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空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

明治の元勲と昭和の軍人の違い

 先週、筆者は「明治維新を成し遂げた薩長の“志士たち”も太平洋戦争を始めた昭和の軍の指導者たちも、どちらも同じ植民地を求める帝国主義の軍国主義者たちだ」と書いた。
 その事に間違いは無いとの信念に、今も揺るぎは無い。
 ただ明治の元勲たちと昭和の日本の軍の指導者たちの間には、一つだが重大な違いがある。
 一言で言えば昭和初期の日本の指導者らは思考が夜郎自大に陥り身の丈を知らず、明治の元勲らはそれを知っていたという事だ。

 例えば日清戦争で、日本軍は旧式装備の清軍を破った。
 そして国そのものが乱れて弱体化していた清は和を乞い、日本は下関条約で清に朝鮮から手を引かせただけでなく、当時の額で3億円もの賠償金や、遼東半島・台湾・澎湖諸島を得た。
 だがそこに、欧州各国から横槍が入った。
 日本の勢力が伸びるのを警戒し、また自国も中国に権益を得たいロシア・ドイツ・フランスの三国が、遼東半島を清に返還するよう迫ってきた。
 当時の日本政府は、臥薪嘗胆をスローガンにこの要求を呑んだ。
 当時の日本にはまだ欧州の三強国に対抗できるだけの力が無いと、日本政府の指導者らはよくわかっていたからだ。
 そして国力をつけ、日露戦争に臨んだ。

 この一見無謀に思える日露戦争についても、当時の日本政府の指導者は実によく考えていた。
 まずロシアに対抗するため日英同盟を結び、中国と朝鮮における日本の権益を守って。
 そしてただ戦争を始めるのではなく、特使をアメリカに派遣し、アメリカに仲裁役を依頼して。
 さらにフィンランドに日本の軍人を派遣し、ロシアの反政府勢力に武器等を供与してロシアを背後から脅かした。

 また当時の日本の指導者は、「戦争を始めるなら、シベリア鉄道が複線化される前に」ということも考慮していた。
 当時のシベリア鉄道は単線で、予想される戦場の満州にロシアが大軍を送るには時間と手間がかかった。
 しかし鉄道が複線化されたら、ロシア軍が一気に増強されてしまう。
 だから日本は、シベリア鉄道の複線化が進まないうちに開戦した。

 が、ロシアは戦争を始めると日本の予想以上に大軍を送り込んできた。
 単線のシベリア鉄道を西から満州へと一方通行にして、客車や貨車をそのまま終点の満州に置き捨てにするという大国ならではの手段を使ったのだ。
 しかしそれが戦費を巨額にさせ、ロシア国内での革命運動も激化させ、結果的にロシアを講和の座につかせた。

 日本軍は、確かに旅順も攻略し奉天会戦でも日本海海戦でも勝った。
 しかし日本海海戦はともかくとして、旅順攻略でも奉天会戦でも日本軍は勝ちはしたものの、それぞれ何万もの戦死者を出した。
 現地のロシア軍の司令官クロパトキンは、そうして日本軍に打撃を与えつつ、補給の困難になる奥地に引きずり込む作戦だったという。
 だから現地のロシア軍には、負けたという意識はあまり無かった。
 状況から見れば日本の辛勝というところで、日本軍にそれ以上奥地まで攻め込む余力があったとは考えにくい。
 そこにロシア国内で、ゼネストや血の日曜日事件などの革命運動が起き、ロシアはそうした国内問題に対処する為に日本と講和せざるを得なくなったというのが実状だ。
 その革命運動に日本も手を貸していたというのは、前述の通りだ。

 つまり日本が日露戦争で大国ロシアに勝てたのは、ただ日本軍が勇敢で強かったからではなく、用意周到に考え抜いた上で戦争を始めたからだ。
 まず日英同盟などで味方を作っておき、そして日本が戦闘で勝利したら講和の仲介をしてくれるようアメリカにも依頼して。
 さらにロシア国内の革命勢力に武器を供与するなどして、ロシアを背後から脅かして。
 そこまで手を打ち、そして「完全勝利などあり得ない、講和で何とかするしかない」と承知の上で戦ったのだ。

 日露戦争が日本の限定的な勝利であることは、講和条約として結ばれたポーツマス条約を見ればよくわかる。
 日本は朝鮮における利権と長春~旅順間の東清鉄道の譲渡、それに南樺太の譲渡を受けただけで、巨額の戦費が国民の税金から支払われ、多くの戦死者を出したにもかかわらず賠償金は一銭も取れなかった。
 だが戦争の間、国は国民の戦意を高揚する為、勝った勝ったと宣伝した。
 だから本気で勝てたと信じ、賠償金もたくさん取れ広い領地を新しく取れる筈と思っていた日本国民は怒った。
 それで民衆は暴動を起こし、日比谷焼打事件なども起きた。
 しかし当時の日本政府は、国民の怒りと暴動にもブレなかった。そして国民の反対と不満を押し切り、戦費と戦死者数から見れば僅かな利権でロシアと講和した。
 それは「当時の日本の国力では辛勝が精一杯で、ロシアとはその条件で講和を結ぶしかない」と、政府の指導者がよくわかっていたからだ。

 外国船を砲撃するなど実際に攘夷をやらかしたり、自ら欧米に行くなどして欧米の国力を肌で知っている維新の“志士”たちは、「植民地を持つ帝国主義の強い国になりたい!」という野心はあっても、日本を滅ぼしかねないような無理は決してしなかった。
「勝ちたい!」という願望と「勝てるかどうか」という現実問題を混同するような事は、明治の元勲らは決してしなかった
 だから日清戦争で一旦は得た遼東半島も、三国干渉を呑んで放棄した。
 そして日露戦争も周到に準備し、アメリカに講和の仲裁まで依頼し、賠償金なしの講和も受け入れた。
 根っこは軍国主義者で植民地が欲しい帝国主義だが、明治の元勲は等身大の日本の国力をよく見ていて、自国を贔屓目で見たくなる感情にも流されず、世論にもブレなかった

 だがあの日中戦争の泥沼や太平洋戦争の悲劇に日本を引きずり込んだ、昭和の日本の指導者たちや軍のお偉方は違う。
 日清戦争や日露戦争で勝てたのは、当時の清やロシアの国内が乱れていたのに乗じて、講和でようやく勝てたに過ぎない。
 にもかかわらず昭和初期の日本の指導者は「我が国は中国にもロシアにも勝った!」という結果だけを頭に残し、「何故?」という理由や「どのようにして?」という過程の部分を理解しようとしなかった
 彼らは日本と敵国の国力の差を理解せず、ただ「日本なら勝てる!」という根拠の無い願望と精神論だけで中国だけでなく米英との戦争にも踏み切った
 愚かとしか言いようがない。

 満州事変を起こした、当時関東軍にいた軍人の石原莞爾は中国語も上手に話せ、現地も視察し現地の状況も熟知した上で、「これなら出来る!」という確信を持って事変を起こした。
 当時の中国は軍閥が各地を分割支配していて、しかも軍閥の兵士はとても質が悪かった。
 上官でさえ兵を信用できないので、武器は武器庫に入れ鍵をかけておく有り様だった。
 だから石原莞爾は、「関東軍を動かせば必ず勝てる!」と確信して事変を起こし、そして事実その通りになり満州国を建国した。

 その石原は、その後に関東軍が起こした日華事変には大反対で、陸軍参謀本部の作戦部第一部長として現地に制止に行った。
 満州事変で、中国の情勢は一変していた。中国国内に満州国という傀儡国家を作られたことで、中国人の間で日本に対する怒りが燃え上がっていたのだ。
 それで日本憎しで、それまで分裂していた中国が抗日でまとまったのだ。中国の国民党も共産党も、どちらも日本を敵として戦い始めた。
 中国の国民感情ががらりと変わり、日華事変後に日本が中国で敵とした相手は、石原が戦った腐敗した軍閥とはわけが違っていたのだ。
 その事を暴走する現地の関東軍の指揮官らに、石原は理をもって必死に説いた。
 しかしその石原の理は、関東軍の指揮官らには通じなかった。
 言葉を尽くして説く石原に、関東軍の指揮官らは「閣下は敵の十分の一の兵で勝てたじゃないですか」と言って聞かず、さらに「貴方は手柄を独り占めする気ですか」と嫌味まで言った。
 それで石原は何も言えなくなり、東京の陸軍省に引き上げざるを得なかったという。

 これが日本をあの悲惨な太平洋戦争に引きずり込んだ、我が国の軍の指導者たちの実態だ。
 現実を見ようともせず、事実を知る人の話も聞かず、ただ「勝てる!」と希望的観測に頼って突っ走る
 これが軍の大学を出たエリートのする事かと思うと、本当に情けなくなってくる。

 同じ軍国主義者で帝国主義者だが、明治の元勲は日本と仮想敵国両方の国力や国情を冷徹なくらい正しく見ることが出来、日本の力を過信したりしなかった。
「勝ちたい」という感情から、物事を日本に有利に曲げて判断するような愚は犯さなかった


 それに対し、あの戦争を始めた昭和の軍人たちはどうか。
 日本の力を過信し、米英中を弱いと思い込み、「本当に勝てるか?」と冷静に考え抜くこと無く「勝ちたい」という願望と感情だけで戦争を始めた。


 昭和初期にも、石原莞爾ら冷静で優秀な軍人もいた。
 陸軍軍人でもアメリカで駐在武官を務めたエリートなどは、皆アメリカとの戦争に反対だった。
 しかしそうした冷静で優秀な軍人はみな予備役に回されるか出先の司令官に飛ばされるかした。
 そして中央には、知識や冷静な計算は無く願望と感情だけで「勝てる!」と信じる威勢の良い馬鹿者ばかりが集まった。

 よく、スポーツで贔屓のチームが「絶対、勝つ!」と息巻く人達がいる。
 その種の人達を見る度に、筆者は「勝って欲しいと願うことと、実際に勝てるかどうかということは違うのに」と思う。
 しかしそこで冷静な戦力の分析をして勝てる見込みを語り始めると、熱心なファン達に憎まれて怒られる。
 世の中には、この日本には、「勝って欲しい」という願望と「勝てるかどうか?」という現実の冷静な分析の区別の出来ない感情的で非論理的な人か、本当に多い
 特に日本代表の勝敗について「勝てないのでは」などと言うと、非国民扱いされて罵倒される可能性が高い。
 威勢の良い意気込みを語らせるというのが、日本人はとても好きだ。だからスポーツでは、傍から冷静に見れば勝てそうもない選手でも「絶対、勝ちます!」と高らかに言うのが良しとされ、現実の実力に基づいた冷静な発言をすると「やる気があるのか!」と叱られる。
 たかがスポーツでさえそうなのだから、国運を賭けた戦争について勝てるかどうか疑念をはさむ者など、本当に殺されかねない。
 それが日中戦争から太平洋戦争へと突き進んでいた頃の、日本の空気と状況だったのだろう。

 タカ派で知られた保守政治家の中曽根康弘元首相は、「大局さえ失わないなら大いに妥協しなさい」と語っている。
 日清および日露戦争を切り抜けてきた明治の元勲たちも、おそらく同様の考えだったのではないか。
 彼らは日清戦争後の三国干渉も呑み、日露戦争の講和でも国内の反対を押し切ってロシアにかなり譲歩した。
 そしてその明治の元勲らが育てた日本を、妥協を全く知らない夜郎自大の昭和初期の軍人らが台無しにした。

 さて、ここ何年も政権に居座り続けてきた安倍首相が、さらに己の任期を延ばそうとしてか突然の衆議院の解散を決めた。
 この平成で最も長く政権の座にいる首相とそのお仲間たちは、自らの身の丈をよく知り、状況を綿密に分析した上で、議会の解散に打って出たのであろうか。
 それとも昭和の戦争指導者のように、現実と願望を混同して根拠なく「勝てる!」と思い込んで勝負に出たのであろうか。
 長州出身の安倍首相が、先人の明治の元勲のように老練な政治家なのか、それとも昭和の軍人のような夜郎自大な愚者なのかは、来月に有権者たる国民が決める。
 国民の皆さん、有権者は感情に流されやすく忘れっぽい愚民だなどと政治家に舐められることのないよう、冷静によく考えた一票を投じようではないか

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定番のチューリップ

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 チューリップと言ったら、やはりコレですよ。
 今は派手で高価なチューリップもいろいろあります。
 でも私は、この一球20円くらいでも買えたりする、安い普通のチューリップが一番見ていて安心できます。

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逆光の桜

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 私、逆光でもあえて撮ります。

 昔、女性を多く撮っていたからでしょうか。
 普通の写真の撮り手と違って、私は「逆光で撮るのが普通」というような感覚があるのですよ。

 普通は避ける逆光で撮るの、私は大好きです。

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木々の匂いも好きです

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 緑も好きですが、緑の木々の匂いがとても好きです。
 自然がいっぱいの場所に行くと、空気の匂いも違いますね。


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花見はしたくても人混みが苦手なんです

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 新聞や雑誌やネットに、よく桜の名所が紹介されていますが。
 私は、そうした場所には滅多に行きません。
 観光客が多すぎて、大変なので……。

 この場所は、本当に地元の人達しか行かない穴場です。
 私は地元民ではありませんが、サイクリングをした時に、偶然に見付けました。
 それ以来、毎年通い続けています。

 でも、ここもやがて皆に知られて、人で賑わうようになってしまうのでしょうか。
 ここは今のところ、地元のお年寄りたちがゆっくり散策する静かな場所です。

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桜並木のある道

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 自宅から車で数分の所に、川べりに桜並木がずーっと続いている場所があります。
 春、桜が満開の時に散策すると、とても気持ちが良いです。

 そうそう、桜は紅葉も意外に綺麗なんですよ。
 私の住む場所は暖かいので、紅葉は11月になりますが。
 その頃になったら、またこの川べりの桜並木の道に行ってみようと思っています。

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木曽の銘酒『七笑』純米酒

 長野県に行くと、七笑の看板を時々見かける。
 で、気になってかなり以前に一本買って飲んでみたのだが、特にどうと言うことも無い田舎の酒という印象で、それ以来飲んでみることは無かった。
 が、何故か筆者の地元の酒屋で七笑純米酒が売られていたので、以前の記憶による不安と、純米ということへの期待の混ざった気持ちで、久しぶりにまた買って飲んでみた。

七笑P1110677

 買ったのはただの純米酒で、ラベルに吟醸の文字は無かった。
 しかしキャップを開けた途端に、梨か林檎のようなルーティーな香りが漂った。
 ただその吟醸酒に近い香りは穏やかで、決して食事の邪魔になるレベルのものではない。

 味は程良く辛口でキレが良く、サッパリしているのにアル添酒にありがちな薄さは無くて、しっかりした味わいがある。
 甘さは殆ど感じず心地よい辛さが主体で、その下に僅かな渋味がある。
 嫌みや雑味が全く無く、アル添の水っぽさや尖ったアルコールの舌を刺す不快な刺激も無い。そしてしっかりとした旨味と柔らかな果実の香りのある、木曽の誇るべき銘酒だ。
 同じ価格帯の白ワインよりも、個人的にはずっと旨いし香りも良いと思う。

 嵩を増す為にアルコールと水を大量に加えている、いわゆる普通酒は論外だが。
 日本酒好きの人の中には、本醸造酒や吟醸酒や大吟醸酒に一定量のアルコールを加えることについて、「味を調え、吟醸香を引き出す為にやっているのだから、むしろ良い事なのだ」と言う人達がいる。
 確かにそれにも一理あるかも知れない。

 しかしだ、少量とは言え原酒にアルコールを加え、その分だけ多く水も加えて増量しているだけに、酒としての味わいは間違いなく薄くなっている。
 筆者は以前、アルコールを加えた大吟醸酒と純米吟醸酒を飲み比べてみた。
 吟醸香については、確かにアル添の大吟醸酒の方が明らかに華やかだった。
 しかし酒としての味は、間違いなく純米吟醸酒の方が厚みと奥行きがあって旨かった。
 純米吟醸酒だけでなくただの純米酒と比べても、アル添の大吟醸酒は味が薄っぺらい印象が間違いなくある。
 だからアル添の大吟醸酒と本物の純米大吟醸酒では、本当に比較にもならない。

 普通酒と違って、確かに本醸造酒にはそれなりに美味しく飲めるものが少なくない。
 それでも純米酒と比べてしまうと、僅かながら雑味やアルコールのツンとした変な辛さや味の厚みの足りなさが気になってしまう。
 だから筆者は、「飲むならアル添でない純米酒を」と思ってしまう。
 無論、純米酒すべてが文句なしに旨いわけではない。
 中には「これで純米?」と首を傾げたくなるような出来のものもある。
 しかし「これは旨い」という“当たり”の確率は、本醸造酒より純米酒の方が間違いなく高い。

 また、吟醸酒や大吟醸酒にアルコールを加える蔵元は、決まって「これは増量の為でなく、吟醸香を引き出す為にやっているのだ」と言う。
 しかし筆者の知る限り、「アル添の吟醸酒や大吟醸酒の方が、純米の吟醸酒や大吟醸酒より香りが良い」などということは、本当に全く無い!
 そしてアルコールを添加している分だけ加水する量も増えるのだから出来る酒の嵩も増え、その分だけ味が純米系の吟醸酒や大吟醸酒より薄くなるのは事実だ。
 香りは同等でアル添の方が味が薄いのは、飲み比べてみれば間違いなくわかる
 ならば、筆者は純米のお酒を選びたい。

 確かにある程度のアルコールを加えた方が吟醸香を引き出しやすく、味も一定にコントロールしやすいのかも知れない。
 純米酒を一定の味と香りに造るのは、とても難しいと聞く。
 しかし現実に市場に出回っている純米吟醸酒や純米大吟醸酒は香りでアル添の吟醸酒や大吟醸酒に負けてはいないし、味の厚みや奥行きやふくらみの点では間違いなく勝っている。
 純米吟醸酒や純米大吟醸酒を飲めばわかるが、「後からアルコールを加えなければ吟醸香を引き出せない」などという事は、絶対に無い。
 にもかかわらず味を薄く痩せさせてまでアル添にするのは、蔵元の管理技術が未熟なゆえの怠慢か、少しでも多く生産して売りたい強欲さによるものとしか思えない。

 またアルコールと水を余計に加えている分だけ、たとえ吟醸酒や大吟醸酒でもアル添酒には薄味(水っぽい味)で、かつアルコールのツンとした尖った刺激のある辛さが気になるものが少なくない。
 それを「淡麗辛口」と称して売っている、悪質な蔵元やメーカーがあるから腹が立つ。
 本醸造酒や普通酒では、醸造用アルコールと称するサトウキビの搾り滓から作った安物のアルコールと水を加えた結果の、まがい物の「淡麗辛口」が特に多い。

 それにしても、同じ量の米を原料に使って純米酒と比べ約1.5倍の酒が出来るというアル添酒がこの国では“本醸造酒”と呼ばれていて。
 そして大量のアルコールと水のみならず、場合によっては糖類や酸味料まで加えられ、純米酒の2~3倍に嵩増しされた粗悪酒が“普通酒”と呼ばれているのだから恐ろしい。
 日本酒業界、特に“普通酒”とやらを作っている蔵元やメーカーには、「国名を名に付けた伝統ある我が民族の酒を造っている誇りがあるのか?」と問いたい。

 それにしても、七笑純米酒は良い酒だ。
 ただの純米酒なのに、食事の邪魔にならない程度のほのかな吟醸香があって。
 そして辛口でありながら、その辛さが舌を刺さず味に丸みとふくらみがあって。
 それでありながらサッパリしていて、後口も良い。
 手頃な値段の日本酒も本当に旨くなったなと、この七笑純米酒を飲んで心から思った。
 日本酒の主流は今もまだアルコール等で嵩増しした普通酒だが、純米酒や純米吟醸酒などは近年とても質が良くなっていると感じる。

 純米酒の辛さとアル添酒の辛さの違いを、一度飲み比べて確かめてほしい。
 純米酒の辛さには、その不快な刺激が無く、辛さに深みや丸みやふくらみがある。
 しかしアル添酒、特に本醸造酒や普通酒の辛さは、後から混ぜられた安物のアルコールの舌を刺す刺激的な辛さが主体だ。
 さらに醸造用アルコールを混ぜ加水量も増やした酒はただツンツン刺激的に辛いだけでなく、深みや丸みやふくらみの乏しい痩せた味になってしまう。
 その“日本酒”と名乗らせるのは民族の恥と言いたくなるような駄目な酒と、「これぞ日本の酒!」と世界に誇れるような良い酒を区別できるようになる為にも、まず七笑純米酒のようなそれほど高価でもなくて良い酒を、皆に買って飲んでみてほしい。

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明治維新百五十年、何がめでたい!

 唐突だが、筆者は常々「日本は歴史の見直しが足りない」と思っている。
 第二次世界大戦後に、確かに歴史教科書の見直しはされた。
 しかし墨で塗り潰されて書き換えられたのは、直接に戦争責任に関する部分だけだ。
 終戦時に軍部が最後までこだわった国体護持に関わる、天皇制の是非や神話と歴史の区別など、根源的な見直しは殆どなされていないというのが、戦後から現在に至る歴史教科書と歴史教育の実状だ。

 例えば、後醍醐天皇の起こした戦乱と混乱は、今もなお“建武の中興”と書かれている。
 野心家で己の利益しか考えないで行動する身勝手な後醍醐天皇の、あの愚行の何が“中興”なものか。
 己の利益の為に鎌倉幕府に不満を持つ武士を利用して北条政権を倒し、そして大して功績もない近臣や公家を重用し厚く恩賞を与え、世の中に大混乱を招いた。
 既に武士の世の中になっているものを、無理矢理天皇中心の貴族の世の中に逆戻りさせようとした後醍醐天皇の行為は、建武の中興ではなく“建武の大反動”と呼ぶのが正しい
 あの野心家で私利私欲に満ちた後醍醐天皇が起こした大混乱を今もなお“建武の中興”と呼び続けているのは、戦後の歴史の見直しが足りていない明白な証拠の一つであろう。

 後醍醐天皇だけでなく、歴代の天皇の中には野心家で私利私欲に満ちた天皇は幾人もいる
 歴史を大学で学んだ筆者は、己の権勢の為には政敵だけでなく、身内まで陰謀で陥れて殺害した天皇が幾人もいる事実を知っている。
 孝謙(称徳)天皇や持統天皇など、女帝ながら己の為にはかなり酷い事をしている。
 桓武天皇も、我が子に位を譲る為に実の弟を殺している。
 白河天皇も鳥羽天皇も後白河天皇も後鳥羽天皇も、直接人は殺していないにせよ、政治的な野心が強く世の中に混乱を招いた。そしてその為に戦乱が起き、多くの人が命を落とした。
 しかしこうした政治的に野心に満ち私利私欲に従って行動する天皇がいる事実に触れること自体、今もなおタブーになっているような空気が、この国にはある

 天皇は神の末裔であると今も信じる人がこの国では少なくなく、だから天皇自身や、天皇を擁して政権を取った勢力は今もなお美化され続けている。
 戦前の天皇中心の史観のまま良いことのように歴史に書き残され、人々のイメージにも植え付けられているのは、例の建武の中興だけではない。
 勤皇の志士とか、明治維新についてもこの国では戦前のままの良いイメージで語り伝えられている。
 実際に“維新”を名乗る政党がこの国の国会でも地方議会でもかなりの議席を獲得している現実を見ても、明治維新が今もなお人々にどれだけ良いイメージを持たれているかが、よくわかる。
 今の歴史教育でも「江戸時代は遅れていて、江戸幕府は固陋で外敵に対しても無策で、維新を成し遂げた明治政府が日本を文明国家にし、近代国家にした」というイメージで語られている。
 皆さんも、そう感じているのではないだろうか。
 しかし断言するが、それは違う。
 日本を植民地を持ち現地の人を苦しめる帝国主義の軍事大国にし、日本を滅亡の淵に追いやった悲惨な太平洋戦争へと至る道をひた走らせたのが、あの“明治維新”と薩長の“志士たち”だ

 近年、日本の国民は急速に右傾化し、「太平洋戦争は悪くなかった、日本がアジアを白人支配から解放したのだ!」と妄言を吐く痴れ者たちが増えてきた。
 それでも「太平洋戦争や日中戦争は、日本に非のある侵略戦争だった」と認めている人が過半数を占めていて、学会でもそれが定説になっている。
 ただそこで、「日本はいつから侵略的な軍国主義の国になり、道を誤ったか?」という問題で、人々の見解がかなり分かれる。
 多くの国民に影響のある、司馬遼太郎氏のいわゆる“司馬史観”では、「日本は日清・日露戦争の頃までは立派で、それ以降道を誤った」という事になっている。
 さらに日本の戦争責任をより少なく認めようという人達は、「日中戦争を始めてからだ」と言う。
 中には「太平洋戦争の開始から」と言う極端な人までいる。
 しかし筆者はそのどの意見にも属さない。
 筆者の見解では、明治維新政府は、誕生そのものから日本を対外侵略的な植民地を持つ軍事大国にしようと考えていたのだ。

 幕末から明治維新に至る日本の歴史を学んで、貴方は不思議に思わなかっただろうか。
 幕府に反対する勢力は、最初は“尊皇攘夷”を主義主張に掲げていた筈だ。
 しかしその“尊攘派”が作り上げた筈の明治新政府は全面的に開国をし、文明開化と言い日本を大嫌いな筈の西欧のような国にしようとしたではないか。
 尊皇攘夷が、いつ、どうして“尊皇&欧米大好き”に変わったのか、教科書でも殆ど書かれず、教師もまず説明しない
 そして歴史の勉強を「年号や人名や事件を暗記するもの」と思いこんでいる“受験生”たちは、何の疑問も持たずに、ただ尊皇攘夷、大政奉還、五ヶ条の御誓文などの語句だけ暗記してそれで良しとしている。
 その丸暗記が学問か
 実に愚かだ。

 答えを言おう。
 尊皇攘夷を唱えた人達、とりわけ藩ごと尊皇攘夷だった長州藩や薩摩藩などは、実際に英国船に砲撃をするなどして、欧州の軍と戦った。
 そして惨敗した。
 それゆえに欧州の強さを身をもって知り、さらに欧州にも行って欧州の進んだ文明を知ったのだ。
 それで彼らは「このままでは日本は欧州の強国の植民地にされてしまう」という危機感を持ち、「だからその前に、日本を欧州のような強国にしなければ」と考えたのだ。
 尊皇攘夷派が尊皇超開国派になり、「日本を西欧のような軍事大国に作り替えるには、まず幕府を倒さねば」と本気で考えるようになったのは、その時からだ。
 だから尊皇攘夷派の“志士”たちは、旗印から攘夷の文字を捨ててそれを倒幕に変えた。
 幕府を倒した元尊皇攘夷派が、明治維新後に掌を返して開国し欧米化を押し進めたのは、そういうわけだ。

 ここで留意しておかねばならないのは、その「このままでは、日本は欧米の植民地にされてしまう!」という危機感を持って幕府を強引に倒した薩長の“志士”たちが、「強国によるアジア諸国の植民地化はいけない!」という感覚は全く持っていなかった、という事実だ。
 彼ら薩長の“志士”たちは欧米の帝国主義に反対するのではなく、「日本も欧米のような、植民地を持つ帝国主義の強国にならなければ」と考えたのだ。
 だから明治新政府は文明開化を押し進めると共に、富国強兵をスローガンにしてそのような国作りをしたのだ。
 明治新政府はその為に徴兵制をしき、この国を国民皆兵の国にした。
 さらに江戸時代を上回る高い税を農民に課し、農民の生活は以前より苦しくなった。
 そして農民の蜂起や自由民権運動に対しては、警察や軍を動員して弾圧し、政治犯は北海道の監獄に送り強制労働を課し酷い虐待をした。
 歴史教科書では、井伊直弼による志士たちの取り締まりを今もなお安政の大獄として教えているが。
 しかしそれを遙かに上回る酷いことを、明治維新政府と元“志士”たちはしてきたのだ。

 もし今もなお安政の大獄を歴史教科書に載せて教えるなら、明治維新政府による反政府運動(自由民権運動や農民運動)の弾圧も“明治の超大獄”として教科書に載せて教えなければフェアではない。
 しかし明治政府による大弾圧は殆ど教えられず、志士が取り締まりの対象になった安政の大獄だけが、今もなお“大獄”として酷い事として教え続けられている。
 ここにも「薩長に反対するものは悪で、明治維新政府のする事は悪くない」という、戦前の史観の残滓が明らかに見て取れる。

 事実をもって語ろう。
 明治六年の1873年に、鹿児島県人が神のように崇める西郷隆盛らが征韓論を主張した
 維新からたった六年後に、もう何の非もない韓国を一方的に征服しようと主張する政府の要人たちが現れたのである。
 この征韓論は、同じ鹿児島県人の大久保利通らに抑えられたが。
 しかし大久保らが征韓論に反対したのは、「征服は良くない、義に反する」からではない。
 ズバリ「時期がまだ早い、国内を固めてからにしよう」と考えたからである。
 征韓論に反対した者たちもまた、遠からず韓国を支配下に置くつもりでいた

 そして征韓論を一旦は退けた大久保の新政府は、その二年後の1875年に日本の軍艦を朝鮮の首都ソウル防衛の要地である江華島に接近させ、島から砲撃を受けると島の砲台を撃破した。
 そして原因を作ったのは日本であるにもかかわらず朝鮮の政府に圧力をかけ、翌1876年(明治九年)に日朝修好条規を結ばせ、鎖国していた朝鮮を開国させた。
 その条約により、朝鮮は釜山ほか二港を開き、ソウルに日本公使館、各港に領事館をおき、日本人の領事裁判権を認めることになった。
 領事裁判とは、「日本人が朝鮮で犯罪を犯しても、裁くのは日本の領事で、朝鮮に裁く権利はない」という不平等条約である。
 日本はまだ江戸時代の1858年に、アメリカの黒船の圧力に屈して日米修好通商条約を結ばされ、その不平等条約に大変泣かされた。
 日本は明治維新後たった九年で、自分が押し付けられてとても嫌で屈辱的であった不平等条約を、隣の朝鮮に押し付けたのである。

「自分がされて嫌な事は他人にするな」というのは、道徳の初歩であるが。
 自国がされて嫌だった事を、維新後十年も経たないちに隣国にするとは、呆れてものも言えない。
 こんな“明治の元勲”たちの、どこが偉いか。
 そして日清戦争と日露戦争を経て、朝鮮は日本に併合されてしまうことになる。

 その日清戦争や日露戦争を、「ロシアなどの大国から日本を守る為の、自衛の戦争」と考えいる人達がこの国では少なくないが、それは違う。
 考えてみてほしい。日清戦争と日露戦争は、どこが戦場であったか
 元冦のように、日本に攻め寄せて来た敵国軍と戦ったのか?
 否、戦場はどちらも外地、朝鮮と中国であった。

 まず日清戦争は、朝鮮の権益を中国(清)と争った戦であった。
 朝鮮国内で甲午農民戦争が起き、朝鮮政府は清に援軍を求めた。
 それに対し日本も朝鮮における国益を得ようと軍を送り、そこで日清戦争が始まったのだ。
 そして勝って中国国内まで攻め入り、台湾などを割譲させ、賠償金も得た。
 そこで日本は初めて植民地を手に入れ、名実ともに“帝国”となった。

 だが朝鮮政府内の日本に反感を持つ勢力は、南下して満州に勢力を伸ばしつつあるロシアに接近しようとした。
 そして朝鮮と満州の権益をロシアと争って始められたのが、日露戦争だ。
 そして日本は辛勝し、アメリカの仲介で「朝鮮と南満州における日本の権益を認め、南樺太も割譲するが、賠償金は無し」という条件で手を打った。

 繰り返すが、日清戦争も日露戦争も外地での利権を巡る戦争であって、日本に攻め込まれての自衛の戦争ではない
 だから筆者は、「日清戦争や日露戦争が、大国の圧力から日本を守る為の戦いだった」という考えには、全く賛成できない。

 日露戦争開始と共に日本は韓国を保護国化し、韓国の主権を手に入れた。
 そして1910年に、日韓併合をした。
 これは『日韓併合ニ関スル条約』によるものなので、植民地化ではなく条約による併合なのだと言い張る日本人もいるが。
 しかし形はどうあれ、韓国の人々が望んだ“併合”ではなく、実質的には植民地化であろう。

 確かに併合した韓国のインフラ整備などに、日本は多額の国税を使った。
 しかし現地の人々が望まない併合である以上、それは「大きなお世話」というものだろう。
「戦前の日本は、韓国に多額の投資をして、韓国人に恩恵を与えたのだ」と言い張る右翼の日本人たちに問うが。
 もし中国が多額のお金を出してインフラ整備等をしてくれるなら、貴方は日本が中国の属国になっても良いと思えるか?
 貧乏でも前時代の文化のままでも、民族の誇りと独立を保ちたい。そういう気持ちが、どうやら日本の右翼には理解できぬようだ。

 本能寺の変で横死した織田信長は朝鮮や中国に攻め入ることを考えていたというし、そして豊臣秀吉はそれを実行して苦戦を強いられた。
 さらに明治維新政府も、早いうちから大陸進出を考え、韓国や中国に権益を求めて兵を出した。
 しかし一方、徳川幕府は朝鮮との国交を回復させ、他国は侵略せず平和な時代を長く続けた
 今、日本が世界に誇っている日本独自の文化の多くは、その江戸時代に培われたものだ。
 なのに今の歴史教科書は今もなお天皇中心、薩長の明治政府中心の歴史観に縛られ、江戸時代と徳川幕府の功績を軽視している

 今も江戸時代と言うと、体制は遅れていて幕府の指導者も頭が固く無能だというイメージで歴史教科書にも描かれていて。
 一方、明治維新政府は文明開化で進んだイメージで描かれている。
 しかし江戸時代はずっと平和で、人々もそれなりに幸せに暮らしていた
 そして明治維新政府は富国強兵政策を当初からとり、太平洋戦争に至るまで侵略と戦争ばかりしてきた
 にもかかわらず歴史教科書では「江戸時代は封建的で遅れていて、明治維新後に日本は一気に進んだ国になった」というように書かれ、殆どの人もそんなイメージを抱いている。
 その事が、筆者はとても悔しい。

 戦前の日本は、日中戦争から進むべき道を間違えたのでも、日清戦争と日露戦争に勝ったことで過信して道を間違えたのでもない。
 断言するが、明治維新政府を作り上げた薩長の“志士”たちは、この日本を最初から他国を侵略して植民地を持てるような帝国主義の強国に作り上げたかったのだ。
 彼らは侵略や植民地主義や軍国主義が悪いなどと、全く思っていない。
 だから隙あらば他国に権益を求め、維新後五年で韓国に軍艦を送り砲撃戦をし、翌年には武力を背景に不平等条約を結ばせている。
 そして日清戦争、日露戦争と勝つごとに大陸の権益を増やしていった。
 大日本帝国は、日露戦争後や日中戦争後に道を誤ったのではない。
 大日本帝国は、維新の直後から軍国と侵略と戦争への道を歩もうとしていたのだ

 誤っていたのは、そもそも薩長の“志士”らの「この国をどう導くか?」というビジョンであろう。

 今年、安倍首相とそのお仲間により共謀罪が数の力で成立させられた。
 簡単に言えば、「犯罪を実行しなくても、計画し準備しただけで罪になる」という法律だ。
 それに照らして言えば、「明治政府を作った維新の“志士”たちは、当初から侵略戦争を計画していた」と言えよう。
 国際法や、犯罪の“実行”という意味で言えば、日本が他国から責められる侵略行為を始めたのは満州国の建国や日中戦争からであろうが。
 例の共謀罪の「計画して準備しただけでも罪」という観点から言えば、明治維新政府には成立した時から侵略戦争の罪を抱いていたと言えよう。

 筆者は「明治の日清・日露戦争までは立派だったが、その後に道を誤った」のではなく、「薩長の“志士”たちによる政府の成立から太平洋戦争まで、一本道で突き進んで行った」と考えている。
 武力を背景に他国を侵略し、強大な帝国になりたい。
 その一念は、明治維新政府が出来た当初から太平洋戦争に突入するまで、全く変わっていない。

 違う点があるとすれば、明治の元勲たちは「今の自国に出来ることと、出来ないこと」がちゃんとわかっていて現実的で、引くべき時は引き、待つべき時は待つことを知っていた。それに対し昭和の日本の軍人は「自分が望むことと、自国に出来ること」を混同している精神論者ばかりで、引くべき時に引くことを知らなかった、という点だけだ。

 昭和の陸軍大学出の軍部のお偉方より、明治の指導者たちの方が明らかに賢かった。
 しかし軍国主義者で侵略戦争を何も悪いと思っていないという点では、根っこは同じだ。
 明治まで生き残った薩長の大物で、私心の無い立派な人と言えば大久保利通くらいで、後はみな金に汚かったり、女癖が悪かったりと、人として尊敬できる“志士”はかなり少ない。
 山県有朋は特に金に汚く、首相を務めた黒田清隆など酔って妻を斬り殺したりもしている。
 そして私心の無い大久保ですら、軍国主義者で富国強兵を目指していたという点では変わらない。
 そんな現実を知ると、来年迎える明治維新百五十年も「何がめでたいものか!」と唾を吐きたくなってくる

 戦前は、よく薩長閥という言葉が言われ、薩摩や長州出身の者が政治家や高級官僚に多くいた。
 その薩長閥のうち長州閥の方は戦後の今もまだ残り、岸信介、佐藤栄作、そして安倍晋三と長州出身の首相が政権を担っている。
 安倍首相は「明治維新百五十年の2018年を、山口出身の首相(つまり自分)で迎えたい」などと、報道陣に語ったが。
 あの軍国主義で侵略主義の明治維新政府を作り上げた薩長の“志士”たちの末裔が、あの悲惨な大戦を経てもなお生き残り、明治維新百五十年を首相として祝おうと思っていると想像するだけで、筆者は暗澹たる気持ちになる

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全く覚えていません

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 恥ずかしながら、いつ、どこで撮ったのか、全く覚えていません。
 ただ道を歩いていて「綺麗だなあ」と思い、いつも持つ歩いているコンデジで1枚撮ったのでしょうね。

 花でも猫でも風景でも、「綺麗だなあ」と思うと私は写真を撮らずにいられません。
 まあ、女性に関しては、いくら美人でも無断で撮るのは自制していますが……。
 今はそんな気力も無いですが、若い頃には街で見かけた美女を口説いて、写真を撮らせていただいたりもしました。
「綺麗なものや、可愛いものを撮りたい!」という私の欲求は、食欲や睡眠欲より強いです。

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林檎の花

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 我が家の林檎の木には、赤い花が咲きます。
 林檎の花と言うと普通は白なのですが、我が家のは赤なんです。

 けっこう珍しいらしいのですが、普通に980円で買った苗木を育てたものです。
 園芸店では、林檎の苗木と言えばフジとか津軽とか品種を明記してあるのが普通ですよね。
 でもこれは、ただ“林檎”とだけ書かれて売られていました。

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