「兵隊さんのコートの裏毛になる。お国の役に立つめでたいことだ」と、多くの犬や猫まで飼い主から取り上げて撲殺した歴史を、我々日本人は決して忘れてはならないと思う。
 一旦戦争を始めればそこまでやるのだよ、日本人という民族は

 ただ犬や猫の供出については、軍需省は全国的に押し進めようとしたものの、それを“真面目”にきちんと実行したかどうかは、その自治体によってかなり温度差があったようだ。
 前にも書いたように、例えば北海道では1944年だけで、犬皮1万5千枚、猫皮を4万5千枚も集めた記録がある。
 しかし筆者の母方の祖父母が住んでいたある県の農村ではそのような命令は全く無く、祖父母の家では戦争中もずっと猫を堂々と飼い続けていたそうだ。
 筆者はそんな母方の祖父母の村を誇りに思いつつ、戦時中の「犬猫供出」の話を終えようと思う。

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思っていた以上に「まとも」だった戦後70年の安倍談話

 国内外から注目されてきた、安倍首相の戦後70年談話がこの8月14日に発表された。
 そしてそれに対する評価も、国内外で二分されている。

 筆者は思想的には保守だが吉田茂元首相の系統を引く自民党の穏健派を支持してきて、同じ自民党でも岸信介元首相の系統の清和会に属する政治家は大嫌いである。
 ついでに言えば、日本会議や神社本庁も大嫌いである。
 従って小泉純一郎政権からの自民党は、どうしても支持する気になれずにいる。
 当然、今の安倍首相も大嫌いで、一日も早い退陣を願っている。だからこのブログでも、安倍政権については散々批判し続けてきた。

 が、14日に発表された安倍首相の戦後70年談話に関しては、概ね正しい事を言っていると肯定的に評価したいと思う。
 日本が進むべき進路を誤り侵略行為をし、アジア諸国にも苦難の道を歩ませた事を、談話の中できちんと述べている。
 安倍首相の本当の政治信条や歴史認識からすれば、本当によく我慢して欧米やアジア諸国に配慮して歩み寄った談話だろうと思う。

 ただ、安倍首相の支持層は保守層でも戦前の日本が大好きで、先の太平洋戦争についても「あれは自衛の戦争で、悪いのはブロック経済で日本を困らせた連合国側なのだ」と正当化したい歴史修正主義者たちだから。
 そして安倍首相自身の心情も、おそらくそれに近いだろうと思われる。
 だから全体的に正しい歴史を語りつつも、何となく言い訳がましい、「日本にだって仕方のない事情があったんだよ」と言いたげな論調になっている。

 例えば日本の引き起こした戦争についても「進むべき進路を誤り」と認めつつも、その日本が孤立感を深めて戦争へと走った理由として欧米のブロック経済を挙げ、談話の後の方でも「経済のブロック化が紛争の芽を育てた」と繰り返したりしていて、ただ素直に「日本が悪かった、ゴメンナサイ」と謝っているようには見えない事は否定できまい。

 また、戦後50年の村山談話と戦後60年の小泉談話では、「歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明する」と、日本の首相が自ら反省とおわびの言葉を口にしているが、安倍首相の談話はまるで違う。
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」と、過去の話を持ち出して、首相自ら謝ろうとはしていないのだ。

 ちょっと想像してみてほしい。
 貴方が何かの事故や犯罪の被害者になったとして、その加害者が「痛切に反省して心からおわびする」ではなく、「これまで何度も反省しておわびしてきただろう」と言ったとしたら。
 それで心から反省して詫びていると、貴方は思えるだろうか。
 この加害者側としての安倍首相の言い方を見ても、「ああ、安倍首相は本当は謝りたくないんだな」とよく理解できる

 そういう意味で、筆者は安倍談話のこの部分が非常に気になった。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を越えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 この感覚、筆者も心情的には理解できないでもないのだ。
 筆者も完全にあの戦争とは何の関わりもない世代だが、韓国や中国の若者たちにかつての日本の戦争と植民地支配を激しい口調で責められると、正直に言ってムッとする。
 かつての戦争や植民地支配の時代を生き抜いてきた中国や韓国のお年寄りに日本に対する恨み言を言われるなら、謙虚な気持ちで聞く事ができる。
 しかし相手が日本の支配を体験した筈もない若者だと、ついこう言ってやりたくなってしまう。
「オレがアンタ個人に、いったい何をしたよ?」

 ただね、我々日本の若い世代だって、「ある国に日本人が酷い目に遭わされた」と聞かされれば、その国に対して怒りや憎しみなどの悪い感情を持つだろう。まるで自分や身内が、その被害に遭ったかのように。
 例えば先の大戦で満州で、中立条約を一方的に破って攻めてきたソ連軍に、現地にいた日本人は一般人まで殺され、持ち物を奪われ、そして女の人達は強姦されたという話を聞けば、殆どの日本人はロシア人に怒りを感じるだろう。
 現に終戦前後の満州にいた日本人の悲劇を描くドラマでは、ソ連兵はいつも無慈悲な悪役だ。
 また、満州で捕虜になった日本兵はシベリアに送られ、極寒の中で何年も酷使されて多くの者が飢えと寒さで命を落とした。この話を聞いても、日本人ならロシアに怒りを感ずる筈だ。

 元寇と言うとかなり昔の話だが、元軍の実態はかなり酷いぞ。
 元軍が九州に上陸する前に、元軍に占領された対馬などでは、男はみな殺され、捕らえられた女は手の平に穴を開けられ縄を通され、船端にくくりつけられたという。
 幸いにも台風という“神風”が元軍を撃退してくれたから良いものの、もし元軍がそのまま上陸を果たして日本を占領していたらと想像するだけでゾッとする。
 だからと言って、日本にいる白鵬などのモンゴル人の関取たちに「過去の侵略と蛮行を謝れ!」と言うつもりはないが。
 それでも元寇の歴史を学べば、過去の事ながらモンゴルに対して腹立ちに似た感情を抱いてしまう。

 元寇は七百年以上も昔の事で、モンゴルと日本は今では友好関係にある。しかしだからと言って、元寇を無かった事にして、日本の歴史から削除するわけには行かないのだ。
 同様に、日本が国策を誤ってアジア諸国を侵略した史実を「無かった事」にして、その国や日本の歴史から削除するわけにも行かないのだ。


 例えば朝鮮(韓国)は、いわゆる36年間の日帝支配で、国そのものが一時期とは言え無くなってしまったのだ。
 それだけではない。日本は豊臣秀吉の時代にも、一方的に朝鮮(韓国)を侵略している。

 皆さんは、耳塚というものの存在を知っているだろうか。
 戦国時代には合戦で敵の首を取ったが、秀吉の朝鮮侵略の際にはいちいち首など取っておれず、戦功の証拠として朝鮮人戦死者の耳や鼻を切り取って持ち帰り、秀吉が確認した後に、京都の方広寺に塚を築き埋葬したものだ。
 しかし日本側の陣中日記などによると、我らが日本軍は朝鮮人の兵士も民間人も関係なく殺してその鼻を削ぎ取ったとされている。

 NHKと言えば、会長や経営委員に安倍首相のお仲間が送り込まれ、今や「皆様のNHK」ならぬ「アベ様のNHK」と化しているが。
 事実ニュース報道にしても、政治や国会に関する事柄では、政権に都合の悪い事は民放が報じてもNHKは報じないか、あるいは遅れて小さく伝えるなどして、現政権側に都合の良い大本営発表のようなものになっている。
 そのNHKがこの8月13日に放送した『NHKスペシャル・女たちの太平洋戦争』で、従軍看護婦として戦地へ赴いた日本の女性たちが、日本軍がアジア各地で何をしたかの一端をはっきり語っていた。
 撤退する際に、道案内をさせた現地の人を、目的地に到着して用済みになった途端に射殺した、とか。
 現地の人達が作った稲や芋などの食料を奪って食べてしまった、とか。

 この8月16日発行の毎日新聞でも、フィリピンの戦線から生きて帰った日本兵たちが、現地で略奪をし女性には乱暴(強姦)したと自ら語った事実が書かれている。

 このような事を、された側は「過去の事だから」と忘れられるものだろうか。
 それは無理だ、と筆者は確信する。
 七百年以上も前の元寇についてだって、元軍がした残虐行為を知れば、同じ日本人として腹が立つのだから。
 ましてや70年前の、被害に遭ったお年寄り達がまだ生きている戦争の事を、水に流して忘れられるわけがない。

 成功しなかった侵略の元寇だって、歴史として教えられ、いくらその後モンゴルとの友好が進んでも史実から消す事はできない。
 だから日本が国策を誤り侵略戦争をした事実は未来永劫消す事は出来ないし、我ら日本人もその事を忘れてはいけないのだ。

 ゆえに安倍首相は談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という一文だけは、言うべきではなかったと筆者は考える。
 安倍首相はその一文に続いて、こうも言っている。

 それでもなお、私たち日本人は、世代を越えて、過去の歴史に真正面から向き合わねばなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。


 そうなのだ。
 筆者も安倍首相も含めて戦後に生まれた日本人は、先の大戦や侵略や植民地支配について何も関与していないし、個人的には何の責任もない。
 しかし日本という国が過去に侵略戦争をして植民地支配をし、現地の人々を苦しめたという事実は、消して歴史から消す事は出来ないのだ。
 だから戦後の世代も日本のその負の歴史を忘れず、侵略された国の痛みを思って謙虚にその国の人々と接しなければならないと筆者は考える。

 戦争などまるでした事もない戦後生まれの日本人が、同じ世代の若い中国人や韓国人や他のアジア諸国の人に、いちいち「過去に侵略戦争をしてスミマセン」と謝らねばならないとは思わない。
 ただ終戦前後にロシア兵が満州の日本人にどれだけ酷い事をしたか聞いた時の我々と同じ気持ちを、彼ら日本に支配された過去を持つアジア諸国の人々も持っているという事を決して忘れてはならないと思う。
 そう考えるのは、例の“自虐史観”というやつなのだろうか?

 実際、今の日本には過去の日本の負の歴史を認めたくないあまりに、あの戦争を「自衛の戦争」だの、「白人の植民地支配からアジアを解放する為の正義の戦い」だのと言い張る歴史修正主義者が多くいる。
 その事実は、書店に行けば『歴史通』だの『Will』だの『正論』だのと言った、日本の過去を美化して黒も白と言い張る論調の雑誌が、平積みで目立つ所に置かれてよく売れている事でもわかる。
 そしてその種の歴史修正主義者たちに強く支持されているのが安倍首相だ。

 その事を考えれば、この8月14日の安倍首相の戦後70年談話は、「あの安倍首相にしては」という条件付きで、曲がりなりにも国策の誤りや侵略や植民地支配にも触れ、思った以上に良い談話だったと評価したい。
 安倍首相にしては、欧米諸国に配慮して、言いたくもない心にもない事を談話に盛り込まざるを得ず、さぞ辛かっただろうと思う。
 欧米への謝罪や感謝に比べて、より多くの被害を与えたアジア諸国、特に中国や韓国に対する謝罪と感謝の言葉が少ないあたりを見ても、本当は謝りたくないのだな……という安倍首相の本心が何となく伝わって来る点も面白かった。
 そして支持基盤である歴史修正主義者の保守層への配慮から、侵略や植民地支配や誤った国策などの言葉も一応盛り込みつつも、欧米の植民地支配やブロック経済などにも触れ、「日本だけが一方的に悪いんじゃないんだよ」とそれとなく匂わせたせいで、村山談話に比べていやに長ったらしい、気持ちがストレートに伝わりにくい談話になっているあたりでも、安倍首相とその周辺の苦心の跡が窺えて面白かった。

 過去の負の歴史は決して消す事ができないものだし、心情的にはわかるが「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という一文だけは、あの戦争の加害者側の日本として言うべきではなかったと思う。
 また、西洋の植民地支配やブロック経済についても、加害者側が言うには言い訳じみていて余計だったと思う。
 しかし全体としては(歴史修正主義者たちは残念だっただろうが)歴史の捉え方に誤りはなかったし、思っていた以上に「まとも」であった。安倍首相の本来の政治信条からすれば、かなり譲歩して苦心して発表した談話であろうと、アンチ安倍の保守派の一人として前向きに評価したい。

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史実をねじ曲げ、持統天皇を美化しまくったNHKと『歴史秘話ヒストリア』の罪

 筆者は幼い頃から歴史が好きで、大学も史学科国史専攻コースに進んだ。
 その筆者から見て胸糞が悪くなるような“歴史”番組が、某国営放送で制作され全国に流された。
 それはこの6月10日放送の『歴史秘話ヒストリア』の、「古代日本・愛のチカラよみがえる持統天皇・幻の都」である。

 まず断っておくが、筆者の思想は基本的に保守である。正確には“保守左派”に属するらしいが、少なくとも小泉政権が誕生する以前はほぼ自民党に投票してきたし、憲法改正にも自衛隊を正式な軍隊(日本国防軍)にすることにも前向きである。
 また、同性愛者を差別するつもりはないが、同性婚には断固反対であるし、婚外子、いわゆる“妾の子”を嫡出子と同等に扱うことは、家族制度の崩壊を招くと思っている。
 さらに言えば、カネ目当ての移民を受け入れることには絶対に反対だし、最近の事で言えば「選挙権年齢を18歳に引き下げるなら、同時に18歳から成人にしなきゃおかしいダロ! 少年法で保護されている未成年者に選挙権を与えるなどフザケルナ!!」と怒っている。
 しかしそれでも、筆者はいわゆる“日本の保守”とは重大に違う転がある。
 そしてそれが、「皇室に対する崇敬の念」の有無である。

 筆者は“保守”を自認しているが、同時に無神論者である。
 と言うより、すぐ近所に住むS学会の会員らの傍若無人かつ唯我独尊な態度を見るにつけ、そして歴史を学び多くの戦争や争乱が宗教によって引き起こされ、神の名において幾多の人の命が奪われてきた事実を知るにつけ、「宗教は害悪だ」という思いが強くなってくる。
 だからこそ筆者は、天照大神を皇祖としている日本の皇室に対して、無条件の崇敬の念を抱けない。

 他国の王室と日本の皇室の間には、決定的な違いがある
 他国の国王や女王は、我らと同じ人間の中の王(女王)に過ぎない。
 しかし日本の皇室は違う。例の「万世一系の」というだけでなく、天孫降臨、天照大神の孫の瓊瓊杵尊に日本を支配させる為に高天原から高千穂に降臨させ、その曾孫の神武天皇が日本の初代の天皇になったという荒唐無稽な神話をもとに、日本の天皇は神の子孫の現人神を自称してきた

 それが文書に現れるのは、例の『歴史秘話ヒストリア』で取り上げられた持統天皇の夫の天武天皇からで、天武天皇は自らを明神(あらみかみ)と称し、そして廷臣らも「大君は神にしませば」とへつらって応じている
 そしてその思想は明治維新後の、文明開化された筈の日本でも国家神道の名のもとにより強制され、天皇を現人神(あらひとがみ)として正気で神として拝むよう、国民は幼い頃から教育勅語等の学校教育で叩き込まれてきたのだ

 敗戦後の1946年に、昭和天皇自ら人間宣言をして、天皇の神格を否定したのだが。それでも「あの宣言は強制されたもので、本意ではなかった」などと主張して、天皇を神のままにしておきたがる者たちが、この日本には少なからずいる。
 それどころか、近年の反知性主義による日本人の右傾化により、神話をありがたがり天皇を神と信じる者らが増えている有り様だ。
 この現状が、無神論者でかつ宗教ギライである筆者には耐え難く不愉快だ。

 皇室を尊ぶ気持ちを持つのはいけない事だ、などと言うつもりは全くないが。
 しかし天皇を我々人間とは違う、神あるいはその子孫と信じる事は、歴史を学ぶ者として絶対に受け入れられない
 何故ならば、歴代の天皇すべてを現人神として崇めることは宗教であって信心と異ならず、もはや事実を基に語る歴史学ではないからだ。

 各国の国王や皇帝の中には、名君もいれば暴君や暗君もいる。それは国王や皇帝とは言え人間なのだから、欠点のある駄目な者もいて当然だからだ。
 ゆえにその王室を尊ぶということと、「歴史上こんな暗君も存在した」という事実を認めることは決して矛盾しない
 しかし「天皇=現人神」となると、話はまた違ってくる。それは天皇を無謬である神とすれば、歴代天皇はすべて神の如く素晴らしい存在でなければならず、天皇に暴君や暗君の存在など決して認められないからだ。

 筆者は歴史を学んできた者として、天皇も一人の人間としてその業績を判断している。
 筆者は思想的には間違いなく保守だが、他の日本の保守系の思想家と違って「皇室に対する無条件の崇拝の念」など欠片も持ち合わせていない。だからただその天皇の言動を冷静かつ客観的に眺めて、尊敬できる立派な指導者か、暗君や暴君の類であるかを、己の頭で判断するだけである。
 そして天皇を同じ人間の、一人の支配者として見てみると、いろいろな人物がいる事がわかってくる。

 例えば名君と言われがちな天智天皇だが、実は殺された蘇我入鹿の方が開明的な思想の知的な人物で、例の大化の改新とやらも、当時最も皇位に近かった古人大兄皇子を押しのけて自分が天皇になるために企てたものだ。
 蘇我入鹿を殺すにあたり、天智天皇(正確には当時はまだ中大兄皇子だが、混乱を防ぐ為呼び方は天智天皇に統一)はまず蘇我の一族で、入鹿が蘇我氏を継いだ事に不満を持つ蘇我倉山田石川麻呂の娘を娶って味方につけた。
 しかし入鹿を殺した後で、天智天皇は倉山田石川麻呂に謀反の濡れ衣を着せ、妻の父でもある倉山田石川麻呂を死に追いやった。
 気に入らぬ者や、政敵になりそうな者に謀反の汚名を着せて殺すのは天智天皇の常套手段で、ほぼ同じ方法で天智天皇は古人大兄皇子と有間皇子も殺している。
 そのあたりを見ても、天智天皇は野心家で権力欲が強く、陰険で冷酷な人間であるとわかってくる。

 さらに日本が百済に肩入れして、白村江で新羅と唐の連合軍に大敗したのも、天智天皇の周辺に百済系の人間が多かったからである。天智天皇に殺された蘇我入鹿はそのあたりの国際情勢に天智天皇より詳しく、百済一辺倒でなく新羅とも等距離外交を行おうとしていた。
 だから白村江での日本の大敗は、天智天皇の判断ミスとも言える。
 そしてその結果、唐の侵攻を防ぐ為に九州に防人を置き、九州から畿内に至る各地に築城をせざるを得なくなった。その防人や築城の負担を負ったのは天智天皇自身ではなく人民だ。
 防人として遠く九州まで送られた人民の苦しみは、今にも伝わっているが、そもそもの原因は天智天皇の国際情勢に関する無知により、唐という大国を相手に無謀な戦争をしかけたからである。

 この天智天皇だけではない。考謙(称徳)天皇の陰険さと愚かさには呆れるばかりだし、平安京を造った桓武天皇も、我が子を皇位に就ける為に、実の弟で皇太子の早良親王に無実の罪を着せて死に追いやっている。
 また、桓武天皇が度々蝦夷の地に大軍を送り征討を繰り返したのも、征服された蝦夷の人々や、兵として戦に駆り立てられた当時の人々にとっては「良いこと」とはとても言えまい。

 時代はずっと下るが、後醍醐天皇もまた酷かった。まだ幼い兄の弟の代わりに立てられた、言わばつなぎの代理の天皇でありながら、持明院統と大覚寺統の両統迭立の約束を反故にし、さらに己が属する大覚寺統の本家も無視して天皇の地位と財産を独占し我が子に譲ろうとして、あの南北朝の争乱を引き起こした。
 鎌倉幕府の悲惨な滅亡と、その後の長きに渡った南北朝の動乱は、後醍醐天皇一人の私欲によるものと言っても大袈裟ではないと筆者は考えている。
 後白河法皇や後鳥羽上皇など、野心家で権力欲の強い策謀家の天皇は他にもいるが、この後醍醐天皇ほど野心家で我欲の強い天皇は珍しい。

 また、名前はあえて出さぬが現在の観点では精神科および心療内科の治療が明らかに必要だった天皇も、平安時代だけで複数存在した。
 もっと昔の古代に遡れば、何の罪もない人を木の上に追い立てて弓で射殺したり、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出したりなどして楽しんでいた残虐な天皇もいた。

 無論、歴代の天皇がその種の野心的で我欲に満ちた暴君や暗君ばかりだったと言うつもりはない。筆者は昭和天皇や今上天皇は人格高潔な名君と尊敬しているし、過去の天皇で言えば嵯峨天皇、それに花園天皇光厳天皇なども立派な方であったと敬意の念を抱いている。
 しかし天皇はあくまでも人間であり、良い面だけでなく弱い部分や暗い部分もまた持っていて当たり前なのだ。特に国の主権者として強い権限を持っていた時代の天皇は、政治的な争いに巻き込まれたり、あるいは自らその争いを引き起こしたりしがちであった。

 天皇を普通の人間とは違う神聖犯すべからざる高貴な存在と見なし、「歴代の天皇すべてが立派な方であった」と考えるのは、事実を基にした史学という学問ではなく、天皇教とでも言うべき宗教と断じざるを得ない。
 そして日本の保守層に圧倒的に多いその天皇教の信者たちの圧力によって、歴代の天皇に関する史実すべてが美化され、神話によって歴史が書き換えられようとしかけている現状を、歴史を学んできた者の一人として筆者は深く憂う。

 昭和天皇は人間宣言をしたが、天照大神は今も皇祖神とされ、それが祀られているのが伊勢神宮である。人間宣言をしつつ、しかし神を今もなお皇室の祖先としているところに、皇室だけでなく殆どの国民も矛盾を感じていない現状が筆者には不思議でならない。
 そして安倍首相は、サミットの開催地にその伊勢神宮がある伊勢志摩を選んだ。
 安倍首相はサミットに来た諸外国の要人にも、伊勢神宮を参拝してほしいと望んでいたが。それは取りも直さず「天皇の祖先を神として拝んでほしい」という事だ。諸外国の要人たちには、安倍首相に誘われるままうかつに参拝する前に、天皇家の氏神を祀っている伊勢神宮の本質に気付いてほしいと思う。
 しかし当の日本人の殆ども、何の疑問も持たずに嬉々としてその伊勢神宮に参拝している。
 天皇を天照大神の子孫の現人神と信じる“天皇教”は、我が日本人の心の中に今もなお根深く生き続けているのだ。

 その意味でも、6月10日に放送された『歴史秘話ヒストリア』の「古代日本・愛のチカラよみがえる持統天皇・幻の都」は本当に酷かった。
 これでも少しは歴史を学んできた筆者の知識の範囲内では、天武天皇は兄の天智天皇がその子の大友皇子(弘文天皇)に譲った天皇の位を、兵を起こし甥の大友皇子を自死に追いやり、武力で己がものにした野心家だ。
 そして自らを「明神・あらみかみ」と称した、史上初の天皇でもある。

 件の『歴史秘話ヒストリア』では、天武天皇が「正しい歴史を編纂させた」と放送していたが。
 事実天武天皇は、『旧辞』や『帝記』などの古い資料を調べ「偽りを削り実を定め」て『古事記』や『日本書紀』を編纂するよう命じたと記録されている。
 しかし「歴史は勝者によって書かれる」と言われる通り、『古事記』や『日本書紀』は実際には「偽りを加え実を削って」天武天皇の都合の良いように、天武王朝を正当化するように書かれている事は、当時の歴史を学んだ者の間では通説となっている。
 それを無視して、強制的に徴収している受信料で成り立っている「みなさまのNHK」は、天武天皇が正しい歴史を編纂させたと放送した。

 その天武天皇が甥の大友皇子から帝位を奪った壬申の乱で勝てたのは、天武天皇側が大友皇子の近江朝廷側より早く動き、より多くの兵を動員できたからだ。
 その頃は天智天皇の大化の改新により中央集権化が進み、一方で利権を奪われた地方豪族らは朝廷に対し不満を高めていた。そして天武天皇は、その地方豪族らの支持を得たのだ。
 にもかかわらずその事実を無視して、『歴史秘話ヒストリア』では「伊勢神宮に参拝したところ、妻の持統天皇に天照大神が乗り移りwww、天武天皇側について勝たせると言ったから、皆が味方して勝ったのだwww」などという文字通り神懸かりの戯言を、正気で“歴史”として放送するなどの、公共放送として全く呆れ果てた行為をしてのけた

 その持統天皇とは、いったいどんな人物であったのか。
 まず、持統天皇の夫の天武天皇が、皇位を兄(天智天皇)の息子の大友皇子から武力で奪った事実を覚えておいていただきたい。
 この時代には跡継ぎにはそれなりの能力と経験が求められ、天皇家も含めて直系の子や孫にではなく、弟や甥にその地位が譲られる事が多かった。
 だから壬申の乱の時も、跡継ぎに指名された息子でまだ若い大友皇子以上に、弟で能力も確かな天武天皇に支持が集まったのだ。
 その理屈で言えば、天武天皇の後を継ぐのも別に実子でなくとも良い筈なのだ。

 しかし持統天皇は甥たちなど他の皇族ではなく、何としてでも我が子の草壁皇子を天皇にしたかった
 その最大の障害になったのが、同じ天武天皇の息子の大津皇子であった。
 天武天皇の后の持統天皇は天智天皇の娘で、叔父と姪の関係にあった。今では許されない事だが、当時は叔父と姪との結婚はタブーではなく、そう珍しい事ではなかった。
 実は大津皇子の母も天智天皇の娘の太田皇女で、持統天皇と太田皇女は同じ母(蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘)から生まれた姉妹でもあった。
 だから大津皇子と持統天皇の息子の草壁皇子はほぼ同格で、天皇の地位に就く資格は十分にあった。

 その大津皇子は『懐風藻』にも「姿は男らしく、大人物の器で、学問がよく出来る上に武術にも秀でている」と書かれている。さらに『日本書紀』にも「幼い頃から立派で言葉もはっきりしていて祖父の天智天皇に愛され、大人になっても雄弁で才学があり、特に文学がよく出来た」と書かれている。
 また、前出の『懐風藻』にはさらに「規則にこだわらず、気さくに人と付き合い人気があった」とも書かれている。
 それに対し、草壁皇子についての記録は殆ど残っていない。と言う事は、悪い評判は無いものの、特に取り立てて良いところもない凡庸な人物だったと思われる。
 それで持統天皇は大津皇子を常に警戒し、密偵を放って「大津皇子が誰と寝た」というようなプライベートな事まで事細かに調べ上げていた。

 ただそれだけでなく、同時に何かあればすぐに大津皇子を陥れられるよう、大津皇子の身辺に罠を張り巡らせていたのだろう。
 その証拠に、天武天皇が亡くなって一月も経たぬうちに大津皇子は謀反の疑いで捕らえられ、翌日には殺されている
 不思議なことに、謀反の一味として大津皇子の他に三十余人が捕らえられているのだが。彼らの殆どがすぐに赦免され、早いうちに政界に復帰し持統天皇の朝廷で働いている。
 これをどう見るべきであろうか。
「持統天皇って寛大なんだな」と素直に感心する人がいるとしたら、余りに単純すぎるだろう。

 大津皇子はろくに取り調べもせずに翌日に殺し、他の者はみな許す。
 これは「陰謀の一味」とされた者たちは殆どみな持統天皇の手先で、この謀反の件も持統天皇による濡れ衣と解釈するのが自然であろうと筆者は思う。

 古代の日本は一夫多妻制だったから、兄弟姉妹とは言え異母兄弟(姉妹)も少なくない。そして同じ母から生まれ同じ家で育った同母の兄弟姉妹には親しみは持つものの、異母兄弟(姉妹)とは他人と言うよりライバルに近い関係にあるものだ。
 しかし大津皇子の母の太田皇女と持統天皇は、前にも書いた通り同じ母から生まれた姉妹なのである。
 そして大津皇子は、その姉妹が産んだ持統天皇の実の甥なのである。
 だが持統天皇は我が子を確実に天皇にする為に、同腹の姉妹の息子である大津皇子を罠にかけ、謀反の汚名を着せて殺した
 持統天皇とは、そういう人なのである。

 しかし持統天皇がそこまでして天皇にさせようとした草壁皇子だが、彼は天皇の地位に就くこと無く28歳で急死してしまった。
 ただ凡庸で記録に残るような才が無かっただけでなく、体もあまり強くなかったのではあるまいか。
 それで持統天皇は自ら天皇に即位して、草壁皇子の遺児で孫にあたる幼い軽皇子が成長して天皇の地位に就けるようになるまで、老いてもなお天皇の地位にしがみつき続けるのである。

 以前にも触れたが、この時代は跡目は兄弟や叔父甥の間で相続されるのが普通で、子から孫へと直系で相続される事の方が少なくなかった。
 まだその能力の無い幼い子や孫ではなく、きちんと政務を取れる能力のある弟なり甥なりの大人が継ぐのが、当時の相続の常識だったのだ。
 そして天武天皇や草壁皇子の死後にも、高市皇子や川島皇子や忍壁皇子や穂積皇子や長皇子や弓削皇子などの適任者は皇族に何人もいた。
 しかし持統天皇は、あえて我が孫の軽皇子(文武天皇)にその位を譲ったのである。
 このあたりの持統天皇の権力に対する執着には、凄いものを感じる。まあ、「我が子や孫可愛さの一念」なのだろうが、だからと言ってその為に我が子より能力があり人望もある、同じ腹から生まれた実の姉妹の息子を陥れて殺す行為を正当化する事は出来ないと筆者は考える。

 しかし例の『歴史秘話ヒストリア』では、持統天皇のそうした暗い面には全く触れず、「彼女に天照大神が乗り移ったおかげで壬申の乱の戦に勝てました」とか、「正しい歴史を編纂させました」とか、「日本の基礎を作りました」とか、おべんちゃらもいい加減にしろと言いたくなるほど持ち上げていた。
 これでも少しは歴史を学んできた筆者の印象では、持統天皇は中国の漢の呂后に似ていて、野心家で権力欲が強く、我が子の為にはとことん冷酷になれる悪女である。
 ただ同じ女帝でも、考謙(称徳)天皇と違って為政者としての能力もあった事は認めねばならない。しかし大津皇子への仕打ちや、何としても我が子や孫を皇位に就けようと権力へ執着する姿を見れば、人として尊敬することは、筆者には到底出来ない。

 その持統天皇を、『天上の虹』のようなフィクションのマンガを基にして徹底的に美化した番組を“歴史”として恥ずかしげも無く放送したNHKに、筆者は大きな失望と怒りを感じた。
 天皇ならば、放送するにふさわしい立派な天皇がもっと他にいるだろうに。
 日本の呂后にも例えられる野心家で非情な持統天皇を取り上げ、しかも都合の悪い部分は覆い隠して徹底的に美化し、神懸かりの神話的な要素まで持ち込んで放送するとは、心の底から呆れ果ててしまった。

 それにしても、天皇の地位に就くというのは大変な事だと改めて思わされた。
 何しろ権力者の周囲には、主君の意を汲みおべっかを使って取り入ろうとする佞臣の類がうじゃうじゃいるのだから。
「あの者は気に入らぬ、どうにかならぬものかの」
 何気なくただそう呟いただけで、その相手をそっと暗殺したり、謀反の罪をデッチ上げたりしてくれる“気の利いた家来たち”がいるからね。
 そして日本の天皇は「天照大神の子孫」と教え込まれて、自分を「現人神」と信じているわけで。
 それで「人の命でも何でも朕の思いのままじゃ」と思い込まない方がおかしいかも知れない。

 想像してごらん。贅沢はし放題だし、好みの女性だって人の命だって思いのままに出来るんだよ。
 だから天皇になれば我が儘勝手に振る舞い、何でも思い通りにしようとするのがむしろ普通で、そうした我欲は自制して下の者には威張らず佞臣は近付けず、国と民を思って働く天皇は、本当に尊敬に値する出来た人物なのだろうと、持統天皇のした事などを考えてつくづく思う。

 今の日本では、昭和天皇に今上天皇と、二代続いて尊敬に値する立派な名君が出ているけれど。
 だがそれが天皇の当たり前の姿なのではなくて、昭和天皇や今上天皇は特別によくできたお方なのだ。
 歴史を学び、過去の歴代の天皇の行状を調べてみると、その事がよくわかってくる。そして今の天皇のお姿を過去の天皇にも重ねて、「天皇とは皆あのような立派な方々だったのだ」と誤解するのは、実に危険な事だと筆者は言いたい。

 歴史は都合の悪い暗部まで含めた事実から判断するもので、天皇を神の如く崇める宗教とは違うのだ。
 にもかかわらずNHKは、持統天皇の暗い部分にあえて目を閉ざし神の如く持ち上げまくって、『歴史秘話ヒストリア』を天皇教の『神話秘話フィクション』にしてしまった
 強制徴収している受信料から成り立っている公共放送で、歴史をねじ曲げ神話もどきの与太話とこき混ぜた番組を制作した皆さまのNHKの、その罪は重いと筆者は思う。

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日本を「貶める」って?

 前提としてまず言っておこう。
 黒沢自身は憲法第九条には否定的な改憲論者で、「自衛隊も正式に日本国防軍にするべき」と思っている。
 さらに根っからの反共主義者で、学生運動も全共闘も大嫌いで、思想的には間違いなく保守だし、学生時代には級友からずっと「コチコチの右翼」と言われてきた。
 だが黒沢は「例え自分に都合の悪いことでも事実は事実としてきちんと認め、黒を白と言い張るようなことはすべきでない」と強く思っている。
 だから黒沢は、「日中戦争も太平洋戦争も間違いなく日本の侵略戦争で、非は日本にあり、アジアの国々に多大な被害と迷惑をかけた」と認識している。

 例えば殺人なり強盗なり強姦なり、何か悪い事をした人がいるとする。
 その人にまず必要なのは「自分のした事はちゃんと認め、そして反省すること」であろう。
 にもかかわらず「俺はやってない、俺は絶対悪くない!」とあくまでも言い張って。そして明白な証拠を突き付けられると「オマエは俺を貶める気か!」と逆ギレしたとしたら、「何と図々しい、大バカ野郎だ」と呆れられ、皆から憎まれても仕方あるまい

 ところがそうした被害者の感情を逆撫でする「心底図々しく、大バカ」な発言を声高にして恥じない者たちが、この日本には大勢いるのだ。

 第二次世界大戦で、我が日本がアジアの国々に侵略し、各国に多大な被害を与えてきたことは、紛れもない事実だ。
 ところがこの日本には、その事実を頑として認めない“保守”で右翼の人々がいる。その種の人々は、かつて日本がした負のことを言うと「オマエは日本を貶める非国民だ!」と怒り出すのである。

 その種の、日本軍の残虐行為について話すのは「日本を貶める行為だ」と主張する人達に言いたい。
 その理屈で言えば、人殺しに「人殺し」、強盗に「強盗」と言う事は、その犯罪者を「貶める」ことになる筈だ。
 犯した悪い事をありのままに述べるのが、何故「貶めること」になるのだろうか。そこのところが、黒沢にはまるで理解できない。
 例の「犯した悪い事を言うのは、貶める行為だ」という理屈で言えば、裁判は公正な裁きではなく「被告人を貶める、不当な糾弾大会」という事になるではないか。

 その「日本軍の残虐行為を認めるのは、日本を貶めることだ!」と力説する人々は、決まってこうも言う。
「日本が過去に悪い事をしたと聞かされたら、若い世代が国に誇りを持てなくなる」

 だからその種の人達は、大日本帝国の侵略行為とアジア諸国に与えた被害について、教科書から削除させようと必死だ。

 例の、過去の日本軍の残虐行為に触れると「日本を貶めるな!」と怒り出す人達に言わせれば、「自国が過去に悪い事をしたと認めたら、国に誇りを持てなくなる」そうなのである
 あんたバカぁ!?
『エヴァンゲリオン』のアスカではないが、その種の論理を聞くと、大声でそう叫びたくなってしまう黒沢だ。

 繰り返すが、過去に悪い事をした人が立ち直るには、まず自分のやった事はきちんと認め、そして心から反省する以外に道はなかろう。
 もし過去の己の悪行を一切否定して、「俺が悪かったなどと認めたら、俺は自分に誇りを持てなくなるから反省しない」などと言ったら、「どんな太々しい外道だよ!」とフルボッコされて当然であろう。

 だが過去の日本軍が犯した残虐行為を認める人を「日本を貶める非国民め!」と非難して恥じない人達は、今もこう主張し続けているのだ、「日本が過去に悪い事をしたと聞かされると、国に誇りを持てなくなる」と。
 ……その種の人達は、どうやら人としてちゃんと立ち直る道を知らず、日本という国もきちっと見直して立て直す気がないらしい

 と言うより、彼らは現人神である天皇陛下を頂点とする、かつての大日本帝国の復活を願っているのだろう。

 そしてその種の「戦争を起こした日本はワルクナイ」と言い張る人達は、「あの戦争は、大義ある戦いだったのだ」とも言い張る。「八紘一宇の理想のもとに、日本はアジアを植民地状態から解放する為に戦ったのだ」と
 とんでもない欺瞞だ。
 日本は欧米に取って代わって植民地化する為に出兵したのであって、決してアジア諸国を対等な国として独立させるつもりなど無かった。その証拠に、進出した各地で日本は現地の人々を軍事力で支配し、日本語教育と天皇崇拝を強制し、日本の戦争遂行に必要な物資を大量に収奪したではないか。
 あの日本軍に支配されていた時代を「良かった」と言っているアジアの国があるとしたら、ぜひ黒沢に教えてほしいものだ。黒沢の知る限り、日本軍に占領されたアジアの国々はどこも、日本軍に弾圧され物資を収奪されて苦しんでいた筈だ。

 確かに「日本の一部」として併合した韓国(朝鮮)に対しては、日本はかなりの額を投じてインフラ整備をした。そのことにより、ソウルやピョンヤンなどが近代都市に様変わりしたことも事実であろう。
 ただそうした投資が果たして現地の韓国(朝鮮)の人々に対する“善意”か、それとも日本の利益の為であるかはまた議論の余地があると思うが。

 太平洋戦争後、確かにインドネシアやインドなどの国々が独立し、ベトナムなどの独立運動も盛り上がった。
 しかしアジア諸国が植民地状態から解放されたのは、ただ第二次世界大戦の結果、宗主国の力が落ちたからに過ぎない
 建前でなく実態で見る限り、日本は決してアジア諸国の民族自立や自主独立など許さなかった。太平洋戦争を美化する右翼の論者らが「日本のおかげで独立できた」と称する東南アジアを含む、すべての占領地域で皇民化政策をとり、皇国の臣民であることを誓わせ、日本語の使用や神社の参拝などを強制したのが良い証拠である。

 そもそもアジアを占領した名目の八紘一宇という言葉の意味は「天下を一軒の家のように統一すること」だが、その統一した天下を治めるのは天皇と日本ということになっていた。
 だから日本軍は占領した各地で皇民化政策をとり、天皇を崇拝させ日本語を強制し、さらに戦争遂行の為の物資を収奪して現地の経済を破綻させたのだ。この実態からあえて目をそむけて「日本は欧米の植民地状態から解放する為に戦ったのだ」と胸を張れるとしたら、厚顔無恥の極みとしか言えない

 あの太平洋戦争は、現実には「欧米に取って代わって、日本がアジアを植民地化する為の戦い」だったのだ。
 だがその欧米との戦いの結果、ただ日本が敗れただけでなく宗主国も疲弊して、その結果として民族自立の運動が盛り上がり、アジア諸国が独立に至ったに過ぎない。
 日本の軍事侵攻の建前と実態、日本軍のアジア占領の動機とその結果を混同してはならない

 アジア諸国は第二次世界大戦の「結果として」、各国が自力で独立を果たしたのであって、日本が太平洋戦争を仕掛けたおかげで独立させて貰ったのではない
 しかし頭のおかしな右翼の中には、「日本はアジア諸国の独立の為に大義ある戦いをして、おかげでアジア各国は欧米から独立できたのだ」と強弁し続けている者が、今も少なからず存在するのだ。

 驚くべきことだが。
 その「アジアを欧米から解放する」という建前のみを言い立てて、「あの戦争には大義があった、だから日本はワルクナイ」と主張するのは、実際の戦場にはただの一度も出たことのない士官候補生くずれの中條高徳氏などの、かつての大日本帝国に郷愁を持つ爺さんだけではないのだ。
 例えば『だから、日本人は「戦争」を選んだ』を書いた、1983年生まれで秀明大学講師の岩田温氏のような若手の“学者”ですら、「あの戦争には大義があった、だから日本はワルクナイ」と大真面目に主張している。

 大義、大義と言うが、物事には綺麗事の建前と、表に出せないドロドロした本音や現実の両面があることくらい、大人なら誰しもわかっている筈だ。
 そして大義というのは、明らかに前者の「綺麗事の建前」に属する。
 その証拠に、戦争をする国はどちら側もそれぞれの“大義”を振りかざしているもので、大義を持たない国などどこにも無いのが現実なのだ。

 大義は、何も日本にだけあったわけではない。アメリカや英国にも当然あったし、あのナチスドイツにすら大義はあったのだ(世界共産主義革命と戦う、という)。
 大義など北朝鮮やイランやシリアにもあるし、スターリンや毛沢東やポル・ポトなどの独裁者にもあったし、イスラム原理主義のテロ組織にすらあるのだ。
 さらに言えばワ○ミなどのブラック企業も社訓だけは立派で、何の大義もなく「俺たちゃ殺人、略奪、何でもし放題の悪の組織だぜ」と威張っているのは、山賊や海賊くらいのものである。

 だから物事を判断する時、その綺麗事の建前でしかない大義など見ていては、真実など何もわからないのだ。
 例の「太平洋戦争は、アジア諸国を欧米から解放する為の戦いであったかどうか」という問題も、建前の大義ではなく、「日本軍が現実にどう行動したか」という事実のみで判断しなければ、本当の事は何もわからないのだ。
 あの戦争で日本軍が掲げた大義だけ見て、「だから日本はワルクナイ」と主張している岩田氏らなどの類は、ワ○ミの社訓だけ読んで「うん、ワ○ミはすごく良い会社だね!」と感動しているのと同レベルの幼稚さである。

 いや、『だから、日本人は「戦争」を選んだ』で展開されている論理を読むと、岩田氏は幼稚というより狡猾と言えるかも知れない。
 と言うのは、岩田氏はナチスドイツにも彼らなりに“大義”があった事実はあえて無視し、ナチスが犯した残虐行為だけを見て「日本はナチスとはまるで違う」と言うのである。そして「ナチスの非は言い訳できないが、大義があるから日本はワルクナイ」と主張するのである。
 そして日本軍が残虐行為を犯した事も認めつつも、岩田氏によればそれは出先の一部の軍人による行き過ぎで、掲げた大義に比べれば些細なことであるらしい。

 岩田氏はナチスドイツに対しては彼らの“大義”を無視して負の実態のみ見て、我が日本に対しては負の実態からあえて目をそむけ、掲げた建前の美しい大義だけでその善悪を論じているのである
『だから、日本人は「戦争」を選んだ』における岩田氏の主張は明らかにフェアではないし、論理も我田引水に過ぎて破綻していると言わざるを得ない。

 ナチスドイツに触れたついでに、ぜひ言いたいことがある。
 例の過去の日本軍の残虐行為に触れると「日本を貶めるな!」と怒り出す人達は、異口同音に「自国が過去に悪い事をしたと認めたら、国に誇りを持てなくなる」と言うが。
 その種の人達に聞くが、ではナチス時代の自国の非を認め、ちゃんと反省して繰り返し謝罪しているドイツ人は自国に誇りを持てず、ドイツは駄目な国になっているだろうか
 否、自国の過去の非を認めて反省し、謝罪を繰り返しても、ドイツは間違いなく立派な国ではないか。そしてドイツ人はその事で誇りを持てなくなったわけでもないし、愛国心を無くしてしまっているわけでもない

 日本の過去の非について語ると「日本を貶めるな!」と怒る人達は、その「ドイツとドイツ人に出来た事が、日本と日本人には出来ない」と主張しているも同然である。
「日本人は過去の非を認めて反省すると、国に誇りを持てなくなって愛国心をなくす」と、彼らは大真面目に言うのである。

 では過去に罪を犯した者は、己の非を認めて反省すると、自分に誇りを持てない駄目な人間になるのだろうか?
 否、立ち直りに最も必要なことは、まず己の非を認め、真摯に反省することであろう。
 国家の場合もそれと同じで、過去に過ちを犯した国にまず必要なのは、率直にその非を認めて反省することではないのか。

 ところが一部の保守系の論者たちは、それをすると「誇りを失って立ち直れなくなるから、非は決して認めないし、反省などしてはいけない」と言うのである。
 つまり彼らにとっては、「非を認めず反省しないのが愛国心で、日本人としての誇りを保つ道」なのである。
 そうした己の非を決して認めない頑なな態度は、決して誇り高き振る舞いなどではない。周囲の者たちにはただ「面の皮の厚い恥知らず」にしか見られないと思うが、どうだろうか。

 歴史作家の司馬遼太郎氏が、生前にこう語っていた。「日本は太平洋戦争で、周辺の国々に大変な迷惑をかけた。だから少しでもものを考える人は、アジア諸国に後ろめたい気持ちを持たざるを得ない」と。
 例の、かつて日本軍が犯した過ちを言うと「オマエは日本を貶める非国民だ!」と怒り出し、「あの戦争は大義ある戦いだから日本はワルクナイ」と強弁する人達は、その司馬遼太郎氏の言う「後ろめたい気持ち」を持ちたくなくて必死なのだろう。
 そしてその結果「日本が過去に悪い事をしたと認めたら、国に誇りを持てなくなる」と心を閉ざし現実から目をそらして、「ものを考えない人」になり下がっているのだ。

 最後に、民族派団体一水会顧問である鈴木邦夫氏の言葉を紹介しよう。
歴史をゆがめ自国は悪くないと言い張るのは愛国者でなく、単なる拝外主義者だ
 鈴木邦夫氏は政治的に言えば間違いなく右翼であるが、あの戦争について「日本はワルクナイ!」と言い張り、日本の過去の過ちを語ると「サヨクの自虐史観の非国民め!」と怒る“右翼で保守”の人達は、この鈴木氏の言葉をどう聞くであろうか

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「自衛の為の戦争」って、何だ?

 第二次世界大戦で日本が戦争を仕掛けた事について、「あれは自衛の為の戦いで、仕方なかったのだ」と力説する人達がいる。
 それも巷のネトウヨばかりでなく、各界に影響力のある著名な人々が「アメリカと英国と中国とオランダが、ABCD包囲陣で日本を経済封鎖したから、自衛の為に戦争をしたのだ」と主張している
 例えば元アサヒビール副社長で保守系政治団体日本会議代表委員の中條高徳氏や、あの渡部昇一氏などもその代表的な論者だし、かの靖国神社も同様の見地で刑死したA級戦犯を戦死者と一緒に祀っている。

 黒沢には、どうにも理解できないのだが。
 経済封鎖をされたら自ら戦争に打って出るのが、どうして「止むを得ざる、自衛の為の戦い」になるのだろうか
 黒沢の常識では、「自衛の為の戦い」とは自国が武力で攻撃を受けた場合に、武力をもって反撃する戦いのみだと思うが。
 仮に他国から敵対的な行動を受けたとしても、経済的な行為には経済的な行為で、軍事的な行為には同じく軍事的な行為で反撃する。これが当たり前ではないか。経済制裁に武力侵攻をもって反撃するのは、どう考えても「自衛の為の戦い」の範囲を逸脱していると黒沢は考える。

 ところが元陸軍士官学校の生徒であった中條高徳氏らの見地よれば、日本が経済封鎖に武力で応じたのも「止むを得ざる、自衛の為の戦い」であると言うのである。
 つまり「戦争を仕掛けた国より、経済制裁をした国の方が悪い」という理屈である。

 よく口論から殴り合いの喧嘩になる事があるが、その場合も「何を言われたにしろ、先に手を出した方が悪い」というのが原則であろう。
 戦争もそれと同じだ。経済封鎖をされたにしろ何にしろ、先に武力を行使して攻め込んだ方が悪く、その軍事行動は侵略行為と見なされるのが世界の常識ではないか。
 ところが士官学校で学ばれた中條高徳氏には、その簡単な理屈もおわかりにならないようである。

 経済封鎖は“平和的な”とまでは言わないが、武力によらない有効で正当な外交的圧力の一つである。だから現に、今も北朝鮮とイランは経済封鎖をされ、預金凍結などの経済制裁も受けている
 そしてウクライナで多数のオランダ人などを乗せたマレーシアの民間機が、親ロシアの過激派に撃墜されたと見られる事件でも、欧州などはロシアに経済制裁を行っている

 日本が太平洋戦争に打って出た時、実際に日本と戦争状態にあった中国は別として、アメリカもイギリスもオランダも、我が国に対して一発の銃弾も撃ってなかったのである。
 にもかかわらず日本は宣戦布告もなしにアメリカの真珠湾を奇襲し、さらにイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを撃沈してマレーに進撃し、オランダ領であったインドネシアにも軍を進めた。
 これを「自衛の戦い」となぜ強弁できるのか、黒沢にはまるで理解できない

 中條高徳氏や渡部昇一氏や靖国神社が主張するように、あの太平洋戦争が「経済封鎖をされたから止むを得ずした、自衛の戦い」なのだとすれば、「戦争を仕掛けるより、経済封鎖や経済制裁をする方が悪い」という理屈になる
 そして経済封鎖や経済制裁を受けた国は、それに武力で応じ相手国に軍事侵攻しても、「止むを得ざる自衛の戦いである」と正当化できることになってしまうのだ

 現実問題で考えてみよう。今、現実にこの世界でも北朝鮮やイランが経済封鎖や経済制裁をされ、苦しい状況に陥っている。
 そして北朝鮮への経済封鎖には、この日本も加わっている。
 で、中條高徳氏や渡部昇一氏や靖国神社などの論理や史観に従えば、仮に北朝鮮が日本を含む経済封鎖をしている国に戦争を仕掛けたとしても、それは「けしからぬ侵略戦争」ではなく「やむを得ぬ自衛の戦い」で、「戦争になったのは、経済封鎖をした日本などの国々のせい」という事になる筈だ。

 と言うとすぐに、「サヨクの自虐史観の非国民が!」というレッテルを貼られるだろうが。
 しかし客観的に見れば、かつての大日本帝国も今の北朝鮮のように、「世界の常識の通らぬ、無法な国」として孤立していたのだ。
 偏狭な愛国心やナショナリズムによる感情論でなく、冷静な頭で理屈で公平に考えてみよう。「日本が経済封鎖で追い詰められて戦争に打って出たのは、やむを得ない自衛の戦いで悪くなく」、だが「北朝鮮は経済封鎖でどれだけ困っても、戦争に打って出たりしたら許せない暴挙」と思う事がいかに筋の通らない馬鹿げた理屈か、すぐわかる筈だ。

 かの中條高徳氏や渡部昇一氏ら、それに靖国神社の太平洋戦争観によれば、あの戦争は「ABCD包囲陣の経済封鎖を受けた事による、止むを得ざる自衛の為の戦い」ということになるようだが。
 ではなぜ当時の日本が、各国から経済封鎖を受けるに至ったか。それは日本が、明らかに中国を武力で侵略していたからだ

 韓国併合が“侵略”であるか、それとも条約による合法的なものであるかの議論は別として、満州国は明らかに日本の傀儡国家であるし、日華事変以降の日本軍の武力侵攻についても言い訳のできない侵略行為であることは、疑う余地のない事実だ。
 だから国際連盟などでも非難され、諸外国から経済制裁を受けたわけだ。

 確かに当時の中国は各地に軍閥が跋扈して、国内は大いに乱れていた。だからと言って「日本が攻めて行って、植民地にしてもOK」という理屈は、絶対に成り立たない筈だ。
 その理屈が成り立つのであれば、幕府方と勤王勢力に分かれて内戦状態にあった幕末の日本も、「列強諸国が武力で攻め込み、斬り取り次第に植民地にしても良い筈」ではないか。
 幸い欧米列強の植民地となることなく近代化を果たした日本は、今度は自ら植民地を持つ強国となることを目指し、中国の国内の乱れに応じて軍を送り込み、満州国という傀儡政権を打ち立てた。

 その日本に対して、諸外国は初めから非寛容で強圧的な態度をとったわけではない。例えば国際連盟が満州に送り込んだリットン調査団だが、英国のリットン伯爵を長とする一行は、満州国を傀儡国家とする一方で、満州における日本の特殊権益も認めていた。
 形としては満州についての日本の主張は認められなかったわけだが、日本が手に入れた満州から「タダで出て行け!」と言っているわけではないのだ。中国の主張を受け入れる一方、国際連盟は日本の利益もちゃんと考慮していたのだ。
 だから交渉と和解の道も、その時点では確かにあったのだ。
 しかし「我が国の主張が百パーセント認められなかったから」と、日本は国際連盟の脱退でそれに応じ、さらに日華事変を起こし中国への本格的な侵略を始めたのだ。

 世界が日本を追いつめたのではない、自国の主張のみ押し通そうとして非妥協的で頑なな態度を取り、国際社会に背を向けて平和的な解決を拒んだのは、我が大日本帝国なのだ
 だからその日本の武力による侵略行為に対して、アメリカやイギリス、それにオランダなどが脅威を感じ経済制裁を取ったのは、それらの国としては当然の行為であったろう。
 繰り返し言うが、アメリカやイギリスなどは中国に味方し日本に経済制裁を行ったが、日本に対して一発の弾丸も撃ってきたわけではない

 日本が国際連盟を脱退して中国への侵略を拡大し続けた後も、交渉の余地はまだあった。アメリカもいきなり日本に強硬な態度で向かったきたわけではなく、日本の行動に応じて屑鉄の輸出禁止、そして石油の輸出禁止と、態度を段階的に強めてきた。
 だから交渉の余地は、開戦のぎりぎりまであったのだ

 中條高徳氏や渡部昇一氏らの「太平洋戦争は経済封鎖に対する、止むを得ざる自衛の戦い」という理論を展開する人々は、「石油が輸入できなくさせて日本を追い詰めたアメリカが悪い」と言う
 だがアメリカは問答無用で、いきなり石油の禁輸まで切り出したのではない。その時点で日本が中国から兵を引き、しかし満州における既得権益は確保する方向で交渉を進めれば、問題は解決した筈なのだ。
 だが占領地からは一兵も引かずに、「石油が手に入らなくなったら終わりだから」と、日本は仏印進駐という逆手に出て、交渉の道を自ら閉ざして戦争へと突っ走ったのだ。
 これをどうしたら「止むを得ざる、自衛の為の戦争」と強弁できるのか、黒沢にはまるで理解できない。

 現在の北朝鮮は諸国から経済封鎖をされて当然の、狂犬のようなならず者国家だ。日本人拉致のような許されざる秘密工作は言うに及ばず、麻薬を国家ぐるみで密売し、核兵器で周辺国を恫喝もしている。
 非常に不愉快で迷惑な国であるのは間違いないが、少なくとも他国を侵略はしていない
 しかし1930年代の日本は、明らかに中国を侵略していた。その一点だけでも「かつての大日本帝国は、今の北朝鮮より悪い」と言えるし、諸外国から責められ、経済制裁を受けても仕方がない立場にあったのである。

 1990年の湾岸戦争で、イラクは突如隣国のクウェートを侵略した。そして当時イラクを支配していたサダム・フセイン大統領は、国際社会の非難にもかかわらず軍を引くことに応じなかった。
 それで国連の安全保障理事会は武力行使容認決議をし、アメリカやイギリスなどを中心とする多国籍軍がクウェートに駆けつけ、イラク軍を打ち破った。

 中国を侵略した我が大日本帝国は諸外国の非難を無視し、国際連盟を脱退すらした。湾岸戦争の経緯を考えれば、同じように国際連盟で日本に対する武力行使容認決議がされ、多国籍軍が中国を支援に駆けつけてもおかしくなかった筈だ。
 しかしアメリカも英国も、そこまで強硬な態度は取らなかった。

 確かにアメリカや英国は日本を責めはした。しかしあくまでも経済制裁をしただけで、中国軍を助けて参戦したわけではない。それどころか日本が中国から兵を引きさえすれば、満州に対する日本の権益を認めようとまで譲っていたのだ。
 にもかかわらず日本は「経済封鎖をされたから」と、アメリカと英国に奇襲攻撃をかけている

 これでどうして「止むを得ざる、自衛の為の戦い」と言えるのか、黒沢には全く理解できない。

 太平洋戦争を「止むを得ざる、自衛の為の戦い」だの、「アジアを植民地から解放する為の、大義ある戦い」だのと言う人々は、同時に中国における日本軍の残虐行為も否定している
 では「日本軍の残虐行為は無かった」という人達に聞こう。
 日本軍は中国軍に各地で勝ち、大陸の奥深くまで侵攻したが、その間に日本軍は中国兵の捕虜をどれだけとった?
 中国戦線であれだけ勝ち、あれだけ奥地まで攻め込んだのだ。当然、敗れた中国軍の捕虜も何万、何十万と居て当然だろう。
 ところがだ、「中国兵をどれだけ捕虜にし、どこでどう処遇したか?」という記録が殆ど残っていないのである。そして伝えられているのは、捕らえた中国兵を虐殺した話ばかりだ。

 一例を挙げよう。中国戦線で長く戦い、さらにガタルカナル島やインパールでも戦った歴戦の古兵、高崎伝氏の『最悪の戦場に奇跡はなかった』という本があるが、その高崎氏の連隊では捕虜はただの一人も取らず、敵兵はもちろん、「怪しい」と思えば民間人でも関係なくすべて殺したということである。
 これが我が皇軍、大日本帝国陸軍の実態なのだ。
 にもかかわらず「中国で虐殺は無かった、すべて自虐史観のサヨクによるデマである」と主張する保守系の論客の頭がいかにオカシイか、その一事だけでもよくわかるというものだ。

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 話を現代に戻そう。
 憲法第九条のある日本でも、自衛権はあるものとされている。個別的であろうが集団的であろうが、自衛権は今のこの日本にもあるのだ。
 と、すればだ。
 中條高徳氏や渡部昇一氏や靖国神社などが声高に主張するように、あの太平洋戦争が「経済封鎖をされたことによる、止むを得ざる、自衛の為の戦い」なのであれば
 もし今の日本が武力攻撃でなく、ある国から経済封鎖なり、経済制裁なりを受けた場合にも、「止むを得ざる、自衛の為の戦い」として日本の自衛隊がその国に攻め込んで行ける理屈になるではないか。
 だから中條高徳氏や渡部昇一氏や靖国神社などが主張する「日本は経済封鎖をされたから、やむを得ず自衛の戦いをしたのだ=戦争を仕掛けた日本は悪くない」という論理は、ただ「頭がオカシイ」と言うにとどまらず、また次の戦争にも繋がりかねない危険な思想だと黒沢は考える。

 最後に繰り返し問おう。
 もし経済封鎖を受けた末の、我が日本軍の米英に対する奇襲攻撃が“自衛の為の戦い”ならば。
 同じように経済封鎖を受けて困窮している北朝鮮が、日本を含めた経済封鎖をしている国々に奇襲攻撃で戦争を仕掛けてきたとしても、これも“自衛の為の戦い”と正当化できる筈
ではないか。
 同じ事をしても、日本がすれば“自衛の為の戦い”で悪くなく、北朝鮮がすれば“許すべからざる暴挙”だと言い張るとすれば、それは明らかに身びいきの矛盾した論理以前の戯言以外の何物でもない

「日本のした事はすべて正しく、日本の過去の過ちを認めるのは、日本を貶める許し難い行為だ」
 そう信じて疑わない保守の“愛国者”たちの非論理性と頭の悪さに、ほとほと閉口している今日この頃だ


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君が代は死んでも歌いません⑧

 国旗と国歌をどう扱っているかについて、同じ第二次世界大戦の敗戦国ドイツを見てみよう。
 まず、ドイツも国旗は変えずに戦前のまま使い続けている。それはドイツ国旗そのものには、ナチスやファシズムの精神は無いからである。
 また、第二次世界大戦時のドイツの戦闘車両や軍用機には、鉄十字のマークがよく描かれていたが、その鉄十字のマークは少しデザインを変えて今のドイツ連邦軍でも使用されている。それは鉄十字がチュートン騎士団のマークに基づくもので、これもナチスやファシズムの精神との関連は無いから、現在も使用が認められているのである。
 但し鉤十字、ハーケンクロイツのみは旗でもマークでも駄目だ。それはアーリア人種のしるしで、反ユダヤ主義組織の旗印でもあり、ナチス思想と人種差別に大いに関係あるからだ。

 次にドイツの国歌についてだが、こちらは話が少しややこしくなる。
ドイツの歌』というドイツ国歌は、元々自由主義的なドイツ統一を目指した、1848年のドイツ三月革命のシンボルとして歌われたものだった。
 だがその三月革命が失敗し、ドイツがドイツ連邦からドイツ帝国になった後は、『皇帝陛下万歳』が国歌として使われるようになった。
 そして第一次世界対戦でドイツ帝国が敗れ、帝政が崩壊してワイマール共和国になってようやく『ドイツの歌』が正式に国歌となったのである。

 この『ドイツの歌』は三番まであり、まず一番では「マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト湾まで」と領土問題に触れ、さらに「ドイツよ、全てのものの上にあれ」とナショナリズム的な色彩を帯びた部分もある
 二番ではドイツの文化と歴史に触れてはいるが、言葉遊び的である上に、歌詞に女性蔑視と受け取られかねない部分もある。
 そして三番では、ドイツの統一と正義と自由について歌っている
 そのためナチスの時代には一番のみが歌われ、戦後は三番のみが歌われている
 ちなみに現在のドイツで『ドイツの歌』の一番を歌うと、ナチ扱いされて白い目で見られるか非難されることになる。

 以上で述べた通り、ドイツは国民が歌うべき国歌の中身を、その時の政治形態に合わせてきちんと見直してきた帝政時代には『皇帝陛下万歳』を、ナチスの時代には『ドイツの歌』のナショナリズム的な一番だけを、そして戦後は同じ『ドイツの歌』の祖国の統一と正義と自由を歌った三番だけと、時代に合わせてふさわしい歌を選んで歌っているのだ。
 翻って我が日本ではどうであるか。
 戦後、君が代がその歌詞を見直されることは全くなかったただ戦後しばらくの間、大っぴらに歌いにくい空気になっただけである
 君が代は唱うことを禁止されたわけでも、唱うと軍国主義者として白い目で見られたわけでもなかった。そしてさらに時が経つにつれ「君が代をまた国歌として斉唱させよう」という動きが強くなり、今ではその歌詞に対するろくな議論も無いまま、文字通りになし崩し的に全員が斉唱することを強制されている
 黒沢はこの日本の現状が、ドイツと較べて情けなくてならない。

 君が代を国歌として認めるでも、戦後の日本にふさわしい新しい国歌を作るでも良い。君が代斉唱を小学校低学年の幼い子供の頃から強制する前に、君が代の歌詞の意味と、それが今の日本の国歌としてふさわしいかどうか、とにかく徹底的に議論すべきだと黒沢は思う。
 同じ敗戦国のドイツに較べ、とにかく日本は国歌だけでなく、過去の歴史に対する見直しそのものが足りないと思う。
 君が代の問題を取り上げると、例の国旗国歌法を錦の御旗のようにふりかざし、脊髄反射のように「国歌を否定するのは自国を否定することで、そんな非国民は日本から出て行け!」と喚く方々。あなた方は、余りにもアタマが単純で思考力が足りな過ぎるよ。

 ついでに言えば、今のドイツではハーケンクロイツを掲げても、ヒトラーの『我が闘争』などナチス思想を宣伝する本を出版しても法律違反で取り締まられるのだ。しかしだからと言って、「ドイツは言論や表現の自由のない、酷い国だ」などと非難する人は殆どいないと思う。
 そして日本ではどうであろうか。あの紛うかたなき侵略戦争を「アジア解放の為の、大義の戦い」と美化する本が盛んに出版され、その種の論者が“愛国者”としてもてはやされている
 もしドイツであれば違法とされるようなファシズム賛美ですら、我が日本では「言論と表現の自由」ととして許されているのだ。果たしてこれを、「良い国」と言っても良いのだろうか。

 その種の過去の日本の侵略戦争を美化したがるファシズム賛美者たちによれば、あの戦争を侵略戦争と認めるのは「日本を貶めること」であるらしい
 南京大虐殺など日本軍が大陸でしてきた残虐行為を認めるのも、沖縄で住民に集団自決を迫った事を認めるのも、「日本を貶める自虐史観」であるらしい
 つまり「日本が過去にした悪事を認めると、日本人は愛国心を無くし日本に誇りを持てなくなり、日本は駄目な国になる」と言うんだね?
 ねえ、ちょっと頭オカシクないかい?

 もしも「ナチスは共産主義の脅威から文明を守る為に大義の戦いをしたのであって、ユダヤ人を虐殺などしなかったし、ホロコーストも無かった」と言ったとしたら、「おい正気か、頭は大丈夫か?」と言われても仕方ないだろう。
 だからまともなドイツ人なら、過去のドイツの侵略戦争とその非はちゃんと認めているし、アウシュビッツもホロコーストも認めている
 そしてドイツの政治家たちは機会がある度に、過去の歴史に対する謝罪と反省を口にしている
 過去の歴史を美化したい日本人たちに聞くが、ドイツは駄目な国になっているか?
 ドイツ人は愛国心を無くし、ドイツに誇りを持てなくなっているか?
 どう見ても違うだろう、ドイツ人は自国の非をちゃんと認め、過去にした残虐行為は度々謝罪もしているが、愛国心も誇りも間違いなく持っているし、ドイツは今も紛れもなく立派な国だ

 しかしそのドイツとドイツ人には出来た事が、自虐史観を口にする人たちは「日本と日本人には出来ない」と思っているらしい
 何故だろうね?
 現にドイツとドイツ人は過去の過ちを認めて謝ってもまた頑張れているのだが、「日本人は過去の過ちを認めて謝ると、愛国心も誇りも持てなくなってしまい、日本は駄目な国になってしまう」と、そう本気で恐れているらしいのだよ、渡部昇一氏や中條高徳氏らに代表される皇国史観の方々は

 つまりさ、その種の過去の戦争を美化して、都合の悪い事を言われるとすぐ「日本を貶める自虐史観だ!」と怒り出す人たちは、「反省しちゃ駄目だ」って主張してるのと同じなんだよ。
「過去に悪い事をした人が、その自分のした事をちゃんと認めて反省すると自分に誇りが持てなくなり、駄目な人間になる。反省は“自分を貶める自虐”で、だから絶対に過去を反省しちゃ駄目だ」と言ってるのと同じだよね、それって。
 過去の戦争を美化して「愛国心を持たせる為に、日本の良いところだけ教えろ」とか言う人たちに
バカじゃん、何言ってんの?」って、黒沢は心から思うよ。

 黒沢は改憲論者で、自衛隊も正式な軍にすべきと思っている保守思想の“右翼”だけれど。それでも過去の歴史は直視しているし、南京大虐殺も含め日本軍は大陸で非道なことをしてきたと思うし、沖縄でも住民に犠牲と自決を強いたとも思ってる
 我が“皇軍”が世界的に見ていかに異様な軍であったかもよくわかってるし、「天皇陛下、万歳!」と叫んでバンザイ突撃や特攻をして死んでいった過去の日本の若者のことを思うと胸が痛む。
 だからこそ黒沢は昭和天皇や今上天皇や花園天皇や光厳天皇など尊敬する天皇は数々いても、明治維新以来の大日本帝国と天皇制には好意的にはなれないし、天皇の治世が永久に栄えることを願い祈る“君が代”もまた唱う気になれないのだ。

 君が代が嫌いで唱いたくないのは、無論黒沢個人の思想の問題だ。だから逆に君が代が好きな者が居ても構わないと思うし、唱いたければ自由に大声で唱えば良いと思う
 但し唱うのは、あくまでも個人の意志によるものであってほしい
 現に今上天皇陛下御自身、君が代について「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と仰せになっている
 君が代斉唱を皆に強制させようとしている人達は、己がその天皇陛下の大御心をも無視しているのだという事実を、よく理解していただきたい

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君が代は死んでも歌いません⑦

 渡部昇一氏や中條高徳氏などは、今の歴史教育を自虐史観だと盛んに言う
 しかし黒沢は、逆に「今の日本の歴史教育は、見直しが足りない」と思っている

 例えば先にも触れた「建武の中興」であるが、それはあくまでも天皇(それも南朝の後醍醐)の視点からの皇国史観的な見方である。実態から見れば、正しくは「建武の反動復古」または「建武の混乱」と言うべきであろう。
 幕末の「安政の大獄」についても同じ事が言え、それを“大獄”と思うのは勤王方の反幕府勢力の見方であり、幕府からすればただ「テロリストを取り締まっただけのこと」であろう。
 ちなみに例の「安政の大獄」とやらで取り締まられた勤王方の志士wwwたちが明治維新後に作り上げた政府は、その安政の大獄より遙かに厳しい弾圧をして自由民権論者などを逮捕し、遙かに大勢の政治犯を北海道などの監獄で虐待している
 もし井伊大老の反幕府勢力の取り締まりを「安政の大獄」と言うのであれば、明治の薩長政府の弾圧についても「明治の超大獄」として触れ、歴史の教科書にも載せねばねばフェアでないと思う。
 日本の学校で今も教えられている歴史の教科書には、この種の戦前の天皇中心の(中臣鎌足や楠木正成や幕末の勤王勢力らや明治新政府は善で、蘇我入鹿や北条高時や足利尊氏や井伊直弼らは悪という)見方が、未だに少なからず残っているのだ。

 日本の戦後の教科書と言えば、まず「墨塗り」が有名だが。GHQの指示により、教科書で軍国主義的な部分を黒く塗り潰したというアレだ。
 日本の戦後の歴史教育ってのは、まさにそれなのだ。戦前のテキストのうち、明らかに天皇を神格化している部分や軍国主義的な文言だけ塗り潰して、本質的な見直しはせずにそのまま使っているように見える。
 だからこそ蘇我入鹿は悪人のままだし、「建武の中興」やら「安政の大獄」やらの勤王および薩長方の見地に立つ言葉もそのまま残り、明治維新と薩長主導の明治政府の政治についてもひどく甘く好意的に記述されたままである。
 露骨に軍国主義的な、GHQに怒られた所だけチョチョイと変えて、根本的な見直しはせずに大半は戦前のままで残す。これが日本のやり方なんだよね。
 だから天皇家の系譜も、未だに初代は神話で架空の神武天皇のままなのだ。
 さらに“万世一系”の筈の皇統も、「後醍醐天皇が正義で、足利尊氏は悪である」という大義名分論こだわるあまりに、妙な事になっているのだ。

 後醍醐天皇は例の建武の中興wwwで身勝手で恣意的な政治をとった挙げ句に足利尊氏に背かれて敗れ、逃げた先の吉野で勝手に朝廷をたてた。一方勝った足利尊氏もまた、京で持明院統の血をひく親王を天皇にたてる。
 そこで皇室が京の北朝と吉野の南朝に分裂するという事態が起きるが、その南北朝の争いは北朝の優勢が明らかで、室町幕府の三代将軍義満の時、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を返却することで、南北朝の合体が成し遂げられる。
 つまり南北朝の争いは北朝が勝ち、今上天皇も含めてその後の天皇は全て北朝の子孫である。

 しかし天皇が絶対の戦前の皇国史観では、「皇室はあくまでも南朝が正当!」ということになっていたのだ。北朝は朝敵で悪者の足利尊氏がたてた傀儡政権だから、天皇としての即位は認められない……ということで。
 それで北朝の歴代の天皇の即位は「なかったもの」とされ、天皇の代は南朝を基準に数えているのだ。南北朝が合体して以来の天皇はすべて北朝の子孫で、南朝の系統の者は只の一人もいなかったのにもかかわらず、である。
 無論今上天皇も皇太子殿下も、今の皇室の方々はみな北朝の血筋をひいておられる。
 にもかかわらず、皇室は今もなお南朝を正当とし、その代も南朝に従って数え続けているのだ。そして歴史の教科書でもそれに従って、天皇の代は南朝を正当として数えている

 建前にこだわらずに事実のみを見れば、北朝が正当なのは明らかだ。なのに皇室も日本の歴史教科書もなぜ未だに南朝を正当とし続けるのか、黒沢にはとても理解できない。
 戦前の天皇を神格化した皇国史観的な見地から見れば、逆らった臣下がたてた北朝など、とても正当と認められないのだろう。しかしならば例の南北朝合体後の、北朝の血のみひき続ける後小松天皇以降の皇室すべてもまた、正当でないニセモノということになるではないか。

 このように日本の歴史にまだ根を張る戦前の皇国史観的な見方(天皇は絶対で、勤王方と薩長が善)は、今も歴史の教科書のみならず、皇室の歴史にも矛盾を残し続けている
 未だに後醍醐の「建武の中興」や、井伊直弼の「安政の大獄」などの言葉は残り、皇室は神武天皇が初代で南朝が正当で、明治維新で文明が開花し、江戸幕府を倒した薩長の政府のおかげで日本が列強に肩を並べる立派な国になったと教科書で教え続けているのである。
 どう見ても戦前の教科書の不都合な上っ面に墨を塗っただけで済ませ、根本はまるで見直されずに残っているとしか言えない。
 そう、君が代の問題もそれと同じなのだ。
 歌詞の意味をきちんと検証し、それが日本の国歌としてふさわしいかどうか本質的な議論されることも無いまま、なし崩し的に国歌として唱うことを強制されているのが現状である。

 終戦後、日本は国民主権の、民主主義の自由な国になった。そして明治憲法下で「天皇の治世を祝う歌」とされてきた“君が代”は、新しい日本国憲法の精神にも反しているとされ、国歌として扱うことは出来なくなった。
 ところが戦前の天皇ファッショの時代の日本が恋しい保守反動勢力が根深くいて、まず1950年に君が代斉唱を進める大臣通達が出され、1977年には学習指導要領で一方的に君が代が国歌と規定され、そして1999年にとうとうあの国旗国歌法が成立するわけだが、その間に“君が代”の歌詞の意味と、それが今の日本の国歌としてふさわしいかの議論が、国会や国民の間で充分かつ真剣になされたとは、黒沢にはとても思えないのだ。
 その間の経緯は、ただ「戦前回帰を目論む右翼勢力によるなし崩し」としか言いようがないように見える。
 そして義務規程もなければ罰則もなく、「強制は伴わない」と繰り返し約束された上で成立した筈の国旗国歌法だが、いつの間にか君が代を唱うことが義務として強制され、従わぬ者は処罰されている現実は、これまでにも繰り返し述べてきた通りである。


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君が代は死んでも歌いません⑥

 宗教は怖い
 何しろ“神”は、親兄弟より自分自身より大切なものだから。そしてその教えを信じない者は「殺しても良い悪魔」で、死後は「地獄に堕ちる」と。
 だから宗教の狂信者達は異教徒を憎み、差別し、場合によってはテロや戦争も辞さない。

 そして明治維新から敗戦までの大日本帝国も、国民に国家神道による祭政一致で“天皇教”を信じさせ、天皇を現人神または現御神として拝むことを強制してきた
 繰り返し言うが、他国の王や皇帝と違い、天皇は神なのである。1946年に人間宣言が出されるが、それまでは全国民が天皇陛下を神として拝んできたのである。
 これを「天皇を信仰する一神教」と言わずして、何と言おう
 人間宣言をしてもまだ天照大御神以来の神話はまだ生き続けているし、天皇を崇拝する人々には「どんな批判も絶対に許さぬ宗教の狂信者」に似た危険な臭いが漂い続けている

 今、靖国神社参拝を押し進める者たちは、「国の為に命を捧げた者を慰霊するのは当然」と言うが、それは言葉のすり替えだ
 旧帝国陸海軍はあくまでも“皇軍”であり、日本国防軍ではなかった。天皇陛下の為の軍であって、国民の為の軍ではなかったのだ。
 その証拠に、戦場で日本兵は何と叫んで死んで行ったか
天皇陛下、バンザイ!
 彼らは決して、「日本、バンザイ!」と言って散っていったわけではないのである。
 だから靖国神社は、「天皇の為に命を捧げた者が祀られているところ」と言うのが正しい。もっとも今はその中に、天皇の名を借り多くの兵士を戦わせて死なせた側の戦犯も合祀されているが。

 あのナチス武装親衛隊の兵士らも、誰も「ヒトラー総統、バンザイ!」などと叫んで死にはしなかった。スターリンのソ連や毛沢東の中共などの独裁国家でも、それは同じ事だ。
 しかしかつての日本兵らは日本を神国と信じ、神である天皇の名を叫んで死んでいった
 だから黒沢は、「日本の天皇制は宗教だ」と言うのである

 かつての日本軍はあの戦いを“聖戦”と呼んだが、アラーの名を叫び自爆テロをし、それを“聖戦”と呼んでいるイスラム原理主義の過激派と何がどう違うと言うのか
 あの9.11テロで、ニューヨーク世界貿易センターのツインタワーに突入し自爆した飛行機のことを、欧米では“カミカゼ”と呼んでいる
 同じ日本国民としては、祖国の為に命を犠牲にした日本の特攻とイスラムのテロを一緒にされては不愉快だろう。
 しかし第三国の者が客観的に見れば、どちらも同じ“カミカゼ”の自爆攻撃なのだ。

 あの渡部昇一氏や中條高徳氏も同類だが、『だから、日本人は「戦争」を選んだ』を書いた岩田温氏など、日本の侵略戦争を擁護し肯定する者たちは同音異句でこう言う
あの戦いには大義があった。だから日本はワルクナイ
 冗談じゃない! ナチスだってソ連だって中共だってポル・ポトだって北朝鮮だって、どの独裁国家も皆それぞれ“大義”は持っているのだよ。
 掲げる大義もなく「俺たちゃ世界征服を企む悪党だぜ、殺人、強盗、悪い事は何でもやり放題よ!」などと本音を吐いてる悪の組織や国なんて、世界中ドコにもありません、ってば。
 例えばヤクザにだって、仁義だの何だのと掲げる綺麗事はある。そしてワ○ミなどの有名ブラック企業だって、社訓だけは立派だ。
 無論イスラム過激派の“聖戦士”たちにも、大義は彼らなりにちゃんとあるのだ
 だから「あの戦争が侵略であったかどうか」は、戦争に至る経緯と軍事的な事実のみで見るべきで、大義などという子供騙しレベルの幼稚な言い逃れに惑わされてはいけない

 その建前の大義に騙され、その時々の為政者の良いように踊らされる馬鹿になってはいけない
 例の「危難にさらされている日本人の母と幼い子を守るため」など、安倍首相が滑らかに語る耳障りの良い建前に踊らされて騙される馬鹿は、それと気づかぬまま、第二次大戦で日本が犯した過ちをまた繰り返すだろう
 少なくとも思慮のある人には、大衆を操る為に政治家が声高に言う大義になど惑わされず、事実のみで物事を判断してほしいと願う。

 さて、ここまでに「日本の万世一系の皇統とは、神話に基づく架空のものである」ことと、「日本の皇室が宗教(国家神道)と不可分のものである」ことを、繰り返し述べてきた。
 だから皇室を神の如く崇拝する者たちは、天皇を絶対不可侵の存在として他の皆にも同じように“信仰”することを強要する
 そして皇統の永続を願い祝う君が代の斉唱は、個々人がその天皇崇拝を受け入れているか確認する為の、わかりやすい“踏み絵”なのだ
 あの橋下氏が支配する大阪の学校のように、ちゃんと唱っているか口元まで確かめれば、その天皇崇拝を受け入れているかどうかが一目でわかる。
 そして黒沢は天皇家の数々の神話を含め、すべての宗教を否定している徹底した無神論者であるから、君が代は絶対に唱えないのだ。

 繰り返し言うが、黒沢個人としては、昭和天皇と今上天皇は心から尊敬しているしかしそれと「皇室そのものを崇拝するか?」と言うのは、またまるで別問題なのである。
 と言うと、おそらく「わかりにくい」と思う人たちが少なからず出て来るだろう。「今の天皇を尊敬しているなら、皇室にだって敬意を持って当然だろう?」と。

 さっくり説明しよう。例えば近頃は“歴女”とやらもいるし、歴史に関する本も多々出版されているが、数々いる戦国武将のうち徳川家康を好きで尊敬している人も少なからずいるだろう。
 しかし家康が好きだからと言って、その後の徳川十五代の将軍たち全員を好きで尊敬しているわけではなかろう
 実際、黒沢は家康をかなり高く評価していて、日本の覇者として信長や秀吉よりふさわしいと思っている。だが家光や家斉は尊敬などとても出来ないし、綱吉と慶喜に至っては大嫌いだ。吉宗は一般的に名君と思われているが、黒沢はそれより尾張の徳川宗春の方がずっと好きだ。

 天皇家もそれと同じで、黒沢は昭和天皇や今上天皇、それに花園天皇光厳天皇も大変立派な方と尊敬している。さらに元明天皇元正天皇の時代も穏やかな良い治世であったし、嵯峨天皇も立派な治世を行ったと思う。
 しかしそれと同時に権勢欲に満ち、己の欲の為に身内も含めて多くの者を殺したり、戦乱を招いたりした天皇や、国を治める能力そのものが足りなかった天皇の存在も、幾らも知っている
 だから今上天皇も含め、尊敬している天皇は幾人もいるが、皇室そのものを尊いものとして崇拝する気には、とてもなれないのだ。

 そもそも天皇家の人々も決して神でなく、我らと同じ人間である以上、尊敬できる人ばかりではなく望ましからざる良くないお方もいるのは必然なのだ。だから黒沢は皇室の方々すべてを、無条件で丸ごと尊敬するわけにはいかない。
「皇室を無条件に尊べ」と言うのは、まさに「我が神を、オマエもそのまま受け入れて信じろ」と言うのと同じである。

 黒沢は思うのだが。
「日本人なら、皇室に尊敬の念を抱いて当然」と考える“保守”の方々は、未だに「天皇は一般の人とは違う現人神さまである」と考えているに違いないと思う。そしてだからこそ「皇統が永遠に栄えることを願い祝う」君が代も、「国民(臣民?)皆が唱うべき」と、何の疑問も抱かずに信じているのであろう。

 だから君が代の問題は、「そもそも今の日本の国体を、その人がどう考えているか?」という点に戻るのである。
 例の“三行以内”で言えば、こういう事だ。
日本を天皇が治める君主国だと思う者にとっては、君が代斉唱はごく当たり前の事で、自由な民主主義国になった筈だと思う者は、それに違和感と強い抵抗を感じる
 そして黒沢は「君主国である」という事よりも、自由と民主主義の方に重きを置く故に、天皇の治世が永く続くことを祝い願う君が代は、国歌としてふさわしくないと思うのだ。

 神話で虚構の神武天皇即位の日である戦前の『紀元節』が、そのまま『建国記念の日』として蘇り、明治天皇の誕生日『明治節』が名を変えて『文化の日』として残って。
 そして疑う余地もなく天皇賛歌の君が代の斉唱が、実質的に強制されている現状を見るにつけ、「今の日本は、かつての大日本帝国とどれだけ変わったのだろう?」と思わされる。

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