空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

紅葉、です

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 紅葉と言えば、やはりモミジが一番綺麗だと思います。
 でも昨日、イチョウの写真をアップした時にも話したけれど、新緑の頃のモミジも黒沢は好きです。
 と言うか、黒沢は本質的に秋より春、紅葉より新緑の方が好きなようです。

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ある大学の隣の公園のイチョウです

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 紅葉した公孫樹も綺麗だけれど、新緑の頃の公孫樹も好きです。
 あと、公孫樹と言うと黒沢はつい、トーコさんの『いちょう並木の下で』の歌を思い出してしまいます。
 ハイ、トーコさんの澄んだクリアな歌声、黒沢は大好きでした。

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タイブレーク制度の導入に断固反対する!

 この夏の軟式野球の全国大会で、中京対崇徳戦で延長五十回という球史に残る熱戦が行われたことは、まだ記憶に新しいと思う。
 その四日間にもわたる試合自体は感動的だったが、感心出来ないのは、その後に日本高校野球連盟で検討されている「タイブレーク制度」の導入だ。

 タイブレーク制度とは、平たく言えば早く試合の決着をつける為に、延長戦時に最初から塁にランナーを出しておく制度である。
 ひらたく言えば点をすぐに取れるように、「ヒットを打ったわけでも、四死球によるものでもないランナーを出しておくこと」である。
 このタイブレーク制度は一部では既に導入されていて、例えば国体や神宮大会では「延長十回から一死満塁でスタートする」のだそうだ。

 ちなみにこのタイブレーク制度もいろいろあって、例の「一死満塁でスタート」という方法だけでなく、「無死一塁二塁でスタート」という方法などもあるそうである。
 またタイブレーク制度が適用されるのも「延長十回からすぐに」だけでなく、「延長十三回や十五回から開始」という案もあるそうである。

 だが、いずれにせよ考えれば考えるほど妙な話である。何しろ「早く点を取れるように」、ヒットも四死球も無しにランナーを出せるのだ。
 それは打つ側には都合は良いだろうが、初めからスコアリング・ポジションにランナーを置いた状態で、そのイニングを始めなければならないピッチャーとしては、たまったものではない。

 タイブレーク制度の目的は「選手の負担軽減の為」だそうだが、それこで言われる“選手”とは、主にピッチャーと考えて間違いあるまい。
 その延長戦時に最も負担のかかっているピッチャーに、強い精神的緊張とさらなる全力投球を強いるのが「タイブレーク制度」なのである。

 それだけではない。
 タイブレーク制度で塁に出されているランナーは、ヒットを打ったわけでも四死球を与えられたわけでもなく、投げているピッチャーには何の責任もないのだ。
 しかし仮に「一死満塁からスタート」のタイブレーク制度を導入した場合、ヒットどころか外野フライやバント(スクイズ)一つだけで“失点”が計上されてしまうのである。
 そしてヒットを打たれた場合には、たった一安打で2点も取られかねない。
 ピッチャーとしては、これではたまったものではあるまい。

 タイブレーク制度で出たランナーについては、失点につながっても投手の自責点には数えないと言う。
 しかしそれにしても、最初からスコアリング・ポジションにランナーを複数置かれ、セットポジションで投げなければならないピッチャーの負担は大きい。
 しかもランナーが出ている状態だから、内野手は自然に塁に張り付くことになり、一二塁間と三遊間が開いて打球がヒットとして抜けやすくなる
 外野手だって、バックホーム体勢を取り前進守備にシフトすれば、通常ならフライとして処理できる打球が、頭越えの長打になってしまいがちだ。
 だから断言できるが、どう理屈をつけようとタイブレーク制度は、ランナーの無い状態でそのイニングを始めるより間違いなく連打を浴びやすく、ピッチャーへの負担が大きい。そして連打を浴びれば、やはり自責点にも影響して来るだろう。

 タイブレーク制度で理に合わないおかしな話は、まだ他にもある。
 タイブレーク制度で出たランナーは、本塁に還っても打たれたピッチャーの自責点にはならないが、「バッターの打点にはなる」のだそうである。
 ホームランを除けば、ヒットを重ねるか、四死球に犠打を重ねるなどしてようやく得るのが打点である。だからこそ野球では、「チームプレイでつないでゆくことが大事」と教えられる。
 にもかかわらずタイブレーク制度では、“つなぐ”ことなくたった一本のヒットや犠打で打点が得られてしまうのだ。
 これを「おかしい」と感じない人の頭の方がおかしいと黒沢は思う。
 と言うか、ヒットを打ったわけでも四死球を得たわけでもないランナーが出て、それが得失点に記録される事自体がおかしいのだ

 おかしいと言えば、国体や神宮大会では既に採用されているという「延長十回から一死満塁でスタートする」タイブレーク制度の場合、1イニングが実質2アウトで終わることになる。
 野球というものは1イニングが3アウトであることは、野球に疎い者でもおそらく知っているであろう常識中の常識だ。
 無死で一塁二塁からスタートする方式ならともかく、一死満塁でスタートするタイブレーク制度は、野球の基本的なルールからねじ曲げているのである。

 ヒットを打ったわけでも四死球を得たわけでもない複数のランナーを、守備側のピッチャーに背負わせて。
 打点や得失点に、その妙なランナーによる得点も絡めて。
 そしてそのタイブレーク制度の為に、1イニングのアウト数も変えて。
 延長戦を早く終わらせる為に、野球の基礎をそこまでねじ曲げるかと、黒沢は呆れ果てている

 タイブレーク制度の導入の目的について、高野連は「選手の負担軽減の為」と説明している。
 そしてその“選手”というのは、主にピッチャーのことであろうと、誰にでもわかるだろう。
 そのピッチャーの負担を軽減させ、かつ延長戦も減らす方法は簡単だ
 ピッチャーの投球数を制限するか、投球イニング数を制限すれば良いだけのことだ。

 まず一番わかりやすいのは、一試合で一人のピッチャーが投げられる投球数を決め(百球なり百三十球なり)、それを越えたら問答無用で別のピッチャーに交代させるのだ。
 ただ、この投球数に制限をかけた場合には、連投の問題が出てくる。仮に延長戦まで投げなくても、連日登板することで肩を壊す高校生のピッチャーは後を絶たない
 だから黒沢は、投球数や投球イニングの制限に連投の規制も絡めたらどうかと思っている。
 例えば「百球または五イニングス以上投げたピッチャーは、翌日の試合に登板してはならない」という風に規制すれば、投球数だけでなく連投による負担も避けられる
 目的が「選手の負担軽減の為」ならば、タイブレーク制度などというワケのわからないシステムより、こちらの方が余程も合理的で効果的だと思うが。

 事実、高野連の技術・振興委員会でも、投球回数や投球数の制限も検討されたという。
 だが結局それは受け入れられず、タイブレーク制度の導入に結論は落ち着いたという。
 それは何故か。
 力のあるエースに頼り、その肩を壊す危険を犯してでも勝ちたい野球部の指導者たちのエゴのせいだ。

 黒沢の県の、公立のあるサッカーの名門校の話だが。その高校はサッカーで名を売っているだけに、予算からグランド使用から万事サッカー部優先で、他の運動部はあまり活躍していなかった。
 だがその高校の野球部が、一度だけ甲子園に出たことがあった。
 実は黒沢は、その時のその高校の校長だった方と顔見知りだった。
 その校長は、黒沢に直にこう言った。
野球なんてものは、すごく良いピッチャーが一人いれば甲子園に行けるんだよ
 ……確かにそういうものかも知れない。良いピッチャーが零点に抑えていれば、一点取るだけで勝てるわけだからね。

 何しろ高校野球では、「負けたらそれで終わり」だから。それで二番手の控え投手も育てて併用するより、そのすごく良いピッチャー一人に頼り切りたくなるワケだ。
 絶対に負けられない、だから控え投手に投げさせるより、エースに連投させたい。で、チームの勝利の為にエースには「肩が壊れるまで投げろ」と。
 こんな指導者が少なくないから、「投球回数や投球数の制限? 絶対反対だ!」ということになるのだろう。
 何しろエースなら「一死満塁や無死一塁二塁のタイブレークも抑えてくれる」だろうし、そして「また明日も投げてくれる」だろうってね。
 だが投球回数や投球数を制限されたら、必然、エースを交代させ控え投手を出さなければならないことになる。
 だから勝利最優先の指導者たちは、「投球回数や投球数の制限には絶対反対で、タイブレーク制度の方がまだマシ」って思うんだよね。
 選手の負担軽減とか言いつつ、結局エースの肩よりチームの勝利の方が大事なんだよ。それが本音さ。

 無論、野球部のエース達も監督に命じられて厭々投げているわけでなく、「大丈夫です、次も投げさせて下さい!」と自ら連投を志願する者も少なくないだろう。そして「連投して来たけど、俺は大丈夫だった」という者も、実際にいるのだろう。
 しかしピッチャーの肩は、壊れてからでは遅いのだ。
 連投や長いイニングの投球は明らかにピッチャーの肩に負担だし、一人のエースに頼り切るのではなく複数の投手の育成するのは、高校野球の指導者の責務と言っても過言ではないと黒沢は考える。
 事実、甲子園で勝ち上がれるような強豪校の多くは、エースに劣らぬような控え投手も擁して、調子や疲労度に応じてちゃんと使い分けている。

 前にも書いたが、黒沢の知るある高校の校長は「野球なんて、すごく良いピッチャーが一人いれば甲子園に行ける」と言った。
 だがそのような、エースの肩を犠牲にして勝ち上がるような高校野球のままでは駄目なのだ。
 ピッチャーは必ず複数育て、それが出来ない高校は予選で早々に負けてしまえば良いのである。

 高野連が、もしも本当に「選手の負担軽減の為」を考えるのならば。
 
野球の基礎的なルールをねじ曲げるようなタイブレーク制度ではなく、投球回数や投球数の制限を導入し複数のピッチャーの育成を義務づけるべきだと、野球ファンの一人として断固主張する。

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白い絵の具を塗ったような雲

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 夕方、買い物に行く途中で見た空です。
 青いキャンバスに白の絵の具を刷毛で塗ったような曇って、何か好きです。

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秋の田舎

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 青空の下、田んぼではもう稲刈りも終わりかけています。

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「良い人」は被害者より加害者に同情を寄せ、結果的に世の中を悪くする

 厚生省が募集した“脱法ドラッグ”の新名称として、“危険ドラッグ”という呼び方が採用された。だからマスコミも、その種のドラッグを「右にならえ」で危険ドラッグと呼んでいる。
 しかし実際には、その危険ドラッグという名称より、“廃人ドラッグ”という案の方が多くの票を集めたという。

 ではなぜその廃人ドラッグではなく、それより票の少なかった危険ドラッグという名称の方が採用されるに至ったのか。
 端的に言うと、それは「廃人ドラッグでは、薬物依存者への偏見を助長するから」だそうだ。

 収入の多くを薬物に使い、妄想や幻覚などでまともな生活が送れなくなり、やがて職も失う。
 そしてそれでも薬物を購入する為に、家族や知人などに金をせびり、挙げ句の果てには犯罪に手を染めたりもする。
 また、度々報道もされる通り薬物を使用して車を運転し、暴走して何の罪もない人を巻き添えにした事故を起こして社会に害を与えている現実は、誰も否定できないだろう。

 ところが、だ。世の中には、それもリベラルで「弱者に理解ある」知識人の中には、その彼らを「社会や家庭の問題が生み出した犠牲者」として擁護しようという人々が少なからずいるのだ。
 今年の8月19日の、毎日新聞の『発信箱』というコラムで、小国綾子記者はこう書いていた。

 ドラッグに依存する人の多くは、いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えていた。

 だからその生きづらさからドラッグに頼るのだと、小国記者は言う。

 果たしてそれは、事実だろうか。
 小国記者の説に従えば「ドラッグに頼る人は生きづらさを抱えた気の毒な人達で、ドラッグに頼らずまともに暮らしている普通の人々は幸せで恵まれている」ということになる
 この「ドラッグに頼る人=問題を抱え生きづらさに苦しんでいて、手を差し伸べて助けてやらねばならぬ社会や家庭の犠牲者」という判断に、貴方は賛同して共感できるだろうか。
 少なくとも黒沢の考えはまるで違う。
「ドラッグに手を出して依存する者は、元々意志が弱くて駄目な人間だ」
 スパリとそう切り捨てて構わない
と、黒沢は偽らざる本音で思っている。

 黒沢自身のことについて言おう。
 このブログで以前にも何度か触れているように、黒沢は小柄だった。小柄でも活発で元気一杯な者もいるが、黒沢は病弱で体力にも欠けていた。
 そんな者が東京から地方に引っ越して行ったら、現地の学校でどんな扱いを受けるか、容易に想像がつくだろう。
 当然、いじめられたよ。小学生の低学年のうちから悪ガキ連中に無理矢理“プロレス技”をかけられるなど日常茶飯事で、暴力を含むいじめを散々に受け続けたさ。

 また、黒沢には年子の姉がいるのだが、この姉が外では良い子の優等生を演じ、そのストレスを家でワガママとヒステリーの爆発で晴らす、ひどい内弁慶タイプの人間だった。外で他人に対する時の姉と、家で地のままでいる時の姉って、もうマジで二重人格レベルで態度が違うんだよ。
 黒沢にとってその姉は、本当に迷惑な“ヒス姉”でしかなかった。
 だが大人も含めて人なんてものは、自分の目に映る上っ面しか見ないものだからね。
 おかげで黒沢は、親戚の大人達にも学校の教師らにも“出来損ないの弟”扱いされ、ずっとこう言い続けられて育ったよ。
「お前は、もっとお姉さんを見習え」
 中学の時の担任の教師には、「お姉さんの爪の垢を煎じて飲め」とまで言われたぞ、本当に。
 ……笑っちまうよな、本性は手の付けられない酷いヒス姉なのに、それを「見習え」とはね。
 周囲の大人たち皆に、その二重人格のヒス姉と比べられては人格も才能も否定され続けて育って来たんだよ、黒沢は。

 だから当然、子供の頃から「人は皆バカばかりだ」と思うようになるし、人間不信にもなるし。
 ハイ、もちろん人付き合いも苦手だし、友達も多くない。と言うか、「友達なんて、心からわかり合える真の友が少しだけいれば充分」って思ってるしね。
 そうそう、ついでに言えば育った家庭環境にも問題があって、黒沢の父は常に酒が欠かせなく、しかも酔えば絡んで暴れるタイプの酒乱デシタ。

 例のコラムを書いた小国記者によれば、ドラッグに依存する人は「いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えていた」だそうだが。
 その小国記者のご高説に従えば、黒沢など薬物依存者になる条件にピッタリではないか。
 まずいじめも受けたし、常に姉と比べられては貶められてきて、おかげで人間不信で人付き合いも苦手になり、しかも育った家庭環境にも問題があった
 しかし黒沢は、それでもドラッグに手を出した事など一切無いぞ。

 ついでに言えば、スコッチなどの酒は愛してはいるが常に嗜む程度にとどめていて、乱れるまで飲むことは決して無い。煙草は大学時代には吸ったが、それ以降はキッパリ禁煙を続けている。しかもパチンコはもちろん、競輪競馬競艇など賭事の類にも一切手を出していない。
 ちなみに黒沢は、風俗関係のお店にも本当に一度も行ったことがない。女性とは損得感情抜きの恋愛感情のみで付き合うものと信じていて、お金で親しくなろうとか全く思えないからだ。

 黒沢は薬物だけでなく、アルコールにニコチン、そしてギャンブルからセックスに至るまで、本当にあらゆる種類の“依存”と無縁に生きている
 あえて依存症と言うとすれば“猫中毒”とでも言うか、猫が身近に居ない生活など考えられないくらいである。

 小国記者によると、薬物依存者には「クスリが唯一の友だちだった」という者も少なくないそうだが。
 黒沢がこれまで何にも依存せずに真っ当に生きてきたのは、すべて自分の意志の力によるものである。
 黒沢がいじめに遭ったり、姉と比べられ出来損ない扱いされるなどして人間不信に陥って、辛い思いをして苦しんでいた時。その黒沢を気持ちを理解して支えて助けてくれたヒーローのような人間など、本当に誰もいなかった
 小国記者の言ういろいろな“生きづらさ”を、少なくとも黒沢は一人で耐えて自力のみで生き抜いてきたのだ。周囲に理解者など誰も無いまま、ドラッグを含む如何なるものにも依存せずに、である。

 だから薬物依存者は「いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えて」いて、「生きづらさを抱え」て苦しんでいる、何か社会や家庭の被害者であるかのように言われると、胸がムカついてきてならない
甘えたこと言ってんじゃねーぞ、このボケが!」って、本気で怒鳴りつけてやりたくなる。

 確かに薬物依存者の多くが、「いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えて」いるのかも知れない。
 しかし「いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難を抱えて」きた者など、この世には幾らでもいるではないか。

 小国記者に訊きたい。いじめや虐待を受けた過去がある者たちは、その多くがドラッグに依存するようになっているのだろうか?
 人付き合いが苦手で自分に自信がなかったりする者たちは、大半がドラッグに依存するようになっているのだろうか?
 いじめや虐待を受けたり、人付き合いが苦手で自信のなかったりすれば、皆がドラッグに頼るようになるわけではない。多くの人はそうしたさまざまな困難を抱えながら、それでも薬物などに依存せずまともに生きているのが現実だ。
 いじめや虐待だの、人付き合いが苦手で自分に自信が持てないだの、そんなものは「誰しも抱えている生きづらさ」だ。だからドラッグに頼ったなどと言うのは、誘惑に弱く自制心に欠ける者の言い訳に過ぎない

 小国記者が取材した薬物依存者に、こんな母と娘がいたという。
 母は「ほめて育てろ」と聞き、生まれた娘を懸命に褒めて育てたそうだ。ところがその娘が薬物依存者になり、薬物に走った理由を娘は「良い子でないとほめてもらえない」からと言ったという。
 そして母親は「それが娘をクスリに追いやったなんて」と、小国記者の前で泣いたというが。
 バカ言ってんじゃねーよ!
 良い子でないと褒められないって、当たり前のことだろーが。
 じゃあ何か、「良い事をしなくても、悪い事をしても褒めろ」って言うのかい?

 良い事をすれば褒め、悪い事をすれば叱る。これ、当たり前の事だと黒沢は思うが。と言うより、娘の良いところを懸命に褒めて育てたという母親は、良いお母さんだったと思う。
 なのに「良い子でないとほめてもらえないからクスリに走った」って、駄目な娘の単なる甘えの言い訳に過ぎないとしか、黒沢には思えない。
 この母娘の場合は母親が育て方を誤ったのではなく、娘が元々意志の弱く誘惑に負けやすい駄目な子だったのだと黒沢は考える。

 ドラッグに頼る薬物依存者を、小国記者は「いじめや虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、さまざまな困難と生きづらさを抱えている人々」と理解し、黒沢は「意志が弱く誘惑に負けやすいだけの、自制心に乏しいダメ人間」と見ている。
 同じ薬物依存者を見て、どうしてこうも判断が違うのだろうか。
 ズバリそれは、「人間の本性を、善であると思うか否か」だと思う。

 黒沢の好きな漫画家に、新井理恵さんという方がいる。この新井理恵さんの描く漫画は「ブラックだ」と言われるが、笑いの中に人間の本音や世間の実態を鋭く抉って描く新井理恵さんのその“ブラック”さが、黒沢は大好きだ。
 その新井理恵さんが描いた『うまんが』という作品の中に、黒沢の心にズシリと深く刺さった台詞がある。
 その台詞から登場人物のキャラ名などを抜いて要約すると、まあこんな感じかな。
世の中の汚れた部分を見て育ちながら結果的に良い人になった者は、世の中の綺麗な部分を見て育ち純粋に良い人に育ったタイプの人間を、生理的に虫が好かない
 ……ハイ、身に覚えがありマス。
 正直に言って黒沢は、「本当に悪い人なんか、この世に誰も居ないんだよ」などと正気で言えてしまうような“純粋な良い人”って、本当に心の底から嫌いなんだ。
 リベラルな言論人や市民運動家などによくいる、この世に“悪”の存在を認めない性善説の根っからの良い人って、むしろ悪人よりタチが悪いくらいだと黒沢は思ってる。

うまんが  1 (小学館文庫 あE 2)うまんが 1 (小学館文庫 あE 2)
(2009/02/14)
新井 理恵

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 いろいろありつつも、黒沢は(交通違反を除いて)何とか警察のお世話になる事なく生きて来たよ。イジメにも遭ったし、家庭環境にも問題はあったし、無理解な大人達に差別されながら育ったけれど、それでも校舎のガラスも割ったりしなかったし、盗んだバイクで走り出したりもしなかった。
 グレたり薬物などに依存したりする口実なら、それこそ幾らでもあったけどね。
 要するに黒沢は、新井理恵さんの言うところの「世の中の汚れた部分を見て育ちながら結果的に良い人になった者」なんデス。

 だから黒沢は、「誰かをイジメたり貶めたりすることに喜びを感じる悪人」や「人や物事の上っ面しか見られないバカな人間」がこの世に間違いなく存在する現実を、我が身の痛みをもって知っている
 それだけにさ、差別やひどいイジメに遭ったこともなく、良い両親に愛情いっぱいに育てられ、良い友達にも恵まれて真っ直ぐ育ち、「本当に悪い人なんか、この世に誰も居ないんだよ」とか本気で言えてしまう“純粋な良い人”を見ると、気分が悪くなって胸がムカムカして来るよ。

 その種の“純粋に良い人”の何が悪いか……ってね、「この世に悪の存在を認めないこと」だよ。
 前にも触れたように、いろいろあったけど前科ナシで真っ当に生きている黒沢から見れば、グレて犯罪を犯す人間は「元々悪いヤツ」、薬物やアルコールやギャンブルなどに依存する者は「意志が弱くて自制心に乏しい人間」で片付くことなんだ。
 けど例の“純粋な良い人”達は、何しろ「本当に悪い人なんか、この世に誰も居ない」と心から信じているからね。
 だから何か犯罪を犯したり、何かの依存症になった人間がいると、例の“純粋な良い人”達は、彼らが「グレたり依存症になったりした原因」を、それこそ必死で探そうとする
 で、誰かが盗んだバイクで走り出せば、それを学校や社会や家庭などのせいにして、犯罪者がまるで被害者であるかのように仕立て上げる。そして大事なバイクを盗まれた、本当の被害者の痛みなどまるでお構い無しなのだ。
 同じように薬物依存の問題でも、イジメだの虐待だの、人付き合いが苦手で自分に自信が持てないだの、「生きづらさ」とやらを散々言い立てて、問題を本人でなく社会や家庭に求めようとする。

 黒沢は「悪いヤツ」は間違いなくこの世にいると思うし、だからグレて犯罪を犯すのは「それは当人が悪いヤツだから」だと考える。
 同様に薬物などの依存に走るのも、「当人の意志が弱いから」で片付けて構わないと思う。
 だって、そうでなければ「イジメられたり虐待を受けた過去があったり、人付き合いが苦手で自分に自信がなかったり、いろいろな生きづらさを抱えつつ、グレて犯罪にも走らず何かの依存症にもならずに頑張って生きている大勢の人達」に失礼だと思うから。
 だが主にリベラル思想の“純粋な良い人”達は「本当に悪い人なんて、この世に誰もいない」と信じ、だから人がグレて犯罪を犯したり、何かの依存症になるとその原因を重箱の隅をつつくようにして探し出し、結局は「社会や家庭や学校のせい」ということにしたがるのだ。

 さて、貴方はどう思いマスか。
 犯罪や薬物依存などを「本人の問題」と考える黒沢と、「社会や家庭や学校など周囲がワルい」と考える人達と。
 貴方はどちらが正しいと思いマスか?

 例の“純粋な良い人”達って、犯罪者や何かの依存症の人間を何とかして「社会や家庭の被害者」に仕立て上げたくてさ。
 それも悪気があって悪人の味方をしているのではなく、心からの善意でそうしているのだから始末が悪いよ。
 苦しくても必死に頑張って、自力で真っ当に生きている人達は「自分で頑張れる強い人間だから」どうでもよく、「悪いことをしてしまう人や何かに依存してしまう人は、助けてあげなければならない可哀想な存在」って、テメーは親鸞上人の生まれ変わりで、例の悪人正機説、「善人より悪人こそ救われるべき」とか本気で主張するつもりなのかよ……っての。

 また黒沢がタチが悪いと思うのは、薬物やアルコールやニコチンやギャンブルなどの依存症を「病気であって、本人にはどうにも出来ないものなのだ」と主張する人々の存在だ。
 黒沢はかつては、「昼食を抜いて浮かせたお金で好きな煙草を買う」ほどのヘヴィな喫煙者だったが、猫の為にその煙草をキッパリ止めた。
 当時可愛がっていた猫が、黒沢が煙草を吸うと本当に“イヤな顔”をするのでね。
 で、黒沢は医師の力も借りず、己の意志だけで煙草を止めたよ。
 だから断言するが、煙草は己の意志だけで止められるもので、「止められない」とか絶対に嘘だ
 お酒もスコッチだけでなく黒糖焼酎や純米酒やジンなども好きで、日本や世界各地の酒を楽しんで飲んでいるけれど、限度(スコッチなら2ショット、日本酒なら一合)はキチッと守って、酔っ払うまで飲むことは絶対にしてないよ。
 さらに週に最低一度は休肝日を入れているし、依存症には全くなっていまセン。
 そしてお金はほしいし欲はあるけれど、ギャンブルにはまるで興味なく、女性は大好きでもフーゾク関係のお店に行った事は一度も無いのも、前に話した通りデス。
 だから「依存症になるかどうかは、本人の意志次第」って本当に断言できる。

 と言うと、「オマエは薬物をやった事がないから、そんな事が言えるんだ。薬物の依存させる力は酒や煙草とは比べものにならないほど凄いぞ」と言われるかも知れないな。
 白状しよう。薬物の魅力と恐ろしさなら、その断片程度のものなら、黒沢も身をもって知っている

 前にも話した通り黒沢は病弱で、手術も何度か経験している。
 で、ある手術を受ける前に鎮静剤のような注射をされたのだが、すると間もなく、変に気分が良くなってきてさ。
 もうすぐ手術だというのに、不安感などどこかに消えてしまって、何となく浮かれたような良い気分でストレッチャーに乗せられ、手術室に運ばれて行ったよ。
 手術はその一度だけでなく、その後また受けることになって。それも腹の奥に出来た大きな腫瘍を摘出する、かなりの大手術だった。
 その時もまた手術の少し前に鎮静剤の注射を打たれたのだが、やはり気分が変にハイになった。手術は半日以上かかると聞かされていたし、大量の輸血も予想されて体は既に何本かの管に繋がれていたにもかかわらず、何の不安感もなく浮かれた気分でいたのだ。
 そして手術室に向かう時には鼻歌を歌い続け、手術室の前ではストレッチャーを押して送ってくれたナースに手を差し出し、「お迎え、ヨロシクね!」と笑顔で握手を交わす始末だよ。

 これはオカシイ。
 自分でもそう思ったね。手術の前に打つ鎮静剤とやらの注射には“何か”がある、って。
 で、その手術を何とか終えて退院したものの、後遺症とかいろいろあって、生体検査を受けることになってさ。
 体内の組織を取り出すのだから、その時には当然麻酔も使うワケで。
 だから黒沢は“期待”したんだよ、「また手術の前の時のように“ハイ”になれるんじゃないか」ってね。
 うん、全く予想通りだった。
 と言うより、予想以上の効き目だったと思う。
 検査を終えて治療室から出た後も、かなり長いことハイな気分だった。

 医療で普通に使う薬だから、効き目はかなり弱めてあるにしろ、麻薬って本当にスゴいよ。
 例えばお酒でも酔えばハッピーになれるけどさ、頭が重くなったり思考が鈍ったりするよね。でも医療用の麻薬や鎮静剤はまるで違うんだ、頭はスッキリしたまま、気分はお酒の何倍も高揚して爽快になれるんだよ。
 気分の良くなる度合いで言えば、麻薬はお酒なんて比べものにならないほどスゴいね。
 その事を、黒沢は身をもって体験している。
 そしてまた黒沢は「いじめを受けた過去があり、人付き合いが苦手で」、例の小国記者の言う「生きづらさ」もしっかり抱えている。
 でも黒沢は、その種の違法で危険な薬物に手を出した事は一度も無い。と言うか、「手を出してみよう」と思った事すら無いね。
 何故ならそれは「違法だし、身を滅ぼす元だ」とわかっているから。
 黒沢は一時の快感と引き替えに、自らを廃人にする違法なドラッグに手を出すほどバカじゃない。ただそれだけの事だよ。
 だからハッキリ断言するが、薬物の依存者はただ意志と頭の弱いダメ人間に過ぎない

 小国記者は、例の危険ドラッグについてのコラムをこうまとめた。

 生きづらさを抱え、ドラッグに頼り、しかしそこから抜け出そうとしている彼らを、どうか「廃人」と切り捨てないでほしい。彼らの回復を、その家族の闘いを支えよう、という社会でありたい。

 小国記者には申し訳ないが、いろいろな生きづらさを抱え、しかしドラッグにも何にも頼らず生きてきている黒沢としては、ただ「甘えてんじゃねーよ」としか言えない
 薬物依存者とその家族に多大な“理解”を寄せる小国記者は、心優しくて同情心に溢れる、本当に良い人なのだと思う。
 だが漫画家の新井理恵さんの言う「世の中の汚れた部分を見て育ちながら結果的に良い人になった」黒沢としては、小国記者の思考に「生理的に虫が好かない」ものを感じるのだ。

 薬物がどんなに恐ろしいものかは、報道などで誰もがよく知っている筈ではないか。にもかかわらず薬物に手を出し、挙げ句の果てに事故や事件を起こして何の罪もない人の命を奪う愚か者など、とっとと死んでくれた方が世の為だと思う。
 それが言い過ぎだとしても、そうした社会や他人に害をなす危険のある薬物依存者は、少なくとも閉鎖病棟なり刑務所なりで、薬物と完全に縁が切れるまで厳重に隔離しておくべきだと黒沢は考える。

 薬物依存者が起こす酷い事故や事件が度々報道されているにもかかわらず、その被害に遭った何の罪もない市民より、薬物依存者の方に同情を寄せる小国記者の思考が、黒沢にはどうにも理解できない。
 黒沢なら薬物依存者の苦しみや人権より、一般市民の命と安全の方が大切思うが。
 薬物依存者自身が心の中ではどれだけ苦しんでいたとしても、そんなものは“自業自得”と黒沢は考える。

 脱法ドラッグは危険ドラッグでなく“廃人ドラッグ”で構わないし、薬物依存者は「意志の弱いダメ人間」と切り捨てて構わない。そう思う黒沢は、やはり心の冷たい人間なのだろうか。

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自国の負の歴史は「自虐史観」と切り捨て、目をそむける愚かな日本人

 10月15日の、毎日新聞の論説副委員長中村秀明氏のコラム『水説』に、ドイツと我が国の戦争責任に対する姿勢の違いを考えさせられる、大変興味深い出来事が書かれていた。
 そのコラムを要約すると、こうである。

 今月の9日に、中村氏は『シャトーブリアンからの手紙』という映画の試写を見た。そのタイトルのイメージと違い、ロマンス溢れるお洒落なフランス映画などではなく、ドイツ軍によるフランス人の虐殺の史実を描いた戦争映画である。
 フランスで1人のドイツ軍将校が暗殺された報復に、ヒトラーは150人のフランス人、それも事件に無関係でまるで罪のない者たちを殺すよう命じ、現地のドイツ軍はその命令を実行した。
 映画のタイトルは、その犠牲者達が家族に残した手紙からつけられたものだ。
 しかし映画は過度に感情に走らず、あえて事実のみを描いて行く。殺す側のドイツ軍とその協力者のフランス人たちも憎むべき悪人ではなく、ごく普通の人間として描かれている。
 また殺される側も悲劇のヒーローとして描かれてはおらず、神格化もされていない。
 そのようにあえてストーリーの抑揚を押し殺したような展開にすることで、「凡人や善人が淡々と非道な行いに走るのが戦争なのだ」ということを、作品はより強く語りかける。
 そしてラストまでこの作品を見た観客は、この事件の目撃者になったような気になる。

 実はこの『シャトーブリアンからの手紙』という作品は、『ブリキの太鼓』で知られるドイツ人のフォルカー・シューレンドルフ監督によって作られたそうだ。
 そして2012年の2月に、この映画がベルリン映画祭で上映された時、映画が終わるとドイツの観衆はみな立ち上がり、拍手を送り続けたという。

 過去にドイツが犯した残虐行為を、ドイツ人の監督が映画に描き、そしてその作品に観衆のドイツ人たちが拍手を送る。
 これがドイツの、自国が犯した戦争責任に対する姿勢だ。

 この映画について中村氏は言う、「過去から目をそらさず、脚色もしない。耳をすまし目を見開き、事実にきちんと向き合う。その姿勢が最後まで貫かれている」と。

 では、我が祖国日本の、自国が犯した戦争責任に対する姿勢はどうであろうか。
 この『シャトーブリアンからの手紙』のような、中国で日本軍が中国人を虐殺する映画を、もし日本人の監督が制作したとして。そして日本で公開する事になったらどうなるか、黒沢には手に取るように予想できる。
 その作品は“右”の勢力から「自虐史観のデッチ上げだ!」と叩かれ、監督は「売国奴で日本を貶める“媚中”の非国民!」と罵られ、映画館には上映中止を強要する右翼の街宣車とデモが押し掛けるに違いない

過去から目をそらし、美しい歴史に脚色する。批判には耳を塞ぎ事実から目を閉ざすどころか“日本を貶める亡国発言”と逆ギレし、自国に不都合な史実は決して認めない。それを“愛国”と呼ぶ姿勢が貫こうという勢力が、安倍政権下で力を増している
 残念ながら、これが『美しい国』をスローガンにする安倍晋三が支配する、我が祖国の現実である。
 自国の美しい良い所しか認めず、負の部分も直視する者は「自虐史観の非国民め!」と罵る。こんな国民性だから、軍国主義者を自称する安倍晋三を、五割を越える国民が今もなお支持し続けているのだ
 過去の負の歴史を直視したくないこの日本国民には、先の大戦を反省する日本の姿勢を変えたい歴史修正主義者の首相は“ふさわしいリーダー”なのかも知れない

 自国の暗部から目をそらさず事実通りに描いた映画が、ドイツではきちんと評価される。
 しかし近年の日本でウケる戦争映画と言えば、日本軍や特攻を美化して英雄的に描いた感傷的なものばかりで、百田尚樹氏の作品は大人気だ。
 過去の自国に負の歴史に対する姿勢が、ドイツと日本ではなぜここまで真逆なのか。
 自国の負の歴史を直視できず、あえてそれに触れる者がいると「日本を貶める自虐史観の非国民!」と罵る我が日本人の国民性が、黒沢は情けなくてならない

 過去の負の歴史から目をそらさず、脚色もせず、耳をすまし目を見開き、事実にきちんと向き合う姿勢を最後まで貫く。ドイツ人に出来ているその事が、我が日本人にも出来るようになるのは、いったいいつの事だろうか
 と言うより、そんな日は我が国には永遠に来ないのではないか。
 安倍晋三と多くの歴史修正主義者の閣僚たちの言動を身るにつけ、そう思わざるを得なくなってしまう黒沢だ。

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秋の夕空

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 ある秋の日の夕空です。夕食の食材を買いに行く途中で撮りました。

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田舎の秋空

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 稲刈りの真っ最中の、日本のどこにでもありそうな田舎の秋の光景です。

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足を大きく広げて座る癖のある男性に警告!

 電車やバスに乗れば、不快なことはいろいろある。うるさいお喋りにイヤホンから漏れる音、気付いてないのかわざとなのかバッグや肘などで押してくる者に、騒ぐ子供と叱らない親。
 それらは一緒に乗り合わせたくない厭なものの定番だが、黒沢がずっと気になって仕方がないのが「股をガバッと開いて座る男」である。

 俗に「狸の玉袋は八畳敷き」とも言うが。
 そんなに御自分のモノが大きいワケでもあるまいに、座席につくなりガバリと大きく足を広げて座る男が少なからず居る
 大袈裟ではなく、彼らは本当にほぼ直角に股を開いて座るのだ。混んだ電車であろうと病院の待合室であろうとお構いなしに、膝頭や足先を隣の人に押しつけて、己の足を思い切り広げてどっかりと座る。
 そのような男に隣に来られた時には、本当に不愉快で堪らない。こちらは両膝を痛いほど合わせて縮こまり、ずっと耐えるしかないからだ。

 マナーや常識を人並みにわきまえ、他人への配慮が些かでもできる者は、座る時には足を揃えてきちんと座る
 だがこの種の「股をガバリと開け、足を大きく広げて座る男」は、芸能人や有名人の中にも少なからず存在するのが現実だ。テレビのトーク番組などでも、その種の者は幾らでも見かける。
 そして黒沢はその「足を直角に広げて座る男性タレント」をテレビで見かけると、いくら感じ良さげに微笑みトークも巧みでも、「実は無神経で尊大な男なのだろう」と判断している。

 その種の「股をガバリ開けて座る男」に、黒沢はぜひ尋ねてみたい。
貴方の“モノ”は、そんなに大きいの?
「股関節に異常があるとかで、足をきちんと揃えて座れないわけ?」
「隣の席の人に足を押し付け窮屈にさせて、申し訳ないとか感じないの?」

 結局その種の座り方をする人は、本性が尊大で無神経で無遠慮なのだと黒沢は考えている。
 だって普通の神経の持ち主なら、自分の椅子の幅よりも足を開いたら「隣の人に迷惑をかけて申し訳ない」って思う筈だもの。
 しかし彼らは隣に座る人の足を膝や足先でグイと押してでも、己の足を当然の権利のように開くのだ。これを「面の皮が厚くて不作法」と言わずして、何と言おう。

 この種の「股を直角に近く、ガバリと広げて平然と座る男」を見ると、黒沢などはついこう思ってしまうよ。
あの足の真ん中の“モノ”に蹴りを入れてやったら、さぞ気分が良いだろうな」ってね。
『蹴りたい背中』は綿矢りさの小説であるが、「蹴りたいチンコ」というのは、黒沢の偽らざる本音である。

 だから足を大きく広げて座る習慣のある貴方は、よく気をつけた方が身の為だよ。貴方の両側の人間は、貴方のその無遠慮で不作法な足にひどく苛つかされている筈だから。
 その広げた股の真ん中の大切なモノを、いつか貴方にブチ切れた誰かに思い切り踏んづけられるかも知れない。混み合った電車や病院などの待合室などで座る時には、その事をよく覚悟しておいてね。
 股をガバリと開けて座るのは、貴方にとっては何気ない“いつもの事”かも知れない。けどそれで席の範囲を大きく越えた貴方の足を押しつけられ、窮屈な思いを強いられて、「コイツのタマを蹴り潰してやりたい!」と思うほど苛ついている人間は、本当に間違いなく居るんだよ。

 マナーとか常識とか言う前に、男のシンボルは何しろ“急所”だからね。
 その大事な急所を、人前で的のように大きく曝していたら駄目だってば。
 足はやはりきちんと閉じて、急所は大事にガードしておかなければ、ね?

蹴りたい背中 (河出文庫)蹴りたい背中 (河出文庫)
(2007/04/05)
綿矢 りさ

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