空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

薄雲の中の太陽

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 デジカメで写真を撮るようになってから、太陽をよく撮るようになりました。
 今のデジカメって、本当に逆光に強いですね。
 受光素子の事を考えれば、本当は撮らない方が良いのでしょうが、つい撮ってしまいます。

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青空と雲

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 画面の右下に邪魔な家が入ってしまいました。

 ただ、ここがコンデジの良い所で、ラチチュードがかなり狭いので、うまい具合に暗くつぶれてくれました。

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夕日が撮れました

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 夕空の美しさには、いつも心打たれます。

 けど、綺麗な夕空って、なかなか見られないんですよね。
 帰宅時間の関係で、既に日が落ちてしまっている事が多くって。
 夏には、早く帰れると日の入りにはまだ間があったりもします。

 それだけに、綺麗な夕日が見られると嬉しいです。

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限定製造の、麦とホップ赤

 筆者はビール類なら、主に麦芽とホップだけで造られたビールを飲む。
 ただ風呂上がりや暑い時などに、喉の渇きを癒す為に飲むなら新ジャンル酒も悪くないと思う。
 その新ジャンル酒も様々で、どうも好みに合わず「まずい!」と思ってしまうものもあれば、値段の割には良く出来ていると思えるものもある。

 で、その新ジャンル酒の中で、筆者が最も良く出来ていると思っているのが、サッポロ麦とホップだが。
 先日、よく行く酒屋で見慣れない赤い缶の麦とホップを見かけ、迷わず買ってみた。

サッポロ・麦とホップ赤P1100889

 その麦とホップ赤だが、プルタブを開けた途端にホップの良い香りが漂ってくる。
 味も香りの良さに劣らず、本物のビールに近いコクと旨味を感じる。
 新ジャンル酒なのに、少しずつ、じっくり飲んでも悪くない。
 ただその分だけ、喉越しでグイグイ飲むと少し重い印象を受けるかも知れない。

 ドイツ産麦芽とバイエルン産ホップを一部使用し、ドイツのビール祭りで親しまれるスタイルを参考に作られたというが、本物のドイツ産ビールには及ばないものの、それにかなり近い味を低価格で実現している。
 これまでに飲んだ何種類かの新ジャンル酒の中で、個人的には一番美味いと思った。

 メーカーは「一口目の麦の甘み」「しっかりとしたコク」「美しい赤い色」を実現したと謳っているが、それはすべて真実だ。
 ゆっくり、じっくり飲んでも美味い。日本の一部のビール類にありがちな、金属的な嫌な味が全く無い、嫌味のない美味しい新ジャンル酒だ。
 筆者は好きだが、人によっては「苦いし、重い」とも言う。
 この麦とホップ赤は、ビールを味わって飲む人が安く気軽に楽しんで飲むもののように思える。一気にゴクゴク、プハーッとやりたがる、日本に多い喉越し派のビール飲みには、ちょっと合わないかも。

 もちろん、本物のドイツのビールにはとても及ばない。
 しかし本物のビールの約半分という値段を考えれば、充分過ぎるほどの味と香りだ。
 筆者ならば、国産の下手なビール(糖質副原料をゴチャゴチャ入れたヤツ)よりも、こちらの方を飲みたいくらいだ。
 安い値段で、ドイツのビール風の味と香りを出そうと頑張ったこの麦とホップ赤、限定製造だそうだから、興味のある方は酒屋にお急ぎを。

 と、麦とホップ赤を誉めて書きはしたものの。
 もしこれが、麦芽とホップのみで造られた本物のビールと同じ値段で売られていたら。
 その場合には、筆者も間違いなく本物のビールの方を選ぶ。
 良く出来てはいるが、これはやはり発泡酒をさらにスピリッツで割った新ジャンル酒で、麦芽とホップをたっぷり使った本当のビールには勝てない。
 ただ「値段を考えれば、本当に良く出来ている」ということだ。

 国は、近いうちにビールと発泡酒と新ジャンル酒の税金を一本化するという。
 もしそうなって、ビールと発泡酒と新ジャンル酒の価格差が縮まったとしたら。
 それでもなお、あえてビールでなく発泡酒や新ジャンル酒を選んで飲む人が、どれだけ残るだろうか。
 この麦とホップ赤も、「本物のビールの半額の新ジャンル酒としては」という前提で、特に良く出来ていると思うのであって。
 だから他の酒に比べて異常に高過ぎる日本のビールに対する税金が是正され、ビールと発泡酒と新ジャンル酒の値段に余り差が無くなれば、筆者はこの麦とホップ赤でなく、本物のビールを飲むと思う。

 ビール類に対する税が統一されたら、発泡酒や新ジャンル酒はやがて消え行くのだろうか。

 そんな事を考えながら、少し複雑な気持ちで麦とホップ赤を飲んだ。

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『忠臣蔵』など大嫌いだ

 毎年十二月になると、必ず忠臣蔵と赤穂浪士のドラマが放送されたり、芝居が上演されたりする。
 日本人は、昔も今も本当に忠臣蔵と赤穂浪士が大好きである。
 しかし筆者は、断言するが忠臣蔵は大嫌いだし、赤穂浪士の行動にも少しも心を動かされない

 忠臣蔵が好きで赤穂浪士が大好きな人達は、決まってこう言う。
「喧嘩両成敗なのに、浅野内匠頭は即日切腹させられ、吉良上野介だけお咎め無しなのは不公平だ!」
「吉良上野介はたくさんの賄賂を取り、清廉潔白な浅野内匠頭をいびって虐めた悪い奴だ」
 しかしそれは、どちらも誤解で史実ではない。
 小学生の頃から歴史が好きで、大学でも史学を学び日本史を専攻した筆者は、日本人の忠臣蔵好きと赤穂浪士びいきについて、心底理解に苦しむ。

 今でも学校の教師や職場の上司などに、「喧嘩両成敗だ」と言って、生徒や部下の争いを裁く者たちがいるが。
 そもそも『喧嘩両成敗』とは何か。
 その起源は、戦国時代に遡る。
 他国との戦に一致団結して全力を挙げなければいけないのに、同じ家中で喧嘩などして仲間割れをしていたら困る。
 それでその同じ家中での喧嘩を防ぐ為にあちこちの大名家で制定されたのが、「喧嘩をしたら、どちらが悪くても両方を同じように罰する」という、喧嘩両成敗の家法だ。

 考えてみれば、喧嘩両成敗とは随分と乱暴な法律だ。
 相手からどんな酷い侮辱を受けようと、それに応じてはならぬのだ。
 たとえ相手が暴力を振るってきて、身を守る為にやむなく応戦したとしても、喧嘩両成敗として、喧嘩を仕掛けてきた方と同じように罰せられてしまうのである。

 仕掛けられた喧嘩にやむなく応じても、喧嘩両成敗で同罪なのである。
 こんな馬鹿な話は無いから、今では喧嘩があれば詳しく事情を聞くのが普通だ。「先に手を出したのは、どちらか?」とか、「そもそも喧嘩の原因は何なのか?」などと。

 今では、喧嘩は先に手を出した方が悪いという考えが一般的だ。
 しかし中には、先に手を出すに至るまでに、我慢しきれない何かがあった場合もあるから、どちらにどれだけ非があるか喧嘩を裁くのは、なかなか大変である。

 それで喧嘩に至るまでの事情を双方から詳しく聞いて、いろいろ考えて裁くのが面倒な余り、喧嘩両成敗と言って単純に断罪してしまおうとする頭の悪い人が、今でもまだ少数ながら存在するのだから呆れる。
 断言するが、今でも「喧嘩両成敗だ」と人を裁く人は馬鹿だ。
 それは仲間内での喧嘩は絶対に許されない、戦国時代の特別な掟だからだ。

 ちなみに戦国時代の島津家でも、家法に喧嘩両成敗の規定がある。
 但し島津家の家法ではただ「喧嘩をするな」と定めているのではなく、「無法な事をされたら堪え、上役に報告してその裁定を受けろ」とある。
 つまり侮辱されたり暴力を振るわれたりしたら、その場は堪え、今の学校や職場で言えば、先生なり上司に言いつけてその判断を受けろということだ。
 今では、売られた喧嘩を買うより、先生や上司に言いつける方が卑怯な事のように受け取られそうだが。
 しかし戦国の世では同じ家中での喧嘩は厳禁で、上役に言いつけてその判断を仰ぐ事の方が正しくて道理にかなっているのである。
 このように、善悪の価値観は時代によって変わるものなのである。

 さて、話は吉良上野介と浅野内匠頭の話に戻るが。
 浅野に同情し吉良を憎む人達は、口を揃えて「喧嘩両成敗なのに」と言う。
 しかし浅野が切腹させられた例の刃傷事件は、果たして『喧嘩』であろうか。
 喧嘩とは双方が睨み合い、「やるかっ、この野郎!」、「おお、かってやらあ、かかって来いや!」という感じで始まる場合が多かろう。
 一方が相手に襲いかかり、反撃しない相手をボコボコにするのは喧嘩ではなく、間違いなくただの暴力である。
 だから浅野が刃傷事件を起こして裁かれる時、「吉良は刀を抜いたか?」という事が問題にされた。

 もしも切りかかって来た浅野内匠頭に、吉良上野介も刀を抜いて応戦していたなら、身を守る為でも喧嘩両成敗として吉良も浅野と同罪にされる。
 しかし吉良は、刀を抜かなかった。
 と言うより、吉良はショックで失神しかけていて、とても刀を抜ける状態ではなかった。
 だから浅野内匠頭の刃傷事件には喧嘩両成敗は適用されず、一方的に切りかかり勅使を迎える大切な場を血で汚した大罪人として、即日切腹を命じられたのだ。

 繰り返すが、浅野内匠頭の刃傷事件は決して『喧嘩』ではなく、あくまでも「一方的な暴力」なのである。
 だから「喧嘩両成敗なのに、吉良だけ許されるのは片手落ちで不公平だ」という言い分は、全くの筋違いなのである。

 加害者と被害者が何らかの遺恨のある顔見知りだったにせよ、全く見ず知らずの通り魔的な犯罪だったにせよ。
 加害者が一方的に斬りかかった傷害事件で、『喧嘩両成敗』として無抵抗の被害者まで加害者と同罪とされたのでは、被害者はたまったものではない。

 即日切腹という裁きは、大名に対しては拙速すぎる面は確かにある。
 しかしそれでも、「浅野は重罪で、吉良は無罪」という裁定そのものは決して間違っていない。

 なのに浅野と吉良に対する裁きを「喧嘩両成敗なのに、片手落ちで不公平だ」と言う人は、そもそも『喧嘩』というものの意味をわかっていない。
 もしも浅野内匠頭の刃傷事件が『喧嘩』なら、無抵抗な者に対する一方的な暴力もすべて喧嘩で、傷害事件の被害者も加害者と同罪という事になる
 浅野の刃傷を『喧嘩』と見て、吉良は無罪の裁きを「片手落ちで不公平」と言う人の思考が、筆者には全く理解できない。

 まあ、中には「浅野は吉良に散々虐められてきたから遺恨があり、殿中での刃傷事件もその喧嘩のうちなのだ」と言い張る人もいるだろうが。
 では「吉良が浅野を虐めていびった」と言う人達に聞きたいが、その吉良が浅野を虐めたという史実はあるのだろうか。
 現在言い伝えられている「吉良のイビりやいやがらせの数々」はみな、討ち入りが成功し赤穂浪士が評判となった後で、講談や芝居や物語などで創作されたフィクションだ。
「吉良が浅野にこんな嫌がらせをした」という確かな史実は、全く残っていないというのが現実だ。

 とはいうものの、「吉良と浅野の関係に何も問題は無かった」という訳でもない。
 赤穂の浅野家の家風や、内匠頭の人柄を調べれば調べるほど、「吉良と浅野は、そりが合わなかっただろうな」と思える材料が出てくる。
 そして筆者は、浅野内匠頭の刃傷事件の原因は、吉良よりむしろ浅野の側にあったのではないかと考えている。

 その浅野の側の問題を取り上げる前に、「吉良が強欲で多額の賄賂を欲しがった」という定説について話しておきたい事がある。
 浅野と赤穂浪士の立場に立った物語では、よく吉良の強欲さと賄賂について取り上げられるが。
 賄賂、賄賂と言うが、その金品を贈る事に対する考えが、江戸時代と今とではかなり違うのだという事実をまず知っておいていただきたい。
 役人に金品を贈る事は、今では賄賂で悪い事とされている。しかし江戸時代には、お役人に世話をして貰うにはお礼をするのが当たり前、という風潮であった。
 ある意味、賄賂と言うかお礼や付け届けも給料のうち、という感覚だった。
 ただそのお礼や付け届けにも限度や常識があり、多く受け取りすぎると非難された。

 例えば今でも、お中元やお歳暮という慣習はまだ残っているが、世間ではあれを賄賂とみなさないではないか。
 ただ高額すぎるお中元やお歳暮は問題とされ、賄賂と思われてしまう。
 世間一般の常識のうちなら良いが、常識を越えて多額だと賄賂とされ非難される。江戸時代の付け届けも、今のお中元やお歳暮に対する感覚と同じだ。

 で、吉良などの高家が、浅野などの大名から受け取っていた、式典についての指導の謝礼だが。
 これはあくまでも謝礼であって、賄賂とは違う
 例えば吉良は、並の大名よりも格も官位も高く朝廷との折衝もしていたが、禄高は四千五百石である。
 これではとても、諸大名だけでなく朝廷の公家たちとも体面を保ちつつ付き合っては行けない。
 吉良が高家筆頭として幕府と朝廷の間に立ち、公家らと付き合って行けたのは、式典のやり方を諸大名に指導してその謝礼を受け取っていたからだ。
 だから吉良は諸大名から受け取った謝礼で私服を肥やしていたわけではなく、それがあるからこそ高家としての体面を保つ事が出来たのだ。

 さて、その賄賂ではなく勅使を接待する御馳走役の指導料を、浅野はしっかり届けていただろうか。
 実は答えは、否なのである。
 御馳走役は、三万石から十万石の大名の中から毎年二人ずつ選ばれるが、浅野と同役の御馳走役の伊達左京亮は三万石の小大名でありながら、早速に加賀巻数巻と黄金百枚と狩野探幽の双幅を吉良に贈った。
 しかし浅野は、「謝礼は大役が済んだ後でいい」として贈らなかった。

 浅野家の手落ちは、まだある。
 財政難に悩んでいた幕府は、その数年前に小判の質を落とした。そしてその為、小判の価値が落ちて激しいインフレに世間は見舞われていた。
 だから御馳走役として勅使の接待にかかる費用も、以前とは比べものにならないほど高額になっていた。
「以前とは」と書いたが、浅野内匠頭が御馳走役を命じられるのは、刃傷事件を起こす元禄十四年のこの時が初めてではなかった。
 浅野内匠頭はこの十八年前にも、十九歳の時に御馳走役を命じられていて、これが二度目であった。
 その勅使の接待にかかる費用はすべて、御馳走役の大名が負担するのだが、十八年前の時にかかった費用は約四百両だった。
 しかしその後、幕府による小判の改鋳が行われた結果、接待にかかる費用も激増した。
 前年に御馳走役を務めたある藩では千百両かかったという話も、藩の留守居役が聞いて知っていた。
 しかし浅野家は「そんなにかかる筈がないだろう」と甘く見て、七百両で予算を組んだ。
 前年に千百両かかったという他藩の話を信じず、浅野家は十八年前に御馳走役を務めた自らの経験から七百両と踏んだのだ。

 思うに、浅野は十八年前にも御馳走役を務めた経験があるから、「やり方など、いちいち吉良に聞かずともわかる」くらいに思い、吉良を軽く見ていたのではないだろうか。
 だから払うべき謝礼も、「後で良い」などと思っていた。
 そして出して来る勅使接待の予算も、当時のインフレを無視した前年のものよりかなりショボいものでは、吉良も頭に来るだろう。
 しかも赤穂藩は五万石ながら塩田も持ち、収入はある筈なのである。
 吉良としては、「このケチめ」と嫌味の一つも言いたくなるだろう。

 ただ浅野家とて、決して金があるのにケチだったわけではない。
 赤穂の浅野家は、代々武を重んじていた。
 だから有事の際に備えて、家来の数も多く備えていた。
 例えば家臣の数は、一万石につき二百人というのが普通である。
 しかし赤穂の浅野家は、五万石で千二百人もの家来を抱えていた。
 だから人件費が多く、塩田による収入はあっても決して豊かというわけではなかった。
 だがそれは浅野家の事情であって、だからと言って勅使の接待にかかる費用を安く見積もっても良い理由にはならない。

 なぜ浅野家は御馳走役の見積もりが甘く、吉良への謝礼も後回しにしてしまったのか。
 それはズバリ、江戸留守居役の人選ミスだ。
 各藩の江戸留守居役とは、武士というより外交官のようなものだ。だから江戸留守居役の子は、武芸よりも酒や遊びを覚えさせられるとも言う。
 幕府の要人をもてなしたり、他藩の留守居役と付き合い情報交換をするのが仕事だからだ。
 しかし武を重んじる浅野の浅野家は、堀部弥兵衛のような武張った男を江戸留守居役に任じた。
 中山安兵衛の高田馬場の仇討ちの話に感激して、安兵衛を婿にしてしまうような人物だ。
 このような者が江戸留守居役として、幕府の要人に贈り物をして接待したり、他藩の留守居役と酒を飲みながら情報交換し合ったりできるとは、とても思えない。

 勅使の御馳走役は、気も金も使ういやな役目である。
 そしてその御馳走役は、三万石から十万石の大名の中から毎年二家ずつ選ばれる事は、前にも書いた。
 江戸時代の日本にはおよそ三百ほどの藩があるが、何十万石というような大藩はそう多くなく、大半はその三万石から十万石程度の藩である。
 その御馳走役も、藩の数から考えれば一生に一度回って来るかどうかであろう。
 なのに何故、赤穂の浅野には十九年に二度も回って来たのか。
 これは何の証拠もない私見だが、赤穂藩とその江戸留守居役は、幕府の奥右筆や老中などに充分な付け届けをしてなかったのではないか。
 そのような者らが、吉良ともうまく付き合えるわけがあるまい。
 相役の伊達左京亮が、御馳走役に任じられるとすぐに吉良に莫大な謝礼をしたのに、浅野は「後で良い」と考えて放置していたことにも、その一端が現れている。
 さらに勅使の接待にかかる費用の見積もりも、他藩で前年に実際にかかった額より何百両も安いのでは、吉良に白い目で見られても仕方あるまい。

 さらに浅野内匠頭は、大名火消しを務めた際に自ら火中に飛び込んだり、消防訓練も抜き身の薙刀を握り、手討ちにしかねぬ気迫で指揮をしたともいう。
 そのように激しやすい性格の人間が、「謝礼も払わず、勅使接待の予算もケチりおって」と不満の吉良上野介に嫌味でもチクチク言われたら、どうなるであろうか。
 それが例の刃傷事件に結びついたように、筆者には思える。

 また、あの刃傷事件については、吉良に斬りつけた浅野を取り押さえた梶川与惣兵衛の日記がよく史実として引用される。
 ただその『梶川与惣兵衛日記』には、二種類がある。
 突発の事態の発生とそれへの対応を起きた通りに再現して書いているものと、状況や出来事を後から思い出して書き直したものだ。
 世に伝わっている、浅野が「この間の遺恨、覚えたるか!」と怒鳴りながら吉良に切りつけたというのは、その後者の後から思い出して書き直した日記に記載されていることだ。
 より早く書かれた最初の日記の方には、ただ「内匠殿声かけ切りつけ」としか書かれていない。
 正しい事はわからない。
 しかし浅野が何を言って斬りかかったか、近くにいて取り押さえた梶川にもよく聞き取れず、後に赤穂浪士の討ち入りが評判になった後で、「きっとこう言っていたのだろう」と推測して書いた可能性もある。

 浅野が刃傷に至った正確な原因はどうあれ、浅野は切腹で吉良はお咎めなしという幕府の裁定を、筆者は正しいと考える。
 あの刃傷事件は浅野の一方的な暴力で、どう見ても喧嘩ではない。あれを「喧嘩両成敗なのに不公平だ」という人は、知恵が足りないか頭がおかしいかのどちらかだ。

 ただ喧嘩両成敗という分かりやすさは、物事を深く考えない大衆にはウケた。
 そして幕府の裁きに対する抗議でもある赤穂浪士の討ち入りは、貨幣改鋳による超インフレや、生類憐れみの令などで幕府やお偉方に不満を抱いていた庶民の心をスカッとさせた。
 で、いろいろな講談や芝居や物語にもなり、「吉良は悪で赤穂浪士は忠義の士」というイメージが、今に至るまで定着しているというわけだ。

 それにしても、この件を裁いた徳川綱吉という人は妙な人である。
 例の生類憐れみの令などから、愚かな人のように思われているが、実は違う。学問をかなり熱心にやった、ある意味では賢い人なのだ。
 ただその『賢さ』というのが、かなり偏っている。

 例えば現在では、学問と言えば国語・数学・理科・社会・英語など広い範囲を学ぶ。
 しかし綱吉の時代の学問と言えば、まず儒学である。礼儀やら忠孝やら、そういうものを学ぶのである。
 そして綱吉は、現実よりも儒学の本に書いてある理屈や理論の方を重んじた。
 例えば生類憐れみの令を押し通したのも、親孝行が人の道と信じていたからだ。
 綱吉は晩年、甥の家宣に将軍職を譲る時、「生類憐れみの令が悪法であることはわかっている、だが余の死後も決して変えずに残してくれ」と言い残した。
 それはその生類憐れみの令が、綱吉の母の望みによるもので、綱吉の学んだ儒学的な価値観では「たとえ悪法で庶民を苦しめても、親の希望を叶える孝行が大事」なのである。

 そして皇室を敬う気持ちもある綱吉は、浅野内匠頭の刃傷事件も「勅使に対し無礼な!」と激怒してすぐに切腹を命じ、一方の無抵抗だった吉良上野介は許したのだ。
 その吉良の屋敷に討ち入り、上野介の首を取るのは、明らかに綱吉と幕府の裁定に異議を示す行為である。
 しかし綱吉の不思議なところは、その赤穂浪士の行動については、忠義の家臣と感動したというのである。

 結局綱吉は、赤穂浪士を丁重に扱わせた上で切腹させたが。
 それも浅野内匠頭の時のように即断するのではなく、いろいろな考えの学者らに議論させ、考え抜いた上で名誉ある死に方をさせた。
 綱吉という人の頭にあるのは、とにかく儒学の本にある忠孝なのである。
 庶民がどう思うかとか、庶民の苦しみとか、この人にはそのような事は二の次、三の次でしかないのである。

 忠臣蔵のせいで、吉良上野介は日本中で悪役扱いされているのに。
 吉良の領地であった愛知県吉良町の人達は今も吉良上野介を慕い、その善政を称えて神として祭っているという。
 それを考えれば、吉良上野介が忠臣蔵に描かれ、そして多くの日本人に思われているような悪人とは、とても思えない。
 講談や芝居や物語の忠臣蔵と、史実とは違う
 その物語をそのまま事実と受け取り、一方的に「吉良は悪い奴で、浅野はその犠牲者だ」と思い込むのは愚かだ。

 筆者は前に、赤穂の浅野家の家臣は約千二百人いたと書いた。
 それに対し、吉良邸に討ち入った浪士は僅か四十七人である。
 数から考えれば、討ち入りをした浪士らは家中の一握りの過激派とも言えるだろう。
 その四十七人のせいで、残りの千百五十人とその家族はどうなったであろうか。
 討ち入った四十七人が義士と称えられ、芝居や講談にもなる中、討ち入らずに生き残った大多数は赤穂の元浅野の家臣とも言えず、再仕官もかなわず世の中の片隅でひっそりと、みじめに生きて行くしかなかったであろう。

 浅野家の家中に、岡林杢之助という人がいる。
 元は旗本の次男だったのが、浅野の岡林家に養子として入ったのだ。
 浅野内匠頭が刃傷を起こし藩が取り潰された後、杢之助は大石内蔵助らの仲間には加わらず、江戸の実家に戻っていた。
 しかし討ち入りが成功して江戸で評判になると、兄弟たちに「我が家の恥」と言われ、泣く泣く切腹させられたという。

 この岡林杢之助のことを思えば、討ち入りに加わらなかった千百五十人の浅野家の家臣とその家族がどれだけ肩身の狭い、辛い思いをしたかが想像できるだろう。
 筆者は討ち入って名誉の死を遂げた浪士らに感動するのではなく、残る千百五十人の赤穂の元藩士らの生きづらさに同情する

 作家の海音寺潮五郎氏も赤穂浪士についての本を書いていて、その中で赤穂浪士の行動を批判する人達の意見にも一理あることを認めつつ、氏はこうも言っていた。
 赤穂浪士に共感しない人は、日本人の情がない。

 その日本人としての情がないらしい筆者は、浅野内匠頭の刃傷に対する幕府の裁きを「喧嘩両成敗なのに、不公平だ」と言う人は、喧嘩も意味すらわからない馬鹿だと思う。
 そして浅野内匠頭や四十七人の赤穂浪士より、筆者は討ち入りに加わらなかった残る千百五十人の元赤穂藩士たちのその後の生き辛さと、今もずっと悪者にされ続けている吉良上野介の方に心を寄せる

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沈む夕日を追いかけて

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 夕食用の食材を買いに行く途中に夕焼けを見かけ、慌てて撮りました。
 日が沈む直前を、撮る事がギリギリで出来ました。

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空を撮るのも楽じゃない

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 空を撮る時、曇っていても困りますが。
 かと言って晴れすぎていて雲一つなく、空が青一色だとまた絵になりません。

 晴れていて、しかも綺麗な雲が適度に出ている時って、意外に少ないんですよね。

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空は綺麗だけれど…

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 空は綺麗です。

 けど、不審者に対する警戒や肖像権等で、「自由に撮れるのは、もはや空だけ」とも言われる現状は、昔から写真を撮り続けてきた者としては少し息苦しいですね。

 驚くなかれ。
 以前は子供が無邪気に遊ぶ様子を撮っていた人達が、けっこう大勢いたんですよね。
 そして子供たちも、何の警戒もせずに喜んで撮られていました。

 私の興味は子供には無く、以前はひたすら若い女性を撮っていましたが。
 写真を綺麗に撮るにはそれなりの技術と知識と経験が要り、そしてネットも無かった昔は、「写真を撮らせて」と頼むと、喜んで撮らせてくれる女性も多かったです。

 ……時代はかわったものだと、つくづく思います。

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空を撮るのに、公園に行きます。

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 一応住宅街に住んでいるので、空を撮ろうと思うと画面内に邪魔なものが入ってしまう事が多いです。
 そんな時、私は近くの公園に行って空を撮ります。
 公園は、空を撮るのにも便利です。

 ただその公園に小さな子供たちが遊びに来ていると、ちょっと気まずいですね。
 子供のいる公園に、カメラを持った成人男子がウロウロしていると、不審者というか変質者扱いされかねませんから。

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夕空

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 フィルム・カメラの時代は、こうして画面内に太陽を入れて撮るのが、なかなか大変でした。
 レンズのゴーストやボディの内面反射の問題だけでなく、露出の問題などあれこれ……。
 しかし今では、コンデジでただシャッターを押すだけでこんな写真が簡単に撮れます。
 技術の進歩とは、本当にすごいものです。

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