空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

この時期に何故か桜の写真です

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 全く季節感の無い写真でスミマセン。
 撮り溜めた写真を適当にストックから出しているので、こんな事になってしまうのです。

 それにしても暑いです。
 暮らしやすいのは、一年のうちの春と秋の一時期くらいしかないように、猛暑が続く今日この頃は思えてしまいます。

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琉球ハブボール

 月に一度は足を運んでいる酒屋のレジの近くで、350mlの缶入りの妙な酒が山積みにされていた。
 その名前に目を留めた筆者は、思わず足を止めて見入ってしまった。
 缶にはこう書いてある。

 琉球ハブボール

 名前の上には、トグロを巻いた蛇の絵が描いてあるし。
 そして原材料にも、ハブと間違いなく書いてある。

琉球ハブボールP1100753

 ハブですよ、ハブ!
 マムシではなく、あの人を咬み殺すハブ!
 マムシ酒やマムシドリンクくらいでは驚きはしないけれど、ハブとなれば試しに一本、買って飲んでみるしかないじゃないデスか。

琉球ハブボールP1100760

 裏面の説明には「シークワーサー果汁を加え爽やかに仕上げました」と書いてあるが、事実味の主体はシークワーサーの柑橘系のもので、意外に飲みやすい。
 チューハイには甘過ぎて、飲んでいるうちに辟易してしまうものがある。しかしこのハブボールの甘さは適度で、そこにも好感が持てた。

 ただ、柑橘系の爽やかな味の底に、何とも言えない薬臭い、漢方薬に似た味と匂いがある。
 ハブの味と言うより、加えられてある13種類のハーブの味と匂いの方が強いようだ。
 筆者は普通に飲めたが、ハーブや漢方薬の味と匂いが苦手な人にはお勧めできない。

 とても疲れている時などに、筆者はたまに陶陶酒を飲むことがあるが。
 薬臭さは、陶陶酒よりこのハブボールの方が強いようだ。

 この種のお酒としては、間違いなく飲みやすいと思う。
 しかし不味くはないのだが、「美味しいか?」と問われると答えに詰まる。
 微妙、としか言いようが無い。

「また買って飲んでみたいか?」と問われたら、個人的には答えはNOだ。
 しかし買って飲んでみた事を後悔はしていない。
 筆者としては、「話の種に一度飲んでみるには悪くない」といったところだ。
 ちなみに、この琉球ハブボールの販売者は沖縄県南城市の南都酒造所だが、製造者は広島の三幸食品だ。

 で、この泡盛にハブとハーブ13種類を加えた、販売者の言うには「疲れやストレスを吹き飛ばすエナジフル」な琉球ハブボールだが。
「元気になれたか?」と問われれば、答えは微妙だ。
 しかしチューハイやハイボールやビールを飲んだ後より、少しだけ元気になれたような気がしないでもない。
 ま、「気分の問題」といったところか。

ハブ酒P1110860

 筆者が飲んでみたのは、度数6%で350mlのハイボールだが。
 つい最近見た酒屋の広告によると、南都酒造所はその他に、度数35%の本物のハブ酒も売っていた。
 950mlで3000円の方は「ハブエキスと13種のハーブをブレンドした滋養のお酒」だそうで、今回筆者が飲んでみた琉球ハブボールを濃くしたもののようだ。
 しかし800mlで12000円の方は凄い!
 本物のハブが丸々一匹、トグロを巻いて入ってるんですよ、貴方!
 ハブの為に、わざわざ12000円プラス税金を出すほど物好きではないけれど。
 けれど応接間の棚に、本物のハブ入りのこのお酒を飾っておいたら、お客様はさぞ驚くだろう。

 そしてまた、このハブ酒の名前がヒドい。
 だって本当に、珍々快々だし。
 チンチンカイカイ、って……。
 こんな名前を見たら、誰だってつい「強精剤か!」と思ってしまうじゃないデスか。

 ちなみに筆者自身は男として既に枯れかけているのか、琉球ハブボールを飲んでも、そっち方面の効果は感じませんデシタ。
 その方面を効果を実感するには、度数35%の濃いものを飲んでみなければ駄目なのかも知れないけれど。
 筆者は今のところその必要性を感じていないので、本物のハブ酒“珍々快々”の効果のほどを試すのは、他のお方にお任せシマス。

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【長文】スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』というどうしようもない駄作

 前にも何度か書いたことではあるが、筆者は幼い頃から社会科が好きで、特に歴史が好きで大学でも日本史を専攻した。
 その筆者が痛いほど思うのは、「子供の頃は伝記を読まない方が良い」ということである。

 筆者の大好きな作家の池波正太郎氏が、作品の中で「人は良いことをしようと思いながら悪事も働き、悪いことをしながら良いこともする」というような一文を書いていた。
 人とはまさにその通りで、完璧な善人も、その逆の全くの悪人も、殆どいない。
 その割合に差こそあれ、殆どの人は善と悪の両面を持っている。

 しかし伝記は、特に子供向けの伝記は教育的な配慮があってか、その人を聖人君子か希代の英雄のように称えるばかりで、悪い負の部分にはあえて触れずにいるものが殆どだ。
 だから本気で歴史が好きになり深く学ぶと、伝記には触れられていなかったその人の残虐行為や悪行や非常識な行為を次々に知ることになる。
 で、筆者は幾度となく伝記に書かれた“偉人”たちの実像に幻滅し、何度も「伝記に騙された!」と腹を立てたものである。

 例えば日本人が大好きな源義経も、実際には兄頼朝の言いつけを忘れて腹黒い政治家の後白河法皇に簡単に籠絡され、兄頼朝に刃向かった大馬鹿者だ。
 義経は確かに軍事の天才かも知れないが、政治的にはまるで無能で、自分の立場というものを全くわかっていない。
 そして軍事的な才能というのも、実は当時の正々堂々とした戦では想像もされなかった、汚い戦い方をしたから勝てただけのことだ。
 本筋から外れるから詳しくは書かないが、義経の大勝利は常に汚い戦法によるものである。

 また、日本人が大好きな太閤さまこと豊臣秀吉も、天下を取った後はかなり酷い。
 朝鮮侵略(文禄の役および慶長の役)という、理の無い戦をしたばかりでなく。
 邪魔になった甥の秀次当人ばかりでなく、その妻子や妾たちを皆殺しにしたり。
 些細な罪で人を鼻削ぎや耳削ぎの刑にしたり。
 秀吉自身が「自分は信長のように甘くない」と書状に書いている通り、天下を取った後の秀吉は信長よりも残酷だ。
 残酷な天下人と言うと信長というイメージが一般的だが、実は信長より秀吉の方が残酷だし、秀吉自身もその事を認めている。
 また、天下を取った後の秀吉は、かつての主人を“信長”と呼び捨てにしていて、人柄もかなり傲慢であることもよくわかる。

 天才とナントカは紙一重とも言うが、科学や文学などの“偉人”もいろいろだ。
 例えば野口英世も実績はともかく、人柄から見れば素直に尊敬できる人物ではない。

 そのように伝記は、特に子供向けの伝記は神のように美化した虚像を描き出し、後で真のその人の実像を知った人達を落胆させるものばかりだ。

 そのような虚像を史実としてデッチ上げているのは、何も伝記のような書物ばかりではない。
 巨匠と呼ばれる監督による有名な大作映画にも、美化した嘘の史実が描かれたものがある。
 その代表的なものが、スティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』だ。

 この7月23日のテレビ朝日の『題名のない音楽会』で、『シンドラーのリスト』が実際にあったことを描いた映画として取り上げられていたが。
 筆者はトマス・キニーリー氏原作の『シンドラーズ・リスト』には心から感動したし、今も愛読書の一冊として手元に置いている。
 しかしスピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は大嫌いだし、原作の良さを台無しにした駄作と思っている。

 もしも原作の『シンドラーズ・リスト』を読むことなく、映画の『シンドラーのリスト』のみを観たなら、筆者も「それなりに良い映画だった」と思っただろう。
 100点満点のうち、70点は付けられただろう。
 しかし映画化される以前に原作の書籍を愛読していた筆者には、本の『シンドラーズ・リスト』を120点とすると、映画の『シンドラーのリスト』は0点より下としか言いようが無かった。

 スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』が、何が悪いか。
 それはズバリ人を国籍(民族)で白と黒、善玉と悪玉に「馬鹿にもたやすくわかるように」はっきりと分けて描いていることだ。
 映画の中ではユダヤ人は可哀想な被害者で、シンドラーを除くドイツ人は皆冷酷な悪者に描かれ、そしてシンドラーは偉人として描かれている。
 実にハリウッド映画らしく、わかりやすい。

 しかし原作の『シンドラーズ・リスト』は、シンドラーや強制収容所にかかわる人々の描き方がまるで違う。
 確かに基本的にはドイツ人(親衛隊の髑髏部隊)が悪で、ユダヤ人が被害者だ。
 ただ書籍の『シンドラーズ・リスト』には、良いドイツ人も悪いユダヤ人も複数出て来るのだ。
 書籍の『シンドラーズ・リスト』の中に出て来る良いドイツ人はシンドラー以外にも何人もいて、また親衛隊に媚び同胞を虐めて搾取する悪いユダヤ人も何人も描かれている。

 例えばシンドラー以外にも、ナチのやり方に反感を持ち、ユダヤ人の子供を何人もゲットーから助け出したドイツ軍の下士官がいる。
 その下士官はただ子供を助けるだけでは飽きたらず、ドイツ軍を脱走してパルチザンに身を投じてナチスと戦った。そして最後にはドイツ軍に捕らえられて殺された。
 本には書かれていないが、味方を裏切ってパルチザンに身を投じた元ドイツ兵が、捕らえたドイツ人にどんな扱いを受けただろうか。
 おそらく楽な死に方はさせてもらえなかっただろう。

 また、ロシア軍が迫って来て、ポーランドのクラクフ近くにあった強制収容所の囚人達を移動させることになったのだが。
 それまではシンドラーの保護下にあったユダヤ人達も、ドイツの各地の強制収容所に移送されることになり、それは彼らにとって死を意味した。
 で、シンドラーはチェコのモラビアに自分で収容所を作ろうとした。
 そしてそこに送られれば、囚人らは命が助かる……というわけだ。
 そのシンドラーの収容所に行けるユダヤ人のリストが、著書や映画のタイトルの“リスト”になるわけだが。
 映画ではその収容所に送るユダヤ人をシンドラーが選んで名前を読み上げ、シンドラーの右腕として働いたユダヤ人のシュテルンがタイプで打って“リスト”が作られたように描かれている。

 大嘘である。
 著書の『シンドラーズ・リスト』を読むと自分の収容所の建設の為に多忙で、シンドラーはリストの制作にかかわる暇が殆ど無かった。
 シンドラー自身が直接に思い出してリストに書かせたのは、千百人のうちの約70人ほどだったという。
 で、ようやく作り上げたリストだが、それを任された人事係の囚人のゴルトベルク(ユダヤ人)というのが悪い男で、そのリストに名前を載せるのに賄賂を取ったのである。
 生き延びたければシンドラーの収容所に行かねばならず、だからユダヤ人の囚人は自分の名をリストに載せてくれるよう、ゴルトベルクに必死に頼み込んだ。
 しかしゴルトベルクは、その同胞達にダイヤモンドを要求したのである。
 そして何も出せない囚人は、そのリストに名を書き込んで貰えなかった。

 ユダヤ人でありながら同胞を売ったのは、ゴルトベルクだけではない。
 親衛隊に協力して自分の立場を有利にしようとしたユダヤ人が何人もいたことを、『シンドラーズ・リスト』にはしっかり書いてある。

 本の著者トマス・キニーリーが『シンドラーズ・リスト』を書くきっかけになったのは、シンドラーに命を助けられたユダヤ人の一人で、シンドラーとも親しかったボルテク・ペファーベルクと知り合ったことだが。
 実はこのペファーベルクは、強制収容所で看守の親衛隊の下士官と親しくなった。

 きっかけは実に意外なことで、ペファーベルクがその看守の下士官にキレたことである。
 その下士官は決して良いドイツ人ではなく、囚人達から憎まれていた。
 で、その意地悪な看守の下士官が、収容所の窓拭き責任者のペファーベルクに「ガラスが汚い!」と難癖をつけ、怒鳴りつけてきた。
 窓ガラスに汚れなど無いことは、どちらもわかっていた。
 看守の下士官はただ因縁をつけて虐めていただけだった。
 で、元は高校の体育教師でポーランド軍の将校でもあったペファーベルクはキレた。
「撃ち殺す口実が欲しかったなら、さっさと殺せ!」と。
 それが何故か、その下士官を面白がらせた。

 それからその下士官はペファーベルクを気に入り、度々顔を見に来て様子を尋ねてくれ、リンゴをくれたりした。
 そしてペファーベルクの妻のミーラが死の強制収容所に移送されると決まった時には、下士官はペファーベルクの頼みを聞き、移送されかけていたミーラを助けてくれた。

 実はペファーベルク夫妻は、例のシンドラーの“リスト”に名前が載せられていなかった。
 で、例のゴルトベルクに掛け合ったものの、差し出せるお宝が無いということで冷たく断られた。
 その時に助けてくれたのも、その親衛隊の看守の下士官だった。
 その下士官が圧力をかけてくれたおかげで、ペファーベルク夫妻の名はリストに載り、生き延びることができた。

 同様に強制収容所とナチスの問題を扱った映画に、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』がある。
 実在の人物でもあるピアニストの主人公は、ドイツとナチスによって迫害されて死の淵に立ち、しかしその彼の命を助けたのはドイツ人、しかもドイツ軍の将校だった。
 それゆえその主人公のピアニストは、国籍ではなく相手の人を見ろと、息子に言い聞かせたという。

 原作の『シンドラーズ・リスト』は、ナチスの悪と非道さを描きつつ、良いドイツ人達がいたことも、ただ可哀想なだけではない悪いユダヤ人がいたことも、冷静な筆致で克明に描き出している。
 しかし映画の『シンドラーのリスト』はそうした個人を描くことを放棄し、「ドイツ人はシンドラー夫妻以外はみな極悪非道な悪人で、ユダヤ人は可哀想な被害者」と単純化し、民族で見事に区別している。


 シンドラー自身も、決して英雄でも偉人でもない。明るく社交的だが、酒好きで贅沢も好きで、女好きで愛人も幾人も抱えていて。
 シンドラーはユダヤ人を出来る限り助けたが、彼自身は実業家でもあった。
 彼の会社が上手く行っていて利潤を上げていたのは、親衛隊ともうまく付き合える彼の社交的な性格だけでなく、右腕として働いたユダヤ人のシュテルンの経営能力も大きかった。
 シンドラーはコルベ神父のような聖人では決してなく、欠点もいろいろある非常に人間くさい人物だった。

 映画では、シンドラーは最後に「もっと救えば良かった!」と涙を浮かべて感動的な演説をしているが、実際には違う。
 ユダヤ人の囚人達には、ドイツ人に個人的な復讐はせず司法に訴えて任せるように言い、自分と強制収容所の所長達を一緒に考えないよう言いたげだったという。
 そして囚人の服装をして、ユダヤ人の囚人達から贈られたダイヤモンドを持って西のアメリカ軍の占領地に逃げた。
 そもそもシンドラーは、金儲けの為にポーランドにやって来たのだ。
 そしてユダヤ人を救う傍らビジネスも続け贅沢もして、親衛隊やドイツ軍のお偉方ともうまく付き合っていた。
 彼こそ池波正太郎の言う「良いことをしながら悪事も働き、悪いことをしながら良いこともする」、複雑で多面的な人間なのだ。
 だからこそシンドラーという人間は面白いし、興味深い。
 しかし映画では、シンドラーはユダヤ人を救う使命感を持った善人として描かれている。
 善玉と悪玉がはっきりしていて実にわかりやすい、しかし実に底が浅くてつまらない。

 同じナチのユダヤ人虐殺と強制収容所の問題を取り上げた映画としては、筆者は『シンドラーのリスト』より『戦場のピアニスト』の方が遙かに素晴らしい出来だと考える。
 映画の解説者も含め、『戦場のピアニスト』については主人公の無力さに苛立ちを覚える人もいた。
 しかしナチスという全体主義体制の中では一個人など全く無力でただ逃げることしか出来ないというのも、筆者には非常にリアリティーを感じられた。
 そして主人公を追い詰めたのはナチスだが、救ったのもまたドイツ将校だという事実も、物事の多面性をよくとらえているように思った。
 しかし善悪がわかりやすくて主人公の頑張りで多くの人が救われる『シンドラーのリスト』の方が、一般の人には受け入れられやすいのだろう。

 映画の『シンドラーのリスト』が公開された頃、新聞の映画評に「ドイツ軍の冷酷非道さが克明に描かれていた」と書かれていた。
 ミリオタでもある筆者は、「あれは“ドイツ軍”ではなく、ヒトラーの私兵である親衛隊で、さらにそのの中で汚れ仕事を受け持つ髑髏部隊の仕業なのだが」とすかさず突っ込みを入れたものだ。
 しかし大多数の人はドイツ軍と親衛隊の区別も付かず、さらに髑髏部隊など存在すら知らないだろう。
 そして新聞で映画評を書いた記者のように、「あれはドイツ軍の仕業で、シンドラー夫妻以外のドイツ人はすべて悪」と思っただろう。

 良いドイツ兵も悪いユダヤ人も出て来る原作の『シンドラーズ・リスト』は、確かに普通の人にはわかりにくいだろう。
 それに比べ、「ドイツ軍はすべて悪でユダヤ人は可哀想、そしてシンドラーはすごく良い人!」と描いた“わかりやすい”映画の『シンドラーのリスト』は、非常にスッキリするだろう。
 しかし個々人を見ずに民族で善悪を色分けし、シンドラーを偉人に仕立て上げた“わかりやすい”『シンドラーのリスト』は、筆者から見れば0点より下の駄作だ。
 駄作というより、この種の民族や国籍で善悪を区別した映画はむしろ危険である。

 例えば今の北朝鮮は度々ミサイルを撃ち、そして国民も金正恩を口々に褒め称えている。
 その報道を見ていると、北朝鮮の指導者だけでなく、国民もみな頭がおかしいように思えてくる。
 それで筆者もつい、「北朝鮮にミサイルを何百発も一斉に撃ち込んで、北朝鮮など国民ごと無くしてしまえば良いのに」と思いかけてしまう。

 だが歴史を学んだ筆者は、「待てよ」と思う。
 筆者の目には、今の北朝鮮の姿が戦前戦中の日本の姿と重なって見えてならないのだ。
 天皇を神格化して絶対の忠誠を誓い、悪いのはすべて他国のせいにして、国民みなが鬼畜米英と叫んで勝と信じて戦争に突き進んで行ったかつての日本は。
 金“王朝”を神格化して絶対の忠誠を誓い、悪いのはすべて他国のせいにして、国民みなが打倒米日韓と叫んで勝と信じて戦争に突き進んで行こうとする今の北朝鮮と、傍から見れば何も変わらない。


 おそらく戦争中のアメリカ人には、当時の日本人は今の北朝鮮人のように「頭のおかしい、話の通じないキ印」に見えていたのだろう。
 それで日本人は軍人も民間人も関係なく皆殺しにして構わないと思い、民間人の多く住む都市に無差別爆撃をし、そして原爆も落としたのだろう。

 今の日本人に、北朝鮮人にも良い人が何人もいることを頭だけでなく心でも理解している人が、どれだけいるだろうか。
「あんな国、国民ごと無くしてしまえば良いのに」と思っている日本人は、決して少なくないだろうと筆者は思う。
 そして戦時中のアメリカ人も、日本に対しそのように思っていたのだろう。

 原作の本の『シンドラーズ・リスト』を読めば、ドイツ兵にも良い人間が、ユダヤ人にも悪い人間がいた現実が理解できる筈だ。
 そして『戦場のピアニスト』のモデルになったピアニストが言うように、国籍でなく相手の人を見る大切さがわかる筈だ。
 天皇を神と信じさせられ鬼畜米英を叫んだ戦時中の日本人も、今の金王朝に従う北朝鮮人も、決して死んでも構わない神懸かりのキ印ばかりでなく、良い人間だって必ずいる筈なのだ。
 スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』のような善玉と悪玉を民族ではっきり分ける映画を見ると、その事がわからなくなるから怖い。

 戦争中や戦争が終わってまだ間もない捕虜収容所では、捕虜の虐待が必ず起きる。
 捕虜の虐待と言えばロシアとドイツとそして日本が有名だが、捕虜の虐待はアメリカやフランスやイギリスやオーストラリアなどの戦勝国でも例外なく起きている。
 で、捕虜を虐待する看守とは、どのような人間か。
 その事についてアメリカが調査したところ、意外なことに虐待するのは前線で殺し合ってきた古参兵ではなく、一度も戦場に出たことの無い兵士(特に新兵)に多いのだそうだ。

 例えば最前線では、酷いことが頻繁に起きている。
 ドイツ軍とロシア軍は凄惨な殺し合いをしたし、アメリカ軍やイギリス軍だって、ノルマンディーの戦いでは捕虜を取らずに降伏したドイツ兵を撃ち殺したりもした。
 だから前線に立つ兵士らは、「殺し合うのは、酷いことをするのはお互い様」と実感でわかっている。
 で、逆説的な話になるのだが、前線で殺し合った経験のある兵士は、一旦捕虜にした敵兵にそう酷いことをしない者が多い。
 それに比べ戦場で自ら敵兵を殺した経験も無く、敵国の奴らがいかに悪い奴で、いかに同胞に酷いことをしたかについてのプロパガンダをさんざん頭に叩き込まれてきた兵は敵に対する憎しみでいっぱいで、捕虜の虐待をしがちなのだそうだ。

 例えば韓国の従軍慰安婦の問題でも。
 日本の大使館などの前に少女像を建て、最も怒って騒いでいるのは当の慰安婦たちではなく、その時代を直接には知らない若い世代の韓国人ばかりだ。
 従軍慰安婦の中には、日本兵と恋愛関係にあったことをテレビの取材の際に告白した元慰安婦もいた。
 酷い日本兵もいたろうが、良い日本兵もいて、それを当の従軍慰安婦は肌で知っているのだ。

 従軍慰安婦問題についての日韓合意を、多くの韓国人が「見直すべきだ」と言っているが。
 しかし当の元慰安婦の三分の二が、日韓合意を受け入れている。
 この事でも、「最も怒っているのは当の元慰安婦ではなく、話のみで聞いていて直に知っているわけではない人達」である現実がよくわかる。
 だから歴史教育で若い世代に「あの国は酷いことをした」と感情的に繰り返し教え込むと、その国との間に後々まで深い遺恨を残すことになる

 問題の『シンドラーのリスト』を作ったスピルバーグ監督も、『戦場のピアニスト』を作ったポランスキー監督も、どちらもユダヤ人だ。
 ただこの二人には、大きな違いがある。

 実はポランスキー監督は1933年にパリで生まれ、そして3歳の時にポーランドに一家で移住し、第二次世界大戦が始まるとナチスのユダヤ人狩りに遭い命を落としかけた。
 そしてその彼を救ったのは、映画と同じでドイツ兵だった。
 ユダヤ人狩りから逃げようとした彼を見て見ぬふりをしただけでなく、そのドイツ兵は「走らないことだ」と忠告したという。
 で、ポランスキーは走るのをやめ目立たぬようにその場を離れ、生き延びることができた。
 そうした過去があるから、ポランスキー監督は「ナチスは悪だが、良いドイツ兵もいる」という現実を体で知っている。

 それに対し、スピルバーグ監督は戦後にアメリカで生まれ育った、「ホロコーストの話を聞いて怒っているユダヤ人」だ。
 その差が、良いドイツ将校も悪いポーランド人もいる『戦場のピアニスト』と、ユダヤ人はみな可哀想でシンドラー夫妻以外のドイツ人はみな悪党の『シンドラーのリスト』の違いであるように思える。
 そして筆者は、『戦場のピアニスト』の方が『シンドラーのリスト』より遙かに出来が良いし、「人とは何か?」を考えさせる名画だと思う。
 それに比べ『シンドラーのリスト』を観た後には、「ドイツ人って信じられないほど酷いね、なのにシンドラーは偉いね」という単純な感情しか残らない。

 しかし一般の人々には、「悪いのはナチスドイツだが、助けたのもドイツ将校で、しかも主人公はただ逃げ回るだけ」という『戦場のピアニスト』よりも、善玉と悪玉がはっきりしていて、シンドラーというヒーローもいる『シンドラーのリスト』の方が、間違いなくウケる。
 さらに登場人物がただ多いだけでなく、良いドイツ人も悪いユダヤ人も出て来て善悪を決め付けにくく、六百ページ以上ある分厚い本の『シンドラーズ・リスト』より、ただ3時間ばかり座っていれば映像と台詞ですべてわからせてくれる、善悪のはっきりした映画の『シンドラーのリスト』の方が、間違いなくウケる。
 そして人間の本質について深く考えさせる『戦場のピアニスト』や、書籍の『シンドラーズ・リスト』はいつしか忘れ去られるのだろう。
 その一方、民族で善悪を決め付け中身もわかりやすく、シンドラーも理想化して描いた映画の『シンドラーのリスト』は、「現実にあった事を描いた名画」として長く残るのだろう。

 人間も、人が作る社会も複雑だ。
 しかしその複雑な存在や現実を深く考えることをせず、人々がただ「わかりやすさ」を求めることを、筆者は憂う。
 人々を敵と味方に単純に二分し、わかりやすさを求め、それで政治や世の中が良くなったためしが、果たしてあっただろうか?
 争いをより深刻化させ、社会を分断して混乱を招いただけではなかったか。

 戦時中、アメリカ人は良い日本人がいるなどと思わず、だから平気で無差別爆撃をし、原爆も落としたのだろう。
 そして今、少なからぬ日本人も良い北朝鮮人がいるなどと思っていないだろう。
 だから筆者は、『シンドラーのリスト』のような映画が、史実を描いた名画として残ることを恐れる。
 映画の『シンドラーのリスト』を観た人達は、「ユダヤ人はみな可哀想で、ドイツ人はみな残忍で善人はシンドラー夫妻しかいない」と思うだろうから。

 映画だけではない。
 今、書店では民族や国籍で善悪を決め付ける、「頭の構造が単純な人にはわかりやすい」右翼思想の雑誌や書籍が溢れている。
 そしてそれは、実に危険な風潮なのだ。
 民族や国籍で善悪を決め付ける人達は、相手を一人一人違う個人として見ることをせず、他国や民族の違う人に極めて冷酷になる

 機会があれば、スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を、ぜひ書籍の『シンドラーズ・リスト』やポランスキー監督の『戦場のピアニスト』と比較して見てみてほしい。
 悪い意味でアメリカ人的な、善悪を簡単に決め付けてヒーローを求める性質が、少なくとも知的で冷静な方には実によくわかる筈だから。
 繰り返すが、その種の善悪の単純化(特に民族による色分け)とヒーローの待望は、皆にとってとても危険な事なのだ。

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富士山は撮るだけの私です

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 こうして富士山の写真を撮っているくせに。
 そして富士山からそう遠くない場所に住んでいるくせに。
 実は私、富士山に登った事、一度も無いんですよ。

 だって富士登山って、頂上までずっと登り続けじゃないですか。
 そんな登山をやり遂げる気力も体力も、今の私にはありません。
 富士山頂に立つ人たちの中には子供やお年寄りもいるというのに、情けない話です。

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富士山

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 風が吹き、富士山がようやく顔を出してくれました。

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これでも富士山の写真と言っても良いのでしょうか

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 この日はとても良く晴れていました。
 そして富士山だけが、雲に覆われていました。

 晴れた日に富士を良く見える場所に行っても、こういう事もあるのです。

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空に浮かぶ雲

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 空を見ていると、時々面白い雲が見つかります。
 綿菓子みたいで良かったです。

 綿菓子と言えば。
 小学校の低学年の頃、縁日で綿菓子を買って、でもすぐ食べるのが勿体なくて。
 それで大事に家に持ち帰ろうとしたところ、見る間に小さくしぼんでしまった思い出があります。にな

 大人になった今になって食べてみると、砂糖の味が甘ったるくて大して美味しいものではないのですがね。

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私の好きな色

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 空の深い青に、雲の白に、木々の緑。
 どれも私が大好きな色です。

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ソウルマッコリ

 平たく言えば韓国の濁酒、マッコリが何年か前から日本国内でも当たり前に売られている。
 で、その代表的なJINROのマッコリを、以前飲んでみたのだが。
 飲みやすかった。
 甘酸っぱくて、酔える乳酸飲料という印象だった。
 しかも1リットルで600円程度と、値段も安かった。
 しかし糖類やら酸味料やら甘味料やらを加えているせいか、その酸味も甘味もどこか作り物っぽく思えた。
 そして更に、飲んだ後で悪酔いもした。

 が、その後に酒の専門店で、米と麦麹だけで造られた、添加物なしのマッコリを見かけた。
 300mlで500円弱と、大メーカーの添加物入りのマッコリよりかなり高かった。
 しかし物は試しにと買って飲んでみたところ、これが想像以上に美味かった。
 甘味も酸味も控えめなのだが、そのどちらの味わいも自然で、しかもコクと深い味わいがあり、ゆっくり味わって飲んで「美味い!」と心から思った。
 大メーカーの、添加物入りのマッコリも飲みやすいし、決して不味いとは言わないが。
 しかし大メーカーの大量生産品でない、添加物なしの米と麦麹だけの本物を飲んでしまうと、比べものにならない味の差を感じた。

サントリー・ソウルマッコリP1110567

 最近、チューハイやビール類の売場で、サントリー扱いソウルマッコリをよく見かけるようになった。
 製造は韓国マッコリのシェアNo.1メーカー、ソウル長寿社だという。
 その韓国で最も売れている、そして日本の代表的な酒類メーカーであるサントリーが扱うマッコリがどんなものか、試しに買って飲んでみる事にした。

 缶にも「乳酸由来の爽やかな味わい」と書かれているが、甘酸っぱくて飲みやすい。
 例えて言うならば、アルコール入りのヤクルトに、更に甘酒の風味とコクを加えた感じと言ったところか。
 以前に飲んだJINROのマッコリの方がより甘酸っぱく乳酸飲料に近い味で、このソウルマッコリの方がお酒らしい風味をやや強く感じる。
 しかしこのソウル長寿社製でサントリー販売のマッコリも、そこは糖類や酸味料や甘味料を加えたものだけあって、飲み進めて行くうちに、甘さにも酸っぱさにも自然でない合成された味を感じてしまう。
 米と麦麹だけの本物のマッコリと比べてしまうと、甘さも酸っぱさもしつこい上に、お酒としての深い味わいやコクも足りないように感じてしまう。

 結局のところ、「JINROのマッコリよりやや本物に近いが、米と麦麹だけで造った本来のマッコリの味わいには程遠いものがある」といったところか。
 個人的には、マッコリは米と米麹および麦麹のみで造るべきで、糖類や酸味料や甘味料を加えて造ったものはニセモノの味だと思う。
 が、酒としてのコクや味わいに欠ける部分があっても、添加物(糖類や酸味料や甘味料)を加えたマッコリが甘酸っぱくて飲みやすいのは事実だ。しかもその種の添加物入りマッコリの方が、値段もずっと安い。

 お酒を飲み慣れた、酒の味がわかる方には、米と麦麹のみで造ったマッコリを断然勧める。
 しかしお酒を飲み慣れていない若い人や、特に若い女性などにはこのソウルマッコリも含めた、糖類や酸味料や甘味料で味を作った大メーカーのマッコリの方が飲みやすいのではないだろうか。
 だから個人的には米と米麹と麦麹だけのマッコリの方が文句なしに良いと思うが、若い女性や、それほど味にこだわらずに質より量を飲みたい方には、大メーカーの添加物入りのマッコリでも充分ではないかと思われる。

 お酒というものは、ただ度数が強ければより酔うというものではない。
 例えば蒸留酒は酔うのも早いが醒めるのも早く、悪酔いもしにくい。
 ポリフェノールがたっぷり入っていることで知られる赤ワインが実は悪酔いしやすいように、いろいろな成分が含まれているお酒の方が、より悪酔いしやすいようだ。
 だから同じ日本酒でも、糖類や酸味料等を加えた安酒の方がより悪酔いをする。
 同様に、マッコリも米と麦麹だけで造ったものを飲んだ時には平気だったが、大メーカーの糖類や酸味料や甘味料入りのものを飲んだ時には頭痛がして悪酔いしてしまった。
 しかも大メーカーの添加物入りのマッコリは、甘酸っぱさが強くてお酒という感じが弱く飲みやすいだけに、若い女性などはつい飲み過ぎて悪酔いしてしまうおそれがあるから、要注意だ。

 近年は「ビールは苦いから好きじゃない」という若者が増えているという。
 そういう人達に、このソウルマッコリを含めたマッコリは、甘酸っぱく酔える乳酸飲料のようで歓迎されるのではないだろうか。
 しかしそれでも、筆者としては糖類や酸味料や甘味料の入っていない、米と米麹や麦麹だけの本物のマッコリを飲んでみてほしいと思う。

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生きる意味に悩んでいる人達に

 よく、「自分は何の為に生きているのだろう?」とか、「自分がこの世に生まれてきた意味は、一体何なのだろう?」とか考えて悩む人がいるが。
 正直に言って、筆者はその種の事を考えて悩んだりした記憶がない。

 だいたい、70億人もいる全世界の人間一人一人が何か特別な存在で、「生まれた意味」だの「使命」だのが予め用意されているわけなど無いことくらい、少し考えればわかる筈ではないか。

 人は“愛”とも称する種族保存の本能と性欲で生殖行動をし、精子と卵子が結合した結果として一人の人間が生まれてくる。
 ただそれだけの事に過ぎない。
 地球全体から見れば、貴方も筆者も70億人のうちのたった1人に過ぎない。
 庭付きの一軒家に住んでいれば、庭によく蟻の巣がいつの間にか出来ていたりするが。
 その巣に群がる、見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と自分も同じようなちっぽけな存在だと、少なくとも筆者は思っている。

 筆者は幼い頃に地方の中規模の都市に引っ越しを経験し、その引っ越し先の学校では大勢の中のたった一人の異邦人だった。
 また、筆者は常に年子で優等生の姉と比べられ、学校でも親戚達の間でも「出来損ないの弟」という扱いを受け続けて育った。
 だから筆者は、幼い頃から常に一人だった。
 飛び抜けた才能や力のある特別な人間ではなく、大勢の中の無力で何も出来ないちっぽけなただの一人に過ぎなかった。
 そしてそのせいで、自分という存在を冷静かつ客観的に眺める事ができるようになった。
 で、自分自身を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と突き放して見ることが出来るようになったわけだ。

 筆者は思うのだが。
 何の為に生きているのだとか、自分がこの世に生まれてきた意味などについて考えて悩む人達は、きっと周囲に良い人達がいて、親にも優しくされ良い友達にも恵まれ、大切にされて育ってきたのではないだろうか。
 イジメられたり、毎日の生活に窮して困っていたりして苦しい生活を送っていたら、それこそ今日を生き抜くのに必死で、生まれた意味などについて悠長に考えているゆとりも無いよ。

 冷徹に言い切ってしまえば。
 人など、ただ生まれただけでは70億人のうちのとるに足りない塵芥のような1人に過ぎない。
 そんなちっぽけで無力な存在と思いたくないから、人は「自分は何の為に生きているのだろう?」とか、「自分がこの世に生まれてきた意味は、一体何なのだろう?」とか、くだくだ考えて悩むのだ。
 70億も用意されてある筈も無い「自分が生きる意味」や「この世で果たすべき自分の使命」を、追い求めて悩むのだ。
 無い物ねだりとは、まさにこのことだろう。

 自分を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と見なしている筆者は、こう考えている。
 生まれてきた意味や使命だのは、神が与えてくれるわけでも、最初から用意されているわけでもない。
 それらは自分で探して見つけ、努力して自分自身に何らかの付加価値を付けることで得られるのだ。

 そして初めて、無個性な無数の働き蟻のうちの1563号(仮)を脱して特別な存在になれる。
 イチローも横綱白鵬も五郎丸選手も、天賦の才能はあったにせよ、自ら並外れた努力をしたから、今のような特別な存在になれたのだ。
 生きる意味や使命とは最初から絶対者に与えられるものでなく、自ら探し自ら努力して得るものだと、筆者は確信している。

 ただ筆者は努力はしたが才能が足りず、若い頃には写真家を目指したものの挫折してしまった。
 だがその努力は、決して無駄になったとは思わない。
 写真を撮るのは、今でも楽しいし大好きだ。
 間違いなく、筆者の生きる楽しみの一つになっている。

 二十代の終わり頃に、筆者は生死に関わる大病をした。
 病名を言ってしまえば、関係者には「ああ、あいつか!」と特定されてしまうので、詳細については語らないが。
 日本では筆者が二十人目の患者という珍しい病気で、執刀した主治医が「学会に論文を発表できる」と大変に喜んでいた。

 七時間以上かかったものの、手術そのものは成功し、筆者は命が助かった。
 しかし予後が悪く、今も左足に後遺症を残していて、その後遺症の治る見込みは無い。
 だが筆者は、日本で二十人目という奇病にかかったことも、後遺症が残ってしまったことも、別に何も苦にしてはいない。

 病気になると、よく「何も悪い事はしてないのに、何で自分がこんな病気に……」と悩み、神や天を恨んだりする人がいるが。
 正直に言って、そういう人達の気持ちが筆者にはわからない。
 病気は運だ。
 不摂生による自己責任の病気もあるが、筆者の場合は生まれつきの体の欠陥による、本当に不運としか言いようの無い大病だった。
 そして不運は、誰のせいでもない。
 神のせいでも、何かの因果によるものでもない。
 たまたま生まれつき体に欠陥があったという不運で大病をしたが、誰を恨んでも意味もないし、何にもならないではないか。
 だから大病をして後遺症を抱えたまま生きている事について、筆者は「何で自分がこんな体に……」などとくよくよしたりしないし、「仕方のない不運だった」と割り切っている。
 その後遺症の他にも、アレルギー持ちだったり、メニエール病の後遺症で左耳の聴力に問題があったりもするが、「そういう体なんだ」と割り切って生きている。

 何しろ自分の存在を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と思って生きているような人間だから。
「何の為に生まれて来て、何の為に生きているのだ?」などと考える事は全く無い。
 それでも筆者は、生きていて「楽しい」と言い切れる。

 ちなみに筆者は金持ちでも何でもない。
 収入で言えば、間違いなく低収入の部類だろう。
 家族(要介護の親)はいるが、未婚だし。
 乗っている車は、中古で買った軽自動車だし。
 着ている服はユニクロが多いし、ワークマンに寄って買う事も少なくない。
 親が建てた一軒家に住んでいるものの、築四十年で地震によりちゃんと開かない戸もあるくらいだ。
 それでも生きていて楽しい、と思う。

 趣味にしている写真だが、わかる人にはわかると思うが写真を続けるにはお金がかかる。
 しかし銀塩写真がデジタルに変わったおかげで、フィルム代や現像料が不要になり、経済的な負担はかなり減った。
 ただデジタルカメラの技術の進歩は早く、最新の技術を取り入れた良いカメラで撮ろうと思えば、それはかなりお金がかかるが。
 しかし新製品が早く出るということは、性能にそれほど問題のない旧製品が中古市場に出て来るのも早いということである。
 で、割り切ってカメラも中古を買えば、写真を安く楽しめる。
 格安のジャンク製品の中から使えそうなものを探すのも、また楽しい。

 筆者は本やコミックスを読むのも好きだ。
 これも新刊で買えればそれに越したことはないのだが、無理なら古本屋を探せば面白いものが財布に優しい値段で手に入る。

 お金は、あるに越したことは無い。
 しかし無いなら無いで、それなりの楽しみ方もある。
「お金が無ければ何も楽しめない」などということは無いと、少なくとも筆者は思う。

 何しろ自分自身の存在を「庭の蟻の巣の見分けもつかない無数の働き蟻のうちの1563号(仮)と同じ」と見なしているような人間だから。
 筆者は生殖の結果としてただ生まれ、そして死ぬまで生きるまでのことだと、自分の人生を割り切っている。
 挫折も失敗も数々したけれど、辛い経験もいろいろしたけれど、それでも「生きていて楽しい」と思う。
 楽しいことは、探せば身近に幾つでもある
 大切なのは、その楽しいことを見つけ出す感性があるかどうかだ

 筆者は今、古い家で年老いた親と年老いた猫の世話をしている。
 自分がいる事で、この親と猫の為になっている。
 それだけで、「生きる意味」など充分だと筆者は思っている。
 自分がいなければ生きて行けない人と猫がいる。
 だから生きる。
 それで充分ではないか。

 無論、親も猫もいずれあの世に行き、筆者は一人になるだろう。
 その時には、筆者の「生きる意味」は無くなってしまうのかも知れない。
 だがそれでも、筆者は生きる事を止めないだろう。
 少なくとも筆者は、楽しい事は世の中にいろいろあることを知っているから。

 自分が生きる意味や、何の為に生まれて来たのか悩んでいる人達に言いたい。
 そんな事を小難しく考えるのは、もう止めようよ。
 世界的な視野で見れば貴方は70億分の1の存在でしか無いし、貴方など居なくても世の中は何も困らないだろう。
 しかし貴方の周囲には、貴方を必要としている人がいるのではないか。
 家族でも職場でも友人でも、「貴方が居ないと困る」と言ってくれる人が一人でも居れば、貴方が生きている意味は充分ある筈だ。
 そしてこの世には、楽しい事がたくさんある。
 それを見つけて、死ぬまで楽しく生きようよ。

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