空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

棄権、絶対ダメ!

 この年末の忙しい時期になって、多くの人は予想もしていなかったであろう衆議院の総選挙が行われることになった。

 驚き、そして困惑しているのはおそらく黒沢だけではあるまい。
 まず、この時期に衆議院を解散する意味も理由もわからない
 そしてまた、貴重な一票を投ずべき党も候補者も見つからない

 衆議院の議席では圧倒的多数を誇る自民党だが、政党支持率で言えば三割強と、過半数を大幅に下回っている
 安倍首相と自民党は、選挙結果による議席数をもとに「民意を得ている」と胸を張るが、実のところを言えば「安倍自民党を不支持の人が過半数以上」なのだ。三百に近い今の自民党の議席数は、小選挙区制というマジックの結果に過ぎない
 もし選挙が得票率に応じて議席を配分する比例代表制のみで行われたなら、自民党の議席は間違いなく過半数を遙かに下回るものとなり、政権の保持すら難しかっただろう。

 有権者で最も多いのは自民党ではなく、実は「支持政党なし」の無党派層なのである。
 国民の多くが無党派層になってしまう理由は、黒沢にもよくわかる。何しろかく言う黒沢自身が現時点では「支持政党なし」だからだ。

 はっきり言うが、黒沢の政治思想は保守だ。サヨクやリベラル派の人々の言う現実を無視した綺麗事は反吐が出るほど嫌いで、国防は重要だし、日本社会の良き伝統も守るべきだと思っている。
 だから20世紀の間は、黒沢は一貫して自民党を支持してきた
 しかし21世紀に入り小泉政権になり、一部の強者だけを富ませて弱者を容赦なく切り捨てる、いわゆる新自由主義に大きく舵を切って以来、黒沢は自民党に票を入れたことは一度もない。
 小泉純一郎は首相だった頃に「自民党をブッ壊す!」と大見得を切ったが、小泉純一郎が自民党を大きく変質させてしまって以来、黒沢は自民党を見限ったと言っても良い。

 小泉元首相や安倍現首相が強力に押し進める新自由主義的な政策には、黒沢は絶対に反対である。
 さりとて石原慎太郎や橋下徹が主張するような、過激な極右思想にもただ嫌悪しか感じない。
 かと言ってサヨクに転向したわけでもなく、黒沢の思想は相変わらず保守のままである。
 そしてまた黒沢は大の宗教ギライで徹底した無神論者だから、宗教政党に票を入れるくらいなら「死んだ方がマシ」と本気で思っている。
 ゆえに本当に票を投ずべき党と候補者が全く見当たらず、選挙の度に本当に困っている。

 黒沢と同様に「票を入れたい党も候補者も見つからずに困っている人」は、自民党を含めたどの政党の支持者より多いのではないだろうか。
 今の政権もウンザリだが、サヨクでも某新興宗教の信者でもなく、民主党があてにならないこともよーくわかっている。維新の会(維新の党)やみんなの党や石原サンの党も最近ではメッキが剥がれて来ていて、口先と勢いだけの見かけ倒しの集団であることが明らかになってきた。そう感じて政治と政治家の現状に絶望すら感じている人達も少なくないのではないだろうか。
 ね? 今の安倍自民党の強者優先の新自由主義的政策に反対でも、「サヨクでも極右でも、あの宗教の信者でもない人」にとっては、票を入れるべき党と候補者が本当に見つからないんだよ。
 だから選挙が盛り上がらず、「投票に行くのも馬鹿馬鹿しいし、面倒くせえ」という話になって、結局棄権してしまったりするんだよね。

 でもいくら入れるべき党や候補者が見つからなくても、黒沢は「棄権だけはいけない!」と声を大にして言いたい。
 何故なら無党派層で「支持する政党も票を入れたい候補者もナシ」の貴方が棄権して投票率が下がれば、組織票を持つ党と候補者が楽に大量に当選し、そして彼らが「我らは国民に信任された!」と胸を張ることになるからだ。で、その後の国政も、すべて彼らの思うままに動かされてしまう。
 そして国の政治が妙な方に動かされてしまったとしても、国民の権利である投票権を自ら捨て棄権した者には、不平や不満を言う権利は何もないのだ
 だからこそ有権者の義務として、棄権だけは絶対にしてはならない
 投票せぬ者、政治に一切の不平を言うべからず
 これは、民主政治の鉄則だと黒沢は信ずる。

 黒沢はサヨク嫌いの保守だが、小泉純一郎や安倍晋三の率いる21世紀の自民党も大嫌いだ。そして橋下徹や石原慎太郎らはもっと嫌いだ。さらに宗教政党も大嫌いで、民主党にも失望している。
 だから本当に、票を入れるべき政党も候補者も見つからずに、選挙の度に困惑している。
 しかし黒沢は、棄権だけは決してしていない。毎回必ず投票に行き、支持できる党も候補者も見つからなくても、消去法でどうにか選んだ党と候補者に一票を入れている
 小泉純一郎や安倍晋三の押し進める、「この国を派遣さんだらけの格差社会にし、一握りの強者をより富ませる為の自民党政治」に歯止めをかける為の批判票を、いろいろよく考え抜いて入れ続けている。「野党でもただアジって人心を煽るだけの極右政党でなく、今より少しでもマシな政治をしてくれそうな党と候補者はどこだろうか?」とね。

 少なくとも黒沢は選挙には必ず行き、どこかの党と誰かの候補者の名前を書いて票を投じている。
 だが「棄権したくはないが、投票したい党も候補者も本当に見つからないんだ」という人も、現実に少なからずいると思う。
 しかしそれでも、棄権だけは絶対に止めてもらいたい。
 何故ならば貴方の棄権は組織票をより強くし、そしてその選挙結果を貴方自身も是認したことになるからだ。
 棄権の影響は、ただ貴方の一票が減っただけではとどまらない。世の中には縁故や上司や神様wwwなどの意志に動かされて、雨が降ろうが嵐が来ようが特定の政党と候補者に必ず投票する人達が少なからずいて、棄権する人が増えれば増えるほど、その人達が推す党と候補者たちが当選圏内に近づく結果になるのだ。
 だから自民党のある元総理は、「無党派層は寝ていてくれた方が良い」とまで言った

 それは単なる暴言ではなく、本当に選挙の真理なのだ。投票率が下がり、棄権する無党派層の有権者が増えれば増えるほど、組織票のある政党と候補者がより有利になって行く
「票を入れたい党も候補者も無いから」と棄権してきた無党派層の者たちに聞きたい。
 それで良いのか、本当に?
 我が国の選挙が組織票によって決まり、その圧力団体によって日本の政治が動かされるままで、貴方は本当に良いと思うのか?

 そうそう、組織票や圧力団体と言えば、ヘイトスピーチで知られるあの在特会は、安倍首相の支援団体であり、安倍氏が自民党の総裁選に出馬した時も在特会のメンバーが応援に駆けつけていたことも記憶にとどめておきたい。

 棄権する人は、大まかに言って二通りに分けられる。
 これまで繰り返し述べてきたような、「いろいろ考えたのだけれど、入れたい党や候補者がどうにも見つからなくて」という人達と。そしてそもそも政治や社会に元から関心が無く、「選挙なんかオレに関係ないし、どーでもイイよ」と思っている人達と。
 現実に本当にいるんだよね、政治や選挙に本当に無知無関心で、「興味ないし、メンドクセぇ」と、折角の休日に選挙に行く僅かな手間と時間さえ惜しがるバカたちが

 あ、「忙しくて選挙に行く暇も無い人だっている」と言われるかも知れないけれど。
 でも不在者投票だって出来るのだし、「ぜひ選挙権を行使したい!」って気持ちさえあれば、その時間すら作れないことはまず無いと思うけど?
 もし「投票したいけど、本当にその時間も取れないんだ」という職場があるとすれば、間違いなく労働基準法違反のブラック企業だから、労働基準監督署に通報してやれば良いだけのこと。

 で、いろいろ考えたものの票を投ずべき党と候補者がどうにも見つからなくて棄権しようが、バカで何も考えないで投票に行く時間もただ遊んで過ごそうが、“棄権”という結果では同じになっちゃうんだよ。
 はっきり言って“棄権”は、考えて悩んだ結果の棄権と、何も考えずにただ遊んで過ごして棄権する低脳と、結果の上でまるで区別シマセン
 いつも迷った挙げ句に棄権している貴方、それで本当に良いのかな? 意識も知識も低く何も考えずに棄権しているバカ達と一緒で。

 もし「自分が棄権してきたのは、票を入れるべき党も候補者もまるで見つからない今の政治と政治家に失望しているからで、何も考えずに遊んでその日を過ごして棄権している意識の低いバカ達とは違う」と言うのであれば。
 票を入れたい党や候補者がどうにも見つからないとしても、有権者の義務と責任として、とにかく投票所にだけは足を運んでもらいたい
 そしてどの党の名もどの候補者の名前も書かずに、そのまま白票を投じて貰いたい
 白票こそが、「票を入れたい党も候補者もナシ」という貴方の意志を示す唯一の道だからだ。
 各政党や各候補者の得票数だけでなく、白票の数も選挙結果にしっかりカウントされる。だからもし「白票が最も多く、当選した議員の得票数を越えた」というような事態になれば、「有権者は、今の政党も政治家もまるで信任していない」という事実を数字で明確に突きつけることになるではないか。

 ちょっと想像してみてほしい。もしある選挙区で白票が、他の候補者達の得票数を超えたとしたら。

 山田太郎(自民・前) 152,000票
 海野弘志(民主・元) 115,000票
 川上竹男(共産・新)   33,000票
 白票            201,000票

 こうした場合でも選挙そのものは無効にはならず、山田氏が当選となるのだが。
 しかしそれでも「自分の得票数より白票の方が多かった」となれば、その候補者は胸を張って「選挙民に信任された議員です」とは言えなくなるだろう。
 もしこんな事が本当に起きたら面白いと思うが、どうだろうか。
 比例区で、白票が既存の政党の得票数を越えるような事があってもまた面白いと黒沢は思う。

 もし貴方が「いろいろ考えたけれど、票を入れたい党も候補者も無いから棄権するのだ」と言うのであれば。ただ無知で無関心な人たちのように投票に行かずに寝て過ごすのではなく、とにかく投票所に足を運んでほしい
 投票用紙には何も書く必要はない、そのまま白票を投じてくるだけで良いのだ。それで貴方のすべての政党と候補者に対する不信任の意志を、白票という数ではっきり示すことになる。
 白票と棄権は似ているようでも意味はまるで違うことを、棄権を考えている人達には是非理解して、思い直して戴きたいと切に願う。
 例の自民党の元総理が「無党派層には寝ていてもらいたい」と漏らしたように、棄権は強い組織力を持つ政府与党の思うつぼなのだ。

 黒沢自身も、票を入れたい党も候補者も見当たらなくて困っている一人だが。しかし今度の総選挙では白票ではなく、とにかく安倍自民党の暴走に歯止めをかけるべく、反安倍の方向で何とか党と候補者を選んで票を投ずるつもりだ。

 何しろ安倍首相自ら、「今度の選挙の争点はアベノミクスだ」と言っているし。
 それにまた、今度の選挙については「安倍政治の中間選挙だ」という声もある。
 一部の富裕層だけをより富ませ、庶民には物価高だけを押しつけているアベノミクス
 内閣による集団的自衛権の憲法解釈の変更や、特定秘密保護法の制定
 こういう安倍政治を是とする方は、遠慮なく与党に票を投じれば良いし。
 そしてそれら安倍的な政治すべてに否定的な黒沢は、安倍政治に最も強力に反対してくれそうな政党と候補者に票を投じるつもりだ。

 が、そのどちらの道も選べずに、「票を入れたい党も候補者もない」とお嘆きの方たちは。
 お願いだから棄権だけはせず、少なくとも投票所に足だけは運んで、そして白票を投じて今の政治家達すべてに対する不信任の意志を示してもらいたい
「無党派層には寝ていてくれた方が良い」
 元総理ともあろう人にそこまで言われても、腹も立てずに素直に「寝ていて」棄権できる人がいるとしたら、その人は「人間の資格のないバカだ」と黒沢は断言する

 さあ、来月の総選挙には、皆で投票に行こう!

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言葉より、態度や雰囲気で察そう

 はっきり言って、黒沢は結婚願望が少ない。
 結婚したくないわけではない、けれど「変な相手と間違って結婚してしまうくらいなら、一生独身でいた方がマシ」と本気で思っている。
 さらに世間体も殆ど気にせず、他人にどう思われようが構わないというタイプだから、周囲の同世代の皆が結婚していても、「自分も早く家庭を持って落ち着かなきゃ!」とか思って焦ったりもしないし。

 まっ、要するに「生まれついてのKY」ってことなのだろうね。世間の“普通”と自分が違っていても、本当に全然気にしまセン。
 自分の進む道は自分で決めるし、世間や周りに合わせて生きる必要性とか、一ミリも感じてないんだよね。自分の選んだ道が世間の常識から外れ、周囲の皆と違っていようとも、自分さえ納得しているらそれでOKと思ってる。

 うーん、ここまで来るとただのKYと言うより、既にアスペルガー障害の域かも。
 ハイ、だから集団行動とかチームプレイとか、大の苦手デス。

 ゆえに恋人が出来ても、相手の心の中にはあまり踏み込まないね。同時に、相手にプライベートな領域にズカズカ踏み込んで来られるのも、実は苦手だったりしマス。
 いくら恋人でも「相手は別人格」と思っているし、恋人同士だからといって一心同体のようには、どうにも思えないんだ。

 ……と、このような前置きをダラダラと書き連ねたのは、また例の毎日新聞連載の亀山早苗氏のコラム、『現代恋愛模様』を読んでしまったからだ。
 11月22日付けの同欄で、亀山氏は「一年付き合っている彼が、私をどう思っているのかわからなくていつも不安」という、アラサー女性のアキヨさんについて書いていた。

 そのアキヨさんは問題の彼氏と、合コンで知り合って付き合うようになった。そしてデートもしているのだが、付き合うようになってから彼氏は、愛情表現の言葉を殆ど口にしない。
 だからアキヨさんは彼が本当に自分を愛しているのか、必要としているのか実感が持てずにいるのだという。

 そのアキヨさんに、亀山氏はこう言った。
「わからなければ聞いてみればいい」
 するとアキヨさんは、激しく首を振ってこう言った。
「そんなのKYですよ。彼がどんな反応をするかわからない。もし、『え?』と聞き返されたら、ショックでどうしたらいいかわからなくなります」
 アキヨさんは、続けてさらに言う。
「実は相手にどこまで踏み込んだらいいのかわからないんです。私たち世代ってみんなそうじゃないかな。踏み込んだら嫌われるかもしれない、傷つきたくないからなんとなく相手に合わせる。それが普通なんです」
 で、亀山氏は唸ってしまうわけだ。それでいいのか、それで満足感があるのかと言いたいが、それこそKYと言われそうだ……と。

 黒沢に、男の立場から言わせてもらえば。
 うん、もしアキヨさんが思っていること(尋ねたいこと)をそのまま彼氏にぶつけたら、確かにKYになってしまうだろうね。
 だってさー、アキヨさんが彼氏に尋ねたいことって、どれも重たいんだもの。
「この先、彼がどうしたいのか、結婚はあるのか、彼の家族観とか人生観、男女観は。いろいろ知りたいけど、聞いていいかどうかわからなくて」
 ……これってさ、男からしたら結婚を迫られているようなものだよ。と言うか、「私と結婚する気はあるの!?」と詰め寄られた上に、「で、親との同居はあるの? 子供は何人? 人生設計は? 家事の分担はどうする?」と、いろいろ問いつめられているようにさえ感じてしまう。

 ま、女としては結婚だけでなく結婚後の生活も重大事だから、いろいろ聞きたくなって当然なんだろうけど。
 でも男としてみれば、結婚を考えているかどうかを聞かれるだけでも重大な決断を迫られるのに、結婚相手として値踏みするように家族観から男女観までいろいろ尋ねられたら、本当に重たく感じてしまう。

 それにさー、アキヨさんは「付き合うようになってから、彼が愛情表現の言葉を殆ど口にしないから、彼が自分を本当に愛しているの実感が持てずに不安」って言うけれど、男からすれば「そんなの、言葉でなく態度でわかれよ」って言いたいよ。
 なら欧米の映画でよく見るカップルのように「愛してるよ」って度々言いさえすれば、本当に愛情があるのか……って?
 バッカじゃねーの、人間なんていくらでも嘘をつけるんだから、「愛してる」と言ったからって本当にそうだとは限らないって。
 と言うより昔風の日本男児wwwの感覚から言えば、軽々しく「愛してる」と繰り返し口にできるような男は、ホストや札付きの女たらしのような類の悪いヤツに決まっているんだよ。

「付き合うようになってから、彼は愛情表現の言葉を殆ど口にしない」ということは、裏を返せば「付き合おう」という話になった時には、彼氏はちゃんと「好きだ、愛してる」と言ったということだろう。
 それで充分ではないかと、日本の男である黒沢としては思ってしまう。
 最近何だか態度が変わったとか、他の女の影がチラついているならともかく。付き合い始めてから一年間、ちゃんと交際を続けているのだから、彼氏はアキヨさんを愛しているに決まっているだろうよ。
 それくらいわかれよ、と黒沢は言いたい。

 欧米の場合は、多民族国家だからね。人種も宗教も言語も違う人たちが集まって暮らしているわけだから、互いの考えていることは、ちゃんと言葉にしなければ理解し合えない。
 だから欧米の人たちは、強く自己主張するわけだ。そして愛情も、くどいほど繰り返し告げ合う。
 しかし単一民族に近い日本では違う。我が国では気持ちは強く主張するより、態度や雰囲気で察するものなのだ。

 はっきり言うが、アラサーになっても愛情を態度から察してくれず、付き合った後も愛情表現を言葉で欲しがるアキヨさんは、日本の男性にとっては「重くて面倒くさい女」だ。
 さらに「結婚は考えてくれているの? それと家族観や人生観、男女観は?」とかいろいろ聞かれたら、重たすぎて彼氏は本当に逃げ出してしまいたくなるかも知れない。

 付き合って一年で、アキヨさんはもう結婚も視野に入れているわけデスか。
 まあ、アキヨさんはアラサーだからね。そういう事も視野に入れた上での交際でなければ、そろそろマズいお年頃かとも思う。
 ただ男の場合、結婚と年齢の問題は女性ほど切実ではないし、「男の精神年齢は、実年齢から十歳くらい引いて考えろ」とも言うよ。
 だからアキヨさんの彼氏も、結婚するよりまだ自由に遊んでいたい可能性も充分あるだろうね。

 それでも男だって三十代も半ばになれば、結婚について焦りも出てくるし、真剣に考えるようになる。
 で、アキヨさんの彼氏は、アキヨさんより二つ年上ということで。
 32歳と言うと、結婚についての意識は微妙、と言ったところだろうね。「まあ、そろそろ」とは思っているけれど、まだ切実に「しなければ!」と焦っているわけでもない……といった感じかな。
 だから30歳のアキヨさんが二つ上の彼氏に、結婚について聞いてみるのは、本当に“微妙”だと思う。

 この二人の関係を、亀山氏は「一年付き合ってもいても、まだ距離を詰められない恋人たち。一緒にいられればそれだけでいい、という熱さも感じとれない」と言う。
 そしてさらに「少しずつ彼の本音を探れるような会話をしていったほうがいいかもよ、と私はやたら遠回しに言うしかなかった」と、この件についてのコラムを結んでいた。

 うーん、「やたら遠回し」って、「少しずつ彼の本音を探れるような会話」をするのは、この件に関しては別に少しも遠回しではないと思うよ。
 だってさ、もし30歳になった女性にストレートに「結婚は考えてくれているの?」聞かれて、つい頷いてしまったら、後はすぐ「婚約→親族同士の顔合わせ→結婚」って一本道を突っ走ることになっちゃうじゃん。

 相手が若い女の子なら、「うん、考えてはいるよ。でもまだ仕事もいろいろ覚えなきゃならなくて余裕もないし、給料ももう少し上がってからでないと生活して行くのも大変だから、しばらく待って」とか言えるけれど、もう30歳になった女の人の結婚話に「待ってほしい」とは言えないからねえ……。
 だからもし30歳になった女性に結婚話を切り出されたら、すぐ覚悟を決めて婚約→結婚と話を進めるか、それが出来なければ「ゴメン。今はまだ無理だから、他のもっと良い人を捜して」とキレイサッパリお別れするしかないよ。

「彼が私をどう思っているのか不安、でも相手にどこまで踏み込んだらいいかわからない」と言うこのアキヨさん(30歳)は、本当は結婚は考えているのかとか、家族観とか人生観とか男女観とかいろいろ聞いてみたいそうだけれど。
 このアキヨさんは、どう見ても結婚願望がたっぷりありマスよね?

 このアキヨさん(30歳)に、期間未定で「しばらく待って」とは、とても言えないでしょ。だって30代の女性をそういう宙ぶらりんの状態で放置しておくのって、生殺しに近いくらい残酷なことじゃん。
 そして「結婚する気はある、でもいつするとは言えない」という状態のまま付き合いを続けて、アキヨさんがもっと年を取った後で喧嘩別れすることにでもなったら、それこそ取り返しのつかない人生の悔いになっちゃうよね。

 かと言って、その場の雰囲気で深く考えずにうっかり「そのつもりでいるよ」と答えでもしたら、すぐに「婚約! 結婚!」と話を進められ、さらに「式はどうする? 子供はいつ頃、何人作る? 家事の分担は?」と、具体的な新生活のプランまでどんどん詰めて行かれそうな気がする。

 だからそれなりの年齢になった女性に切り出される結婚の話は、男にとっては本当に重いんだよ。
 ゆえに彼氏に結婚するつもりがあるかだけでなく、彼氏の家族観や人生観や男女観も知りたいアキヨさんは、ストレートにその問いをぶつけるのではなく、本当に慎重に、遠回しにそれとなく探るしかないと思う。
「この先、私とどうしたいの? 結婚する気はあるの?」
 ズバリそう聞いても良いのは、自分の年齢にリミットを感じて、彼氏にその気が無いならもう別れて他の人を捜す覚悟を決めた時
だよ。

 でも彼が自分を愛しているのか、言葉にして言われなければわからない、そして家族観や人生観や男女観なども、いちいち聞いてみなければわからない……って、このアキヨさんは30歳になるというのに随分と幼稚な人だと思う。
 愛情など、欧米人のようにいちいち口に出さなくとも、態度や雰囲気に滲み出てくるものでしょうが。それに家族観や人生観や男女観だって、日頃の雑談や何気ない態度などからも、充分に窺い知れるものではないか。

 例えば、デート中にどこかのお店に入る。その時、自分より下の立場にある店員さんにどんな振る舞いをするかでも、相手の人間性の一面がわかるし。
 仕事や趣味などの話をするだけでも、相手の知識や向上心などもわかる。
 そして特に相手が一人暮らしなら、相手の家に遊びに行くだけでも、相手の家事能力にそれなりの見当がつく。
 相手の金銭感覚だってデート中にも充分に察することができるし、「金払いの良い、いつも奢ってくれる気前の良い彼氏」は、結婚すれば「金遣いの荒い、無駄遣いの多いダンナ」になることに気付かない女性は愚かだ。

 それ以外にも、仕事をどれだけ大切にしているかとか。
 趣味にどれだけ金と時間をかけているかとか。
 仕事とプライベートの区別はキッチリしているタイプかとか。
 友達付き合いは、どの程度に大切にするタイプかとか。
 家族との仲は良いかとか。
 ブランド物を欲しがるタイプかとか。
 時間や約束はちゃんと守るタイプかとか。
 先のことをよく考えてから動くタイプか、それともその時の感覚や感情で動くタイプかとか。
 いちいち聞いてみなくても、ただ見ているだけでわかる事はその他にもたくさんあるぞ。

 これは相手の女の子がお喋りだったのか、それとも黒沢が聞き上手だったのかはわからないけれど。
 黒沢は付き合ってた女の子の人間関係やら、学校や職場での状況やら、好きな事やら、性格や考え方やら、やりたい事やら、家事能力やら、大体把握していたよ。
 いや、別に黒沢があれこれ聞き出したわけじゃないんだ。「うんうん」と頷いたり、「へえ、それで?」と話の先を促したりしてただ聞いているだけで、女の子は自身のことを本当によく喋ってくれるから。
 まっ、最後の家事能力については、話に聞くだけでなくお宅訪問もして、部屋の様子を見て御飯を作っていただけば自然と知れることだけれどね。

 もちろん彼女だって心の内まで全部喋っているわけではないし、「彼女の事なら何でも知っている」とは言わないよ。
 けどね。「いちいち尋ねてみなくても、相手の態度をよく見て、何気ない雑談にもよく耳を傾けているだけで、恋人のことはかなりわかる」というのも事実なんだ。
 だから黒沢は、彼氏のことについて「わからない、わからない」と連発する例のアキヨさんは、「30歳にもなるのに幼稚な人」だと言うわけデス。

 で、亀山氏はそのアキヨさんを例に挙げ、「今の若い恋人たちは、KYと言われるのを恐れて相手の心に踏み込まない」というようなコラムに仕立て上げていたけれど。
 違うって、ただそのアキヨさんって女性が30歳にしてはバカで、ちゃんと見ていればわかる事を態度や雰囲気から読めてないだけなんだってば。

 以前にもこのブログで触れたけれど、この亀山氏って、実に下らない一例からもっともらしい一文のコラムをひねり出すのがすごく巧いのには、本当に感心させられる。
 亀山氏は言葉の錬金術師だと、黒沢は心から思う。殆ど中身のないろくでもない事をネタに、現実を知らない人が読めば「へえ、今の恋人たちってそういうものなのか」と思ってしまうような、それらしいコラムを書いてしまえるのだからね。

 それにしても、元のコラムの亀山氏の文章は妙に平仮名が多くて、普段から文を読み慣れている黒沢にとっては、逆にそれが苦痛で仕方ないのだ。
 文章を読み慣れた者は、字を一字ずつでなく、文節ごとにまとめて読むものだ。しかし亀山氏の文章は句読点も少ない上に、平仮名をだらだらと長く続けて書いてあるので、文節の切れ目がわからず、本当に本当に読み辛い。
 ……でも、こんな文体でもプロのノンフィクション作家としてやって行けるのデスね。
 うーん、この事実にも改めて驚かされたよ。

 もしかしたら亀山氏は例の『現代恋愛模様』というコラムを、字を一字ずつ拾い読みしながら文を読むような人を対象に書いているのだろうか。
 うん、そう考えればコラムの内容の無さと中身の幼稚さも、充分に納得がゆく。

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コスモスと富士山

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 富士山を背景にしてボカしてしまって、富士山が好きな人には怒られてしまいそうですね。
 でも、富士山は割と見慣れている黒沢の心には、富士山よりコスモスの美しさの方がより印象的だったのです。

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富士山とお花畑

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 忍野村で撮りました。
 何やら小菊のようなお花畑が、富士山の前に広がっていました。

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名も知らぬ花たち

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 黒沢は本当に花の名を知らず、何の花なのか全くわからないまま、ただ「綺麗だなあ」という思いのままシャッターを押しました。

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河原のお花畑

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 山梨県に旅をした時に、釜無川の河原で見た花畑です。
 黒沢は花の名前にはまるで疎いのだけれど、とにかく色々な花が咲き乱れていました。

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家電化した、今のデジカメに欠けるモノ

 はっきり言って、黒沢は自分でも数を把握していないほど沢山のカメラと交換レンズを持っている。

 高校に入学した時、お祝いにオリンパスOM-2を買って貰ったのを皮切りに、後は自分でいろいろバイトして交換レンズやらスペア用のボディやらを買い込んで。
 そして大学生になってからはペンタックス系の一眼レフと交換レンズにも手を出し始めて。
 さらに社会人になると、物欲に歯止めがきかない状態でいろいろ買い漁って、気が付いたらキヤノンとニコンとミノルタとフジの一眼レフと交換レンズも揃えていたよ。

 で、国産のほぼすべてのメーカーのカメラのクセや写りの傾向を掴んでしまうと、今度は“クラシック・カメラ病”というタチの悪い病にかかってしまってさ。
 それで東京のクラシック・カメラ専門店から地元のハードオフのジャンク・コーナーまでさんざん巡り歩いて、財布のお金が尽きるまで買い漁ったよ。
 ……ハイ、旧式のバルナック型だけれどライカと交換レンズも揃えちゃいマシタ。それでもまだ飽き足らず、フォクトレンダーのビテッサビトーのシリーズも買い集めるわ、ツァイスの蛇腹式の中判カメラやローライ35も買うわ、オリンパスのPENシリーズにも手を出すわで、気が付いたら持っている交換レンズは百本に近いし、カメラの方は百台を軽く越えていると思う。

 いや、別に黒沢が金持ちなんじゃナイって。黒沢は服など「ユニクロで充分」と思っているし、車も中古のしかも軽自動車を何年も乗り続けているような人間だから。
 海外旅行にも行かないし、スキーやゴルフもしないし、パチンコも競馬もしないし、キレイなお姉さんのいる飲み屋にもフーゾクにも行かないしで、使えるお金の殆どを写真と書籍の購入につぎ込んできたんだよね。
 黒沢は金銭感覚が人と違うと言うか、そもそも「他人からどう見られるか?」という事が全然気にならない人間なのだ。流行とか全然関心ないし、周りの皆がやっているからって「自分もやらなきゃ、時代に取り残されちゃう!」とも全然思わないしね。
 で、ただ好きな事にだけ打ち込んでいるうちに、気が付いたら「カメラが防湿庫にギッシリ」ってコトになっていたワケ。

 でもね。
 ここ数年、「このカメラが欲しい! ぜひ買って自分のモノにしたい!!」という強い欲望が、めっきり湧いて来なくなってさ。
 いや、別に黒沢が年寄りになって枯れてきたからじゃナイって。「欲しい!」という突き動かすような衝動を感じさせるだけの魅力が、カメラ自体に無くなってるんだ。

 昔のカメラは、それこそ“一生モノ”だった。特に精密な歯車やカムやバネなどで作られた機械式のカメラは、キチンと整備さえすれば本当に一生使えるモノだった。
 事実、黒沢の持っているライカは1950年製で、持っているライカ用の交換レンズで最も古い物は1937年製のズマール5cmF2だけれど、今でもちゃんと作動するし、写真だってキチンと撮れるのだ。
 1937年と言えば、あのナチスの全盛期だよ? その時代に作られたモノが、今もなお使えるのだ

 だからそれだけに、カメラは昔はとても高価なものだった。
 今ではカメラ屋のジャンク・コーナーに数百円程度の捨て値で転がっているペンタックスSPですら、発売されていた1960年代(東京オリンピックの時代)には、一ヶ月の給料と同じくらいの値段だったのだ。
 それを知っている黒沢は、ジャンク・コーナーにペンタックスSPやそれ用の交換レンズがあると見捨てておけず、つい手に取ってレジに向かってしまう。

 そうして救出して家に持ち帰った、埃にまみれた上に手垢で黄色くなりかけたペンタックスSPだが。クリーナーや綿棒で清掃し、シリコンクロスで磨き上げると見違えるほど美しくなる。
 何しろ元は、給料一ヶ月分もするような高価なものだから。カメラのクロームメッキ等の仕上げもとても上質なんだよね。
 例えばカメラのメーカー名や機種名などは、今はコストの関係で印刷のシルクプリントが普通だけれど。でも昔のカメラは、安い普及品でも名前をちゃんと彫刻してペイントしてあるのだ。それだけでも、見た目の質感が全然違うよ。
 そして実際に手に取った時に伝わってくるズシリとした重みも、今のプラスチック製のカメラとは全然違うし。
 もちろん内部の歯車などの精度や仕上げも良いし、だからフィルムを巻き上げた時の操作感とか、シャッターを押した時の感触も素晴らしくて。

 もちろん今のデジカメの方が軽くて使いやすいし、機能も遙かに優れているのは事実だよ。
 ただ今のデジカメって、あくまでも写真を撮る為の実用品でしかないんだよね。
 それに比べて昔の金属製で機械式のカメラには、高い趣味性と言うか、モノとして人の心を引きつける何かがあった
 まず見た目が美しいし、手に取った時の質感やら操作感やら、単なるスペックでは測れない魅力があるんだよね。

 例えば、腕時計だけれど。
 今なら千円も出せば正確で充分に実用に耐えるクォーツの時計が買えるし、「スマホがあれば充分」と腕時計すら持たない人すら珍しくないよね。
 けどその一方で、何十万円もする上にメンテナンスにも手のかかる機械式の腕時計を愛用し、それを何本もコレクションする人すらいる。
 結局、機械式のクラシック・カメラもそれと同じなんだよね。不便で機能も劣る上に手もかかるのに、モノとしての魅力があって一部のファンの心をとらえて離さない。

 きっと黒沢も、カメラにスペックよりモノとしての魅力を求める種類の人間なんだろうと思う。
 昔はね、良いカメラや良いレンズを買う為にすごく頑張ったよ。オリンパスで言えばボディはOM-3やOM-4の両方を手に入れ、レンズも100mmF2や90mmF2マクロとか付けていて、メーカーの人にも「すごいですね、私でもこんなに持ってない」と言われたくらいだよ。
 さらにそれだけでなく、ニコンやらキヤノンやらミノルタやら、そして果てはライカまで買い漁って。
 ところがデジカメの時代になってから、カメラもレンズもホントに買う気になれなくなっちゃって。

 まず何しろ黒沢は、フィルム式のカメラを何十台と持っていたから。だから大切な写真はかなり長いことフィルム式の一眼レフで撮り続けていて、デジカメはサブとしてコンデジ(キヤノンのパワーショットA620)しか使ってなかった。
 で、バッグに入れて常に持ち歩く為に、パナソニックのルミックスFX30を中古で買って、ちょっと気合いを入れて撮る時の為にパワーショットS90を新品で買って、あと高倍率のカメラが欲しくなった時にフジのF300EXRを中古で買って……って感じかな。

 そうしてコンデジでいろいろ撮るうちに、「デジタルは便利だし、フィルム以上にキレイにも撮れるんだな」ってわかってきて、「自分もデジイチを買って、フィルムからデジタルに乗り換えなきゃ」と決意したのだけれど。
 で、一大決心して買ったデジイチは、ペンタックスのK-r(標準ズーム付きの新品で46800円也)デシタ。あと、アダプターで昔のレンズを付けて撮る為に、K-xのボディを中古で買ったくらいかな。

 ああ、忘れてた。コンデジでもう一台、ハイビジョンで動画が撮ってみたくて、リニアPCMでステレオ録音もできるパワーショットSX150ISの新品を、アマゾンで9980円の最安値で出ていた時に買ったよ。
 あとはカメラのキタムラやハードオフのジャンク・コーナーを漁っては、各メーカーの古いコンデジを数百円程度で買って、「ダメでもともと、写れば儲けモノ」という気持ちで遊んでマス。

 昔に比べて、「良いカメラやレンズを買おう!」って欲望がホント激減しちゃってさ。
 昔は「少しぐらい高くても、できるだけ良いモノを!」って思ったものだけれど、今は「必要なスペックさえ満たしていれば、安いモノでいいや」って感じでね。

 だって、カメラの機能の向上の速度が速すぎるんだもの。カタログや専門誌でスペックを見て「あっ、これ良いナ!」と思って無理して買っても、ホントに翌年にはもっと機能が良くなった新製品が出されてガッカリする羽目になるばかりで。
 デジイチだって“数年前の高級機”と“最新型のエントリー機”を比べたら、後者の安いエントリー機の方が便利で高スペックだったりしてね。
 なのにどうして、スペックや機能にそんなにこだわる必要があるの……って感じで。
 どうせ来年には、もっと性能の良い新型が出る。その事は、もう分かり切っていることだからね。

 デジカメって、みんな何年くらい使うのかなあ?
 昔は、一台のカメラを五年どころか十年以上だって普通に使ったものだった。
 けど今、十年以上前のデジカメを使い続けてる人なんて殆どいないよね。
 だって、一度手ブレ補正に慣れたら、手ブレ補正の無いカメラなんて使えなくなっちゃうし。そして手ブレ補正機能も年々進化して高性能になって行っているし。
 暗部補正だってキャッチ・フォーカスだって、慣れたらその機能が無いカメラなど不便で使う気になれなくなっちゃう。
 と言うワケで、今ではカメラなんて三~五年で買い換えているよね、大抵は。

 だから黒沢的に、「どうせ長く使えないんだから、買うなら安いので充分」って思ってしまうんだよ。「自分に必要なスペックさえ満たしていれば、エントリー機でもOK」と。
 だって最高スペックのカメラを無理して買っても、すぐにもっと良い新製品が出されるのは目に見えてるんだから。「最高のモノを持ってるんだ」って優越感に浸れるのはほんの短い間だけで、すぐにもっと安い機種に機能で追い越されて悔しい思いをするのは目に見えているんだよね。

 それを考えると、「金属製の昔のフィルム・カメラは本当にスゴい」って思う。
 だって半世紀も前の、東京オリンピックの年に作られたペンタックスSPだって、フィルムさえ入れれば今もちゃんとキレイな写真が撮れるのだから。
 黒沢の持っているライカのズマール5cmF2は1937年のあのナチスの時代のドイツで作られて、第二次世界大戦の戦火もくぐり抜け、そして今もちゃんと使えるんだよ。
 一方、今のデジカメが半世紀やそれ以上後にもまだ使われているところを、貴方は想像することが出来るだろうか

 今のデジカメに決定的に欠けているのは、ズバリそこなんだよね。
 機械式の古いフィルムのカメラには、熟練工により丁寧に作られたモノとしての魅力と、長い時代を乗り越えてきたロマンがある。
 けど今のデジカメはただの電化製品でしかなくて、そうしたマニアの心をくすぐる“趣味性”というやつが無い。


 昔のカメラは耐久消費財で、趣味の道具として大切にされ長年使われ続けてきた。しかしデジカメはそうではなく、数年で使い捨てられる電化製品だ。
 結局、今のデジカメは電気釜や掃除機やテレビなんかと同じなんだよね。「良いな」と思う機能があって、しかも値段も手頃なら買う。けれどモノとしての愛着が無いから、もっと高機能で安いものが出ればすぐ買い換えてしまう。

 昔はさ、良いカメラは宝物みたいな憧れのモノだったんだ。だからただ機能だけでなくフォルムや塗装などの仕上げや操作する感触にも惚れ込んで、本当に「一生モノ」として長く大切にしたんだ。
 昔の金属製のフィルム・カメラは、写真を趣味にする者にとっては文字通り“愛機”だったんだよね。
 でも今、自分のデジカメの仕上げや操作感に惚れ込んで、自分の“一生モノの愛機”として長く使い込む人など殆どいないでしょう?
 何しろ今のカメラは、電気釜や掃除機などと同じだから。使って「便利だなあ」とは思っても、モノ(機械)としての愛着など持たず、もっと良い新製品が出ればすぐに買い換えちゃう。

 って言うか、新製品の出るサイクルも早いし、数年前の高級品より新しい普及品の方が性能も良い上に値段も安いのもわかってるから、「安くてそこそこ性能の良いヤツを、適当に買い換えて行けばいいや」ってなっちゃう
 今のカメラの悪いところって、ズバリそこだと思う。スペックの良さと値段の安さだけで勝負している感じで、「長年大事に使って行きたい」って思わせるモノとしての魅力に欠けているんだよ

 昔はさ、カメラのコレクターって大勢いたんだ。
 実のところを言えば、カメラなんてメインのカメラに予備のボディ、それにいつも持ち歩く用のコンパクト・カメラの、せいぜい三台もあれば充分だ。
 けれど黒沢のように、使い切れる筈もない何十台ものカメラを一人で買い集めてしまうバカも少なからず居て、それがカメラ業界の売り上げの何割かは支えていたと思う。
 そういうマニアはそのカメラやレンズのスペック以上に、モノとしての美しさや質感や操作感などに心をひかれてしまうんだよね。それで魅入られたように、機材ならもう充分に持っているのにまた別のカメラやレンズを買ってしまう。
 でさ、新しいカメラやレンズを買う時に、決まってする言い訳があって。
カメラは一生モノだから
 機械式のカメラやレンズは、定期的にメンテナンスさえすれば、本当に一生使い続けられる。「だから買っても決して無駄じゃない」って、自分自身の物欲に言い訳できちゃうんだよね。

 でも、デジカメは違うから。
 ニコンやキヤノンのフラッグシップ機でも、「数年後には、完全に時代遅れのスペックになる」ってわかり切ってるから。
 だから理性が物欲にキチッとブレーキをかけてくれるわけデスよ、「どうせ数年しか使えない“家電製品”に、どうしてそんなに高いカネをかける必要がある?」って。
 そう、デジカメも今では電気炊飯器や掃除機と同じだから。いくら「高スペックだから」って電気炊飯器や掃除機を買い集めて愛でるコレクターなど殆どいないように、デジカメもマニアの心を引きつける魅力を失っているんだよね。

 見て下サイ。これが東京オリンピックの頃に作られた、ペンタックスSPデス。

ペンタックスSPFINEPIX F300EXR 492

 ペンタックスSPFINEPIX F300EXR 494
 
ペンタックスSP-DSCN3514 

ペンタックスSP黒 

 どれも黒沢がカメラ屋のジャンク・コーナーから救出してきたものだけれど、キチンと磨き上げればこの通り、元の美しい輝きを取り戻しマシタ。今のデジイチに、これだけ美しいフォルムと質感を持つものは無いように黒沢は思うよ。

ビトーB-DSCN3520 

 これは1950年代半ばの、フォクトレンダービトーBデス。一応ドイツ製の舶来モノで、東京のクラシック・カメラ専門店で買いマシタ。
 とは言うものの決して高級品ではなく、扱いとしては普及品のコンパクト・カメラでありマス。だから掌に乗るほど小さくて、コロッとした形でとても可愛いデス。
 けどレンズはものすごくシャープで、ボディのメッキは驚くほど上質で、メカニズム的にも非常に凝っていて「わかる人にはわかる」、マニア好みのカメラなのだ。

ペンEE2-DSCN3517

 最後に紹介するのは、四十数年以上も前のオリンパスPEN-EE2デス。
「シャッターを押すだけで誰でも撮れる」のがウリの、当時のオリンパスで一番安いカメラで、スペックも今の目から見れば驚くほど低いデス。けど機械として仕上げは良いし、メッキもとても上質で、いつまでも手元に置いておきたくなる愛らしさがあるんだよね。

 今のデジカメに欠けているのは、こうした「モノとして愛着を感じさせる部分」だと思う。
 もう時代遅れのスペックになってしまったとわかっても、フォルムの美しさや仕上げの良さに惚れて、いつまでも使い続けたくなってしまう。そんな愛着を持てるカメラが、今のデジカメにどれだけあるだろうか
 デジカメにはそれが無いから、ちょっと古くなれば使えない家電製品として捨てるしかない。
 だから古い機械式のカメラのコレクターはいても、デジカメのコレクターは殆どいないよね。

 今や光学機器から完全に家電製品と化したデジカメは、「より高スペックで、より安く」を目指して“進化”してきた。そしてその結果、人が愛着できるモノとしての美しさや質感などを失ってしまった。
 昔の金属製のカメラはさ、仕上げやメッキも上質で、直線と曲線をうまく組み合わせてスッキリした美しいフォルムをしていたけど。今のデジカメときたら、殆どプラスチック製の、溶けかけのチョコレートみたいなフォルムのものばかりじゃないか。
 こんなものを、どうしたら長く愛用する気になれるのかと聞きたい。

 と言うと、「より高スペックでより安いのは良い事じゃないか、そのどこが悪い?」って言う人も多くいるだろうね。
 でも“趣味のモノ”ってのは、スペックと安さだけの単なる実用品じゃ駄目なんだ。美しいフォルムや上質な仕上げ、そして操作感など、数値にできない美点があってこそ、人の心を奪い「どうしても欲しい!」って気持ちにさせるんだ。
 だから黒沢のようなバカな人間が、オリンパスだけでなく各メーカーの高いカメラを何十台も、それこそ何かに憑りつかれたように買い集めたワケで。

 けど今のデジカメは、ホントにコストダウンを徹底して作っている実用品の電化製品だからね。モノとして惚れてしまうような製品など殆ど見当たらないし、「実用的な安いモノが数台あればOK」と。
 実際、フィルムのカメラの時代には高級機を頑張って買っていた黒沢だけど、デジイチは「エントリー機のK-rとK-xで充分」って本心から思ってるもの。
 使い切れないほど高いカメラを何台も買ってコレクションするバカが減り、皆が数年ごとの使い捨てを前提として、コストパフォーマンスの良い実用機しか買わない
 これって、カメラの業界としても決して良いことではないと思うけれど。

 フォルムの美しさや仕上げの上質さや操作感は、確かに数値では表せないからね。だからコストカットの対象になりやすいんだと思う。
 例えばデジカメなんてどうせ数年しか使わないと、みんなわかってる。なのにそのデジカメを高価な金属のボディで丁寧に組み立て上質な塗装をするなど、合理的に考えれば確かに無駄に違いないと思う。
 だがその“無駄”こそが、カメラ好きの心を動かし引きつけのだ。
 スペックとコストだけでなく美しさや仕上げの良さにもこだわり手間とお金をかけた、カメラ好きが本当に長く愛せるような趣味性のあるデジカメの登場を、黒沢は心から願ってやまない。

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マンガなどの創作物と後書き

 マンガや小説などを読むと、巻末に著者の後書きがついていて、自身の作品について解説していることがある。
 黒沢は以前、その後書きについて否定的な考えを持っていた。「著者は作品自体で読者に訴えかけたいことを語るべきで、それを後書きで直接的に書くのは反則」みたいに思っていたからだ。
 だが幾つかの作品とその後書き等に接して、考え方を大いに改めざるを得なくなった。

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「創作物は作品のみで語るべきで、制作者自身がその意図などについてあれこれ解説するべきではない」
 黒沢のその考え方を改めさせるきっかけになったのは、『三丁目の夕日』の映画版だ。
『三丁目の夕日』は西岸良平氏の有名な長編連載マンガだが、黒沢はどうもあの独特な絵柄に馴染めず、殆ど興味を持つこともなく無視して過ごしてきた。
 だが定期的に通院していた病院の、通院患者の時間待ち用の書庫に、『三丁目の夕日』の単行本が何冊も並んでいて。それで「暇つぶしに」と手に取って読んでみると、これがなかなか面白いのだ。

 と言っても、すごく面白いシーンや、特に心に刺さる深い話があるわけではない。面白いと言っても「クスッと笑う程度」で、描かれているストーリーも「ちょっと良い話」くらいでしかない。
 しかしその一つ一つの短いストーリーを続けて読んでいるうちに、気が付くと描かれている昭和三十年代の世界に、タイムスリップでもするように心がドップリ浸かってしまっているのだ。そして初めは馴染めなかった絵柄の“クセ”も、いつの間にか“味”のように思えてきて。
 で、黒沢は『三丁目の夕日』の単行本を自分でも買い集め、映画化された時にも公開を待ってすぐに観に行ったよ。

 その『三丁目の夕日』の映画版も、期待以上に素晴らしかった。もう、映画が始まるとすぐに昭和三十年代の世界に引き込まれてしまってさ。
 映画が終わって外に出る時、近くにいた大学生らしい二人連れが「どこがCGか、全然わからなかったよなあ?」と、興奮醒めやらぬ様子で話し合っていたけれど、黒沢も全く同感だった。そのくらい見事に、リアルに昭和三十年代の世界を再現していたんだ。
 で、映画にも感動した黒沢は『三丁目の夕日』のDVDを、それを通常版でなく一万円近くする特装版を、ツタヤに予約してまで買ってしまったのだ。
 原作のコミックスだけでなく映画の『三丁目の夕日』にも、そこまでハマってしまったんだよね。

 と言っても、その映画化された『三丁目の夕日』に不満が全く無かったワケではなくて。
 主人公の一家の“お父さん”役の堤真一さんが、演技が下手だというわけではないけれど「原作の“お父さん”とはキャラが少し違うな」という感じで。
 ま、その意図もわからないでもない。原作の“お父さん”は本当に好人物の優しいお父さんなのだけれど、映画の方では「頑固でちょっと怖いお父さん」って感じに変えられていてさ。
 でもそれも、「いかにも昭和のその時代にいそうな、ガンコ親父ってイメージにした」と思えば納得もできる。
 ただその“お父さん”が激怒して大暴れするシーンだけは、作品の出来を台無しにしかねないほど酷かった

 問題の激怒して大暴れするお父さんのシーンって、ズバリ「特撮映画の怪獣」そのまんまだったんだよ。演出も演技もカメラワークもBGMも、本当に怪獣映画のノリでさ。
 見終わって出て来た若い観客が、開口一番に「どこがCGか、全然わからなかったよなあ?」と言ったように、映画の『三丁目の夕日』って、最初から最後までものすごくリアルに昭和三十年代の世界を再現していたんだ。その中で特撮映画の怪獣のように大暴れするお父さんのシーンだけが、変に現実離れして浮いていたんだよね。
 怒るお父さんを怪獣に見立てて、そこで観客の笑いを誘う意図だったのだろうけど。でもずっとリアルな描写を続けてきた中にそんなフザけたシーンを入れられても、笑えるどころかただシラけて興醒めさせられるばかりだった。

 実は映画版の『三丁目の夕日』の監督さんって、特撮映画を得意とする監督さんで。
 だから黒沢は、「そういう監督さんだから、どうしてもソレっぽいシーンを撮りたかったんだろうなあ」って思ったよ。
 で、他の出来が素晴らしいだけに、例の怪獣映画風の「お父さん大激怒で大暴れ」のシーンさえ無ければ完璧だったのに……と本当に残念に思っていた。

 でもね。
 予約して買った特装版のDVDに付いていたウラ話の小冊子を読んでみると、実際にはまるで逆だったんだよね。
 その小冊子によると、作品全体のリアル感をブチ壊しにした例の「お父さん大激怒で大暴れ」のシーンを、監督さん自身はやりたくなくて大反対だったんだそうで。でもディレクターから「是非やれ」と命令されて仕方なくやり、その出来にディレクター氏は大笑いしてご満悦だったそうな。
 ……笑いのセンスって、本当に人それぞれ、だよねえ。黒沢にとってはシラケるのを通り越して腹が立つくらいだったあのシーンに、ディレクター氏は大喜びで大笑いだったというのだから。
 ちなみに黒沢もあの映画を満員に近い映画館でも観たけれど、例の「お父さん大激怒で大暴れ」のシーンで笑いの渦は劇場に巻き起こらなかったゾ。

 でも、黒沢が映画版の『三丁目の夕日』のDVDを特装版で買って、付録の小冊子を読むことがなかったら、黒沢はずっと監督を悪く言っていたと思う。「特撮の監督だからと、わざわざ怪獣映画風のシーンを入れて、映画を台無しにしかけて……」と。
 だからその経緯を知ることが出来て、本当に良かったと思う。

 似たようなことは、コミックスでもあって。
 井ノ本リカ子さんの『モモタノハナ』という作品があるのだけれど、ま、絵柄もストーリーもなかなか可愛いデス。
 内容をざっと言うと、主人公の桃太は都会から田舎の高校に転校して来た男の子で、クラス委員のさゆり、それに隣に住むウメちゃんの、二人の美少女と仲良くなって。
 さらに彼には、hanaというネトゲで知り合った友達(♀)もいて、そのhanaとはまだ実際に会ったことは無いのだけれど、どうやら桃太が転校した先の高校の生徒のようで……というような、いかにも青春モノっぽい三角関係というか四角関係のお話デス。

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 で、黒沢から見ると、「クラス委員のさゆりしかあり得ないでしょ」って断言できるくらい、さゆりが良い子なんだよね。
 ただ美少女ってだけじゃなくて、しっかり者で親切で優しくて、責任感も強くて……って感じで、「こんな完璧な良い子、現実にはいるわけねーよ」って言いたくなってしまうくらい。

 それに比べてウメちゃんの方は、もう「ウザい子」としか言いようがない感じで。
 例えばちょっと仲良くなった後に、学校の帰りがけに校門の所でバッタリ会うのだけれど。で、桃太が声をかけようとするとウメちゃん、シカトしていきなり逃げて行っちゃうんだよ。
 当然、桃太としては「何!? オレ嫌われてるの? オレ何かした?」みたいに悩むじゃん。
 でもウメちゃんが無視して逃げた理由は、「皆と一緒なら平気だけど、二人きりになると緊張しちゃうから」なんだよね。ホントにただそれだけで「シカトして逃走」だよ。

 あと、バレンタイン・デーにも、さゆりはしっかりチョコをくれるのだ。それも他の男子たちには普通のやつを配りつつ、桃太にはそっと、リボンの色の違う特別なものをくれるワケ。
 一方、ウメちゃんも桃太の為にチョコを用意するんだけど、結局ソレは恥ずかしくて渡せないでやんの。まっ、自分がちょうど食べかけていたポッキー一本だけは渡すんだけどね。

 ……ほんっとにいちいちメンドクサいんだよ、このウメちゃんって女は
 コミックスではウメちゃん側の心理もキチンと描かれているからさ、読者としては「ウブでシャイな、可愛い子じゃん」と思えるけれど。
 でも桃太の立場からすれば、「声をかければ無視して逃げられ」、そして「バレンタイン・デーにもポッキー一本」だよ。コレを実際にやられたら、可愛いとか絶対思えない、ってば。
 まっ、少女マンガのヒロインによくあるタイプだけれど、いつもイジイジ、ウジウジしてて、実際に相手をしてみる身になって見れば「いろいろ面倒な察してチャン」でしかないよ。

 けどこの『モモタノハナ』のラストは、ウメちゃん寄りっぽい感じなんだよね。決定的じゃないけれど、桃太とウメちゃんの心の距離が一番近くなって、そのうちゆっくり付き合うようになるのかなー、って暗示させるような終わり方で。
 だから「さゆりはサイコー、ウメちゃんウゼぇ」って思っていた黒沢としては、そのエンドにすごく不満だったんだ。
 桃太はさゆりとウメちゃんの他に、ネットの友達のhanaとも実際に会うことになるのだけれど。そのhanaでさえウメちゃんよりずっと可愛いし、ホント「ウメちゃんとくっつくEDだけはあり得ない」って思ってた。

 黒沢は三次元の世界でもいろんな女の子と付き合って、そして数々の破局wwwも味わってきたよ。
 その体験から断言するけれど、自分の気持ちをキチッと言えない子は駄目デス。そういう子との交際は、決して長続きしないね。

 だって、他人の気持ちなんてホントに判らないものでしょう? 同性同士だって、ちゃんと言って貰わなきゃ相手が何を考えているかわからない事がよくあるし。
 だから異性ともなると、相手の気持ちなんてホントにわからないものなんだよ。
 で、ウメちゃんみたいに自分の気持ちをちゃんと相手に告げられないタイプだと、二人の間に誤解と気持ちの齟齬がいろいろ生まれやすいんだよね。
「恥ずかしいから」とイジイジ、ウジウジしてさ、ウメちゃんは自分の気持ちをきちんと桃太に伝えないからさ、桃太も誤解するし、余計なことで悩んだりして二人の間の空気もギクシャクするし。
 そしてウメちゃん自身も、自分の気持ちを伝えられない分だけ、さらに悩んだりストレスを溜めたりしちゃうんだよね。

 いろんな女の子と付き合って、そしてフラれてきた経験から言わせてもらうと、ウメちゃんみたいに「自分の気持ちをちゃんと言えない子」ってかなり要注意で、ある意味、地雷か時限爆弾みたいなものだよ。
 自分の気持ちをうまく相手に言えないからって、何も思っていないワケじゃないからね。むしろ気持ちをちゃんと言えない分だけ、不満やストレスみたいなものが心の中に重く積もって行くんだよ。
 で、ある日その不満が大爆発して、いきなり人が変わったように怒り出して別れ話を突きつけてきたりしてね。
 だから一見大人しそうで、自分を出さずに何でも言うことを聞いてくれるような子は、実はかなり要注意なのだ。少しずつ膨れてゆく風船のように、心の中で不満を徐々に溜め込んでいて、ある時突然に爆発して「もう別れるッ!」って話になるから。
 黒沢の経験的に言うと、長くつき合えるタイプの女の子って、男の親友同士のように何でも言い合える子だな。女度の点では少し物足りないかも知れないけれど、明るくてフレンドリーでサバサバした子が結果的に一番良いって。

 そうそう、「自分の気持ちをきちんと言える子じゃないとダメ」と言っても、もちろん自分の言い分を何が何でも押し通すような、ワガママな子もNGだからね。相手ばかり言いたい事を言って、貴方がそれに従っているばかりだと、今度は貴方のストレスと鬱屈が溜まってしまうから。
 どちらか一方が自分を抑えて我慢するのではなく、お互いに言いたい事を言い合って、そして譲れる部分は譲り合える関係でいるのが、より長くつき合える秘訣かな。

 自分の経験的にもそう考えている黒沢だから、優しくしっかりたクラス委員のさゆりではなく、ハッキリ気持ちを言えない“察してチャン”っぽいウメちゃん寄りの終わり方だったのが、どうも不満でさ。
 で、黒沢としては「作者は女の人だから、ウメちゃんみたいなタイプが好きなんだろうなー」みたいに、勝手に想像してたんだよ。ほら、少女マンガの主人公って、たいていウメちゃんみたいな、イジイジして素直になれないタイプの子が多いからね。
 ところが後書きをよく読んでみると、「最初の予定では結局誰ともくっつかない予定だったのですが、担当さんがうめちゃんを気に入ってくれて押して下さったので、ややうめちゃんよりっぽいEDになりました」とのことで。

 あと、クラス委員のさゆりもいかにも理想のヒロインっぽい感じで、黒沢は「こんな完璧な子、現実にはいるワケねーよなー」って思っていたけれど。
 でも後書きを読むと、さゆりは井ノ本リカ子さんの昔のクラスメイトがモデルなのだそうで。「勉強もスポーツもできて美人、だけど特定の仲良しとかはあんまいなくて、体育とかでペアを作る時なんかに、いいよいいよーって言ってるうちに1人になっちゃうような……」って。そして井ノ本リカ子さんは、そのクラスメイトが大好きだったそうデス。

 ウメちゃん寄りの終わり方になった理由についても、さゆりのキャラについても。もし井ノ本リカ子さんの後書きが無かったら、黒沢は作品について二つも大きな誤解をするところだったよ。
 映画版の『三丁目の夕日』のお父さん大激怒のシーンも、特装版のDVDに付いてきた小冊子を読むまで誤解し続けていたし。

 映画やコミックスに限らず、アニメでもドラマでも小説でも、商業作品には“大人の事情”ってやつがつきまとうからね。作者より編集者やディレクターなど方が強くて、その意向で作品の内容が変えられてしまう事も珍しくないのが現実だと思う。
 作者は創作物の中身だけで語るべき……というのは理想論で、それが本当に出来るのは同人誌や自主制作の映画やアニメくらいだろうね。
 だから作者は後書きや、それが不可能なら自分のブログなどでも良いから作品づくりの裏話的なことも書いた方が良いのかも知れないと、『モモタノハナ』と映画版の『三丁目の夕日』を見ていろいろ考えさせられたこの頃デス。

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ボジョレー・ヌーヴォー解禁をお祭り騒ぎにする、愚かな日本人たち

 また、日本中がボジョレー・ヌーヴォーの解禁に浮かれる日が来た。
 ただワイン愛好者の間で楽しまれるだけでなく、マスコミまでこぞってこの話題を取り上げ、日本中がまるでお祭りのように騒ぐ。
 バカみたいだ、いい加減にしてくれ!
 この季節になると、黒沢は大声でそう叫び出したくなる。

 そもそもボジョレー・ヌーヴォーとは何か。
 たかがワインの未熟な新酒じゃねえか。
 なのに何故テレビがニュースとして報道するまで騒がなければならないのか、黒沢にはさっぱり理解できない。
 と言うより、マスコミまでこのボジョレー・ヌーヴォーの解禁をことさらに取り上げて、酒に大して興味もない一般の人達までそのお祭り騒ぎに巻き込み、ワイン業界の売り上げに無料で貢献していることに腹立たしさすら感じる

 ボジョレー・ヌーヴォー解禁のお祭り騒ぎがいかに馬鹿げているかは、その年のボジョレー・ヌーボーの出来に関するキャッチコピーを続けて見てみるだけでわかる。

 2001年、ここ10年で最高。
 2002年、2001年を上回る素晴らしい出来。
 2003年、100年に一度の出来。
 2004年、香りが強くなかなかの出来栄え。
 2005年、ここ数年で最高。
 2006年、昨年同様いい出来栄え。
 2007年、柔らかく果実味が豊かで上質な出来栄え。
 2008年、豊かな果実味で程よい酸味が調和した味。
 2009年、50年に一度の出来。
 2010年、天候に恵まれ昨年並みの仕上がり。
 2011年、2009年よりリッチなワイン。


 ……なるほど。
 2001年に「ここ10年で最高」のボジョレー・ヌーヴォーが出来たと思えば、翌年にはそれをさらに「上回る素晴らしい出来」のものが仕上がり、そのさらに翌年のものは「100年に一度の出来」のボジョレー・ヌーヴォーだと言うのである。
 しかもまたその翌々年の2005年には、「ここ数年で最高」のものが出来たのだそうで。と言うことは、その2005年のボジョレー・ヌーヴォーの出来は、2003年の「100年に一度の出来」のものすら越えた……ってワケだよね?
 で、翌2006年にも「昨年同様いい出来栄え」の、100年に一度の出来のものすら越えるようなボジョレー・ヌーヴォーが続けて出来て。
 100年に一度やそれを越えるような素晴らしい出来の酒が、2003年、2005年、そして2006年と続けざまに生まれるのだから、ボジョレー・ヌーヴォーって本当にスゴいよねwww。

 世の中は不況続きでデフレ・スパイラルと言われる中、ボジョレー・ヌーヴォーの出来を褒めちぎる言葉のインフレはまだまだ続きマス。
 2009年は「50年に一度の出来」で、翌2010年も「天候に恵まれ昨年並みの仕上がり」で、さらに続く2011年も「2009年よりリッチなワイン」なのだと。
 50年に一度の出来のボジョレー・ヌーヴォーが、2009年、2010年と続けて出来て、さらに翌2011年にはそれより「リッチなワイン」が出来たのだそうでありマス。

 どうやらボジョレー・ヌーヴォーをブームにして売りつけたい業者たちは、「日本人の記憶は一年も保たない」と読んでいるようデスよ。
 そして事実日本の消費者たちはその馬鹿馬鹿しい宣伝文句に見事踊らされ、普段ワインなど飲まない者までこの季節にはボジョレー・ヌーヴォーを飲み「美味しい!」とかはしゃいでいるのだから、その低脳さ加減にはただ呆れるしかない
「笛吹けど踊らず」という言葉がある通り、いくら強欲な業者がマスコミも使って商売のイベントに仕立て上げようとしても、消費者が賢明でそれに踊らされなければ、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁もお祭り騒ぎにはならない筈である。
 しかし現実には、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁はいつもニュースになりマスコミでも取り上げられ、人々もお祭り騒ぎを繰り返している。
 全くもって「愚か」としか言いようが無い。

 ボジョレー・ヌーヴォーの解禁でこんなに騒いでいるのは世界でも日本だけで、ボジョレー・ヌーヴォーは現地のフランスでもそんなに高級なものとしては扱われていない。
 繰り返すが、ボジョレー・ヌーヴォーは若い未熟なワインに過ぎないのだ。

 こう言う黒沢自身、ボジョレー・ヌーヴォーもちゃんと飲んだことがある。
 うん、飲みやすかった。フレッシュでフルーティーで、普段ワインを飲み慣れていない人にも美味しく感じられると思う。
 ボジョレー・ヌーヴォーは、だから駄目なのだ。

 フレッシュでフルーティーだが、はっきり言って酒としての深みや味わいが欠けているんだよ。だから本当のワイン好きは、ボジョレー・ヌーヴォーはあまり好まないと思う。
 嫌いとまでは言わないし、季節のモノとして一応飲みはしても、好んで飲むほどのモノとは思わないというのが、ワインの味を知る人達の感覚ではないかと思う。
 酒としての味わいや深みでは通常のワインに劣り、フレッシュさやフルーティーさでは天然果汁100パーセントの葡萄ジュースに劣る。ボジョレー・ヌーボーとは、そうした中途半端なものではなかろうか。
 少なくとも黒沢は酒として飲むなら同価格帯の普通のワインを、葡萄のフルーティーさを味わいたければ天然果汁100パーセントの葡萄ジュースを選ぶゾ。

 要するにボジョレー・ヌーボーとは、葡萄ジュースともブドウ酒ともつかぬ未熟なワインでしかないのだ。
 ただその未熟さゆえに、通常のワインより葡萄ジュースに近いフレッシュさとフルーティーさが残り、本当のワイン好きではない女子などの一般人にとっては飲みやすく感じられ、「美味しい」と思われているのではないか。
 だが繰り返し言うが、本物の葡萄ジュース(添加物ナシの100パーセント果汁)の方がボジョレー・ヌーボーなどよりずっとフルーティーだし、酒としての旨さや深みは同価格帯の本物のワインの方がずっと上だ。だから黒沢は、ボジョレー・ヌーボーは「わざわざお金を出して買ってまで飲む価値のない、中途半端なシロモノ」と思っている。

 ま、その中途半端さを「ワインなのにジュースのようにフルーティーで飲みやすい」として好む人がいるのも理解できる。
 理解できるがしかし、マスコミでも常にニュースとして取り上げ、「五十年に一度の出来」だの「百年に一度の出来」だのと嘘だらけの大袈裟な言葉で褒め上げ、毎年バカげたお祭り騒ぎをするほどのものでは決してない、声を大にして言いたい。
 ボジョレー・ヌーボー解禁のあのお祭り騒ぎに乗せられて一緒にはしゃぐ人達は、結局お祭りやイベント大好き、初モノ大好きの、思慮より気分で生きている宣伝や流行に流されやすい人達で、理性ある人達や本当のワイン好き達は、日本で毎年繰り広げられるあのバカ騒ぎを冷ややかな醒めた目で見ている

 フルーティーな新酒ならば、日本酒でも毎年各地の酒蔵で造られている。しかしボジョレー・ヌーボーと違って、業者も誇大広告としか言いようのない大袈裟な褒め言葉でお祭り騒ぎを仕掛けることもなく、そのせいかマスコミにも殆どニュースとして取り上げられず、愛好者の間でただ静かに楽しまれている。
 ボジョレー・ヌーボーもそれと同じように、商魂たくましい業者の仕掛けるバカげたお祭り騒ぎに乗せられる事なく、愛好者がただ普通に楽しむものになってほしいものだと切に望む。

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再びチューリップ

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 花屋さんやホームセンターの園芸コーナーに行くとよくチューリップの球根が売っていますが、黒沢は一番安い、スタンダードな形のものが一番好きです。高い派手な凝った形のものは、どうもチューリップらしい感じがしなくて好きになれません。
 で、いろんな色を混ぜた特売のものを20球くらい買ってきて、来春どんな色の花が咲くかを楽しみにしながら植えるのが毎年の習慣になっています。

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