空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

藤とハナアブ

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 一瞬「熊蜂か!」と思ってビビッてしまいました。
 でも落ち着いてよく見てみると虻のようだったので、グッと近付いて撮ってみました。
 それにしても、この種の虻は本当に蜂に似ていて紛らわしいです。

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藤の花

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 昔、一時期紫が好きだった事がありました。
 で、実際に紫の服を着て外を出歩いた事もありました。
 今になって考えてみると、若さゆえの過ちと言うか、ホントに馬鹿でしたねぇ……。
 女性ならともかく、男が紫の服って……。

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撮影者の邪念www

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 青い花は好きなのですが、この花の色はあまり好きではありません。
「なら、なぜ撮った?」って?
 何かこの花の妙な形が変に目に留まってしまって……。
 時折、花は女性の性器にも例えられますが。
 この花の形が、何かちょっとエッチっぽく見えてしまうのは、撮影者の心に邪念があるからでしょうか。

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オダマキ

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 1/2.5型CCDの、古い普及品のコンデジで撮りました。
 デジイチでなくとも案外背景がボケてくれたのには、自分でも驚きました。
 でも、青い花ってきれいだなあ……と、写真を見直して改めて思ってしまいました。

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柿の新緑は綺麗だけれど…

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 庭の柿の木です。
 柿の葉は、新緑の時期にはとても綺麗です。
 ただ、柿の若葉って、毛虫がとても沢山つくんですよね。
 それも指くらいの大きさになる、刺だらけのブランコケムシが……。
 ブランコケムシは糸を引いて落ちて来るし、風で飛んで他の果樹も食害するしで、本当に厄介です。
 今年は林檎の木が、その風で飛んできたブランコケムシに、殆どボウズにされかけてしまいました。

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筆者が偏執的(?)なまでに酒にこだわるようになったワケ

 いきなりだが、筆者は自分があまり良くない種類の酒飲みであることをよく自覚している。

 と言っても、飲むと乱れて暴れるとか、人に絡むとかいうわけでは決してない。筆者は基本的にアルコールに弱い体質なので、飲んで乱に及ぶほど飲めないのだ。
 まず、ほろ酔い程度の時には陽気になるが、適量以上に飲むとすぐ頭が痛くなってくる。そしてそれでもさらに飲むと、無性に眠くなってしまう。
 だから自信を持って言えるが、酒の上で失敗をして醜態を曝した事は一度も無い。頭が痛くなった時点で危機を察し、眠り込んでしまう前にタクシーを呼んで急ぎ家に帰るよう心掛けている。

 では何が良くないのかと言うと、このブログを以前にもご覧の方はお気付きと思うが、筆者は酒に対するこだわりが強すぎるのだ。
 まず、ビールはドイツのビール純粋令を信奉していて、米やコーンやスターチなどの、いわゆる“副原料”を使ったものはビールと認めていないし。
 日本酒も「純米でなければ駄目」というのが信条で、醸造用アルコールと称する工業アルコールを混ぜたものなど日本酒と認めていないし、さらに糖類や酸味料を加えたものの存在については、日本の恥、日本の酒文化に対する冒涜とすら思っている。
 本格焼酎も常圧蒸留した上に甕貯蔵したものを愛していて、「減圧蒸留し、さらにイオン交換樹脂で濾過までしているシロモノを“本格”焼酎と呼ぶなどおこがましい」と思っている。
 こだわりはウイスキーについてもかなりあって、モルト原酒を樽熟成ナシのグレーン・アルコール(グレーン・ウイスキーに非ず)で希釈し、複数のリキュールで香り付けした“まがい物ウイスキー”を宣伝の力で売りさばいて成長してきた国産某社は、今でも大嫌いだ。
 ちなみに今はハイボールがブームで、ウイスキーと言うとシングルモルトであろうが長期熟成したブレンデッドであろうが、構わずハイボールにしてしまう人が多いが、筆者はハイボールは嫌いだ。
 ついでに言えば、酎ハイとやらも、まるで飲む気になれない。

 こういう人間だから、飲み会に行くととても辛いのだ。
 まず最初の乾杯で出てくるビールは、副原料入りか発泡酒が当たり前で、続いて出される日本酒もアル添の怪しげなもので、ウイスキーを頼めばサントリー製品のハイボールだ。
 酎ハイも嫌いだし、いいちこ二階堂雲海なども真の本格焼酎とは認めてないから、本当に飲むものが無いのだ。

 気も酒の好みも合った少人数で、シングルモルトやギネスヱビスや純米の地酒などをゆっくり飲みつつ、静かに語り合うのなら楽しいんだけれどねえ。
 ただ酔っぱらうために安酒をガブガブ飲み、酔って乱れてバカ騒ぎをするのは、筆者の性にどうしても合わないのだ。
 酔って羽目を外して騒ぎたい人たちの好みや存在を否定するつもりは無いが、良い酒を静かにじっくり飲みたい筆者のような人間にとっては、今の日本の飲み会に付き合わされるのは本当に辛いのだ。

 と言っても、皆が飲んで盛り上がっている場で、「本物のビールとは何か?」とかの、酒に関する蘊蓄を滔々と語り出すほど筆者はKYでは無い。
 ただ副原料入りのビールやアル添の日本酒やハイボールや酎ハイなどは飲みたくないので、最初の一杯だけは我慢して口をつけ、後は「体質的に酒が飲めないもので」と断ってそれ以上飲まずに、片隅で静かに微笑んで皆の話を聞くように心掛けている。
 それでも皆と同じように酒を飲まないからとなじられたり、絡まれたりする事が少なくない。おかけで筆者は、義理で参加する飲み会がますます嫌いになるばかりだ。

 確かに自分でも、筆者は酒に過度にこだわり過ぎだと思う。
 ビールは麦芽とホップだけを使ったものしか認めていないし。
 日本酒も純米しか飲まないし。
 焼酎も常圧蒸留にこだわっているし、できれば甕貯蔵もしてほしいし。
 
もちろん一番好きなウイスキーにも、種類や産地や飲み方にいろいろこだわりがあるし。
 面倒な奴だと、自分でもわかってマス。
 だから皆と外に飲みに行くのは出来れば避けて、家で自分の好きな酒を、自分の適量だけ、自分のペースで飲むようにしているよ。
 変な安酒をたくさん飲んで飲まされ、酔って乱れてバカ騒ぎをし、挙げ句の果てに翌日は二日酔いに苦しむだけでなく、己がしでかした醜態を恥じて後悔するの……って、本当に愚かな事だと思う

 筆者が何故こんな偏屈な酒飲みになってしまったかと言うと、体質もあるがそれより育ちと環境の影響が大きかったと思っている。
 以前にも書いたが、筆者の父は酔って乱れる種類の酒飲みだった。
 平たく言えば、アルコール依存症ってやつだ。
 アルコール分さえあればどんな安酒でもこだわらずに、速いペースでグイグイと飲み、酔えばすぐに周囲の誰彼構わず絡み出す。そしてその後もさらに飲み、怒鳴り、暴れ、モノを壊して時には人に暴力も振るい、酔い潰れるまで飲み続けた。

 そんなアルコール依存症の家族がいて、幼い頃から酒による暴力と暴言に怯えながら育った筆者は、酒と酔っぱらいを心から嫌悪するようになった。
 実際、今でも酔って乱れて人に絡むタチの悪い酔っぱらいを見ると、殴ってやりたいくらいの衝動に駆られる。テレビの『警察24時』などで、警官に酔って絡んでいる酔っぱらいを見るだけでも、胸が悪くなってくるくらいだ。

 泥酔して怒鳴って暴れるアルコール依存症だった家族のせいで、酒と酔っぱらいに対してトラウマをしっかり植え付けられてしまった筆者だ。
 筆者が体質的にアルコールに弱いのは事実だが、それを理由にして、酒席で上司や先輩にどれだけ酒を飲むよう強要されても頑として拒み、無理な量は決して飲もうとしなかったのは、そのトラウマのせいがあると思う。

 たとえ相手が上司や先輩でも、そしてその場の空気を壊しても、筆者は適量を超える無理な飲酒は絶対に拒否する。
 おかげで「酒に弱い者などいない、酒は飲んで吐いて強くなるものだ」と固く信じている体育会系の上司にひどく憎まれ、その後長いこと職場でイジメられ続けた事もあった。
 そこまでひどくなくとも、勧められた酒を飲めなかった事で人から悪く思われ、非難される事は数々あった。
 それで「酒飲み=クズ」という思いが、筆者の心の中でさらに強まる……という悪循環だった。

 そんな筆者だが、生まれて初めてアルコールを口にしたのはかなり早く、小学校の四年生くらいの頃だった。
 筆者の父は依存症の酒飲みだから、酒があればすぐに飲んでしまうのが常だった。
 しかしその父が、棚の奥にしまって少しずつ、大切に飲んでいた酒があった。
 酒と言えば酔い潰れるまでガブガブ……という父の姿をいつも見ていただけに、その酒に対する興味が子供心にも俄然湧いてきたわけだ。
 で、学校から帰って父も母もまだ仕事から帰って来ていなかったある日、その棚の奥の四角い瓶の洋酒を、ほんのちょっぴり嘗めてみたのだ。

 飛び上がるほど強烈な刺激だった。
 しかし口の中に広がる何とも言えない素晴らしい香気に、心の底から「すごい!」と思った。
 これは子供にはとても飲めるものではないと悟ると同時に、何と素晴らしいものだろうという思いも深く残った。

 その洋酒とは、ジョニーウォーカーの黒である。
 ジョニ黒は今でこそ2千円ちょっとで買えるが、当時は「国産品を保護する」という名目の関税の関係で1万円近くしたのだ。
 だからさすがの父も、親戚から貰ったそのジョニ黒を大切に飲んでいたというわけだ。

 で、酒乱の者に対する嫌悪の情と、ジョニ黒の素晴らしい香りの記憶を抱きながら大学生になった筆者だが。
 大学に入れば、今でも未成年者の一年生や二年生もコンパで酒を飲む事があるだろう。そして筆者が大学生になった頃には、「飲酒が許されるのは法律では20歳からだが、高校を卒業して大学生や社会人になったら酒を飲むのは当たり前」という空気で、世間もそれを許容していた。

 それで筆者がまず飲んでみたのが四角い瓶のウイスキーだが、コレがまた記憶と違って酷く不味かった。あの素晴らしい香りなどどこにも無く、ただキツいアルコールの刺激があるだけだった。
 サントリーの角瓶の事だよ。
 同じ四角い瓶でありながら、サントリーの角瓶はジョニ黒とはまるで別物のマズさだった。何しろ当時の角瓶は、ラベルにも“Liqueur Whisky”と書いてあるようなまがい物ウイスキーで、たった22%のモルト原酒を樽熟成ナシの“グレーン・アルコール”なるシロモノで希釈し、さらに複数のリキュールで香り付けしていたのだ。
 これが当時の特級酒(!)だと言うのだから、サントリーの商法には呆れるばかりだ。

 いや、酷かったのはサントリーばかりではない。筆者が大学生になりお酒を飲まされるようになった頃の日本の酒は、ビールも日本酒も焼酎も、皆まがい物だらけだったのだ。
 まずビールは副原料入りのものばかりで、普通に手に入る国産ビールで麦芽とホップだけで造った本物のビールは、サッポロのヱビスくらいしか無かった。
 日本酒も大メーカーのアル添で糖類や酸味料も加えたまがい物ばかりで、純米酒など殆ど存在しなかった。
 本格焼酎も、九州以外でも広く売られていたのは薩摩白波かいいちこくらいで、薩摩白波はともかく当時のいいちこは、減圧蒸留した上にイオン交換樹脂で濾過していただけでなく、アルコールのキツさを誤魔化す為に無視できない量の白砂糖も加えられていた
 だから飲み屋で普通に出される国産の酒は、何を飲もうがまず不味かったのだ。

 だから筆者は、成人した後も酒を飲む事はまず無かった。
 まず当時の日本の酒そのものがただ酔う為の粗悪品だった事に加えて、酔って乱れる者に対する嫌悪感が筆者の心に深く根を張っていて、好んで酒を飲もうなどとはまるで思えなかった。
 だから飲み会も好きでなく、断れるものなら欠席していたし、義理で仕方なく出た時にも口をつけるのは最初の一杯か二杯くらいだった。

 そんな自分が二十代の終わり頃、青森県を旅した時に出会った一本の酒が筆者を変えた。
 旅の途中で立ち寄った青森市のあるデパートで、箱にとても派手なねぶたの絵が描かれた日本酒が目に留まって。
 地元青森県の上北郡百石町(現在はおいらせ町)の桃川酒造の酒で、その名も箱絵の通りの“ねぶた純米酒”だった。
 日本酒なんてベチャッとして不味いもの、と思っていたけれど、四合瓶で千円ちょっとだったし、とにかく箱絵とラベルがいかにも青森らしくて格好良かったから、「青森土産に、まあ良いか」と思って買ってみたのだ。
 で、家に帰ってその“ねぶた”を飲んでみたら、すっごく旨くて驚いた。
 スッキリしていて軽やかで、それでいて自然な旨味もあり、何より香りがフルーティーで下手なワインよりずっと良いくらいだった。

 以来、地酒の旨さに目覚めてしまって、どこかに旅に出る度にその土地の地酒を買い集めるようになってしまったのだ。
 もちろん、地酒すべてが旨いわけでは無かった。
 でも無名でも純米酒や純米大吟醸酒などの高品質酒造りに力を入れている酒蔵の日本酒は、それまで筆者が飲んできた大メーカーの酒とはまるで別物というくらいに旨かった。

 まだ“Liqueur Whisky”だった頃のサントリーの角瓶を飲んで、ウイスキーにすっかり幻滅してしまった筆者だったが。
 ある年、職場の課長が自宅で開いた新年会で、筆者は再びウイスキーに目覚めてしまった。
 酒も飲み会も好きではなかったが、その課長は尊敬できる立派な人だったので新年会に参加した筆者だったが、勧められたウイスキーを恐る恐る飲んでみて驚いた。
 メチャ旨ッ!
 香り高く甘やかで、かつ深い味わいでまろやかで。
 シーバス・リーガルだった。
 話を聞いてみると、その課長は酒が苦手な筆者の為に、わざわざシーバス・リーガルをチョイスして出してくれたのだそうだ。
 で、以来熱心なウイスキー党になってしまって、スコッチをメインにいろいろなウイスキーを飲み漁るようになってしまった。

 飲んでみれば副原料なる怪しげなモノを使わず麦芽とホップだけで造られたビールは、ヱビスもギネスも、ドイツやベルギーのビールもみな旨い。
 本格焼酎も、常圧蒸留で風味を生かし、さらに甕貯蔵したものは確かに旨い。

 日本酒もウイスキーもビールも本格焼酎も、手間を惜しまず伝統的な製法で丁寧に造られたものはみな旨い。
 でも一般に出回っている大手メーカーの酒は、コストカットの為に妙なもの(アルコールとか糖類とか酸味料とかリキュールとか副原料とか)を混ぜたりしているものだから、日本の多くの人がまだ酒本来の味と旨さを知らずにいるんだよね。
 筆者も以前はその一人で、おかげで「酒は不味いもの」と誤解し続けていた。
 だから筆者には、日本の大手メーカーを中心とした、ただ酔う為の「安かろう、悪かろう」の酒造りに深い恨みを抱いている。
 本当の味を知らぬまま酒を不味いものと思い続けていた年月について、「どうしてくれる!?」と怒りたい気持ちだよ。

 もちろん、世の中には酔う為だけに酒を飲んでいる人たちも少なくないし、「安く酔えればそれで構わない」という人達を否定するつもりも無い。
 ただこれまでの日本には、その種のただ安く酔えるだけの不味い酒が多すぎたと思う。それで以前の筆者のように「酒は不味いもの」と決めつけて、酒を殆ど飲まない若者たちが増えていると聞く。
 今では「酒も立派な文化の一つだ」と思うに至っている筆者としては、その現実がとても残念だ。

 酒に関する環境で言えば、今の若い人達は、筆者の若かった時代よりも遙かに恵まれている。
 だって筆者が社会に出た頃には、アルハラなんて言葉すら無かったからね。
 だから飲み会は全員が強制参加で、上司や先輩の酒は必ず飲むものでイッキ飲みの強制もあり、みな乱れるまで飲んで、女性に対してはセクハラもアリで。
 そして飲み会での暴言や暴力は、みな「酒の上での事だから」で許されて。
 と言うか、飲んで乱れて暴れたりする方が男らしいとされ、酒を飲まない男は「男のくせに、だらしない」と蔑まれる風潮すらあったのだ。
 で、そうした飲み会が嫌いで酒を飲まずにいると、仲間外れにされてイジメに遭ったりしたんだよ。
 それで仕方なく飲み会に出て、無理をして嫌々飲む酒は、例の大手メーカーがコストと利益優先で作った、ただ酔えるだけのまがい物の安酒でね。

 でも今は、飲み会はまだあるものの、飲酒の強制は昔ほど酷くないし。
 そしてお酒だってスーパーや酒屋にある酒の大半は大手メーカーの「安かろう、不味かろう」のアレだけど、ちょっと注意して探せば真面目に造られた良い酒が昔よりずっと多く売られている。
 だからお酒を飲まない今の若い人達には、「お酒はキライ」と頭から決めつけたりしないで、良い酒をちょっとだけ飲んでみてほしいと思うよ。

 こんなブログを書いていると、よく「オマエはカネがあって高い酒をたくさん飲んでいるんだろう」と思われがちだけれど、とんでもないデスよ。
 何しろまだ独身で、親が建てた築三十数年のボロ家に住み続け、乗っている車は中古の軽自動車で、生まれてこの方、飛行機にはまだ一度も乗った事が無い有り様だ。
 カネなんて無いよ。
 ただ筆者の場合、体質でお酒を本当に少ししか飲めないので。
 それに例の酔って乱れる人に対するトラウマレベルの強い嫌悪感があるから、飲もうとしても心理的にブレーキがかかってしまうんだよね。
 だからいつもほろ酔い程度に、良い酒を本当に少ししか飲まないのだ。
 実際、筆者がお酒にかけているお金は、酔う為に安酒をガブガブ飲んでいる人よりも少ないくらいだろうと思う。

 他人に一切迷惑をかけないなら、ただ酔う為にたくさん飲む人がいても非難するつもりは無いけれど。
 そして酒を全く飲まない若者が増えているのも、アルコール中毒の害を考えれば良いことなのかも知れないけれど。
 でも「良い酒をほろ酔い程度にちょっとだけ飲むって、すごく楽しいし心地良いものだよ」って、父親がアル中で酔っぱらいにトラウマに近い嫌悪感を持って育ち、職場でもアルハラを受けて苦しんだ過去がある筆者だけれど、今はそう思うに至っているのでありマス。

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想像力が人を救う(オタクですが、何か?)

 もし何にでもなれるとしたら、貴方は人間以外の何かになりたいと思うだろうか。

 毎日新聞では、毎週精神科医の香山リカ先生のコラムを連載しているが。
 その6月30日のコラムによると、大学のゼミで香山先生が「何にでもなれるとしたら何かよいか」と問うと、必ず何人かは「猫」「鳥」「魚」と答えるそうである。
 それ以外の動物や植物の名も、よくあがるのだとか。
 で、その理由はいずれも「自由になりたいから」だという。

 ……驚いた。
 筆者の人生経験では、今まで生きてきたうちで最も自由で楽しかったのは、間違いなく大学生時代だったのだが。
 香山先生もまた、そのコラムで「私から見ると大学生活など自由そのもの」と書いていた。

 だが当の大学生たちによれば、そうではないのだと言う。
 授業に課題その他で目の回る忙しさで、サークルやバイトでは先輩に叱られて緊張の連続、そして友人との付き合いにも何かと気を使うのだとか。
 そして不況のせいか、最近では遠くからでも実家から通う学生が多く、通学にも長い時間がかかっているらしい。
 それで疲れ切って、「猫になってのんびり寝転んでいたい」とか「鳥や魚になって空や海でゆったりしたい」と思うのだそうだ。

 で、そうした学生たちに香山先生が「本を読んだり文章を書いたりできないよ」とか、「天敵に食われちゃうかも知れないよ」と聞いてみると、彼らは決まってこう答えるのだそうである。
「それでもいいです」
「仕方ないので気にしません」

 筆者は心底驚いたが、香山先生は自分の診察室で、こう話す高校生と出会ったという。
人生の楽しい事はだいたいすべて経験しちゃったと思います。あとはつまらない事だけ

 このように疲れ切っている現代の学生たちに、香山先生は「私も時々、中学生くらいに戻れたらいいな、などと空想する事もある」と同情しつつ、「自分の人生を自分で決めて切り開けるのが人間だよ。もっと人間であることを楽しもうよ」と励ます。
 しんどい毎日の中にも「自分がやりたかった仕事で成果を出せた」とか、「人生の岐路に立ち自分なりの答えを見つけた」とか、手応えを感じる瞬間もある……と。

 言いたい事はわかるが、筆者は香山先生の“励まし”には素直に賛同できない。
 現実を見てもらいたい。
「自分の人生を自分で決めて切り開ける」人間など、この世にどれだけいるだろうか
「自分がやりたかった仕事」に就けた人間が、この世にどれだけいるだろうか
 香山先生は自分のやりたかった仕事に就け、そして成果も出せた“人生の勝者”だからそのような事が言えるのだと、筆者は思う。
 自分のやりたい仕事に就いて成果もあげる事が出来ている、香山先生のような方もこの世に確かに居るだろうと思う。しかし現実には希望していたのとは違う仕事に就き、生きる為に夢を諦め苦労して働いている人が過半数を占めているのではないかと筆者は考えるが、どうであろうか。

 自分で決め、自分で切り開いた人生を生きていると確かに言える人が、実際にどれだけいるだろうか。
 筆者にも夢とやりたい仕事があり、それを現実のものとすべく死にものぐるいで頑張って生きてきた。しかし筆者の才能が足りないせいで、やりたい事とは無縁の事をしてようやく生きている。
 ただ良い縁に巡り合えなかっただけでなく、経済的にも結婚や子育てなどとても考えられず、今もまだ独身のままでいる。
 介護の関係もあって親が建てた家に住んでいる為、住居は一戸建てだが築三十数年のボロ家で、外壁はヒビだらけだし、床などあちこち軋むがリフォームの金も無い。
 乗っている車は、中古で買った軽自動車だ。
 海外旅行に行った事が無いどころか、生まれてこの方、飛行機に乗った事すら無い。
 こんな筆者は、香山先生の“人間である楽しみ”の定義を何一つ満たしていない。
 ただそれでも人間で良かったと思うし、人間以外の何かになりたいと思った事は無い。
 筆者は猫が好きで、「死んだら猫の国に行きたい」と思っているくらいだ。しかしそれでも、猫になりたいと思った事は無い。

 猫と一緒に暮らしているとよくわかるが、猫にもちゃんと感情がある。彼らにも喜びや悲しみの気持ちが間違いなくあって、人間と心を通わす事もできる。
 そしてそれは、犬や猿なども同じであろう。
 ただ人間にだけあって、猫や犬には無いものが一つある。
 それはズバリ、想像力だ。
 そしてそれが、人の生きる楽しみと力になっているのではないかと筆者は考えている。

 仕事で何か成果をあげるどころか、筆者はやりたい仕事にすら就けずにいる。
 同年代の友人たちの殆どは結婚して子供もいるというのに、筆者はまだ独り者でカネも無く、ボロ家に住み古い軽自動車に乗っている。
 将来の事を考えると、本当に不安でいっぱいだ。
 それでも自分を不幸だとは思っていないし、他の何かに生まれたいとも思っていない。
 筆者が自分を人間で良かったと思えるのは、自分に想像力があるからだ。
 本を読む。マンガを読む。映画を見る。ゲームをやる。それだけでも現実の人生にあるいろいろな厭な事を(仮に一時的にでも)忘れられるし、生きていて充分に楽しいと思える。
 筆者は頭の中の空想の世界でいくらでも遊べてしまうこの自分の想像力に、これまでどれだけ助けられて来たかわからない。

 香山先生のように、自分のやりたい仕事に就け、そしてその世界で成果もあげている“成功者”は限られている。
 しかし想像力は現実世界の勝ち負けに関係なく、人間にのみ、誰にでも公平に与えられている。この無料で頭の中に無限に広がる想像の世界を活用しないなど、勿体ない話ではないか。

 確かに本やマンガを読んだり、映画を見たりゲームをプレイするにはお金が必要だ。
 しかし新刊にこだわりさえしなければ、本やマンガは古本屋でかなり安く買える。ブックオフでは一冊108円の本がたくさんあるし、筆者の近所の古本屋では時々セールで5冊百円で売っている。
 映画もTUTAYA等で旧作を借りてくれば、劇場で見るのとは比較にならないほど安く見られる。
 ゲームも課金が必要なネトゲはせず、何万円もする新しいハードや何千円もする新作も買わずに、プレステ2などで中古のソフトをやり続けていれば、安い値段でかなり長時間楽しめる。
 新しいものにこだわらない。
 そして安い物の中から掘り出し物を探し出す、手間と暇を惜しまない。
 それさえ心掛ければ、持ち金がかなり少なくてもかなり楽しめるものだ。

 そして小説もマンガも映画もゲームも、ただ読み切ったり、見終わったりクリアしただけでは終わりにしない。
 そこからいろいろ想像してみるのだ、「もし自分が主人公だったら、どうしただろう?」とか、「あの場面で違う行動を取っていたら、こんな未来が開けたのではないか?」とかね。
 そうして読み終えた(見終えた、あるいはプレイし終えた)ストーリーを頭の中で反芻しながら、自分なりにいろいろ想像してみれば、その後もかなり長く楽しめる。

 香山先生の言うように、自分の人生を自分で決めて切り開き、仕事で成果を出す事に人として生きている喜びを見出すのではなく、自分の想像の世界に生きている楽しみを求めるのは、はっきり言って“敗者の逃避”かも知れない。
 だが頑張りさえすれば誰もが香山先生のように、人生の勝者になり、現実の世界で目に見える成果をあげてそれに喜びを感じられるわけではないのだ。
 と言うより、むしろ頑張っても報われずに足掻いて苦しんでいる人の方が多いのが現実ではないだろうか。
 そしてそうした頑張りが成果に結びついていない者たちには、自分の想像の世界で遊ぶ事がかなりの救いになるのだ。
 少なくとも筆者は、多くの小説やマンガや映画やゲームと、それらが与えてくれた架空の世界に大いに救われてきた。そしてその世界を脳内に取り込み、反芻して遊ぶことの出来る自分の想像力(妄想力?)にも。
 だから筆者は大の猫好きだが、本もマンガも読めず、映画も見られずゲームも出来ない猫になりたいとは思わない。

 猫だけでなく、鳥や魚などになりたいと思うには、筆者は少しばかり想像力と余計な知識があり過ぎるようだ。
 例えば猫など、幸せな生涯を過ごせるかどうかは、本当に飼い主次第だからねえ。
 身勝手な飼い方をした挙げ句に、飽きたら邪魔にして、保健所送りにしたり捨てたりしてしまうような人間もいるし。
 そして猫を虐待して殺す人も後を絶たないし、現実には愛され安心してのんびり寝て暮らせる猫ばかりじゃないんだよね。

 と言うと、「人間だって親を選べないし、虐待もイジメもあるし、殺人事件の被害者になる事だってあるじゃないか」と反論されそうだけどね。
 ただ人間の場合、いわゆる“毒親”に育てられようが、学校でイジメに遭おうが、大人になれば社会に出て自力で生きて行く事が出来る。
 けどそれに比べて猫は、良い飼い主に巡り会えなければ野良か虐待か保健所で殺処分だからね。

 今の猫は、大切に飼われている家猫なら平均15年くらい生きるのだそうだ。
 けど野良猫の平均寿命は、だいたい4年くらいなんだって。
 4年と15年だよ!
 その差を考えれば、野良で生きることが猫にとっていかに過酷か、想像がつくのではないかな。とても「自由で良い」などと言えるものではないよ。

 鳥や魚もさ、自由だなんてとても言えるものじゃないよ。
 空も海も天敵だらけで、鳥も魚も食われぬよういつも緊張して生きているのが現実なんだよね。天敵の食う方だって、獲物をとれなければ自分が飢えて死んでしまうわけでさ。
 で、鳥も魚も厳しい食物連鎖の中で、食って食われて生きていて、とても「空や海でゆったりしている」わけじゃないんだよね。

 だから猫や鳥や魚などではなく、人間でいるのが一番マシなのではないかと筆者は思う。
 まあ、ISの支配地などの内戦が続いている国や、南アジアやアフリカなどの極貧国や北朝鮮などに生まれてしまえば、そうとも言い切れないかも知れないけどね。
 ただ少なくとも日本や欧米などの先進国では、猫や鳥や魚などより人間でいるのが良いと思う。

 それにしても、香山先生に「天敵に食われちゃうかも知れないよ」と問われても「それでもいいです、仕方ないので気にしません」って、その大学生たちは生きる希望が無さ過ぎと言うだけでなく、想像力も無さ過ぎだよ。
 だって、本当に食われちゃうんだよ?
 それもキチンとトドメを刺してから食ってくれるならともかく、生きたままバリバリ食っちゃう場合も少なくないしね。あと、魚など丸飲みにして胃液で溶かしちゃうのも少なくないし。
 そういう食われ方をリアルに想像したら、「天敵に食われても仕方ない」なんて、とても言えないと思うけどな。

 でも、今の大学生ってそんなに忙しいのかな?
 だって、講義や課題だけで目が回るくらい忙しいなら、サークルやバイトは辞めちゃえばいいだけじゃん。
 ま、学費や生活費の為にバイトは辞められない場合もあるだろうけど、それならサークルだけでも辞めるべきでしょ。バイトも、長い夏休みや春休みに集中してやるようにする、とかね。
 サークルやバイトでは先輩に叱られて緊張の連続、そして友人との付き合いにも何かと気を使う……って、そんなこと言ってるようじゃ「就職して上司や同僚たちとどう付き合って行くんだよ?」って心配になって来るね。

 大学時代、筆者にはつきたい職業があって、その為にすごく頑張ってた。バイトもいっぱいしたし、充実していたけれど暇なんて本当に無かったね。
 だから夢を実現する為の時間とお金を作る為に、不必要と思えるものは切り捨ててもきたよ。
 友達付き合いはちゃんとしたし、友達が悩んでいる時にはできるだけの手助けもした。
 ただ仲間内での飲み会とか麻雀とかについては、筆者には時間とお金の無駄としか思えなかった。そんなカネと暇があるなら、自分の夢の実現の為に使いたかったんだ。
 で、飲み会と麻雀の誘いを断っているうち、筆者の仲間内での評判はかなーり悪くなってマシタ。ただ自分勝手というだけでなく、「皆の価値観を否定して、皆をバカにしてる」ってさ。
 真面目な相談事にはきちんと付き合っても、飲み会と麻雀に付き合わないとコレだよ。だから筆者は、時々心の中で「人間ってバカばかりだな」って思ってしまうのだ。

 それでも自分の大学時代は充実していたと、今でも言える。夢を実現する為に本当に頑張ったし、その為に多くの“友人”を失ったのは仕方のない事と割り切ってる。
 と言うか、自分のやりたい事の為に頑張っていてもまだ友達でいてくれた一握りの友人たちこそ真の友で、酒や麻雀とかでいつも群れてないと友情を保てないような“友達”など、居なくても良い不要な存在だと今ならわかるし。

 だから今の大学生たちが、講義と課題をこなし、サークルもバイトもして、先輩にも友達にも気を使って「目が回るほど忙しくて疲れ切ってる」って、「当たり前だよ、バカ野郎」って感じだよ。
 自分にとって最も大切なものは何かをしっかり見定め、優先順位をつけて下位のものは切り捨てなきゃダメなんだよ。
 自分にとって一番大切なのは、大学での勉強なのか、サークル活動なのか、それとも友人関係なのか。そのあたりを自分なりに見極めて、優先順位をつけ大切とは思えないものは手を抜く(ダメでも気にしない)だけで、時間にも気持ちにもゆとりが出来てかなり楽になるんだけどね。

 社会に出てからもそれは同じで、全部を上手くこなそうとするのではなく、優先順位をつけて大事なものにまず取り組み、その為には他の何かを捨てて諦める覚悟も必要だと思う。
 一日は24時間で一年は365日、そして個人の力は限られているのだから、「仕事も趣味も家事も、何もかも完璧に」ってのは最初から無理なんだよね。超優秀な、数少ないエリート様でもない限りは。
 だから大切なものだけ出来れば良しとして、それ以外のモノは捨てる覚悟が必要だし、それができると生きるのがかなり楽になるよ。

 でも、香山先生が診た高校生に、本気で「人生の楽しい事はだいたいすべて経験しちゃったと思います。あとはつまらない事だけ」と言い切れる子がいるとはね。
 そして香山先生もまた、「時々、中学生くらいに戻れたらいいな、などと空想する事もある」とそのコラムに書いていたけれど。
 そーかなー、中高校生の頃って、そんなに楽しかったかなー、むしろ厭な事の方が多かったのでは……と筆者などは思ってしまった。
 筆者は数学と英語は大嫌いだったし、不器用だったから音楽や技術家庭も苦手だったし、生まれつき病弱だった身には体育の授業も辛かった。
 逆に得意な社会科と国語は自分の勉強の方が進んでしまっていたので、授業が暇で仕方なかった。
 それに授業がどうこう言う前に、生まれつき猫的な性質で集団行動が苦手な筆者には、学校生活そのものが苦痛だった。
 一斉に同じ授業を受け、同じ行事をこなす学校生活よりも、むしろ任された仕事に一人で取り組む社会人になってからの生活の方が楽だったくらいだよ。

 だからもし魔法使いか何かに、「もう一度、中学生か高校生に戻してやろうか?」と言われたとしたら、筆者なら断固断るね。
 今の大人としての知識と経験をそのままに、中学生(または高校生)からやり直させてくれる……というのなら、少しは心を動かされないでもないけれど。
 ただ中高校生の頃の筆者自身の事を考えると、人格見識共に未熟で本当に恥ずかしい事ばかりして来たので、「あの時代の自分になど戻りたくなんかない」と胸を張って(?)言えるね。

 学生時代には、よく「社会人になったら働きづめで辛いだけ」みたいに思いがちだけど。
 でも社会人が辛いかどうかなんて、実際になってみないとわからないって。
 そりゃあブラック企業に勤めてしまえば辛くてたまらないけれど、職場の空気が良くて上司や同僚に善い人が多いと、学生時代よりずっと楽しいし。

 筆者の経験で言えば、職場は仕事の内容より“人”だね。
 仕事が望んでいた職種と違っていても、職場の人が良ければ楽しく働ける。
 でもいくら望んでいた職種でも、上司や同僚に厭な人が多いと本当に苦痛だし、場合によっては心を病んでしまう場合もある。
 そしてその職場の人達が良いかどうかなんて、本当に運でしかないからねえ。「自分の人生を自分で決めて切り開け」なんて言われても、職場に厭な人間が、それも上司に複数いたりすると、本当に人生が詰まったような感じになっちゃう。

 でも、ま、たいていの職場には異動や転勤があるから、それをじっと待つしかないのだけれどね。
 厭な奴は学校生活でも悩みの種だけれど、それでもクラス替えもあるし、卒業してしまえば完全に縁を切る事も出来る。
 人は、自分の人生を自分で決めて切り開いて、やりたかった仕事で成果を出せるような有能で強い人ばかりじゃないからね。
 むしろ辛い仕事(授業)や、厭な上司や同僚(教師や同級生)に耐えながら日々を過ごしている人の方が多いのではないかと思う。
 そしてそうした日々に耐える力を与えてくれるのが、一時の逃避に過ぎないのかも知れないけれど想像力ではないかと思う。

 小説やマンガや映画やゲームは、多量の飲酒や賭事や風俗などと違って、誰にも迷惑をかけることなく、脳内に無限に広がる空想の世界で遊び、日々の辛さを忘れることができる。
 猫や鳥や魚などに生まれ変わるより、飲む・打つ・買うに溺れるより、人間にしかない想像力を生かして日々を楽しむ方がより楽しいのではないかと思うが、どうだろうか。

 無論、脳内の想像の世界で遊ぶより、現実世界の仕事や勉強で成果をあげる事を考える方が前向きで立派なのだろうけど。
 でもそうして自分のやりたい仕事に就いて成果もあげられ、自分の人生を自分で決めて切り開いて行ける人なんて、実際にはごく一部の人でしかないよね。
 で、現実世界で勝者になれない大半の人の心を救えるのが、想像力なのではないかと筆者は考えるわけデス。

 小説や映画はともかく、マンガやゲームと言うとオタクとバカにされがちだよね。
 けど筆者はマンガやゲームも立派な文化で良い作品は沢山あると思うし、少なくともお酒や賭事や風俗に溺れて憂さを晴らすよりずっと良いと思う。
 本だけでなくマンガも読むしゲームも好きだし、ミリタリー系の知識もかなりあったりして、筆者も「オタク」と呼ばれる一人デス。
 でも他人にどう見られようと、「オタクですが、それが何か?」と完全に居直って、脳内に広がる想像の世界で遊ぶ事を楽しんで生きているのでありマス。

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白? ピンク?

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 白ともピンクとも言い難い、変わった色のチューリップが咲きました。
 チューリップはいつもいろんな色の球根が混ざった最も安いやつを買って来ているので、どんなのが咲くのか、花が開いてみるまでわからないのです。
 たいていは普通の赤や黄色のものが多いですが、たまにこんな花も咲くから面白いです。

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この色が好きなのです

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 黒沢の一番好きな色はブルーです。
 けどこの柔らかなピンクも、同じくらいたまらなく好きです。

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アヤメが上手く撮れません

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 アヤメはその色に目を惹かれてついカメラを向けてしまうのですが、思うように綺麗に撮れずに落胆する事が多いです。
 複雑な花の形をうまく絵に出来ずに、なかなかうまく撮れません。
 まだまだ黒沢の技量が未熟なのでしょうね。

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