空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

晴れて猛暑なのと、雨で過ごしやすいのと

PS-A530 080204-141

 最近、ずっと「ピンクが好き」と言い続けてきましたが。
 けど私が最も好きな色は青で、ピンクは二番目なのです。

 だから今年のように暑い夏は、本当に困ってしまいます。
 曇りや雨の日が続いて青空が見られないと、鬱陶しい気分になって来るし。
 かと言って、晴れると暑すぎて辛いし。
 青空が見えるけど猛暑なのと、天気は悪いけど暑さは控えめで過ごしやすいのと。
 どちらの夏の方が良いのか、なかなか難しいところです。

 若いうちはね、猛暑でも晴れた方が良いでしょう。
 海だ、山だ、出逢いだ、恋だと、夏には楽しい事がいっぱいですからね。
 でも年を撮って来ると、夏は「ただ暑いだけ」の辛い季節になるんですよ~。
 

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嫌いなサントリーの“白角水割”を飲んでみた

 この夏のお盆に、他県にある祖父母の墓参りに車で行ってきた。
 で、途中のトイレ休憩に国道沿いのさるコンビニに立ち寄ったのだが、「ただトイレを借りるだけでなく、取り敢えず何か買わねば」と店内の商品を見て回るうち、酒のコーナーに置いてある“白角水割”にふと目に留まった。

白角水割P1080624

 このブログで、サントリーと角瓶の悪口を、散々に書き散らして書いてきた筆者であるが。
 もちろん、角瓶を飲みもせずにただ叩いているわけではない。筆者はスタンダードの角瓶だけでなく、角ハイボール缶角ハイボール缶〈濃いめ〉も自分で買って飲んでみた上で批判しているのだ。
 ただ、白角角瓶〈黒43°〉は、まだ飲んでいない。
 スタンダードの角瓶の味にさえ辟易しているのに、さらにまた白と黒も買ってみる気には、とてもなれなくて。
 角瓶はウイスキーとしてはお手頃価格のうちだが、それでも一本千円以上する。
 で、白角と角瓶〈黒43°〉の両方を買ったら、税込みで軽く二千円を超える。
 ジョニ黒シーバス・リーガル12年だって買えてしまうお金を出して、角瓶の仲間などを買ってガッカリしたくないではないか。何しろ角瓶が筆者にとっては感心できない味である事は、実際に買って飲んでみて既にわかっているからね。
 それで「飲まず嫌いは良くない」と思いつつ、白角と角瓶〈黒43°〉はまだ飲んでみずにいた。

 そんな折に目に飛び込んで来たのが、例の白角水割である。
 250mlの缶入りで、値段も二百円もしない。
 うん、これなら試し飲みに丁度良いし、飲んで残念な味でも悔いは無い。
 そう思って、その県の地酒の小瓶やちょっとした菓子などと併せて、サントリーの白角水割も買ってみた。

 で、墓参りも終えて帰宅してから、その白角水割を早速開けてみた。
 ……意外だった。
 香りが、意外に悪くないのである。
 サントリーの角瓶と言えば、味はアルコールの刺激は強いが、香りは甘く華やかだ。
 しかし白角水割のそれはスタンダードの角瓶とはかなり違って、缶のプルトップを開けた途端に青リンゴか梨のような、爽やかでフルーティーな香りが鼻孔をくすぐった。
 白角水割のアルコール度数は9度で、ウイスキーをストレートかトワイスアップでしか飲まない筆者にとっては、ひどく薄めである。
 それでもはっきり感じられるフルーティーで爽やかな香りは、サントリーも角瓶も嫌いな筆者にすら「なかなか悪くない」と思わせた。

 ただ残念なのは、白角水割の味の方である。
 同じアルコール度数9度の角ハイボール缶〈濃いめ〉も、筆者にとってはかなり薄めの味に感じられたが。しかしそれでも、ウイスキーらしい味わいはちゃんと感じられた。
 しかし白角水割の方は、まるで麦焼酎の水割りでも飲んでいるような感じで、ウイスキーらしい味わいが殆ど感じられなかった。
 そして白角は淡麗辛口を謳っているが、辛口と言うよりも僅かに苦味を感じた。

 日本酒やビール類などでも、よく“淡麗辛口”を売り文句にするものがあるが、安い酒で淡麗辛口を名乗る酒は要注意である。
 日本酒なら“醸造用アルコール”なる廃糖蜜から作ったアルコールを大量に混ぜ、薄味でアルコールのピリッとした感じが舌に残る粗悪な安酒を“淡麗辛口”と称して売っているものがある。
 ビール類でも、麦芽の使用量を減らして副原料を多めにした、麦本来の旨味が薄いのものを、淡麗辛口と称して売っている商品がある。
 そしてウイスキーでも、モルト原酒を減らして若いグレーンやスピリッツ(ブレンド用アルコールとも言う)を混ぜれば、薄味でアルコールの刺激が舌にピリッと残る、淡麗辛口なるウイスキーが出来上がるのである。
 だからお手頃価格で淡麗辛口を称する酒類には、本当に気をつけなければならない。

 角ハイボール缶や白角水割では、炭酸や水などで薄く割っているから感じないが。
 オリジナルの40度の角瓶は、濃いめで飲めば間違いなくアルコールのピリッと来る刺激を感じる。
 だから筆者は、角瓶はモルト原酒はそれなりに良いものを使っているものの、グレーンがかなり若いと睨んでいる。
 そしておそらく白角も、9度の水割りの缶でなく、40度のものを濃いめで飲めば、おそらく同様に舌にピリッとアルコールの刺激を感じるだろう。
 で、例の白角水割でウイスキーの風味や甘味を殆ど感じられなかったあたりから推察するに、40度の本来のものもかなりライトな味わいで、そこに若いグレーンのピリッと来るアルコールの刺激が加われば、白角が標榜しているところの“淡麗辛口”になるのであろう。

 しかし筆者は、白角をただの粗悪な安ウイスキーと言うつもりは無い。
 筆者はウイスキーを料理と合わせて飲むのではなく、食後に濃いのをじっくり堪能したいタイプだ。だから白角のように薄めの味のウイスキーはどうにも好きになれない。
 甘くスモーキーで力強い味わいのウイスキーが、筆者の好みなのだ。
 だが白角の青リンゴや梨のような爽やかな香りについては、素直に評価したい。
 筆者の私見だが、白角は白州のモルトをキーモルトに使った、普通の角瓶以上に日本人の味覚を意識したライト系のウイスキーだと思われる。

 筆者と違って、世の中にはライトな味わいのウイスキーが好きな人も、ウイスキーを炭酸や水で薄く割って料理を食べながら飲む人がいることも、よくわかっている。
 そういう意味で、ライトな味で料理の味を損なうことなく飲める上に、爽やかな果物の香りもある白角は、「水や炭酸で割って、料理と一緒に飲みたい」という人には、スタンダードの角瓶より合っているのではないかと思われる。

 食後に濃いめをチビチビ飲みたい筆者の嗜好には合わないウイスキーだが、それでも白角の香りには新鮮な魅力を感じた。
 スモーキーで力強いタイプのウイスキーとは対極にある製品だが、こうした爽やかな香りのウイスキーも「あって良し」と思う。
 ただ「この250mlで缶入りの白角水割だけでなく、40度で700mlの白角も買って飲んでみるか?」と言われると、筆者としては二の足を踏んでしまうが。
 香りは良いが味わいが物足りなすぎて、「同じ金を出すのなら、ジョニ赤ホワイトホースベルティーチャーズグランツ・ファミリー・リザーブなどを買いマス」というのが正直な気持ちだ。
 だがそれでも筆者の嫌いなサントリーの角瓶シリーズの白角が、香りは案外悪くないと知れただけでも、一つの収穫だったと思う。

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先の大戦中の日本で「お国の為に」何万もの犬や猫が殺された事実を知っていますか

 先の第二次世界大戦についていろいろ学べば学ぶほど、「日本とは、世界の常識からかけ離れた何と異質な国なのだろう」と思わされる。
 その最たるものが、武士道精神を我田引水の上曲解した命の軽視と死の美化だ。

 例えば大戦初期の日本軍の“名機”ゼロ戦だが、あのゼロ戦の驚異的な空中格闘戦での機動性は、パイロットや燃料タンクを敵弾から守る防弾板を無くして軽量化した結果得られたものであった。
 そしてその事がアメリカ軍にも知られてしまった後は、ゼロ戦はアメリカ軍の戦闘機に容易に撃墜されてしまうようになった。
 また、日本軍の爆撃機に一式陸攻という飛行機があったが、この機も航続距離を伸ばすために(爆弾をたくさん搭載する爆撃機でありながら)防弾板を無くして燃料等をたくさん積んでいた。
 そのためこの一式陸攻は少し敵弾を受けただけですぐに火を吹いて撃墜され、そのためアメリカ軍のパイロットからは、「一発で火がつく」という意を込めて“ワンショット・ライター”と呼ばれていた。

 日本軍の戦車もまたひどく時代遅れの設計で、装甲だけでなく火力も弱かった。主力戦車である九七式中戦車“チハ”の主砲は、アメリカ軍の軽戦車の装甲すら撃ち抜けず、逆にアメリカ軍の軽戦車にその装甲を撃ち抜かれる有様だった。
 だから日本軍の戦車は連合軍の戦車に全く歯が立たず、ブリキの棺桶とまで呼ばれていた。
 で、欧州の戦線ではドイツ軍の戦車に全く歯が立たずにお払い箱になった米英軍の旧型戦車が、太平洋の戦線に回されて日本軍を相手に主力戦車として戦い続けたのである。

 ただ欧州の戦線では圧倒的な強さを誇ったドイツ軍の戦車だが、強さと性能に凝り過ぎたせいでその絶対数が少なかった。連合軍の圧倒的な数の戦車に悩まされていたのは、ドイツ軍も日本軍と同じだったのである。
 で、ドイツ軍は敵の戦車に歩兵だけで対抗する為に、ただ勇気だけでなく頭も使った
 ドイツ軍はまず、地雷に磁石を付ける事を考えた。たったこれだけの工夫で、兵士は自分の命を犠牲にする事なく、敵戦車の車体に簡単に地雷を取り付ける事が出来るようになったのである。
 さらにライフル銃くらいの大きさと重さで一人で持ち運べ、女性や少年でも簡単に操作できる使い捨ての対戦車ロケット砲“パンツァー・ファウスト”を開発して大量に生産した。
 それで自らの命を落とす事なく敵戦車を何両も撃破した兵士が、ドイツ軍の中に大勢出たという。

 しかるに我が日本軍はどうか。
 個人用の簡易式の対戦車ロケット砲どころか、爆薬に磁石を取り付けただけの吸着地雷すら作らず、兵士に自ら爆弾を抱えて戦車のキャタピラに飛び込み爆死する事を命じたのである。
 当時の日本には、地雷にただ磁石を付ける知恵すら無かったのか。
 それとも「兵士の命より磁石の方がモッタイナイ」と思っていたのか。
 そのどちらにしても、あの戦争を指揮した日本軍の上層部は愚かとしか言いようが無い。

 当時は日本国内でも、各学校に配属された将校らが、その学校の生徒である少年たちに、敵戦車に竹槍wwwで突撃する訓練を行なった。
 その軍事教練を受けたある少年が、教官に「竹槍で、本当に戦車を止められるのでしょうか?」と当然の質問をしたところ、彼はその教官に「バカモノ! お前らのはらわたが敵戦車の履帯(キャタピラ)に絡みつき、大和魂が敵戦車を止めるのだ!!」と怒鳴られて叱られたそうである。
 大和魂の籠もったはらわたが、キャタピラに絡みついて敵戦車を止める。だから敵戦車に飛び込んで死ね。
 当時の日本軍を指揮する者はこういう感性でいたのだから、本当に呆れ果てる。

 第二次世界大戦で、ドイツ軍は捕らえたロシア兵を残虐に扱ったが、ロシア兵もまた捕らえたドイツ兵を残虐に扱った。
 ロシアのある戦線で、ドイツ軍の武装親衛隊(武装SS)の兵士らがロシア軍の捕虜になった。
 そのロシア軍の兵士らは、捕らえたドイツ兵の捕虜の手を針金で縛り上げて道路脇に立たせ、走るロシア軍の戦車の前に捕虜のドイツ兵たちを突き飛ばし、戦車に轢き潰させて殺したそうだ。
 そのドイツ兵たちを轢き殺したロシア軍の戦車は止まる事なく走り去ったが、それは「ドイツ軍の親衛隊員には大和魂が無かったから」なのだろうな、例の日本軍の教官に言わせれば。

 特攻と言うと、飛行機で軍艦に体当たりする神風特攻ばかりが注目されるが。
 あちこちの戦線で行われた、上官の命令で敵戦車に爆弾を抱えて(背負って)体当たりさせられた兵士たちもまた、意に添わぬ“特攻”を命じられた者たちのうちに入れるべきであろう。
 待ち構える敵の機銃の前に、喊声を上げて銃剣で突進して行く“バンザイ突撃”もまた、特攻と実質は何ら変わるまい。

 兵士の武器や装備品を作るのにはお金がかかるが、新しい兵士なら召集令状の切手代だけで集められる。だから日本軍では、「兵士は最も安い兵器」とも言われていた
 ゆえに戦場で死ぬことを、日本軍の指揮官らは平気で部下たちに強要した。
 こうした命を軽視する日本軍の体質を非難するどころか、むしろ特攻で「お国の為に」死ぬことを美化するような風潮が今もなお国内に根強く残っている事を、いや、安倍政権と右傾化する世の中で逆に強まっていっている事を、筆者は深く憂慮する

 何しろ安倍政権の大臣サマである稲田朋美氏などは、「国の為に命を投げ出す覚悟があるのが真のエリート」だの、「靖国神社は不戦の誓いをする場所ではなく、ひとたび事あらば後に続きますと誓う場所」だとの公言しているが、それが何の問題にもならないような時代になっているのだ。
 靖国神社で「ひとたび事あらば後に続きます」って、「戦死する」って言ってるわけだよね。国を守る戦いに出て、生きて帰って来るわけではなくて。
 筆者は少なくとも20世紀のうちは自民党を支持し続けてきた保守思想の持ち主だが、安倍政権下で日本が間違いなく保守化しているのを感じる。

 日本軍の特攻は、あのナチスのヒトラーは称えた。しかし部下の将軍たちは、武装SSの将軍も含めて皆が特攻を否定し反対した。
死ねと命じるような事をしたら、兵の志気が下がる」と。
 特攻を命じた日本の将軍や、特攻による死に美を感じる日本人と。
 特攻を否定しそれに反対したナチスの将軍たちや、戦って死ぬのではなく生き抜く事を選んだドイツ人と。
 果たしてどちらの感性の方が“まとも”であろうか。

 筆者は「何が何でも戦争には反対」という、憲法第九条の信奉者ではない。
 もし我が国が敵国の軍隊に侵略されたら、進んで自衛隊に志願こそしないまでも、敵軍が郷土に迫って来たら銃を取って戦うくらいの気持ちは持っている。
 しかし、だ。
 特攻やバンザイ突撃の類は絶対にしたくないし、そう命令されても拒否する。
 もし侵略を受けたら戦って侵略者を撃ち破り、そして生きて帰って来たいのだ。戦闘の際に戦死する可能性は間違いなくあるだろうが、それでも最初から死ぬつもりも、そして靖国神社に祀られるつもりも無いのだ。
 そう考える筆者は、稲田氏の考えによれば“エリート”の資格は無いのであろうな。
 そして日本人の中には、今も特攻を肯定して英雄視し、戦争で死ぬ事を美化する者が(戦争を知らぬ戦後生まれの者の中にも)少なくない。

 少なからぬ日本人が、特攻や死ぬ為の無謀な攻撃で命を落とした兵士を英雄視して美化する反面、イスラム原理主義者の自爆テロについては「理解できない、キチガイじみている」と言う。
 しかし日本人という立場を離れて世界人類の普遍的な観点から見れば、日本軍の特攻もイスラム原理主義者の自爆テロと何ら変わらぬ行為なのだ。
 学徒出陣して戦没した若者らの手記や日記や書簡を収めた『きけわだつみのこえ』や、実際に過酷な戦場で戦った元兵士の戦記なども読んだ上で、叩かれるのも承知であえてそう言う。
 そう考える筆者は、WAC出版の『歴史通』や『WiLL』などの愛読者や安倍政権の閣僚から見れば、間違いなく「自虐史観の非国民で売国で反日」なのだろうな。

 何しろ同胞である日本人に「お国の為だ」と爆弾を抱えて死にに行かせ、そしてそうした死に美を感じるような国民だから。
 戦時には人の命すら軽んずるのだから、動物に対してはもっと非情になる。
 皆さんはご存知だろうか。
 戦時には馬や牛などを戦争の為に供出させただけでなく、ペットの犬や猫まで供出させたのだ。
 供出って、殺すんだよ。「軍用の皮革や、コートの毛皮にする」って名目でね。

 何しろ元々資源の乏しい、他国と仲良くして貿易をしなければ生きて行けない我が国が、中国への侵略戦争に踏み出したわけだから。
 その結果、世界各国から経済制裁を受けて、太平洋戦争を始める前から日本は物資不足に陥っていた。
 で、東京大学出版会の『帝国議会衆議院委員会議録昭和編114』によると、真珠湾攻撃に至る前年の1940年の段階で、不足する食糧や皮革の対策として、軍用犬以外の犬猫の撲殺が提案されている
 撲殺、だぞ。
 それまでそれぞれの家庭で可愛がられてきた犬や猫たちを、「お国の為に」撲殺しようというのだ。
 これが滋賀4区の有権者たちが当選させた、自民党の武藤貴也衆院議員が「現行の憲法の国民主権と平和主義と基本的人権の尊重のせいで無くなってしまった、滅私奉公の美しい精神」があったという、戦前の日本の実態なのである。

 その武藤議員は更に「戦争に行きたくない若者は利己主義」と言い、しかし己は議員枠の未公開株があるなどと知人に持ちかけた事が公になり、世間から「利己主義なのはどっちだ?」と非難されて自民党を離党した。
 しかしそれでもまだ国会議員の座にしがみつこうとしている武藤氏の姿に、部下には死にに行くような無茶なインパール作戦を強要し、そのくせ己は戦線のかなり後方で芸者遊びなどをしていた牟田口廉也中将や、何百人もの部下には特攻を命じながら己は安全な後方に逃げた富永恭次中将などの、かつての日本軍の愚将たちの姿を連想するのは、筆者だけであろうか。

 ここからは、この8月12日の毎日新聞の『銃後のくらし③犬猫供出』の記事を引用するが。
 82歳になる大阪府八尾市の高島誠代さんには、生まれた時から猫のタマが側にいて、良い遊び相手になっていた。
 そして高島さんが成長するにつれてタマは年老い、おばあさん猫になっていつも暖かなかまどの側で寝ているようになったが、それでも高島さんが呼べば「ニャー」と答えた。
 ところが太平洋戦争は始まったもののまだ勝ち戦だった1942年の夏に、当時高島さんが住んでいた岡山県讃甘村(現美作市)の役場から、猫を供出するよう指示された。「氷点下40度にもなるアッツ島を守る兵隊さんのコートの裏毛になる。お国の役に立つめでたいことだ」と。
 高島さんはタマが殺されるなど嫌で可哀想で、何とか隠せないかと母親に懇願した。しかし母親に「お国のお達し。逆らうと憲兵が来る」と言われ、高島さんが近所の神社に隠れて泣いている間に、父親がタマを役場に持って行ってしまった。
 そして高島さんは、戦後70年も経った今もタマのことを思い出し、やりきれない気持ちになるという。

 戦争が長引くにつれ、ペットは「無駄飯食い」と言われるようになったそうだ。
 そして1944年12月17日付の毎日新聞にも『犬すべて供出と献納 皮革は重要な軍用資源に』という見出しで、軍需省が翌年3月まで供出運動の全国展開を決めたと伝えている。
 実際、北海道庁広報には、各自治体や警察署などに向け、飼い犬だけでなく猫の毛皮の供出の割り当てが記載されている。
 そして動物の供出に詳しい児童文学作家で『犬やねこが消えた』(学習研究者)の著者の井上こみちさんによると、「北海道は1944年度に犬皮1万5千枚、猫皮を4万5千枚集めた記録がある」という。

 1944年の北海道だけで、約1万5千頭の犬と4万5千頭の猫が殺されたのだぞ。
 戦争全期間で、日本全国でどれだけの犬と猫が「お国の為に」殺されたのか、想像するだけでゾッとするし、激しい怒りを覚えるのは筆者だけだろうか。

 国策を誤り多くの人を特攻などで死なせただけでなく、何の罪も無い犬や猫まで殺す「お国」などクソくらえ、何が“美しい国”だ、フザケルナ、と筆者は思う。
 こんな筆者を「日本を貶める反日で売国の徒」と呼びたければ呼ぶがいい。どう呼ばれようが、「十死零生」の特攻を美化し、さらには犬猫まで殺すような“愛国者たち”の仲間にだけは、死んでもなりたくないね。

 当時の軍需省は、犬の皮革の用途として航空帽や飛行服や防寒用具などを挙げている。そして事実福岡県嘉麻市の碓井平和記念館には、後ろ身ごろの裾内側の一部に犬の毛皮が使われた兵隊用防寒コートが現存している。
 しかし猫の毛皮を利用したものは、毎日新聞の取材では見つからなかったという。

 犬の皮革は実際に軍用に使われたようだが、それを使った兵士たちは「犬もお国の為に役に立ってくれた」と喜んだだろうか。
 そして犬たちも、「お国の役に立てた」と喜んで殺されただろうか。

 想像してもらいたい。
 ずっと人間の側で可愛がられて暮らし、おばあさん猫になって暖かなかまどの側で寝て晩年を送っていたのが、いきなり家族から引き離されて。
 そして使われた証拠もない毛皮を取るという名目で、「お国の為に」と撲殺される猫の姿を。
 そこまでして戦争を続ける「お国」など、本当にクソだと筆者は思う。

 実際、「お国の為に」と供出させられた犬も、一部は皮革として使われたものの、どうもそうでもない部分もあるようだ。
 栃木県のある男性は、近所の山中で大量の犬の死体を見たと証言している。

 動物と人間の関係史を研究する早稲田大学文学学術院の真辺将之准教授(日本近現代史)は、毎日新聞の取材に「飼い犬や猫の供出は実質的な必要性よりも、人間でさえ生活に困る中で国民の鬱憤のはけ口や、国への貢献度の誇示、忠誠心の引き締めに用いられたのではないか」と語っている。

 物資が不足し食糧も乏しくなる中で、ペットは「無駄飯食い」という声が上がったと言うが、そもそも当時の日本が物資が不足し食糧も乏しくなったのは、日本が戦争を始めたからではないか。
 と言うと、WAC出版の『歴史通』に寄稿するような戦前大好きの右翼たちは、必ず欧米のブロック経済やABCD包囲陣を理由に挙げる。そして安倍首相も、この8月14日に出した戦後70年談話でもそのような事を匂わせている。
 しかしだ、欧米がABCD包囲陣や経済制裁で日本を追い込んだのは、日本が中国に攻め込み侵略したからだ。
 ABCD包囲陣や欧米の経済制裁より日本の侵略の方が先なのは、明らかな事実だ。
 そうした原因を無視して、責任を欧米の経済制裁に転嫁し、あの戦争を「やむを得ない自衛の戦争だった」と主張する人間は己の非を素直に認める勇気の無い卑怯者だと申し上げる。
 国際的な非難を無視して中国での戦線を拡大し、さらには真珠湾攻撃に打って出る前に、外交交渉で一定の国益は守りつつ譲るべきところは譲れば、あの戦争は避けられた筈なのだ。

 だから筆者は「先の戦争で命を落とした日本人の尊い犠牲の上に、今の日本の繁栄が築かれた」いう論調に、非常に抵抗がある。
 あの戦争は日本国全体が避けようと努力すれば避けられた筈だし、兵士や民間人も含めて三百万以上もの日本人が命を落としたのは、当時の日本の指導者が愚かで進むべき道を誤り、そして国民もその指導者や当時のマスコミに導かれるまま戦時色に染まってしまったからだ。
 先の戦争で命を落とした人たちがいるからこそ今の繁栄があるのではなく、当時の我が国の指導者たちが賢明であれば、あの三百万の日本人は死なずに済んだのだ。少なくとも筆者は、そう理解している。

 話を戻そう。
 我が大日本帝国は欧米との交渉の道を選ばすに戦争を進め、そして物資が不足し国民は食べる物にも困るようになった。
 だから「ペットは無駄飯食いだ」って?
 とんでもないよ、当時は食料は配給制で、農家は別として、大部分の国民に与えられる食料は平等だったのだ。
 そして農家も食料があり余っていたわけではなく、作物の多くは供出を命じられ、米に芋や豆などを混ぜてようやく食いつないでいた。筆者の母方の祖父母が農家の出だったから、その当時の苦しい生活の話は直に聞いて知っている。

 で、その配給制に犬や猫の分がある筈も無く、飼い主は自分たちの乏しい食料の中からペットの餌を与えていたのだ。だから「無駄飯食い」だなどと非難される筋合いは無いし、増してや「お国の為に殺せ」などと、とんでもない話である。
 しかし右翼の人達が大好きな愛する“お国”は、その犬や猫まで殺させたのだ。飢えた(ペットを飼っていない)国民の鬱憤を晴らし、さらには国への貢献を誇示させ、忠誠心を引き締める為に

 と言うと、「国だって勝つ為に必死だったのだ、お国の為に命を投げ出した兵隊さんの事を考えれば、犬猫の命など些細なものだ」と反論されるだろう。
 しかしだ、そもそも戦争は人間が勝手に始めた事だろうが。
 たとえそれが侵略戦争であれ、敵国の侵略から祖国を守る正義の戦争であれ、動物には何の関係も無い事だ。
 安倍政権になってから、妙に愛国心の大事さが強調され、教科書にも愛国的な内容が盛り込まれる事になった。
 しかし動物には、国も何も関係ないのである。
 お国のために戦争をしたければ、人間同士が勝手に殺し合えば良いのだ。

 何の罪もない犬猫を殺して、「兵隊さんのコートの裏毛になる。お国の役に立つめでたいことだ」だって?
「フザケルナ、まずオマエがそのお国の為に先に死ねよ、このクズ野郎!」と言いたいね。その方がずっとめでたいし、世の為になる。


「人間が勝手に始めた戦争に、動物を巻き込むな! 殺し合いをしたければ人間だけでやれ!!」と強く主張したい筆者は、やはり反日で売国なのだろうか。
 日本を貶める自虐的な史観と言われようがどう叩かれようが、「お国の為」に飼い犬や飼い猫まで何万匹どころか、おそらく何十万匹も撲殺してまで戦争をしたかつての日本の指導者どもは「クズ野郎だ」と筆者は断言する

 そして安倍首相はその刑死したA級戦犯たちを「昭和殉難者」と称え、「彼らの礎の上に今の日本の繁栄が築かれた」とも言っている。
 そんな安倍首相を以前は過半数の日本人が支持し、今は不支持の割合の方が高くなってきたとは言え、それでも三割を越える日本人が彼を支持している。
 筆者が戦後の日本の総理で最も嫌いなのは安倍首相だが、安倍首相自身よりも彼を支持し続ける日本人がこれほど多い現実の方が、筆者はもっと恐ろしいし、嘆かわしい事だと思っている。

 日本人は空気に流されやすく、右から左へ、そしてまた右へと一気に変わり、そしてその事を「みんなそうだから」と恥じない民族だ。
 だから戦前は「兵隊さんバンザイ!」で「鬼畜米英」で、兵士はイスラム原理主義のテロリスト顔負けの特攻や自爆攻撃もするし、国民もペットの犬や猫まで殺してしまう。それが戦争に負ければ子供は「ギブ・ミー・チョコレート!」で、大人はみんな左翼になってしまう。
 事実、筆者の幼い頃に出版された大事典には「北朝鮮は工業化の進んだ良い国で、韓国は軍事政権の遅れた国だ」と載せられていたし、当時のいわゆる“知識人”の間ではそれが常識だったのだ。

 この極端から極端へ変わりやすい国民性を、筆者はひどく恐れる。
 事実、今世紀に入り小泉純一郎元首相の時代から自民党は清和会に牛耳られ、その国民の大多数が熱狂的に支持した小泉元首相の手で日本が格差社会へと変わった。そしてその過程で落ちこぼれた層は愛国に自らの自信を、そして韓国人と中国人を叩くことに不満の解消を求めるようになり、少なくとも20世紀の後半にはまともに相手にもされなかった、WAC出版の『歴史通』などに見られるような戦前回帰的な論調がまた幅を利かすようになってきた。

 日本人はすぐ空気を読んで、極端から極端に変わるから。
 戦争を始めれば捕虜も残虐に殺すだけでなく、自らも特攻をして死に、ペットの犬や猫さえ「お国の為に」と殺させる。
 そんな時代が再び来る事を、筆者はとても恐れている。
 先の戦争の際に「兵隊さんのコートの裏毛になる。お国の役に立つめでたいことだ」と、多くの犬や猫まで飼い主から取り上げて撲殺した歴史を、我々日本人は決して忘れてはならないと思う。
 一旦戦争を始めればそこまでやるのだよ、日本人という民族は

 ただ犬や猫の供出については、軍需省は全国的に押し進めようとしたものの、それを“真面目”にきちんと実行したかどうかは、その自治体によってかなり温度差があったようだ。
 前にも書いたように、例えば北海道では1944年だけで、犬皮1万5千枚、猫皮を4万5千枚も集めた記録がある。
 しかし筆者の母方の祖父母が住んでいたある県の農村ではそのような命令は全く無く、祖父母の家では戦争中もずっと猫を堂々と飼い続けていたそうだ。
 筆者はそんな母方の祖父母の村を誇りに思いつつ、戦時中の「犬猫供出」の話を終えようと思う。

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例のトレーナーのその後

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 例の、男の私が「大学時代に学校に着て行って周囲の人にドン引きされた」というどピンクのトレーナーですが、実はロシニョールのちょっとお高い良い品だったんですよ。
 でも流石に周囲の人の“痛い人”を見るような視線には耐えられず、そのトレーナーは親しい女性に譲ってしまいました。
 ハイ、その女性には喜ばれました。

 断っておきますが、私は体だけでなく心も間違いなく男で、混じりけの無い異性愛者です。
 けど何故かピンクが好きなのです。

 

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こんな感じの色でした

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 一昨日、「大学生の頃に、どピンクのトレーナーを着て登校して皆に呆れられた」という話を書きましたが、そう、その時に着て行ったトレーナーって、ちょうどこんな色でした。
 男がこんな色の服を着て歩いたら、周囲の人達はさすがに引いてしまいますよねぇ……。

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猫の母と子

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 例の茶猫さんとその子供です。
 子猫の前にうずくまって、子猫を守るような位置に居ます。
 でも威嚇もして来ないし、表情を見る限り我が家の人間を敵とはみなしていないようです。

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あの頃は無茶でした

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 私はいい年をした男ですが、ピンク色が好きです。
 それで若くてまだ無茶が平気でできた大学生の頃、どピンクのトレーナーを着て大学に通った事もありまして、その時にはさすがに友人たち皆に呆れられてしまいました。
 ……今では流石に着ませんよ、ピンク色の服は。
 その代り、ピンクの花を愛でています。

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横着をしました

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 コンデジで撮っているので、背景のボケが汚くてスミマセン。
 コンデジって、小さくて軽くて撮りやすいのでつい使ってしまいますが、こうした背景のボケ方の汚さを見ると、「横着せずに、デジイチで撮らなきゃな」と反省させられます。
 ただコンデジはピントの合う範囲が広いので、接写しても花全部にピントが合うという利点もあります。
 ……などと言い訳をして、またデジイチでなくコンデジで花を撮ってしまうのだろうな、きっと。

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仕事帰りや風呂上りに最適な新ジャンル酒

 筆者は酒にこだわりすぎるイヤな人間で、ビールも「麦芽とホップだけで造ったものしか飲みたくない」とこのブログでも書いてきた。
 しかし実は例外もあって、一応リキュールという事になっている新ジャンル酒は「案外、悪くない」と思うし、自分でも時折飲んでもいる。

 ビール類に関しては、筆者は以前からずっと日本のビールは不味いものと思ってきた。
 何故なら以前の日本のビールは、コーンやスターチなどの、いわゆる“副原料”を使用した、ビールの本場ドイツの基準で言えばビールとは呼べないものばかりだったからだ。
 一気にゴクゴク飲む人はそれを「飲みやすい」と言うようだが、筆者に言わせればコクも麦の風味や甘味も感じ等垂れない、ただ変に苦いだけの酒でしかなかった。
 その嫌いな日本のビールの代表が、規定のギリギリまで麦芽を減らし副原料を増やして作ったアサヒのスーパードライだ。
 だからスーパードライより更に麦芽の使用量を減らした発泡酒など、飲みたくでもなかった。

 そしてサッポロのヱビスや、ギネスやドイツやベルギーなどの麦芽とホップだけで造ったビールを飲んでみて、ビールをようやく心から「美味い!」と思えるようになった。
 麦芽とホップだけの純粋なビールと、副原料を加えたものの双方を飲み比べてみて。
 筆者にはビール類に副原料を使う意味が、本当に理解できない。ホップの苦さを残して麦芽の旨味を減らした副原料入りのビールは、どうしても不味いものとしか思えなかったのだ。

 だからビール類の格としては発泡酒より更に下の新ジャンル酒など、飲む気になどまるでなれないでいた。
 しかし昨年の夏、その新ジャンル酒を知人から貰ってしまって。
 確かに筆者は、こだわりが変に強くて偏屈な人間だ。
 それでも好意で「あげよう」というものを、「嫌いだから要りません」と断るほど筆者もKYではないので、作り笑顔で「ありがとう」とお礼を言って受け取った。
 受け取りはしたものの飲む気にはなれず、けれど下水に流してしまうのも勿体ないと思って、試しに一本飲んでみたのだ。
 暑い日の風呂上がりに、麦茶の代わりにゴクゴクとね。

麦とホップP1080609

 ……驚いた。
 すごく美味いとまでは言わないまでも、結構イケるのだ、この麦芽とホップと大麦にスピリッツを加えた新ジャンル酒が。
 飲んだまず最初の印象は、薄い、という事だった。
 麦芽とホップだけで造った本物のビールと比べると、味もコクも本当に軽いと言うか薄い。
 しかし妙に飲みやすいのだ。
 味もコクも薄めだが、同時にビールの苦味も薄くなっていて、嫌みが無く非常に飲みやすい。
 言ってみれば、ビールを低アルコールのスピリッツで割ったという感じだ。
 そのせいか、発泡酒や副原料入りの(ドイツのビール純粋令から言えば)偽ビールのような「旨味が少なく苦味はある」といった嫌みが無く、抵抗なくグイグイ飲める。

 本物のビールに比べれば、この新ジャンル酒はコクや旨味は間違いなく薄い。
 しかし麦やホップの風味は間違いなく感じられるし、値段から考えれば充分に満足の行く「ビールに近いもの」になっていると思う。
 酒税も取られてこの値段でこのスッキリ風味の酒を作り出すのに、メーカーもさぞいろいろ研究を重ねて苦労しただろうと思った。

 無論、この新ジャンル酒は味や香りでは、麦芽とホップだけで造られた本物のビールにはとても及ばない。
 しかし本物のビールは、値段もこの新ジャンル酒の倍近くかそれ以上だからねえ。
 そしてコクがあり旨味も香りも強い分だけ、本物のビールは仕事帰りや風呂上がりにゴクゴク飲んで喉を潤すには、いささか重すぎるのだ。
 その点、この新ジャンル酒は味わいが軽くスッキリとして、しかもお値段もかなりお手頃だから、仕事帰りや風呂上がりの「まず一杯!」に本当に向いていると思う。

 この新ジャンル酒を、続けて何本も飲みたいとは思わないが。
 しかしこの夏のような暑い時にまず一本この新ジャンル酒をグッと飲んで、その後で本物のビールなり冷酒なりウイスキーなりの好きなお酒をゆっくり飲んだら良いのではないかと思った。

 麦芽とホップだけで造った本物のビールは、風味はいろいろだがメーカーを問わずどれもたいてい美味いと思う。
 けれど副原料入りの偽ビールや発泡酒は、旨味やコクが少ないのに苦味と嫌みを感じて、どうしても好きになれない。
 しかしその更に下の新ジャンル酒は、何故かスッキリしている上にビールの風味も感じて、「意外に悪くない」と思う。

 この新ジャンル酒だが、350ml入りのものが近所のスーパーでは国産各メーカーのものが揃って120円だった。
 チェーン店の酒屋などでは、24缶入りの箱でまとめて買えば一本百円前後くらいに下がる。
 缶ジュース並かそれ以下の値段で、仕事帰りや風呂上がりの喉を気持ち良く潤わす事が出来るのだから、この新ジャンル酒は「良い商品だ」と言わざるを得ない。
 うるさい事を一つだけ言えば、注意深く飲むとスピリッツのアルコールの刺激を僅かに感じるが、価格を考えれば文句も言えまい。
 筆者が今回飲んでみたサッポロの“麦とホップ”だが、リッチゴールド麦芽とゴールデンアロマホップを一部使用して、スピリッツも大麦のを使用しているせいか、本当にビールらしい風味と香りがあり、嫌みを感じず気持ち良く飲めた。

 今の若い人たちには、「苦味が好きになれなくて」とビールを飲まない人達が増えているらしいが。
 筆者も日本の副原料入りのビールや発泡酒は嫌いだったから、気持ちはわからないでもない。
 しかし今の新ジャンル酒は、コクも薄めになっているけれど苦味も弱くなっていて、それでいてビールの風味は感じるので、一度試しに風呂上がりなどに飲んでみてほしいと思う。

 それにしても、日本はビール類の酒税が高過ぎると思うよ。あのビールの値段の半分近くが、実は酒税なのだから呆れてしまう。
 で、メーカーが工夫をして発泡酒を作ると、今度は発泡酒の税率も上げるし。
 それに対抗してメーカーは更に新ジャンル酒を作ったわけだけれど、この新ジャンル酒の売り上げがさらに伸びたら、国は今度は新ジャンル酒の税率も上げるのではないかと、筆者は恐れている。

 筆者はウイスキー党で、真夏の暑い日でもビールよりウイスキーを飲んでいるが。
 しかし仕事帰りや風呂上がりに、缶ジュースかそれ以下の値段で気持ち良く喉を潤せるこの新ジャンル酒の税率を上げようとする者がいるとすれば、それは間違いなく庶民の敵であろうと筆者は断言する。

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思っていた以上に「まとも」だった戦後70年の安倍談話

 国内外から注目されてきた、安倍首相の戦後70年談話がこの8月14日に発表された。
 そしてそれに対する評価も、国内外で二分されている。

 筆者は思想的には保守だが吉田茂元首相の系統を引く自民党の穏健派を支持してきて、同じ自民党でも岸信介元首相の系統の清和会に属する政治家は大嫌いである。
 ついでに言えば、日本会議や神社本庁も大嫌いである。
 従って小泉純一郎政権からの自民党は、どうしても支持する気になれずにいる。
 当然、今の安倍首相も大嫌いで、一日も早い退陣を願っている。だからこのブログでも、安倍政権については散々批判し続けてきた。

 が、14日に発表された安倍首相の戦後70年談話に関しては、概ね正しい事を言っていると肯定的に評価したいと思う。
 日本が進むべき進路を誤り侵略行為をし、アジア諸国にも苦難の道を歩ませた事を、談話の中できちんと述べている。
 安倍首相の本当の政治信条や歴史認識からすれば、本当によく我慢して欧米やアジア諸国に配慮して歩み寄った談話だろうと思う。

 ただ、安倍首相の支持層は保守層でも戦前の日本が大好きで、先の太平洋戦争についても「あれは自衛の戦争で、悪いのはブロック経済で日本を困らせた連合国側なのだ」と正当化したい歴史修正主義者たちだから。
 そして安倍首相自身の心情も、おそらくそれに近いだろうと思われる。
 だから全体的に正しい歴史を語りつつも、何となく言い訳がましい、「日本にだって仕方のない事情があったんだよ」と言いたげな論調になっている。

 例えば日本の引き起こした戦争についても「進むべき進路を誤り」と認めつつも、その日本が孤立感を深めて戦争へと走った理由として欧米のブロック経済を挙げ、談話の後の方でも「経済のブロック化が紛争の芽を育てた」と繰り返したりしていて、ただ素直に「日本が悪かった、ゴメンナサイ」と謝っているようには見えない事は否定できまい。

 また、戦後50年の村山談話と戦後60年の小泉談話では、「歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明する」と、日本の首相が自ら反省とおわびの言葉を口にしているが、安倍首相の談話はまるで違う。
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」と、過去の話を持ち出して、首相自ら謝ろうとはしていないのだ。

 ちょっと想像してみてほしい。
 貴方が何かの事故や犯罪の被害者になったとして、その加害者が「痛切に反省して心からおわびする」ではなく、「これまで何度も反省しておわびしてきただろう」と言ったとしたら。
 それで心から反省して詫びていると、貴方は思えるだろうか。
 この加害者側としての安倍首相の言い方を見ても、「ああ、安倍首相は本当は謝りたくないんだな」とよく理解できる

 そういう意味で、筆者は安倍談話のこの部分が非常に気になった。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を越えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 この感覚、筆者も心情的には理解できないでもないのだ。
 筆者も完全にあの戦争とは何の関わりもない世代だが、韓国や中国の若者たちにかつての日本の戦争と植民地支配を激しい口調で責められると、正直に言ってムッとする。
 かつての戦争や植民地支配の時代を生き抜いてきた中国や韓国のお年寄りに日本に対する恨み言を言われるなら、謙虚な気持ちで聞く事ができる。
 しかし相手が日本の支配を体験した筈もない若者だと、ついこう言ってやりたくなってしまう。
「オレがアンタ個人に、いったい何をしたよ?」

 ただね、我々日本の若い世代だって、「ある国に日本人が酷い目に遭わされた」と聞かされれば、その国に対して怒りや憎しみなどの悪い感情を持つだろう。まるで自分や身内が、その被害に遭ったかのように。
 例えば先の大戦で満州で、中立条約を一方的に破って攻めてきたソ連軍に、現地にいた日本人は一般人まで殺され、持ち物を奪われ、そして女の人達は強姦されたという話を聞けば、殆どの日本人はロシア人に怒りを感じるだろう。
 現に終戦前後の満州にいた日本人の悲劇を描くドラマでは、ソ連兵はいつも無慈悲な悪役だ。
 また、満州で捕虜になった日本兵はシベリアに送られ、極寒の中で何年も酷使されて多くの者が飢えと寒さで命を落とした。この話を聞いても、日本人ならロシアに怒りを感ずる筈だ。

 元寇と言うとかなり昔の話だが、元軍の実態はかなり酷いぞ。
 元軍が九州に上陸する前に、元軍に占領された対馬などでは、男はみな殺され、捕らえられた女は手の平に穴を開けられ縄を通され、船端にくくりつけられたという。
 幸いにも台風という“神風”が元軍を撃退してくれたから良いものの、もし元軍がそのまま上陸を果たして日本を占領していたらと想像するだけでゾッとする。
 だからと言って、日本にいる白鵬などのモンゴル人の関取たちに「過去の侵略と蛮行を謝れ!」と言うつもりはないが。
 それでも元寇の歴史を学べば、過去の事ながらモンゴルに対して腹立ちに似た感情を抱いてしまう。

 元寇は七百年以上も昔の事で、モンゴルと日本は今では友好関係にある。しかしだからと言って、元寇を無かった事にして、日本の歴史から削除するわけには行かないのだ。
 同様に、日本が国策を誤ってアジア諸国を侵略した史実を「無かった事」にして、その国や日本の歴史から削除するわけにも行かないのだ。


 例えば朝鮮(韓国)は、いわゆる36年間の日帝支配で、国そのものが一時期とは言え無くなってしまったのだ。
 それだけではない。日本は豊臣秀吉の時代にも、一方的に朝鮮(韓国)を侵略している。

 皆さんは、耳塚というものの存在を知っているだろうか。
 戦国時代には合戦で敵の首を取ったが、秀吉の朝鮮侵略の際にはいちいち首など取っておれず、戦功の証拠として朝鮮人戦死者の耳や鼻を切り取って持ち帰り、秀吉が確認した後に、京都の方広寺に塚を築き埋葬したものだ。
 しかし日本側の陣中日記などによると、我らが日本軍は朝鮮人の兵士も民間人も関係なく殺してその鼻を削ぎ取ったとされている。

 NHKと言えば、会長や経営委員に安倍首相のお仲間が送り込まれ、今や「皆様のNHK」ならぬ「アベ様のNHK」と化しているが。
 事実ニュース報道にしても、政治や国会に関する事柄では、政権に都合の悪い事は民放が報じてもNHKは報じないか、あるいは遅れて小さく伝えるなどして、現政権側に都合の良い大本営発表のようなものになっている。
 そのNHKがこの8月13日に放送した『NHKスペシャル・女たちの太平洋戦争』で、従軍看護婦として戦地へ赴いた日本の女性たちが、日本軍がアジア各地で何をしたかの一端をはっきり語っていた。
 撤退する際に、道案内をさせた現地の人を、目的地に到着して用済みになった途端に射殺した、とか。
 現地の人達が作った稲や芋などの食料を奪って食べてしまった、とか。

 この8月16日発行の毎日新聞でも、フィリピンの戦線から生きて帰った日本兵たちが、現地で略奪をし女性には乱暴(強姦)したと自ら語った事実が書かれている。

 このような事を、された側は「過去の事だから」と忘れられるものだろうか。
 それは無理だ、と筆者は確信する。
 七百年以上も前の元寇についてだって、元軍がした残虐行為を知れば、同じ日本人として腹が立つのだから。
 ましてや70年前の、被害に遭ったお年寄り達がまだ生きている戦争の事を、水に流して忘れられるわけがない。

 成功しなかった侵略の元寇だって、歴史として教えられ、いくらその後モンゴルとの友好が進んでも史実から消す事はできない。
 だから日本が国策を誤り侵略戦争をした事実は未来永劫消す事は出来ないし、我ら日本人もその事を忘れてはいけないのだ。

 ゆえに安倍首相は談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という一文だけは、言うべきではなかったと筆者は考える。
 安倍首相はその一文に続いて、こうも言っている。

 それでもなお、私たち日本人は、世代を越えて、過去の歴史に真正面から向き合わねばなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。


 そうなのだ。
 筆者も安倍首相も含めて戦後に生まれた日本人は、先の大戦や侵略や植民地支配について何も関与していないし、個人的には何の責任もない。
 しかし日本という国が過去に侵略戦争をして植民地支配をし、現地の人々を苦しめたという事実は、消して歴史から消す事は出来ないのだ。
 だから戦後の世代も日本のその負の歴史を忘れず、侵略された国の痛みを思って謙虚にその国の人々と接しなければならないと筆者は考える。

 戦争などまるでした事もない戦後生まれの日本人が、同じ世代の若い中国人や韓国人や他のアジア諸国の人に、いちいち「過去に侵略戦争をしてスミマセン」と謝らねばならないとは思わない。
 ただ終戦前後にロシア兵が満州の日本人にどれだけ酷い事をしたか聞いた時の我々と同じ気持ちを、彼ら日本に支配された過去を持つアジア諸国の人々も持っているという事を決して忘れてはならないと思う。
 そう考えるのは、例の“自虐史観”というやつなのだろうか?

 実際、今の日本には過去の日本の負の歴史を認めたくないあまりに、あの戦争を「自衛の戦争」だの、「白人の植民地支配からアジアを解放する為の正義の戦い」だのと言い張る歴史修正主義者が多くいる。
 その事実は、書店に行けば『歴史通』だの『Will』だの『正論』だのと言った、日本の過去を美化して黒も白と言い張る論調の雑誌が、平積みで目立つ所に置かれてよく売れている事でもわかる。
 そしてその種の歴史修正主義者たちに強く支持されているのが安倍首相だ。

 その事を考えれば、この8月14日の安倍首相の戦後70年談話は、「あの安倍首相にしては」という条件付きで、曲がりなりにも国策の誤りや侵略や植民地支配にも触れ、思った以上に良い談話だったと評価したい。
 安倍首相にしては、欧米諸国に配慮して、言いたくもない心にもない事を談話に盛り込まざるを得ず、さぞ辛かっただろうと思う。
 欧米への謝罪や感謝に比べて、より多くの被害を与えたアジア諸国、特に中国や韓国に対する謝罪と感謝の言葉が少ないあたりを見ても、本当は謝りたくないのだな……という安倍首相の本心が何となく伝わって来る点も面白かった。
 そして支持基盤である歴史修正主義者の保守層への配慮から、侵略や植民地支配や誤った国策などの言葉も一応盛り込みつつも、欧米の植民地支配やブロック経済などにも触れ、「日本だけが一方的に悪いんじゃないんだよ」とそれとなく匂わせたせいで、村山談話に比べていやに長ったらしい、気持ちがストレートに伝わりにくい談話になっているあたりでも、安倍首相とその周辺の苦心の跡が窺えて面白かった。

 過去の負の歴史は決して消す事ができないものだし、心情的にはわかるが「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という一文だけは、あの戦争の加害者側の日本として言うべきではなかったと思う。
 また、西洋の植民地支配やブロック経済についても、加害者側が言うには言い訳じみていて余計だったと思う。
 しかし全体としては(歴史修正主義者たちは残念だっただろうが)歴史の捉え方に誤りはなかったし、思っていた以上に「まとも」であった。安倍首相の本来の政治信条からすれば、かなり譲歩して苦心して発表した談話であろうと、アンチ安倍の保守派の一人として前向きに評価したい。

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