空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

こんな時期に、非常識ですが…

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 季節感も無く、真夏にこんな花の写真を出してしまってゴメンナサイ。
 たまたま、パソコンの写真のフォルダーに入っていたもので……。

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結婚すると変わる、実は男尊女卑の男の見分け方

 毎日新聞には『現代の恋愛模様』という、ノンフィクション作家亀山早苗氏の連載記事がある。その5月17日掲載記事には、おおよそこのような事が書かれていた。

 外資系企業で働くアヤノさんという女性には、既に四年つき合っている彼氏がいて。それだけに、互いの良い所も悪い所もわかっているつもりでいた。
 それが婚約する事になった途端、結婚についての考え方が彼氏とまるで違うことが明らかになったのだという。
 アヤノさんは結婚後も、子供が出来ても働き続けるつもりでいた。ところが彼氏は、アヤノさんにこう言ったのだ。
子供が出来たら、アヤノは仕事辞めるよね
僕の実家に週一度は顔出してくれるよね

 それ以外にも、彼氏はアヤノさんに次々と要望を出してきたが、簡単に言えば彼氏はアヤノさんに昔ながらの“理想の嫁”であることを求めていた。
「子どもができても仕事は続ける、お互いの実家に行くのは時間のあるときでいいと思う」
 アヤノさんがそう言うと、彼氏はこう言ったのだという。
おまえはうちの嫁になるんだろ

 つまり彼氏は、結婚したら女は自分の家を捨てて、嫁として男の家に入るものと思っていたのだ。
 だがアヤノさんは、結婚したら二人(夫婦)で新しい家を作るものと思っていた。
 で、話し合えば話し合うほどその辺りの二人の意識の違いが明らかになるばかりで、アヤノさんは結局その彼氏と婚約破棄をしたということだ。

 自分の妻を“うちの嫁”と言う男は、ごく当たり前に居る。そしてその事に何も疑問を持たない男は、決して少なくないと思う。
 が、ここで少し立場を変えて考えてみてほしい。もし自分が妻に“うちの婿”と呼ばれたら、どんな気分になるだろうか
 カチンと来るかい?
「俺は“マスオさん”じゃねーぞ」って?

 ここで結婚に関する現在の民法を、要点だけ簡単に確認しておこう。
 結婚とは家と家ではなく個人同士のもので、それぞれが親の籍から抜け、相手と新しい籍を作るものなのだ。
 姓もどちらを名乗るのも自由で、仮に妻が男性側の姓を名乗る事になったとしても、自分の家を捨て男性の家の籍に入るわけではない。そして同様に、夫が女性側の姓に変えたとしても、それで妻の家の婿養子になるわけでもないわけだ。

 つまり結婚でどちらかの家に“貰う”とか“貰われる”という考えは、そもそも大間違いなのだ。だから“うちの嫁”とか“嫁に貰う”という感覚は、戦前の大日本帝国時代の古臭いものであると、世の男性諸氏は理解しておいた方がいい
 特に自分の妻を何の疑問もなく「うちの嫁」と呼べてしまう男性は、そのあたりの事をよく自戒すべきだと黒沢は思う。

 大日本帝国憲法ではどうあれ、少なくとも現在の憲法では男女は平等だから。
男が立場が上でなければならない
女は男を立てるべき
 この平成の世に、正気でそう思っている男性は、自分が時代錯誤の“明治の男”であると自覚した方が良いだろう。

 話は戻って、毎日新聞の『現代の恋愛模様』に書かれていたアヤノさんは、「わかり合えていた」つもりの彼氏と婚約して初めて結婚観の大きな隔たりに気付いて、結局婚約破棄に至ってしまったわけだが。
 ただ黒沢に言わせると、その彼氏が男尊女卑に近い古い価値観の持ち主であることは、彼氏の普段の何気ない言葉遣いだけで、婚約に至る前に充分わかった筈だと思う。
 少なくとも黒沢には、彼氏が「女は男に従うべき」と考えているタイプの男だとすぐに理解できた。

 それに気付くフックの言葉は、前に挙げた彼氏の言葉の中だけで二つもある。
 まずは「アヤノは……」と呼び捨て
 そして「お前は……」と、彼女をお前呼ばわり
 ただ呼び捨てだけならともなく、それにお前呼ばわりもセットで平気でする男は、「女を男の下に見ている、男尊女卑の明治の男w」と見てまず間違いないね。

 黒沢には理解しがたい感覚なのだが、男には「呼び捨て=親しみの表現」と思い込んでいる者が少なくない。
 確かに男同士の付き合いでは、親しい間柄では呼び捨てが普通だろう。だがそのヤロー同士の付き合い方を、女性との付き合いにそのまま持ち込んでも良いものだろうか。
 少なくとも黒沢は、大切な彼女との付き合いは、男のダチとの付き合いとは違うと考えている。
 と言うか、大好きで大切な可愛い彼女を呼び捨てにして、それで「心の距離が縮まった!」と喜ぶ気には、どうしてもなれいんだな。
 大切で可愛い彼女を、ヤローのダチのように呼び捨てにする気には、黒沢は全然なれないのだよ。

 男によくいるよね、「相手との心の距離を縮める為」と称して、女のコをすぐ呼び捨てにして「おいアヤノ、お前さあ」とか無遠慮に話しかけるヤツ
 ちなみに黒沢は、女のコをオマエ呼ばわりした事、本当にただの一度もないゾ。たとえ相手が年下の彼女でも呼び捨てにせずに、間違いなく「○○ちゃん」みたいに呼んでたし。

「え~、呼び捨てにするのもオマエと呼ぶのも、相手がオンナならフツーだろ」って?
 イイエ、ソレはフツーじゃありませんから。
 納得できないと言うなら、ちょいと辞書を引用してみようか。
 オマエという呼び方について、明鏡国語辞典ではこう書いてあるね。
同等以下の相手を、親しみやぞんざいな気持ちで指し示す語
 類語新辞典の解説でも、まあ似たようなもので。
「普通、男同士、男から女に言う。同等あるいは目下にいう、ぞんざいないい方
 どちらにしろ「同等以下(目下)に対する、ぞんざいな言い方」ってコトでは、ほぼ共通してるよね。
 ついでだから、「ぞんざい」って言葉の意味も書いておこう。
言動が乱暴で、礼儀にかなっていないさま

現役受付嬢の人間観察 男と女の解体新書現役受付嬢の人間観察 男と女の解体新書
(2009/05/01)
ぴーちく

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 それでもまだ納得できないなら、女の人の意見をひとつ紹介しようか。
 副題に「男と女の解体新書」と付いた、『現役受付嬢の人間観察』って本があって。
 帯のアオリの文によれば、この本は「好かれる男、嫌われる男、女性の習性などがこの一冊で丸わかり!」の攻略本なのだとか。
 その本の中に「お前」と呼びたがる男についての、女性の視点での考察があって、それを少し引用してみるね。

 彼女や女友達を呼ぶ時に、「お前」と言う男性がいるが、私はあれがとても苦手だ。名前でなく、「お前」と呼ばれると、「私は『お前』ではない。名前がある」と、かなりイラッとくる。
「お前」という呼び方は、男同士なら問題ないが、女性に使うには、かなり乱暴な言い方だと思う。

(中略)
 しかし、逆に、お前」と呼ばれるのが好きな女性もいる。それは、上から目線で物を言われたいとか、独占されたいとか、荒っぽい野性的な男性が好きだという、一種マゾ的な女性の場合だ。
「お前」と呼ばれるのが好きだという友人がいるが、「今の私はあなたのもの」という快感に浸ることができると言っていた。

 これでわかる通り、オマエ呼ばわりって、女性には男が思っているよりずっと不評なのだ。
 男としては「親しみを込めたつもり」でも、相手の女のコはたいてい内心イラッと来ていて、キミへの好感度もダウンしていると心得ておくべきだね。
 もちろん中には男に“オマエ”と呼ばれて喜ぶ女のコもいる、けどそれは『現役受付嬢の人間観察』でも書かれている通り「男に支配されたいマゾ系の子」だけ、ってコト。

 さて、今のリアルな女性達を見てみて、女は男に支配されて従いたいマゾ系ばっかりだと思えるだろうか?
 ちなみにネットの調査では、七割を越す女性が「たとえ彼氏にだって、お前とは呼ばれたくない」と答えていたよ。だから“お前呼ばわり”は男が思っているよりずっと不評で、お前と呼ばれて気にしない子は少数派だと心得ておいた方が良いね。
 そして残りの三割に満たない「男に支配されたい系の、お前と呼ばれたい子」にしても、そう呼ばれたいのは「身も心も捧げたいほど大好きな彼氏限定」であって、ただの友達(かそれ以下)のキミではないんだよ。
 好きでもない相手に「オマエ」とか呼ばれて自分のモノ扱いされるなど、支配されたいマゾ系の子だってゾッとしてると思った方がイイね。
 だからどちらにしろ、女性に「おいオマエ」とか呼びかけるのは、相手が例え彼女であっても避けた方が賢明だね。

 これもまたネットの調査だが、彼氏にどう呼ばれたいか?」については、女性の間で意見が微妙に分かれていて、トップは「~ちゃん」が四割強、そして次が呼び捨てて三割強といったところだった。
 男には「女は呼び捨てにするもの」と思い込んでいる者が少なくないし、中には「女は男に呼び捨てにされたがっている」と思い込んでるバカ者さえいるよ。
 だが現実には、男に呼び捨てにされたい女子は「お前と呼ばれたい女子」とほぼ同じ、三割程度しか存在しないのだ。
 繰り返し言うが、「呼び捨ては親しみの表現」というのは男の勝手な思い込みであって、女性は必ずしもそうは思っていないのが現実なのだ。

 うん、男同士は親しい間柄なら、確かに呼び捨てにしてる。
 だが女子同士の付き合いでは、どうだろう。女の子同士も親しい間では、男と同じように呼び捨てにし合っているだろうか。
 確かに呼び捨てにし合ってる女の子達も、少なからずいる。だが愛称または「~ちゃん」と呼び合っている子たちも、同じかそれ以上にいる筈だ。
 女の世界は男同士とイコールではなく、「呼び捨ては親しさの現れ」という男の感覚も当たり前ではないのだ。

 にも拘わらず男には、「女は呼び捨てにすべき」と固く信じ込んでいる者が少なくないようだ。
 恋愛に関するサイトもいろいろあるが、黒沢はモテ指南の某ブログで、男の管理人が「リーダーシップを取るために、相手が年上でも女は早めに呼び捨てにするべきだ」と得々と語っていたのを目にしたことがある。しかもそのブログは検索のかなり上位に出ていたから、少なからずの男性が「そうなのか」と思ってしまったことだろう。
 それ以外でも、男が書く恋愛指南のサイトでは「呼び捨てにしろ、でないと心の距離が縮まらない」と当たり前のように語っているものが目立つ。
 その種のモテ指南wwwを目にする度に、黒沢は腹立たしくてならない。
自分の僅かな成功体験をもとに、身の回りのごく一部の女性だけしか見てないくせに、厚かましくも女性全体や恋愛論を語るんじゃねーよ」と。

 彼氏から“お前”と呼ばれたい女性も。
 彼氏に呼び捨てにされたい女性も。
 どちらもたった三割程度で、全体から見れば少数派と言っても差し支えない
と思う。
 そして黒沢が思うに、その彼氏に「お前と呼ばれたい女性」と「呼び捨てにされたい女性」は、ほぼイコールではないかと思う。
 何故なら女性を「お前」と呼ぶ男って、名前も当たり前のように呼び捨てにしているからね。「おいアヤノ、お前さあ」というように。
 で、彼氏に「お前」と呼ばれて喜ぶ女性は、前出の『現役受付嬢の人間観察』によれば、「荒っぽい野性的な男性が好きで、上から目線で物を言われて独占されたい、一種マゾ的な女性」だということだ。

 また『現役受付嬢の人間観察』では、同じ章でこうも書いてある。

 付き合うと呼び方が「○○ちゃん」から「○○」と、急に呼び捨てに変わる人がいるが、あれも独占欲の強さの表れだと言えるだろう


 つまり男に呼び捨てにされても抵抗のない、あるいは呼び捨てにされたい女性というのも、男にお前と呼ばれたい女性と同様に、「粗野な男に上から目線で扱われて支配されたい、マゾ系の女性」と言えるのではないか。

 いずれにしろ「呼び捨てを好み、お前と呼ばれたい女性」は、男に支配されたいマゾ的資質のある女性に限られる……ということだ。そしてその種の女性は全体の三割程度で、過半数の女性は、呼び捨ても“お前よばわり”も好きではない」という事実も、改めて繰り返しておきたい。
 例のモテ指南サイトの管理人も、たまたまその約三割の、「支配されたいタイプのマゾ系の女性」に好かれたに過ぎないと、黒沢は断言する。

 黒沢自身について言えば、我が子すら呼び捨てにしない両親に育てられたから。さらに黒沢は、両親に「お前」と呼ばれたことも無かったよ。
 だから黒沢は、例え相手女の子が年下でも「お前」と呼んだりしないし、彼女も呼び捨てにせずに「~ちゃん」と呼んでるよ。そして「呼び捨てにしないと、心の距離が縮まらない」と感じたことなど、ただの一度もないな。

 けれど世の中は広いし、家庭もいろいろだから。
「おい、オマエ!」
「何よ、アンタ?」
 別に喧嘩をしているわけでもなく、夫婦間で普通にそう呼び合っている家庭も少なからず存在しているのも事実
なのだ。そしてそんな家庭では、互いに呼び捨てなのも当たり前なのだ。
 そんな家庭で育てば、相手を呼び捨てにせず「~ちゃん」と呼ぶことに、逆に違和感と抵抗を覚えるのだろう。
 黒沢が女性を「オマエ」と呼び、名前を呼び捨てにするのに嫌悪を感じるのと同じように。

 前にも触れたモテ指南wwwのブログで、「彼女は早く呼び捨てにしろ!」と主張し、「彼女を“~ちゃん”と呼ぶなど気持ちワルいし、そんな自分は想像もできない」と語った管理人がいるが。
 その管理人氏は、おそらくそんな家庭(夫婦は「お前、アンタ」と呼び合い、子供は当然呼び捨て)に育ったのではないかと想像しているよ。

 恋は盲目と言うけれど。恋愛中はつい相手を過大に良く思ってしまって、相手の欠点や互いの価値観の違いなどは見えなくなっちゃうんだよね。
 そしていざ結婚という現実に直面して、やっと「あれ? 何か違うな」と気付いたり、「こんな事とは思わなかった」と後悔したりするんだよね。
 恋をしている時も、相手と自分を客観的に見る冷静な目をほんのちょとだけ残していさえすれば、そんな事には決してならずに済むんだけどね。
「おい○○、お前さあ」
 相手の男がすぐ貴女を呼び捨てにするようになり、そして当たり前のようにオマエ呼ばわりもするようであれば。
 結婚前はいくら優しく親切に振る舞おうと、その男の根底は“明治の男”で、「女は結婚したら自分の家を捨て、俺の家の嫁になるのだ」みたいな、戦前さながらの古臭い結婚観を持っている男尊女卑の考えの持ち主とみて、まず間違いない
よ。

 その女の人が男に支配されたいM系で、結婚後は相手の家に「ヨメに入って」義両親との同居もOKみたいなヒトだったら、それでもまあ問題ナイと思うけど。
 でももし貴女が結婚相手は“主人”ではなく人生のパートナーで、結婚後は夫婦二人で新しい家を作るのだと思っているとしたら。
「おい○○、オマエさあ」
 そう呼び捨て+お前呼ばわりを当たり前にするような男とのお付き合いは、避けた方が賢明
だね。表面的にはいくら良い人そうでも、中身はまず間違いなく独占欲が強くて、相手の女を支配したい種類の男だから。
 ただ恋を楽しむだけと、ちゃんと割り切ったお付き合いをするならまあ良いかも知れないけれど。ただ結婚の話が出たら、相手がどんな結婚生活を望んでいるのか、とことん話し合ってよく確かめなきゃダメ。

 相手をすぐ馴れ馴れしく呼び捨てにするか。
 そして平気で、女を「オマエ」と呼ぶか。
 ただそれだけでも、その男の本性がかなりわかる
から気を付けてね、素敵な男性を探しているまだ未婚の女性の皆さま方。

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相変わらずの茶猫さん

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 鳴いて傍に寄っては来るのだけれど、この通り警戒心いっぱいだし、まる人を威嚇するようでもあります。
 あなたのお家の庭にこんな野良が居ついてしまったら、あなたはどうしますか?
 黒沢自身は、諦めて居付くも去るも、当人(当猫?)の好きなようにさせてやるつもりでいます。

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空。

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 緑や銀や黒や桜色など、好きな色はいろいろあります。けど色の中で黒沢が一番好きなのは、何と言っても青です。
 そのせいか、空は本当に見飽きません。

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愛国心の“毒”

 毎日新聞にこの6月から、『いま靖国から』という記事が連載されていた。その6月12日の記事で、日本精神をゴスペルで発信する、石井希尚氏という和製ゴスペル歌手のことが紹介されていた。
 石井氏はゴスペル歌手である他、牧師でもあり、カフェも経営し、セミナー講師として八紘一宇や敗戦国の大和魂などについて語ってもいるのだという。
 石井氏がいろいろ手がける中で最も成功しているのが結婚相談で、氏が見るところ今の若い男女には、「自信を持てない人がおどろくほど多い」のだそうだ。そして石井氏によれば、「健全な自尊心があってこそ結婚も恋愛もうまくいく。その土台は日本人の誇りにある」のだそうである
 ……どうにもワカラン。大和魂とか八紘一宇の精神とかの古臭い皇国史観的な「日本は素晴らしい国だ、バンザイ!」みたいな国に対する誇りを持てば、それがどうして自分自身の誇りと自信に繋がるのか、黒沢にはよくわからないのだ。

 今の日本の若い男女に「自信を持てない人がおどろくほど多い」という事自体は、まあ確かなことかも知れない。
 たださ、そもそも“自信”ってのは、国とか民族とか愛国心とかの大きな何かに「持たせて貰う」のでなくてさ。個人と言うか自分自身の頑張りとその成果によって、自力で勝ち取るものだと黒沢は思うのだ。
 例えばサッカーがすごく巧いとか。
 あるいは勉強が出来て、トップクラスの成績で東大を卒業したとか。
 ノーベル賞を取るみたいな大きなことにしろ、学校で賞状を貰うレベルの小さなことにしろ。自信ってのはさ、その人が何か得意な事で頑張って成果を挙げて、それで周囲の人からも認められることによって得られるのが普通なんじゃないかな。

 でも“愛国心”ってのは便利なものでね。
 まず「日本人は優れた民族で、日本は素晴らしい国だ」って信じれば、自分が何も頑張ってなくて、何の成果も挙げてなくても、自分に根拠のない自信を持てちゃうんだよね。
日本人は優秀な民族で、日本は素晴らしい国=その一員であるオレ様も立派」って、傍から見れば我田引水に近いトンデモな理屈で。
 平たく言うとさ、何の取り柄もない底辺層のバカやクズや犯罪者に、そのバカでクズで犯罪者のまま自信を持たせてしまうのが“愛国心”なんだよ。

 アメリカは“自由の国”とは言うけれど、実際には人種差別は今も残っていてさ。
 で、その人種差別を一番する人達ってのは、どんな人達だと思うかな?
 それは“レッド・ネック”とか“ホワイト・トラッシュ”とか呼ばれる、ズバリ白人の底辺層のDQN達なんだよね。
 では何故その底辺層の白人が、最も人種差別に走るか。理由は簡単、彼らには誇れるものが「俺は白人である」という人種しか無いからだ。
 同じ白人でも、自分に地位や金や手に優れた技術があれば、何も人種の優越性などいった根拠の無い愚かな理論にしがみつかなくても自分に自信を持てる。しかしそうした誇れるものが自分に何も無い者は、「オレは白人サマだ!」と威張り、有色人種を見下すことにしか自身の存在価値を見いだせないのだ。

 そして愛国心も、まさにそれと同じなんだ。
 日本は素晴らしい国と信じ、自分もその一員だと思えばそれだけで“自信”を持てるでしょ? 石井希尚氏が愛国心や日本人の誇りを説いて「自信と自尊心を持て」と言うのは、そういう事なんだよ。
 愛国心と自分の民族への誇りを理屈抜きに持てば、何も頑張らなくて何の取り柄もない自分のままで、何かエラくなったような気になれるからね。そして同時に周辺の中国や韓国を、「どーしよーもない、駄目な奴らだ」と見下してさ。

 国や民族でなく自分自身に自信を持つのって、はっきり言って容易な事じゃないよ。だって人よりずっと頑張って、周囲の人達を納得させるだけの目に見える成果も挙げなきゃならないからね。
 これってすごく努力が要るし、とても大変なことだよね?
 でも“愛国心”で自信を持つなら楽チンだ。
「日本人は世界一優れた民族で、日本ほど素晴らしい国は他にない!」
 貴方がただそう信じさえすれば、その世界に冠たる日本民族で日本国民である貴方は、即座に自分に自信を持てる
のだ。貴方自身は何の努力もせず、個人としては駄目な奴のままでね。
 だからヒトラーなどの独裁者も自国民を「世界に冠たる支配民族」と洗脳し、ユダヤ人を迫害して。そして戦前戦中の大日本帝国も神国を自称し、大和民族の優秀性を主張して中国人や韓国(朝鮮)人を差別して来たよね。

 愛国心とか民族に対する誇りって、「持つな」とは言わないけれどマジで「取り扱い注意の危険物」なんだ。
 だって評価ってのは、そもそも相対的なものだよね? だから仮に「日本人は世界に並ぶもの無き優秀な民族なのだ!」と信じるとしたら、同時に「他の国の連中は遅れた駄目な奴ら」って思って見下すようになるのは必然じゃん? で、「だから我が国民が支配民族として、世界をリードして当然」と。

 例えばさ、中国人や韓国人だって悪い奴もいれば良い人もいるじゃん。と言うか、世界中どこの国でも、良い人だらけの国も悪党ばかりの国も無いことは誰だってわかっている筈だと思う。
 けど現にこの日本でも、ヘイトスピーチとか問題になってるし。そして週刊誌を見れば、多くが毎号のように中国&韓国叩きばかりしているよね。で、そういう記事を好んで読んでは「やっぱり中国と韓国の奴らは駄目だ」と納得して、我が日本の正しさと素晴らしさに改めて自信を持つ……と。
 ホント凄いよ、愛国心って。ただ持つだけで何の努力もナシに偉くなったような気になれるし、下等な他の国や他の民族どもを見下すことも出来てさ
 だから危険なんだよ、国家や民族に自信を持つことは。それでサミュエル・ジョンソンは、「愛国心は、ならず者の最後のよりどころ」と言ったわけデス。

 例えば個人でもさ、威張る人は嫌われるじゃん。たとえその人がいくら努力して偉くなったのだとしても、「このオレを誰だと思ってるんだ!」みたいな態度に出て特別扱いを強要したら、白い目で見られて人望を無くすよね。
 例えば黒沢は昔から国語と社会科が得意の文系人間で、数学は大の苦手だった。
 人ってさ、自分の得意なものを好きな人を高く評価して、自分の好きな科目が出来ない人は馬鹿にする人が多いよね?
 でも黒沢は自分の得意科目に自信を持つ反面、文系が苦手で数学ができる人もすごく尊敬してる。だってみんなが黒沢と同じ文系の歴史好きで、数学が出来る人が誰もいなかったら、世の中の文明はすごくイビツなものになって遅れてたと思うから。

 そう、人はそれぞれ自分なりに熱中できるものや得意なものを見つけて頑張れば良いんだよ。
 国語が好きな人も社会が好きな人も数学が好きな人も理科が好きな人も英語が好きな人も音楽が好きな人も美術が好きな人も技術家庭が好きな人も体育が好きな人も、皆それぞれ偉いし自分に自信を持つと同時に、互いに認め合って尊敬し合えば良い……って思ってる。
 自分が何かが得意だからって、自分だけが特別な存在と思って他を見下して威張る人は、皆から嫌われるよ。
 民族や人種もそれと同じで、誰もが自分の生まれて属している民族や人種に誇りを持つのは当然のことであると同時に、「特に優れた民族や人種など無い」ってことも理解しなきゃ駄目なんだよ。

 愛国心もそれと同じ。
 自分が生まれ育った国だから黒沢は日本を好きで愛しているし、「日本を出て海外で暮らしたい」なんて思ったこと、ホントにただの一度もないよ。
 でも中国人や韓国人だって同じように自分の国を好きで愛してるとわかってる。
 自分の国を愛する気持ちは世界中の誰もが同じで、日本と日本民族だけが特別優秀だなんて思うのは、ただ愚かと言うよりナショナリズムという、民族差別と戦争につながる危険思想のもとだよ
 だから黒沢は、人に自信を持たせるのに安易に愛国心や民族の誇りを利用しようとする人を軽蔑する
 中でも「愛国心を育てる為に、日本の良い面だけ教えて過去にした悪い事は教えるな!」と主張したがる文化人や政治家には、唾をかけてやりたいくらいの気持ちでいる今日この頃デス。
 だから黒沢は安倍政権や石原慎太郎氏や維新の会の面々や渡部昇一氏らは大嫌いだし、中條高徳氏が経営に関わっていた某社のビールも絶対に飲むつもりもないデス。

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君が代は死んでも歌いません⑧

 国旗と国歌をどう扱っているかについて、同じ第二次世界大戦の敗戦国ドイツを見てみよう。
 まず、ドイツも国旗は変えずに戦前のまま使い続けている。それはドイツ国旗そのものには、ナチスやファシズムの精神は無いからである。
 また、第二次世界大戦時のドイツの戦闘車両や軍用機には、鉄十字のマークがよく描かれていたが、その鉄十字のマークは少しデザインを変えて今のドイツ連邦軍でも使用されている。それは鉄十字がチュートン騎士団のマークに基づくもので、これもナチスやファシズムの精神との関連は無いから、現在も使用が認められているのである。
 但し鉤十字、ハーケンクロイツのみは旗でもマークでも駄目だ。それはアーリア人種のしるしで、反ユダヤ主義組織の旗印でもあり、ナチス思想と人種差別に大いに関係あるからだ。

 次にドイツの国歌についてだが、こちらは話が少しややこしくなる。
ドイツの歌』というドイツ国歌は、元々自由主義的なドイツ統一を目指した、1848年のドイツ三月革命のシンボルとして歌われたものだった。
 だがその三月革命が失敗し、ドイツがドイツ連邦からドイツ帝国になった後は、『皇帝陛下万歳』が国歌として使われるようになった。
 そして第一次世界対戦でドイツ帝国が敗れ、帝政が崩壊してワイマール共和国になってようやく『ドイツの歌』が正式に国歌となったのである。

 この『ドイツの歌』は三番まであり、まず一番では「マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト湾まで」と領土問題に触れ、さらに「ドイツよ、全てのものの上にあれ」とナショナリズム的な色彩を帯びた部分もある
 二番ではドイツの文化と歴史に触れてはいるが、言葉遊び的である上に、歌詞に女性蔑視と受け取られかねない部分もある。
 そして三番では、ドイツの統一と正義と自由について歌っている
 そのためナチスの時代には一番のみが歌われ、戦後は三番のみが歌われている
 ちなみに現在のドイツで『ドイツの歌』の一番を歌うと、ナチ扱いされて白い目で見られるか非難されることになる。

 以上で述べた通り、ドイツは国民が歌うべき国歌の中身を、その時の政治形態に合わせてきちんと見直してきた帝政時代には『皇帝陛下万歳』を、ナチスの時代には『ドイツの歌』のナショナリズム的な一番だけを、そして戦後は同じ『ドイツの歌』の祖国の統一と正義と自由を歌った三番だけと、時代に合わせてふさわしい歌を選んで歌っているのだ。
 翻って我が日本ではどうであるか。
 戦後、君が代がその歌詞を見直されることは全くなかったただ戦後しばらくの間、大っぴらに歌いにくい空気になっただけである
 君が代は唱うことを禁止されたわけでも、唱うと軍国主義者として白い目で見られたわけでもなかった。そしてさらに時が経つにつれ「君が代をまた国歌として斉唱させよう」という動きが強くなり、今ではその歌詞に対するろくな議論も無いまま、文字通りになし崩し的に全員が斉唱することを強制されている
 黒沢はこの日本の現状が、ドイツと較べて情けなくてならない。

 君が代を国歌として認めるでも、戦後の日本にふさわしい新しい国歌を作るでも良い。君が代斉唱を小学校低学年の幼い子供の頃から強制する前に、君が代の歌詞の意味と、それが今の日本の国歌としてふさわしいかどうか、とにかく徹底的に議論すべきだと黒沢は思う。
 同じ敗戦国のドイツに較べ、とにかく日本は国歌だけでなく、過去の歴史に対する見直しそのものが足りないと思う。
 君が代の問題を取り上げると、例の国旗国歌法を錦の御旗のようにふりかざし、脊髄反射のように「国歌を否定するのは自国を否定することで、そんな非国民は日本から出て行け!」と喚く方々。あなた方は、余りにもアタマが単純で思考力が足りな過ぎるよ。

 ついでに言えば、今のドイツではハーケンクロイツを掲げても、ヒトラーの『我が闘争』などナチス思想を宣伝する本を出版しても法律違反で取り締まられるのだ。しかしだからと言って、「ドイツは言論や表現の自由のない、酷い国だ」などと非難する人は殆どいないと思う。
 そして日本ではどうであろうか。あの紛うかたなき侵略戦争を「アジア解放の為の、大義の戦い」と美化する本が盛んに出版され、その種の論者が“愛国者”としてもてはやされている
 もしドイツであれば違法とされるようなファシズム賛美ですら、我が日本では「言論と表現の自由」ととして許されているのだ。果たしてこれを、「良い国」と言っても良いのだろうか。

 その種の過去の日本の侵略戦争を美化したがるファシズム賛美者たちによれば、あの戦争を侵略戦争と認めるのは「日本を貶めること」であるらしい
 南京大虐殺など日本軍が大陸でしてきた残虐行為を認めるのも、沖縄で住民に集団自決を迫った事を認めるのも、「日本を貶める自虐史観」であるらしい
 つまり「日本が過去にした悪事を認めると、日本人は愛国心を無くし日本に誇りを持てなくなり、日本は駄目な国になる」と言うんだね?
 ねえ、ちょっと頭オカシクないかい?

 もしも「ナチスは共産主義の脅威から文明を守る為に大義の戦いをしたのであって、ユダヤ人を虐殺などしなかったし、ホロコーストも無かった」と言ったとしたら、「おい正気か、頭は大丈夫か?」と言われても仕方ないだろう。
 だからまともなドイツ人なら、過去のドイツの侵略戦争とその非はちゃんと認めているし、アウシュビッツもホロコーストも認めている
 そしてドイツの政治家たちは機会がある度に、過去の歴史に対する謝罪と反省を口にしている
 過去の歴史を美化したい日本人たちに聞くが、ドイツは駄目な国になっているか?
 ドイツ人は愛国心を無くし、ドイツに誇りを持てなくなっているか?
 どう見ても違うだろう、ドイツ人は自国の非をちゃんと認め、過去にした残虐行為は度々謝罪もしているが、愛国心も誇りも間違いなく持っているし、ドイツは今も紛れもなく立派な国だ

 しかしそのドイツとドイツ人には出来た事が、自虐史観を口にする人たちは「日本と日本人には出来ない」と思っているらしい
 何故だろうね?
 現にドイツとドイツ人は過去の過ちを認めて謝ってもまた頑張れているのだが、「日本人は過去の過ちを認めて謝ると、愛国心も誇りも持てなくなってしまい、日本は駄目な国になってしまう」と、そう本気で恐れているらしいのだよ、渡部昇一氏や中條高徳氏らに代表される皇国史観の方々は

 つまりさ、その種の過去の戦争を美化して、都合の悪い事を言われるとすぐ「日本を貶める自虐史観だ!」と怒り出す人たちは、「反省しちゃ駄目だ」って主張してるのと同じなんだよ。
「過去に悪い事をした人が、その自分のした事をちゃんと認めて反省すると自分に誇りが持てなくなり、駄目な人間になる。反省は“自分を貶める自虐”で、だから絶対に過去を反省しちゃ駄目だ」と言ってるのと同じだよね、それって。
 過去の戦争を美化して「愛国心を持たせる為に、日本の良いところだけ教えろ」とか言う人たちに
バカじゃん、何言ってんの?」って、黒沢は心から思うよ。

 黒沢は改憲論者で、自衛隊も正式な軍にすべきと思っている保守思想の“右翼”だけれど。それでも過去の歴史は直視しているし、南京大虐殺も含め日本軍は大陸で非道なことをしてきたと思うし、沖縄でも住民に犠牲と自決を強いたとも思ってる
 我が“皇軍”が世界的に見ていかに異様な軍であったかもよくわかってるし、「天皇陛下、万歳!」と叫んでバンザイ突撃や特攻をして死んでいった過去の日本の若者のことを思うと胸が痛む。
 だからこそ黒沢は昭和天皇や今上天皇や花園天皇や光厳天皇など尊敬する天皇は数々いても、明治維新以来の大日本帝国と天皇制には好意的にはなれないし、天皇の治世が永久に栄えることを願い祈る“君が代”もまた唱う気になれないのだ。

 君が代が嫌いで唱いたくないのは、無論黒沢個人の思想の問題だ。だから逆に君が代が好きな者が居ても構わないと思うし、唱いたければ自由に大声で唱えば良いと思う
 但し唱うのは、あくまでも個人の意志によるものであってほしい
 現に今上天皇陛下御自身、君が代について「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と仰せになっている
 君が代斉唱を皆に強制させようとしている人達は、己がその天皇陛下の大御心をも無視しているのだという事実を、よく理解していただきたい

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君が代は死んでも歌いません⑦

 渡部昇一氏や中條高徳氏などは、今の歴史教育を自虐史観だと盛んに言う
 しかし黒沢は、逆に「今の日本の歴史教育は、見直しが足りない」と思っている

 例えば先にも触れた「建武の中興」であるが、それはあくまでも天皇(それも南朝の後醍醐)の視点からの皇国史観的な見方である。実態から見れば、正しくは「建武の反動復古」または「建武の混乱」と言うべきであろう。
 幕末の「安政の大獄」についても同じ事が言え、それを“大獄”と思うのは勤王方の反幕府勢力の見方であり、幕府からすればただ「テロリストを取り締まっただけのこと」であろう。
 ちなみに例の「安政の大獄」とやらで取り締まられた勤王方の志士wwwたちが明治維新後に作り上げた政府は、その安政の大獄より遙かに厳しい弾圧をして自由民権論者などを逮捕し、遙かに大勢の政治犯を北海道などの監獄で虐待している
 もし井伊大老の反幕府勢力の取り締まりを「安政の大獄」と言うのであれば、明治の薩長政府の弾圧についても「明治の超大獄」として触れ、歴史の教科書にも載せねばねばフェアでないと思う。
 日本の学校で今も教えられている歴史の教科書には、この種の戦前の天皇中心の(中臣鎌足や楠木正成や幕末の勤王勢力らや明治新政府は善で、蘇我入鹿や北条高時や足利尊氏や井伊直弼らは悪という)見方が、未だに少なからず残っているのだ。

 日本の戦後の教科書と言えば、まず「墨塗り」が有名だが。GHQの指示により、教科書で軍国主義的な部分を黒く塗り潰したというアレだ。
 日本の戦後の歴史教育ってのは、まさにそれなのだ。戦前のテキストのうち、明らかに天皇を神格化している部分や軍国主義的な文言だけ塗り潰して、本質的な見直しはせずにそのまま使っているように見える。
 だからこそ蘇我入鹿は悪人のままだし、「建武の中興」やら「安政の大獄」やらの勤王および薩長方の見地に立つ言葉もそのまま残り、明治維新と薩長主導の明治政府の政治についてもひどく甘く好意的に記述されたままである。
 露骨に軍国主義的な、GHQに怒られた所だけチョチョイと変えて、根本的な見直しはせずに大半は戦前のままで残す。これが日本のやり方なんだよね。
 だから天皇家の系譜も、未だに初代は神話で架空の神武天皇のままなのだ。
 さらに“万世一系”の筈の皇統も、「後醍醐天皇が正義で、足利尊氏は悪である」という大義名分論こだわるあまりに、妙な事になっているのだ。

 後醍醐天皇は例の建武の中興wwwで身勝手で恣意的な政治をとった挙げ句に足利尊氏に背かれて敗れ、逃げた先の吉野で勝手に朝廷をたてた。一方勝った足利尊氏もまた、京で持明院統の血をひく親王を天皇にたてる。
 そこで皇室が京の北朝と吉野の南朝に分裂するという事態が起きるが、その南北朝の争いは北朝の優勢が明らかで、室町幕府の三代将軍義満の時、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を返却することで、南北朝の合体が成し遂げられる。
 つまり南北朝の争いは北朝が勝ち、今上天皇も含めてその後の天皇は全て北朝の子孫である。

 しかし天皇が絶対の戦前の皇国史観では、「皇室はあくまでも南朝が正当!」ということになっていたのだ。北朝は朝敵で悪者の足利尊氏がたてた傀儡政権だから、天皇としての即位は認められない……ということで。
 それで北朝の歴代の天皇の即位は「なかったもの」とされ、天皇の代は南朝を基準に数えているのだ。南北朝が合体して以来の天皇はすべて北朝の子孫で、南朝の系統の者は只の一人もいなかったのにもかかわらず、である。
 無論今上天皇も皇太子殿下も、今の皇室の方々はみな北朝の血筋をひいておられる。
 にもかかわらず、皇室は今もなお南朝を正当とし、その代も南朝に従って数え続けているのだ。そして歴史の教科書でもそれに従って、天皇の代は南朝を正当として数えている

 建前にこだわらずに事実のみを見れば、北朝が正当なのは明らかだ。なのに皇室も日本の歴史教科書もなぜ未だに南朝を正当とし続けるのか、黒沢にはとても理解できない。
 戦前の天皇を神格化した皇国史観的な見地から見れば、逆らった臣下がたてた北朝など、とても正当と認められないのだろう。しかしならば例の南北朝合体後の、北朝の血のみひき続ける後小松天皇以降の皇室すべてもまた、正当でないニセモノということになるではないか。

 このように日本の歴史にまだ根を張る戦前の皇国史観的な見方(天皇は絶対で、勤王方と薩長が善)は、今も歴史の教科書のみならず、皇室の歴史にも矛盾を残し続けている
 未だに後醍醐の「建武の中興」や、井伊直弼の「安政の大獄」などの言葉は残り、皇室は神武天皇が初代で南朝が正当で、明治維新で文明が開花し、江戸幕府を倒した薩長の政府のおかげで日本が列強に肩を並べる立派な国になったと教科書で教え続けているのである。
 どう見ても戦前の教科書の不都合な上っ面に墨を塗っただけで済ませ、根本はまるで見直されずに残っているとしか言えない。
 そう、君が代の問題もそれと同じなのだ。
 歌詞の意味をきちんと検証し、それが日本の国歌としてふさわしいかどうか本質的な議論されることも無いまま、なし崩し的に国歌として唱うことを強制されているのが現状である。

 終戦後、日本は国民主権の、民主主義の自由な国になった。そして明治憲法下で「天皇の治世を祝う歌」とされてきた“君が代”は、新しい日本国憲法の精神にも反しているとされ、国歌として扱うことは出来なくなった。
 ところが戦前の天皇ファッショの時代の日本が恋しい保守反動勢力が根深くいて、まず1950年に君が代斉唱を進める大臣通達が出され、1977年には学習指導要領で一方的に君が代が国歌と規定され、そして1999年にとうとうあの国旗国歌法が成立するわけだが、その間に“君が代”の歌詞の意味と、それが今の日本の国歌としてふさわしいかの議論が、国会や国民の間で充分かつ真剣になされたとは、黒沢にはとても思えないのだ。
 その間の経緯は、ただ「戦前回帰を目論む右翼勢力によるなし崩し」としか言いようがないように見える。
 そして義務規程もなければ罰則もなく、「強制は伴わない」と繰り返し約束された上で成立した筈の国旗国歌法だが、いつの間にか君が代を唱うことが義務として強制され、従わぬ者は処罰されている現実は、これまでにも繰り返し述べてきた通りである。


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君が代は死んでも歌いません⑥

 宗教は怖い
 何しろ“神”は、親兄弟より自分自身より大切なものだから。そしてその教えを信じない者は「殺しても良い悪魔」で、死後は「地獄に堕ちる」と。
 だから宗教の狂信者達は異教徒を憎み、差別し、場合によってはテロや戦争も辞さない。

 そして明治維新から敗戦までの大日本帝国も、国民に国家神道による祭政一致で“天皇教”を信じさせ、天皇を現人神または現御神として拝むことを強制してきた
 繰り返し言うが、他国の王や皇帝と違い、天皇は神なのである。1946年に人間宣言が出されるが、それまでは全国民が天皇陛下を神として拝んできたのである。
 これを「天皇を信仰する一神教」と言わずして、何と言おう
 人間宣言をしてもまだ天照大御神以来の神話はまだ生き続けているし、天皇を崇拝する人々には「どんな批判も絶対に許さぬ宗教の狂信者」に似た危険な臭いが漂い続けている

 今、靖国神社参拝を押し進める者たちは、「国の為に命を捧げた者を慰霊するのは当然」と言うが、それは言葉のすり替えだ
 旧帝国陸海軍はあくまでも“皇軍”であり、日本国防軍ではなかった。天皇陛下の為の軍であって、国民の為の軍ではなかったのだ。
 その証拠に、戦場で日本兵は何と叫んで死んで行ったか
天皇陛下、バンザイ!
 彼らは決して、「日本、バンザイ!」と言って散っていったわけではないのである。
 だから靖国神社は、「天皇の為に命を捧げた者が祀られているところ」と言うのが正しい。もっとも今はその中に、天皇の名を借り多くの兵士を戦わせて死なせた側の戦犯も合祀されているが。

 あのナチス武装親衛隊の兵士らも、誰も「ヒトラー総統、バンザイ!」などと叫んで死にはしなかった。スターリンのソ連や毛沢東の中共などの独裁国家でも、それは同じ事だ。
 しかしかつての日本兵らは日本を神国と信じ、神である天皇の名を叫んで死んでいった
 だから黒沢は、「日本の天皇制は宗教だ」と言うのである

 かつての日本軍はあの戦いを“聖戦”と呼んだが、アラーの名を叫び自爆テロをし、それを“聖戦”と呼んでいるイスラム原理主義の過激派と何がどう違うと言うのか
 あの9.11テロで、ニューヨーク世界貿易センターのツインタワーに突入し自爆した飛行機のことを、欧米では“カミカゼ”と呼んでいる
 同じ日本国民としては、祖国の為に命を犠牲にした日本の特攻とイスラムのテロを一緒にされては不愉快だろう。
 しかし第三国の者が客観的に見れば、どちらも同じ“カミカゼ”の自爆攻撃なのだ。

 あの渡部昇一氏や中條高徳氏も同類だが、『だから、日本人は「戦争」を選んだ』を書いた岩田温氏など、日本の侵略戦争を擁護し肯定する者たちは同音異句でこう言う
あの戦いには大義があった。だから日本はワルクナイ
 冗談じゃない! ナチスだってソ連だって中共だってポル・ポトだって北朝鮮だって、どの独裁国家も皆それぞれ“大義”は持っているのだよ。
 掲げる大義もなく「俺たちゃ世界征服を企む悪党だぜ、殺人、強盗、悪い事は何でもやり放題よ!」などと本音を吐いてる悪の組織や国なんて、世界中ドコにもありません、ってば。
 例えばヤクザにだって、仁義だの何だのと掲げる綺麗事はある。そしてワ○ミなどの有名ブラック企業だって、社訓だけは立派だ。
 無論イスラム過激派の“聖戦士”たちにも、大義は彼らなりにちゃんとあるのだ
 だから「あの戦争が侵略であったかどうか」は、戦争に至る経緯と軍事的な事実のみで見るべきで、大義などという子供騙しレベルの幼稚な言い逃れに惑わされてはいけない

 その建前の大義に騙され、その時々の為政者の良いように踊らされる馬鹿になってはいけない
 例の「危難にさらされている日本人の母と幼い子を守るため」など、安倍首相が滑らかに語る耳障りの良い建前に踊らされて騙される馬鹿は、それと気づかぬまま、第二次大戦で日本が犯した過ちをまた繰り返すだろう
 少なくとも思慮のある人には、大衆を操る為に政治家が声高に言う大義になど惑わされず、事実のみで物事を判断してほしいと願う。

 さて、ここまでに「日本の万世一系の皇統とは、神話に基づく架空のものである」ことと、「日本の皇室が宗教(国家神道)と不可分のものである」ことを、繰り返し述べてきた。
 だから皇室を神の如く崇拝する者たちは、天皇を絶対不可侵の存在として他の皆にも同じように“信仰”することを強要する
 そして皇統の永続を願い祝う君が代の斉唱は、個々人がその天皇崇拝を受け入れているか確認する為の、わかりやすい“踏み絵”なのだ
 あの橋下氏が支配する大阪の学校のように、ちゃんと唱っているか口元まで確かめれば、その天皇崇拝を受け入れているかどうかが一目でわかる。
 そして黒沢は天皇家の数々の神話を含め、すべての宗教を否定している徹底した無神論者であるから、君が代は絶対に唱えないのだ。

 繰り返し言うが、黒沢個人としては、昭和天皇と今上天皇は心から尊敬しているしかしそれと「皇室そのものを崇拝するか?」と言うのは、またまるで別問題なのである。
 と言うと、おそらく「わかりにくい」と思う人たちが少なからず出て来るだろう。「今の天皇を尊敬しているなら、皇室にだって敬意を持って当然だろう?」と。

 さっくり説明しよう。例えば近頃は“歴女”とやらもいるし、歴史に関する本も多々出版されているが、数々いる戦国武将のうち徳川家康を好きで尊敬している人も少なからずいるだろう。
 しかし家康が好きだからと言って、その後の徳川十五代の将軍たち全員を好きで尊敬しているわけではなかろう
 実際、黒沢は家康をかなり高く評価していて、日本の覇者として信長や秀吉よりふさわしいと思っている。だが家光や家斉は尊敬などとても出来ないし、綱吉と慶喜に至っては大嫌いだ。吉宗は一般的に名君と思われているが、黒沢はそれより尾張の徳川宗春の方がずっと好きだ。

 天皇家もそれと同じで、黒沢は昭和天皇や今上天皇、それに花園天皇光厳天皇も大変立派な方と尊敬している。さらに元明天皇元正天皇の時代も穏やかな良い治世であったし、嵯峨天皇も立派な治世を行ったと思う。
 しかしそれと同時に権勢欲に満ち、己の欲の為に身内も含めて多くの者を殺したり、戦乱を招いたりした天皇や、国を治める能力そのものが足りなかった天皇の存在も、幾らも知っている
 だから今上天皇も含め、尊敬している天皇は幾人もいるが、皇室そのものを尊いものとして崇拝する気には、とてもなれないのだ。

 そもそも天皇家の人々も決して神でなく、我らと同じ人間である以上、尊敬できる人ばかりではなく望ましからざる良くないお方もいるのは必然なのだ。だから黒沢は皇室の方々すべてを、無条件で丸ごと尊敬するわけにはいかない。
「皇室を無条件に尊べ」と言うのは、まさに「我が神を、オマエもそのまま受け入れて信じろ」と言うのと同じである。

 黒沢は思うのだが。
「日本人なら、皇室に尊敬の念を抱いて当然」と考える“保守”の方々は、未だに「天皇は一般の人とは違う現人神さまである」と考えているに違いないと思う。そしてだからこそ「皇統が永遠に栄えることを願い祝う」君が代も、「国民(臣民?)皆が唱うべき」と、何の疑問も抱かずに信じているのであろう。

 だから君が代の問題は、「そもそも今の日本の国体を、その人がどう考えているか?」という点に戻るのである。
 例の“三行以内”で言えば、こういう事だ。
日本を天皇が治める君主国だと思う者にとっては、君が代斉唱はごく当たり前の事で、自由な民主主義国になった筈だと思う者は、それに違和感と強い抵抗を感じる
 そして黒沢は「君主国である」という事よりも、自由と民主主義の方に重きを置く故に、天皇の治世が永く続くことを祝い願う君が代は、国歌としてふさわしくないと思うのだ。

 神話で虚構の神武天皇即位の日である戦前の『紀元節』が、そのまま『建国記念の日』として蘇り、明治天皇の誕生日『明治節』が名を変えて『文化の日』として残って。
 そして疑う余地もなく天皇賛歌の君が代の斉唱が、実質的に強制されている現状を見るにつけ、「今の日本は、かつての大日本帝国とどれだけ変わったのだろう?」と思わされる。

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君が代は死んでも歌いません⑤

 学校での君が代斉唱の強制に、黒沢が何故ここまで反対するか。それは戦前の教育による刷り込みと洗脳の恐ろしさを、歴史を学んできた者の一人としてよく知っているからである。
 明治維新から敗戦までの七十年以上に渡って、国民全てが小学一年生の頃から、「天皇は神だ、そして国民はその天皇陛下の為に死ね!」と教えられて来たのだ。当時の子供らは天皇皇后を神として拝まされ、特に修身という授業では、忠君愛国と天皇制国家主義が徹底的に叩き込まれてきた。
 これを「天皇崇拝の洗脳教育」と呼ばずして、何と言おう。

 知っているだろうか。
「畏れ多くも……」
「畏(かしこ)き辺りにおかせられては……」
「漏れ聞くところによりますると……」
 敗戦までの学生は、上に挙げたような言葉を聞くと、そのすぐ後に続く天皇や皇室に関する発言を予測して、直ちに起立し直立不動の姿勢をとったのだ。
 そんな恐ろしい時代は、二度と来て欲しくないと黒沢は思う。

 しかし現実には、まだ歌詞や天皇制の意味やその歴史も殆ど知らぬ小学一年生の頃から、式典でその天皇陛下の治世の永続を祝い願う“君が代”を、何の疑問も持たずに皆で唱うよう教育されているのだ。
 まさにそれこそが、君が代を「日本中の学校において国歌(君が代)を斉唱させるのが私の仕事」と言って憚らない者たちの狙いであろう。
 そして黒沢はそこに、明治維新から終戦まで続いた天皇を神格化した洗脳教育の臭いを感じるのだ。

 断っておくが、黒沢は天皇制には少なからぬ疑問と不安と不信を抱いているが、昭和天皇と今上天皇陛下のお人柄の素晴らしさはよくわかっているし、個人的にも深く尊敬している
 ただ黒沢は骨の髄からの無神論者だから、天孫降臨の神話などとても真に受ける気にはなれないし、天皇が現人神だなどと笑止千万とも思っている

 昭和天皇と今上天皇陛下が人格高潔で素晴らしい方であることは、黒沢もよくわかっている。昭和天皇の人柄には、あのマッカーサー元帥だけでなく、「天皇は戦争責任をとって退位すべきだ」と主張していた田島道治氏すら魅了された。そして田島氏は宮内府(後の宮内庁)長官として、昭和天皇に忠実に仕えることになった。
 しかし昭和そして今上と、二代続いて立派な陛下が在位されたからこそ、逆にマズいのだ。

 今の国民はみな人格高潔で立派な天皇陛下しか見ておらず、その地位にふさわしくない人格の天皇、あるいは能力に欠ける天皇が現れる可能性を、殆どの人は予想もしていないだろう。
 だが天皇が現御神でなく“人”である以上、怒りや憎悪なども心にあるだろうし、我欲もあるだろう。そしてその負の感情や我欲を抑えられぬ、その地位に適さぬ“天皇”も、いずれ現れるに違いないのだ。
 事実黒沢は歴史を学んだ者として、「その地位にふさわしくない人柄の、我欲や権勢欲に満ちた望ましからざる天皇」が、過去に幾人も存在した事実を知っている。

 例えば中大兄皇子こと、天智天皇。この方はご自身が天皇になりたくてたまらなかった。それでその邪魔になる、自分より年長で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を追い落とす為に、策謀を巡らせて蘇我入鹿を暗殺した。
 蘇我入鹿は、その師で学僧の旻に「中臣鎌足と並ぶ者は、蘇我太郎(入鹿)の他におらぬだろう」と言われていたほど優秀な人物であった。
 その入鹿は新羅の勢力が伸びつつある朝鮮情勢を見極め、それまでの百済一辺倒の政策を改めて、新羅と百済双方との等距離外交に切り替えようとしていた。しかし中大兄皇子は百済のみに肩入れする従来の外交に固執し、その百済救援の為に朝鮮に大軍を送った挙げ句に、白村江の戦いで唐の水軍に大敗して多くの日本兵を異境の地で死なせた
 さらに唐の侵攻を恐れ、九州に城を築かせ、また大勢の防人を各地から徴発して送るなどして、民に多大な負担をかけて苦しめた

 史実を丹念に見て行くと、蘇我入鹿は決して従来から思われているような悪人ではない天智天皇の弟の天武天皇や、その后の持統天皇ら中大兄皇子の身内の意向によって編纂された『日本書紀』によって、ことさら悪人に描かれているだけである。
 蘇我入鹿を暗殺するにあたり、中大兄皇子は入鹿の叔父の蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。しかし入鹿を消してしまえば石川麻呂は用済み、と言うよりむしろ邪魔者ということで、石川麻呂は程なく中大兄皇子の策謀で陥れられ、殺されている。
 またその中大兄皇子だが、実の妹の間人皇女と恋愛関係を持っていたことも知られている。その醜聞の為、中大兄皇子は入鹿を殺した後も天皇には即位できず、軽皇子を孝徳天皇とする傀儡政権を立てて政権を握った。そしてその孝徳天皇の死後には、孝徳天皇の子の有間皇子を殺している

 自分の弟や娘らが編纂した『日本書紀』に、政治的な意図で史実を歪曲して美化して描かれている為、名君のようなイメージを持たれている中大兄皇子(天智天皇)であるが。実態をよく見てみれば、冷酷で権勢欲の強い、血にまみれた策謀家なのである。またその対朝鮮政策の失敗により、多くの兵を死なせ民に多大な負担を強いたことも見逃せない。

 さらにその天智天皇の娘で、天武天皇の后である持統天皇(鵜野讃良皇女)であるが、このお方は漢の呂后とも較べられる人で、我が子の為なら人も殺しかねないコワい皇后サマでもある。
 この鵜野讃良皇后と天武天皇の間には草壁皇子という子がいたが、天武天皇には他に大津皇子という息子もいた。そして草壁皇子が穏やかで大人しい、まあ凡庸な皇子であったのに対して、大津皇子は逞しく闊達で人望もあった。
 それでこの鵜野讃良皇后は、大津皇子を殺してしまうのである。ただ凡庸な我が子を、皇位につけたいが為に
 ちなみに殺された大津皇子の母親は、鵜野讃良皇后の実の姉の大田皇女である。
 つまり鵜野讃良皇后にとって大津皇子は「夫がヨソの女との間に作った赤の他人」ではなく、「血の繋がりもある実の甥」だったのだ。

 我が子の為に、実の甥まで殺してのけた鵜野讃良皇后だが。ところが肝心の我が子草壁皇子は、僅か二十七歳で病死してしまう。
 天智天皇や天武天皇の実子など、皇位につくにふさわしい成人した皇子なら、他にも幾人もいた。
 しかし鵜野讃良皇后はまだ幼児に過ぎない草壁皇子の子、つまり自分の孫(後の文武天皇)に何としても皇位を継がせようと思った。そしてその孫の成長を待つ間の中継ぎの天皇として、自ら皇位につき持統天皇となったのだ。
 この我が子と孫を皇位につける為の、鵜野讃良皇后のなりふり構わぬ執念を見ると、ただ「母(祖母)の愛は恐ろし」と言うしかない

 そして文武天皇の孫の、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の治世もまた酷かった。孝謙(称徳)天皇は道鏡を寵愛する反面、その意に逆らう者は容赦なく殺した
 和気清麻呂を「別部穢麻呂」、その姉の広虫を「狭虫」と改名させるなど、人を貶める名前をつけるのが好きで、政敵は死ぬまで棒で叩き続けるなどの残酷な処罰を加え、当時の記録に「政刑日に峻しく、殺戮みだりに加えき」、つまり「政治的裁判は年々ひどくなり、むやみに人を処刑するようになった」と書かれたほどであった

 平安京に遷都した桓武天皇もまた、皇位を己の子に譲る為、皇太子であった同母弟の早良親王を陥れて死に追いやった。そして東北で穏やかに暮らしていた何の罪もない蝦夷を大軍で攻め立て、多くの血を流して蝦夷の土地を征服した
 その蝦夷への出兵と新都造営で国家財政を疲弊させ、民にも少なからぬ負担をかけた。
 その桓武天皇の子で、早良親王の犠牲のもとに皇位についた平城天皇も、弟の嵯峨天皇に譲位した後に寵姫藤原薬子に惑わされ、我が子を皇位につける為に兵乱を起こそうと企てる始末だ。

 白河法皇や後白河法皇、それに後鳥羽上皇もまた、権力欲に満ちた策謀家であったが。
 中でも後醍醐天皇の権勢欲には並外れたものがあった。
 その当時は、後嵯峨天皇が二人の我が子(後深草天皇と亀山天皇)に順々に皇位を継がせ、その後もその兄弟の子孫が交互に皇位を継ぐことになっていた。
 その後嵯峨天皇の二人の子のうち、後深草天皇の子孫を持明院統、そして亀山天皇の子孫を大覚寺統と呼ぶ。
 この大覚寺統の後二条天皇の弟で、持明院統の花園天皇から位を譲られたのが後醍醐天皇である。
 本来は後二条天皇の子の邦良親王が帝位につくべきであったが、邦良親王がまだ若年であったため、その叔父の尊治親王が即位して後醍醐天皇となったのである。
 このように子ではなく弟が皇位を継いだ場合、弟は兄の子が成長するまでの「中継ぎの天皇」という扱いで、地位は我が子でなく兄の子に譲るものだった。
 しかし後醍醐天皇はそれを無視し、皇統を我が子孫に譲ろうとした。それで持明院統はもちろん、大覚寺統の本流も敵に回して抗議され、それで鎌倉幕府が仲介に乗り出したのだが、後醍醐天皇は「武士が皇位の継承に口を出すなど不遜である!」と兵を起こしたのである。
 その挙兵に、鎌倉幕府に不満を持つ諸国の武士が乗っかり、その武士らの力で北条氏を滅ぼし政権を奪取したのが、いわゆる「建武の中興」だ。
 しかし武士の力で政権を勝ち取ったことにも気付かず、己の威光を過信して、何の功績もない己に近い貴族らを依怙贔屓して優遇し、めちゃくちゃな政治をした挙げ句に武士に背かれて、僅か二年で倒れたのが建武の「中興」の実態だ。
 ひたすら後醍醐の南朝を擁護する為に書かれた『太平記』と、明治維新後の皇国史観の影響で、後醍醐天皇とその近臣ら(大楠公こと楠木正成など)は異常に美化されている。しかし実際の後醍醐は、我欲の為に日本を戦乱の渦に巻き込み、社会を混乱させ多くの人に血を流させた迷惑な天皇と言うしかない

 ちなみに黒沢の「日本史上で嫌いな政治的な指導者ワースト・スリー」は、後醍醐天皇と孝謙(称徳)天皇、そして山県有朋である。さらに次点として挙げるとすれば、中大兄皇子(天智天皇)と持統天皇と松平定信と徳川慶喜といったあたりも嫌いで、「もし彼らが居なければ、日本はもっとマシになっていたのに」と思っている。

 え、「キライな歴史上の人物に、天皇が多すぎるじゃないか。オマエはやっぱり反日の非国民だ!」って?
 いや、古代は天皇が絶大な権力を握っていたからね。今の象徴天皇や、武士の時代のお飾りの天皇と違って、古代は天皇が自ら政治を動かしていたのだ。
 そしてそれだけに、権勢欲が強かったり、冷酷だったり、依怙贔屓が強く公私の区別がつかない暗愚な天皇が出現すると、世はたちまち乱れて民は苦しんだのだ。だから嫌いな政治的指導者に天皇の名が挙がってしまうのも、仕方の無い事と言うか必然なのだ。
 黒沢は天皇を神格化して見ていないから、失政の責めを近臣のせいにしたり、ことさら美化して見ないふりをして済ませたりせずに、「あの天皇はここが駄目だ」としっかり言い切れてしまうのだ。

 あの藤原道長が若かりし頃、内裏が火事になった。それで道長が内裏に駆けつけると、火から逃げて来る公卿や殿上人らが皆、袂で口元を抑えて必死に笑いを堪えていたという。
 何故かと言うと、その火事から天皇も輿で逃れたのだが、天皇は輿で連れ出される間、調子外れな声で高らかに歌を、それも事もあろうに『庭火』という神楽を歌い続けていたのだそうだ。
 ま、今風に言えば、我が家が火事で逃げる途中に、音痴な大声で「焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き~」とでも歌っていた……といった感じだろうね。
 あえて名前は出さないがその天皇陛下は、実を言うと今であれば精神的な医療を受ける必要のあるお方だったのだ。

 日本の天皇は、何しろ天照大御神の孫で天から下って来た瓊瓊杵命の子孫の“現人神”サマだからね。
 そして天武天皇の頃から「大君は神にしませば」と詠われ、自ら明神(あきつかみ、人の姿をした神)を名乗ってきて。
 だから今も殆どの日本人は「天皇陛下は、神の如く立派な方々ばかり」と思っていて、冷酷な策謀家や、暗愚な暴君が現れることなど想定もしていないのではないか。
 しかし現実は違う。権勢欲に満ちた策謀家や残酷な暴君、その任に耐えない暗愚な帝も、歴代の天皇の中には確かにいたのだ。
 昭和天皇に今上天皇と二代続いた人格高潔で立派な天皇陛下しか知らない今の国民は、そうした野心家の天皇や、精神的な治療の必要のある天皇が出現した場合の覚悟があるのだろうか

 軍事的にも政治的にも殆ど実権の無かった後醍醐天皇が、天皇の名を利用したい武士らに担がれて、鎌倉幕府を倒して北条氏を滅ぼしたように。
 象徴天皇とは言え、もし政治的な野心を持つ皇族が天皇となり、そこにその名を利用して戦前の大日本帝国のような国家の復興をもくろむ勢力が近づいたとしたら。あの後醍醐天皇のように日本をひっくり返す可能性は、「全くない」とは断言できまい
 だから黒沢は、未だに神話の神武天皇以来の皇統を名乗り続けている日本の皇室の存在には危惧の念を抱いているし、天皇制も支持できないのだ。

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君が代は死んでも歌いません④

 最近、特定秘密保護法のことがしばしばニュースに取り上げられるが、それに似た戦前の治安維持法の話をしよう。
 治安維持法とは元々、革命を企てる共産主義者を取り締まる目的で作られたもので、当初は国体の変革と私有財産の否定を目的とした組織のみを対象としていた。それが時局の変化に合わせて政府の都合で歯止め無く拡大解釈されるようになり、自由主義者まで含めた軍国主義に反対する人々すべてが「陛下に弓引く非国民」として逮捕処罰されるようになったのだ。
 この自由主義者まで全てを「サヨクの非国民」と一括りにして叩くあたり、君が代斉唱の強制に疑問を持つ者はすべて「サヨクの自虐史観の非国民」として罵る今の風潮と、黒沢にはひどくよく似ているように思える

 特定秘密保護法の話が出たが、同様に安倍首相がゴリ押しに決めてしまおうとしている集団的自衛権についても、黒沢は安倍首相も今の自民党も全く信用していない
 安倍首相と自民党を、黒沢はなぜ信用できないか。それは君が代を国歌と定めた国歌国旗法の制定時の事情と、それが例の治安維持法のように、いつの間にか当初の趣旨が忘れられるか意図的に無視されるかして、政府や首長の都合の良いように拡大解釈されて運用され、強制に変わって行っているかを、よく見て知っているからだ。

 君が代を皆に唱うことを強制させる者たちは、その根拠として国旗国歌法を挙げている。で、「法律にあるのだから、全員が唱うのが当然だ」と。
 ではその国旗国歌法とは、そもそも何であるか。
 国旗国歌法は1999年に小渕内閣で成立したものだが、日の丸と君が代を正式な国旗と国歌にしようという運動がある一方、反対意見も少なくなかった。

 日の丸については、それこそ強い自虐史観を持つ徹底した反戦運動家のサヨク以外は国旗と認めることに抵抗は無かったと思う。
 事実黒沢も、君が代は認めていないが日の丸を日本の国旗とすることには、何の疑問も持っていない。何故なら日の丸とは「日出ずるもとの国」という、日本の古来からの美称からくるものであり、そこに軍国主義的な思想も、明治維新からの神格化された天皇制もまるで関係ないからである。
 もし「日の丸を変えよ」と言うのであれば、まずそのもととなった「日本」という国名から変えねばなるまい。
 一部の“識者”に「戦時中に日の丸を見て、いやな思いをしたアジアの人達がいるから変えるべき」と言う人がいるが、その責を負うべきは国旗を悪用した当時の軍部であって、日の丸自体に罪はない。

 しかし君が代については、日の丸とはわけが違う。それが天皇賛歌であることは、言葉の意味がわかる者には疑う余地もない。だから「戦前の軍国主義(天皇ファッショとも言う)の時代に、天皇陛下の御代が千年も万年も続いてお栄えになられるように心からお祝い申し上げる為に唱った君が代は、そのまま戦後の民主主義国家の国歌として唱うのは良くない」と思う者がいるのは自然なことなのだ。
 例の「三行で」言えば、「日の丸は天皇制やファシズムなどとは無関係だが、君が代にはそうした戦前回帰の臭いがプンプン漂う」ということだ。
 日本語がちゃんと読め、君が代の歌詞の意味が正しく理解できる者であれば、君が代が自由で民主主義の国となった筈の戦後の日本の国歌にふさわしいかどうか、疑問を持つのはごく自然なことなのだ。
 だから日の丸を国旗とすることに反発する者は、ごく僅かな者(極端な反戦論者と過剰な自虐史観の持ち主)だけなのに対して、君が代斉唱の強制に関しては少なからぬ抵抗があるのだ。

 ただ戦後廃止されていた神話で虚構の“初代天皇”神武天皇の即位の日を祝う『紀元節』が、いつの間にか同じ趣旨の『建国記念日』として蘇ったように、日本を戦前の神である天皇の国に戻したい勢力は日本の各界に根深く生き残っているのが現実だ。
 何しろ明治維新以来、天皇を神として拝み、その神である天皇の為に死ぬ教育が、七十七年の長きに渡って続けられたわけだから。戦後に始められた付け焼き刃の民主主義の教育程度では、その“天皇教の洗脳”は容易にはとけはしなかったのだ。
 だから各学校の管理職たちは、学校の式典で君が代を唱わせたい政治勢力や教育委員会などの圧力と、それに抵抗する教職員らの板挟みになって、大変苦慮したわけだ。そしてその問題に悩んだ広島県のある校長が、1999年の3月に自殺したのである。
 するとすかさずその死を利用して、その校長を尊い犠牲者に、そして君が代に反対した教職員を悪玉に仕立てた自民党がゴリ押しして成立させたのが、例の国旗国歌法なのだ。

 無論それでも、君が代を国歌とする事に対する反発は強くあった。だから1999年の8月に公布施行された国旗国歌法そのものは意外にゆるやかなもので、第一条で日の丸を国旗、第二条で君が代を国歌に定めたのみであった。
 今、君が代の斉唱を強制し、従わぬ者は容赦なく処罰する勢力がその根拠にしているその国旗国歌法には、唱わなければならないという義務規定も無ければ、唱わない場合の罰則も無いのである。
 法律の世界では「罰則の無い法は、法ではない」という言葉がある。人は罰則があるからその法に従うのであって、従わない場合の罰則の伴わない法律など、単なるモラルや道徳を説いただけに過ぎない。
 しかも抵抗の強かったこの国旗国歌法を成立させるにあたり、当時の官房長官であった野中広務氏は、国旗と国歌について「強制するものではない」と国会で答弁している
 さらに同法の成立時にも、国会で「強制は伴わない」との付帯決議がはっきりとされている

 ちなみに、その国旗国歌法成立時の議論で、君が代の例の“君”の意味について「象徴天皇と解釈するのが妥当」と、政府が答弁している
 と言うことは君が代の“君”は天皇で間違いなく、「キミとボクの君で、英語のYOUと同じ」だのという解釈や、「この幸せな世が、永遠に続きますように」だのという現代語訳は、何とか君が代を唱わせたい意図による、ひどいこじつけの“現代誤訳”であることは明白である。

 さて、義務規定も罰則も無い上に、「強制しない」と明言して成立した国旗国歌法であるが、現実にはどう運用されているか。
 日本中のすべての学校で君が代の斉唱が“強制”され、従わぬ教員は教育委員会から“処分”されているのが現状だ。そしてその処分に納得できぬ教員が何件か訴訟を起こしているが、司法も行政による処分を是認する方向で動いている。
 そして大阪などでは、君が代をちゃんと唱っているか、教員の口元まで確認する始末だ。まるでゲシュタポや戦前の特高警察を思わせる、息が詰まるような監視ぶりではないか。
 また東京でもただ唱わぬ教員を処罰するだけでなく、君が代を起立斉唱しない者は、学校行事の来賓として呼ばぬ方針であるらしい。
 成立時の国旗国歌法の中身とは大違いで、強制もすれば処罰もしているのが現実だ。何しろ現実に教員の口元までチェックしてまで、唱うことを強いているのだ。

 治安維持法の所でも触れたが、これが日本の政府のやり方なのだ。始めは耳障りの良いことを言い、緩く優しくして見せて国民を安心させておき、後で政府が法律の勝手な拡大解釈を続け、国民が気付いた時には身動きが出来ぬほど強く縛り上げられている
 卑怯ではないか、と黒沢は思う。
 もし君が代を唱うことを強制し、従わぬ者は処罰するつもりであれば、1999年の時点でちゃんとそう明記して法案を提出し、国会で堂々と論議すれば良かったのだ
 しかし「抵抗が強そうだから」と条文を和らげてとにかく成立を急ぎ、その後に“政府の法解釈”で都合の良いようにねじ曲げてしまう
 黒沢はその課程を、国歌国旗法の成立と運用の実態でよく見ている。

 だから特定秘密保護法にしても、集団的自衛権の問題にしても。
 黒沢は今の自民党政府を、一ミリも信用していない
国会での成立や閣議決定をとにかく急ぎ、そしてその後は「政府の思いのまま」にするつもりなのだろう。
 事実副総理の麻生太郎氏自身が、「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、見習ったらどうかね」と言っている始末だ。
 黒沢は国旗国歌法の頃から既にその手口は使われていると思うし、特定秘密保護法や集団的自衛権、それに例の残業代ゼロ法案もそうして「国民の誰も気づかぬうちに、政府の都合の良いように変えて行くつもり」だろうと思っている

 見ているがいい。特定秘密保護法を名目に、マスコミはいつか国民に事実を伝えなくなり、集団的自衛権で自衛隊は米軍の指揮下で、海外のどこかで祖国日本の為でなく、アメリカの国益の為に血を流すことになるだろう。
 そうした政府のやり口と流れは、一連の国旗国歌法の件を見れば明白だ。

 国旗国歌法の成立とその強制に関連してだが、我が国歌“君が代”で「お治めになる御代が千年も万年もお栄えになりますよう」お祝い申し上げられている、当の天皇陛下ご自身は、そのことについてどうお考えになっていらっしゃるか。
 かつての石原都知事のもとで、東京都は学校での君が代の斉唱を有無を言わせずに押し進め、君が代を唱わぬ教師を容赦なく処罰してきたが。
 2004年の秋の園遊会で、その都の教育委員であった米長邦雄氏が「日本中の学校において国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」と申し上げたところ、今上天皇陛下はこうお答えになった
やはり、強制になるということでないことが望ましいですね
 しかしその陛下ご自身のご意志にすら反して、その後も東京でも大阪でも、君が代斉唱の強制と唱わぬ者への処罰は少しも変わらず強力に押し進められているのが現状だ。

 学校の式典で君が代の斉唱の強制を「当然だ」として押し進めようとする者たちは、その根拠としてまず国旗国歌法を挙げる。
「君が代は法律で日本の国歌と決められており、だからそれを唱うのは公務員の義務だ」と。そして橋下徹氏に至っては、「唱いたくなければ、公務員を辞めろ」とまで言っている。
 それら国旗国歌法を根拠に君が代を皆で唱うことを強制する方々は、その国旗国歌法には君が代を唱わねばならない義務規定も罰則もないこと、それに当時の野中広務官房長官の「強制するものではない」という答弁や、「強制は伴わない」とした国会での付帯決議もすっかり忘れているか、或いは意図的に見落としているようだ。
 こうして文言や表現を柔らかくし、範囲も限定し国民の自由を縛らぬことを確約した上で成立した法律は、一度決議されると政府や首長など政治家の考え一つで恣意的に拡大解釈され、かつての治安維持法のように暴走して国民を縛って行くのである。

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