空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

稲田防衛相の発言に見る日本の政治の劣化

 時折、裁判の判決で世間の常識とはかけ離れた判決が出て驚かされることがある。
 だから裁判に一般国民も参加させる、裁判員制度が出来たのだが。
 法律家の常識と一般人の常識には、やはり見過ごせないズレがある事が、衆院予算委員会の稲田朋美防衛相の答弁でも明白になった。

 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊の昨年7月の日報に、南スーダン政府軍と反政府勢力との間で戦闘が生起したと記述されていた。
 その事について、稲田防衛相は「法的な意味での戦闘行為ではない。武力衝突だ」と説明した。
 その陸上自衛隊の日報によれば、その“戦闘”で政府軍と反政府勢力の双方合わせて150人の死傷者が発生した模様だという。
 稲田防衛相は、これを「戦闘行為ではなく、武力衝突だ」と言う。
 戦車が出動して双方に多数の死者が出るような、現地に駐屯していた各国のPKO部隊でさえ危険すぎて仲裁に入れなかった激しい戦いが、戦闘行為ではなく武力衝突だと言うのである。

 稲田防衛相によれば、現地に派遣された陸上自衛隊の日報にある“戦闘”という言葉は「一般的な辞書的な意味」であり、「法的意味ではない」と言う。
 戦闘の意味が、辞書にもある一般的な意味と法律による意味は違うのだと、筆者は初めて知った。

 稲田朋美防衛相という方は、軍事に関してはど素人だが法律のプロである。
 今では首相になった安倍晋三氏に誘われ、渡部昇一氏らに応援されて政治家になる以前には、稲田氏は弁護士であった。
 その稲田防衛相が、一般的な辞書的な意味と法的な意味では、戦闘の意味が違うのだと言う。
 稲田氏によれば、法的な意味で言う戦闘とは「国対国や、国と『国に準ずる組織』の間での武力紛争」なのだそうである。

 ならば、例えば明治十年の西南戦争について考えてみよう。
 これは中央での政争に敗れた西郷隆盛が、鹿児島の不平士族に擁されて起こした反乱だが。
 当時の鹿児島は独立国でもなければ、西郷らも国に準ずる組織を作り上げて日本という国と戦ったわけでもなかった。
 だから稲田防衛相の解釈に従えば、西南戦争は「法的な意味では戦闘ではない」という事になる
 熊本城の防衛戦も田原坂の戦いも、すべて戦闘でなく武力衝突で、西南戦争もこれからの歴史教科書では『西南武力衝突』と書き換えねば法的に整合性が取れなくなるだろう。

 ついでに言えば、幼い明治天皇を擁し錦旗を掲げた薩長軍が、大政を奉還した徳川慶喜が率いる幕府軍と戦った鳥羽伏見の戦いも、『鳥羽伏見の武力衝突』という事になる。
 まだ実質的に政権を取っていない薩長軍と、政権を奉還した形をとっている幕府軍との戦いは、稲田防衛相の言う「国対国や、国と『国に準ずる組織』の間での武力紛争」に該当していない。

 国対国や、国と『国に準ずる組織』の間での武力紛争以外は戦闘ではない。
 そんな事を言っていたら、源平合戦も南北朝の争乱も応仁の乱もすべて戦闘でなく、ただの武力衝突という事になってしまうではないか。

 我が国の憲法第九条に、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、そして「国の交戦権は、これを認めない」とある。
 だから稲田防衛相と現政権は、もし南スーダンに派遣された自衛隊が危険な目に遭っても、「これは単なる武力衝突であって、戦闘ではアリマセンし、国の交戦権を行使したわけでもアリマセン」と言い逃れるつもりなのだろう。

 危険な紛争地帯に、憲法に触れる可能性があるのにあえて自衛隊を派遣した。
 それを正当化する為に、戦闘の意味を「一般的な辞書的な意味と法的な意味は違う」などと詭弁を弄し、戦闘を武力衝突なのだと言い張る。
 筆者はアメリカの法廷を舞台にした映画で、辣腕の悪徳弁護士が手前勝手な法解釈をして、黒も白と言いくるめるシーンを時々見てきたが。
 衆院予算委員会で戦闘の意味解釈について自説を述べる稲田防衛相を、「さすがは黒も白と言い張る辣腕弁護士だ」と皮肉な思いで見た。

 しかしそれにしても。
 このような映画の悪徳弁護士顔負けの詭弁を弄する方が防衛相に任じられ、そして地元民にも支持され国会議員に選ばれている現実に、日本の政治がいかに劣化しているかを痛いほど見せつけられた。

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雲は綺麗ですが…

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 うまく撮ったつもりでしたが、後でよく見たら画面の右下に、アンテナらしきものが写っていました。

 モニター、よく見て撮らないとダメですね。

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屋根の上から見た空

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 空が綺麗な時は、時々屋根に上って広い空を眺めたりします。

 でも屋根の上で写真を撮ってるのって、近所の人から見れば何か不審者っぽいですね。

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白い雲

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 空を見上げると、こんな面白い雲に出会えたりします。
 うつむいていないで、空を見上げてみましょう。

 しかし実は私、空を見上げて歩きすぎて、そのまま転んだ事があります。
 しかも、二度も。
 その姿を近くで見た人に「大丈夫?」と心配されましたが、とても恥ずかしかったです。

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踊る雲

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 屋根の上で、白い雲が何か踊っているかのようでした。

 さて、今日皆さんは、チョコを貰いましたでしょうか、配りましたでしょうか。

 私は頂ければ素直に感謝しますし、貰えなくても別に気にしません。
 もう、チョコごときに一喜一憂するのは卒業しましたから。

 しかし義兄など、既婚者で四十を過ぎているのに、会社の部下の女性からチョコを貰えないとマジで傷つくらしいです。
 若いと言うか、何と言うか……。


 

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空(邪魔なアンテナが写りこんでしまいました)

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 明日の事を考えて、もうソワソワ、ドキドキしている人もいるでしょうね。

 彼女が居る人は、2月14日の事が全く気になりません。

 ここ何年もずっと彼女がいない人も、案外平静な気持ちでバレンタインの日を迎えられます。
「どーせ俺には関係ねーよ」ってね。

 一番ツラいのは、その年によって貰える数の変動が大きい人です。

 私ですか?
 昔は一喜一憂したものですが。
 今では卒業しましたよ、バレンタインデーの日なんて。

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この真冬に、夏限定の“ほろよい涼みあんず”を飲んでみた

 家族が病人なもので、食材などの日々の買い物もほぼ筆者が受け持っている。
 近所にチェーン展開していて自社ブランド商品もいろいろと開発している大きめのスーパーもあるが、筆者はやや遠いが扱う食品はほぼ国産品という小さなスーパーを日々利用している。
 近所の大きなスーパーを利用するのは、小さなスーパーでは扱っていないものが欲しい時と、大きなスーパーに出店している百均ショップを利用する時だけである。

 で、その小さなスーパーにもお酒コーナーもあることはあるが、スペースは狭い上に品数も少なく、しかも値段も高めだ。
 そのスーパーは、食材に関してはかなりこだわりを持っているのだが。
 しかしお酒に関しては、金麦とかスーパードライとか角瓶とかの、ありきたりの売れ筋商品ばかりで、商品に対するこだわりは殆ど感じられない。
 ポリシーを持って国産の良いものを揃えている食材と違い、「どうしてもお酒が欲しい人の為に、とりあえず置いてある」という感じが見え見えだ。
 酒の専門店の価格よりかなり割高なロバートブラウン・スペシャルなど、店頭に長く置かれ過ぎて薄く埃を被っているし、チューハイなども去年の夏の限定商品がまだ平気で置かれていたりする有り様だ。

サントリー・ほろよい涼みあんずP1110179

 その中に、ほろよい涼みあんずを見つけた。
 例の、去年の夏限定商品の売れ残りである。
 それも1本や2本どころではなく、10本以上まだ売れ残っていた。
 今は真冬だというのに、その缶には夏祭りを思わせる花火や団扇の絵が賑やかに描かれており、その中に形だけ杏の絵があった。
 このあまりにも今の季節とのミスマッチ具合がおかしくて、ついその缶を手に取ってみた。
 赤く書かれた夏限定の文字も、涼みあんずという名前も、売れ残って真冬となってしまった今では、見るだけで寒々しい。
 そして缶を裏返すと、賞味期限は今年の5月になっている。
 この10本はある「夏限定」の「涼みあんず」、おそらくこのまま売れること無く、今年の夏を待たずに処分されてしまうのだろうな。
 そう思ったら何やら哀れな気がして、つい手に取った1本をそのまま買い物籠に入れてレジに行ってしまった。

 メーカーは筆者が好きになれずにいるサントリーだし、果汁も僅か2パーセントで、原材料を見ると糖類に酸味料と香料に加えてカラメル色素も入れられている。
 あんず果汁2パーセントって、350mlの缶に僅か7ccだよ?
 入れられている果汁など、ほんの形だけのものだ。
 缶には「あんずの甘酸っぱさが心地よい」と書かれているが、その甘酸っぱさは殆ど糖類と酸味料によるもので、香りも香料によるものだろう。
 だから去年の夏にも目にはしたものの、冷笑してスルーし、そのまま忘れ去ったのだろうと思う。

 だが真冬の酒コーナーに売れ残っている夏祭りを思わせる絵柄がもの悲しくて、1本だけつい買ってしまった。
 そのまま売れ残って廃棄されるのを1本だけ救うつもりで買ったので、正直、味には全く期待していなかった。
 別にあんずが好きと言うわけでもないし、糖類と酸味料と香料で味と香りを作ったニセの果物のチューハイがどんなものかは、およそ見当もついていたし。

 で、プルタブを開けてグラスに注ぐと、いかにも本物っぽいあんずの香りが広がる。
 飲んでみても、確かにあんずの味だ。
 糖類を入れてはいるが甘さは控え目で程良くベタつかず、酸味料による適度な酸っぱさと良くバランスが取れている。
 色はカラメル色素によるものだろうが、梅酒に似た感じで、あんずの雰囲気が良く出ている。
 メーカーが「あんずの甘酸っぱさが心地よい」と言う通り、程良く甘酸っぱく、そして後に果物(あんず)の味が残る感じで、意外に美味しく飲めた。

 誤解の無いように言っておくが、そこはあんず果汁2パーセントで、味と香りは殆ど糖類と酸味料と香料、そして色はカラメル色素で仕立てた缶チューハイだ。
 果汁を多く使っている缶チューハイとは違い、そこは作りモノっぽいチープさも感じる。
 飲んだ後のグラスも、ただ水で流して洗っただけではあんずの匂いが落ちずにしっかり残った。
 香料の匂いは本物の果物の香りよりずっと強いのだなと、変な所で感心してしまった。
 しかし糖類と酸味料と香料で殆どの味と香りを作った缶チューハイの中では、かなり上手にそれらしい味と香りに仕立ててあるのもまた事実だ。
 そしてまた何となく残る作りモノっぽいチープな味と香りが、夏祭りの屋台の食べ物とも良く合っているようにも思える。

 筆者はこの夏限定のほろよい涼みあんずを、真冬に、暖房の効いた部屋で飲んだのだが。
 缶の可愛い花火や団扇の絵を見ながらコレを飲んでいると、夏祭りの情景が自然に脳裏に浮かんできた。
 メーカーは「夏にぴったりの味わい」で、「ぜひ冷やしてお飲みください」と言うが、夏の夜に花火でも見ながら、屋台で出すようなものを食べつつこれを飲んだら、さぞ気分が出ただろうなと思った。
 真冬の寒い日にコレを買って飲んでみて、筆者は決して後悔しなかった。

 コレの売れ残りが、そのまま処分されてしまうのは惜しいと思う。
 けれど糖類や酸味料や香料で作ったややジャンクな味だけに、売れ残りを一人で買い占めて何本も飲む気には、とてもなれない。
 飲むにしても、1本か2本で充分だ。

 と言うわけで、去年の夏に限定販売されたほろよい涼みあんず、もし貴方の近くのお店に売れ残っていたら、良かったら1本、試しに飲んでみて下され。
 期待して飲むとガッカリするけれど、期待せずに飲むと案外悪くないのだ、コレが。

 ところで、缶チューハイのアルコール度は1%から9%程度まで様々あるが、このほろよいシリーズは3%と軽めの方だ。
 缶チューハイの売れ筋は、度数7~9%のストロング系だそうだが、筆者はストロング系の缶チューハイは好かない。
 何故ならストロング系の缶チューハイは、飲んでいてアルコールの刺激がツンツン来るからだ。

 ストロング系の缶チューハイを好む人は、ビールではもの足りず、酔えるまで飲むとお腹がガバガバになってしまうのだという。
 実は筆者は、ハイボールなら濃いめが好きだ。
 度数7%の普通のハイボール缶では薄すぎて全然もの足りず、度数9%の“濃いめ”として売られている商品でもまだ薄いと思ってしまうくらいだ。
 しかしストロング系の缶チューハイは、どうしても好きになれない。
 それはハイボールに使われているウイスキーは、とりあえず年単位で樽熟成してある為、濃いめでも炭酸で割ればアルコールの刺激が殆ど無くなるからだ。
 それに対し缶チューハイは、熟成など全くしていないスピリッツ(平たく言えば甲類焼酎)を使っているから、濃いめにするとどうしてもアルコールのイヤな刺激が出てくる。
 ストロング系の缶チューハイを好む人達は、糖類や酸味料や香料でも隠し切れないあのアルコールのツンツン来る刺激が気にならないのだろうかと、不思議に思う。
 ビールでは度数がもの足りなくてストロング系の缶チューハイを飲んでいる方は、是非ハイボールも試してみてほしいと思う。

 さらに言えば、筆者はウイスキーはハイボールでなくストレートで飲むのを一番好む。
 10年以上樽熟成した良質なウイスキーは、度数40%のものをそのまま飲んでもアルコールの強さが気にならない。
 しかし缶チューハイに使われるようなスピリッツこと甲類焼酎の安っぽく荒々しいアルコールの刺激は、希釈し度数7~9%にして更に果物の味と香りを付けてもまだ不快でならない。
 缶チューハイに使われている“スピリッツ”とは、そういうレベルのものなのだろう。

 で、アルコール度数3%のほろよいシリーズだが。
 この度数は、お酒に強くてなかなか酔えない人には、全くもの足りない度数だろうと思う。
 しかし筆者のような下戸にとっては、気分良く文字通りに「ほろよい」になれる、ちょうど良い度数なのだ。
 そしてストロング系ではもちろん、5%前後の缶チューハイでもアルコールのツンツン来るイヤな刺激と苦みをまだ何となく感じるが、3%となると殆どと言って良いほど感じなくなる。
 お酒っぼくなくてジュースのようで、本当に飲みやすいのだ、この度数3%の缶チューハイは。

 と言うわけで、下戸の筆者は度数3%の缶チューハイは嫌いではない。
 アルコールのイヤな刺激を感じる事なく、気持ち良く酔えて、アルコールに弱い者に優しいお酒だと思う。
 ストロング系の缶チューハイもあっても良いが、度数3%のライトな缶チューハイも無くしてほしくないものだと思う。

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2月11日と建国記念の日について考える

 今日は、建国記念の日である。
 建国記念日でなく、建国記念日である。
 その違いに大きな意味があるらしい。

 まず前提として言っておくが、筆者は徹底した無神論者で、今までどんな宗教も信じたことは無い。
 キリストやアラーなどの著名な神だけでなく、皇祖神である天照大神とそれに連なる神々や日本の神話も信じていない。

 筆者の知人に、対人関係に悩み鬱病になってしまった人がいる。
 その知人は専門の病院に月に一度通いつつ、普段は普通の暮らしをしている。
 その知人が、先日、病院で少し怖い患者さんを見かけたそうだ。

 知人の通う病院の医師は治療に定評があり、待合室は診察を待つ患者でいつもいっぱいだ。
 で、その中に、年老いた母親に連れられた、中年に近い男性の患者が居たそうだ。
 知人によると、その患者は最初から様子が他の人とは違っていたそうだ。
 何もない宙を、じっと凝視し続けていて、その視線を動かさない。
 そしてやがて、そこに居る誰かに語りかけられてでもいるように、真剣な顔で何度も頷き始めた。

 妙だなと知人が思っていると、ついにその患者は声に出して返事もし始めた。
「はい、はい、そうです」

 その患者は何も無い宙の一点を凝視し、存在しない“誰か”との会話を続けた。
「はい、はい。いえ、今日は会社がありますから」
 そして更に、その患者は硬い表情でこんな事も言った。
「ここへ来ると、殺されると言われた」

 付き添っていた年老いた母親が、慌ててその患者の膝を叩いて注意した。
「夢よ、誰も居ないの!」
 するとその患者は頬を膨らませ、母親をキッと睨み返した。
「違う、居るんだよっ」
 そしてその患者は目を宙の一点に戻し、再び頷いて見えない誰かとの“会話”を始めた。

 冷静な傍の者には何も見えないし、何も聞こえない。
 しかしその当人には確かに見えて、確かに聞こえている。
 神とか神の声とか宗教とは、そのようなものであろうと筆者は考えている。

 目にも見えず耳にも聞こえないものを、「見えた、聞こえた」と信じられるかどうか。
 それが神や宗教を信じられるかどうかの境目であろうと筆者は思う。
 で、筆者は「天照大神が存在し、その子孫が天から降りて来て日本を統治した」などとはとても信じられないし、自ら人間宣言をした筈の「天皇の祖先が神である」だのという戯言も全く信じられない。

 そこで、話は今日の“建国記念の日”に戻る。
 なぜ今日が、建国記念の日なのか
 それは大和朝廷が自らの政権の正当性を主張する為に書かせた日本書紀に、史実でも何でもない神話に基づいて、初代天皇の神武天皇が即位した日が2月11日だと書かれているからだ。
 ちなみに神武天皇は神話にだけ存在する架空の天皇で、神武天皇が存在した証拠は全く無いし、その存在を肯定するまともな歴史学者は誰もいない。
 その架空の天皇が即位したとされる神話上の日が、我が日本国の建国の日とされているのである。

 確かに日本には、確実な証拠に基づいて、いつ建国したと言い切れる日は存在しない。
 だから神話に基づいてでも、2月11日にするしかないとも考えられるが。
 ただ物事は、そう簡単なものではない。

 維新を成し遂げ、「封建的な江戸幕府を打ち破って文明開化を進めた」事になっている明治政府は、実は天皇を神とする祭政一致の政治を押し進めた。
 そしてその一環として神話は事実(史実)とされ、例の2月11日が紀元節、建国祭の日として定められた

 皆さんは、四大節をご存知だろうか。
 天皇が神で、日本が大日本帝国だった時代には、元日である四方拝と、天皇誕生日である天長節と、明治天皇の誕生日の明治節、それに例の2月11日の紀元節が四大節と呼ばれ、祝祭日にされていた。
 だから祝祭日とは言え、ただ仕事や学校を休んで遊んでいて良いというものでは無い。
 実際にその時代を生きた人に聞いた話なのだが、子供らはその四大節の日には登校し、校長等の訓辞を聞き、御真影(天皇の写真)を拝んだり歌を唄わされたりしたという。
 2月11日の紀元節は、祭政一致で天皇が神であった時代の重要な祝祭日の一つだったのだ。

 その「天皇は神である」とする大日本帝国の祭政一致の時代の、神話に基づく重要な祝日である紀元節(建国祭)が、天皇自ら人間宣言をして国民主権の国家になった今も“建国記念の日”とされている事に何の違和感も持たない方がいるとしたら、政治的によほど鈍感な人か、今も天皇を神と信じる極右の国家神道の信者のどちらかであろう。

 だから紀元節(建国祭)は、戦後に廃止された。
 しかし皇祖神である天照大神を祀る神社本庁や、自民党や、日本が天皇統治の神国であった時代が恋しい右翼勢力が運動を繰り返して、1966年についに建国記念の日として蘇らせてしまった。

 ちなみに元日と天皇誕生日は祝祭日だし、11月3日の明治節に至っては“文化の日”として祭日になっている。
 つまり天皇が神であった祭政一致の大日本帝国の四大節は、今の世にすべて蘇っているという事だ。

 戦後、昭和天皇は人間宣言をされた。
 常識的に考えれば、そこで天皇は神ではないし、日本書紀や古事記等に書かれている国生みの物語や天孫降臨などの神話も史実とは違う事が誰の目にも明らかになった筈だ。
 しかし神社本庁や右翼勢力の見解によれば、「昭和天皇は神である事を否定されたが、神の子孫である事は否定されていない」そうである。
 ……神の子孫だが神ではなく人間って、いったい何なのだろう。
 それでか極右の論客は、天皇の存在について「神ならず、人ならず」などと、わけのわからない事を言い出す始末だ。

 今もなお大日本帝国の時代の国家神道を信奉して、神話を史実と信じ、天皇も神の子孫と信じている人が多くいる。
 それどころか、あの日本が引き起こした愚かで悲惨な戦争の記憶が薄れ、その時代を直に知る人が激減するにつれ、卑小な自分の自尊心を満たす為に愛国心に縋りつき、「日本は素晴らしい神の国、日本は悪くないし侵略などしていない、大日本帝国は良かった!」と信じたい“右”の人が逆に増えて行く始末だ。

 2月11日を建国の日だと言い張る人達は、「日本書紀という歴史書に書いてあるからフィクションでなく真実だ!」と言い張る。
 右の人達に言わせれば、日本書紀は日本という国が書き上げた最古の正史で、現在の天皇もこの「正史」によって正統性が保証されているのだそうだ。
 そして「日本国憲法第一条に『主権の存する日本国民の総意に基づく』とあるから、日本書紀も正統性が主権の存する日本国民にも認められていて、決して出鱈目でない」のだそうだ。
 賢明な読者の皆さん、右の人達の言うこの論理の筋が理解できるだろうか?

 さらに右の人達によれば、「建国記念の日の正当性を否定する=日本の象徴である天皇を否定する=天皇の正統性を現す日本書紀を否定する=日本国そのものの正統性を否定する事になる」などと、まるで筋の通らない滅茶苦茶な事を言う。
 で、最後に右翼のお決まりのあの捨て台詞、「日本の正統性すら否定するほど日本がお嫌いなら、どうぞどこかお好きな国に移住すればいい」という言葉が出て来る。

 この種の右の人達は、本当に愚かだ。
 右翼は日本書紀が日本最古の正史で、だから書かれている事は神話も含めてすべて真実だと言い張る。
 だが歴史書というものは、当時のその国の政府の正当性を主張する為に、勝者(政権にある側)に都合良く書き換えられている事は、歴史を少しでも学んでいる者なら誰でも知っている事だ。
 あの大日本帝国の歴史教科書にどれだけ嘘偽りがあり、戦後にどれだけ墨で塗り潰されたか、右の人達は理解しているのだろうか。

 日本書紀について言えば、あれは「当時の大和朝廷の正当性を主張する為に神話や偽りも混ぜて書かれたもの」であって、決して日本という国の正しい歴史そのものではない事は、まともな歴史家なら誰でも知っている事だ。
 歴史学という概念も、思想信条や表現の自由も無い時代に、史実と神話をこき混ぜにして、朝廷の為に政権ベッタリの立場で書かれた日本書紀を「そのまま真実」と受け取るなど、頭がオカシイとしか言いようがない。
 日本書紀をすべて真実、神話も真実と言い張るのは、今もまだ天皇を神と信じ、戦前戦中の国家神道を信奉している極右だけだ。

 日本だけでなく、ギリシャやローマなど歴史の古い国はそれぞれ神話を持っている。
 だが韓国を除く多くの国は、神話と史実は区別して考えている。
 例えばローマは、神話ではロムルスとレムスが建国し、後に天に上がってクイリヌスという神になったとされている。
 だがそれが史実で、ロムルスとレムスが実在したと信じる者など、今のローマには殆どいない。
 しかし日本では、神話を創った天皇が神を名乗り、そしてそのまま代を重ねて現在に至ってしまった
 だから今もなお「神話は史実で、天皇は神話の神の子孫だ」と本気で信じる、言わば天皇教の信者が大勢いて、この国の政治すら動かしている始末だ。

 文明開化した筈の明治政府は祭政一致の政治を行い、天皇の神格化を徹底的に押し進めた。
 例の治安維持法の成立後には、「天皇以外の存在を神として信仰している」という理由で、キリスト教徒まで特高警察が逮捕して、酷い拷問に遭わせる始末だった。
 そのようにして、大日本帝国は「天皇は神だ! 神話は史実だ!」と国民を恐怖と洗脳で教育した。
 そんな社会で特別な地位にあった神社が、かつての国家神道の時代に恋いこがれてこの国を大日本帝国の昔に戻そうと動いている。
 安倍首相の念願である憲法“改正”を、天照大神を祀る伊勢神宮や明治神宮や神社本庁などが後押しし、初詣に訪れた参拝客に憲法改正の署名を求める神社が幾つもあるのも、その動きの一つだ。

 宗教を信じる者は、物事を事実と理性で考える者にとってとても困った存在だ。
 何しろ“信者”は冷静な傍の者の目には見えず、声も聞こえない架空の神の存在を現実のものと信じ切っているのだから。
 物事を事実と理性で考える者が、神と宗教を信じる者と会話(議論)をするのは、冒頭で述べた筆者の知人が病院で見た、幻覚が見え幻聴が聞こえる人と会話しようと試みるのに似ている。
 そして日本の右の人達にとっては日本は今も神国で、天皇はその頂点に立つべき神なのである。

 さらにその信仰が高じて狂信に至ると、自らの神の言葉さえ耳に入らなくなる。
 例えば今上天皇自ら、「国旗や君が代は強制でないのが望ましい」とおっしゃられたのに。
 しかし現実には、教育現場で国旗と君が代の強制が強力に押し進められている。
 この2月11日を建国記念の日にする事についても、昭和天皇の実弟であられる三笠宮さまも歴史学的な見地から反対されていた。
 しかし天皇を神とする大日本帝国が定めた、神話に基づく紀元説(建国祭)の日が、そのまま建国記念の日となっている。
 天皇陛下や皇族の方でさえ同意されていない大日本帝国の時代への逆戻りが、神社本庁や日本会議などを中心とする右の勢力の力で押し進められているのが現実だ。
 例の「日本書紀は正史で神武天皇も存在して2月11日に即位したのも真実で、それを否定する者は日本から出て行くべき」と考える右の人達は、三笠宮さまも日本から出て行くべきだったと考えているのだろうか。

 冒頭で述べた通り、筆者は無神論者だ。
 ただ信仰を持つ者に、「神など信じるな!」と強要するつもりはない。
「鰯の頭でも何でも、信じたければ勝手にどうぞ。ただその信仰を、他人にまで押しつけないでくれ!」というのが、筆者の宗教に対する姿勢だ。

 しかし自分の信じる神を周囲の皆にも信じるよう強要したくなるのが、宗教というものの本質らしい。
 何しろ神は、信者にとっては何よりも素晴らしいものだから。
 その自分の神を信じない者は、信者にとっては「自分を否定する鬼で悪魔で劣った存在」なのだ。

 で、日本の“天皇教”の信者達は「天皇や神話を否定するのは、日本を否定する事だ」と考えるだけでなく、自分をも否定されたように感じ、天皇の神格化や戦前回帰に反対する者を敵視して、「日本を出て行け!」と罵声を浴びせる。
 少なくとも今の日本は自由な国民主権の国の筈だが、右の人はそんな日本が嫌いで、この国をもう一度祭政一致で国家神道の、天皇を中心とした神の国にしたいらしい。そしてその邪魔になる人達には、「日本を出て行け!」と。

 日本の右の人達は、神話や伝説をも史実とする韓国の歴史を「フィクションだ!」と嘲笑するくせに。
 なのに自分達の国の神話はフィクションではなく、正史なのだと言い張る。

 同じ日本人として、日本の右翼の愚かさには呆れ果てる。「韓国の神話や伝説はフィクションだが、日本の神話や伝説は真実の歴史だ」とか、どうしたらそのような手前勝手な屁理屈がこねられるのか。
 韓国人の自国の歴史に対する態度をあざ笑う前に、まず「人のふり見て我がふり直せ」と言いたい。

 で、「2月11日が建国の日」というのは、明らかにフィクションだが。
 しかし「この日本という国は、いつ建国したか?」と言うと、「わからない」というしかないのが現実だ。
 日本にはまず各地に縄文人が住んでいたが、人口は少なかったし、ばらばらで統一もされていなかった。それを大陸から渡来した人々が征服し、まとめて一つにしたのだが、それが何年何月何日という確かな時は無い。
 大和朝廷が成立した後も、北には蝦夷が、南には熊襲や隼人がいた。
 朝廷の勢力が本州の北端に及ぶようになったのですら、平安時代もかなり終わり頃になってからだ。
 だから「日本の建国記念日は、いつがふさわしいか?」という問題は、甚だ難しい。

 右の「天皇陛下や昔の日本バンザイ!」的な思考を嫌う左の人達の中には、戦後に今の民主的な新憲法が制定された日や、サンフランシスコ講和条約が調印または発効して日本が再生した日などを挙げる人もいるが。
 しかし「紀元二千六百何十年」という話はデタラメのフィクションだが、少なくとも天皇を中心とする勢力が日本の大半を制圧して千五百年以上経つのは事実だ。
 第二次世界大戦に負けようが、そのずっと以前から日本という国が存在したのは、誰にも否定できない事実だ。

 では、何月何日が日本の建国の日にふさわしい?
 正直に言って、筆者にも「よくわからない」というのが本音だ。
 だから「日本書紀や神話に書かれている神武天皇即位の日を史実と信じて、積極的に」ではなく、大半の人は「他に適当な日が無いから、とりあえず」という感じで、戦前からの2月11日を建国記念の日と認めているのではないだろうか。

 右の人達は天皇の祖先は神であり神話は真実で、その「日本の象徴である天皇を否定するのは、日本国そのものを否定する事だ」と言う。
 しかし今の日本は天皇主権で祭政一致の神国ではなく、思想や信仰の自由が認められている国の筈ではないか。
 天皇を神と認めない日本人や天皇制に反対の日本人が居ても当然良い筈で、誰も「日本から出て行け!」などと罵る権利など無い筈だ。

 現代の治安維持法とも言われるテロ等準備罪の成立に向け、安倍政権が力を入れているが。
 かつての治安維持法で、キリスト教徒が「天皇を神として拝まない」という理由で特高警察に逮捕されて酷い拷問を受けたように。
 神社本庁ら天皇を神としたい勢力の圧力で、天皇を神や神の末裔と認めなかったり、神話を史実と認めない者が同じように国家の敵として迫害される日が来ないよう、この建国記念の日に強く願う。
 何しろ今でさえ、日本書紀などの神話を史実と認めないだけで、右の人達から「日本から出て行け!」と罵られるのだから。

 誤解して欲しくないが、筆者は天皇制に反対しているのでも、天皇に敵意を持っているわけでもない。
 ただ無神論者の筆者は、天皇を同じ人間の、日本国のエンペラーとして見ていて、現人神であるとか祖先は神であるとかの、宗教や神話が絡む問題には一切否定的なだけだ。
 天皇も同じ人間で、だから今上天皇をはじめ尊敬できる素晴らしい方が幾人もおられた反面、我欲が強かったり残虐だったりする悪い天皇もまた幾人もいた史実も、大学で国史を専攻して知っている。
 しかし日本の少なからぬ右の者にとっては、神話は史実で、神である天皇は無謬なのだ。

 無神論者で、感情や信念でなく事実をもとに物事を考える筆者としては、祭政一致で神道が国教で天皇が神だった時代の四大節の一つである、神話による紀元説がそのまま建国記念の日とされている現状が非常につらい。
 今日のこの日が、なぜ“建国記念日”でなく“建国記念の日”なのか。この“”の字に、「神話に基づく2月11日という日が史実かどうかにかかわらず、とにかく建国という事実を祝おう」という気持ちが込められているのだと言う。
 しかし現実には、格差が大きくなり不満を持つ者が“叩くべき敵”を求めている今日の日本で、「神話は史実だ!」と強弁する神社本庁や右の人達が勢力を増し、神話は史実と違うと言うだけで「日本から出て行け!」と罵られている。

 客観的には見えないものが見え、聞こえないものも聞こえてしまう“信者たち”に、事実と論理に基づいた理性的な話は通じない。
 事実が無視され個人の信念や感情で物事が判断される今日、まともな話が通じない人が非常に増えつつあるように思える。
 我が国の神話は史実で、皇祖は天照大神で天皇も神、そして戦前の時代は社会の統制がピシッと取れていて良かった。そう信じている右の人達にいくら理をもって事実を説いても「日本から出て行け!」と罵声を浴びせられるだけだ。

 ネットの時代の今は、自分の見解に合うニュースや自分と同じ意見だけ検索する人が多いと聞く。
 しかし筆者はただ自分の意見を主張するだけでなく、反対の考えの人の意見も聞いてみたいと思う。
 で、この建国記念の日についても、いろいろな立場の人の意見を聞いてみようと思った。
 まず、天皇は神だと教え込まれていた時代に神話によって制定された、戦前の紀元節と全く同じ2月11日で良いものか。
 そしてもし変えるならば、長い歴史を持ち、かつ今は自由な民主主義国家であるこの国に、建国の日としてどんな日がふさわしいか。
 この二点について、いろいろな立場の意見を検索してみたのだが。

 ……まるで話にならなかった。
 そこには、事実でない神話に基づいた今の建国記念の日に疑問を持つ人を、非論理的な感情論と個人的な信念で罵倒する、日本の神話をそのまま史実と受け取り天皇を神の子孫と信じる極右の人達の声に満ち溢れていた。
 ネットにはいわゆるネトウヨが多いと言われているが、「これほどまでか!」と呆れるほどだった。

 同じ日本語を話す同じ日本人なのに、天皇を神と崇拝して天皇が国の元首であった時代を理想とする右の人とは、本当に話が通じない。
 彼らには、どんな論理も史実も歴史学の初歩の常識も通用しない。
 ただ“神国日本”の神話は史実で、天皇はそのありがたい神さまの子孫で日本人の大親様と信じ、それがわからない者は日本から出て行け……と知性に欠ける荒い言葉で吠えたてるだけだ。
 そこにいるのは、当人が信じる大切な神さまと神話を認めない人は絶対に許さない、知性に欠ける言葉の通じない狂信者たちだった。
 おそらくその日本の右の人達は、普通の常識のある人達とは目に映るものも耳に入る言葉もまるで違っているのだろう。

 本当は今日の“建国記念の日”を機に、あるべき建国記念の日について事実や史実に基づき論理的かつ理性的な議論がしたかったのだが。
 ネットで検索する限り今の日本ではそれは無理で、右の人達が信じる神話に疑問を持つだけで、「日本から出て行け!」などと罵倒されるだけと、よくわかった。
 安倍政権の支持率が高い理由もよくわかったし、そんな日本の現状を寂しく思う。

 と書くと、どうせすぐ「日本から出て行け!」と言われるのだろうな。

 しかし日本の右の人には日本語が通じない事は承知の上で、あえて言っておく。
 今の日本は、右の方々が憲法を変えて(改正とはあえて言わない)戻したい、国民皆が天皇を神の子孫wwwwwと信じる天皇主権で祭政一致の大日本帝国ではないのだ。
 この思想と言論の自由のある今の日本では、「天皇は神の子孫ではなく我らと同じ人で、神話はフィクションだ!」と言う権利もあるし、そんな筆者も立派な日本人であり、この国から追い出す権利など誰にも無いのだ。
 それが理解できない右の人こそ、タイムマシンでも開発して大好きな大日本帝国の時代にでも、天皇親政の古代にでも行けばよい。

 筆者は人の声に敏感で、大声を出す人や、がさつな喋り方をする人は大の苦手だ。
 だから今のNHKテレビ小説『べっぴんさん』は、筆者の毎日の苦痛になっている。
 別にストーリーにも役者さんにも文句はないのだが、主題歌が筆者にはとても聞き苦しい。
 大勢いるファンの方々には大変申し訳ないのだが、あの妙にねちっこいだみ声が、人の声に敏感すぎるらしい筆者には、聞いていてとても苦痛なのだ。
 で、「ミスチル、声、嫌い」でググってみると、筆者と同じように嫌いという声が案外多かった。

 しかし筆者はそれで安心せず、「ミスチル、好き」でも検索してみた。
 するとミスチルの歌詞の素晴らしさを褒める声が多くあった。
 で、『べっぴんさん』の主題歌を、声ではなく歌詞に重点をおいて聞き直してみた結果、個人的に好きにはならないものの、ミスチルにファンが多くいる理由も理解できた。
 そのように筆者は、反対意見や嫌いなものの中にも良い点がないか、とりあえずチェックするようにしている。

 だが日本の右翼についてだけは、彼らの言い分を聞けば聞くほど「間違っている」という確信と嫌悪感が深まる一方だった。
 天皇は神の子孫で神話も史実、そしてあの戦争は正しい戦争だったと言い張る彼らの、自己の思想に対する狂信と独善の酷さは呆れるばかりで、とても同じ人間とは思えなかった。
 事実を見ず異論に耳を傾けず、ただ自分達の脳内にある“見たいもの”と“聞きたい言葉”だけで世界を構築している。
 知人が病院で見た、現実を否定し他人には見えないものを見て他人には聞こえない声を聞く患者さんと何も変わらないようだ、今の日本の右翼は。

 今の若い右翼やネトウヨと呼ばれる人達は、次の言葉をじっくりと読んでほしい。

 日本は常に正しい道を歩いてきたのだろうか。過去を振り返ればアジアの国に弁解できないことをしたのではなかったか。そうした過ちも直視し、それでもこの国がいとおしいと思う気持ちが愛国心だと思う。威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心ではないはずだ。


 この言葉は日本の右翼の大物である一水会顧問鈴木邦夫氏が、2013年6月21日に毎日新聞の記者に語った言葉だ。
 このように過去を振り返り、感情より事実を重んじて、自分の過ちも直視して黒を白と言い張らない知性と理性のある右翼が、今の神社本庁や日本会議などの右の勢力に存在するだろうか。
 例えば靖国神社の遊就館の戦争観を見れば、今の日本の右の勢力がいかに事実と史実から目を逸らし、見たいものだけを見て聞きたいものだけを聞き、世界に通用しないひどい理屈で黒を白と強弁しているかがよくわかる。
 過去は振り返らず過ちは故意に見ず、威勢のいいことを言ってその声の大きさを競うことが愛国心と思う者ばかりなのが、今の日本の右翼だ。
 そしてその日本会議と神社本庁が、安倍政権を支えて日本を動かしている。

 建国記念の日でありながら、「神話に基づく架空の初代天皇が即位したフィクションの日が、戦前の紀元節のまま建国記念の日になってもいいの?」という疑問を口にするだけで、「日本から出て行け!」と罵声を浴びせられる。
 その現状を、大学で歴史を学んでいた頃に同級生達から右翼のレッテルを貼られていた者として心から憂う。

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見るだけの空

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 空を見るのは好きですが、実は私、飛行機に乗った事がまだ一度も無いんですよ。
 飛行機が怖いとか言うわけでなく、ただ機会に恵まれないのと、性格か出不精なせいです。

 で、私、空はただ見上げるばかりで、空を飛んでみた事は全くないのです。

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富士山

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 今回は、富士山を真正面から撮ってみました。

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