空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

昆虫にはよく目立つのでしょう

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 蕊の部分と、花弁の付け根の色が少し毒々しいくらいに派手ですが。
 けれどそれで、昆虫の目にはおしべとめしべがとても目立って見えて、結果として授粉率が上がるのでしょうね。

 でも私は、化粧の濃い派手な女性はどうも好きになれません。
 少し目立たないくらいの、スッキリしたタイプの女性を好きになる事が多いです。
 と言いつつ、清楚系を装った悪女にうまうまと引っかけられているのが実態なんですけれどね。

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何故か付いた実がうまく育ちません

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 この写真を撮った頃には、この柿の木もとても元気で、実もたくさん付けてくれたのですがね。
 ところがせっかく付いた実が次々に落ちてしまい、この秋には結局五つしか実を収穫できませんでした。

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白い花に想う

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 白い花は派手さが無いというか、やや地味ですが、その清楚な感じが良いと思います。
 女性も同じで、派手で目立つタイプよりも白い花のような可憐な女性に心を惹かれます。

 ところが!
 近年ではビッチな悪女たちが清楚系の風を装って、多くの男たちを手玉に取りその毒牙にかけているようです。

 ……白状シマス。
 私もまた、その種の清楚系を装う悪女に、しかも複数回も痛い目に遭わされた事があります。

「男って、本当にバカ」
 多くの女性たちには、そう思われて呆れられているでしょうね。

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ジムビームシトラスハイボール缶と、ハイボールの人気について考えてみた

 初めに断っておくが、筆者はウイスキーは大好きだが、ハイボールはどうしても好きになれない。
 特にただ炭酸で薄く割っただけでなく、レモンなどの柑橘系の味を付けたものはもっと嫌いだ。
 ついでに言えば、日本では当たり前に飲まれている大量の水と氷を加えた“水割り”も大嫌いである。

 だからサントリーの角ハイボール缶を飲んだ時には、あまりに不味すぎて、特にその薄いウイスキー味に合わさっている酸っぱいレモン風味が気色悪すぎて、たった一缶を飲み切る事も出来ずに、大半をそのまま下水に流してしまった。
 ウイスキーは、普段はストレートかトワイスアップで飲んでいる筆者にとって、レモン風味を付けたハイボールはただ薄すぎるだけでなく、加えられた酸味のせいで「気持ち悪い味」としか言えないのだ。

 しかし世の中の人の好みは色々で、筆者にとっては気持ち悪いものでしかなかったその酸っぱいレモン味を「サッパリして美味しい!」と高評価する人達も少なからず存在するのである。
 だからサントリーは、普通の角ハイボール缶に加えて、レモン風味を更に増やした角ハイボール缶も出した。

 一方、サントリーはそうしたレモン味等を全く加えない、ウイスキーと水と炭酸だけの角ハイボール缶〈濃いめ〉も出した。
 通常の角ハイボール缶のアルコール度数は7%だが、この〈濃いめ〉の方は9%に設定されている。
 通常の角ハイボール缶よりしっかりウイスキーの風味が味わえる筈のこの〈濃いめ〉でも、筆者には「薄すぎる!」と不満だったが。
 それでもこの角ハイボール缶〈濃いめ〉の方は、それなりにウイスキーらしさも感じられて、「美味い」とは思わなかったものの、一缶を最後まで飲み切ることが出来た。

 で、アメリカの大手バーボンメーカーのビーム社を買収したサントリーだが、早速ビーム社のジム・ビームをハイボール缶にして売り出した。
 ジムビームシトラスハイボールと言って、グレープフルーツ味に仕立ててあるそうである。

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 何しろ筆者は、レモンスピリッツとやらを混ぜて酸っぱい味にした角ハイボール缶の気持ちの悪い不味さに辟易させられたトラウマがあるから。
 グレープフルーツ味のバーボンなど、想像しただけで身震いがしてきた筆者であるが。
 飲んでみずに「不味いに違いない!」と決めつけるのも良くないし、それにあのサントリーが、買収した他国の酒文化をどれだけ大切に、或いは粗末に扱うかを自分の鼻と舌で確かめてみねばならないと思い、酒屋に行きジムビームシトラスハイボール缶を買ってみた。

 飲んでみた感想だが、恐れていたよりは悪くなかった。
 缶のプルトップを開けてグラスに注ぐとまず感じるのは柑橘の香りだし、飲んでみてまず感じるのはグレープフルーツの味だ。
 日頃からウイスキーを飲みつけている者に言わせれば、ウイスキーを飲んでいる感じではなく、あくまでも果実味のハイボールを飲んでいる印象だ。
 しかし、そのグレープフルーツの味の後に、ほのかながら、間違いなくジム・ビームの、バーボンの味と香りも追いかけるようにやって来るのである。

 レモン風味を付けた角ハイボール缶は反吐が出るほど不味かったが、ジムビームシトラスハイボール缶は違う。
 添加してある糖類で味を調整しているのか、角ハイボール缶で気になった変な酸っぱさが、このジムビームシトラスハイボール缶には無い。そしてグレープフルーツの僅かな苦みが、ウイスキーの味に合わないこともないのである。

 角ハイボール缶を飲んだ時には、薄いウイスキーに変な酸っぱい味が混ざっているような不快感しか残らなかったが。
 しかしこのジムビームシトラスハイボール缶では、まずグレープフルーツの果汁味の後にバーボンの味が僅かな時差を置いて追いかけて来るような不思議な感覚があった。

 以前にも書いたが、ニッカが10月末までの期間限定で発売したゴールデンパイナップル味のハイボール缶は果汁僅か0.1%wwwで、殆ど香料と糖類と酸味料でその味を出している。
 しかしサントリーのこのジムビームシトラスハイボール缶の方は果汁8%で、糖類と酸味料こそ使っているものの、香料は不使用である。
 そのせいかグレープフルーツの味と香りも自然でしっかり感じ、さらにバーボンの味と香りも僅かにだが、意識すればちゃんと感じられるのだから「巧く作ったな」と感心させられた。

 だからこのジムビームシトラスハイボール缶、バーボンの本場のアメリカ人達はどうあれ、少なくともハイボール好きの日本人の多くは「美味しい!」と思い、好感を持っただろうと思う。
 しかし筆者としては、「美味しい、また買って飲みたい!」とは思えなかった。
 まあ「思っていたよりは悪くなかった」という程度だ。

 だってちゃんとバーボンを味わいたければ、ジム・ビームをハイボールでなくロックやトワイスアップで楽しみたいし。
 そしてグレープフルーツの味を楽しみたければ、ジュースなりチューハイなりを飲みたいし。
 せっかくのジム・ビームを炭酸で薄く割って、更にグレープフルーツの味をつけて飲むなど、筆者にとっては中途半端であまり意味が無いように思えてしまった。

 グレープフルーツ味の炭酸に、なぜバーボン風味を混ぜなければならないのか(またはバーボンを、なぜグレープフルーツ味の炭酸で薄く割らねばならないのか)、それが筆者には最後まで理解できなかった。
 WEB版のウォール・ストリート・ジャーナルでも、このサントリーのシトラスハイボールについて、「本場のバーボン好きには異端と思われる方法」と書いてあったが。
 ジム・ビームのシトラスハイボールは、決して不味いとは思わなかった。しかしバーボンの本当の味と香りを堪能するには、筆者もやはり異端なやり方だと思う。

 ハイボールを、特にレモンなどの味を加えたハイボールを「美味しい!」と言う人達は、筆者は「本当にウイスキーが好きなわけではないのだろうな」と感じている。
 だってさー、せっかくのウイスキーにレモンなどを加えて酸っぱくして、それを「サッパリした味になった」って、ウイスキー好きだったらあり得ない感覚デスよ。

 日本でこそハイボールが大人気だけれど、欧米ではハイボールはあまり一般的な飲み方ではない。
 例えばイギリスでは「客に頼まれれば作りはするけれど、進んで作りはしない」もので、スコッチの本場スコットランドでは飲む人は殆ど居ないという。
 確かにセブンクラウンというウイスキーを、セブンアップスという炭酸飲料で割る、セブン&セブンという飲み方もある。しかしそれは子供っぽい、あまり品のない飲み方とされている。

 あの有名なテネシー・ウイスキーの、ジャック・ダニエルズのラベルにも書いてあるが。
 そもそもウイスキーとはシッピングと言って、ちびちび味わって飲むものなのだ。
 まず飲む前に香りを楽しみ(トップノート)、口に含んだ瞬間のインパクトと、舌の上で転がし歯で噛むようにしてパレードを味わい、飲み下した後に残る香味(アフターテイスト)を楽しむ。
 まるでビールのように、乾いた喉を潤す為に、或いは食中酒としてゴクゴク飲むハイボールのどこにそれらの楽しみがあるか、と筆者は言いたいのだ。
 サントリーの洗脳に近い宣伝の力によって日本人の多くが「ウイスキー=ハイボールで飲むもの」と思い込まされ、苦みの無いすっきりアルコールとして飲まれている現実が、ウイスキーの深い味と香りを知る者として、ひどく残念でたまらないのだ。

 しかしハイボールがこれだけ日本でのみ広く受け入れられているのには、それなりにわけがあるのだろうと思い、筆者なりにその理由を考えてみた。
 世界には各種の蒸留酒があり、それも複数回の蒸留を繰り返した、アルコール度数も40%を越すものが多い。
 だが日本では醸造酒である日本酒が広く飲まれ、その度数は15~16%前後だ。そして日本の蒸留酒である焼酎と泡盛が飲まれるのは、気温が高く日本酒が造りにくい南九州と沖縄が主だった。
 本格焼酎や泡盛も無かったわけではないが、それらが日本全土でこれほど普通に飲まれるようになったのは近年になってからの事で、あの太宰治などは『酒の追憶』というエッセイの中で、「焼酎など、怪談以外では出て来ない」とまで書いている。
 その本格焼酎や泡盛でさえ一度しか蒸留されず、25~30%のものが殆どだ。
 しかもその焼酎(泡盛)も6:4または5:5で水で割り、日本酒とほぼ同じアルコール度数に下げたものをチロリで燗をつけて飲むのが普通だった。
 さらに、飲みに行けば「とりあえずビールで乾杯」という場合が多く、結局日本人は度数40%を越すような強い蒸留酒を飲むのに慣れていないのである。

 にもかかわらず、そうしたウイスキーなどの強い蒸留酒を、日本酒やビールを飲むような調子でゴクリと飲んだら、喉が焼けて噎せてしまって当たり前である。
 だからシッピングと言われるように、ウイスキーやブランデーなどの強い蒸留酒は、それに合った飲み方をしなければならないのである。
 まずグラスに鼻を近付けて香気を楽しみ、そしてそっとほんの少しだけ口に含み、舌の上で転がし歯で噛むようにして味を楽しむ。そしてゆっくり飲み下した後も、続けてまたすぐに飲んだりせずに、口の中に残る香りを味わうものなのだ。

 しかしサントリーはその本場でのウイスキーの飲み方を広める代わりに、ウイスキーそのものを薄めて日本酒やビールのようにゴクゴク飲めるように変えたのである。
 ウイスキーは普通、食事をしながら飲んだりしない。食前酒や食後酒として飲むのが普通で、ウイスキーを飲みながら食事をする欧米人など、殆ど見た事も話に聞いた事もない。
 ウイスキーのあの強い香気が食事に合うとは思えないし、食事をしながら飲んで、ウイスキーの複雑で力強くかつ繊細な味わいがわかるとも思えない。
 だがサントリーは“二本箸作戦”と言って、ウイスキーを薄く水で割り、日本酒やビールのように食事をしながら飲ませるようと考え、大々的に広告を打って消費者を洗脳した。
 だから長い事ウイスキーに詳しくない大多数の日本人は、ウイスキーと言えば「薄く水で割り氷を入れて飲むもの」と信じて疑わずに生きてきた
 本格的なバーは別として、女性がサービスをするようなスナックや飲み屋などでは、ウイスキーを注文すると、こちらが頼んでもいないのに勝手に水で割り氷をブチ込む店も珍しくない。

 また、近年では若者のビール離れが全世界的に進んでいて、何と本場のドイツですら、ビールを飲まない若者が増えているという。
 今の若者がビールを飲みたがらないのは、「苦いから」だという。
 そして「苦いからビールは飲みたくない」という若者は、日本でも間違いなく増えている。
 そのビールの苦みを嫌う層を巧く捕らえたのが、例によってサントリーである。
 ハイボールなど、筆者に言わせればウイスキーを炭酸で薄く割ってせっかくの味も香りも台無しにした残念な飲み物でしかないが、その「冷たいすっきりアルコール」が、喉の渇きを潤したい時や食事時に飲める「苦くないビールのようなもの」を求めていた人達にウケたのである。
 で、かつての日本では「ウイスキー=水割り」が常識wwwだったのが、今では「ウイスキー=ハイボール」が常識になりつつあるのである。
 その現状が、ウイスキーを飲むならそれ本来の味と香りをじっくり、ゆっくり楽しみたい筆者にとっては残念至極なのである。

 本来の味や香りを充分に楽しむ事なく、薄めて一気にゴクゴク、ガブガブ飲んでしまうなんて下品じゃないか、と筆者は思ってしまう。
 と言うと、必ず「何をどう飲もうが、お金を出して買った当人の勝手だ」と叱られるだろう。
 だがね、クラブなどで札ビラ切って、ピンドンこと最高級のシャンパンであるドン・ペリニヨンのロゼを持って来させて一気飲みする金持ちが間違いなく下品にしか見えないように、「ふさわしくない勿体ない飲み方」というものは確かにあるのだ。

 繰り返すが(トワイスアップ以外の)薄い水割りやハイボールがこれだけ当たり前になっているのは日本だけである。
 WEB版のウォール・ストリート・ジャーナルに書かれていたように、ハイボールのような飲み方は、世界的にみればやはり異端なのである。

 薄い水割りも、ハイボールも、どちらの飲み方もサントリーが日本に流行らせたものだが。
 サントリーは「ビールや日本酒とは全く違う、ウイスキー本来の味と香りの楽しみ方を日本人に広める」のではなく、「ウイスキーそのものの飲み方を日本人に合わせて変える」ことを選んだ
 そして多くの日本人もまた、「サントリーのやり方が正しい」とジャッジした

 しかし色々なウイスキーを飲めば飲むほど、日本人の多くがウイスキーと言えば条件反射のように水や炭酸で薄く割り氷りもブチ込んで、ろくに味わいもせずに「すっきりアルコール」としてゴクゴク飲んでいる現状が残念でならない。

 と言っても、筆者は別に「ハイボールは飲むな!」と撲滅運動を起こすつもりは無い。
 ただ多くの日本人が「ウイスキー=ハイボール」というイメージを持ってしまって、シングルモルトでも何でも構わずハイボールにして、味も香りも台無しにしてゴクゴク飲んでしまっているのを見ると、本当にやり切れなくなって来る。
 ハイボールを飲んでも構わないが、それなら角瓶のような手頃な価格の、ゴクゴク飲んでも勿体なく無いウイスキーを使うべきであると筆者は考える。

 今のこのハイボール・ブームについて、「それでウイスキーに興味を持ち、ウイスキーが好きになる人が増えれば良いではないか」と言う方もいるだろう。
 しかし筆者は「それは違う」と考える。
 角ハイボール缶だけでなく、ジムビームシトラスハイボール缶も含めて、炭酸で薄く割り果汁も加えたウイスキーを「飲みやすくて美味しい!」と感じる人は、本質的にウイスキーが好きではないように筆者には思える。

 ハイボールの作り方を調べてみると、たいてい「1:4で割れ」と言うが、ウイスキーをそんなに薄めてしまっては、本来の味と香りが間違いなく損なわれてしまう。
 アルコール度9%で余計なもの(糖類や酸味料や香料など)は一切加えられていない角ハイボール缶〈濃いめ〉ですら、筆者には薄すぎてまるで物足りなかった。
 それよりまだ薄めのハイボールに、更に果物の味を加えた方が美味しいと思う人が、筆者にはウイスキー本来の味や香りが好きなのだとは、とても思えない。

 あまり薄めず、濃い状態で少しずつじっくり味わって飲みたいウイスキー好きと。そして薄く割り氷も入れてゴクゴク飲みたいハイボール好きとは、基本的に相容れない違う嗜好の人達なのではないかと、筆者は思っている。
 筆者は「ハイボールもストレートも、どちらも飲むし同じくらい好き」という人の存在も知ってはいる。しかしそういう方は実際にはかなり少なく、多くはハイボール派と、濃いめでじっくり飲む派に分かれているのが現実だ。
 そして残念ながら、日本では欧米とは逆に、ウイスキーは炭酸や水で薄く割って飲む層が多数を占めている。
 で、サントリーは本来のウイスキー好きを喜ばせるより、欧米では異端とされる飲み方を押し進めてでも、ウイスキーをあまり飲まない多数の日本人にアピールして売り込む方を選んだように思える。

 欧米人は食事の際にはビールやワインを飲み、ウイスキーやブランデーなどは食事とは別に楽しんでいる。
 日本でも食事の際にはビールや日本酒や本格焼酎を飲めば良いのに、何故ウイスキーを水や炭酸で薄く割って本来の味と香りを台無しにしてまで食中酒として飲まねばならないのか、それが筆者にはよく理解できない
 まあ、ウイスキー好きでない人にも日本酒やビールのようにウイスキーを飲ませるのがサントリーの営業戦略で、そして日本人もそれを受け入れた……という事なんだろうけどね。

 筆者には理解できないし好きにもなれないが、ウイスキーをハイボールにして「ビールのように苦くない、すっきりアルコール」として飲む人達が大勢いる事は、否定も無視も出来ないこの日本の現実だ。
 その現実を踏まえてあえて言うとすれば、喉の渇きを潤すのや食中酒としてどうしてもハイボールが飲みたければ、角瓶やブラックニッカ・クリア(またはブラックニッカ・リッチブレンド)あたりと炭酸水を用意しておいて、自分好みの濃さに割って飲むのが一番良いと思う。
 筆者も一度、ブラックニッカ・クリアを1:2という、ハイボールでは考えられないような濃さで、更に氷なしで飲んでみたが、飲みやすい上に炭酸がウイスキーらしさを意外に引き出していて、存外に悪くなかった。

 あと、香料は論外だが、糖類や酸味料が入ったハイボール缶は、どうもスッキリした感じに欠ける
 喉を潤す為にジュース代わりに飲むのならまあ良いかも知れないが、それでも飲んだ後に口の中に甘さが残る筈だ。
 だからジムビームシトラスハイボール缶も含めて、糖類が入ったハイボール缶は食中酒には不向きだ。
 筆者は試しにジムビームシトラスハイボール缶を飲みながら食事をしてみたが、微妙な甘さと果物(グレープフルーツ)の味がどうにも食事と合わないように思えた。
 缶チューハイも含めて、果物の味がして糖類も加えられているハイボールは、はっきり言って食中酒にはふさわしくない。

 ただ人の味覚は色々だし、中には甘いジュースを飲みながら普通に食事が出来る人も居るからね。
 筆者は「甘いものはおかずに出来ない」派で、卵焼きも出汁巻き派だし、煮豆も水飴や砂糖でベットリしているやつは嫌いだし、桜でんぶも出来れば御飯にかけて欲しくないタイプだ。
 だから「糖類が入っていたり果物味の付いたハイボールは、食事に合わない」と思うだけであって、甘いものもおかずに出来る人なら、ジムビームシトラスハイボール缶くらいの甘さは、食中酒として全く平気かも知れない。

 うーん、でもウイスキーとしてでなく「苦くない、冷たいすっきりアルコール」としてハイボールが必要な方には、やはり角瓶やブラックニッカ・クリアなどを4リットルのペットボトルで買って、同じく自分で買った炭酸水で自分好みに割ることを勧めたいな。
 それが一番合理的だし、缶入りのハイボールなどを買うよりお財布にもずっと優しい。
 ちなみに筆者はハイボールを飲む時には、神戸流というのかな、氷は絶対に入れない。
 氷を入れるとウイスキーの味と香りがもっと引っ込んでしまうし、溶けてどんどん薄くなってしまうのもまた厭なので。
 だからハイボールを飲んで「ウイスキーの味と香りが邪魔だ」と思う方は、どんどん氷を入れると良いでしょう。
 ……でもそうして薄めてさらに氷で冷やし込んで、ウイスキーの味と香りを徹底的に消すなら、「何で甲類焼酎とか使ったチューハイにしないで、わざわざより高いウイスキーを使うの?」って話になるよね。

 話は変わるが、太宰治の『酒の追憶』という、昭和23年に発表された作品は、日本の酒の過去と今に興味のある者にとってはとても面白い作品だ。
 それによると、日本酒もかつてはお燗をして、小さな盃でチビチビ飲むものだったそうだ。
 それも他人に注いで貰って飲むものだったという。

 そのあたりの事について、作品の中で太宰はこう書いている。

 いったい昔は、独酌でさえあまり上品なものではなかったのである。必ずいちいち、お酌をさせたものなのである。酒は独酌に限りますなあ、なんて言う男は、酒に少し荒んだ野卑な人物と見なされたものである。小さい盃の中の酒を、一息にぐいと飲みほしても、周囲の人たちが目を見はったもので、まして独酌で二三杯、ぐいぐいつづけて飲みほそうものなら、まずこれはヤケクソの酒乱と見なされ、社交界から追放の憂き目に遭ったものである。
 あんな小さな盃で二、三杯でも、もはやそのような騒ぎなのだから、コップ酒、茶碗酒などに到っては、まさしく新聞だねの大事件であったようである。これは新派の芝居のクライマックスによく使用せられていて、
「ねえさん! 飲ませて! たのむわ!」
 と、色男とわかれた若い芸者は、お酒のはいっているお茶碗を持って身悶えする。ねえさん芸者そうはさせじと、その茶碗を取り上げようと、これまた身悶えして、
「わかる、小梅さん、気持ちはわかる、だけど駄目、茶碗酒の荒事なんて、あなた、私を殺してからお飲み」
 そうして二人は、相擁して泣くのである。そうしてその狂言では、このへんが一ばん手に汗を握らせる、戦慄と興奮の場面になっているのである。


 ところが避けるべきであった例の愚かな戦争(自衛の戦争だとかアジアを白人支配から解放する為の戦争だなどとは、筆者は口が裂けても言わぬ)で、日本は物資が殆ど無くなってしまった。食糧不足で酒造りにまわす米も不足して、飲もうにも酒が無く、僅かな酒に大量のアルコールと水を加えて嵩増しした怪しげなものしか手に入らなくなった。

 それで太宰の『酒の追憶』によると、戦後にはこういう状態になる。

 それがいまでは、どんなものか。ひや酒も、コップ酒も、チャンポンもあったものではない。ただ、飲めばいいのである。酔えば、いいのである。酔って目がつぶれたっていいのである。酔って、死んだっていいのである。カストリ焼酎などという何が何やら、わけのわからぬ奇怪な飲みものまで踊り出して来て、紳士淑女も、へんに口をひんまげながら、これを鯨飲し給う有様である。
「ひやは、からだに毒ですよ」
 など言って相擁して泣く芝居は、もはやいまの観客の失笑をかうくらいなものであろう。


 いかがであろうか。
 もし戦争が始まる前の、酒は小さな盃に注がれたものを、嘗めるようにチビチビ飲むのが当たり前だった時代に、今のように良いウイスキーがそう高くもない値段で売り出されていたら。
 大きなコップでゴクゴク飲むハイボールはさほど流行らず、日本でも英国やスコットランドのようにウイスキーはその味と香りを楽しみながら、少しずつゆっくり飲む人が増えたのではないかと思うが、これは筆者の期待し過ぎであろうか。

 筆者は昭和の生まれだが間違いなく戦後世代で、物心ついた頃には日本は既に高度経済成長を遂げていた。
 しかしそれでも酒は、ウイスキーだけでなく日本酒も本格焼酎もビールも、戦前の人間のようにゆっくりと、味と香りを楽しみながら時間をかけて飲む。
 酒をただ酔う為だけにグイグイ飲む酒乱の人は、筆者は嫌いだ。
 だから酒をゴクゴク、ガブガブと飲むのは、どうしても好きになれないし、増してやイッキ飲みをする人間やさせる人間など、太宰の言う「荒んだ野卑な人間」として社会から追放してしまえば良いと、本気で思っている。

「○○さんのぉ、い~トコ見てみたいっ」って、野卑な酒乱のイッキ飲みのどこが“い~トコ”なんだよ、っつーの。
 今もまだイッキ飲みなどして“場を盛り上げて”いるつもりの低脳や、特に部下や後輩など弱い立場の者に無理にさせているクズ達は、ホント、マジで今すぐ人間やめて下さいね
 って言うか、筆者がわざわざこうして非難しなくても、その種の酒飲みはアルコールで脳をやられて既に廃人になりかけているだろうけれど。

 あの愚かで忌まわしい戦争が無く、太宰の言う「小さな盃でチビチビ飲むのが当たり前の時代」が今もまだ続いていたら、ウイスキーだけでなくいろんな酒か、さぞ美味しく飲めただろうなと、つくづくと思わされる。
「ビールはゴクゴク、プハーッて飲まなきゃ美味しくない」って?
 いやいや、ドイツ人達はビールを大きなジョッキで、しかしそれを一時間くらいかけてゆっくり飲むそうデスよ。

 今回、筆者が何度も取り上げた太宰の『酒の追憶』は、新潮文庫の『津軽通信』という本に収録されているよ。
 それも僅か12ページなので読みやすく、しかも心温まる良い話なので、お酒に興味のある方は是非お読み下サイ。

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体育祭や運動会での組体操は即時廃止すべき!

 筆者はこのブログで以前にも、組体操の危険さを指摘すると共に、その意義について疑問を呈した。
 しかしこの秋もまた各地の学校の体育祭や運動会で組体操が実施され、そして崩れて生徒が骨折するなどの事故を引き起こし続けている。

 実際に高校の体育祭で組体操をやらされた者として断言するが、組体操は間違いなく危険だ。骨折どころか、下手をすれば死の危険すらある。

 筆者が体験した組体操は、近年特に問題になっているピラミッドではなく、タワーの方だった。
 それも三段のタワーだから、「そんなの大した事じゃないじゃねーかwww」と鼻で嗤う方も少なからず居るだろう。
 だが実際に三段のタワーの最上段に立ってみろ、目の高さは四メートルに達し、目線はちょうどグランドの向こうの校舎の二階の窓と同じくらいだった。
 そう、筆者は小柄であった為、騎馬戦ではいつも騎手、そして組体操では最上段に選ばれた。

 三段のタワーの最上段に立つ感覚を知りたければ、建物の二階の窓から顔を出して下を覗いてみると良い。事実ちょうどそんな感じだ。
 試しに二階のベランダの外に出て、手すりにも何も掴まらずに屋根の縁にでも立ってみるといい。それでもそれなりの恐怖心を感じる筈だ。
 しかも「三段タワーの最上段に立つ」というのは、怖さと危険がそれとはまるで違うのだ。
 何故ならベランダや屋根の縁は固くて足元がしっかりしているが、タワーやピラミッドの上に立つ者が踏み締めて立つ足元は柔らかな人間の体だからだ。

 しかも人間の体というのは、それぞれ体格が違う。まずタワーやピラミッドの一番下の台になる者達の肩や背の高さに差がありバラバラなのだ。
 だからその上の段に乗る者達の肩や背の位置は、もっと差が出てガタガタになる。
 そうして高さに差のより開いた肩や背の上に、最上段の者は立たねばならないのだ。

 また、上の者が乗らねばならぬ人の背や肩が、屋根やコンクリートのベランダと違ってただ柔らかいだけではない。
 上に何人もの者を乗せる最下段の者達は、その重さに耐えかねて、僅かにだがグラグラ揺れていた。だからその上の段の者達は、バランスを取る為に当然より大きく揺れる。
 そしてそのさらに上に、筆者ら最上段の者達は立たねばならないわけだ。
 それぞれ背の高さが違い、グラグラ揺れる上に柔らかい下の段の者の肩の上に。

 当然、手を広げて立ち上がりはするものの、中腰になってバランスを取らざるを得ない。
 と言うか、体育教師の指示通りに体と足をピシッと伸ばして立ったら、間違いなく下に落ちるとわかっていたからだ。

 組体操を「感動する!」と賛美する者達には、一度家の屋根の縁に立ってみてほしい。
 それも高さの揃った普通の屋根ではなく、高さもガタガタでグラグラ揺れる、柔らかい“屋根”の上に。
 柔らかく身長差もありグラグラ揺れる人の体の上に、手摺りも無しにバランス感覚だけで立つのって、本当に命懸けだよ。

「命懸けだなんて大袈裟な、二階程度の高さから落ちたくらいで死ぬ筈ねーだろwww」と笑う者もいるだろうけど。
 それはそうだろうさ、せいぜい足を挫くか悪くて骨を折るくらいかも知れない、もし「足から落ちた」ならね。
 だが組体操のタワーの上で立ちながら、筆者は「落ちるとしたら、頭からだな」と感じていた。
 実際、揺れて不安定なタワーやピラミッドの上からバランスを崩して落ちる場面を想像してみてごらん。頭とは言わないまでも、上半身から真っ逆さまに落ちる可能性が高いと思う。
 猫じゃないんだからさ、バランスを崩して落ちながら、咄嗟に足からなんて落ちられないよ。
 で、もし上体から落ちて地べたに頭を打ち付けたら、二階程度の高さだったとしても、軽い怪我では済まない筈だ。
 だから本番の体育祭に向けての組体操の練習中には、筆者はタワーの最上段で文字通り必死にバランスを取っていたよ。

 で、その組体操の練習を下から見回っている体育教師は怒鳴るわけだ、「もっと体を伸ばして、ピンと立て!」ってね。
 体育教師ってのは、たいてい体格が良いだけでなく身長も高いからね。
 筆者はほぼ確信しているが、体育教師は組体操と言えば下の段しか体験していない者が多く、最上段を経験している者など殆ど居ないね。
 だから組体操も「体力と根性で上の段を支えさえすれば大丈夫」と思っていて、最上段に立つ者の怖さをわかってないのだ。

 けど現実には、組体操の最上段は体力と根性だけでは立てねーんだよ。
 って言うか、体育教師の指示通りに足と背筋を真っ直ぐ伸ばして立ったら、間違いなく転落して死ぬか大怪我をしていたよ。
 だから筆者は、体育教師の怒声を浴びながら、中腰で必死にバランスを取り続けていたよ。

 で、組体操は失敗する事も無く、本番でもとりあえず成功したけれど。
 だがそれで「同じタワーの皆との協調性が育まれた」などとは全く思えなかったし、一体感も達成感も感動も無く、ただ恐怖感と体育教師に怒鳴られた理不尽さしか心に残らなかった

 組体操をやらせたい者達は、口を揃えて「組体操によって協調性が育まれ、成功した時の一体感や達成感が感動を生む」と言う。
 そして中には、「そうした協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」などという極論を口にする者までいる始末だ。

 バカじゃねーの?
 筆者はそう主張して組体操を賛美する人達に、心からそう言いたい。
「協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」って、貴方の職場や仕事では協調性や一体感や達成感が得られない……ってワケ?

 それに学校生活だけに限っても、協調性や一体感や達成感は、組体操以外の事でも得られる筈だ。
 例えば学校ではよくクラス別の合唱コンクールが行われるが、協調性や一体感や達成感はそれでも得られるし、感動だって充分に出来る筈だ。
 組体操のタワーは恐怖と理不尽さを心に強く植え付けるものでしか無かった筆者には、「協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」という理屈がまるで理解できないのだが、それを論理的に説明できる方がいらっしゃるなら、是非ともご教示願いたいものだ。

 だって、「協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」って、他のスポーツや合唱コンクールや文化行事や、さらには社会での仕事をバカにしてるだろ、って話だよ。

 実は筆者は、これでも母校の高校で教育実習を受けて、社会科の教員免許も取得しているのだが。
 で、母校の高校に教育実習に行ったついでに、体育祭にも顔を出してみた。
 不思議な事に、例の体育祭での組体操は筆者が高校を卒業する年まで続けられていたのだが、筆者が教育実習を受けた年には、勇ましいが演技者には全く危険の無い空手の演武に変わっていた。
 筆者は東京の某私大に進学して地元を離れていた為、そのあたりの事情は全くわからないが。筆者の卒業後の組体操で、何か危険な事があったのではないかと勝手に想像している。
 そのあたりの事情はどうあれ、「組体操でなければ協調性や一体感や達成感が得られず、一糸乱れぬ空手の演武では感動できない」などと言う事は全く無かった。
 一部の者達が言う「協調性や一体感や達成感や感動は、学校の組体操でしか得られない」という主張は、まるで根拠の無い全くの嘘である

 また、「騎馬戦でも棒倒しでも、スポーツには怪我の危険が付き物だ」と主張して、組体操の危険性を矮小化しようとする者達がいるが。
 断言するが、騎馬戦や棒倒しと組体操では、その怪我の危険の意味が違う。

 筆者の高校の体育祭の騎馬戦は、本当に荒っぽかった。
 何しろ帽子や鉢巻きを取るのではなく、本当に相手の騎馬を潰して落とし合うのだ。
 我が母校の騎馬戦は三回勝負で、筆者は小柄だから一年生の時から騎手に選ばれた。そして騎馬の者達も一年生ながらみな柔道部員で、騎手も騎馬もやる気に溢れていた。
 だが一回戦目では、筆者もその騎馬も一瞬で潰されていた。

 実は我が校の騎馬戦では、伝統で一年生が三年生の主将を護り、二年生と三年生が攻撃に回る事になっていた。
 で、「一年生は、守りを固めろ!」という主将の号令に従い、筆者らは敵を待ち受けたのだが。
 敵の上級生達は、本当に酷かった。何しろ最初から拳を握り締めて殴りかかって来たのだ。
 突き落とすのではない、本当に拳で殴って来たのだ。
 で、気付いた時には最初に襲いかかって来た上級生の騎手に殴り倒されていた、というわけデス。
 そして騎馬も同時に崩れていて、「相手の騎馬に思い切り蹴られた」と言っていたよ。
 だから我が校の騎馬戦は、ある意味では「上級生の一年生イジメ」に近かったかも知れない。
 後で知った事だけれど、我が母校の男子の騎馬戦は毎年(軽傷ながら)怪我人を何人も出す、かなり荒っぽい戦いだったのだ。

 けど我が校の騎馬戦は三回勝負だから、あと二回戦残っているわけで。
 それでビビッたか、って?
 とんでもない、いきなり殴られ蹴られして、筆者達は騎手も騎馬も逆に怒りに燃えていたよ。
「上等だ、向こうがその気なら、俺たちもやってやろうじゃねえか!」ってね。
 筆者は体力は無くとも気は強い方だし、騎馬も一年生ながらみな日々鍛えた柔道部員だからね。続く二回戦と三回戦は、上級生に殴り返し蹴り返して一度も落馬せずに相手を何騎も倒したよ。

 だから二年になった時には、体育祭の騎馬戦が楽しみで楽しみで。
 で、二年の時にも筆者は騎手に選ばれて、でも騎馬はテニス部員たちでさ。
 そしてこのテニス部員たちが、まるでやる気無しで「騎馬戦コワイ」って言うような連中でさ。
 騎手の筆者はやる気満々で「行けー!」って前を指さすのだけれど、騎馬の方が勝手に敵のいない所を探して逃げ回っている始末で……。
 それで二年の時の騎馬戦は、一度も敵と組打てずに終わってしまったよ。

 そして最後の三年生の体育でも、筆者はまた騎馬戦の騎手に選ばれたのだけど。しかも筆者を選んでくれたのが何故か学年でも有名なDQN達で、みな身長180センチ前後の巨漢揃いだったよ。
 これはイケる。学校で間違いなく最強の騎馬の騎手になれた筆者は、そう信じて疑わなかった。
 ……でも現実は厳しかったね。
 実戦に出たら、海を渡るモーゼそのものだった。
 どこに進もうと敵がさ、見事に二手にサーッと分かれて避けて逃げて行くんだもの。
 校内一のDQNグループの騎馬に戦いを挑もうという者など誰一人おらず、結局この年の騎馬戦も、一度も戦えずに終わってしまいましたとさ。

 騎馬戦は確かに危険で怪我もするよ、でもそれはやる気のある戦いたい者同士がやり合っているだけの話で、戦うのが怖ければ逃げていれば良いのだ。筆者の二年の時の騎馬のように、ね。
 三年の時にDQNグループの騎手にされてしまった時も、筆者の乗る騎馬の顔ぶれを見た敵たちはみな逃げ回っていたし。
 棒倒しだって同じ事で、怖ければ隅の方で適当にやっていれば良いのだ。怪我をして痛い目に遭うのは、みな自分から戦いの中に飛び込んで行く奴らでね(筆者もその一人)。

 けど組体操は、「怖いから逃げて適当にごまかす」という事が出来ないよね。苦手でも怖くても、求められた通りに頑張らなきゃいけない
 だからこそ「出来た時の達成感が──」とか「一体感が──」とか言って、組体操を賛美する人達がいるのだろうね。
 体力差も個人差もあるのに、厭でも怖くても全員が無理矢理同じレベルの危険な事をやらされて、それに喜びや感動を覚える人も居るのだろうけれど。
 でもその種の人々はサディズムやマゾヒズムの性向があるのではないかと、筆者は考える。

 痛い思いもしたが、騎馬戦も棒倒しも筆者は楽しかった。それは自らの意志で、それに参加したからである。
 それに騎馬戦や棒倒しには、厭なら危なくない所で適当にやり過ごす自由もある
 しかし組体操は違う。
 筆者にとって逃げ場の無い場所で怒鳴られながらやらされた組体操は、恐怖感と理不尽に危険な事をされられた厭な思いしか無い
 少なくとも筆者はマゾヒストではないので、組体操で協調性は全く育まれなかったし、一体感や達成感や感動も全く得られなかった
 それだけに、あのただ危険なだけの組体操を全員に強いる事を、「協調性と一体感と達成感が得られて感動する」と主張して美化する人達の気持ちが、今もって全く理解できずにいる。

 と言っても筆者は、組体操を全否定するつもりはない。
 ただ体格差や体力差や運動能力の差のある生徒全員に組体操を強制的にやらせる事は、恐怖と危険でしかないと断言する。
 組体操は、その能力のある組体操が好きな者だけがやれば良いのだ。
 体格差も体力差も運動能力の差も無視して、とにかく全員に同じ事をやらせることに美と感動を覚える人達の存在に、筆者はファシズムや全体主義に共通する怖さを感じる。

「協調性や一体感や達成感は、組体操でなければ得られない」だなんて、他のスポーツ競技や合唱コンクールなどの文化活動で頑張っている人達や、社会に出て仕事で頑張っている人達に対して侮辱もいいところデスよ、本当に。

 騎馬戦と違って「怖いから」と逃げる事も許されず、体格差も体力差も運動能力の差も無視して全員に危険な行為を強いている体育祭(運動会)での組体操は、即刻中止すべきだと筆者は強く訴えたい。
 あの全員参加の組体操に美と感動を覚えている人達は、あの中にいる体力や体格や運動能力に劣る者たちの苦痛に思い到らない、想像力の欠如した鈍感な全体主義者であると、筆者は断言する。

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こんな青空にはなかなか恵まれませんでした

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 こうして青空と白い雲の写真を続けてアップしていますが、私がまだ若い時分に、女の子の写真を撮りに出掛けると、雨は降らないものの何故か曇る事が多かったです。
 ……日頃の行いは、そう悪くも無かった筈なんですけれどねぇ。

 そう言えば風景を撮りに遠くまで出掛けようと計画した時にも、前日までは晴れの予報だったのに、いざ当日になってみると曇りか小雨……という事も少なくありませんでした。

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このヒドい歪曲収差www

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 見て下さい、画面の下に写る屋根の、笑ってしまうほど酷いレンズの歪曲収差を。
 真直ぐな筈の屋根が、弓型に曲がってしまっています。
 デジカメのレンズ、特に安めのレンズには、シャープなのだけれど歪曲収差の目立つものが少なくないような気がします。
 でも、「歪曲収差は無いが周辺が甘いレンズ」と、「画面の隅々までシャープだけれど歪曲収差のあるレンズ」では、後者の方が良いような気がします。
 だって、歪曲収差は真っ直ぐなものを撮りさえしなければ、殆どわかりませんからね。

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逆光の空と雲

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 CCDに良くない、と言われるのですが、私はよく太陽のある方角に向けて写真を撮ってしまいます。
 だって、画面に太陽を入れて撮ると、意外に面白い写真が撮れるので……。
 かつては「CCDは逆光に弱い」と言われたものですが、なかなかどうして、今のデジカメはフィルムのカメラよりも逆光に強いように思えます。
 レンズのコーティング技術が、飛躍的に向上しているせいでしょうか。
 そう言えば、一昔前までのマルチコーティング・レンズを先端から覗いてみると、いろいろな色の反射が見られました。
 でも今のデジカメ専用のレンズは深い井戸の底を覗いているように、光を殆ど反射しないものが多いです。

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あえて新緑の写真を…

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 そろそろ紅葉の季節ですが、天邪鬼な私はあえて新緑の頃に撮った写真をアップしてみました。
 やはり私は、紅葉より新緑の方が好きなようです。

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我が家の庭で生まれた子

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 茶猫さんとその子供です。
 母猫の乳を無心に飲んでいる子猫の姿を見ると、心が癒されます。

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