空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

風か鳥の落としもの

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 二階のベランダのプランターに、撒いた筈も無い見知らぬ花が咲いていました。
 日当たりだけでなく風通しも良い我が家の二階のプランターでは、こうした事がしばしばあります。
 風のせいだけでなく、飛んで来る鳥が落とした糞から芽が出る事もありますし……。
 こうした植物が生えてくるのを迷惑に思う事もありますが、それより植物の繁殖力に驚かされる気持ちの方が強いです。

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意外に美味しい、ホワイトオークあかし

 兵庫県明石市に、江井ヶ嶋酒造という会社がある。
 この江井ヶ嶋酒造は従業員数も四十人ちょっとで、とても大手メーカーとは言えないが、日本酒だけでなくウイスキーや焼酎などいろいろな酒を造っている。
 そしてウイスキーは、その四十数人のうちの三人が造っているという。
 たった三人で造っているウイスキーと言われれば、ウイスキー好きとしては興味を引かれてしまう。

 だがその江井ヶ嶋酒造のウイスキーは、分類が少しばかりややこしい。
 まず一番の上級品はシングルモルトのあかしだ。これは緑の文字であかしと書いてあるが、限定品でいつも売られているとは限らない。
 で、実質的に主力商品と思われるのが、ブレンデッドのホワイトオークあかしだ。これはWhite Oakと金文字で、そして黒文字であかしと書いてある。
 それより少し安い値段で、赤い文字であかしとだけ書いてあるものがある。
 さらにもっと安い値段で、ホワイトオーク・ゴールドホワイトオーク・レッドがある。これはどちらもモルト原酒をスピリッツ(樽貯蔵ナシのただのアルコール)で希釈しただけという、ウイスキーとはとても言い難い恐ろしいシロモノだ。
 で、ホワイトオークのレッドの方は度数37%で、ゴールドの方はただ度数が40%であるだけでなく、モルト原酒の使用割合も少し多いように思われる。

 以前にもこのブログで書いたが、そのモルト原酒をスピリッツで希釈しただけの最も安いホワイトオーク・レッドが、アルコールの刺激がツンツンするのを我慢しさえすれば案外飲めたりするのだ。
 だから江井ヶ嶋酒造のウイスキーは、モルト原酒はなかなか悪くないと思われる。

 ただスピリッツでなくモルトとグレーンで造られたちゃんとしたウイスキーである筈の赤文字のあかしは、飲んで不味とまでは言わないが、全体的に薄味で物足りなく感じられた。
 で、今回はその赤文字のあかしよりさらに上の、ホワイトオークあかしを飲んでみた。

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 封を切ってグラスに注ぐと、甘い香りとアルコールの匂いが漂う。
 しかしアルコールの刺激は飲んでみると思ったより強くなく、特にトワイスアップにするとアルコールの刺激は殆ど無くなり、甘さがより際立って来る。
 スモーキーさやピート香は、全くと言ってよいほど無い。しかし甘く滑らかで、さらに味にも深みがある。

 封を切ってから一週間ほど置いておき、空気と触れ合いモルト原酒の香りが広がるのを待ってから再び味わってみると、甘さと樽の香りが華やかになり、封を切った直後に感じたアルコールの匂いは殆ど無くなっている。
 滑らかで、アルコールのツンツンした刺激は感じない。やはりスモーキー香は無いが、ただ甘いだけでなく味にコクと深みがあり、じっくり飲んで「うまい」と感じる。

 このホワイトオークあかしは500ml入りの瓶で売られていて、筆者の住む市の酒屋では1080円で売られていた。で、これを一般的な700mlの瓶に換算してみると千五百円を越える値段に相当する事になる。
 このホワイトオークあかしに、筆者はそれだけのお金を出す価値は充分にあると思った。
 二千円クラスのウイスキーの味と香りには、もちろんかなわない。
 しかし千円クラスの他の国産ウイスキーより間違いなくまろやかで味に厚みもある。
 お買い得とまでは言わないが、お値段相当の価値は充分にある。
 何しろ地方の酒蔵で、たった三人で造っているものだけに、店頭で見かける事は少ないだろう。しかしネット等で他のウイスキーを注文する機会があったら、よろしければこのホワイトオークあかしも、ぜひ味見してみていただければと思う。

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 ただ同じ瓶で売られていて割安に見えても、赤文字のあかしの方はお勧めできない。
 筆者は今回、ホワイトオークあかしと、赤文字のただのあかしを実際に飲み比べてみた。
 赤文字のあかしは、このホワイトオークあかしと比べて明らかに味も香りも薄く、味に奥行きや厚みが無く薄っぺらいのだ。
 それだけではなく、赤文字のあかしは同じ度数なのにアルコールの刺激が明らかにキツい。ホワイトオークあかしは滑らかでまろやかだったのに、赤文字のあかしは若いアルコールの刺激がツンツン来る。
 おそらく赤文字のあかしはホワイトオークあかしよりモルトが少なくグレーンの割合が高く、そしてそのグレーンの酒齢が若いのだろう。

 その赤文字のあかしは、ホワイトオークあかしと同じ瓶(500ml)に入れられ似たようなラベルを付けられて、筆者の住む市の酒屋で780円で売られていた。
 これを700mlに換算すると、千百円弱といったところになる。
 はっきり言うがこの赤文字のあかし、そこまでお金を出してまで買う価値はない。少なくとも筆者なら、赤文字のあかしを買うくらいなら、同じくらいの値段で売られているスタンダード・スコッチを買う。その方が余程もマシだ。

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 写真で見比べてみてほしい。
 ホワイトオークあかしと赤文字のあかしは、正面から見ればよく似ていて双子のようだ。
 しかしラベルの裏の方を見ると、かなり違う。
 ホワイトオークあかしの方には「瀬戸内海を望む、兵庫県明石市の小さなウイスキー蒸留所で造ったモルト原酒をオーク樽で貯蔵しブレンドしました」という説明文や、ポットスチルの絵が入れられている。
 だが赤文字のあかしの方にはその絵も説明文も無く、ただ社名と所在地と飲酒上の注意と品名と原材料が買かれているだけだ。
 ホワイトオークあかしと比べて、随分と素っ気ない印象を受ける。

 これは筆者の勝手な解釈だが。
 ホワイトオークあかしと赤文字のあかしの品質の差は、江井ヶ嶋酒造のウイスキーの造り手もわかっているのではないか。
 で、江井ヶ嶋酒造が本当に自信を持って売りたいのはこのホワイトオークあかしで、赤文字のあかしの方は少しでも安いものを求める人達の為に割り切って売り出しているような気がする。

 実際、ホワイトオークあかしを飲んで「美味い!」と思うのは、濃いめにしてじっくり飲んだ場合だけだ。
 ハイボールなどにして薄く割りゴクゴク飲む人には、このホワイトオークあかしと赤文字のあかしの味の差など、まずわからないだろう。
 そして今の日本は、ウイスキーがブームと言いつつハイボールにして飲む人が多数を占めている。

 はっきり言って、筆者は「赤文字のあかしなど要らない」と思う。
 赤文字のあかしを飲むくらいなら、他のスコッチを飲むか、もう少しお金を出してホワイトオークあかしの方を飲む。
 しかし今の日本は「ウイスキー=ハイボール」と思いこんでいる人が多いから、薄く割って飲む為に赤文字のあかしも現実的に必要だったのだろう。

 ただウイスキーとして美味いのは、間違いなくホワイトオークあかしの方だ。
 そしてその商品に対する造り手の自信と自負が、赤文字のあかしのラベルには無い説明文とポットスチルの絵に込められているように感じる。

 筆者は、飲んだウイスキーを大まかに三通りに評価し分けている。
 まずは、またお金を出して買って飲みたいと思うものと。
 お客として行った先で出されたり、店にそれしか無ければ飲むが、進んで飲もうとは思わないものと。
 そしてもう二度と飲みたくないと思うものと。
 今回飲んでみたホワイトオークあかしは、個人的には迷わず「またお金を出して買って飲みたいと思うウイスキー」に分類する。

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NEXCO中日本と民族派右翼団体(守魂正道会)の不可解な関係

 山梨県甲府市に、筆者がとてもお世話になった大切な伯父がいる。
 その伯父が重い病で来月まで命が保つかどうかという状況になってしまった。
 それでこの6月11日の土曜日に、他県から車を飛ばして見舞いに駆けつけたのだが。

 生憎その日は土曜日という事もあり、山梨県内での祭り等とも重なり、道路がひどく混んでいた。
 筆者の車もその一台だが、他県ナンバーの車が多く道を走っていた。

 で、伯父の入院する病院のある甲府市に向かう国道52号線を鰍沢まで進んだ辺りで、一台のダンプが筆者の車の直前に合流して来たのだ。
 このダンプは酷かった。
 黒煙を恐ろしいほど撒き散らして国道を走り続けた。

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 別に過積載というわけではない。
 写真でもわかるように、荷台に土砂等を積んでいるようには見えなかった。
 しかし発進したり加速したりする度に、勾配の無い平地でもモクモクと黒煙を排気管から撒き散らすのである。
 だから僅かでも勾配のある場所に差し掛かると、まるで煙幕でも張ったような有り様になる。

 このダンプ、間違いなく整備不良である。
 少なくとも背後の車から確認できるほど荷物を積んで無く、それで平地でも発進および加速の度に黒煙を大量に排出するなど、整備不良しか理由は考えられない。

 そして信号で停車した時に見てみると、そのダンプのナンバーは白であった。
 いや、筆者も「白ナンバーのダンプはすべて質が悪い」などと言うつもりは無い。
 しかしそのダンプが明らかに整備不良で、大量の黒煙を排出し、ただ後続車に不快な思いをさせているだけでなく、環境に悪影響を及ぼし続けているのは事実である。
 平地で、しかもほぼ空荷で黒煙を吐くのだから。
 もし土砂等の荷物を満載したらどうなるか、想像しただけで背筋が寒くなる。

 で、信号で停車した時に見てみると、その白ナンバーのダンプは妙なステッカーを後部に貼っていた。
 そこにはこう書いてあった。

 守魂・正道 8.6広島を忘れるな!


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守魂正道会P1100974

 筆者はそのダンプの運転手に、声を大にして言いたい。
守るべき魂があり正しい道を行くつもりがあるなら、まずオマエの車をちゃんと整備し、祖国と郷土の環境を守れ!

 ちなみに守魂(桜のマーク)正道とは、広島に本拠をおく民族派右翼団体、守魂正道会の事である。
 そしてこの守魂正道会は、他の右翼団体と同様に街宣活動も行っている

 そして驚くなかれ、この街宣活動を行う右翼団体を支持しながら車両の整備を怠り、祖国と郷土に有害な黒煙を撒き散らす白ナンバーのダンプの荷台の上部には、NEXCO中日本の番号入りのステッカーが貼られていた
 そのダンプが国道に合流した辺りでは、中部横断道路の建設が行われていた。
 NEXCO中日本はその工事に、例の右翼団体のステッカーを掲げつつ黒煙を吐く整備不良の白ナンバーのダンプを使用していたのである。


守魂正道会P1100975

守魂正道会P1100975-2

 ちなみにネットに公開している、中日本高速道路グループの倫理行動規範とコーポレートガバナンスを引用してみよう。

 私たちは、高速道路事業をはじめとする様々な事業への取り組みを通じて、国民経済の発展と国民生活の向上に貢献するという使命に応え、社会・経済・環境などのあらゆる面で良き企業市民として社会的責任を全うすることで、常に社会と調和し、社会から信頼される存在でありたいと考えます。

 私たち一人ひとりが高い理念と規範に基づき行動することが基本であると認識し、全ての役員及び従業員が様々な局面で実践すべき指針として、ここに「中日本高速道路グループ倫理行動規範」を制定します。

(法令遵守)法令や社会のルールを遵守することはもとより、より高度な倫理観を確立し、常に公正・公平・清廉を旨として行動します。私たちは、法令や社会のルールを遵守し、いかなる場合であっても、決してこれに反する行為は行いません
 私たちは、事業の公共性に鑑み、常に公正・公平・清廉を旨として行動します
 私たちは、より高度な倫理観の確立を目指し、絶えず意識向上に努めます

(お客様への姿勢)お客様の安全を第一に考えるとともに、お客様とのふれあいを深めて、お客様の期待に応える事業を行います。私たちは、お客様の安全を第一とし、お客様の期待は何かを考え、私たちのサービスの基本である「安全・快適・便利」を実感していただける事業を行います。
 私たちは、事業を通じて、お客様、地域の皆様、取引先など社会の様々な方々と積極的にコミュニケーションを図ります。
私たちは、お客様の意見に常に耳を傾け、迅速かつ的確に対応します。

(公正な取引の確保)取引先との健全な関係のもと、常に公正な取引の確保に努めます。 私たちは、常に公正かつ透明な手続きに従い、取引を行います。

(企業価値の向上)明確な経営責任のもと、企業価値の向上に努めます。
 私たちは、明確な経営責任のもと、業務改善等による財務体質の強化、新事業の開発、信用の向上などの取り組みを通じ、企業価値の向上に努めます。

(社会への貢献)地域社会や国際社会の発展に貢献するとともに、人に優しい事業を行います。私たちは、地域社会との連携を一層図りながら、地域の人々の生活に密着した事業を行い、地域社会の発展に貢献します。
 私たちは、高齢者や体の不自由な方などに配慮した、人に優しい事業を行います。

(環境の保全)環境に配慮した事業を行います。私たちは、事業による環境への負荷を低減するため、資源の節約や再利用、廃棄物の発生抑制などに取り組みます。
私たちは、地域の生物多様性の保全と健全な生態系の維持に配慮した事業を行います。

(政治・行政との関係)政治・行政との正常かつ健全な関係を保ちます。 私たちは、政治・行政との正常かつ健全な関係を保ちます。
 私たちは、業務に対する不公正な介入については、毅然として対応します。

(反社会的勢力等への対応)市民社会に脅威を与える反社会的勢力及び団体などには、毅然として対応します。
 私たちは、市民社会に脅威を与える反社会的勢力及び団体などには、毅然として対応し、一切の関係を遮断します

(最高経営責任者の役割)中日本高速道路グループの最高経営責任者は、自らの役割としてこの規範の精神を率先垂範し、グループ内に周知徹底するとともに、そのための実効ある社内体制の整備を行います。この規範に反する事態が発生したときには、自らが問題解決に当たり、原因究明及び再発防止に努め、説明責任を果たします。

 さて、その中日本高速道路グループが「私たち一人ひとりが高い理念と規範に基づき行動することが基本であると認識し、全ての役員及び従業員が様々な局面で実践すべき指針」として公開している倫理行動規範とコーポレートガバナンスに基づいて、NEXCO中日本に幾つか問いたい事がある。

 NEXCO中日本の高速道路の工事に、明らかに整備不良と思われる右翼団体のステッカーを貼ったダンプを使用しているのは、「法令や社会のルールを遵守していない」だけでなく、「公正でも公平でも清廉でもない」行為と筆者は考えるが、貴社はどうであろうか。「法令や社会のルールを遵守し、いかなる場合であっても、決してこれに反する行為は行いません」という貴社の言葉が、少なくとも筆者には空疎にしか聞こえない。
 NEXCO中日本は本当に、「事業の公共性に鑑み、常に公正・公平・清廉を旨として行動し」ているのだろうか。「より高度な倫理観の確立を目指し」と言っているが、実に疑問である。

 公道を、右翼団体のステッカーを貼り煤煙を撒き散らして走る事が、果たして「お客様の安全を第一に考えるとともに、お客様とのふれあいを深め」る行為と言えるだろうか。少なくとも筆者には、NEXCO中日本がサービスの基本であると言う「安全・快適・便利」を全く実感できない。
 NEXCO中日本は「事業を通じて、お客様、地域の皆様、取引先など社会の様々な方々と積極的にコミュニケーションを図ります」と言うが、NEXCO中日本がコミュニケーションを図り意見に耳を傾けているのは、まさか「守魂正道会なる民族派右翼団体」ではあるまいな?

 ろくな車両整備も行っていない、民族派右翼団体を支持する業者を工事に雇用することもまた、NEXCO中日本の言う「取引先との健全な関係」による「公正かつ透明な取引なのだろうか。

 我が国には、思想信条の自由がある。
 だからNEXCO中日本の道路工事にかかわる運転手の一人に、過激な右翼思想の持ち主がいたとしても、問題は全く無い。
 守魂正道会なる民族派右翼団体に加盟しようとも、それは従業員の自由である。
 しかしNEXCO中日本の工事にかかわり、NEXCO中日本のステッカーを大きく掲げたダンプに特定の政治団体のステッカーを貼り付けて公道を走ったとしたら、「NEXCO中日本はその政治団体を支持しているのだろう」と見られても仕方あるまい
 NEXCO中日本の工事にかかわる車はすべて、NEXCO中日本の看板を掲げて作業しているのである。

 例えばある企業の車に、運転者が己が支持する政党や政治団体のステッカーを貼り付けて公道を走ったとしたら。
「ああ、その企業はそうした政治思想を支持しているのか」と思われても仕方あるまい。

 で、守魂正道会なる右翼団体のスローガンを貼ったダンプが、NEXCO中日本の名を掲げ、明らかに整備不良と思われる黒煙を撒き散らして公道を走り回っている。
 この現実は、NEXCO中日本の「明確な経営責任」によれば、「企業価値の向上」につながる行為になっているのだろうか。
 NEXCO中日本の言う「人に優しい事業」で、「人々の生活に密着し」かつ「地域社会の発展に貢献し」ていると言えるのだろうか。
「環境に配慮した事業を行います」だの「地域の生物多様性の保全と健全な生態系の維持に配慮した事業を行います」だのと、あの黒煙を吐く守魂正道会のダンプを見れば「よく白々しい嘘を言えたものだ」と思ってしまう。

 NEXCO中日本は「私たちは、政治・行政との正常かつ健全な関係を保ちます」、さらに「私たちは、市民社会に脅威を与える反社会的勢力及び団体などには、毅然として対応し、一切の関係を遮断します」と言うが、街宣活動も行っている守魂正道会なる右翼団体のスローガンを貼ったダンプが、同時にNEXCO中日本の工事車両として公道を走る事に、「何の問題もない」とお考えなのだろうか。
 いくら今の安倍政権下で、日本の社会が急激に右傾化しつつあるとは言え。
 街宣活動を行う右翼団体を「市民社会に脅威を与える反社会的勢力及び団体とは思っていないし、そのスローガンを貼ったダンプがNEXCO中日本の工事車両として公道を走っても全く問題はない」と考えているとしたら、NEXCO中日本は市民感覚にひどく鈍感だと言わざるを得ない。

 NEXCO中日本の倫理行動規範とコーポレートガバナンスによれば、「中日本高速道路グループの最高経営責任者は、この規範の精神を率先垂範し、グループ内に周知徹底するとともに、この規範に反する事態が発生したときには、自らが問題解決に当たり、原因究明及び再発防止に努め、説明責任を果たします」とHP上で明言している。
 ならば是非とも、NEXCO中日本の看板を背負ったダンプが民族派右翼団体のスローガンを掲げ、明らかに整備不良の為と思われる黒煙を撒き散らして公道を走っている事が倫理行動規範とコーポレートガバナンスに抵触しないかどうか、しっかり調査していただきたいと思う。

 NEXCO中日本が高らかに謳う「私たちは、高速道路事業をはじめとする様々な事業への取り組みを通じて、国民経済の発展と国民生活の向上に貢献するという使命に応え、社会・経済・環境などのあらゆる面で良き企業市民として社会的責任を全うすることで、常に社会と調和し、社会から信頼される存在でありたいと考えます」という倫理行動規範が、建前だけの空文ではないと行動をもって示して下さる事を、切に願ってやまない。

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安眠する猫さん

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 ヒトのベッドで、大の字になってお休みになっている猫さんです。
 この姿を見ると、「この子は我が家に来て幸せに暮らせているのだなあ」と感じて、少し安心してしまいます。

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外を見る

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 我が家の猫は完全室内飼いです。
 猫エイズや白血病などのいろいろな伝染性の病気も怖いし、それに本人も喧嘩に弱い臆病な子なので、これが一番と思っているのですが。
 でもこのように窓から外をじっと凝視している姿を見ると、少しだけ可哀想な気になってしまいます。

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この雲のように

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 唐突ですが、私は死んだらこの世には留まらず、さっさとあの世とやらに逝ってしまおうと思っています。
 この雲のように、空高く天に昇って行きたいです。

 ……と言いつつ、もしかしたら地獄に墜ちてしまうかも。
 己のこれまでの所業を振り返ると、「絶対天国に行ける!」と言い切れないトコロが辛いです。

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窓の外の青空

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 私の部屋の窓を開けると、広い空が見えます。

 私の八十代になる伯父は、一昨年転倒し背骨を圧迫骨折してしまい、寝たきりになってしまいました。
 そして家族では介護しかねるという事で、介護施設に入所させられてしまいました。

 その伯父のいる部屋は狭く暗く、小さな窓からは空もろくに見えません。
 伯父は「ほんのちょっとの間で良いから自宅に戻り、居間から庭を眺めたい」と言い続けました。
 しかしその願いも叶わぬまま介護施設から帰されず、とうとう「命が今月いっぱいもつかどうか」という宣告を受けてしまいました。

 その伯父にせめて広い空を見せてあげたいと、心から思います。

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眺める

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 私のベッドに寝そべりながら、じっと窓の外を眺めています。
 このように何かを凝視し続けている時、猫は何を考えているのだろう……と時々思います。

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過度の飲酒は身を滅ぼす

 当ブログで酒についての話を度々書いている為、筆者について「きっと大酒飲みのアル中なのだろう」と誤解している方もおられるかも知れない。
 しかし実際には筆者は酒にはかなり弱い方だし、酔って乱れる人は生理的に嫌いなのだ。

 実は筆者の父は、酒に飲まれるタイプの酒飲みだった。
 平たく言えば、入院しても治る事の無かったアル中の患者であった。
 毎晩のように酒を飲み、そして飲めば必ずと言うほど人に絡み、怒鳴り、モノを投げて暴れる。
 そういう種類の、実にたちの悪い酔っ払いだった。

 ちなみに父は学生時代には武道をやり筋骨逞しく、若い頃には喧嘩もかなりしたという。
 その父は筆者が生まれる前から大酒飲みで、筆者が物心ついた頃には既に日常的に酔って怒鳴り、そして暴れていた。
 そうした環境で、子供がどのように育つか想像できるだろうか。
 常に父の顔色を窺い、いつキレて暴れ出すかと、杯を重ねる父を怯えの目で見ながら毎日を過ごすのだ。
 そして暴言と暴力の対象になる母を助ける事も出来ず(庇うと父は更にキレてより暴れる)、部屋の隅で縮こまってただ耐えているのだ。
 だから筆者は、大酒を飲んで乱れる人間は今も生理的に大嫌いだ。

 その父は、大酒と不摂生がたたってか五十代の半ばで亡くなった。
 実の父なのだから、亡くなった時にはもちろん悲しかった。葬儀の日は遺族の長男として何とか務めたものの、通夜の晩には涙を堪えるのに苦労した。
 しかし葬儀の後、悲しみは意外に早く薄れた。
 飲んでは怒鳴って暴れる人に怯えずに済む生活とは何とストレスの無い快適なものなのだろうと、気付いてしまったからだ。

 酒乱の夫となかなか離婚しない妻が、よく「酒さえ飲まなければ良い人なのよ」と庇ったりするが。
 亡くなった筆者の父も、その種の人だった。
 家計は決して楽ではなかったが、よく家族ドライブや旅行などにも連れて行ってくれたし、料理などもよく作ってくれた。
 子供の欲しがる物も、無理をしてでも買ってくれようともした。
 思い出してみれば、良い所もいろいろある父だった。
 しかし頻繁に飲む大酒と、飲めば必ず人に絡み、そして怒鳴って暴れる事の繰り返しで、その人としての美点がすべてかき消されてしまうのだ。

 筆者は大学では歴史を専攻したが、その他にも文化人類学や民族学もかなり興味があって好きだ。
 だから筆者は、お年寄りの昔話を聞くのが全く苦にならない。と言うより、昔の人の暮らしぶりを聞くのを、本音で「楽しい」と思う。
 しかし父の昔話だけは聞く気になれなかった。
 何故なら話せば、父は必ず酒を飲み出すに決まっていたからだ。
 だから父が何か話を始めながら酒を飲み出すと、筆者は機会を探し早めに父の居る部屋から抜け出すようにしていた。
 そして父の生い立ちや若い頃の思い出話などを当人から殆ど聞かぬうちに、父は酒の為に亡くなってしまった。

 こういう家庭環境で育ったものだから、筆者の心には飲んで乱れる者に対する生理的な嫌悪感が非常に強くある。
 そしてまた、筆者が社会に出た時期がまた悪かった。
 今はアルハラという言葉もあるし、職場での飲み会に出たがらない若者も増えてきた。
 しかし筆者が社会に出た頃には「飲み会は全員参加が常識」で、しかも「上司や先輩の酒は飲むもの」でもあった。
 イッキ飲みなどと言う言葉もその頃に生まれ、飲み会では酔って乱れるまで飲むのが当たり前だった。

 想像して貰いたい。
 毎晩のように酔って怒鳴って暴れる父に怯えて育ち、酔っ払いにトラウマと生理的な嫌悪感を持つ者が社会に出て、乱れるまで飲む飲み会に強制参加させられ、イッキ飲み等を強いられたら、どんな気持ちになるかを。
 だから筆者は、社会に出て日本の酒飲み達をますます嫌悪するようになった。
 筆者は「付き合いが悪い」と言われても、飲み会への参加は極力避け、その為に飲み会好きな上司に憎まれ、職場で散々いびられ続けた事もあった。
 おかげで「酒飲みはクズだ」という思いが、より深く確信に近いまでになった。

 だが筆者は嫌いだし飲んでも不味いと思うのに、世の中には酒が好きな人が大勢いる。
 だから酒好きで飲み会好きな人に対する反感を強く持つ一方で、「皆が好きな酒を嫌いで不味いと思う自分は、どこかおかしいのではないか」という気持ちも抱き続けた。
 で、時折試しに少しだけ飲んでみるのだが、その度に「やはり不味いや、こんなモノを好き好んで飲む人の気が知れない」と思う繰り返しだった。

 今になって考えてみれば、それも当然である。
 なぜなら当時の酒はビールと言えば副原料入り、日本酒はアル添酒、ウイスキーも原酒を樽熟成ナシのアルコールで希釈した、味わうのではなくただ酔っ払う為のまがい物の酒ばかりだったから。

 ところが青森県を旅した時、青森市のデパートの土産物コーナーで見事なねぶたの絵が描かれた化粧箱に入った、その名もねぶたと言う上北郡おいらせ町の桃川株式会社の純米酒を見つけて。
 そしてその箱絵に惹かれて、つい衝動買いしてしまったのだ。
 値段も四合瓶で千円ちょっとだったし、ラベルと箱絵が見事だったから、「まあ騙されてもいいや」くらいのつもりで、旅の記念のつもりで買ったのだ。
 いや、そしたらそれが、想像以上に美味かったのである。それまで飲み会で飲まされてきた、大手メーカーの酒とはまるで別物の味と香りに驚いた。
 そして筆者は酒を酔う為で無く、良いものを少しだけ味わって飲む美味さを知ったのだ。

 良いものを選んで味わって飲むと、酒は本当に美味い。
 そして適量の酒は、健康にも良い。
 酒は飲み過ぎるともちろん体に悪いが、酒を全く飲まない人より、少量飲む人の方が健康で長生きする事も医学的に実証されている。
 適量の酒は血流を良くする為、体の緊張が和らぎ疲れが取れる。同時に心のストレスも軽減される。

 だがこの“適量”というのは、特に酒飲みから見ればかなり少量だ。
 日本酒やワインなら一合。
 ビールなら大瓶か500ml缶一本。
 焼酎なら120ml。
 ウイスキーなら60ml。
 これを越える酒を常習的に飲むと、心身の健康を損ねる可能性が出て来る。
 そして筆者は、家で一人で飲む時にはこの適量をいつも守っている。

 筆者は酒に関して、このブログで当初は主にウイスキーの事に関して書いていた。
 だがビールや酎ハイなどに関する記事がここのところ増えているのは、筆者の酒を飲むペースが遅いせいだ。
 どうやら筆者は飲んだアルコールを分解しにくい体質らしく、飲むとすぐに酔いが回り、顔や手が赤くなってしまう。それだけに調子に乗って飲めるだけ飲んでいたら、たちまち酔って乱れるあの厭なアル中になりかねないと自覚している。
 だから気の合う良い友と会って飲む時を除いて、普段は例の体に良いと言われる適量を極力守るようにしている。
 あの700mlのウイスキーを一本飲み切るのに、実は筆者は二週間近くかけている。
 毎週違うウイスキー評を書くなど、筆者にはとても出来ない。
 それで一番好きなのはウイスキーだが、一本飲めば書けるビールや酎ハイ、それに小瓶で売られている日本酒などについても混ぜて書いている次第だ。

 良い酒だけを、心と体の緊張がほぐれる程度に適量を守って飲む。
 これが筆者の、毎晩の楽しみである。
 酒は飲むが、決して酒には飲まれない。
 これが幼い頃にアル中の父の姿にトラウマを持ち、社会に出てからはアルハラやイッキ飲みに苦しめられた“酒ギライ”の筆者のモットーである。

 筆者はこのブログで、喉越しで飲む副原料入りのビールやアル添酒やハイボールへの批判を度々書いてきた。
 その根底には、大量飲酒と乱れて騒ぐ酔っ払いへの嫌悪感と根深いトラウマがある。
 今では筆者も、「悪いのは酒ではなく、それを大量に飲む人間の方だ」とわかっている。
 だから酔っ払う為に酒をガブガブ飲んで乱れる者は大嫌いだし、その為の低品質の安酒の存在も腹立たしく思っている。

 昔は、筆者は本当に酒が嫌いだった。
 しかし良い酒もある事を知り、自分のペースで適量を守り美味しく飲むことを覚えた。
 その筆者から言わせて貰うが、「酔って正気を無くすまで飲まないと、飲む意味がない」と思っている貴方は、すぐに考えを改めてもらいたい。
 乱れるまで酔いたい人は、周囲の人に多大な迷惑をかけていて、それは回り回って貴方自身の大損に繋がるから。

 筆者の父は、筆者を愛情を持って育ててくれようとしていたと思う。
 思い出して見れば、出来る限りの事をして育てようとしてくれていた。
 しかし物心つく頃には既に始まっていた、ほぼ毎夜の大酒と怒鳴り暴れる事に対する恐怖と嫌悪で、良い思い出や感謝の気持ちが霞んで消えてしまうのだ。
 亡くなってもその悲しみより、「これでもう酔ってキレて暴れられたりしないんだ」という安堵の気持ちの方が先に立ってしまうなど、何とも虚しく情けない事ではないか。

 飲み会自体を否定するつもりは無い。
 ただイッキ飲みをさせたり、飲めぬ者にまで酒を無理強いしたり、乱れるまで飲む事を良しとするような一部の飲み会は、是非やめて欲しいと願う。
 その若い頃のイッキ飲みや、乱れるまで飲む事の繰り返しで大量飲酒が習慣となれば、やがてアル中になるのは目に見えている。
 そうなっても飲ませた方は知らん顔で、飲んだ本人の自己責任という事になってしまう。で、家族の心も離れてしまい、そして亡くなっても悲しむより安堵されてしまうのだ。
 だからこそ、過度の飲酒を強要するような飲み会には、職場や仲間内に波風や角を立てても「厭だ、行かない」と強く言って自己を守る事が必要だ。
 そして既にアル中になってしまっている方は、自ら断酒して家族にトラウマを与えるのを即刻止めてもらいたい

 筆者はアル中の父のいる家庭で育ち、飲酒を強要する職場でますます酒が嫌いになり、ようやく「良い酒を、適量だけ味わって飲む」という事を覚えたところだ。
 酔う為に酒をゴクゴク、ガブガブ飲む事を筆者が毛嫌いする理由を、少しはおわかりいただけだろうか。
 酒癖の悪い人は周囲の者にとって心から迷惑なだけでなく、その為に当人も辛い人生の終わりを迎える事になるのだと覚悟して貰いたい。

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難民や移民の安易な受け入れに反対する

 こんな話がある。
 裕福と言う程では無いもののある程度収入のある家庭の専業主婦が、突如ボランティアに目覚めてしまった。そして市内のボランティア組織に加わり、その活動に熱を上げるあまり、家事をおろそかにするようになってしまった。
 土日も活動に出掛けるばかりか、平日も遅くまでボランティア活動をし、毎日の仕事に疲れて帰って来る夫に食事も作らない有り様だ。それで夫は、妻がボランティア活動の帰りに買って来たコンビニ弁当を食べるしか無かった。
 で、夫は当然それに文句を言う。
 すると妻は「世の中には困っている人達が大勢いるの! 恵まれていて余裕のある私達が助けなくてどうするの!!」と逆ギレして食ってかかった。
 そして妻はボランティア活動に更に熱を上げ、夫が稼いだ給料もその活動費に流用するようになった。それを咎めた夫に、妻はまた例の「世の中には困っている人達が──」と言い返して喧嘩になり、とうとうこの夫婦は離婚に至ってしまったという。

 世の中には、理想と現実というものがある。
 困っている人を助けるのは、確かに正しい事だ。
 しかしそれにも限度と常識というものがある。
 ボランティア活動は大いに結構。しかしそれは家事をこなした後の余った時間でやり、活動費の寄付も自分の小遣いの範囲内でというのが当たり前ではないだろうか。
 どうしてももっと寄付をしたければ、パートでもして自分で稼いだ金を出すのが当然で、夫が家計の為に稼いだ金を勝手に寄付するのは間違っていると筆者は思う。

「困っている人達を助ける」という理想や理念は正しいし立派だ。
 だが助ける方にも「できる限度」というものがある。
 その自分のキャパシティーを越えて理念や理想だけで突っ走ってしまうと、後で痛い目を見ることになる。

 シリアとイラクでISが暴虐の限りを尽くし、それで多くの難民がヨーロッパに逃れている。
 戦場になっているシリアの人達だけでなく、それに便乗するようにアフガニスタンやパキスタンやアフリカなどの経済難民まで押し寄せているから、ヨーロッパの各国政府は対応に大わらわだ。

 人道主義の見地から、ヨーロッパの、特に西ヨーロッパの各国は多数の難民を受け入れている。
 で、「日本も難民を受け入れるべきだ」とも言われているが、貴方はどう思うだろうか。
 心優しい人達は、当然「気の毒だし助けてあげたい」と思うだろう。
 しかし心優しくない筆者は、「西欧のように何万人単位の難民を日本に受け入れるのは、現実的に難しい」と考えてしまうのだ。

 先日、Eテレで『独裁者の部屋』という、スウェーデン制作のドキュメンタリー番組が放送された。
 スウェーデンの八人の若者(男女四人ずつ)が、スウェーデン国内のある場所に隔離され、独裁政治の国を思わせる生活をさせられ、その生活が皆にどのような影響を与えるかを検証した番組だ。

 スウェーデンは、第二次大戦後に多数の移民を受け入れてきた。八百数十万の国民のうち、十数パーセントが移民だという。
 で、その番組に参加した八人のスウェーデンの若者のうち、一人はアフリカ系の黒人で、あと一人がイラン系だった。
 そしてその番組の中でも移民や難民の問題が、若者達の間で論争になった。

 その中でイランから逃れてきた若者が、実感を込めて力説するのだ。「もし国に留まっていたら、間違いなく殺されていた。受け入れてくれる国があって、どれだけ嬉しかったか」と。
 そして移民や難民に偏見を持っているように見える白人のスウェーデン人にこう言う。
「もし君が同じような目に遭って国から逃れなければならなくなった時、受け入れてくれる国が無かったらどうする?」

 確かに自身も難民で、命をかけて逃げてきた者の言葉は説得力がある。
 反アベ政治を公言している筆者も、もし日本が稲田朋美のような政治家が支配する独裁国家になり、政治犯として追われるようになった時、難民として受け入れてくれる国が無かったら本当に困ると思う。
 それに一部の人が本気で懸念しているように、北朝鮮や中国が攻め込んで来る可能性も否定は出来ないし、その時には多くの日本人が難民として他国に逃れなければならなくなるかも知れない。
 それはわかっている。
 それでもなお、筆者は難民の安易な受け入れには賛成できない。

 何故なら国や民族には、長い歴史と固有の文化があるからだ。
 そしてその国の文化や道徳観や生活習慣には、宗教が深くかかわっているからだ。
 キリスト教の国は、文化や習慣だけでなく法律もキリスト教の精神に基づいており、イスラム教の国も当然文化も習慣も法律もイスラム教に基づいている。
 だから異教徒の難民の大量の流入は、受け入れた国に大きな混乱をもたらす

 日本の場合は仏教も神道も多神教だから、他の神や宗教の存在も受け入れる事ができる。
 だがキリスト教やイスラム教などの一神教の信者達の感性は、我々日本人とはまるで違うのだ。
 熱心なキリスト教徒にとってキリストの他に神は無く、他の神はすべて偽物の邪神で異教徒は悪魔である。だから十字軍の兵士や中南米を征服したピサロやコルテスは現地の異教徒を虐殺した。
 そしてまたISやイスラム過激派も、異教徒と見なした者に残虐な仕打ちをしている。
 それは極端な例としても、一神教の熱心な教徒は異教徒を不信心者として排除し、己の宗教の戒律を固く守っている。

 さて、そのような一神教の信者が、他の一神教の国に難民として逃れた時、その国の文化や習慣を受け入れて馴染もうとするだろうか。
 答えは否である。
 西欧に難民として移り住んだイスラム教徒は、相変わらずイスラム教の文化と生活習慣を守って暮らしている。

 もし日本が西欧のように、何万単位の難民を受け入れたとしたら。
 まず間違いなく彼らは特定の地域に集まって住み、イスラム教の教えだけでなくその文化と習慣を守り続けて暮らすだろう。そして彼らは、政府にイスラム教徒の権利を強く求めるだろう。
 難民は気の毒だし、彼らを助けるのは良い事だ。
 しかし日本国内に何万単位のイスラム教徒を受け入れ、イスラム・タウンの存在を認め、イスラムの文化と習慣を受け入れる覚悟が我々にあるだろうか

 西欧はその覚悟なく、人道主義の理念で大量の難民(主にイスラム教徒)を受け入れてしまった。
 だから現在その移民と元の国民の間で摩擦が起き、多くの国で難民や移民の排除を主張する右派政党が勢力を伸ばしている。

 先に話した『独裁者の部屋』で、イランからスウェーデンに逃れた若者が、難民に偏見を持つ者に「もし君が国から逃れなければならなくなった時、受け入れてくれる国が無かったらどうする?」と言ったが。
 確かにそれには一理ある。
 しかしその受け入れてくれた国というのが、自分と宗教も生活習慣も価値観も違っていたとしたら。
 その国の文化や生活習慣も無視し、己の文化と生活習慣を貫いて暮らす権利はあるのだろうか。
 少なくとも筆者は、移民したらその国の文化や生活習慣を尊重して暮らすべきだと考える。
 信仰を捨てろとまでは言わない。しかし自分を受け入れてくれた異国に対する感謝の念があるのなら、移民(難民)は少なくともその国の言語を必死に学び、その国の文化と慣習に馴染み、その国の人達に同化して生活すべきではあるまいか。

 さて西欧に逃げた難民たちは、自分を受け入れてくれた国に感謝し、その国の言語を必死に学び、その国の文化と慣習に馴染み、その国の人達に同化しようと努力しているだろうか。
 そうではない者達がいるから、西欧で移民や難民の排斥を主張する極右政党が支持を伸ばしているのではないか。
 実際、ドイツでは難民らがドイツの多くの女性たちを強姦して金品も略奪する事件が起きている。
 そこまで行かなくても、食料などの配給でも大の男達が当然のように先に物を貰おうとし、子供や女性優先が常識の西欧の人達の顰蹙を買ったという話も聞いた。

 パキスタンもまたイスラム教の国で、ノーベル平和賞を受賞したあのマララ・ユスフザイさんの国でもある。
 6月3日の毎日新聞によると、そのパキスタンでイスラム法学者らで作る政府機関イスラム・イデオロギー評議会が、妻を軽く殴る権利を夫に認める法案を提言したという。
 それによると、「妻が夫の望まない服装をする」、「宗教的理由以外で性交渉を拒否する」、「見知らぬ人と話したり、大声で話したりする」などの場合には、夫は妻を軽く殴ることができるのだそうだ。
 別にISやアルカイダなどの、イスラム過激派の話ではない。パキスタンの、しかも政府機関でイスラム法学者によりこのような法案が提言されたのだ。
 このような価値観を持つ人達が何万人単位で日本に難民として押し寄せて来たとしたら、貴方は喜んで隣人として迎え入れることが出来るだろうか。

 イスラム教徒の難民が日本にやって来たら、日本も夫が妻を合法的に殴れるような社会になってしまう……とまでは思わないが。
 しかし難民が定住し、そして国籍を取れば選挙権を持つ事になる。そしてその数が何万、あるいは何十万となれば、当然イスラム教が日本の国政や地方政治に無視できない影響力を持つようになる。
 すると日本は、ある程度イスラム化する事は避けられないだろう。

 アメリカでは、暴言で話題になっているトランプ氏が共和党の大統領選の候補者になった。
 筆者はトランプ氏のような煽動者は嫌いだが。
 しかしメキシコ系の移民に反発する、トランプ氏の支持者の気持ちもわかる。
 メキシコ国境に近いアメリカのある町では、メキシコ系の移民が住民の多数を占め、もちろん町長もメキシコ系だ。
 で、その町長は、町の公用語をスペイン語にしてしまったのである。
 何しろ民主主義の基本は、多数決だから。そこの住人の大半がメキシコ人になれば、公用語まで英語で無くなってしまう事まで現実にあり得るのだ。
 アメリカなのに、その町の公用語がスペイン語で英語を学ばない。こんな現実に腹を立て、「メキシコとの国境に長城を建てる」と言い放つトランプ氏を支持する人がいるのも仕方がなかろう。

 事実日本の静岡県浜松市でも、市内に多く住む日系ブラジル人の子弟の為に、ボルトガル語の教育を公費でしようという動きがある。
 だからもしイスラム系の難民が日本にやって来て、ある町に多く集まったとしたら、「自治体の首長と多くの議員はイスラム教徒で、公用語はアラビア語でイスラムの戒律が条例に盛り込まれる」という事になる可能性も否定できない
 移民や難民の受け入れに賛成している人達は、そこまで考えているのだろうか。

 命からがら逃げてきた難民の受け入れは、人道的に見れば確かに正しい。
 しかし民族だけでなく、宗教も生活慣習も価値観も違う難民や移民の大量受け入れは、その国の文化と伝統を間違いなく揺るがすことになる現実からも、決して目を背けてはならない。
 そこから目を背け、人道主義の理念で突っ走ってしまった結果が、今の西欧の難民問題による混乱と、難民排斥を主張する極右政党への支持の高まりだ。

 文化の異なる国から難民を受け入れるには、それなりの準備も必要だし、受け入れることのできる数にも限度がある。
 その現実より人道主義の理念の方が大切で、「可哀想な難民を受け入れろ!」と言う人達は、その結果自国の文化や伝統の変容をも受け入れる覚悟はあるのだろうか。

 今の日本は少子化が進んでいて、それに対し労働力不足を懸念する一部の経済人が「日本は移民の受け入れが必要だ」と主張しているが、筆者はこれまで述べてきたのと同じ理由で、少子化対策としての経済移民の受け入れにも反対する。
 安易な移民や難民の受け入れで、日本を日本語がろくに通じず、古くからの伝統と慣習を失ったどこの国だかわからない場所にしてしまう事を、筆者はとても恐れる。
 その国の言葉を学び、文化と習慣を受け入れるつもりの無い難民や移民は排斥されても仕方あるまい、と筆者は考える。
 難民や移民としてその国で暮らしたいなら、その国に積極的に同化する姿勢が当人に不可欠である。

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