

今回もカモミールです。
農薬は全然使っていません。
けど毎年、元気に育ってくれます。
確かにアブラムシがいつの間にか飛来して増えてしまいますが、そんな時には使い古しの歯ブラシで払い落としています。
地味な方法だし面倒ではあるけれど、これが結構効果があるんですよ。
そして目につく所のアブラムシを歯ブラシで払い落としているうちに、いつの間にかテントウムシという援軍が現れて、アブラムシを食べ尽くしてくれます。



少し前の話で申し訳ないが、あのタマ駅長が死んでしまった事が、筆者にとっては今もまだショックで尾を引き続けている。
実は我が家には15歳になる老猫がいて、一昨年には癌になり、かなり大きな手術にも耐えてまだ元気で生きてくれている。
しかしタマ駅長とも年齢が近いだけに、「こうして一緒に暮らせるのも、そう長い事ではないのか」という現実を、ひしひしと身近に感じさせられた。
同時に、どれだけ長くても数年のうちに確実に訪れるだろう別れの日の事を嫌でも考えざるを得なくなり、胸が苦しくなってくる。
そんな筆者の気持ちを暗くさせるのは、タマ駅長死去のニュースだけではない。
最近、東京では猫が惨殺される事件が相次いでいるが。この種の動物虐待のニュースも、同じように筆者の気持ちを暗くさせる。
猫と長く一緒に暮らしているからわかる。
猫だって、人と同じ命を持って、人と同じように一生懸命生きているんだよ。
猫にもちゃんと感情や愛情があって、飼い主の気持ちや態度に反応して喜んだり悲しんだりもするんだよ。
ただ猫は犬と違って、その子の個性にもよるけれど、警戒心が強くて知らない人にはなかなかなつかないからね。
飼い主には心を許してすごく可愛いところをいっぱい見せるけれど、知らない人には無愛想だったり、警戒心むき出してとっとと逃げてしまう子も少なくない。
犬のように人が大好きで、初対面の人にも友好的に振る舞ったりする猫は多くないから、「猫はなつかないから可愛くない」と言う人も少なからずいる。
そしてまた、「猫は生理的に嫌い」という人もいるし、そういう人達を否定するつもりもない。好みは人それぞれだし、筆者は大の猫好きだが、世の中の人すべてに「猫好きになれ!」などと求めるつもりもない。
ただ、生き物を「嫌いだから」と虐待する事にだけは断固反対するし、動物虐待をする人に対しては「当人も同じような痛い目に遭って苦しめばいい」と心から思う。
実は筆者の近所にも、その種の猫ギライで猫を虐待する家が二軒あった。
そのうちの一軒に住んでいたのは頑固で偏屈な独居老人で、元公務員だったせいかどうかはわからないが、相手が年下と見ると非常に居丈高な態度を取り、気に入らぬ者は平気で怒鳴りつけていた。
その老人は猫も嫌いで、地域に住む野良猫が子を産むと、その子猫を捕らえては殺し、ゴミとして出すような爺さんだった。
だから筆者はその猫殺しの爺さんを心の底から憎んで、「死んでしまえばいい」と本気で思い続けた。
ここからは、筆者自身どれだけ信じて良いかわからない、少しホラーじみた話になるが。
筆者はその爺さんを心の底から憎み、我が家のすぐ近くにあるその爺さんの家の前を毎日のように通る度に、「死んじまえ!」と思い続けた。
そうしたら、三ヶ月も経たないうちに本当に死んでしまったのだ、その爺さんが。
それも突然死でね。
死んだその爺さんは、爺さんと言ってもまだ七十になるかならないかで、それまで病気一つせず、気に入らぬ近所の者は怒鳴りつけるくらいに元気だったんだよ。
それが「最近、姿を見ないなー」と思っていたら、ある日その爺さんの家の前に救急車が来てさ。
でもその家に救急隊員が何度も出入りはしたものの、結局サイレンも鳴らさずに救急車は去っていったのだ。
どうしたのだろう、と思っていたら間もなく近所の噂でわかったよ。
死んでたんだって、その爺さん。
何かね、入浴中の突然死で、一人暮らしだったからそれに気付く人もいなくてさ。
で、その爺さんの子供のうちの一人が、電話しても出ないものだから気になって様子を見に来てみたら、浴槽の中に浸かったまま動かなくなっていたのだとか。
だから孤独死で、死んだ後も何日か水漬けになったままだったということデス。
と言うとさ、必ず「亡くなった人に失礼な事を言うな!」とか、「生前何をしたにしろ、亡くなればみな仏様なんだぞ!」とか怒る“いい人たち”が出てくるけどさ、少なくとも筆者はその爺さんに同情する気には、全くなれなかったな。
死のうがどうしようが、生きた時に犯した罪は消えないんだよ……ってのが、筆者の考えだから。
猫殺しと罪の重さを一緒にするつもりは、全く無いけれど。
東京裁判で死刑になったA級戦犯を神として祀る感覚も、筆者にはまるで理解できないね。
もし「死ねばみな仏様で、生前の罪は許される」のだとしたら、ヒトラーと刑死したナチの戦犯も、スターリンや毛沢東やポル・ポトなどの大量虐殺者も、死刑になった凶悪犯たちも、「みんな今は神様で、その生前の罪を責めちゃいけない」って話になっちゃうよね。
それは絶対におかしい、と筆者は思う。
死のうがどうしようが、生前に犯した罪は消えることは無いと筆者は考える。
たとえ犯した罪が殺人でなく、動物虐待であってもね。
とは言うものの、「死んでしまえ!」と日々思っていた相手が本当に突然に死んでしまうと、「やった、いい気味だ!」とまでは思えないというのが正直なところだ。
何かね、自分がその相手を呪い殺してしまったような、人殺しになってしまったような気がしてしまってね。
わかってマス、筆者も含めて人に誰かを呪い殺す力なんてある筈ないし、その猫殺しの爺さんが孤独死したのも、ただの偶然に違いないんだ。
ただね。
神様みたいに善い人は別として、大多数の人は「あのヤロウ、死んでしまえ!」という気持ちを抱いた事があるだろうと思う。
けどその憎んだ相手が、それも不慮の死をとげてしまうと、やはり良い気持ちにはなれないよ。
その死んだ相手に同情する気には全然なれないけれど、何か後味の悪さがどうにも拭えなくて。
だから筆者はその猫殺しの爺さんが死んだ後は、どんな厭な相手にも「死んでしまえ!」とだけは思わないようにしている。
ただ、他人の命を害する者や、日本や人類を危機にさらそうとしている悪人だけは例外にしているけれどね。
ヒトラーやスターリンなどの歴史に残る虐殺者だけでなく、我が祖国日本をあの無謀な戦争に突入させたA級戦犯やそのお仲間の軍人どもについても、「もっと早く突然死でもしてくれていれば戦争も起こらず、何十万、何百万もの無辜の人が死なずに済んだのに」と筆者は思わざるを得ない。
その東条英機ら刑死したA級戦犯を「今の日本の繁栄の礎になった昭和殉難者」と正気で称える、紛れもなく歴史修正主義者の政治家たち(内閣総理大臣も含む)も、一日も早く失脚して政界から消えてくれた方が日本の為だと心から思う。
だって、特定秘密保護法案に続いて戦争法案まで成立したら、日本は戦前と同じ道を進む事になりかねないからね。
現にその総理のお仲間の政治家たちや作家などは、政府の意に添わぬマスコミは懲らしめ、そして潰すべきだと本気で考えているし。戦前と同じ言論統制をもくろんでいる政治家などの有力者が本当にいるのだから、自由と民主主義を大切に思うなら、今立ち上がって彼らに「NO!」という意志を示さなければ、日本は再び全体主義の暗い国になってしまうだろう。
彼らのような政治家に比べれば、猫達を殺す動物虐待者くらいまるで罪が軽いのかも知れないが。
筆者の家の近所には、例の猫殺しの爺さんだけでなく、自宅の庭に小動物の捕獲機を設置して、その家の庭に入る猫を片っ端から捕らえては保健所に殺処分に送り込んでいるオバサンもいる。
そのオバサンは、「首輪をしていようが、飼い猫だろうが何だろうが捕まえて保健所に持って行く」と笑って話していた。
……死んでしまえ、と思いかけたけれど。
ただ例の猫殺しの爺さんの一件があった後だけに、「死ね!」とまでは思わないで、ただ「猫の恨みがふりかかって不幸になればいい」と願うだけにしておいた。
もちろん、この世の中の悪い事は動物虐待だけでは無いデスよ。つい最近も岩手県で中学二年生が死に追いやられてしまったけれど、イジメだって許し難い、とても悪い事だと思う。
筆者は小柄で、しかも幼い頃から病弱だった。当然、学校ではイジメの対象になりやすかった。
幸い筆者は体格でも体力でも劣っていたけれど、気だけは強かったからね。だからイジメを受けたら死にものぐるいで反撃して、イジメと闘う事で何とか生き延びてきたけれど。
それでもイジメられていた頃は苦しかったし、思い出すのは辛いし、当時のイジメっ子たちの顔と名前は今でも思い出す事ができるし、彼らに対する恨みの感情は今もまだ捨てきれずにいる。
イジメた方は忘れても、イジメられた方は絶対に忘れない……ってのは、間違いの無い事実だと心から実感する。
でもね。
筆者の小中学生時代にとても性悪なイジメっ子が男女一人ずつ居たのだけれど、誰が手を下さなくても二人とも見事なくらいに不幸になったよ。
女のイジメっ子の方は、心を病んで友達も一人も居なくなり、絵に描いたような引きこもりになって。
そして男の方も歯は殆どボロボロで言動も明らかに変で、無職で誰からも相手にされないような廃人に近い人間になってた。
よく、ネットなどに「イジメをする人には、必ず報いがある」というような事が載っているけれど。
科学的には全く根拠が無いし、「イジメられっ子の気休めだ」と言われれば、返す言葉も無いよ。
ただ現に絵に描いたように不幸になっている元イジメっ子たちの末路を見ると、「多くの人の恨みを買うと、やはり不幸になるのかな」と思う気持ちを捨て切れなくなってしまう。
「じゃあ、日本を悪い方に導いて多くの人に憎まれている政治家が、何で今日も元気で権力の座に居座り続けてるんだよ?」と言われてしまうと、返す言葉に詰まってしまうのだけれどね。
それでも「イジメっ子や動物虐待する人は、誰が手を下さずともやがて不幸になる」と思いたいし、そう信じてもいないと辛くてやり切れないよ。
けどね。
どんなに憎い相手が居ても、「死んでしまえ!」と呪うのだけはやめておいた方が良いよ。
その憎んで呪った相手が本当に突然死してしまうと、まるで自分が殺したかのような後味の悪い気持ちになるから。
「その種の人間は、きっと後で不幸になる」
そう信じてじっと待っているしか、出来る事はないんだよね、残念だけれど。
ただ憎い相手が政治家の場合は、その政治家と、彼が属する政党に一票を投じさえしなければ良いのだから話は楽だ。
選挙で落選させ、政権与党の座から引きずり降ろしさえすれば良いのだから、厭な政治家をやっつけるのは、イジメをする人や動物虐待をする人をやっつけるより簡単かも知れない。
そしてその政治家を落選させ、彼の所属政党を権力の座から引き離す為に、デモに参加してマスコミや世の中の人々にアピールするのも良いかも知れない。
それに比べてイジメや動物虐待に対応するのは、もっと難しいかも知れない。
イジメに対しては、筆者はただ自分一人で立ち向かって闘うしか無かったし。
そして動物虐待に対しても、自分に出来る範囲で野良猫を保護するしか出来なかった。
近所の野良猫を何とか捕まえて自費で去勢手術を受けさせて、「もう子供を産んだりしませんから、この子だけは生かしておいてやって下さい」と近所の人達に理解を求めて回ったりね。
あと、我が家で共に暮らしている猫さんは、猫殺しの爺さんの手にもかからず、猫を片っ端から捕まえて保健所送りにしているオバサンの罠にもかからずに生き抜いて、でも何故か筆者にはなついてくれた元野良猫デス。
と言うか、筆者が飼ってきた猫はすべて雑種の野良猫で、見かけの好みで選んでペットショップで買おうなどと思った事は一度も無いよ。
助けたい猫はたくさんいたけれど、個人の力で出来る事は本当に限られていて辛かったよ。
それでも我が家で15歳まで生きて、今日も安心して手足を伸ばしてゆっくり眠っている猫の姿を見ると、心が和むし「この子だけでも幸せに出来て良かったな」ってつくづくと思うよ。
野良猫暮らしはただでさえ辛いのに、世の中には動物虐待をするクズも現実にいるのだから。
だからもし「犬や猫を飼おう」と思ったら、ペットショップで血統書つきのを買うのではなく、殺処分される運命の子たちを保健所などから貰うとか、野良のを引き取るとかして欲しいよ。
犬や猫にも心は間違いなくあるし、それは種類や血統書には全然関係ないから。雑種の野良でも同じ命と心を持って、一生懸命生きてるんだ。
だからそういう子たちにももっと目を向けて、虐待されながら野良暮らしをしてる子や、保健所で殺処分の運命を待っている子らを、一匹でも多く救ってほしいと思うよ。
ビールはグラスに注いだらすぐ飲むのが普通だし、ワインや日本酒だって飲む前に香りも楽しむものの、瓶の栓を開けたらなるべく早めに、出来れば数日中に飲み切るのが望ましいと言われる。
ただウイスキーは違う。
ネット上に幾つかあるウイスキーのブログを覗いてみても、キャップ(栓)を開けてすぐその味と香りを評価している方が少なくないが、実はそれではウイスキーの本当の味と香りはわからないのだ。
もう何年も前の事になるが、筆者はブラックニッカ8年を初めて飲んでみた時、愕然とした。
その味と香りのヒドさに、だ。
妙に甘ったるい香りと、強いアルコールの刺激が何とも言えない不協和音を醸し出していて、これで8年モノのウイスキーとはとても信じられないほど不味かった。
が、樽熟成ナシのグレーンアルコールなる代物でモルト原酒を希釈したものをリキュールで香り付けして売っていた国産某社のウイスキーwwwならともかく、あのニッカの、しかも8年モノの製品が不味いわけが無かろうと思って、翌日再びまたブラックニッカ8年を飲んでみた。
しかし結果は前日と同じで、変な甘さと強いアルコールの刺激が混ざり合ってとても不味かった。
それでブラックニッカ8年を飲むのがほとほとイヤになって、捨てるか梅酒造りに使うか、そのどちらかにしようと思ったほどだった。
が、そうする前にもう一度だけと思って、開封してから一週間後に期待しないでまた飲んでみた。
メチャ旨かったんだよ、そうしたら。
甘さは心地良いものに変わり、舌を刺すアルコールの刺激も引っ込んで、代わりにスモーキー香やら樽の香りやら、複雑な香りと旨味が合わさった、まるで別物の美味しいウイスキーになっていた。
これほど極端に印象の変わるウイスキーはそう多くはないが。
しかし封を切った直後とその数日後で、多かれ少なかれウイスキーの味と香りは間違いなく変わる。
例えばジョニ黒も、封を切った直後は決して不味くはないし、複雑な味わいもよくわかるものの、香りは「こんなものか?」とやや物足りなく思う程度でしかなく、12年モノである筈なのに僅かながらアルコールのツンとした刺激も感じた。
ところがこれも一週間後に改めて飲んでみると、香りはものすごく豊かだし、口当たりもよりまろやかになりアルコールの刺激はまるで感じなくなった。
グランツ・ファミリー・リザーブも、最初から旨いなとは思ったが、その旨さは日が経つごとに増して、複雑で旨味がある上に心地良いスモーキー香も感じるようになった。
ハイニッカのような旧二級酒でさえ、数日経つだけで香りと味が変わる。
ハイニッカについては、ネット上では「ブラックニッカ・クリアと同じでアルコール臭く、甲種焼酎と大して変わらない」という声をよく目にする。
しかしそれは、開封して香りが充分に立たないうちに飲んでしまったからだ。
あるいは、飲む際に薄く割り過ぎてしまったからか。ハイニッカは悪いウイスキーではないが、薄く割ると味と香りも薄く物足りなくなりがちなのだ。
ハイニッカも開封してから一週間以上経つと、甘くスモーキーでまろやかな、ブラックニッカ・クリアより明らかに上質なウイスキーになる。
結局、樽の中で何年も眠っていたモルト原酒は香りも縮こまっていて、瓶の栓を開けただけでは充分にその香りがわからないままなのだ。
で、栓を開け何日か空気に触れることで、本来の香りが広がってくるんだよね。
新しくウイスキーを味わう時、よくテイスティング・グラスを回して空気に触れさせるけれど。
筆者の経験では、それだけではまだ足りない。もっと時間をかけ、開封して一度味を見たらまた栓をして何日か置いておくくらいでなければ、本来の香りは広がって来ない。
だから筆者は、ウイスキーは開封して一度味をみた後、また栓をして何日か置いておく。それから毎日少しずつ楽しみながら飲み、味と香りの評価を下すのは少なくとも瓶の半分くらい空けてからにしている。
開封して間もないうちは香りも充分に広がらず、さらに何日か経ち味と香りが安定してきた後も、飲む者の体調によって、その日によって味と香りの感じ方は変わってくる。
筆者は今月の初めに、夏風邪をひいて熱を出した。と言っても37.5℃程度の微熱だったが、寝酒に飲んだウイスキーはひどく不味く感じた。
好きなウイスキーなのに、たったそれだけの微熱でも味と香りの印象がガラリと変わった。
その程度の微熱でもそうなのだから、同じ好きなウイスキーでも味と香りの感じ方は日々微妙に変わる。同じモノを飲んでいながら、「うーん、今一つだな」と思う晩も、「いやこれ、なかなか旨いよ!」と思う晩もある。
だからウイスキーの評価は、何日もかけて瓶の半分くらいは飲んでからでないと下せないものだと筆者は考えている。
まだ飲んだ事のないウイスキーの封を切る時はとても楽しみだ。それは筆者にもよくわかる。
だがウイスキーの香りは、栓を開けた直後には充分に広がらないものなのだ。ウイスキーを注いだグラスを振ったただけではまだ不十分で、本来の味と香りになるまでには何日か待たねばならない。
だから新しいウイスキーの瓶の栓を開けてすぐに味と香りの評価を下してしまう人には、「ちょっと待って、もっと時間をかけて判断して!」と声を大にして言いたい。
筆者などは体質的にアルコールに弱い方だから、一本のウイスキーを飲み切るのに一週間以上かかってしまうのが普通だ。だから空気と充分に触れ合って本来の香りを放つようになったウイスキーを、いろんな体調で、幾晩もかけて味わって飲んでいる。
しかし世の中にはアルコールに強くて、「たくさん飲まなきゃ、飲んだ気がしない」という人もいるからねえ。
例えばニッカの創業者の竹鶴政孝氏など、元気な頃にはウイスキーを毎日一瓶空けていたという。
そこまでの酒豪は、さすがにそう多くはいないだろうが。しかし一本のウイスキーを三日か四日くらいで飲んでしまう人は、そう珍しくはないのではないだろうか。
で、そうした酒豪の方々は、結果的にそのウイスキーが充分に空気と触れ合って本来の香りを放つ前に、その一本を飲み切ってしまうことになる。
そうしたたくさん飲む方には、筆者は複数本のウイスキーを並行して飲むことをお勧めしたい。
お気に入りのウイスキーを数本開封しておいて、昨日はサントリー、今日はニッカ、明日はスコッチで明後日はバーボン……という風に交互に飲んでいけば、少なくともそれぞれの瓶は一週間以上もつのではないだろうか。
実は筆者も、平日はお手頃価格のウイスキー、週末と祝祭日はちょっと良いウイスキーと、常に二本のウイスキーを開封しておいて飲み分けている。
ウイスキーの飲み方や楽しみ方は、もちろん人それぞれ自由だけれど。
ただ「開封直後は香りがまだ縮こまっていて、本来の味と香りにはなっていない」という事だけは知っておいてほしいよ。
味と香りの感じ方は、その日の体調によっても微妙に変わってくるし、そのウイスキーの本当の味と香りを判断するには、それなりの日にちをかける事をお勧めしたいデス。
先週はジョニ赤について書いたが、今回もまた定番中の定番スタンダード・スコッチのホワイトホースについて書きたい。
ジョニ赤もそうだが、ホワイトホースも専門の酒屋だけでなく、スーパーやドラッグストアなどの洋酒コーナーでも売っていたりするほどありふれたスコッチだ。
それだけにウイスキーに興味のある人で「ホワイトホースは飲んだ事が無い」という方は、まずおられないのではないだろうか。
で、そのホワイトホースだが、香りはまず甘く、そして続いて程良いスモーキーさが続いてやって来る。甘いと言ってもカラメルのようなベタつく感じてはなく、青リンゴのように爽やかな感じだ。
口に含んでもその甘い印象は変わらないが、同時にスパイシーな感じも受ける。
印象としてはジョニ赤にも似ている。しかしホワイトホースの方がよりストレートでシンプルな味わいに感じる。
そのせいだろうか。ジョニ赤はアフターテイストもかなり強く残ったが、ホワイトホースは切れが良く飲んだ後の香りも口の中にあまり長く残らない。
比べてみれば、ジョニ赤の方がよりスモーキーで力強いだろう。しかし飲んだ後で深く呼吸をすれば、スモーキー香を伴う心地よい香りが確かに口の中に蘇ってくる。
このホワイトホースは、キーモルトの一つにアイラ島の銘酒ラガヴーリンを使っているが、「なるほど」と頷かせる香りが間違いなくある。
ただ、ハイボールにしたり薄く水で割ったりすると、そのホワイトホースらしい個性はかなり薄れて、他のウイスキーを使ったハイボールや水割りとあまり変わらなくなってしまう。
ジョニ赤の場合は薄く割ってもそれに負けない“らしさ”が残ったが、ホワイトホースの場合はただのウイスキーになってしまうように感じる。
と言っても、「ホワイトホースのハイボールはマズい」と言うわけでは決してない。
筆者自身がハイボールや薄い水割りを好まず、ストレートやトワイスアップなどの濃いめで飲むのを常にしているために、個人的に「ホワイトホースのハイボールは物足りない」と思うだけだ。
シングルモルトやピュアモルト、それに長期熟成したウイスキーをハイボールにして飲むと、本来の味と香りが損なわれて不味くなっているのがハッキリわかって、それはもうひどくガッカリさせられる。しかし千円ちょっとで買えるようなリーズナブルなウイスキーの場合、その原酒の若さと炭酸の効果が合わさって意外に悪くない味になったりする。
そしてホワイトホースのハイボールも決して不味くはなく、「飲みやすいか、どうか?」で言えば間違いなく飲みやすいと言える。
それだけに、元々ハイボールが好きな方なら、多分「ホワイトホースのハイボール、なかなかウマいじゃないか」と思うだろう。
どちらも定番中の定番スコッチだけに、ジョニ赤もホワイトホースもどこか似た風味を持っている。
ただジョニ赤の方がより複雑で力強くスモーキーで、ホワイトホースの方が癖が無く飲みやすいように感じる。
ホワイトホースもジョニ赤も、千円ちょっとで買えるスタンダード・スコッチとしては大好きだし、どちらも良く出来ていると思う。
ただ、個人的な好みをあえて言えば、ジョニ赤の方がやや好きだ。
しかしジョニ赤はスモーキー香もはっきりあるし、アフターテイストも強く残るから、飲む人と場合を選ぶところがある。
その点、ホワイトホースはジョニ赤ほど個性が強くない分だけ、誰にでも勧められると思う。食後に濃いめでゆっくり味わっても良し、食中酒としてハイボールや水割りにして飲んでも良し……という感じで。
筆者はこのホワイトホースも、近くの酒屋で税抜き938円で手に入れた。それも日本製のオリジナルグラス付きで、だ。
ジョニ赤(オリジナルグラス付き)を同じ値段で買った時にも感じたのだが、これだけの品質のウイスキーを税抜き千円で手に入れられるなんて、本当に幸せなことだとつくづく思った。
その酒屋では、同じ時にサントリーの角瓶も「ハイボールにしてお飲み下さい」と、グラスではなくジョッキ付きで税抜き1028円で売っていたけれど、筆者はそちらの方はスルーして買わずに帰って来た。
ハイボールもウイスキーの飲み方の一つだとは思うけれど、濃いめでじっくり味わうより、炭酸で薄く割って飲む事をメーカーが強く勧めるようなウイスキーなど、筆者はちょっと飲むのは遠慮したいデス。
でもこの日本では、ジョニ赤やホワイトホースより高いくらいの角瓶の方をあえて買う人が少なからずいる(むしろそういう人の方が多い)というのが現実なのだ。ウイスキーはあくまでも嗜好品だし、好みは人それぞれとは言え、筆者としてはこの現実にちょっと溜息をつきたくなる。
日本人の一般常識としては、やはり「ウイスキー=ハイボール」なんデスかね、悲しいけれど。