空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

こんな空を飛べれば良いのですが…

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 飛行機を操縦できたらいいな、と思う事があります。
 それもかつてのゼロ戦のような、操縦性の良い小型の飛行機で自由に空を飛び回れたら、どれだけ良い気持ちかと思います。
 ただ、私は平衡感覚が良くないんですね。
 ゲームのシュミレーターでさえ、飛行機を真っ直ぐに飛ばせられないんです。
 だから残念ながら、愛車の軽自動車で地べたを這いずり回る毎日を過ごしています。

 そうそう、アニメですが、そしてちょっと古いですが『オネアミスの翼』という映画、とっても良いですよ!
 やる気の無かった青年が宇宙飛行士を目指すお話ですが、空や宇宙の映像がとっても素晴らしいです。
 そして内容もどこか哲学的で、神や政治や戦争や平和についても、いろいろ考えさせられてしまいます。

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評価に悩むスーパーニッカ

 スーパーニッカは、何年も前に一本だけ飲んだ。
 そしてそれ以来、ずっと飲まずにきた。

 と言って、飲んで不味かったわけではない。
 いや、むしろ「美味い!」と思った。
 しかしその一本しか飲まなかったのは、当時のニッカの製品のラインナップのせいである。

 その頃、スーパーニッカは実売価格で二千円を少し切る値段で売られていた。
 そして同時に、「とても美味い」竹鶴12年が二千円を少し上回る価格で売られていたのである。

 スーパーニッカを買うお金に百円玉を数枚足せば、ノンエイジではない本物の12年モノのピュアモルトが手に入れられるのである。
 となれば、「いっそ竹鶴12年の方を買おう」という気持ちになっても不思議はあるまい。
 だから筆者は、スーバーニッカもなかなか良い出来なのは知りつつ、竹鶴12年の方ばかり買うようになってしまった。

 さらにスーパーニッカは数年前にリニューアルされ、その味の評判があまり良くなかった。
 ニッカは「時代に合わせ、より現代的にリニューアルした」と説明していたが、ネットでは「より甘くし、スモーキーさを弱めて、サントリーの味に近づけた」との批判の声も少なくなかった。
 それで筆者は、ますますスーパーニッカを買う気になれなくなってしまった。

 が、昨今のウイスキーブームの影響で、今年の9月出荷分からスーパーニッカの希望小売り価格も上がると知った。
 それで値段が上がってしまう前に、もう一本だけ手に入れておこうという気持ちになった。
 同価格帯のサントリーのスペシャル・リザーブニッカG&G、それにジョニーウォーカーの黒ラベルなどと飲み比べて、果たして今後も買うべき価値があるものかどうか、じっくり味を見てやろうと思い、久しぶりにスーパーニッカを買った。

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 まず封を切ってみると、甘くスモーキーな香りが広がる。その香りそのものは、スペシャル・リザーブより華やかである。
 口に含むと甘く力強く、そしてビターな深い味わいを感じる。
 飲み込んだ後のアフターテイストには確かなスモーキー香があり、余韻もかなり長く続く。

 封を切って数日経つと、甘くスモーキーで力強い印象がさらに際立ってくる。
 ネットの評判では「甘さがより強くなり、スモーキーさが弱まった」という声が多いが、果たしてそうだろうか。
 甘さも別にカラメルのようなベタつく甘さではなく心地よいし、スモーキーさも充分に感じられて、筆者にはかなり良いウイスキーに思えた。
 それはもちろん、「二千円で買えるウイスキーにしては」という話だが。

 味も香りもかなりスコッチに似ていて、甘くスモーキーで力強く、個人的にはスペシャル・リザーブよりこちらの方が間違いなく好きだ。
 しかし同時に、スペシャル・リザーブの優しさと繊細さの方を好む人も間違いなくいるだろうことも、よくわかる。

 ウイスキーの中では、間違いなくスモーキーで力強い部類に入ると思う。
 しかし惜しくもこの夏に終売になったニッカG&Gの方が明らかにスモーキーで、かつより力強くビターだ。
 比べてしまうと、同じニッカのG&Gよりスーパーニッカの方が間違いなく甘く穏やかな味わいだ。だから「リニューアルしてより甘くなり、スモーキーさが無くなった」と言われるのかも知れない。
 しかしスーパーニッカの方が、G&Gより熟成されていて滑らかな印象もある。
 個性はG&Gの方が間違いなく際立っているが、ウイスキーとしての質は僅かにスーパーニッカの方が上だろう。

 だがジョニ黒と比べてしまうと、スーパーニッカの方が少し味に荒さがあるような気がする。ジョニ黒の方がより滑らかで熟成感があり、スーパーニッカには僅かにアルコールが舌に刺さる印象がある。
 そこがノンエイジのスーパーニッカと、12年モノのジョニ黒との差かも知れない。
 但し香りはスーパーニッカの方が甘く華やかで、ジョニ黒はもっと落ち着いた渋味と樽香を感じる。

 スーパーニッカは、竹鶴政孝氏がリタ夫人を亡くした後、リタ夫人に捧げる為に造ったウイスキーだと聞くが。
 確かに良いウイスキーだ、とは思う。
 リニューアルされたスーパーニッカも、なかなか良く出来ていると思う。
 ただ「また買って愛飲するか?」と尋ねられると、筆者は答えに窮してしまうのである。

 はっきり言うが、筆者はウイスキーとしては、スペシャル・リザーブよりスーパーニッカの方が間違いなく好きだ。
 しかし二本並べられて「どちらか一本だけ買え!」と迫られたら、スペシャル・リザーブの方を選んでしまうかも知れない。

 と言うのは、スペシャル・リザーブは間違いなくサントリーの言う“ジャパニーズ・ウイスキー”だからだ。
 酒質はライトで、しかしその中にフルーティーな甘さや僅かなビターさやスモーキーさなどを兼ね備えた、いかにも日本的な繊細な味わいがある。
 量販店なら二千円で買えるウイスキーでこんな製品は、おそらく他に無いだろう。

 それに比べ、スーパーニッカは間違いなくスコッチ・タイプのウイスキーだ。
 となると、どうしても似た価格帯の、ジョニ黒やシーバス・リーガル12年やバランタイン12年などのスコッチと比べてしまう。
 で、そうした他のスコッチより決定的に優れている部分が見いだせないのだ。
 そうしたスコッチより「不味い」と言うわけではないが、優れている部分も感じられない。

 より繊細なスペシャル・リザーブや、ガツンと来る力強さやスモーキーさのあるG&Gは、そのはっきりとした個性が選ぶ理由になる。
 しかしスーパーニッカの場合、間違いなく良いウイスキーなのだが味や香りがスコッチに近いだけに、ジョニ黒やシーバス・リーガル12年やバランタイン12年などのスコッチを差し置いて選ぶ理由を感じにくいのだ。

 しかもスーパーニッカは、この9月出荷分から値上げされた。
 筆者の近所の酒の量販店でも、以前は税抜きでなら二千円を切っていたものが、今では税込みで二千五百円近くになっている。

 値上げ以前のスーパーニッカは、ジョニ黒やシーバス・リーガル12年やバランタイン12年などに負けぬ味で、そして値段はちょっぴり安かった。
 しかし今ではそれらのスコッチと同じか、下手をすれば高いくらいになっている。
「ジョニ黒よりも高いスーパーニッカなんて、ちょっと買う気になれない」と思うのは、筆者だけであろうか。

 1962年に発売された時、スーパーニッカは三千円だったという。
 その頃の三千円と言えば、よくわからないが今で言えば二万円くらいになるだろうか。何しろ喫茶店のコーヒー代が、1960年で60円、1965年で80円くらいだったというから。
 それに比べれば、スーパーニッカは「かなり安くなった」と言えるだろうし、スコッチやバーボンなどの輸入物を好む人も含めて、今はウイスキー好きにとって幸せな時代なのかも知れない。

 何しろハイニッカも1964年に発売された時、五百円という値段で「安い!」と評判だったというのだから。
 ちなみにあんパンは1960年に15円、1965年に20円くらいだったという。

 それを思えば、スーパーニッカの今回の僅かな値上げ程度でガタガタ言う方がおかしいのかも知れないが。
 だがスペシャル・リザーブが以前と同じ二千円を切る値段で出されているのに、スーパーニッカがジョニ黒やシーバス・リーガル12年やバランタイン12年などと同じかそれ以上の値段で出されているのを見ると、何か複雑な気持ちになってしまう。

 それはともあれ、熱心なニッカのファンにはあれこれ言われがちなリニューアル後のスーパーニッカだが、冷静に見れば甘く力強くスモーキーな、バランスの取れた良いスコッチ・タイプのウイスキーだと思う。
 ただそのバランスの良さは個性の弱さにも繋がり、以前から「通のニッカファンは、スーパーニッカよりG&Gの方を好んだ」と言われていた。
 また、この秋の値上げでジョニ黒やシーバス・リーガル12年やバランタイン12年などのスコッチと同等の価格になったことが、消費者にどういう印象を与えるかが今後の課題であろう。

 これまでは、僅かだけれど12年モノのスコッチより安かったから良かったのだ。
 しかし今ではジョニ黒やシーバス・リーガル12年やバランタイン12年などの名の通った名門ブランドのスコッチと同等の値段になってしまった以上、それらを越える味と個性を出さなければ、スーパーニッカはジョニ黒などに勝てないと思う。
 スーパーニッカが今後、同価格帯の有名ブランドの12年モノのスコッチなどとどう勝負して行くか、ウイスキー好きでスコッチのファンの一人として、興味深く眺めて行こうと思っている。

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完全分煙または禁煙にすれば、飲食店の客は本当に減るのか?

 もし貴方の家族や職場の同僚などの身近に、朝も昼も晩も酒を飲むアルコール依存症の人間がいたとして。
 そしてそのアル中が、自分が飲む度に同じ量の酒を貴方にも飲む事を強要してきたとしたら、貴方はどう思うだろうか?
「大迷惑で非常識極まりないし、とんでもないアルハラだ!」
 そう激怒するのが普通であろう。

 非喫煙者にとって喫煙者とは、ズバリそれと全く同じ存在なのである。
 酒飲みも困った存在ではあるが、喫煙者はもっと困った存在である
 何故なら、酒好きがやがてアルコール依存症になり始終飲んだくれていようとも、その挙げ句に絡んで暴れたり、他人にも飲む事を強要したりさえしなければ、周囲の者に害は及ぼさないからである。
 しかし喫煙者は違う。
 一人の喫煙者は、周囲の非喫煙者すべてに、自分が吸う煙草のニコチンやらタールやらの有毒物質を含んだ煙を、無理矢理に吸わせているのである。

 もしも貴方の口をこじ開けて、無理に酒を飲ませる者がいたとしたら、それはまさにアルハラで暴力である。
 同様に喫煙者は、周囲の者すべてに自分の吸う煙草を無理に吸わせているのである。
 煙草を吸わない者にとって喫煙者とは、まさにそういう存在なのである。
 非喫煙者も存在する公共の場で煙草を吸う行為は、ニコチンハラスメントで暴力に他ならない

 筆者の住む町には、真っ昼間から焼酎(甲類のペットボトル入り)を飲みつつ、だらしない笑みを浮かべて下手な歌を唄いながら外を歩き回るご老人がいるのだが。
 確かに見ていて気持ちの良い光景ではない。
 しかしそのご老人は近くの誰かにに絡むでも、飲酒を強要するわけでもないから、見ないふりをしてただその側を通り過ぎれば問題は何もない。
 日の高いうちに酒を飲みながら外を歩こうが、他人に迷惑をかけない限りは当人の自由である。

 しかし煙草は違う。
 周囲の人すべてに同じだけ煙草の煙を、しかもフィルター無しで吸わせる、公共の場での喫煙や公道での歩き煙草は、間違いなく「周囲の皆にも無理に自分の煙草を吸わせている」迷惑極まりない行為である。
 非喫煙者にとって、公道や公共の場所で有害極まりない煙草の煙をまき散らす喫煙者は、例の酔っ払いの爺さんとは比べものにならないほど桁外れな迷惑で有害な存在なのである。

 だから国際オリンピック委員会と世界保健機関(WHO)が「煙草のない五輪」を目指す協定を締結しているのは、至極当然の事である。
 そして近年の五輪開催都市では、飲食店など屋内施設を禁煙とする罰則付きの法令が整備され、2016年大会開催地のリオデジャネイロも、公共施設などを禁煙とする罰則付きの州法を制定した
 日本に比べればまだ発展途上と言えるブラジルでさえ、公共施設や飲食店などでの禁煙を、罰則付きの法令で決めたのである。

 では2020年に東京五輪が開かれる日本では、非喫煙者を受動喫煙から守る対策がどれだけ進んでいるのだろうか。
 この14日の毎日新聞(夕刊)によると、東京都は都内の宿泊施設や中小の飲食店が喫煙室や分煙エリアを設ける工事費の5分の4も税金で補助する、分煙環境整備補助金の制度を10億円もの予算をつけて導入したのだが、業者の反応は鈍く、想定の一割しかまだ申請されていないのだそうである。
 禁煙でなく分煙でさえ、我が国ではこの有り様なのだ。

 しかも東京都医師会の尾崎治夫会長によると、「煙草の煙の粒子は非常に小さく、隙間から禁煙席に入るので、分煙では受動喫煙は防げないというのが世界の常識。従業員が喫煙エリアに入らざるを得ないという問題もある。10億円もの税金をつぎ込むのは無駄」なのだそうである。
 だから都の医師会は、他の五輪開催国と同様の「屋内空間の全面禁煙化」を求めたのだが、中小の飲食店約1万店が加盟する東京都飲食業生活衛生同業組合は「売り上げが減り経営に大きく影響する」と反対しているという。
 それで都の舛添要一知事は、近年の五輪開催地の常識である禁煙ではなく、「徹底的な分煙をやる」と言っている。
 しかし都の分煙環境整備補助金に対する申請の低調ぶりを見ると、その分煙すら難しそうなのが、現在の日本の喫煙を巡る状況である。

 断言するが、受動喫煙の防止に関する我が日本の現状は、どこからどう見ても後進国である。
 喫煙者たちは「最近は煙草が自由に吸える場所が減って、肩身の狭い思いをしている」と被害者面をしているが、真の被害者は巻き添えで吸いたくもない有害な煙草の煙を否応も無く吸わされている非喫煙者たちに異ならない。

 飲食店での禁煙について、当の飲食店の経営者たちは「売り上げが減り経営に大きく影響する」と反対しているそうだが、果たしてそうであろうか。
 煙草を吸う者が減りつつあるこの時代に、「店の全面禁煙は、むしろ経営にプラスになる場合もあるのでは?」と思う筆者の感覚は、素人考えであろうか。

 筆者の伯父の一人が、治る見込みのない病を患って長く入院している。
 その伯父は他県に住んでいるのだが、ただ親戚というだけでなく、筆者は個人的にも大変にお世話になった。だから時間を作っては、度々車を飛ばして見舞いに行っている。
 何しろ片道三時間近くかかるので、その見舞いはどうしても一日がかりになってしまう。で、たいてい朝の九時過ぎ頃に家を出て、どこかで昼食を食べてから見舞って帰ることにしている。

幸いなことに、その伯父が入院している施設の向かいに小さなレストランがあって、そこのランチがなかなか美味いのだ。しかも税込み七百五十円でありながら、ボリュームもたっぷりだ。
 ファミリーレストランなどのチェーン展開している店で出す料理とはまるで違い、いかにも「料理上手な奥さんの家庭料理」という感じの味が楽しめる。
 だから何も宣伝しておらず、看板すら小さく目立たないのだが、いつも常連さんが通っている。
 ただそこは店主の愛想の良いおばさんが、調理から会計まですべて一人でこなしている為、注文してから出来上がるまでに、どうしても二十分くらいかかってしまう。

 いや、待つくらいは別に何も問題は無い。むしろ注文してすぐ料理が出て来るとしたら、それは本部から配送されてきた出来合いの料理を温め直して出している証拠であろう。
 筆者がいつも閉口させられるのは、店に来ている他の客の事である。

 その店の客の皆がそうだというわけでは無いが、煙草を吸う者が客の中に少なからずいる。
 そしてその店は小さいだけに、分煙などまるでされていないし、煙草対策の換気扇や空気清浄機も備えられていない。
 だからたった一人の客が煙草を吸うだけで、店の中に煙草の煙が充満する事になる

 その店に来て煙草を吸う客の多くは、まず食事が出来るのを待つ間に、雑誌などのページをめくりながら煙草を吸う。そしてその間、こちらもその客の煙草の煙にさらされ、ただ不快なだけでなく有毒な副流煙を吸わされ続けるのだ。
 で、その喫煙者の客に食事が届き、そして食べ終えて店を出て行ってくれるかと思えば、そうは行かぬのだ。

 喫煙者に言わせれば、「食後の一服が実に美味い」のだそうである。
 だから喫煙者の客は食事を終えても、まず席を立たずに腰を据えたまま、また煙草に火を付けてゆっくりと吸う。
 そしてこちらは、その間もまた煙草の煙にさらされ続けるわけだ。

 喫煙者にとっては美味くて堪らない(食前や)食後の一服だが
 その喫煙者の“食後の一服”は、煙草を吸わない者のメシをとことん不味くする毒ガス同然の有害物でしかないのだ。
 だからそのランチの美味しい小さなレストランだが、筆者は次もまた行こうかどうしようか、ひどく迷っている。
 そのレストランの女主人の人柄も好ましいし、それに何より食事が安くて美味いのはよくわかっている。しかし「また喫煙者の客が居て、せっかくのメシを不味くさせられるかも」と思うと、行く気がかなり失せてしまうのだ。

 飲食店、それも分煙するだけの余地が無い規模の小さい店の経営者たちは、「売り上げが減り経営に大きく影響する」と反対しているが、果たしてそうだろうか。
 実際、煙草を吸わずにいられないニコチン中毒者たちは、依存症という心の病を患っているから、禁煙にされて煙草を吸えなくなると、狂ったように文句を付ける
 だから飲食店の経営者たちは、声の大きいニコチン中毒の者達の罵詈雑言に近い文句に惑わされ、「店を禁煙にすると、大変な事になる」と思い込んでいるだけなのではないか。

 煙草を吸わない者たちは、ニコチン中毒で依存症の喫煙者たちと違って理性と常識があるから、他の客の煙草にによる受動喫煙で不快な思いをしても、店にヒステリックな大声で文句を付けたりしない
 店に分煙や禁煙がされておらず、他の客の煙草の煙で不快な思いをした場合、ただ黙ってその店に行かなくなるだけである
 実際、筆者も伯父が入院している施設の真ん前にある小さなレストランに行くのを、「もう止めようか」と考えている。
 店主の人柄は良いし、しかも料理も安くて美味いのだが、分煙がきちんとされておらず、他の喫煙者の客が吸う煙草の煙が狭い店内に充満するのが、嫌で嫌でたまらないからだ。

 無論、その店に行けば毎回喫煙者の客と一緒になるわけではない。
 実際、その店で喫煙者の客と一緒になる確率は、冷静に考えてみれば二度に一度かそれ以下くらいである。
 しかしそれでも、「また喫煙者の客と一緒になって、煙草の有害な煙と嫌な臭いが充満する中でメシを食わなければならないかも知れない」という可能性を思うだけで、その店に行こうという気持ちが大いに減退してしまうのだ。
 繰り返すが、「店主の人柄は良く、料理も安くて美味しいのにかかわらず」である。

 店を禁煙にしたら、東京都飲食業生活衛生同業組合が主張するように、本当に「売り上げが減り経営に大きく影響する」のだろうか?
 逆に売り上げはそれほど減らず、むしろ受動喫煙を嫌う新しい客が増える可能性もあるのではないだろうか。

 少なくとも筆者なら、完全分煙または禁煙を実施している飲食店には、安心して喜んで行く。
 ついでに言うが、分煙と言いつつただ禁煙席と喫煙席を分けているだけで、喫煙席の煙草の煙が禁煙席にも流れて来るような店は、インチキで詐欺に近い分煙だと思っている。

 店を禁煙にする事に対する、煙草を吸わずにいられないニコチン中毒患者たちの抗議の声は大きい
 しかし煙草を吸う客に受動喫煙させられるのが嫌な非喫煙者たちは、ただ黙ってその店に行かなくなる事を、中小の飲食店の店主たちは知るべきだ。
 飲食店の関係者は、喫煙者の声の大きさに惑わされず、嫌で嫌でたまらない煙草の煙に耐えている非喫煙者の声にも、ぜひ耳を傾けてほしいと思う。

 現在では、煙草を吸わない者より吸う者の方が少なく、しかもその喫煙者の数は年々減りつつある
 その時流と今後を考えれば、店を喫煙自由のままにして煙草を嫌いな者にも受動喫煙を強い続けるのと、完全分煙や禁煙に切り替えるのとどちらが店にとってメリットが大きいか、答えは明らかであると思うが、どうであろうか。

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隅の電柱

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 空を撮っていて何が邪魔になるかと言うと、やはり電柱と電線ですよね。

 この写真、我が家の2階から撮ったものですが、右下に電柱の先端が入ってしまっています。
 この電柱を立てる時には、写真に写っていない反対側の隣家の主人と、どこに立てるかでかなり揉めたのです。
 隣家の御主人はちょいと人柄に癖のある方で、「ウチの近くに電柱を立てるな!」と我が家に怒鳴り込んで来て引かず、それで問題の電柱は我が家が引いて、我が家の敷地の端に立つ事になってしまったのです。
 もし隣家の御主人が話の通じる常識的なお方なら、画面の右端の電柱はそこには無かった筈なのです。
 その電柱を見る度に思うのだけれど、世の中って道理や常識よりも、声が大きく話を聞かずに我を押し通す方が勝ってしまう事がけっこうあるんですよね。

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またしても…

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 またしても、青空と言うより雲の写真になってしまいました。

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綿のような雲

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 今日の空の写真も、雲が大部分を占めています。
 実は自分でも、「空ではなく雲を撮っているのでは?」と思う事もあります。
 でも空の写真って、雲が無いと絵にならないんですよ……。

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青空と言うより殆ど雲の写真になってしまいました

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 いつもバッグの中にコンデジを入れて持ち歩いていて、空を見てはシャッターを切っています。
 それならば、盗撮と疑われる事はありませんからね。
 でも上ばかり見ているせいで、たまに転ぶこともあって恥ずかしいです。

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紫蘇の花

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 紫蘇の花です。
 とても小さいけれど、よく見てみると案外可愛いです。
 けれどコレを放置しておくと、翌年にはプランターや庭が紫蘇だらけになって泣くはめになってしまいます。
 紫蘇は一部で“テロ植物”とも呼ばれるとおり、その繁殖力は異常です。

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キリン一番搾りの限定醸造二品を飲んでみた

 寒くなるこの時期にビールの消費が落ち込むのを防ぐ為か、ここのところビールメーカー各社から期間限定の製品が出されている。
 で、たまたま目に付いたキリンの二種類の限定醸造の一番搾りを買って飲んでみたので、それについてレボートする。

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 その前に断っておくが、筆者は別にキリンが好きなわけではない。
 好き嫌いで言えば、ビールではギネスが大のお気に入りで、国産に限ればサッポロのエビスが好きだ。そしてスーパードライとそれに似た味の製品は、ビールと認めたくないほど苦手である。
 だから各社が出している限定醸造品の中で、キリンの二種類の一番搾りを選んだのは、本当に「たまたま」なのだ。
 売り場で目に付いたものだから、文字通りに衝動買いしてしまったのだ。

 今は違うが、かなり昔は日本でビールと言えばキリンというイメージがあった。
 しかし筆者は、キリンのビールを別に不味いとも思わなかったが、美味いとも全く思わなかった。
 筆者がビールを「美味い!」と思うようになったのは、ドイツやベルギーなどの麦芽とホップだけで造られた本物のビールを飲んでからである。
 だから筆者は国産では長いことエビスを好んで飲んできたし、コーンやスターチなどの副原料を使用したものは今も“ビール”とは認めていない
 筆者は紛れもない日本人だが、ビールに関してはドイツのビール純粋令の基準に従うべきだと考えている。

 で、「飲めないほど不味くはないが、決して美味くもない」と思っていたキリンのビールについてだが、副原料なしの一番搾りを出してから印象が変わった。
 麦芽とホップだけで造られた一番搾りについては、間違いなく合格点を付けられる良いビールだと思った。

 ただギネスやエビスなどを好んで飲んできた者からすると、飲みやすいが何となく軽めで多少物足りない印象もあった。
 それだけに、その一番搾りの限定醸造品がどれだけ通常の一番搾りと味が違うのか、俄然興味が沸いてきたのである。

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 大型スーパーのお酒売り場で見つけた一番搾りの限定醸造品は、横浜工場限定醸造の“横浜づくり”と、岩手県遠野産とれたてホップの二種類である。
 もちろんどちらも麦芽とホップだけで造られた、副原料なしの本物のビールである。

 まず、横浜づくりの方だが、缶のプルトップを引き開けた途端に甘く華やかな香りが広がり、「これは違うな」と思わされた。
 ただ香りが華やかで強いだけでなく、ビール自体の色も濃く、グラスに注ぐと紅茶に似た琥珀色をしている。
 飲むと雑味の全く無い澄んだ味で、通常の一番搾りとは明らかに違う深い味である。
 個人的には通常の一番搾りより美味いと思うし、大好きなエビスにも負けていないと思った。

 但しこの横浜づくりは、缶の説明にも「5種類のホップを使い、アルコール度数は6%に高めました」と書いてあるが、ホップの苦みがいささか強い。
 だから飲み応えのある強いビールが好きな人には良いが、「ビールは苦いから好きではない」というような人は、このビールよりハイボールの方が好きと言うかも知れない。

 また、不思議な事にこの横浜づくりは、少し時間をおいてぬるめになって来ると、味の印象がかなり変わるのだ。
 よく冷えていたのがぬるめになって来ると、ほのかに甘みが出て来て、そしてホップの苦さにも複雑な広がりが出て来る。
 初めはただ苦みとしか感じられなかったものが、角が取れてかつふくらみのあるものに変わる。5種類のホップを使ったというだけの深さが、このビールの苦みの中にはあるのだ。

 ドイツでは、大きなジョッキに注いだビールを一時間近くかけてゆっくり飲むと言うが。
 この一番搾りの横浜づくりは、ややぬるめになったものをゆっくり味わいながらチビチビ飲んでもなかなか美味いのだ。
 甘く華やかな香りは時間が経ちビールがぬるくなっても変わらず、深い味わいと相まって豊かな酔い心地をもたらしてくれる。

 と言うよりこのビール、普段のビールのように「ゴクゴク、プハーッ」と一気に飲んでしまっては勿体ないと思う。
 一気に飲み干してしまうと、「まあ上質だが苦みの強いビール」という印象しか残さないような気がする。
 ゆっくり、じっくり味わって飲むべき本格派のビールだと、筆者は思う。

 さて、続いて同じ一番搾り限定醸造品の、岩手県遠野産とれたてホップだが。
 缶にも「52年もの間、ともに歩んできた、キリンの醸造家と、遠野のホップ農家。この夏も、とれたてのホップを凍結し、一番搾り製法で、みずみずしい香りを引き出しました」と書いてあるし、そして何より缶の正面に大きな字でとれたてホップと書いてある。
 だから「さぞホップが利いていて、苦いのではないか」と予想して缶のプルトップを引き開けた。

 が、こちらは同じ一番搾り限定醸造品の横浜づくりと違って、プルトップを開けてもグラスに注いでもあまり強い香りは立たない。
 但し、爽やかなホップの香りはわかる。
 横浜づくりの方は琥珀色の濃いめの色合いだったが、とれたてホップの方は普通の一番搾りと同じ淡い色である。
 そして飲み口も爽やかで、通常の一番絞りと同様にやや軽めに感じてしまうくらいだ。
 横浜づくりの方は、通常の一番搾りとはかなり味も香りも違う印象だが、とれたてホップの方は通常の一番搾りにかなり似ている。

 ただ遠野産のホップを使っているだけあって、飲んだ時の爽やかさが通常の一番搾りより明らかに強い。ホップの苦みはあるのだが、その爽やかさの為に「心地よい」という範囲内におさまっている。
「ビールは苦いから好きじゃない」と言う人でも、このホップの苦みに不快感はあまり感じないだろうと思う。
 とれたてホップなどと銘打ってはいても、決して苦すぎる事は無いからご心配なく。

 そして酒質も重くなく軽やかなくらいで、副原料入りのビール類にありがちな嫌味は全くなく澄んだ味だから、気持ち良くぐいぐい飲める。
 逆にあまりゆっくり飲んでいてぬるくなると、苦みがやや前面に出て来る感じだ。
 だから横浜づくりとは逆に、チビチビじっくり飲むより冷たいうちにグイッと飲むことを勧めたい。

 同じ一番搾りの限定醸造品だが、とれたてホップの方は苦みがあまり気にならない、爽やかで軽めで澄み切った味の万人好みのビールだ。
 それに対し横浜づくりの方は香り高く力強い飲み口の、通好みの個性的なビールという印象だ。
 性格としては真逆のビールだが、どちらも良く出来ていて美味いと思う。

 しかもエビスやギネスなどに比べて実売価格で50円くらい安く、通常の一番搾りと同じ二百円ちょっとで買える(筆者の家の近くのスーパーでは本体197円で税込み213円)のだ。
 もしご近所のスーパーや酒屋で見かけたら、キリンのこの限定醸造の二種類のビール、買って味を見てみても決して損はしないと思う。
 味はかなり違うけれど、どちらも通常の一番搾りより美味しいデス。

 あまり重くない爽やかなビールを普通にゴクゴク飲みたい方にはとれたてホップを、そして香り高く飲み応えのあるビールを、ゆっくり、じっくり飲みたい方には横浜づくりをお勧めする。

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「恩を覚えていてくれるなら、恨みだって忘れてくれる筈も無い」と知るべきだ

 この12月5日の土曜日に、実話をもとにした二本の映画が公開された。
 まずは紀州沖で沈没したトルコの軍艦エルトゥールル号の乗員を、付近の住民たちが懸命に救助した『海難1890』。それにリトアニアの日本領事代理が外務省の訓令に反して、ナチスの迫害から逃れて来たユダヤ人たちを助ける『杉原千畝』である。
 平たく言えばどちらも日本人が多くの外国人の命を救う、「やっぱり日本人は凄い!」とウヨクの人達が大喜びしてしまうような“美談”だ。

 いや、エルトゥールル号の乗組員を助けた紀州の住人たちや、杉原千畝氏が立派である事に関しては、筆者にも異論は些かも無い。
 だがだからと言って、まるで自分もその当事者であるかのようにイイ気分になり、さらにそれを日本人の民族性にまで結びつけ、「やっぱり日本人は優しくて立派だよね」と短絡的に考えてしまうのは、どんなものだろうかと筆者は疑問に思うわけだ。

 かのウィンストン・チャーチルが残した様々な言葉の一つに、こんなものがある。
三十でリベラルでない奴は冷たい、四十でまだリベラルな奴は知性が無い
 生まれてからずっと一貫して保守思想の持ち主で、サヨクやリベラルに属した事がただの一度も無い筆者は、そのチャーチルの言葉に従えば、知性の有無はどうあれ冷たい人間のようである。

 ただ筆者は思想的には間違いなくサヨク嫌いの保守だが、理屈抜きで「日本は世界に誇るスゴい国だ!」と素直に信じて他国を叩き他民族を貶める、脳の皺の数が明らかに少なそうなウヨクの国粋主義者たちも大嫌いである。

 天皇を現人神として拝み、「日本は神国だ!」と本気で信じ込むような、戦争が終わるまでの日本の社会には吐き気すら感じる。
 同時に、「日本には三千年来の国体がある。米国には国の芯がない。この違いがきっとでてくる」などという神懸かり的な精神論を言い、軍事力や物資の差を無視してあの無謀な戦争を始めた東条英機だけでなく、彼も含めた戦犯たちを、彼らの犠牲になった一般の兵士らと一緒に神として祀る靖国神社の遊就館の戦争観にも、ただ嫌悪感しか覚えない。

 また、その東条英機を初めとする刑死したA級戦犯らを、「今の我が国の繁栄の礎を築いた昭和殉難者」と称える安倍首相の政治思想や戦争観や歴史観にも、戦前の日本に近い危ういものしか感じられないし、だから安倍内閣は全く支持できない。
 筆者はサヨク嫌いの保守だが、思想的には自民党ハト派の宏池会に近く、同じ自民党でもウヨクに近いタカ派の清和会は大嫌いである。
 だから小泉純一郎氏が政権の座について以来、清和会の支配する自民党には一度たりとも票を投じた事が無い。

 さて、その清和会に属する安倍首相は、今年の戦後70年談話の中で、こんな事を言った。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を越えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。


 これを「もっともだ」と思いながら聞いた日本人は、おそらく数多くいるのではないだろうか。
 実際、筆者も若い中国人や韓国人らに、怒りの籠もった口調で日本の侵略や植民地支配を責める言葉を言われると、「戦後かなり経って生まれたこの俺が、同じ戦後生まれのアンタに何をしたよ?」と言いたくなってしまう。
 日本に怒りをぶつける権利があるのは、実際に日本兵に酷い目に遭わされた元捕虜や、日本軍に占領されたアジア各国に住んでいたお年寄りだけではないかという気持ちもある。
 また、かつての戦争に責任がある日本人は、現在も生きている人々の中では少なくとも九十代以上の後期高齢者ではないかとも思う気持ちもある。

 しかしだ、ここで冒頭に取り上げた史実を基にした二本の映画、『海難1890』と『杉原千畝』を思い起こしていただきたい。
 遭難したエルトゥールル号の乗員を救助した紀州の人々も、ナチスに迫害されたユダヤ人を救った杉原千畝氏も、どちらも立派である事には間違いない。
 だが1940年に杉原千畝氏が救ったユダヤ人は、今では殆ど生き残っていない。
 1890年に救われたエルトゥールル号の遭難者に至っては、ただの一人も生き残っている筈もない。
 そしてエルトゥールル号の遭難者を救った紀州の人々も杉原千畝氏も、今はみな故人となっている。

 もしも安倍首相が戦後70年談話で語ったように、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」のだとしたら。
 同時にエルトゥールル号の遭難者の救助にも、杉原千畝氏が領事代理を務めるリトアニアの領事館に逃れて来たユダヤ人を救った事にも何ら関わりのない今の世代の日本人には、彼らの業績をまるで我が事のように誇りに思う資格も、トルコ人やユダヤ人たちに感謝される資格もまるで無い筈
ではないか。

 にもかかわらず、日本人は自分に「何ら関わりのない」昔の紀州の人や杉原千畝氏の行為を誇りに思っている。「同じ日本人として」と称し、まるで自分や身内が成し遂げた手柄であるかのように思って。
 そしてトルコの人達やユダヤ人達もまた、紀州の人々や杉原千畝氏の行為は今も偉業として語り伝え、それに「何ら関わりのない」今の世代の日本人に対しても感謝の気持ちを抱き続けている。
 それもただ感謝の気持ちを抱かれているだけでなく、現実に日本人は恩返しもされているのだ。

 1980年に始まったイランイラク戦争が激化した1985年に、イラクはイランに対して無差別攻撃を始めた。そしてイランの首都テヘランに住む外国人たちは、一斉にそれぞれの母国に避難を始めた。
 しかし無差別攻撃がされている戦争の最中であるから、無論危険である。だからどこの国の航空会社も、自国の国民を優先して乗せた。そして危険を恐れる日本の航空会社は飛行機を飛ばさず、テヘランの日本人は戦火の中で孤立しかけた。
 そこに手を差し伸べてくれたのが、トルコであった。何と95年も前のエルトゥールル号の乗員を救助してくれた恩を返す為に、わざわざ危険をおかし特別機を飛ばして日本人を助けてくれたのである。
 例の『海難1890』という映画の中で、トルコの大使館員はこう言う。
祖先は日本人に助けられた

 もう一方の杉原千畝氏も、ただイスラエル政府から“諸国民の中の正義の人賞”を授けられただけではない。杉原千畝氏に救われたユダヤ人やその子孫と、杉原千畝氏の子孫との交流は今も続いている。
 この12月2日の毎日新聞によると、杉原千畝氏の孫の杉原まどか氏は現在、NPO法人「杉原千畝命のビザ」の副理事長を務めている。そして杉原まどか氏の大学生の長男は、昨年と今年、杉原千畝氏に救われたユダヤ人の一人の故ドラ・グリンバーグ氏の孫にあたる、オーストラリアのシドニーに住むダニエルさんの自宅にワーキングホリデーで滞在した。
 その際、ダニエルさんはまどか氏の長男にこう言ったそうである。
「いつでもいらっしゃい。あなたの家はここにあるのだからね」

 杉原千畝氏に救われたのはダニエルさんの祖母であって、ダニエルさん自身ではない。
 確かに今ダニエルさんがこの世に存在するのは杉原千畝氏のおかげだろうが、ダニエルさんの祖母を救ったのは杉原千畝氏であって、その曾孫(まどか氏の長男)には何の恩義も受けていない筈である。
 にもかかわらずダニエルさんは亡くなった祖母の恩人の杉原千畝氏の、その曾孫に対しても今もまだ感謝し続けているのである。
 トルコ人に至っては、直接の先祖でも何でもないエルトゥールル号の乗組員に日本人がした事を今もって忘れず、95年後にしっかり恩を返したのである。

 さて、ここで貴方にお尋ねしたい。
 貴方は自分が受けた恩は終生忘れずに孫子にも語り継ぐが、酷い事をされた恨みは綺麗さっぱり水に流して忘れられるほど“できた人間”だろうか?
 聖人君子ならともかく、恩を覚えているなら恨みも同様に忘れないのが普通の人間だと筆者は思う。
 そして中には、「恩はすぐに忘れるが、恨みの方は決して忘れない」という困った者までいるのが現実だ。

 先週、「筆者は執念深い方で、お客として行った店や会社から受けた嫌な対応は何年経っても決して忘れず、その店や会社は二度と利用しない」と書いた。
 誰かに酷い事をされても、恨みは早く忘れて水に流すのが、日本では美徳とされている。
 しかし世界的には筆者のような人間や民族の方が多く、恩も恨みもどちらも忘れず世代を越えて覚えているのが当たり前なのである。

 だから安倍首相が戦後70年談話で語った、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を越えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」というあの言葉は、世界的には、特に日本に侵略を受けた国々や奇襲攻撃を受けた国には、決して受け入れ難い言葉であろう。

 考えてもみてほしい。
 トルコは95年も前に殆ど血縁も無い祖先が受けた恩を忘れず、命の危険もおかして見ず知らずの日本人たちを助けた。
 75年前に杉原千畝氏に命を救われたユダヤ人たちもまた、孫子の代になってもその恩を忘れずにいる。
 にもかかわらず、70年前に日本が犯した、何十万、何百万という他国の人を死なせた戦争責任を「もう水に流して忘れてくれてもいいじゃないですか」と言わんばかりの戦後70年の安倍談話が、世界の感覚からどれだけズレているか、同じ日本人として想像ができないものだろうか。


 今から一世紀よりずっと前の1890年に紀州の人達に救われた、エルトゥールル号のトルコ人は数十人である。
 75年前に杉原千畝氏が救ったユダヤ人は、約6千人である。
 その恩を彼らは孫子の代になってもまだ忘れていないし、その業績を直接には「何ら関わりのない、子や孫、そしてその先の世代の子どもたち」である日本人もまた誇りに思っている。まるで己がした世界に誇るべき事のように思い、映画にまで作って。
 ならば紀州の人や杉原千畝氏が救ったよりはるかに多くの人を死なせた先の大戦に関する、日本に対する他国の恨みはもっと深く残っている筈だと理解できないとしたら、その人の感性は鈍すぎるし「身勝手で厚顔無恥だ」と言わざるを得ない

 以前、テレビのニュースで中国人の青年が「祖母が戦争中に日本兵に酷い目に遭わされた、だから日本は大嫌いだ」と、怒りの籠もった目で吐き捨てるように言ったのを見たことがある。
 思わず筆者は、「悪いのはその日本兵で、俺や今の若い世代の日本人が君のお祖母さんに酷い事をしたわけじゃないんだけどな」と思ってしまった。
 しかしトルコ人や、杉原千畝氏に救われたユダヤ人の子孫達が今もって恩義を忘れていない事を考えれば、「中国など侵略を受けた国々の人々が、孫子の代まで日本を恨むのも仕方のない事だ」とわかる。

 だから安倍首相が戦後70年談話で示唆したように、「あの戦争に何ら関わりのない子や孫の世代の日本人は、もう謝らなくていいダロ」と思うのは、世界的にも人間としてもおかしいのだ。
 繰り返すが、「世代が変われば恨みはもう忘れるべきで、だが恩だけはいつまでも覚えていてほしい」などと求めるのは、虫が良すぎるというものである。
 戦争の加害者である日本が「過去の過ちはもう謝らなくて良いよね」と言えるようになるのは、被害者の国に買ってしまった恨みを越えるだけの恩と善意を与えてからだと、筆者は考える。それで初めて過去の過ちを水に流してもらえるのだと思う筆者は、いわゆる“反日”で“自虐史観の持ち主”なのだろうか。

 杉原千畝氏と言えば、ユネスコ世界記憶遺産の国内候補に決まった。
 しかし同時に、日本政府は同じユネスコ世界記憶遺産に中国が申請して登録された南京大虐殺に、証拠の根拠が不十分だと反論している。
 しかし殺された中国人被害者の数はどうあれ、虐殺そのものがあった事は日本の大多数の学者も認めている。南京での日本軍の虐殺を否定しているのは、理屈抜きで何が何でも「日本は絶対に悪くナイ!」と言い張りたいネトウヨと、日本を戦前の“神の国”に戻したい軍国主義者だけである。

 確かに中国側が主張する、30万人以上という犠牲者の数には疑義がある。
 しかし主張する犠牲者の数が疑わしいからと言って、「虐殺が無かった」という事には、絶対にならない
 例えば例の戦争法案でも、国会前で幾日もデモが続けられた。
 ただそのデモに集まった人数については、主催者や警察、それにマスコミ各社によってかなりの違いがあった。報道と言論の自由がある我が国ですら、立場によって主張するデモの人数にかなりの差が出て来るのである。
 そしてその人数に差や違いがあるからと言って、「デモが無かった」という事には決してならないように、日中で主張する犠牲者数に差や違いがあるからと言って、「南京大虐殺は無かった」という事になる筈もないのだ。
 だから中国側の主張する犠牲者数の疑わしさを根拠に南京大虐殺そのものまで否定するのは、絶対に間違っているし、頭がおかしいと言うレベルの無茶な主張だ。

 実際、2010年の日中歴史共同研究でも、日本側は南京大虐殺を認めた上で、その犠牲者数については20万人を上限に、2万から4万人と推計している。
 その日本が認めた少ない方の「2万から4万人」という数字でも、南京で日本軍が虐殺した中国人は、紀州の人たちが救ったエルトゥールル号の数十人のトルコ人はおろか、杉原千畝氏が救った6千人のユダヤ人より遙かに多い
 そして日本軍は南京でのみ戦ったわけではなく、中国各地に攻め込み、何百万人という数の中国人を殺している。
 にもかかわらず「トルコ人にはエルトゥールル号の事を覚えていてほしいし、杉原千畝氏の功績は歴史記憶遺産にされて当然だ。けど中国が南京大虐殺を歴史記憶遺産に登録したのは不当で、中国人もいつまでも恨んでいないで戦争の事は早く水に流して忘れるべきだ」と思うのが、いかに愚かで不当な事か、まるで理解できない日本人が存在する現実が情けない

「自分や日本から受けた恩だけ孫子の代まで覚えていて、恨みの方はさっさと忘れて水に流してほしい」
 人間も世界も、そんなに甘く都合良くできてはいないのだよ。


 今月公開された、『海難1890』と『杉原千畝』の二つの映画を見て、ただ「うん、日本人はやっぱりスゴい、世界に誇るべき国だ!」と良い気分になるだけでは、生きた反知性主義とも言うべきネトウヨや戦前の大日本帝国大好きの軍国主義者と大して変わらぬ。
 トルコ人やユダヤ人が、一部の日本人から受けた恩を孫子の代まで心に刻んで感謝してくれるならば。
 同時に日本人や日本軍から酷い事をされた国の人達は、その恨みも孫子の代まで心に刻んで反日の気持ちを持ち続けるであろう
事にまで思い至らぬ人は知性が足りないと、少なくとも筆者は思う。

 しかし我ら日本人は、ろくな戦略や確かな勝算も無いまま、物量や国力や戦力の差を無視し、愚かな精神論と日本にのみ都合の良い甘い期待に縋って無謀な戦争を始め、そして三百万人を越す同胞を死なせたA級戦犯らが靖国神社に“神”として祀られてもさして怒らず、さらにその刑死したA級戦犯を昭和殉難者と称える首相に四割前後もの高い支持率を与え続けるような国民だから。
 そんな日本人に「恩を孫子の代まで忘れないなら、恨みだって孫子の代まで忘れないのだぞ」といくら言っても、そもそも無理な事かも知れぬ。
 そう悲しく思いながら、先日封切りされた『海難1890』と『杉原千畝』の、観る人に知性と考える力が欠けていればただ「日本バンザイのお国自慢」になりかねない二本の映画の広告を眺めた。

 我が日本国は言論と表現の自由が保障されている国の筈だが。
 しかし現在は、ちょっとでも日本が過去に犯した過ちに触れれば“自虐史観”だの“媚中の売国”と罵倒され、安倍首相を批判すれば“反日”と叩かれるのが現状だ。
 安倍首相を少しでも批判すれば「この反日め、日本から出て行け!」と怒り出す、現政権の支持者の知性の無さには呆れるね。そもそもいつ「安倍首相=日本」になったんだよ、っての。
 この日本という国は安倍首相が生まれる遙か昔より存在したし、現政権が調子に乗ってあの戦争法案を悪用しさえしなければ、安倍首相が死んだ後もずっと存在し続けるんだよ。
「安倍政治には反対だし、現政権には一刻も早く退陣してほしいけれど、日本は大好き」という愛国者だって大勢いるに決まってるだろ。それくらいわかれよ、ネトウヨと我が国を戦前の大日本帝国に戻したい軍国主義者諸君。

 その明らかに自民党タカ派の安倍首相ですら戦後70年談話で述べたように国策を誤り、愚かな戦争を仕掛けて多くの同胞を死なせ、国土を焦土と化させた東条英機らを神として祀り、彼らA級戦犯を昭和殉難者と賛美する首相を支持し続ける日本人たちこそ“自虐”で“ドM”の見本なのではないかと筆者は思うのだが、間違っているのは果たしてどちらであろうか。

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