空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

君が代は死んでも歌いません④

 最近、特定秘密保護法のことがしばしばニュースに取り上げられるが、それに似た戦前の治安維持法の話をしよう。
 治安維持法とは元々、革命を企てる共産主義者を取り締まる目的で作られたもので、当初は国体の変革と私有財産の否定を目的とした組織のみを対象としていた。それが時局の変化に合わせて政府の都合で歯止め無く拡大解釈されるようになり、自由主義者まで含めた軍国主義に反対する人々すべてが「陛下に弓引く非国民」として逮捕処罰されるようになったのだ。
 この自由主義者まで全てを「サヨクの非国民」と一括りにして叩くあたり、君が代斉唱の強制に疑問を持つ者はすべて「サヨクの自虐史観の非国民」として罵る今の風潮と、黒沢にはひどくよく似ているように思える

 特定秘密保護法の話が出たが、同様に安倍首相がゴリ押しに決めてしまおうとしている集団的自衛権についても、黒沢は安倍首相も今の自民党も全く信用していない
 安倍首相と自民党を、黒沢はなぜ信用できないか。それは君が代を国歌と定めた国歌国旗法の制定時の事情と、それが例の治安維持法のように、いつの間にか当初の趣旨が忘れられるか意図的に無視されるかして、政府や首長の都合の良いように拡大解釈されて運用され、強制に変わって行っているかを、よく見て知っているからだ。

 君が代を皆に唱うことを強制させる者たちは、その根拠として国旗国歌法を挙げている。で、「法律にあるのだから、全員が唱うのが当然だ」と。
 ではその国旗国歌法とは、そもそも何であるか。
 国旗国歌法は1999年に小渕内閣で成立したものだが、日の丸と君が代を正式な国旗と国歌にしようという運動がある一方、反対意見も少なくなかった。

 日の丸については、それこそ強い自虐史観を持つ徹底した反戦運動家のサヨク以外は国旗と認めることに抵抗は無かったと思う。
 事実黒沢も、君が代は認めていないが日の丸を日本の国旗とすることには、何の疑問も持っていない。何故なら日の丸とは「日出ずるもとの国」という、日本の古来からの美称からくるものであり、そこに軍国主義的な思想も、明治維新からの神格化された天皇制もまるで関係ないからである。
 もし「日の丸を変えよ」と言うのであれば、まずそのもととなった「日本」という国名から変えねばなるまい。
 一部の“識者”に「戦時中に日の丸を見て、いやな思いをしたアジアの人達がいるから変えるべき」と言う人がいるが、その責を負うべきは国旗を悪用した当時の軍部であって、日の丸自体に罪はない。

 しかし君が代については、日の丸とはわけが違う。それが天皇賛歌であることは、言葉の意味がわかる者には疑う余地もない。だから「戦前の軍国主義(天皇ファッショとも言う)の時代に、天皇陛下の御代が千年も万年も続いてお栄えになられるように心からお祝い申し上げる為に唱った君が代は、そのまま戦後の民主主義国家の国歌として唱うのは良くない」と思う者がいるのは自然なことなのだ。
 例の「三行で」言えば、「日の丸は天皇制やファシズムなどとは無関係だが、君が代にはそうした戦前回帰の臭いがプンプン漂う」ということだ。
 日本語がちゃんと読め、君が代の歌詞の意味が正しく理解できる者であれば、君が代が自由で民主主義の国となった筈の戦後の日本の国歌にふさわしいかどうか、疑問を持つのはごく自然なことなのだ。
 だから日の丸を国旗とすることに反発する者は、ごく僅かな者(極端な反戦論者と過剰な自虐史観の持ち主)だけなのに対して、君が代斉唱の強制に関しては少なからぬ抵抗があるのだ。

 ただ戦後廃止されていた神話で虚構の“初代天皇”神武天皇の即位の日を祝う『紀元節』が、いつの間にか同じ趣旨の『建国記念日』として蘇ったように、日本を戦前の神である天皇の国に戻したい勢力は日本の各界に根深く生き残っているのが現実だ。
 何しろ明治維新以来、天皇を神として拝み、その神である天皇の為に死ぬ教育が、七十七年の長きに渡って続けられたわけだから。戦後に始められた付け焼き刃の民主主義の教育程度では、その“天皇教の洗脳”は容易にはとけはしなかったのだ。
 だから各学校の管理職たちは、学校の式典で君が代を唱わせたい政治勢力や教育委員会などの圧力と、それに抵抗する教職員らの板挟みになって、大変苦慮したわけだ。そしてその問題に悩んだ広島県のある校長が、1999年の3月に自殺したのである。
 するとすかさずその死を利用して、その校長を尊い犠牲者に、そして君が代に反対した教職員を悪玉に仕立てた自民党がゴリ押しして成立させたのが、例の国旗国歌法なのだ。

 無論それでも、君が代を国歌とする事に対する反発は強くあった。だから1999年の8月に公布施行された国旗国歌法そのものは意外にゆるやかなもので、第一条で日の丸を国旗、第二条で君が代を国歌に定めたのみであった。
 今、君が代の斉唱を強制し、従わぬ者は容赦なく処罰する勢力がその根拠にしているその国旗国歌法には、唱わなければならないという義務規定も無ければ、唱わない場合の罰則も無いのである。
 法律の世界では「罰則の無い法は、法ではない」という言葉がある。人は罰則があるからその法に従うのであって、従わない場合の罰則の伴わない法律など、単なるモラルや道徳を説いただけに過ぎない。
 しかも抵抗の強かったこの国旗国歌法を成立させるにあたり、当時の官房長官であった野中広務氏は、国旗と国歌について「強制するものではない」と国会で答弁している
 さらに同法の成立時にも、国会で「強制は伴わない」との付帯決議がはっきりとされている

 ちなみに、その国旗国歌法成立時の議論で、君が代の例の“君”の意味について「象徴天皇と解釈するのが妥当」と、政府が答弁している
 と言うことは君が代の“君”は天皇で間違いなく、「キミとボクの君で、英語のYOUと同じ」だのという解釈や、「この幸せな世が、永遠に続きますように」だのという現代語訳は、何とか君が代を唱わせたい意図による、ひどいこじつけの“現代誤訳”であることは明白である。

 さて、義務規定も罰則も無い上に、「強制しない」と明言して成立した国旗国歌法であるが、現実にはどう運用されているか。
 日本中のすべての学校で君が代の斉唱が“強制”され、従わぬ教員は教育委員会から“処分”されているのが現状だ。そしてその処分に納得できぬ教員が何件か訴訟を起こしているが、司法も行政による処分を是認する方向で動いている。
 そして大阪などでは、君が代をちゃんと唱っているか、教員の口元まで確認する始末だ。まるでゲシュタポや戦前の特高警察を思わせる、息が詰まるような監視ぶりではないか。
 また東京でもただ唱わぬ教員を処罰するだけでなく、君が代を起立斉唱しない者は、学校行事の来賓として呼ばぬ方針であるらしい。
 成立時の国旗国歌法の中身とは大違いで、強制もすれば処罰もしているのが現実だ。何しろ現実に教員の口元までチェックしてまで、唱うことを強いているのだ。

 治安維持法の所でも触れたが、これが日本の政府のやり方なのだ。始めは耳障りの良いことを言い、緩く優しくして見せて国民を安心させておき、後で政府が法律の勝手な拡大解釈を続け、国民が気付いた時には身動きが出来ぬほど強く縛り上げられている
 卑怯ではないか、と黒沢は思う。
 もし君が代を唱うことを強制し、従わぬ者は処罰するつもりであれば、1999年の時点でちゃんとそう明記して法案を提出し、国会で堂々と論議すれば良かったのだ
 しかし「抵抗が強そうだから」と条文を和らげてとにかく成立を急ぎ、その後に“政府の法解釈”で都合の良いようにねじ曲げてしまう
 黒沢はその課程を、国歌国旗法の成立と運用の実態でよく見ている。

 だから特定秘密保護法にしても、集団的自衛権の問題にしても。
 黒沢は今の自民党政府を、一ミリも信用していない
国会での成立や閣議決定をとにかく急ぎ、そしてその後は「政府の思いのまま」にするつもりなのだろう。
 事実副総理の麻生太郎氏自身が、「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、見習ったらどうかね」と言っている始末だ。
 黒沢は国旗国歌法の頃から既にその手口は使われていると思うし、特定秘密保護法や集団的自衛権、それに例の残業代ゼロ法案もそうして「国民の誰も気づかぬうちに、政府の都合の良いように変えて行くつもり」だろうと思っている

 見ているがいい。特定秘密保護法を名目に、マスコミはいつか国民に事実を伝えなくなり、集団的自衛権で自衛隊は米軍の指揮下で、海外のどこかで祖国日本の為でなく、アメリカの国益の為に血を流すことになるだろう。
 そうした政府のやり口と流れは、一連の国旗国歌法の件を見れば明白だ。

 国旗国歌法の成立とその強制に関連してだが、我が国歌“君が代”で「お治めになる御代が千年も万年もお栄えになりますよう」お祝い申し上げられている、当の天皇陛下ご自身は、そのことについてどうお考えになっていらっしゃるか。
 かつての石原都知事のもとで、東京都は学校での君が代の斉唱を有無を言わせずに押し進め、君が代を唱わぬ教師を容赦なく処罰してきたが。
 2004年の秋の園遊会で、その都の教育委員であった米長邦雄氏が「日本中の学校において国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」と申し上げたところ、今上天皇陛下はこうお答えになった
やはり、強制になるということでないことが望ましいですね
 しかしその陛下ご自身のご意志にすら反して、その後も東京でも大阪でも、君が代斉唱の強制と唱わぬ者への処罰は少しも変わらず強力に押し進められているのが現状だ。

 学校の式典で君が代の斉唱の強制を「当然だ」として押し進めようとする者たちは、その根拠としてまず国旗国歌法を挙げる。
「君が代は法律で日本の国歌と決められており、だからそれを唱うのは公務員の義務だ」と。そして橋下徹氏に至っては、「唱いたくなければ、公務員を辞めろ」とまで言っている。
 それら国旗国歌法を根拠に君が代を皆で唱うことを強制する方々は、その国旗国歌法には君が代を唱わねばならない義務規定も罰則もないこと、それに当時の野中広務官房長官の「強制するものではない」という答弁や、「強制は伴わない」とした国会での付帯決議もすっかり忘れているか、或いは意図的に見落としているようだ。
 こうして文言や表現を柔らかくし、範囲も限定し国民の自由を縛らぬことを確約した上で成立した法律は、一度決議されると政府や首長など政治家の考え一つで恣意的に拡大解釈され、かつての治安維持法のように暴走して国民を縛って行くのである。

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