空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

秋空

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 部屋の窓を開けると、地面から立ち上るように白い雲が湧いていました。

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太陽と雲海

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 何とも不思議な空ですが、画面の下の真ん中あたりに見えているのは朝8時頃の朝日です。

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政治の劣化は地方から

 今、この国の政治を動かしているのは、何しろ自ら認める“軍国主義者”と、その取り巻きの“国防婦人会”的な極右の女性政治家たちだから。
 おかげで新聞で政治に関する記事を読む度に、腹が立ったり嘆いたりしてばかりだ。
 だが先日は、珍しく政治のニュースでなくテレビ欄を見て腹が立ち、ひどく不愉快な気分になった。

 日本テレビ系列で『ビンタ!』という新番組が始まったそうだが、その番組紹介を一読しただけで黒沢は胸がムカついてきた。
 その番組紹介によると、『ビンタ!』の粗筋と設定はこうである。
「元暴走族の総長で無職の男が、一念発起して弁護士事務所に就職する。そして事務を担当するが、漢字も書けず常識もない有り様で周囲を振り回しつつ、“愛の力”と“破天荒な行動力”で法律トラブルを解決してゆく」
 そして番組紹介と主役の松本利夫(EXILE)のインタビューによれば、元暴走族の総長は「心の温かい熱い男」なのだそうだ。そしてその常識のない元ヤンが“愛の力”で説教してトラブルを解決して行く様子が、テレビ欄の解説によれば「気分壮快」なのだそうである。

 またか、と黒沢は思った。
 大衆は何故か、元ヤンが大好きなのである。
 だからこの『ビンタ!』に限らず、元ヤンを主人公にしたドラマは後を絶たない。
 そしてそれどころか、元ヤンで立ち直って教師になった」という男が、その過去だけでマスコミの脚光を浴び、ついには自民党の国会議員にまで成り上がってしまう始末である。

 人の気持ちというやつは、本当に不可解なものだ。例えば同じテレビ番組の『警察24時』などで視聴者の怒りを特に買っているのは、騒音をまき散らし交通法規を無視して傍若無人に走り回る暴走族だ。
 テレビに映るその姿でさえ人々の怒りを買っているのだから、現実に深夜に近所の道を爆走されでもしたら、怒り心頭に発して「警察は何をしてる、手加減せずとっとと一網打尽にしてしまえ!」と言いたくなる者が大半であろう。
 ところが人々は「暴走族は大キライ」でも、「引退した元ヤン」は好きなのである。しかもそれが虎の威を借りていた下っ端でなく、暴走族の元総長だったりすると、むしろ一角の人物のように思われて一目置かれたりするのである。

 これを“ギャップ萌え”と言うのだろう。何しろ人は、「悪い人だと思っていたら、本当は心の優しい良い人だった」というパターンが、心から大好きだからね。
 だからいくら「またあのパターンだ」とわかっていても、『ビンタ!』のように元ヤンが“正義の味方”として活躍するドラマに喝采を送るのだ。
 そして話はドラマだけにとどまらず、例の“ヤンキー先生”を現実に国会にまで送り出してしまう始末である。

 ねえ、わかってる? ヤンキーってやりたい放題に暴れて、周囲や社会にさんざん迷惑をかけてきた悪党だよ?
 だが足を洗って普通に就職した途端に、周囲の評価は一変して元ヤンは“良い奴”扱いされる
 本来ならば、グレて周囲にさんざん迷惑をかけてきた過去は、黒歴史として恥じねば人としておかしい筈だ。しかし現実の元ヤン達は、己の過去をむしろ武勇伝のように語り、そして周囲もそれを許容して「本当は心の温かい、熱い男」と一目おいてしまうのだから呆れるしかない。

 それでも、一部の人達はちゃんとわかっている。
本当に良い人間はグレたりせず最初からずっと真っ当に頑張って生きているのに、ただマイナスをゼロにしただけの元ヤンばかり“エラい”と誉められる
こちら葛飾区亀有公園前派出所』でも描かれ、ネットなどでも時々耳にする言葉だが、黒沢も本当にその通りだと思う。

 だが残念ながら、最初から真っ当に頑張っている人間よりその“マイナスをゼロにしただけ”の元ヤンが大好きな人間の方が、わかっている人よりも遙かに多いのが現実だ。
 その事は、破天荒な元ヤンが“活躍”するドラマが「気分壮快」と評価され、ヤンキー先生が本当に国会の議員センセイに当選してしまった事実を見ればよくわかるだろう。

 黒沢はこのブログで、度々安倍政権を批判してきたが。
 しかし黒沢が長年支持し続けてきた自民党の体質がガラリと変わり、政治もテレビを利用したワンフレーズ・ポリティカルで大衆を扇動する方向に明らかに変質したのも、安倍政権と言うより小泉純一郎氏が政権の座についてからだ
 そして国民の大半もそれに動かされ、日本は既に衆愚政治に堕ちているように黒沢には見える。

 長い不況に閉塞感を抱く国民たちは、ナショナリズムを売り物にする安倍政権を支持している。その安倍政権はヘイトスピーチを繰り返す在特会に支援され、雑誌やネットにも「売国」「亡国」「国賊」「非国民」などの、戦前戦中のあの暗く厭な時代と同じ言葉が再び満ち溢れている。
 この目を覆いたくなるような祖国の現状に、黒沢は心から怒っている。
 しかし我が国の地方政治は、国政よりもっと劣化腐敗しているようである。
 例の兵庫県の号泣県議や暴走県議、それに都議会での野次の問題などで見るように、県政や市町村政の劣化と腐敗の現状は目を覆いたくなるほどだ。

 先日、黒沢が住む某県内にあるA市で、市長選が行われた。そのA市は観光を主な産業にしているが、最近は集客力が落ち不況に悩んでもいる。
 まず再び立候補した現職は、生まれも育ちも東京の元官僚だ。そのS氏は財政難を理由にリストラと緊縮財政を強いて、市職員のみならず市民にも少なからぬ痛みをもたらしてきた、いわゆる“コストカッター”だ。
 しかもそのS氏は発言が一貫せず、その時の都合次第で言うことをコロコロ変える、言い抜けの巧さがやけに目立つろくでもない市長だった。
 確かにS氏の“手腕”で、市の財政だけはそれなりに好転した。しかし市は不況のままで、市民の多くも痛みにあえいでいる。
 だからS氏の評判は決して芳しいものではなく、黒沢は「今度こそ落選するだろう」と見ていた。

 ところが、だ。
 先月のA市の市長選で、現職のS氏は他の候補者たちに大差をつけて再選されてしまったのだ。
 それもS氏に人望と市民からの強い支持があったわけでもないのにかかわらず、である。
 それは何故か。
 ズバリ、「他の候補者たちの中身がヒド過ぎた」からである。

 まず対立候補のM氏は観光ホテルの社長で、市の観光協会の会長でもある。
 そのM氏は中学から大学までの十年間、ずっとラグビーに明け暮れ、好きな言葉は「落ちてきた楕円のボールが相手の方に転がるか自分の方に転がるかは、努力の量で決まる」なのだそうである。
 ラグビーを少しでも知っている方なら当然ご存じと思うが、他の球技と違ってラグビーのボールは楕円形である。だから落ちたボールがどの方向に転がるかは全くわからず、それこそ運次第と言うしかない。
 しかしM氏の大好きな座右の銘は「努力は運を支配する」で、ボールはより努力した方に転がって来るのだそうである

 このM氏の思考を、「立派だ」と思う人も少なからずいるだろう。
 だが黒沢は理性や科学や現実にによらない、その種の精神論的な思考は大嫌いだ。
 そのM氏が個人として、「努力すれば、必ず結果がついて来る!」と信じて頑張るだけなら構わないし、何も問題はない。
 しかし上司がその種の精神論的な思考の指導者だと、部下はとても辛いことになる

 願望や希望的感想や理想論は捨てて、理性的に見てみよう。落ちた楕円のラグビーボールがどちらに転がるかは全くの運次第であって、実際には努力や根性や必勝の気合いなどとは全く関係ない。
 落ちたラグビーボールは、努力した方にもしない方にも同じ確率で転がって来るのが現実だ。
 それを監督が「オマエの方にボールが転がって来ないのは、オマエの努力が足りないからだ!」などと叱ったとしたら理不尽な難癖でしかないし、選手としてはたまったものではない。

 努力は運を支配する、か。
 確かに耳に心地良く響く言葉ではあるが、現実は違う。実際には、努力と運は全く別の物なのだ。
 もし本当に「努力は運を支配する」と言うのであれば。「努力で宝くじを当てて見せてみろ!」と、黒沢は言いたいよ。
 もし努力が運を支配するものなら、宝くじは日々努力して真面目に生きている人達にだけ当たる筈だ。
 しかし現実にはどうだ? 宝くじに当たる当たらないは完全に運で、日頃の行いにはまるで関係ないではないか。
 繰り返すが、ラグビーで落ちてきた楕円のボールがどちらに転がるかも、努力の量ではなく百パーセント運で決まる。

 現実には「努力と運は何の関係もない」し、努力や根性ではどうにもならない事も多々ある。
 しかし日本人は、「やれば、できる!」とか「結果は努力や根性で出すものだ」とかいう精神論が大好きだ。かつての第二次世界大戦中でも、日本の指導者連中は「大和魂さえあれば、竹槍で戦車に勝てる!」とかの気違いじみたことを正気でほざいていた
 その種の精神論を声高に主張する者たちを、黒沢は大嫌いだし、心から軽蔑する

 努力や根性だけではどうにも出来ない壁は、現実には幾らでもある。
 しかしその“壁”が存在する現実を認めず、「できないのは、オマエの努力(根性)が足りないからだ!」と決めつけて責める精神論者が上司にいると、部下達は心身共にボロボロにされ、追い詰められることになる。
 だから精神論者は、決して人の上に立つ者になってはいけない
「精神力さえあれば、やればでき、できないのは努力が足りないから」
 そう信じる指導者は、彼が支配下においた者たちすべてを不幸にする
からだ。
 そしてその事実は、かつての大日本帝国を戦争に引きずり込んだ指導者たちが証明している。
 ゆえに黒沢は、「落ちてきた楕円のボールが相手の方に転がるか自分の方に転がるかは、努力の量で決まる」と信じ「努力は運を支配する」を座右の銘にしているM氏は、いわゆる“脳○”の精神論者で、市長の器では決してないと思っている。

 そう言えば安倍総理も、この前の国会の所信表明演説で、何の根拠も具体的な方策も提示せずに「やれば、できる!」と発言していた。
 この安倍氏も「指導者にしてはならない人物」と、黒沢は心から思っている。

 さて、例のA市の市長選にはもう一人、T氏が立候補したのだが、このT氏の経歴がすごい。
 何しろ暴走族の元総長で、以前はプロボクサーでもあったという。それが一念発起して市長に立候補するとか、まるでドラマやマンガのようではないか。
 ちなみにT氏の現在の職業は、コンパニオン派遣会社とクラブの社長だそうである。
 まっ、平たく言えば現代の女衒のようなもの、ですな。

 もちろん、立候補だけなら年齢等の条件さえ満たしていれば、誰でもできる。だから例えば国政選挙や都知事選挙などでも、とんでもない主張を掲げて立候補する無名に近い人達が幾らでもいる。
 だがこのT氏は、その種のいわゆる“泡沫候補”とはわけが違う。
 この元暴走族総長でクラブとコンパニオン会社の社長のT氏は、A市の市議だけでなく市議会議長まで務め、さらに市の青年会議所理事長、それに自民党県連の青年局長の要職にもあったのだ。
 暴走族総長の元ヤンで、女性の色気を売り物にする会社の社長が、市政でも政権与党でも例の「行動力のある、破天荒な熱い男」としてもてはやされ、いろいろな要職に抜擢されたのである。
 そしてこれが我が祖国日本の、地方政治の実態なのである。

 黒沢の見るところ、このA市の市長選は本当に酷かった。
 再選を期す現職は口先上手なコストカッターの元官僚で、対立候補はいかにも体育会系の精神論者と、暴走族の総長あがりの元ヤン社長。例の「カレー味のウ○コと、ウ○コ味のカレーの、さあどちらを選ぶ?」というレベルの、市民たちは本当に次元の低い嫌な選択を迫られることになった。
 本当にもう、「ゴキブリと百足と蛭の中から、まだマシだと思えるものを何とか選べ」という類の話である。
「誰がふさわしいか?」どころではなく、「まだマシなのは誰か」を消去法で決めるしかない、実に辛く厳しい選択を市民たちは迫られた。

 で、その消去法で行けば、現職のS氏しか残らないではないか。
 S氏は財政を少しは立て直したものの市民と職員に痛みばかり強い、市そのものも不況のままで、点数を付けるとすればゼロどころかマイナスだ。
 しかしS氏は痩せても枯れても元官僚だけあって、行政手腕はとりあえずある。脳○で精神論者のM氏に、そのS氏よりマシな市政を期待できるわけもないし、暴走族総長の“元ヤン市長”の登場など、想像するだけでもゾッとする。
 言ってみれば「評価は皆ゼロ以下だが、その中でマイナス点が最も少ない者は誰か?」という選択で、黒沢は「現職のS氏しかあり得ない」と考えたのだ。

 で、問題のA市の市長選の結果だが。
 本当に「この人が良い!」と心から支持してか、黒沢のように消去法で厭々選んだのかはわからないが、現職S氏の圧勝に終わった。
 S氏の一万一千票余りに対し、次点のM氏は六千票強と、結果としてはダブルスコアに近い大差だ。
 そして例の、暴走族総長で元ヤンT氏は二千票強だ。

 暴走族上がりの“元ヤン市長”の誕生はならず、A市の未来の為に「ホッと胸を撫で下ろした」と言いたいところだが。
 しかしそれでも二千人を越える市の有権者たちが、このT氏を支持して市長に推したのである。
 その現実が、黒沢には非常に情けなく思えた。
 元ヤンの暴走族総長で、クラブとコンパニオン派遣会社を生業とするような男を、「破天荒な行動力のある熱い男」として期待して支持する者が、人々の中に無視できないほど大勢いるのである。
 だからT氏は市議会では議長も務め、市の青年会議所では理事長を務め、そして自民党は彼を県連の青年局長に抜擢した

 このT氏、今回の市長選では落選したものの、これで政治生命が終わったわけではなかろう。市長選での得票数だけを見ても、市議として再び市政に復帰するのは容易なことであろうし、自民党県連の支持さえ得られれば県議にもなるかも知れない。

 国からやって来た地域に愛情のない官僚上がりの政治家と、掛け声ばかり威勢の良い精神論大好きの体育会系の人間や元ヤン。それに政治に関与することで何らかの利権を得ている企業の社長などの、いわゆる地域のボス達。
 こうした人々が動かして行っているのが、残念ながら我が国の地方政治の実態なのである。
 国政はそうした地方政治の上に成り立っているのだから、今の国政が劣化して乱れているのも当然のことと言えよう。
 国政を立て直すには、まず地方政治の質を何とかしなければならないのではないかと、A市の市長選を見てつくづくと思わされた黒沢だ。

 賢明な選挙民たちよ。
 落下傘候補の元官僚や威勢が良いだけの精神論者、それに市政に関与する事で己の会社に利益をもたらそうと謀る地域のボスなどに、貴方が決して票を投じないことを切に願う。
 政治の浄化の一歩は、おそらくそこから始まるのではないかと黒沢は考える。
 もしも“元ヤン市長”などが現実に登場するようであれば、日本はもう「衆愚政治に堕ち切っている」と断言せざるを得ない

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「女に政治を任せたら戦争は起きない」という大嘘

 NHKの連続テレビ小説の『花子とアン』が終わって、黒沢は心から嬉しく思っている。はっきり言って黒沢は、『花子とアン』は反吐が出そうなほど嫌いだった。
 出てくる男はみな女に尽くす、女に都合の良い男ばかりで。そして視野の狭いヒロインが激しい思い込みのまま突っ走り、それがやがて必ず認められてうまく行き、周囲の皆にも「全部ヒロインのおかげ、ヒロインはエライ」と褒め讃えられて感謝される。
 NHKの連続テレビ小説の視聴者層はどうせ殆どが女だから、「女に都合の良い、女の為のドラマなのは仕方ない」とわかっている。だがそれでもしかし、見ていて本当にウンザリだった。

「イヤなら、見なければ良いだけじゃないか」
 NHKの連続テレビ小説に限らず、テレビ番組に何か文句をつけると、必ずそう言われるよね。ただ残念ながら我が家にも『花子とアン』のファンが居て、毎朝欠かさずリビングのテレビで見ていたのだ。
 だから目を逸らして見ないでいても、『花子とアン』の会話は嫌でも耳に入って来てしまう。

 で、「女バンザイ、女はエライと言いたいだけの下らない番組だな」と思いつつ、出来る限りスルーしてきたのだが。
 しかしスルーし切れない、どうしても許せない台詞が番組の中から飛び出して来た。
 黒沢が「許せない!」と腹を立てた台詞の中身は、おおよそこうである。
女性ばかりに政治を任されたなら戦争は決してしない。かわいい息子を戦場に送り出す母親は一人だっていない

 よく居るよな、「女性が政治を動かせば、絶対に戦争は起きない」と正気で言うオンナたちが。
 そして『花子とアン』の例の台詞も、その焼き直しのようなものだろうが。
 バッカじゃねーの!
「女が政治を動かせば戦争をしない」と言う人達に、黒沢は訊きたい。
 フォークランド紛争を戦争で解決したイギリスのサッチャー首相は、女性じゃなかったんですかね?
 そして我が国で戦争に大いに協力し、出征する男たちを歓呼の声で送り出した国防婦人会のオバサン達は、女性じゃなかったんですかね?
 例の『花子とアン』でも、翻訳家ということで米英の手先のように思って、花子の家に押し掛けて来て花子を責め、花子の大切な洋書を火に投じたのは、国防婦人会の女性達だった筈だ。


 ノンフィクション作家の澤地久枝氏が、まだ女学生だった戦時中の頃の話だ。武器を作る資源が無いからと、有刺鉄線や郵便ポストまで供出させられている現状を見た澤地氏の母親が、「この戦争は負けるわね」と呟いた。
 その母親を、軍国少女だった澤地氏は「お母さんは非国民ね」と非難したという。
 実の娘が、母親を「非国民」と非難する
 これが当時の教育に洗脳されていた、我が大日本帝国の軍国少女の実態だった。

 その種の話は、当時の日本では決して珍しいものではなかった。
 召集され戦地に行くことが決まった青年が、婚約者の少女に戦争への疑問や死ぬ事への躊躇いを漏らした。するとその少女も、許嫁の青年を非国民と責めたのだそうだ。「私なら、迷わずお国の為に戦って死ぬのに」と。
 そして少女に非国民と責められて送り出された許嫁の青年は戦地で命を落とし、戦後の自由な民主主義の世の中になって、少女は彼を責めたことをずっと悔い続けたという。

 だから「女性に政治を任せたら戦争は決してしない」など、とんだ嘘っぱちだ。サッチャー首相や我が国の国防婦人会、それに当時の皇国教育に洗脳された軍国少女たちの実態を見れば、そんな事はすぐにわかる筈だ。
 確かに「かわいい息子を戦場に送り出す母親は一人だっていない」かも知れない。しかし「よその息子」ならば平気で戦場に送り出せる母親や女性は、実際に大勢いるんだよ。

 その種の「よその息子には“お国の為に死ね!”と平気で言える女性」なら、我が国の政権与党にも間違いなく存在する
 その名を稲田朋美と言い、安倍首相にまず規制改革担当大臣に抜擢され、そして今は自民党の政調会長を務めている。
 安倍首相が寵愛する稲田朋美は、こう公言している。
「真のエリートの条件は、いざという時に祖国の為に命を捧げる覚悟があること。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない」
「靖国神社というのは不戦の誓いをする所ではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓う所でなければならない」

 ……靖国神社の英霊の「後に続く」って、「国の為に戦って死ぬ」ということで間違いないだろ?
 戦時中の国防婦人会のオバチャンそのままに、「お国の為に戦って死ね!」と言ってはばからない女性が、しかも閣僚を経験し与党の要職も務める政治家が、この日本に現に存在するのだ。
 ちなみにこの稲田朋美によればヘイトスピーチも“言論の自由”のうちで、だから在特会の発言も取り締まる気はさらさら無いようだ。

 戦時中の国防婦人会そのままの意識をお持ちの与党の女性政治家は、何も稲田朋美一人だけではない。高市早苗や山谷えり子、それに有村治子など、安倍首相が起用した女性閣僚はその種の“軍国おばさん”ばかりだ。
 何しろその中には、「政治的な決断をするのに迷った時には、靖国神社に参拝して決断する」という極右の女性閣僚までいる始末だ。
 さあ、ここで再び訊こう。
 例の『花子とアン』などでも言われた「女性に政治を任せたら、戦争は決してしない」というのは、果たして真実だろうか。

 歴史を語れば、イギリスのエリザベス女王(一世)もロシアの女帝エカテリーナも戦争をして領土を広げた
 フランスのあのジャンヌ・ダルクだって、うら若き女性だった筈だ。
 日本の戦時中にも国防婦人会は大活躍したし、親や婚約者をも「非国民!」と責め立てる軍国少女も少なからず居た。
 だから「女性に政治を任せたら、戦争は決してしない」というのは、全くのデタラメだ。例の『花子とアン』のあのセリフも、脚本家が想像の翼wwwを広げて書いた綺麗事の願望に過ぎない。
 戦争を厭わず「いざという時には国の為に戦って死ね」と周囲の者たちに言える人間は、女性にも(しかも閣僚経験者の政治家にすら)存在する。これが偽らざる現実だ。

 この種の女性、「真のエリートの条件は、いざという時に祖国の為に命を捧げる覚悟があることで、靖国神社は不戦の誓いをする所ではなく『祖国に何かあれば後に続きます』と誓う所だ」と公言する女性政治家の何が始末が悪いかと言うと
 その「いざという時」に、ご自分は「女だから」と自ら戦場に立つつもりも覚悟もさらさら無く、そのくせよそ様の息子は平気で最前線に駆り立てようとする点だ。
 自分は安全地帯に居残って、他の男にだけ「お国の為に命を捧げろ!」と強いる女。最悪で最低、としか言いようが無かろう。

 呆れ果てるのは、その種の最悪で最低な女が選挙で国会議員に選ばれ、安倍晋三に寵愛されて大臣や与党の役員に抜擢され、そしてその安倍内閣の支持率も五割を越えている現実だ。
 稲田朋美や高市早苗や山谷えり子や有村治子などの国防婦人会そのままの女性政治家も酷いが、彼女らを寵愛して抜擢している安倍晋三はもっと酷い。しかし最も酷いのは、我ら日本国民自身に他ならない。
 何故ならば彼と彼女らを権力の座に押し上げ続けているのは、支持して一票を投じた国民たち自身だからだ。

 以前にもこのブログで触れたが、山谷えり子と稲田朋美は在特会と親しい関係にあり、高市早苗と稲田朋美は日本のネオナチ団体とも親しい関係にある。
 もし欧米であれば、そのような団体との関係が発覚すれば閣僚は即刻辞任、そして首相は任命責任を問われて支持率も急落するものだ。
 しかし日本では殆ど問題にならず、というか国民自身が問題視しておらず、内閣の支持率も落ちていない

 この有り様を見て「日本の国民は愚かだ」と言わずにいられようか

 それにしても、『花子とアン』のセリフにあったような「女性に政治を任せたら、戦争は決してしない」などという幻想から、もういい加減に目覚めてほしいものだと思う。
 稲田朋美を見ろ。
「お国の為に命を捧げるのが真のエリート。祖国に何かあれば後に続きますと靖国神社で誓うべき」と公言している閣僚経験者の女性政治家が、政権与党にちゃんと存在しているぞ。

 願望と現実はまた別のものだということをまず肝に銘じておかないと、この国の政治は決して良くならないし、戦争も決して無くならない。

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青い海に打ち寄せる、さざ波のような雲

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 一年のうちで、空と雲が最も美しいのは秋のような気がします。
 澄んだ青い空に、白い雲がまるでさざ波が寄せるように流れていました。

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これも秋の雲?

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 我が家の二階の窓から見ました。
 何とも不思議な、白いカーテンのような雲でした。

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体育祭での組体操は無謀で間違いなく危険!!

 近頃の学校の体育祭では、組体操の高さが話題になっているようだ。
 その高さや大きさに対する感動や称賛の声が多く上がる反面、崩壊や転落の事故も絶えず、その危険性を指摘する声も上がっている。

 組体操なら、黒沢も高校でやらされた。
 このブログで以前にも何度も触れたが、黒沢は小柄だ。だから体育祭では、騎馬戦では常に騎手、そして組体操では最上段だった。
 その体験から断言するが、組体操は間違いなく危険だ。
 組体操を称賛する者達は、やり遂げる意義や出来た時の見事さや達成感などを強調する。しかし黒沢は、そんな“達成感”などより事故の危険の方がはるかに大きい事を身をもって知っている。

 黒沢の体験した組体操は、たったの三段だ。その段数で言えば、先日、神戸の私立高校が達成したという11段のピラミッドとは比べものにならない。
 ただ黒沢の高校でやらされた組体操はピラミッドではなく、上の段の者を肩に乗せて立ち上がるタワー型のものだった。

 卒業してもうかなりの年月が経った今でもよく覚えているが、その組体操の手順はこうだ。
 ①まず背の高い六人が、肩を組んで円陣を作ってしゃがむ。
 ②次にその上にやや小柄な三人が、下の台になる者達の肩の上に乗る。そして同じように肩を組み、円陣を組んでしゃがむ。
 ③さらに最後の最も小柄な一人が一番上に登り、二段目の者たちの肩の上でしゃがむ。
 ④上の段の者達の重みを肩で支えながら、最も下の段の六人が一斉に立ち上がる。
 ⑤続いて二段目の三人が、最上段の一人を肩で支えながら、下の段の者たちの肩の上で立ち上がる。
 ⑥最後に最上段の者が立ち上がり、両手を広げて静止して完成。

 こうして文章に書くと、どうという事もないように思われるかも知れない。他の記録に残るような組体操に比べれば、はっきり言って“チンケ”なタワーだろう。
 だがピラミッドと違って全段が立ち上がるタワーだから、最上段の者の位置はかなり高いぞ? 目の位置の高さで言えば、間違いなく四メートルを越える。
 想像してみてほしい。四メートルと言えば、二階の窓から周囲を見下ろすのとほぼ同じくらいだ。

「は? そのくらい大した事ないじゃん」って?
 そう思うなら、その高さから地べたに落ちても無事に済むかどうか、一度二階から飛び降りて試してみればいい
 何しろ上の段に乗っている者の足元は、生身の人間の肩だ。柔らかく頼りないし、しかもグラグラ揺れているんだ。だって下の段の者達は、上の人間の重みに耐えているワケだからね。

 それでも下の段の者達は、重いだろうが肩を組み合い互いに支え合っているから、とりあえず安定はしている。
 しかし最上段の者は違う。支え合う相手は誰もないまま、己でバランスを取りながら立ち上がらなければならないのだ。それも柔らかくグラグラする人間の肩の上に、である。

 さらに、だ。下の段の者達も、身長はみな同じというワケではないからね。
 最も下の段の六人も、それぞれ肩の高さは違うし、だからその上に立つ二段目の三人だって、立つ姿勢はそもそも斜めになってしまうんだよ。
 つまりさ、最上段になった黒沢は、右と左でかなり高さに差のある肩の上に、斜めに立たなければならなかったんだ。

 想像してみてほしい。足元は柔らかくぐらついていて、しかも下の段は斜めで、右と左の足の高さにはかなり差があるんだよ。
 それで二階ほどの高さのある位置で、何の支えも無い状態で立たなければならないんだ。
 そして指導役の体育教師達には、「背と足をちゃんと伸ばして、しっかり立て!」と下から怒鳴られ続けられるワケ。
 もし言われた通りにしたら、マジで下に落ちるっての。
 だから中腰で必死にバランスを取りながら、何とか腕を広げて立ったフリをするので精一杯だった。

 今月の二日付けの毎日新聞のコラム『発信箱』でも、運動部の記者で論説委員の落合博氏が組体操の高さや大きさを競うことに疑問を投げかけていた。「組体操は高さや大きさを競うものではない」、そして「傷つくのは子どもたちだ」と。
 さらに落合記者は、組体操の研究者である岩瀬裕子氏の言葉も、そのコラムに引用していた。
 組体操について、岩瀬氏はこう強調しているのだそうである。
用意周到に積み重ねられた個人および集団の準備あっての実践です

 では「用意周到に積み重ねられた個人および集団の準備」とは、具体的にどのようなものか。
 岩瀬氏によれば「参加者は約九ヶ月間、1日2~3時間、週2~3日の練習を重ねて本番に備える。練習のない日はジムに通うなどして基礎体力の向上に努める人もいる」のだそうである。
 組体操とは、そこまで鍛錬してようやく出来るものなのである。

 黒沢が高校の体育祭で経験した組体操は、その岩瀬氏の言う「用意周到に積み重ねられた準備」とはほど遠いものだった。
 組体操の専門知識のある体育教師など、我が校には一人も居なかった。黒沢の知る限り、我が校の体育教師は球技専門が二人に柔道が二人、そして陸上が一人だった。
 その彼らが指導するまま、体育の授業の時間に何回か練習しただけで本番に臨んだのである。だから前にも語った通り「組んだ肩の高さはバラバラ、上の段に乗った者はグラグラ」という有り様だった。
 そして体育教師らは組んだタワーの間を巡回しながら、「ホイッスルに合わせて、しっかり立て!」と怒鳴るだけであった。

 練習から本番まで通して、落ちたりした者は黒沢も含めて誰もなかったし、どこのタワーも崩れたりもしなかったが。
 それでもあの組体操は危険で、無事故で済んだのは単に運が良かったからに過ぎないと黒沢は断言できる。
 もし黒沢が生真面目で素直な性格で、体育教師の言いつけ通りに背と足を真っ直ぐ伸ばして立とうとしていたら、黒沢は間違いなく最上段から地面に転落していただろう。

 そしてこの黒沢の高校時代のように、組体操の専門知識のある体育教師もいないまま、ただ見栄えだけを求めて体育祭で組体操をやらせている危険な学校は、日本中に数え切れないほどあると思う。
 だが落合記者が指摘する通り、組体操の事故で「傷つくのは子どもたち」なのだ。
 だから専門知識のある指導者と用意周到な準備を欠いた学校での組体操は、是非とも止めてもらいたい。実際に組体操で怖い思いをした者として、その事を切に願う。

 ちなみに黒沢の母校の高校の体育祭では、黒沢が卒業して数年も経たないうちに組体操は無くなって、空手の演技のようなものに変わっていた。
 体育教師等が危険と判断して自ら中止させたのか、それとも転落などの事故でもあったのか。そのあたりの詳細は、黒沢は知らない。
 しかし組体操で最上段に乗った者として、「組体操は成し遂げた達成感より、生徒の身の危険の方が間違いなく大きい」と断言できるし、母校で組体操が中止されたことを喜ばしく思っている。

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秋空

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 雲の種類や名前とか全然知りませんが、それでも白い雲の浮かんだ青い空を見るのは大好きです。
 空を見ると、ホントに秋って実感しますね。

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買い物に行く途中に

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 夕食の食材を買いに行った時に見かけた、入り日です。

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婚活に血税投入の愚

 ……驚いた。
 と言うより、正確には呆れ果てたよ。

 少子化と晩婚化は以前から言われていたし、恋人のいない独身者が増えていることも知っていたよ。
 でもまさか国が三十億円もの予算をかけて、「婚活支援」をするとはね。

 まず自治体が「異性と会う時の服装や話題に関する講座」を開き、そして「出会いの為のパーティー」まで開くのだと。例のその、国から出た婚活支援の税金でね。
 男女を結婚させる為に、国や自治体がここまで手取り足取り世話して指導するなんて、「何て馬鹿みたいだ」と思わないだろうか。

 それにそもそも、恋愛とか結婚ってものすごーくプライベートなもので、国や自治体が「こうしなさい」と指導する性格のものでは絶対にないし、多額の税金をつぎ込むべき事でも絶対ないと思うのだが。

 しかしその「婚活支援」を進める中央大の山田昌弘教授は、こう反論する。「就職対策、つまり、自分の仕事を見つけるというプライベートなことに税金を使うのはいかがなことなんでしょうね」と。
 その山田教授に言わせれば、就労支援も婚活支援も全く同じなのだそうだ

 違う違う、就労支援と婚活支援は全く別の話だ!
 まず就労支援の方には、構造的な不況と就職難という現実がある。
 別に「好条件の一流企業でなければ厭だ」と言うのではない。ただブラックでない会社の、普通の正社員になるのですら困難なのが現状なのだ。
 もしこの現状を放置しておれば、多くの者が派遣かパートの職しか得られず、国民が貧困化するのは目に見えている。
 一部の恵まれた者たちを除けば、「ブラック企業で社畜として酷使されるか、それとも低賃金で不安定な身分の派遣に甘んじるか」の選択を迫られているのが現実だ。そしてこんな今の日本の社会に、多くの者が疲れ切って心も病んでいる。

 求職者数に比べて、まともな就労先の絶対数が明らかに足りない
 これは今の日本の社会の、間違いのない構造的な問題だ。個人の努力だけではどうしようもない問題で、だからこそ早急に国が旗を振って何とかせねばならないし、税金の投入も当然であると考えられる。

 しかし婚活支援の問題はまるで違う。
 なぜならば男女はほぼ同数で、絶対数が足りているからだ恋人や結婚相手など、本人がその気になって外に出て懸命に探しさえすれば、必ず見つかるものなのだ。
 黒沢自身について言えば童顔で、イケメンなどでは全然ない。しかも低身長というハンディキャップもあって、決して見てくれでモテるタイプではない。
 それでも黒沢は、これまでに十人を越える女性と交際してきたゾ。
 そしてそれはすべて、黒沢個人の意志と努力による成果なのだ。

 まず魅力的な女性と出逢い、どうにかお付き合いしたいと願っていろいろ足掻き、恥もたくさんかきながら頑張ったのだ。
 冷たくフラれた事だって、手酷く傷つけられた事だって数知れないほどある。
 それでも懲りずに頑張ってアプローチを続けて、何とか相手の心を動かすに至ったのだ。

 童顔のチビながら、黒沢は幾人もの女性にお付き合いをしていただいてきた。
 だがそれは“リアルな女性との恋愛”という過酷な戦場に自ら出て、散々負傷して幾度も心に深い傷を負いながら必死に戦った結果なのだ。
 その“戦場”に出もせずに「彼女をどう作れば良いかわからない」とか「彼女なんか、どうせオレなんかにできやしねーんだ」みたいな甘えた事をほざいている奴は、一生「彼女いない歴=実年齢」のままで“魔法使い”にでもなれば良いと思う

 辛いぞ、フラれるってのは。
 でも苦しくても必死に頑張って、血の滲むような努力をして、何とか女の子とお付き合いして貰えるところまで持ち込んできたんだよ。
「何故そこまで頑張れるのか」って?
 それは相手の女の子と「何とかお近づきになりたい」って願う“意志”があったからだよ。

 少なくとも黒沢は、お役所や税金などの公的支援など一切受けず、黒沢自身の意志と頑張りだけで恋愛をしてきた。そしてその恋愛は不幸にして未だに結婚には至っていないが、それでも「公的な支援が欲しい」とか、全く思わない。
 黒沢はイケメンではなくしかもチビで、お医者さまなどの高収入の職に就いているわけでもない。それでも彼女の一人や二人くらい、個人の頑張りだけで見つけて来たぞ。
 にもかかわらずその個人の問題である恋愛や結婚を税金で支援して、服装や会話の指導をし出会いの場までセットしなきゃ駄目だとか、「どれだけ過保護で甘やかしてるんだよ!」と怒りが込み上げてくる。

 前出の山田昌弘中央大教授は、恋人ができない人や結婚しない人がいるのは「社会の責任だ」と言う
 で、その山田教授の言い分はこうだ。

 30年くらい前までは、独身者の大部分は男女とも正社員で、サークル活動などもあった。地方でも青年団活動が盛んだった。コミュニケーションが苦手な人でも、自然と出会いの機会が多く、時間をかけてゆっくり知り合う中で結婚していった。しかし、若者の非正規化が進み、青年団も消滅しつつある。自然に出会う場所や機会はどんどん減っている。これは、社会の責任とは考えられないだろうか。


 ……考えられないデスね、黒沢には。
 だって黒沢は社内恋愛とかした事ないし、青年団にも入らなかったよ。けど彼女の一人や二人どころか十人以上、ちゃんと自力で見つけてきたからね。
 山田教授の説によれば、恋人や結婚相手は他から与えられた出会いの場の中で、コミュ力が低くとも自然に見つかるものということである。
 違う。
 童顔なチビなのに、身近にいつも誰かしら親しい女の子がいた者として断言するけれど、それは絶対に違うよ。
 恋愛は、作られた出会いの場で、自然にできるものじゃない。彼女が出来るかどうかは、「あの子を絶対ふり向かせるぞ!」という己の強い意志を持ち、自分から行動に出るかどうかで決まるのだ。

 繰り返し言うが、黒沢は出会いの場のような環境に頼ったことも無いし、「気がついたら、自然に恋人になっていた」という事も無かった。
 惚れたくなるような魅力的な子は自分から探し出し、そして何度恥をかいたり痛い目に遭ったりしても懲りずにアプローチを繰り返して、すべて自力で彼女を見つけて恋をしてきたのだ。
 だから山田教授のように「服装から話し方まで教え込み、出会いの場もセッティングしてあげないとダメだ」などと言われると、「甘えたこと言ってんじゃねーよ!」と怒りたくなってしまう

 どこに行けば出会えるかわからない?
 そんなん、グタグタ考えてないで街に出てみろよ。年頃の女の子など、それこそうようよいるだろ。
 声のかけ方や話し方がわからない?
 別に宇宙人とコンタクトしよう……ってんじゃねーんだよ、同じ人間同士だろーが。相手を異性と変に意識せず、ただ普通に喋れば良いだけだ。

 そりゃあ最初は緊張するし、恥ずかしいけれど、それも慣れだ。恥もいっぱいかいて異性と話すのにも慣れてくれば、別に緊張もしなくなるよ。

 例の山田教授は、今の恋愛ができない若者は「どこに行けばよいかわからない、声のかけ方もわからないから、家にこもるのだ」と言うけれど。
 恋愛するにあたって、誰かに服装から話し方まで手取り足取り教えてもらい、出会いの場までセッティングしてもらった事など、黒沢は只の一度も無いゾ。
 彼女がほしい。そう思ったら外に出て自分で探しに行くだけだ。服装も自分で研究し、会話も自分なりに頑張った。
 恋愛って、そういうモノじゃないのかね? 欲しけりゃ、自分から探しに行って頑張って得るもので、自ら動かずにただ待っている者には決して与えられないのだ
 勉強だって仕事だって同じだよ。ただ待って他者から与えて貰うのを待ってるだけじゃ駄目で、自ら求めなければ成果が上がらないのは当然のことさ。

 山田教授は「支援せずに放置すればどうなるかと、婚活支援反対論者に聞いてみたい」と言う。恋人のいない独身者の多くは親と同居していて、「このままだと、確実に出会いがないまま、親と一緒に年をとることになる」と。
 黒沢は逆に山田教授に聞きたい、「出会いや結婚を積極的に望まぬ者が、親と一緒に年をとって行って何故悪い?」と。
 今は生き方は多様だ。一生独身を通す覚悟の者もいるし、子供の居ない夫婦もいるし、結婚して子供まで産まれても離婚を選ぶ夫婦もいる。
 だから「独身を通し、親を看取ってその後は一人で生きて死ぬことを選んだ者がいて、何か問題があるのか?」と、黒沢は山田教授に逆に問いたいのだ。
 黒沢の見るところ、山田教授は「男も女も皆、必ず恋愛して結婚すべき」という古い考えに縛られているように思える。

 黒沢はこれまでに十人以上の女性と付き合い、恋愛では痛い思いも厭と言うほどしてきた結果として、「独身という生き方もアリだな」と思っている。
 昔は好きで好きでたまらない女の子がいっぱいいて、恋も充分過ぎるほどしてきたよ。そして女の裏の部分とか、見ない方が身の為だったような厭なものもいろいろ見たよ。
 でもご自分が幸せな結婚生活を送られているのか、山田教授は「恋愛→結婚=幸せ」という短絡的な思考をお持ちのようだ。

 恋愛して結婚し、家庭を築けばそれで幸せか……って?
 甘いね、結婚はあくまでもスタートであって、ゴールではないのだよ。家事の分担や子供の教育問題や親族との付き合いなど、夫婦の不和のもとはいくらでもある。そもそも価値観も育った環境も違う他人同士が一緒になるわけだから、ぶつかり合わない方がおかしいんだよ。
 それに浮気や不倫なども“ない”とは断言できないのが現実だし、結婚生活の先には地雷原を行くように離婚の危機が待ち構えているのだ。
 仮に夫婦仲良く添い遂げたとしても、子供が独立してしまえば家庭はまた二人だけになる。そしてどちらか一方が先に亡くなれば、残された方は独居老人となるしかないわけだ。

 結婚したとしても、「子供や孫に囲まれ、三世代同居で幸せな老後を過ごせる」なんて恵まれた人は、現実にはほんの一握りだから。
 そしてかなりの割合の人が、子供は独立しパートナーとも死に別れて、結局一人になるものなんだ。
 だとしたら、「最初から独身を通して一人で生きる」という人生の選択肢もあり得る、と黒沢は思うのだが。

 普通の男性より少しばかり多くの女性とお付き合いしてきて、その結果「女の子と付き合うのはもう充分かな、恋愛するとか何か面倒だ」という気持ちになりかけている黒沢なのだ。
 例の山田教授は、恋愛できない若者のことを随分と心配されているようだけれど。
 逆に「若いうちからいろいろ恋をして異性をいっぱい見過ぎると、逆に冷静になり過ぎて婚期を逃す」というのも、黒沢自身の実感でも事実だと思う。

 そして黒沢のような者だけでなく、山田教授の言う「結婚どころか恋愛すら出来ない若者たち」の多くは、実はそれほど恋人が欲しいわけではなく、恋愛や結婚にあまりメリットを見いだせて無いだけではないかと思う。何しろ今は、楽しい事は恋愛以外にもいろいろあるからね。
 だって自分の経験でもそうだったけど、本気で「恋人が欲しい!」って気持ちになったら、誰に頼らずとも自分で必死に頑張るから。
 わざわざ外に出ず、家で趣味を楽しんで過ごしているのは、当人が本気で恋人を求める気持ちを持ってないからなんだよ。そして黒沢は、それを問題だとは決して思っていない。

 恋など、したい者が自由にすれば良いだけのものなのだ。「若者なら、必ず恋愛して結婚しなきゃならない」と決めつける方が、むしろおかしいのではないか。
 例の山田教授は、国や自治体による婚活支援も就労支援と「同じだ」と言う。
 サービス残業も当たり前のきつい長時間労働を覚悟の上で正社員になるか、それとも低収入で不安定な身分の非正規に甘んじるか。その二極分化が進んでいるこの社会で、仕事が得られずに困っている者に、就職の世話をするのは確かに親切だし、社会的にも必要なことである。
 しかし恋愛や結婚は仕事とは違う。「しなければ生きて行けなくて困る」というものではないし、する、しないはあくまでも個人の自由である。
 山田教授のように、自ら進んで恋愛しようという強い意志や意欲のない者にまで「若者よ、みな恋をして結婚しろ!」と押しつけるのは、まさに大きなお世話でしかない。

 税金は下らない無理矢理の婚活などではなく、本当に苦しい生活をしている貧困家庭への援助や、医療の充実など、もっと有益なことに使って貰いたいものだと切に願う。

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