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空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

空と雲と緑、私の好きなものばかりです

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 アメリカとイギリスについて、私たち日本人はつい「同じ英語を喋っている」と思ってしまいませんか?
 実は違うんですね。
 標準語と関西弁ほどの差は無いですが、イギリスの英語とアメリカの“英語”は、細かい部分でいろいろ違うんですよ。
 だからイギリス人かアメリカ人か、お互いすぐわかるようです。
 その代表的な違いが、例の“パンツ”です。

 何年か前、アメリカとイギリスで「聖書を統一しよう」という話が持ち上がったのですが、それは結局頓挫しました。
 原因は、微妙ながらたくさんある、英国のキングス・イングリッシュと米国のアメリカ英語の差異のせいです。
 例えば“ズボン”をアメリカの聖書では“パンツ”、イギリスの聖書では“トラウザース”と書いてあるわけです。
 で、アメリカは一般的になっているパンツをトラウザースに変えたくないし、イギリスもトラウザースを下着と同じパンツと書くなどとんでもない……と。
 だから一部のイギリス人は、アメリカの聖書のことを『パンツ聖書』と馬鹿にしているそうです。

 アメリカ人には申し訳ないですけれど、アメリカの聖書を『パンツ聖書』と笑ってしまう気持ち、私はわかってしまったりします。
 よく、聖書には日本語と英語の両方が載っているものがありますが。
 熱心なキリスト教徒の方、もしくはお暇な方は、貴方のお宅の聖書が『パンツ聖書』かどうか、チェックしてみたら楽しいかも知れません。


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青が好きなのは空の色だから

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 北国の人達は、冬には寒くても厚着しますよね。
 コートの下にも、いろいろ着込んで。
 でも私、肌着をいろいろ着込むの、どうも苦手なんですよ。
 何か「お爺さんみたい」という印象で。
 だからほんの数年前まで、真冬でも肌着はTシャツでした。
 そしてその上に、ワイシャツとスーツ(ジャケット)を着て「外にGO!」という感じで。
 ええ、コートもまず着ません。
 ……当たり前ですよね、寒くて。

 まあ、今ではさすがに晩秋から春先まではTシャツでなく、ヒートテックの長袖シャツを下に着ていますけれどね。
「暖かい、これは良い!」と実感してはいるものの、ズボン(スラックス)の下だけは譲れないんです。
 ズボンの下は、トランクスだけです。
 スパッツとか長いタイツとか穿くの、どうしても抵抗があるんですよ。
 何か、「お爺さんのズボン下」って感じで……。
 この無益な抵抗が、さてあと何年続くでしょうかね。

 ちなみに私、下半身の上に穿くものを“パンツ”と言うの、嫌いなんです。
 だって下着のパンツと上に穿くやつと、どう区別するんですか。
 下半身の上に穿くもののことを、イギリスではトラウザースと言い、アメリカではパンツとも言う。
 そのアメリカ流の呼び方が日本でも流行っていますが、下着のパンツと上に穿くパンツの区別が厄介で、私は上に穿くものをパンツと呼ぶのに、ものすごーく抵抗があります。
 日本人は何故、「アメリカで流行っている」と言うと何の抵抗も無く、不便さがあっても平気で取り入れてしまうんでしょうかね?


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雲が湧く

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 こんな事を言ったら、スキー場の経営者さんとか、雪がある程度は降らないと困る人達に怒られてしまいそうですが。
 この冬は暖冬なので、寒がりの私としては助かっています。

 ネットで、以前こんな話を読みました。
 ある日本の男の人がフィリピンの女性と結婚したのですが、冬の暖房費が妙に高い。
 それで気が付いたのですが、そのフィリピン人の奥さん、真冬でも室内ではTシャツとミニスカでいて、「寒い、寒い」と暖房をガンガン使っている……と。

 笑いました。
 けれど私も、そのフィリピン人の奥さんと似たような事をしているんです。
 私、寒がりなのに厚着が嫌いなんですよ。




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今年の桜が待ち遠しいです

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 もう一作お勧めしたい黒沢的青春映画の名作は、コッポラ監督の『アウトサイダー』です。

 これはアメリカのある街の話なんですが、その街の若者は、育ちの良い“ソーシー”と労働者階級の子の“グリーサー”に分かれて対立しているんですね。
 で、主人公はグリーサーに属する少年です。
 その主人公は仲間達と映画を観に行き、そこで“ソーシー”の美少女と出逢って憧れるんです。
 そしてそのソーシーの美少女も、満更でもない。
 けれどソーシーとグリーサーの対立が激化して、主人公の親友がソーシーのグループに襲われ、身を守ろうとして誤ってソーシーの一人を刺し殺してしまうんです。
 そしてソーシーとグリーサーの対立が、さらに激しくなって、グリーサーの主人公は、憧れのソーシーの美少女と話すことすら出来なくなって……。

 最後の方で、ソーシーとグリーサーは争いにケリを付ける為に、集団で乱闘するんですが。
 ただグリーサーはその喧嘩に勝てても、社会に出れば社会的階層は歴然としていて、人生の上で勝つ事は絶対に出来ない。
 その現実の苦さを、映画は良く表しています。
 また、争いが激化する中でソーシーの少女がグリーサーである主人公にかける言葉が、「大人だなぁ」と思わせ、さらに『ロミオとジュリエット』とは違う現実の厳しさと複雑さを伝えてくれます。
 主人公とその親友にとっては、襲ってきたソーシーは悪い奴で「刺されて当然」なのだけれど、ソーシーにとってはかけがえのない良い奴だったという、人間の多面性も表現してくれます。

 この『アウトサイダー』、ただ監督がコッポラというだけでなく、若き日のマット・ディロンやトム・クルーズやロブ・ロウ、そしてダイアン・レインなどの名優が大勢出演していますので、その意味でも是非見てほしいです。





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桜の下で

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 先週、私はアニメの『夜は短し歩けよ乙女』について、「モテない男による、モテない男の為の作品」と散々こき下ろしましたが。
 アニメではありませんが、そんな私が是非お勧めしたい映画が、二本あります。
 まずは、1978年のイスラエルの映画『グローイング・アップ』です。

 タイトルの意味は、「成長」ですが。
 主人公は性格の良いフツメンの高校生で、親友(悪友?)が二人います。
 一人はイケメンのチャラ男で、もう一人は太っちょの三枚目君。
 で、三人ともその年代の男子高校らしくおバカでスケベで、悪ふざけばかりしているんですね。
 だから初めは見ていて大笑いの連続で、てっきり「これはコメディー映画なんだな」と思ってしまうんです。

 ところがですね、主人公の恋愛が話のテーマになってくると、ムードはほろ苦くなってきます。
 何しろ「主人公が恋してる可憐な美少女は、主人公の親友のチャラ男が好き」ってパターンですから。
 でも大好きな美少女は、チャラ男に良いように弄ばれ、傷ついた美少女を主人公は必死に助けて尽くし、美少女も主人公を頼るようになるんです。
 そして結末は……。

 ええ、青春の、若い日の恋の苦みと痛みがリアルかつシビアに、『夜は短し歩けよ乙女』などより百万倍も素晴らしく描かれています。
 皆にお勧めしたい名画ですが、『夜は短し歩けよ乙女』に感動した人にこそ、特に見てみてほしいですね。


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月桂冠山田錦辛口純米など(個性あるカップ酒の飲み比べ)

 大手の“清酒”メーカーは、大関ワンカップなどのカップ酒について「日本酒の入門用にも」と言っている。
 それについて筆者は、常日頃から「入門用なら、もっとマシな酒を出せよ。でないと若い人が日本酒が嫌いになり、日本酒離れを進めるばかりだ」と思っていた。
 ワンカップ大関だの、○(まる)だの、「カップ酒=まずい安酒」というイメージを裏付けるシロモノとしか言いようが無い。
 だが近年は、大吟醸だの、純米だのというカップ酒が大メーカーからも出て来ていて、筆者も大メーカーのカップ酒を見直しつつある。

 で、正確にはカップではなく一合のボトルに入った酒だが、月桂冠THE SHOT華やぐドライ大吟醸から飲んでみる。
 まず、香りがとてもフルーティーだ!
 流石は大吟醸と思わせてくれる。
 洋梨、青リンゴの香りが華やかに立つ。
 ただ醸造用アルコールも加えたアル添酒であるだけに、その分だけ加水した量が相対的に増し、使われた米の量も減っている為、味は良く言えば「軽やかでスッキリ」、悪く言えばコクと深みが足りない。
 名前の通りに辛口で、甘味やふくよかさが味に無い。
 香り高く軽やかでスッキリ飲みやすいが、コクと深みの点で味に物足りなさが残る。
 生もとなどの酒とは性格が真逆だが、これはこれで良い酒である。
 口に含み、舌の上で転がし味わって美味い。
 冷蔵庫で冷やし、ワイングラスで楽しみたい。

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 続いて、月桂冠山田錦辛口純米だ。
 これはワンカップ大関などと同じカップ酒だが、開封すると吟醸香とは違う、いかにも日本酒らしい良い香りが漂う。
 良いと言うより、好ましい香りだ。
 精米歩合は70%に過ぎないが、飲んでみると雑味が無くスッキリしている。
 米がとても良いのか、流石は山田錦だ。
 で、スッキリしているのにふくらみがあって、ふくよかな味だ。
 確かに辛口だが、しかしほのかに甘味もある。
 辛口と言うより旨口に近い。
 これは美味しい、良い酒だ!
 個人的にだが、大吟醸で精米歩合50%の同じ月桂冠のTHE SHOTより、こちらの方が明らかに美味しくて良い酒だと感じる。
 アル添の大吟醸とは、香りに差こそあるものの、味の深みも奥行きも格段に違う。
 日本酒は単に精米歩合で格付け出来ないと、大吟醸のTHE SHOTとこれを飲み比べて痛感した。
 この酒は、これのみで飲んでも充分に美味しいが、和食や肴などを食べながら飲めば、酒も食べ物もどちらもより美味しくなる。
 カップ酒、特に大メーカーのカップ酒は不味い安酒という思い込みを壊してくれた、とても良い酒だ。
 カップ酒を「日本酒の入門(味見)用に」と位置づけるなら、メーカーはこの月桂冠山田錦辛口純米のような製品を積極的に造るべきだと、心から思う。

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 さて、世は糖質制限ブームだが、酒の世界でもビールどころか米から作る日本酒にまで糖質ゼロのものが出てきた。
 糖質が多い筈の米からどのような日本酒が作れるのか、試しに「糖質オフ・ゼロ系日本酒でNo.1ブランド」という、月桂冠糖質ゼロを飲んでみた。
「すっきりクリアな超辛口」と謳っている、アル添の普通酒だ。
 それにしては、香りは意外に悪くない。
 少なくとも香りは、飲んでみようという気にさせる。
 活性炭による濾過がキツいのか、色はやや薄い。
 飲むとスッキリ、飲みやすい。
 確かに辛口だが水のようで、味に押しと深みが足りな過ぎる。
 糖質ゼロだから甘味が微かにすら無いのは当然だが、味にふくらみや奥行きといったものが皆無に近い。
 さらに薄味なのに、味に僅かに濁りを感じる。
 この酒は、味わって飲んでも意味が無い。
 ただ酔う為にグイグイ飲むべき酒だ。
 味にふくよかさが全く無くて水のように薄味なので、食事をしたり肴を食べたりしながら飲むにも向かない。
 断言するが、糖質ゼロにメリットを感じない日本酒好きは飲まない方が良い。
 嫌味が無いからスイスイ飲めるが進んで飲みたい旨さが無いし、不味いとは言わないが美味しいとも全く思わない。
 これが糖質オフ・ゼロ系の日本酒でNo.1ブランドとは呆れる。
 こんな酒を我慢してまで飲みたくない。
 糖質オフやゼロにこだわるなら、本格焼酎を飲んだ方がずっとマシだ。

菊正宗・樽酒生酛辛口P1180671

 最後に、菊正宗樽酒生酛辛口を飲んでみた。
 アル添の普通酒だが、吉野杉樽酒貯蔵という。
 会社は佳撰でなく、その上の上撰にこの酒をランク付けしている。
 封を開けると、本当に杉の香りが漂ってくる。
 色はそれなりに付いており、濾過はし過ぎていない印象だ。
 飲んでみると辛口だが味に甘さもふくらみもあり、月桂冠糖質ゼロとは別物で、遙かに味が深い。
 クラスを考えれば悪くないし、ワンカップ大関より個人的には間違いなく美味しく感じるのだが、売りである吉野杉の樽酒の、新しい木の匂いが少し強すぎる印象だ。
 香りだけでなく、味にも新しい木(杉)を感じてしまう。
 この強い杉の香りと味を楽しめる人には良いのだろうが、生酛造りの日本酒の味と香りを楽しみたい人には、強すぎる杉の香りと味は邪魔かも知れない。
 後味にも杉の香りが残る。
 アル添酒だが、醸造用アルコールの使用率はそれほど高くないようで、他のアル添酒にありがちな、後から加えた醸造用アルコールによる角のある刺激的な辛さは殆ど感じない。
 カップ酒としては悪くない出来だが、また買って飲むかどうかは「ほんのり」ではなく「強くはっきり」感じる新しい杉の香りをどう評価するかによる。
 客観的に判断すれば、酒としては、少なくともカップ酒の元祖であるワンカップ大関よりも上だ。
 ちなみに燗酒にすると杉の香りと味がかなり薄らぎ、甘さも出て生酛らしい芳醇な酒になる。

 四つのカップ酒を飲み比べてみて、「アル添の大吟醸は悪くないが山田錦の純米酒の方が酒としての出来が上で、糖質ゼロの日本酒は酒としてまだ美味しく飲めるレベルには達しておらず、樽酒生酛は皮肉にも売りである杉樽の香りが少し邪魔」という結論に達した。
 勿論これは、筆者の個人的な味覚によるものである。

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カタカナ語を多く使いたがる愚か者ども

 唐突だが、「かたす」あるいは「かたして」という言葉をご存知の方が、この国にどれだけいるだろうか。

 筆者は東京生まれで、幼い頃に現在住んでいる場所に引っ越してきた。
 そしてその引っ越して来た土地に、「かたす」という方言があった。
 それは「仲間に入れる」という意味であるが、その方言自体がかなり廃れていて、筆者が引っ越して来た時点でも使っている者は少なく、土地の者たちも普通に「仲間に入れて」と言っていた。

 だが筆者が小学校低学年だった頃に在籍したクラスの男子の間では、遊ぶ時には「かたす」または「かたして」という言葉が約束事のように使われていた。
 遊んでいる子供達の中に入りたければ、「入れて」ではなく「かたして」と頼まなければならないのが、自然かつ暗黙のうちにルールになっていた。
 で、その「かたして」という方言に馴染みのない筆者は、「入れてよ」と頼んだ。
 言葉は通じれば良いのだから、「かたして」でも「入れて」でも構わない筈。
 幼いながら、筆者はそう思ったのだ。
 だが筆者は拒まれた。
「かたしてと言わないから、入れてやらない」
 その遊びのグループのリーダーに冷然とそう言われ、筆者は仲間外れにされた。
 仲間内の言葉を使わない。
 ただそれだけの理由で。

 隠語という言葉がある。
 正式な言葉ではないが、それを使うことによって仲間意識を高め、自分達だけを特別な者として、他者に優越感を抱こうという目的で使われる言葉だ。
 現在、その隠語と同様の意味合いで目に余るほど盛んに使われている言葉がある。
 カタカナ語というやつだ。

 こんな長文のブログを読んで下さる皆さんは、日頃から文章を読み慣れている知的な方だろうと推察しているが。
 皆さんは、近年の日本語に妙にカタカナ語が増えている事にお気付きだろう。
 近年の日本語は意味の分からぬカタカナ語ばかりで、しかもマスコミや官僚など、社会的に知的と思われている人達が好んで使いたがっているのだから呆れる。
 筆者は今の日本語に溢れている、そして一部の人達が自分達“知的なエリート”と一般の凡人を区別する隠語のように使っている、このカタカナ語という奴が大嫌いである。

 先週、筆者は「ひらがなは、やさしい」と盲信して平仮名を多用する愚かさについて書いた。
 だが筆者は、平仮名を多用する者よりカタカナ語を使いたがる者の方がより質が悪いだけでなく、根性も曲がり性根も腐っていると思っている。
 筆者は日本語で表記できるものをあえてカタカナ語で書きたがる人間を、ただ大嫌いと言うより心から軽蔑している。

 近頃、NHKのテレビでこんなスローガンが繰り返し放送されている。
挑戦に、リスペクトを
 国民ほぼ全てから視聴料を取り立てている、自称「皆様のNHK」が、この有り様である。
 NHKもここまで堕ちたかと、筆者はNHKを、少なくともこのスローガンを製作した者と、これを良しとして認可した責任者を心から軽蔑する

 筆者はNHKの責任者に問いたい。
 アクセントだけでなく鼻濁音の発音にも異常にこだわり、「都市ガス」や「毒ガス」も普通の人は使わぬ妙な鼻にかかった声で読んでいるNHKが、日本語の「尊敬」でなくあえて「リスペクト」とカタカナ語で言う理由は何か?
「挑戦に、尊敬を」ではなく、「挑戦に、リスペクトを」とあえてカタカナ語で言うのでは、意味が何か違うのか?
 そのリスペクトというカタカナ語を使う理由が、「何も考えないで」どころかただ「感覚的に今風でカッコいいから」だとしたら、責任ある立場の者も含めたNHKの職員は馬鹿すぎると断言する。

「尊敬」と書けば、日本人ならほぼ誰にでも意味が分かるではないか。
 それをカタカナ語で「リスペクト」と書いて、あえて一部の者にしか意味をわからなくする理由が、筆者には理解できない。

 特にNHKをよく見ている田舎のお爺ちゃんやお婆ちゃんなど、「挑戦に、リスペクトを」と言われても「???」だろう。
 アクセントや鼻濁音に異様なくらいのこだわりを見せるように、日本語を大切にしている筈のNHKが、何故日本語を粗末にして「カッコいい言葉」であるかのようにカタカナ語をあえて使うのか
 その理由を、視聴料を取られている者の一人として心から知りたい。

 カタカナ語を多用したがる人は、業界人や専門家と言われる、知的と思われる人に少なくない。
 しかし筆者は、「カタカナ語を多用したがる者は馬鹿なのではないか」と思っている。
 ただ馬鹿に加えて、自分を知的な特別な者に見せたい性根の卑しさをも兼ね備えた、下らない人間でもあると断言する。

 先週の平仮名を多用する弊害についての記事で、表意文字と表音文字について書いた。
 漢字は意味をも表現する表意文字だから、初めて読んだ文字でも意味はおよそ理解できる。
 だが平仮名だけでなく、片仮名も表音文字であるから、初めてその言葉に出合った場合、理解できるのは発音だけで、意味は全く理解できない
 その意味で、漢字に比べカタカナ語は非常に不親切でわかりにくい
 その事を、カタカナ語大好き人間達はまるで理解していない。
 それどころか、「凡人どもにはわからぬ専門用語が分かるし喋れている自分はカッコいい」くらいに思っているのだから、その品性の醜さに呆れる。

 例えば「プラセボ効果」だが、「偽薬効果」と書けばすぐに意味の見当がつくではないか。
「聞き取り」を「ヒアリング」と書いたり言ったりする意味が、どこにある?
「集団」を、どうして「クラスタ」と書く意味がある?
 ただ「利用しやすさ」と言えば良いのに、何故「アクセシビリティー」と言う?
「インセンティブ」より「優遇措置」の方が、はるかに分かりやすいだろうに。インセンティブ契約より優遇契約の方が余程も分かりやすいと思うのは、筆者だけだろうか。
「多様性」で皆に容易にわかるのに、何故「ダイバーシティー」と書く必要がある?
「訪日外国人」と言えば誰にでも分かるのに、何故マスコミまで当たり前のように「インバウンド」と言う?
「勢い」を、どうして「モメンタム」などと書く必要がある?
「包摂的な」、つまり「誰も取り残さない」と言えば良いものを、なぜ「インクルーシブ」と言う?
 ただ「目次」で良いのに、「コンテンツ」と書けば何かカッコいいのか?
 素直に「資金洗浄」と言えばわかるのに、わざわざ「マネーロンダリング」などと言って、それで長ったらしくて言いにくいと「マネロン」と縮めたりするから、元の意味まで分からなくなる。
 単に「教え返す」で良いものをわざわざ「ティーチバック」などと言い、「再教育」は「リカレント」とされ、「科学的根拠」と言えば誰にでもわかるのにわざわざ「エビデンス」と言うのが学問の世界なのだから、呆れ果てる。
「キャッチアップ」や「マインドセット」くらい、「追いつく」そして「考え方」と日本語で言えよと、心から言いたい。
 そのレベルの日本語をわざわざカタカナ語で言うのが、そんなにカッコ良くて頭が良さそうか?
 その種の日本人について、エヴァンゲリオンのアスカではないが、筆者は「アンタ馬鹿ぁ!?」と腹の底からの大声で罵倒したい。

 漢字、あるいは平仮名も混ぜた漢字の言葉(従来からの日本語)で言ったり書いたりすれば、初めてその言葉を聞いたり読んだりする者たち皆に分かりやすいのに、あえて発音しか分からぬカタカナ語を使う意味が、筆者にはまるで分からない。
 小学校の低学年の頃、誰にでも分かる日本語で遊びの仲間に「入れて」と頼んだ筆者を、この国のごく一部でしか通用しない、それも既に廃れかけていた方言の「かたして」を使わなかったからと仲間外れにした同級生達の意地悪で高慢な顔を、筆者はその種のカタカナ語に接する度に思い出す。
 自分達にしか分からない専門用語のカタカナ語を使うことで、他のその言葉を知らぬ人達を愚者として見下しているのだ。
 専門家や学者や官僚と称する人達と、それに影響されたマスコミが、あえて普通の人に分かりづらいカタカナ語を使いたがる理由は、筆者にはそれしか思いつかない。

 下らないことに、その専門家と称する人達が使いたがるカタカナ語だが、それはただ日本語として通じないだけでなく、原語(主に英語)としても通用しないという現実がある。
 カタカナ語、片仮名で表記されている新旧の外来語の発音と、英語など本来の原語での発音は、実はかなり違う。
 端的に言えば、日本語の母音は五つ(あいうえお)しか無いが、英語の母音は26もある。
 単母音が9つ、長母音が7つ、二重母音が8つ、そして三重母音が2つだ。
 だから英語の発音は多彩かつ複雑だ。

 例えば「熱い」という意味の“hot”だが。
 これを片仮名で無理に日本語で表記すると、最も近いのが「ホォット」である。
 帽子の“hat”も、同様に「ヘェット」である。
 繰り返すがこれはあくまでも「無理に日本語の片仮名にしてみて」の表記であって、これでもまだ正確な発音とは遠い。

 さらに“hot”の“”も“hat”の“”も、先に挙げた無理に正しい発音に近付けた片仮名では「ア」と表記されている点に注目していただきたい。
 日本語(片仮名)の表記では同じ「ア」でも、英語の発音は実は別で違う。
 正確には“hot”の“o”は日本語で「オ」と言う時の口の形を作って「ア」と発音し、“hat”の“a”はそのまま「ア」と発音するのが近い。
 そのように発音をそれぞれ「オに近いア」と「そのままのア」に使い分けなければ、英語として通じない。

 中学生程度の初歩の英語である“hot”と“hat”ですら、そのままカタカナ語の「ホット」と「ハット」の発音では、英語として英語圏の外国人に通用しないのだ。
 だからカタカナ語を多用し「イノベーション」とか「インバウンド」とか言って、それで外国人にもわかると思っている人間は大馬鹿野郎だ。

 筆者はミリオタだが、それに関して言うと、あのナチスドイツの悪名高き総統アドルフ・ヒトラーは、日本では昔はほぼ「ヒットラー」と表記されていた。
 それがいつの間にか「ヒトラー」に変わり、今ではヒットラーと言ったり書いたりすると相手に妙な顔をされる。
 筆者はまだヒトラーが政権を握っていた、第二次世界大戦中のドイツで製作されたプロパガンダ映画である『ドイツ週刊ニュース』の音声を繰り返し聞いてみたが、当時のドイツ人による発音は明らかに「ヒトラー」ではなく「ヒットラー」に近い。
 いや、もっと正確には「アードゥルフ・ヒットゥラー」が、最も原語に近いカタカナ表記だ。
 日本で一般的になっているカタカナ語と原語の発音は、それくらい違う。
 その筆者が必死に聞き取った「アードゥルフ・ヒットゥラー」ですら、ドイツ語の発音を無理に片仮名に変えたものであるから、ドイツ人に聞かせたら「少し違う」と言うだろう。

 おわかりだろうか。
 原語を無理に日本語の発音にねじ曲げて片仮名にしたカタカナ語は、「日本人にもわからないし、外国人にも通じない」という、どうしようもなく役立たずで使い勝手の悪い言葉なのだ。
 なのにニュースの時間に、皆に分かりやすく話すのが仕事のアナウンサーが何の躊躇いも無く解説無しに「インバウンド」と言い、アクセントや鼻濁音に至るまで日本語に深いこだわりを持つNHKまで標語に「挑戦に、リスペクトを」と平然と掲げる神経が理解できないし、その現状が嘆かわしい。

 平仮名の多用は、ただ文章を読みにくくするだけだが、日本語として意味はとりあえず通じる。
 だがカタカナ語は、そもそもの由来が日本語でなくて日本人には理解できず、そして発音に無理があるから元の言葉を話す外国人にも通じないという、実に厄介なシロモノなのだ。
 その妙なカタカナ語を、対応する日本語があるにもかかわらず得意げに多用する日本人、特に知的ぶって「オマエら凡人にはわからんだろうが」と言いたげに無用にあれこれ使いたがる日本人には、強い怒りと軽蔑を胸の底から感じる

 よく、ワルのグループとやヤクザとかが、自分達と一般人を区別する為に、自分達にしか分からぬ隠語を使うが。
 今、学者や専門家や官僚などが無闇にカタカナ語(日本人に分からず、外国人にも通じない)を多用し、それにマスコミも影響されているのは、一部の者にしか理解できない新しい外来語を喋ることで「自分は特別な存在ででカッコいい!」という、隠語を使う者にありがちな高揚感を抱くことが出来、そして専門家や官僚同士の仲間意識を強められるからだろう。

 近年、安倍政権下で愛国心という言葉が復活しつつあるが。
 そしてテレビや本や雑誌でも、「日本と日本人、スゲー!」という種類のものが大人気である。
 ならば愛国心など叫んで“日本アゲ”をするより先に、まず日本語をもっと大事にして欲しいと、筆者は心から願う。
 知的に見えるとか、カッコいいとか誤解して、ちゃんと対応する日本語があるのに母国語を粗末にし、相手に意味が伝わりにくいカタカナ語を無駄に多用する輩を、筆者は心の底から軽蔑する。

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花を撮るならやはり接写です

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 と、昨日までいろいろ偉そうな事を語った私ですが、現在まだ独身ですwwww。

 私、その自分の“一芸”に熱中し過ぎてしまったんですね。
 写真とか読書とか好きな歴史の研究とか、私はモテる為に始めて続けていたわけではなくて、ただ純粋にそれらが好きだったんです。
 好きだから熱中しているうちに取り柄になって、女の子に対するアピールポイントになった……というのが実態なんです。
 だから「彼女と写真と、どっちが大切か?」と問われると、迷わず「彼女」と答えられないんです。
 彼女に「結婚するといろいろ大変だから、写真や本にかけるお金を減らして」と言われても、「無理」と即答すると思います。

 例えば好きで集めているクラシック・カメラを、東京の専門店に買いに行くとしますね。
 一度、当時の彼女と東京に行って、銀座でお食事とかしながらクラシック・カメラのお店にも一緒に回ったんです。
 そして私、せっかく東京に出て来たのだからと、何万円もするカメラとか交換レンズとか、バンバン買うわけです。
 で、帰りに東京駅で、私のお財布の中身を彼女に見せたんです。
 帰りの切符を買った後、財布に本当にお札が一枚も残っていない。
 もうそこまで、好きな事にお金を使い尽くしてしまうんですね。

 その私の空の財布を見て、私はきっと笑ってもらえると思ってたんです。
 ウケるのではないか、と。
 ところが彼女、絶句していました。
 そしてその後で、真剣な顔と口調でこう言いました。
「あたし、キミと結婚したら、キミには1円もお金を持たせない。キミにお金を持たせたら、あたし、気が狂っちゃう」

 そんな私の金銭感覚と経済観念に不安を抱かれたのか、その彼女とは結婚に至りませんでした。
 そしてその後も、彼女は出来ても結婚には至りませんでした。
 芸術や文学が大好きの自由人は、付き合って遊ぶには良いけれど結婚相手には向かないと、女性にシビアに切り捨てられてしまう連続です。

 ですから忠告としては、「女の子にアピールするのに秀でた一芸は有効だけれど、それにのめり込み過ぎると結婚相手には選んで貰えない」です。
 女の子はとにかく、「何よりキミが一番大事だよ」と真顔で言い切れる男性が好きですから。

 趣味と彼女。
 仕事と彼女。
 親と彼女。
 友達と彼女。
 猫と彼女。
 私としては、と言うか男の思考では「どちらも大切なもので、比較して一方を切り捨てられるようなものではない」と考えるのですが。
 しかし女の子は、「趣味より仕事より親より友達より猫より、とにかくキミが一番大切」と言えないと駄目で許してくれないのです。

 で、それが出来なかった私は、彼女は複数いましたが今もなお独身です。
 趣味のモノにや本に囲まれ、親は居て猫も居て、ただ妻は得られず子もおらず、けれどそれなりに幸せです。

 私、「何かを得る為には、何かを失う覚悟が要る」と、しっかりわかっていますから。
 好きな事をやり親や猫も大切にして、かつ妻子にも満足して貰おうと思う程、私は無い物ねだりをする欲深な人間ではないです。

 私、低身長でも一部の女の子達には「写真が撮れて文学が語れてモノを知っていて、頼れるし(外見はこんなでも中身は)カッコいい!」と思って貰えましたが。
 でも相手の女の子が結婚を真剣に考えるようになると、容赦なく切り捨てられました。
 何かに打ち込み過ぎている男性は、結婚を考える時期になったら趣味や好きな事はセーブして、彼女に「良い夫で良いパパ」になれるところを見せられないと駄目ですね。

 それはともかくとして!
 何かに熱中して一芸に秀でれば自信がつくし、自分に自信がつけば女の子にも頼られるようになります。
 見かけが残念でも、です。
 だからとにかく、男はウダウダ、ウジウジしていないで、何かに熱中して頑張るべきです。

 例えばただゲームが好きでプレイに熱中しているだけでは、ただの「ゲームオタク」ですが。
 けれどゲームの世界にさらにハマり込んで、自分でゲームを制作するに至ったら、もう立派なクリエイターです。
 アニメも同じです。
 男が「アニメが好き」と言ったらオタク扱いされて、モテとは間逆の低い階層(スクールカーストでは最下層)に落とされてしまいますが。
 けれどあの新海誠監督も、まずはゲーム会社でオープニング映像などを創っていて、そしてほぼ一人で『ほしのこえ』という作品を作り上げ、「個人製作アニメの歴史的傑作」と大評判になりました。
 さらにそこから『雲のむこう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』、『言の葉の庭』などの素晴らしい作品を世に送り出し、ついに『君の名は』でその名を知らぬ日本人の方が少ないくらいメジャーになりました。
 今、新海誠監督を「アニメ好きのオタク、キモッ」とか公然と馬鹿にする人、殆どいませんよね?

 ゲームでもアニメでも何でも良いから、まず一旦「モテたい気持ち」は忘れて、好きな事に熱中して頑張って下さい。
 そうして何か一芸に秀でること。
 さらに変に意識せず女の子に気軽に声をかけられるようになれば、彼女など問題なく出来ますよ。
 何しろこの私(低身長で香川照之に似ている)にすら、かつて彼女が居たのですから。

 それだけに、『夜は短し歩けよ乙女』の“先輩”のように、ダメ男のくせに自意識ばかり高くて、ストーカーのようにヒロインの行く先々に偶然を装って先回りすることしか出来ず、それでヒロインが自分の気持ちに気付いて応えてくれない、ヒロインとの仲が思うように進展しないと悶々としているようなキャラを見ると、心の底から気分が悪くなります。
「男なら根性もって頑張れよ!」と、ケツを蹴飛ばしたくなります。
 そんなまるで好感を持てず共感も出来ない駄目男の“先輩”がほぼ主人公で、そしてヒロインが“先輩”の想いに気付いて気持ちに応えてくれるという結末なのだから、アニメの『夜は短し恋せよ乙女』は、見ていて気分がとても悪かったです。

 まあ、真っ当な努力をせずダメ男のまま美少女にモテたいブサメンには、『夜は短し歩けよ乙女』は「夢を見させてくれた良い作品」かも知れませんが。
 ただ夢を夢で終わらせず、現実に素敵な彼女が欲しいと思ったら、とにかく頑張って自分を磨かなければ駄目ですよ、絶対に。
 ただ外見を飾って、中身の無いイケメンもどきになってはなりません。
 とにかく中身を磨き一芸を身につけ、自分に自信をつけるのです。
 そして気になる女の子がいたら、普通かつ自然に話しかけてまずはお友達になるところから始めることも忘れてはなりません。

『夜は短し歩けよ乙女』では、ヒロインは周囲の人に“先輩”の想いに気付かされ、そして何故かドキドキして嵐の中を頑張って自分から“先輩”に会いに行き、会えば頬を赤らめたりしますが。
 フツメンかそれ以下の特に取り柄の無い男が、くだらぬ自意識など持ってただ待っていても、「女の子の方から好意を持って寄って来てくれる」などという奇跡は、現実にはまず起きませんから。
 それだけは、『夜は短し歩けよ乙女』などの「モテない男が、モテない男の視点で、モテない男の為に創った作品」を見て満足しているフツメンかそれ以下の男たちにわかってほしいです。





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頭上に桜

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 私は何しろ低身長ですから。
 女の子に相手にして貰う為に、努力はいろいろしました。
 フツメンかそれ以下の場合、まず一芸があると良いですね。
 スポーツが出来るとか、何かが得意だとか、目立つ特技を身につけるんです。
 それは尋常の努力では無理ですが、何かでとても頑張ればそれは自身の取り柄になるし、人間的にも自信がつきます。
 自分に何か特技があるという事は、ただモテの面以外だけでなく、人間的な成長の面でも大いに役に立ちます。

 私の場合、学生時代には学校の誰にも「写真なら黒沢」と言われるくらい、写真で頑張りました。
 そして本が大好きで、読書量も半端ではなかったので、雑学の知識はかなり豊富でした。
 高校生の頃には、先生に歴史の教科書に書かれていない専門的な問題の解説を頼まれるくらい、特に歴史に強い人間になっていました。

 まあ学生時代には、雑学王でもただの「変わった人」くらいにしか思われませんでしたが。
 それがですね、社会に出てから年下の女の子達に、妙に頼られるようになったんですよ。
 二十歳くらいの女の子から見ると、「何でも知っている年上の男の人」は、とても頼もしく見えるそうです。
 少なくとも「読書好きで、スポーツより文学や芸術」という女の子達と、私は仲良くなれました。
 逆に勉強や読書は苦手でも、スポーツが得意なら同じ競技が好きな女の子と仲良くなれると思います。
 だからフツメンかそれ以下の男にとって、「何か特技がある」というのは、女の子と仲良くする上でとても武器になります。

 ゆえに。
 女の子と仲良くなりたかったら、女の子の事は脇に置いておいて、まず自分の武器になりそうな特技を磨いて身につけましょう。


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綺麗な花を見付けました

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 でも振られるにしても、振られる確率は出来れば減らしたいですよね。
 減らす方法、ありますよ。
 ズバリ、「一緒になる機会があれば、意識せずに、気さくに普通に話しかける」です。
 いきなり「好きだ、彼女になって!」では引かれますし、意識しまくりでは相手も困ります。
 だから男女とかあまり意識せずに、まず友達感覚で普通に喋れるようにするのです。

 で、普通に気安く喋れるようになれば、相手の好きなものとかわかりますよね。
 そしたら、映画とか食事とか誘ってみるのです。
 相手が本や映画が好きなら、本やDVDの貸し借りから進めてみるのも良いですね。
 そしてその課程で、相手のノリが悪い、何となく引き気味という様子が見えたら、残念だけれど諦めましょう。

 楠桂さんという漫画家さんの『ガールズザウルスDX』という作品に、こんな名言がありました。
「押しても駄目なら、NEXT!」
 引くのではなく、次で良いんです。
 世の中を見回してみて下さい、人類の半分は異性ですから。
 特定の相手にこだわり過ぎていると、貴方の人生や時間や労力の損ですよ。

 とにかく話しかけてみる。
 意識せずに、普通に、気さくに。
 そして無理そうなら諦めて、次に行く。
 それで良いのです。


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