空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

夕空と雲

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 夕空を、こんな飛行船のような赤い雲が流れていました。
 夕食の食材を買いに出た途中の道端で見た光景です。

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秋空です

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 また横着して、我が家の二階の窓から撮りました。
 でも青空って、何でこんなに心を惹きつけるのだろうといつも思います。
 特に秋は、空の青さが目に沁みます。

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反捕鯨国の横暴を許すな!

 国際捕鯨委員会(IWC)で今月、日本の調査捕鯨を困難にする決議が採択された。
 そのIWCでの件だけではない、反捕鯨国の連中は、アイスランドなどの他の捕鯨国にも様々な圧力をかけ、捕鯨を全面的に禁止しようとしているのだ。

 反捕鯨を旗印に、ホエール・ウォッチングを観光資源にしている奴らはこう言う。
鯨は食べるものではありません、見るものです
 冗談ではない!
 どの動物を食べるものかどうかを決めるのはその民族であって、他国からそれを押しつけられるものでは断じてないのだ!

 なぜならば、食はその国の文化だからだ。その国が調理方法を工夫し永年食べ続けてきたものを、「それを食べるのは野蛮だ、ヤメロ!」と断罪し指図する権利は、どこの国にも無い筈だ。

 例えばインドでは、牛がとても大切にされる。それはインドの国民の大半が信仰しているヒンズー教では、牛は神聖な動物とされているからだ。
 だからインドでは、牛を殺してしかも食うなど、とても考えられない事なのだ。
 しかしインド人たちは、牛を食う欧米人を「野蛮だ!」とか言ったりしないし、捕鯨に暴力をもって反対するシー・シェパードのように、他国民が牛を殺して食べるのを実力で阻止しようとしたりしない。

 それは別に、「牛を食べるのが世界の常識で、牛を神聖視するのは世界の非常識」とインドが認めているからではない。
 どの動物を大切にし、どの動物を食べるかはその国の文化によるもので、他国から「コレを食え、アレは食うな!」と指図されるものではないからだ。
 だからインドでは牛を大切にするが、他国の者たちが牛を食べることには異を唱えないのだ。

 黒沢が特に腹立たしく思うのは、反捕鯨を強く主張する国々の殆どは酪農を盛んに行い、牛や羊などを大量に殺してその肉を輸出していることだ。
「鯨を殺すのは可哀想で野蛮だからすぐヤメロ! そして代わりに我が国の牛を食え!!」
 コレがオーストラリアやニュージーランドなど、反捕鯨国の奴らの本音なのだ


 日本の捕鯨やイルカ漁を妨害する、オーストラリアや欧米の自然保護団体の奴らはこう言う。
「今は日本にも食べる物は豊富にあるじゃないか、何も鯨やイルカを食べる必要などない筈だ」
 ……そうなんだよね、奴らの言いたい事は結局こうなのだ。
「鯨は食うな、我が国の牛肉を食え!」
 奴らは「己の国の食文化は正しく、それと違う食文化は野蛮だから我らと同化させるべき」と思っているのだ。
 この欧米の反捕鯨派の論理をおかしいと思わない日本人がいるなら、一度そのお顔をとくと拝見したいものだ。

 仏教の影響で、日本は長い間四つ足の獣を食べないできた。だから日本にも古来から牛はいたが、食べられることなく農耕に使われてきた。
 そして明治維新後の文明開化で、都会では牛肉も食べられるようになった。しかしトラクターが普及するまでは、田舎の農村では牛は相変わらず農耕に使われてきたのである。
 日本では長いこと牛は食べるものではなく、共に働く家族の一員のようなものであった。そうして牛を大切に飼っていた人達によると、牛は利口で人に懐き、感情もちゃんとあるという。
 牛だけではない、今では当たり前に食べられている豚も、ペットとして飼えば利口で清潔好きでよく懐いて、とても可愛いという。

 実は黒沢は、幼い頃に庭で鶏を飼っていた。縁日でたまたま買ったヒヨコがそのまますくすく育ってしまい、それで親に鶏小屋を作ってもらって、庭で飼っていたのだ。
 可愛かったぞ、その鶏は。家の者をちゃんと見分けて、鶏小屋から出しても決して逃げたりせず、コッコッと鳴きながら黒沢の後をついて回ってさ。

 牛でも豚でも、そして鶏でさえちゃんと懐くし感情もあって、飼ってみれば可愛いものなのだ。
 だから断言するが、「食うべき生き物と、殺して食べてはならない生き物」の確かな線引きなど決して無いのだ!
 だからどの動物を食べ、どの動物を保護して可愛がるかは、ただそれぞれの国の食文化に過ぎない

 にもかかわらず反捕鯨の白人どもは、「鯨は守るもので、牛は食べるものデス」と言い切って恥じない。そして「日本人よ、捕鯨は止めて我が国の安い牛肉を食べなさい」と。
 奴らは「鯨を殺すのは残酷で可哀想」と言うが、そのくせ牛やその他の動物を殺すことについては、残酷だとも可哀想だとも全く思わない
 その白人の反捕鯨派の傲慢さと無知が、黒沢は腹立たしくてならない。

 そう言えば反捕鯨国もシー・シェパードなどもみな白人ばかりで、有色人は見られない。
 自分たちの習慣が最高と信じ、異なる習慣は野蛮と軽蔑して、自分たちの主義主張を他国や他民族にも押しつけようとするのは、もしかしたら白人の特性なのだろうか

 しかし無知で傲慢で矛盾に満ちた反捕鯨派の白人どもに、ここでただ腹を立てているだけでは何も始まらない。
 だから黒沢は、本当にささやかながら反捕鯨国に対して抵抗運動を続けている。。
 それはあえて鯨を食べ、そして反捕鯨国の産品は一切購入しないことだ。

 実際に黒沢は月に一度は鯨(木の屋石巻水産の鯨の大和煮の缶詰)を食べ、そして産地にオーストラリアまたはニュージーランドと表記してある物は、牛肉だけでなくどんなものも絶対に購入しないようにし続けている。
 どんなに安かろうが美味そうだろうが、黒沢はオーストラリアとニュージーランド産のものは一切買わない。そしてそれでも、生活上支障をきたすようなことは全くなく過ごせている

 もし黒沢と同じように、日本の食文化を見下し「鯨は食うな、我が国の輸出する牛肉を食え!」と押しつける反捕鯨国のやり方に義憤を感じる人がいるならば。
 ぜひ黒沢と同じように、オーストラリアとニュージーランドからの輸出品を購入するのを一切止めてみようではないか。
 一人一人の力は僅かでも、多くの日本人が同じように反捕鯨国の牛肉や羊肉の購入を拒否すれば、オーストラリアやニュージーランドも困る筈だ。
日本に対する感情的な反捕鯨の運動は、オーストラリアやニュージーランドの国益に反する結果を招く」と、ぜひ反捕鯨の旗を振る国々にも教えてやりたいものだと思う。

 その為には!
 無知で横暴な白人の反捕鯨国から日本の食文化を守る為に、まず日本国民一人一人がオーストラリアとニュージーランドからの輸入品を買うのを一切やめることが必要だ。
 そしてたまには、鯨の大和煮の缶詰も食べてみようではないか。

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「動物とのふれあい」の欺瞞

 テレビや新聞などで、地域の心温まる微笑ましい出来事として「動物とのふれあい」のニュースが流されることがよくある。とりわけ小さな子供に小動物などを触らせ、それを「ふれあい」と称している場合が目立つ。
 しかし黒沢は、その「ふれあい」という表現が癇に障って仕方がない。

 そもそも「ふれあい」とは何であるか。
 辞書にも「互いに触れること、交流」とあるが、ニュースで流される「子供と動物のふれあい」のどこに、互いの交流があるか
 触れ合いという以上、対象の動物も自らの意志で積極的に人間の子供に触れていなければおかしい
 子供が動物を優しく撫で、そして動物も嬉しげに体を擦り寄せてくる。これで初めて「ふれあい」と言えるのだ。
 少なくともその動物の方も人間に触れられることを喜んでいなければ、「ふれあい」とはとても呼べない筈だ。

 さて、各地で実施されている「動物とのふれあい」の現実はどうであるか。
 テレビのローカルニュースなどでよく放送されている、その種の企画の情景を見る限り、「子供たちが、動物を一方的に触りまくっている」ようにしか思えないものばかりだ。
 動物を触っている子供たちの方は、確かに嬉しそうで「可愛い、可愛い!」とはしゃいでいる子も少なくない。
 だが一方の動物たちに、子供たちに触れられることを喜んでいる様子など微塵も見えない。むしろ動物園などの飼育員に押さえられて困惑顔でじっと耐えているか、場合によっては厭がって逃れようともがいている事も珍しくない
 嬉しそうに触ったり抱きついたりしている人間の子供たちと、見るからに厭そうで逃げたそうな様子の動物たち。これが多くの人達に「微笑ましい情景」としてとらえられている、「動物と人間(特に子供)とのふれあい」の実態だ。

 そもそも子供は力のコントロールが上手くないから、「可愛いから」とギュッと抱き締めたり強く掴んだりして、悪意はなくとも動物の扱いが手荒になりがちだ。
 なのに大人たちは「動物と親しみ、生き物を愛する気持ちを育む」などと称して、子供たちに動物たちを弄ばせたがる。そして動物をいじくり回してご満悦の子供たちの様子を見て、「楽しく動物と“ふれあい”ができた」と親たちも大喜びだ。
 その子供らに触れまくられている動物たちがどんな気持ちでいるかなど、頭の片隅にも無いのだ。
 いや、もしかしたら親たちは、「可愛い我が子に触られたりハグされたりして、動物たちも嬉しくない筈がない」と思っているのかも知れない。
 どちらにしても、これを「愚か」と言うべきか「人間のエゴ」と呼ぶべきか、黒沢としても迷うところである。

 繰り返し言うが、「ふれあい」とは「互いに触れること、交流」である
 しかしローカルニュースなどで微笑ましい出来事としてよく紹介される「動物と人間(主に子供)のふれあい」の殆どは、「人間が一方的に動物を触りまくっている」だけだ。
 そこのどこに、動物も喜んで人間に触れ返している様子や心の交流があるか。動物は子供のおもちゃにされるのをただ耐えているだけで、「微笑ましさ」など欠片もあるものか。

 特に大人たちが、子供に動物たちを触りまくらせ、それを「動物とのふれあい」と称しているのをニュースなどで見る度に思うことがある。
 もしこれが「ふれあい」ならば、満員電車で助平なオジサンが近くの女子高生の体を触りまくるのだって、「オジサンと女子高生のふれあい」と言えるのではないか。

 決して屁理屈なんかではないよ。
「可愛いから」と一方的に触りまくるのは、動物から見れば痴漢に遭うのと全く同じ
であろう。
 互いに喜んで触れ合っていて、心の交流もあってこそ「ふれあい」と言えるのだ。
 人間同士のハグだって、お互いに好意と合意があっての上で成り立つものであって、それ無しに一方的に抱きついたとしたら、それこそ痴漢で間違いないだろう。
 動物と人間もそれと同じで、「相手が動物なら、一方的に触って抱きついても“ふれあい”だ」と言うのは詭弁でしかない。

 にもかかわらず多くの人間は子供たちが一方的に動物を触りまくるのを「動物とのふれあい」と称し、そして多くのメディアもそれを「微笑ましいニュース」として流し続けている
 子供たちの喜ぶ顔が第一。
 子供たちが楽しんでいさえすれば、他のこと(動物の苦痛など)はどうでも構わない。

 例の「子供たちと動物のふれあい」というニュースをテレビなどで見る度に、そうした人間の大人たちのエゴと偽善が露骨に見えて、へそ曲がりな黒沢は不快でならないのだ。

 そうした動物たちの一方的な犠牲と辛抱の上に成り立っている“ふれあい”を、世の人たちは「生き物と触れ合い、命の大切さを学んだ」と美化する
 その種の偽善的な物言いが大好きな人間が、黒沢は大嫌いだ。
「我が子さえ楽しければ、それでいいんだよ。他のことなど知ったこっちゃない」
 ズバリそう言い切れる大人の方が、まだ素直でよろしい。

 その種の偽善に満ちた「子供と動物がふれあい、命の大切さを学ぶ」イベントの中でも最低なのが、ウミガメの放流会だ。
 テレビのローカルニュースなどでよく放送される、ウミガメの子の放流会の映像を見てみると、ウミガメの子はいつも子供たちの手から逃れようと必死にもがいている。
 そんな光景を見せられて、「微笑ましい光景」と感動できる人間の神経が、黒沢にはまるで理解できない

 それにそもそもウミガメの赤ちゃんを、子供の都合に合わせて昼間に放流すること自体が、自然の摂理に反した愚かな行為なのだ。
 ウミガメの子供には天敵が多く、大きな魚や海鳥などに食べられてしまうものが少なくない。
 だから自然な環境ではウミガメの子は夜に孵化してそのまま海を目指し、天敵に見つからぬよう暗いうちに隠れ場所に泳いで行くのだ。

 ところが多くのウミガメ放流会では、子供たちに放流させる為に、子供の都合に合わせて真っ昼間にウミガメを海に帰すのだ。
 だから当然、その子ガメの多くは待ち構えている捕食者たちの餌となる
「子供たちがウミガメの赤ちゃんと触れ合い、自然や命の大切さを学んだ」とされ、テレビなどでも微笑ましいニュースとして紹介されているウミガメの放流会だが。
 その「子供たちがウミガメの赤ちゃんと触れ合い、命の大切さを学ぶ体験」の結果、逆に多くのウミガメの子の命が犠牲になっているのが現実だ。

 ウミガメの放流会をやってはいけない理由は、まだ他にもある。
 ウミガメの子というのは、孵化してから24時間までが最も活発に泳げるのだ。だから夜に孵化したらすぐ海を目指し、その24時間で出来るだけ遠くの隠れ場所まで泳いで行かねばならない

 では人間に卵を掘り上げられ、人工的な孵化場で生まれたウミガメの子はどうなるか。
 ウミガメの子は孵化場でも夜間に生まれるわけだが、その子らは何と昼間の放流会まで、孵化場にそのまま置いておかれるのだ。
 ウミガメの子が最も元気に泳げる貴重な時間は、当然そのまま無駄に過ぎて行くのである。ただ人間の子供たちを喜ばせる為の、ウミガメ放流会を待って
 そしてその貴重な時間を無駄に費やされたウミガメの赤ちゃんは、人間の子供らの手で弄ばれた上、多くの捕食者が待ち構える真っ昼間の海に帰されるのである。
 この現状を、すっとこどっこいの大馬鹿者どもは「子供たちがウミガメの赤ちゃんとふれあい、命の大切さを学んだ」と称する

 ウミガメの子が海に帰るのをどうしても見たければ、人間がウミガメのサイクルに合わせ深夜に集まって観察すべきだ。
 それをせずに、人間の子供の都合に合わせて昼間にやる放流会など「百害あって一利無し」としか言えない。
 ただ人間の子供に見せて触らせる為に、自然の摂理を無視して昼間に放流会をして、子ガメが最も元気に泳げる貴重な時間を奪い、さらにその姿を海だけでなく空でも待ち構えている天敵に曝させるこの放流会を「命と自然の大切さを学ぶ、ウミガメとのふれあい」と称するなど、「エゴに満ちた偽善」以外の何であろうか。

 そうした愚行の根本には、「人間(特に子供)が第一」という思考があるように思える。
 子供の喜ぶ顔さえ見られれば、それでいい
 日本中に蔓延しているその思考の為に犠牲にされている多くの動物たちとしては、「人間とのふれあい」とはただ苦痛に満ちた厄災でしかないだろう。

 人間(特に子供)に動物をいじらせて、それを「命の大切さを学ぶ、ふれあい」とか称する偽善は、もういい加減で止めてほしいものだ。

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百合の花

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 我が家の庭に咲いた百合です。どちらも劣らず綺麗と思います。
 ……それにしても、♀×♀の恋のことを、何で“百合”って言うんでしょうかね?
 その趣味はナイつもりの黒沢ですが、『ゆるゆり』は面白いと思いました。
 歳納京子さん(下の表紙の一番左)、可愛いっス。

ゆるゆり (1) (IDコミックス 百合姫コミックス)ゆるゆり (1) (IDコミックス 百合姫コミックス)
(2009/07/18)
なもり

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眩しい空

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 これでも空です。
 逆光でも気にせず、太陽が輝く方面にレンズを向けて撮ってみました。
 写真って、むしろ逆光の方が面白い写真が撮れて、順光だと平板で面白みの無い絵になりがちです。
 だから皆さんも、気にせずどんどん逆光で撮ってみると良いですよ。

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青い空と白い雲

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 用があって市内のホームセンターに立ち寄った時、その駐車場でふと見上げると、青空に何とも不思議な形の雲が流れていました。

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ビールはキンキンに冷やし込まず、少しぬるめでゆっくり味わって飲もう。

 季節は夏から秋に変わり、朝晩の気温も間違いなく下がってきたが、日本ではビールは真冬でも冷蔵庫でキンキンに冷やして飲まれることが多い。
 日本のビール好きによれば、ビールの適温は4~5℃くらいだとか。
 だがビールとは、そこまでキンキンに冷やさねば旨くないものなのだろうか。

「ビールは冷蔵庫でキンキンに冷やし込んで飲む」
 これが日本の常識のようで、いい年をした大人なのに「仕事を終えて家に帰ったら、ビールが冷蔵庫で冷やされてなかった」というだけで怒り出す男が、日本人には少なからずいるようだ。
 そして「ビールは冷蔵庫で冷やし込んでおくもの」と思い込んでいる日本人を閉口させるのが、ヨーロッパの店で出されるビールのぬるさだ。ヨーロッパでは、常温またはそれに近い温度のビールを出される事が少なくない
 正確には、ビールはキンキンに冷やすもの」というのは日本など暑い国の常識であって、むしろビールの本場といわれる国(イギリス、アイルランド、ドイツ、ベルギーなど)ではビールは冷やし込まずに、その味と香りをゆっくり楽しみながら飲むのが常識なのだ。
 そうしたビールの本場では、味も香りもよくわからなくなるほど冷やし込んだビールをガブガブ、ゴクゴク、プハーッと喉越しで一気に飲む方が非常識なのだ。

 考えてみてほしい。冷蔵庫なるものがこの世の中に普及し始めたのは、いったいいつの頃からか。
 まあ氷室も考慮に入れれば、「冷蔵庫は古代からあった」とも言えなくもないが。しかしそれはごく一部の特権階級の為の特殊なものであって、冷蔵庫が一般庶民にも行き渡るようになったのは、1950年代も終わり頃になってからではないか。
 だからそれ以前には、ビールを冷蔵庫で冷やすことすら難しかったのだ。

 ビールの歴史は古い。
 ビールを最初に造ったのは、五千年以上も前にメソポタミアに住んでいたシュメール人だ。
 当然、冷蔵庫などあるわけもないし、缶や瓶で炭酸を密封しているわけでもない。だから彼らは大きな甕に入れられた、常温で炭酸が抜けたビールを飲んでいたのだ。
 しかもまた製法が未熟だったから、当時のビールは濁り酒で、ビールの上面には原料の麦の殻が浮いていた。それで彼らはその麦の殻を避けるために、長いストローを甕の底に差し込んで飲んでいたのだ。

 想像してみてほしい。ビールを初めてこの世に生み出したシュメール人たちは、常温で炭酸の抜けたビールをストローで飲んでいたのだ。
 では当時のシュメール人は、冷蔵庫も瓶などで密封する技術も無かったから、仕方なくそのぬるいビールを我慢して飲んでいたのだろうか? 「他に酒も無いし、酔っぱらえればそれで良いのだ」と。
 答えは、ズバリ否である。
 当時のメソポタミアには、他にもワインや蜂蜜酒やナツメヤシ酒など、各種の酒があった。にもかかわらずシュメール人たちは、その大きな甕からストローで飲む、常温のビールを最も好んでいたのだ。

 事実、当時のメソポタミアではビールは「肝臓を幸福にし、心を喜びで満たす」と言われ、シュメール人の諺には「楽しくなること、それはビールである。いやなこと、それは軍事遠征である」というものもあった。
 当時の人々は、その常温で飲むビールを旨いと思っていた。だからその製法はまずエジプトにも伝わり、そして周辺諸国やヨーロッパなどにも広まって行ったのだ。

 だから「ビールはキンキンに冷やして飲むべきもの」というのは全くの誤解で、十九世紀半ばから始まった下面発酵のビール(ピルスナーやラガーなど)の生産の開始と、二十世紀半ば以降の電気冷蔵庫の普及による、ほんのここ数十年の流行に過ぎない
 それ以前の、古代メソポタミアでシュメール人が作り出して以来約五千年間は、ビールはずっと常温で美味しく飲まれていたのだ。
「いや、それは冷蔵庫が無かったから仕方なくで、冷蔵庫があれば誰だって冷やして飲んだに違いない」って?
 それも違うと、黒沢は断言する。良いビールは冷やさずとも充分に旨く、むしろキンキンに冷やすとマズくなるものなのだ。

 ビールだけでなく、ウイスキーでも本格焼酎でも日本酒でも、アルコール飲料に限らずコーラやジュースなどでも、冷やし込むと味と香りを感じにくくなるものなのだ。
 試しに、溶けたアイスを舐めてみるがいい。気持ちが悪くなるほど甘いぞ。冷やしていない常温のコーラもまた、信じられないほど甘い。
 酒もそれと同じで、冷やし込んだ酒は香りも立たず味も感じにくくなって不味い
 だからブランデーに氷を入れてロックで飲む人は、欧州では「せっかくの香りを台無しにする」と馬鹿にされるし、味と香りのわかる人はウイスキーもロックやハイボールなどでは飲まず、常温でストレートかトワイスアップで楽しむものだ。
 ビールもそれと同じで、キンキンに冷やすと味も香りも無くなってしまうのだ。

 試しに一度、ビールを常温とは言わないまでも、日本人の感覚では「ぬるい」と思う程度の温度にして飲んでみてほしい。
 それまで感じたことのない芳醇な香りが広がり、そして複雑で深い味わいに感動する筈だ。もしそのビールが飲むに値する本物のビールならば、の話だが。

 実は本当に旨いビールは、常温に近い状態でこそわかるものなのだ。何しろ常温に近い状態にすれば、本当の味と香りがわかるようになるからね。
 だからよく聞くのが、「ヱビスやプレミアム・モルツなどのビールを常温で飲んでみたら、驚くほど旨かった」という話だ。
「だが」と言うべきか「だから」と言うべきか、副原料入りの偽ビールや発泡酒や新ジャンル酒は、決して常温で飲んではならない。冷やし込むことで隠されていた厭な臭いと厭な味が、常温になるとより際立ってきて、ものすごーくマズくなるからだ。

 こんな話がある。
「旨いハイボールをくれ」
 そう言った客に、バーのマスターはこう答えたそうだ。
「なら思い切りジョギングして、汗をかいてからもう一度来て下さい」

 日本人のビールの飲み方というのが、まさにこれだ。暑い時期に、仕事帰りにキンキンに冷えたビールを、炭酸の刺激を感じながら喉越しでガブガブ、ゴクゴク、プハーッとやって、「あー旨い、たまらねー」と。
 こんな感じで日本ではビールは喉越し重視だから、よく冷えていて炭酸が利いていればそれで良く、味や香りとかはどうでもいいんだよね。
 と言うより、しっかりした味と香りは、むしろガブガブ飲む邪魔になるくらいのもので。
 だから日本では、副原料をたっぷり入れた“ドライ”だの“淡麗”だのと言った、味も香りも無い喉越しだけのビールもどきがウケている。

 だが本場のドイツやイギリスなどでは「キンキンに冷やして、ガブガブ、プハーッ」などとやらず、大きなジョッキ一杯を一時間近くかけて、味わいながらゆっくり飲む人が多い。
 自信を持って言えるが、本当に良いビールは、ぬるくなって炭酸が消えても充分に旨い!
 だがこの日本では、ビールの味と香りをじっくり楽しんでいる人がどれだけいるだろうか。

「ビールはキンキンに冷えていないと……」などと言う人は、ビールをガブガブ喉越しで飲んだことしかなく、ビールの本当の味と香りを知らない人だ。
 日本でビールの適温と言われる4~5℃に冷やし込んでみよう。味も香りも感じにくくなるから、ビールでも発泡酒でも新ジャンル酒でも、どれも大して違いはないように感じる
 で、ただキリッと冷えていて炭酸が利いていてサッパリした味なら、喉越しでゴクゴク飲んで「あー、旨かった」と。
 ところが、だ。その日本の喉越し系のビールもどきをぬるくしてみると、化けの皮が剥がれて途端に厭な味と臭いがしてマズくなる

 アサヒのスーパー・ドライは「一杯目や二杯目までは美味しいが、三杯目になると不味くなる」と言われる。それはスーバー・ドライが喉越しだけのビールで、元々の味と香りはヒドいものだから、喉の渇きが癒えてじっくり味わうと急に不味く感じるのだ。

 日本人にはビールを味わって飲むことを知らず、この種の喉越し重視のビールを好む人が多過ぎる。その事を、黒沢はとても残念に思う。
副原料なしの本物のビールを冷やし過ぎずにゆっくり飲めば、芳醇な香りと深い味わいを存分に楽しめるのに」と。

 ギネスやヱビスなら、常温で飲んでも充分に美味しいことは、黒沢は経験上既に知っていた。
 それで先日、キリンの一番搾りをぬるくしたらどんな味になるか試してみた。キリンの一番搾りはヱビスやプレミアム・モルツなどよりやや安いが、これも麦芽とホップのみで造られていて、副原料は使われていない。
 店頭では冷蔵庫に入った状態で売られていたので、買って家に帰ってからしばらく放置してから飲んでみた。
 飲んだのは、買った店の冷蔵庫から出して30分以上も経った頃だったと思う。温度は正確に測ってはいないが、「常温よりは冷たいものの、ビールとして飲むには明らかにぬるい」という程度だった。
 コレをワイングラスに注いでみたらですね、ものすごーく甘やかで芳醇な香りがするわけ。そして味も豊かで旨い。
「コレは良い!」
 って、心からそう思ったよ。

 実はキリンの一番搾りを飲むのは初めてではなく、以前にも何度か飲んではいたんだ。その時は冷蔵庫で冷やしたのをすぐに飲んでいて、味の感想としては「案外良いけど個性が弱いと言うか、ヱビスの方が明らかに良いな」という感じだった。
 けどぬるくして飲んでみた一番搾りは、冷やして飲んだ時より明らかに旨かった!
 ただあえてグラスに三分の一ほど残し、完全に常温にして飲んでみたところ、苦みが突出して強くなる感じで、ちょっと残念な味になってしまった。

 ヱビスやギネスは常温でも変わらず旨い、けど一番搾りはやや冷えた程度が一番で、常温にまで戻すと味がまた落ちるのが残念だった。
 それでも他の副原料入りの偽ビールと違って、かなり良い味のビールであることは確かだけれどね。その事を、先日わざとぬるくして飲んでみて改めて思ったよ。

 そう言えば、サントリーが「香りひらくグラス プレゼントキャンペーン」といって、プレミアム・モルツをワイングラスで飲むように勧めているけれど。
 はっきり言って、黒沢はサントリーは大嫌いだ。粗悪なウイスキーを宣伝の力で売るあのやり方に、憎しみに近い感情を抱いているくらいだ。
 ウイスキーだけじゃない、かつて粗悪な合成ワインに“ポートワイン”というポルトガル特産ワインの名前をパクッて付けて売っていたやり方など、中国の悪徳企業顔負けにタチが悪いと思う。
 あと、ブランデーのVSOPやVOなどの名称を、フランスの基準によらず若い酒に勝手に付けている疑惑とかね、サントリーの商法は、先進国の大企業とは信じられないくらい悪辣だよ。

 ただ「プレミアム・モルツを、ワイングラスで香りを楽しみながら飲もう」という企画だけは、とても良い試みだと思う。
 一度試してみてほしい、麦芽とホップだけで造られた本物のビールをワイングラスに注いでみると、うっとりするような良い香りが立ち上るから。
 唯一その「香りひらくグラス プレゼントキャンペーン」に注文を付けるとすれば、例の「ビールをキンキンに冷やし込まないように!」と消費者に注意してほしい、って事かな。冷やし過ぎてしまうと、せっかくの香りが沈み込んでしまうからね。

 サントリーに、もう一つ意地悪なことを言わせてほしい。
 サントリーはこの「香りひらくグラス プレゼントキャンペーン」を、なぜプレミアム・モルツでやっているのだと思う?
 それはズバリ、他の副原料入りのビールや発泡酒や新ジャンルの酒では、ワイングラスに注いでも香りも立たなくてマズいからだよ。
 と言うか、サントリーに限らず日本の大手メーカーのビールは、プレミアム系以外はマズいものが多いのが現実デス。
 ビール類は、買う前に原材料表示をきちんと確かめてほしい。麦芽とホップだけで造られている物だけが本物のビールで、それ以外に副原料(米やコーンやスターチなど)やスピリッツ等を加えているモノは、どれも「飲むに値しないクズ酒だ」と思って間違いないね。

 黒沢は『翔んだカップル』の時代から、漫画家の柳沢きみお氏の作品が好きだった。近年でも『特命係長只野仁』も楽しく読んでいるし、作品の中に描かれている柳沢氏の政治や世の中に対する考察の鋭さには、幾度も感心させられている。
 その柳沢氏は大のビール党で、「ビールを悪く言う者は許さない!」とまで公言している。そして残念ながら柳沢氏も、ビールに関してはどうやら「ゴクゴク、プハーッ」の喉越し派のようである。
 そのせいか、『大市民』に描かれているビールや食に関する考察には頷けない箇所が少なくない。
 例えば柳沢氏は、その『大市民』でビールをキンキンに冷やしてない寿司屋は許せなく、まず出されたビールがキンキンに冷えていなければ、寿司も食べずに席を立つとまで言っている

 繰り返し言うが、ビールも含めてアルコール飲料はキンキンに冷やすと香りが沈み込み、味も感じにくくなるものだ。そして常温か少しぬるめに感じるくらいにすると(副原料等を使用していない良いビール限定でだが)芳醇な香りが立ち味に豊かになることは、前にも述べた。
 つまり柳沢氏が「ビールがキンキンに冷やされてないと、寿司をマズく感じる」のは、すなわち「ビール本来の味と香りが、寿司とは合わない」ということなのだ。

 そもそも寿司とは和食である。寿司を食べながらアルコール飲料を飲むとしたら、黒沢には日本酒以外には考えられないし、自分がビールが好きだからと言って、寿司を無理にビールで流し込もうという方がオカシイのだ。
 ビールで寿司を食べるのは、言ってみればフランス料理を食べながら芋焼酎を飲んで、「合わない、マズい、焼酎を割る湯の温度もダメだしケシカラン!」と一人で怒っているようなものなのだ。

 そもそも寿司に合う酒と言えば日本酒だ。だからその寿司屋が日本酒なら各種取り揃えてあっても、ビールについては「注文する人がいれば出す」という対応であっても、決しておかしくない。
 また、ビールはキンキンに冷やすと味も香りもダメになり、ぬるく感じるくらいの温度の方が味も香りも豊かになり美味しいことは、繰り返し述べている通りである。

 そもそもキンキンに冷やして喉越しで「ゴクゴク、プハーッ」と飲まなければ旨く感じられないのは、副原料入りの偽ビールか発泡酒などの類なのだ。
 つまり柳沢氏がビールをキンキンに冷やしてない寿司屋を許せないのは、「喉越しで飲む副原料入りの偽ビールが大好きだ」と自ら白状しているのと同じではないだろうか。

 そもそも寿司屋は寿司を食べさせるところであって、飲み屋ではない。にもかかわらず「ビールがキンキンに冷えてない!」と怒り出し、肝心の寿司も食べずに席を立つというのは、フランス料理店に行って「旨い日本酒がない!」と怒って、肝心の料理も食べずに席を立って店を出て来るのと同じくらい愚かな行為であろう。
 寿司屋とは、まず寿司が美味いのが第一である。
 そしてビールも冷やし込み過ぎない方が美味いのだ。
 だから「ビールをキンキンに冷やしていない寿司屋」に対する柳沢氏の怒りは、全くの無知で不当だと断言せざるを得ない。

 前にも述べた通り、ビールはメソポタミアでシュメール人が造り始めて以来、約五千年もの間、常温で人々に美味しく飲まれてきた。
 エールやスタウトやヴァイツェンなど、伝統的な上面発酵のビールはむしろ冷やさずに常温で、ゆっくり味わって飲んだ方が旨いのだ。
 十九世紀半ばに、冷蔵技術が開発されて生まれたピルスナーやラガーなどの下面発酵のビールは、確かにやや冷やした方が旨いものが少なくない。しかしそれもあくまでも「やや冷やした程度」が良いのであって、キンキンに冷やし過ぎるとむしろ味と香りを損なってしまう。

 現在、日本の大手メーカーが造っているビールは、ほぼ下面発酵のピスルナータイプだ。
 しかしその下面発酵のビールでも適温は12~15℃程度であって、日本で“適温”と言われている4~5℃というのは間違いなく冷やし過ぎだ。
 何度でも繰り返し言うが、ビールもキンキンに冷やすと香りは沈み込み味も感じにくくなり、マズくなってしまうのだ。そんなに冷えたものを喉越しで「ゴクゴク、プハーッ」とやりたいなら、コーラかサイダーでも飲んでいれば充分であろう。

 報道によると、この夏の天候不順で、八月のビール消費量は昨年に比べて一割も落ち込んだということだ。
 確かに去年ほどの猛暑ではなかったものの、黒沢の感覚では今年の夏もかなり蒸し暑く、冷夏と言えるほどのものでは決してなかったと思うが。
 それでもビールの消費量が一割も落ちるということは、ビールを「暑くて汗をかいた時に、ゴクゴク、プハーッとやるもの」と信じている“喉越し派”が日本人の大半を占めている証拠と言えるだろう。
 ビールをじっくり味わって飲んでいる者として、日本のその現状が残念でならない。副原料を入れない本物のビールは、ゆっくり味わえば本当に旨いのだ。
 その本来の芳醇な香りも豊かな味わいも知らず、ビールを「暑い時に渇きを癒す為に、キンキンに冷やしてゴクゴク飲み干すもの」としてしか知っていない喉越し派の人達を、黒沢は心から気の毒に思う

 そういう意味でビールを喉越しでしか飲んでいない人達に、涼しくなるこれからは、ビール本来の味と香りを知ってもらう良い機会だと思う。
 黒沢などは、真夏でもヱビスやギネスなどを常温で飲んでしまうが。「ビールはキンキンに冷やして飲むもの」と信じ込んでしまっている日本人には、いきなりソレは辛いだろうと思う。
 だからまずこれからの涼しい時に、あまり冷やし込んでいないビールを、コップやジョッキでなくワイングラスに注いで、本来の味と香りをゆっくり楽しんでみてほしい。それまで知らなかった芳醇な香りと豊かな味に、ホントに感動するから

 今くらいの季節だったら、冷蔵庫から出して室温で30分くらい放置して。
 そして冬だったら、暖房を入れてない寒い部屋に室温で置いておいたものをそのまま飲むと、ちょうどイイ感じで飲めると思う。
 但しそれは、ヱビスやプレミアム・モルツなどの麦芽とホップだけで造られたビールに限りマス。副原料入りの偽ビールや発泡酒などをぬるくして飲むと、本来のマズさと臭みが余計に際立つ結果になるので、ご注意を。

 ビールをキンキンに冷やすのは、ビールを逆にマズくして飲むようなものだから。真夏に汗をかいて渇きを癒す為に、喉越しでただ「ゴクゴク、プハーッ」とやるのなら、一番安い“第三のビール”と言うか新ジャンル酒で充分だ

 ビールは喉越し派が多い日本の人達にも、ビール本来の味と香りを知ってほしいと心から思う。そしてその為には、まず「ビールはキンキンに冷やすもの」という固定観念を是非捨てるべきだ。
 ビールを「常温で」とは言わないまでも、12~15℃の少しぬるいと感じるくらい程度で、ゆっくり味わいながら飲むことも覚えてほしい。そうすれば夏だけでなく、秋や真冬でもビールを美味しく飲めるようになるよ。
 但し繰り返し断っておくが、黒沢が言うビールとは、麦芽とホップだけで造ったもののみだ。それ以外の副原料等を加えたモノは、黒沢は絶対にビールと認めない。

 ビールは、漢字で麦酒と書く。
 クズ米の粉やトウモロコシやスターチなどを混ぜたいやらしいまがい物が、“麦酒”などであるわけが無いのだ。

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これが最後の別れになるとは、思ってもいませんでした。

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 ある日帰宅すると、あの茶猫さんが家の玄関の前で佇んでいました。
 何だか随分とお疲れの様子で毛並みも良くなく、鳴くでも人を威嚇するでもなく、じっと黒沢の顔を見詰めていました。
 実はこの日以来、茶猫さんと子猫たちは姿を消してしまい、二度と我が家に現れることはありませんでした。
 もしかしたら茶猫さんは、最後の挨拶に来たのかも……などと思ってしまいました。

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柱焼酎と“アル添”は別モノです(まがい物の偽酒が横行する日本)

 黒沢は少し前に、「日本酒は純米しか認めないし、工業アルコールを添加した酒は、日本酒と呼ぶに値しない“偽酒”と言い切りたい」と語った。
 だから本醸造酒も「アル添で嵩増しした偽酒が“本醸造”だなどと、図々しいにも程がある」と嘲いたくなるし、いくら吟醸酒や大吟醸酒でもアルコールを添加されたモノなど飲みたくでもない

 だがこの日本酒のアルコール添加、通称アル添を擁護する人達が少なからずいるのだ。そしてその中には、あの名高きソムリエ、田崎真也氏までいるのだから呆れてしまう。
 これらアル添を擁護する人達は、「日本酒に焼酎を入れるのは江戸時代からの技法で、アル添もそれと同じだ」と言う。
 嘘だ
 江戸時代の柱焼酎と現在のアル添は、性質も意味もまるで違う別物なのだ。

 酒の腐敗防止の為にアルコール度の高い焼酎を混ぜる“柱焼酎”という技法は、江戸時代から確かにあった。
 だがちょっと待ってほしい。その技法に使われていた焼酎は、米焼酎もしくは粕取焼酎といった本格焼酎なのだ。手作りの単式蒸留だから味も香りもちゃんとあって、そのまま単独でも充分に美味しく飲めるものを加えていたのである。

 では現在の日本酒に加えられている“醸造用アルコール”とは、一体何であるか。
 ずばり、サトウキビの絞り滓から連続蒸留で作り上げた工業アルコールで、味も香りも無い、ただアルコールの辛い刺激があるだけのシロモノである。
 コレを水で薄めてアルコール度数を人が飲める程度(20~25%くらい)にしたものが、よくペットボトル入りで大安売りされている甲種焼酎である。4リットル千数百円くらいで売られていて、「アル中の廃人への入り口」とも呼ばれているアレだ。
 江戸時代の柱焼酎に使われていた単式蒸留の本格焼酎と、この現在使われている工業アルコールの添加を一緒にされては困るし、本格焼酎に対して失礼だ。

 そして連続蒸留で作られている例の工業アルコールは、アルコール度数は100%に近い。
 そんなアルコールを混ぜるわけだから、アルコール度数はとても高くなる。で、そこに大量の水を加えて嵩増しして、一般的な日本酒のアルコール度数の15~16%に戻すわけだ。
 当然、アル添酒は(アルコール度数こそ同じだが)純米酒より水っぽく、旨みも薄くなる。さらに加えたアルコールの刺激で味が辛口に傾きがちだから、メーカーはそれを“淡麗辛口”と称して売り捌いているのだ。

 問題のアルコール添加で、酒をどけだけ嵩増しできるか。
 以前の日本酒は工業アルコールの他に糖類と酸味料まで加えた“三増酒”が主流で、その名の通り元の酒を三倍にまで嵩増ししていた。しかしこの三増酒はあまりに不味いので日本酒離れを起こしてしまい、今は糖類や酸味料は加えず、アルコールの添加量を抑えたものが大半になっている。
 が、それでもアル添のおかげで本醸造酒は純米酒の1.5倍、普通酒では二倍の酒が出来るという。

 工業アルコールと水でそれだけ嵩増しされていて、酒本来の旨みに違いが出ないわけがない。
 本醸造酒だけでなく吟醸酒や大吟醸酒も含めたアル添酒に比べ、純米酒は明らかに味が濃い。淡麗辛口を謳うただサラリとして辛さだけが突出しているアル添酒と違って味に奥行きがあり、甘みや酸味など微妙な味が複雑に絡み合っている。

 ワインは葡萄から、そしてビールは麦芽とホップから造るように、日本酒も米と米麹だけで造るものである。その日本酒に工業アルコールを混ぜ込んで加水し嵩増しする意味が、黒沢にはわからない。
 ビールの本場のドイツではビール純粋令があり、麦芽とポップ以外のものをビールに加えることをドイツ人達は認めていない。
 もしフランスでワインに“アル添”をして、ワインに工業アルコールを混ぜ水で薄めて売りでもしたら、フランス人は「酒文化への冒涜だ!」と暴動を起こしかねないだろう。

 しかし日本では「柱焼酎の伝統が……」などと屁理屈をこねて、アルコールと水で嵩増ししたアル添酒を恥じることなく堂々と売り続けられているのである。そして消費者も消費者で、そのアル添ゆえに味が薄まり辛口になった酒を「さすが淡麗辛口、サッパリしていて美味しい!」と喜んで飲んでいる人達が居るのである。

 アル添を擁護する人達は、こうも言う。
「アルコールを添加すると、吟醸香がより引き出せるのだ」と。
 いや、それも違う。
 ある程度のアルコールを添加すると吟醸香を引き出しやすくなるという事実は、確かにあるのかも知れない。だが「純米吟醸酒より、アル添の吟醸酒の方が香りが高くて美味しい」という話は全く聞いたことも無いぞ。
 実際、香りの良さでは純米吟醸酒もアル添吟醸酒も変わらない。そしてアルコールを添加して加水量も増やした分だけ、アル添吟醸酒は純米吟醸酒より酒としての旨みが薄くなっているのも事実だ。
 吟醸香を引き出す為と言うが、それと引き替えに酒の旨みを水で薄めてしまったのでは本末転倒ではないか。

 アル添を「香りを引き出す為」と言い張る人達に問いたい。アル添で吟醸香が引き出せると言うなら、アル添の吟醸酒や大吟醸酒の方が、純米吟醸酒や純米大吟醸酒より評価が上にならなければおかしい筈だ。
 だが現実には、アル添の吟醸酒や大吟醸酒より純米の吟醸酒や大吟醸酒の方が評価が高く、市場でもより高価であるのは何故であるか。
 吟醸香は、杜氏とその酒蔵にちゃんと技術があればアルコールを添加しなくとも充分に出せるのだ。そしてアル添でないだけ味も濃く奥深く、辛口に偏り過ぎることもない。

 だから黒沢は「柱焼酎の技法とアル添は全く別物」と言い切れるし、「アルコールなど加えずとも、米と酵母の力だけで吟醸香は充分に引き出せる」と言い切れる。
 と言うよりアルコールを加えた分だけ余計に加水しなければならなくなるし、味も辛口に傾くから、アル添は吟醸酒の味を引き下げる結果にしかならないと言える。
 もしアル添を、あくまでも「江戸時代からの技法」と言い張るならば。サトウキビの絞り滓を連続蒸留した、度数ほぼ100%の工業アルコールを加えて大量に加水するのではなく、単式蒸留の本格米焼酎を加えて造るべきだ。そうでなければ、「江戸時代からの柱焼酎と同じ」などと絶対に言えない筈だ。

 そもそも何故、アル添などということが始まったのか。
 それも我が国が元々資源の乏しい小国なのに誇大妄想状態に陥って大日本帝国を自称し、世界を相手に無謀な侵略戦争をおっ始めたからだ。
 そしてその太平洋戦争のおかげで、日本酒まで恐ろしくマズくなった
 戦争を始めると我が国はすぐに物資が不足し、国民の日々の食料まで不足するようになった。当然米も大いに不足したが、日本酒もまた米から作られている。それで「酒に使う米を何とか節約できないか」と軍の要請で考え出されたのが、例の大量の工業アルコールと水で三倍に嵩増しし、糖類と酸味料などで薄まった味を補った“三増酒”である。

 何しろ安価な工業アルコールと水などを加えれば、出来る酒を驚くほど増やせるのだ。メーカーとしてはこれほどウマい話はない。
 だから戦争が終わっても、日本酒業界はこの工業アルコールで酒の量を嵩増しする“アル添”を止めなかった。
 だが戦後70年近くも経ち、米は余るほどあると言うのに未だにアル添を堂々と続けて日本酒を不味くしているのは、酒文化への冒涜と言うだけでなく、もはや日本の恥と言っても過言ではあるまい。
 このアル添の日本酒が、日本では堂々と“本醸造”を名乗っているのだから呆れかえる本当に醸造したと言える日本酒は純米酒のみで、アル添の日本酒は正しくは“混成酒”と呼ぶべきなのだ

 ドイツでビール純粋令があるように、黒沢は日本でも“日本酒純粋令”を制定し、「日本酒は米と米麹のみで造るべき」と定め、アルコールや糖類や酸味料などの添加を一切禁止してほしいと思う。
 日本酒は純米のみであるべき、というのが黒沢の願いだ。

 と言うと、「酒が高いものになって、貧乏人が飲めなくなる」と反対する人が必ず出て来るだろう。
 心配ない、その為に4リットルで僅か千数百円で買える、甲種焼酎というものがある。

 黒沢はアル添酒だけでなく、「副原料入りのビールも発泡酒も第三のビールも無くなってしまえ!」と願ってるし、ウイスキーも「モルトウイスキーとグレンウイスキーを三年以上樽貯蔵したもの」しか認めていない。
 本格焼酎も常圧蒸留して甕貯蔵するべきで、減圧蒸留でしかもイオン樹脂交換で精製したものは“本格”と認めたくない。


 黒沢は酒を愛しているから、まがい物のヘンな酒の存在が許せないのだ。
 酒を愛しているから、酒は質の良い本物の酒だけであって欲しいと心から願っている。
 そして酒の質にこだわりが無く、「ただ楽しく酔えれば良い」という人達は、甲種焼酎を飲めば良いと思う。

 甲種焼酎は良いゾ、元々味も香りも無いから、好きなもので好きな濃さに割って飲むことができる。それで値段もとても安いのだから、不味いアル添酒やサントリーの角や発泡酒などを飲んでいるより、ずっとお得ではないか。
 甲種焼酎はサトウキビの絞り滓を連続蒸留した工業アルコールを水で薄めた安物だが、少なくともまがい物の酒ではない。
 日本酒もビールもウイスキーも本格焼酎も、どうせ造るなら良質な本物の酒だけにしてほしい。そしてあとは甲種焼酎があれば良いと黒沢は思うのだが、どうだろうか。

 アル添の日本酒やら、副原料入りのビール類やら、若い輸入モルトに出来たてのアルコールをブレンドwwwしたらしい国産ウイスキーやら、減圧蒸留した上にイオン樹脂交換で精製した“本格”焼酎やら。
 まがい物の偽酒がこの国には本当に多過ぎる現状が、酒を愛する一人としてひどく情けなく、かつ腹立たしくてならない

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