空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

君が代は死んでも歌いません⑤

 学校での君が代斉唱の強制に、黒沢が何故ここまで反対するか。それは戦前の教育による刷り込みと洗脳の恐ろしさを、歴史を学んできた者の一人としてよく知っているからである。
 明治維新から敗戦までの七十年以上に渡って、国民全てが小学一年生の頃から、「天皇は神だ、そして国民はその天皇陛下の為に死ね!」と教えられて来たのだ。当時の子供らは天皇皇后を神として拝まされ、特に修身という授業では、忠君愛国と天皇制国家主義が徹底的に叩き込まれてきた。
 これを「天皇崇拝の洗脳教育」と呼ばずして、何と言おう。

 知っているだろうか。
「畏れ多くも……」
「畏(かしこ)き辺りにおかせられては……」
「漏れ聞くところによりますると……」
 敗戦までの学生は、上に挙げたような言葉を聞くと、そのすぐ後に続く天皇や皇室に関する発言を予測して、直ちに起立し直立不動の姿勢をとったのだ。
 そんな恐ろしい時代は、二度と来て欲しくないと黒沢は思う。

 しかし現実には、まだ歌詞や天皇制の意味やその歴史も殆ど知らぬ小学一年生の頃から、式典でその天皇陛下の治世の永続を祝い願う“君が代”を、何の疑問も持たずに皆で唱うよう教育されているのだ。
 まさにそれこそが、君が代を「日本中の学校において国歌(君が代)を斉唱させるのが私の仕事」と言って憚らない者たちの狙いであろう。
 そして黒沢はそこに、明治維新から終戦まで続いた天皇を神格化した洗脳教育の臭いを感じるのだ。

 断っておくが、黒沢は天皇制には少なからぬ疑問と不安と不信を抱いているが、昭和天皇と今上天皇陛下のお人柄の素晴らしさはよくわかっているし、個人的にも深く尊敬している
 ただ黒沢は骨の髄からの無神論者だから、天孫降臨の神話などとても真に受ける気にはなれないし、天皇が現人神だなどと笑止千万とも思っている

 昭和天皇と今上天皇陛下が人格高潔で素晴らしい方であることは、黒沢もよくわかっている。昭和天皇の人柄には、あのマッカーサー元帥だけでなく、「天皇は戦争責任をとって退位すべきだ」と主張していた田島道治氏すら魅了された。そして田島氏は宮内府(後の宮内庁)長官として、昭和天皇に忠実に仕えることになった。
 しかし昭和そして今上と、二代続いて立派な陛下が在位されたからこそ、逆にマズいのだ。

 今の国民はみな人格高潔で立派な天皇陛下しか見ておらず、その地位にふさわしくない人格の天皇、あるいは能力に欠ける天皇が現れる可能性を、殆どの人は予想もしていないだろう。
 だが天皇が現御神でなく“人”である以上、怒りや憎悪なども心にあるだろうし、我欲もあるだろう。そしてその負の感情や我欲を抑えられぬ、その地位に適さぬ“天皇”も、いずれ現れるに違いないのだ。
 事実黒沢は歴史を学んだ者として、「その地位にふさわしくない人柄の、我欲や権勢欲に満ちた望ましからざる天皇」が、過去に幾人も存在した事実を知っている。

 例えば中大兄皇子こと、天智天皇。この方はご自身が天皇になりたくてたまらなかった。それでその邪魔になる、自分より年長で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を追い落とす為に、策謀を巡らせて蘇我入鹿を暗殺した。
 蘇我入鹿は、その師で学僧の旻に「中臣鎌足と並ぶ者は、蘇我太郎(入鹿)の他におらぬだろう」と言われていたほど優秀な人物であった。
 その入鹿は新羅の勢力が伸びつつある朝鮮情勢を見極め、それまでの百済一辺倒の政策を改めて、新羅と百済双方との等距離外交に切り替えようとしていた。しかし中大兄皇子は百済のみに肩入れする従来の外交に固執し、その百済救援の為に朝鮮に大軍を送った挙げ句に、白村江の戦いで唐の水軍に大敗して多くの日本兵を異境の地で死なせた
 さらに唐の侵攻を恐れ、九州に城を築かせ、また大勢の防人を各地から徴発して送るなどして、民に多大な負担をかけて苦しめた

 史実を丹念に見て行くと、蘇我入鹿は決して従来から思われているような悪人ではない天智天皇の弟の天武天皇や、その后の持統天皇ら中大兄皇子の身内の意向によって編纂された『日本書紀』によって、ことさら悪人に描かれているだけである。
 蘇我入鹿を暗殺するにあたり、中大兄皇子は入鹿の叔父の蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。しかし入鹿を消してしまえば石川麻呂は用済み、と言うよりむしろ邪魔者ということで、石川麻呂は程なく中大兄皇子の策謀で陥れられ、殺されている。
 またその中大兄皇子だが、実の妹の間人皇女と恋愛関係を持っていたことも知られている。その醜聞の為、中大兄皇子は入鹿を殺した後も天皇には即位できず、軽皇子を孝徳天皇とする傀儡政権を立てて政権を握った。そしてその孝徳天皇の死後には、孝徳天皇の子の有間皇子を殺している

 自分の弟や娘らが編纂した『日本書紀』に、政治的な意図で史実を歪曲して美化して描かれている為、名君のようなイメージを持たれている中大兄皇子(天智天皇)であるが。実態をよく見てみれば、冷酷で権勢欲の強い、血にまみれた策謀家なのである。またその対朝鮮政策の失敗により、多くの兵を死なせ民に多大な負担を強いたことも見逃せない。

 さらにその天智天皇の娘で、天武天皇の后である持統天皇(鵜野讃良皇女)であるが、このお方は漢の呂后とも較べられる人で、我が子の為なら人も殺しかねないコワい皇后サマでもある。
 この鵜野讃良皇后と天武天皇の間には草壁皇子という子がいたが、天武天皇には他に大津皇子という息子もいた。そして草壁皇子が穏やかで大人しい、まあ凡庸な皇子であったのに対して、大津皇子は逞しく闊達で人望もあった。
 それでこの鵜野讃良皇后は、大津皇子を殺してしまうのである。ただ凡庸な我が子を、皇位につけたいが為に
 ちなみに殺された大津皇子の母親は、鵜野讃良皇后の実の姉の大田皇女である。
 つまり鵜野讃良皇后にとって大津皇子は「夫がヨソの女との間に作った赤の他人」ではなく、「血の繋がりもある実の甥」だったのだ。

 我が子の為に、実の甥まで殺してのけた鵜野讃良皇后だが。ところが肝心の我が子草壁皇子は、僅か二十七歳で病死してしまう。
 天智天皇や天武天皇の実子など、皇位につくにふさわしい成人した皇子なら、他にも幾人もいた。
 しかし鵜野讃良皇后はまだ幼児に過ぎない草壁皇子の子、つまり自分の孫(後の文武天皇)に何としても皇位を継がせようと思った。そしてその孫の成長を待つ間の中継ぎの天皇として、自ら皇位につき持統天皇となったのだ。
 この我が子と孫を皇位につける為の、鵜野讃良皇后のなりふり構わぬ執念を見ると、ただ「母(祖母)の愛は恐ろし」と言うしかない

 そして文武天皇の孫の、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の治世もまた酷かった。孝謙(称徳)天皇は道鏡を寵愛する反面、その意に逆らう者は容赦なく殺した
 和気清麻呂を「別部穢麻呂」、その姉の広虫を「狭虫」と改名させるなど、人を貶める名前をつけるのが好きで、政敵は死ぬまで棒で叩き続けるなどの残酷な処罰を加え、当時の記録に「政刑日に峻しく、殺戮みだりに加えき」、つまり「政治的裁判は年々ひどくなり、むやみに人を処刑するようになった」と書かれたほどであった

 平安京に遷都した桓武天皇もまた、皇位を己の子に譲る為、皇太子であった同母弟の早良親王を陥れて死に追いやった。そして東北で穏やかに暮らしていた何の罪もない蝦夷を大軍で攻め立て、多くの血を流して蝦夷の土地を征服した
 その蝦夷への出兵と新都造営で国家財政を疲弊させ、民にも少なからぬ負担をかけた。
 その桓武天皇の子で、早良親王の犠牲のもとに皇位についた平城天皇も、弟の嵯峨天皇に譲位した後に寵姫藤原薬子に惑わされ、我が子を皇位につける為に兵乱を起こそうと企てる始末だ。

 白河法皇や後白河法皇、それに後鳥羽上皇もまた、権力欲に満ちた策謀家であったが。
 中でも後醍醐天皇の権勢欲には並外れたものがあった。
 その当時は、後嵯峨天皇が二人の我が子(後深草天皇と亀山天皇)に順々に皇位を継がせ、その後もその兄弟の子孫が交互に皇位を継ぐことになっていた。
 その後嵯峨天皇の二人の子のうち、後深草天皇の子孫を持明院統、そして亀山天皇の子孫を大覚寺統と呼ぶ。
 この大覚寺統の後二条天皇の弟で、持明院統の花園天皇から位を譲られたのが後醍醐天皇である。
 本来は後二条天皇の子の邦良親王が帝位につくべきであったが、邦良親王がまだ若年であったため、その叔父の尊治親王が即位して後醍醐天皇となったのである。
 このように子ではなく弟が皇位を継いだ場合、弟は兄の子が成長するまでの「中継ぎの天皇」という扱いで、地位は我が子でなく兄の子に譲るものだった。
 しかし後醍醐天皇はそれを無視し、皇統を我が子孫に譲ろうとした。それで持明院統はもちろん、大覚寺統の本流も敵に回して抗議され、それで鎌倉幕府が仲介に乗り出したのだが、後醍醐天皇は「武士が皇位の継承に口を出すなど不遜である!」と兵を起こしたのである。
 その挙兵に、鎌倉幕府に不満を持つ諸国の武士が乗っかり、その武士らの力で北条氏を滅ぼし政権を奪取したのが、いわゆる「建武の中興」だ。
 しかし武士の力で政権を勝ち取ったことにも気付かず、己の威光を過信して、何の功績もない己に近い貴族らを依怙贔屓して優遇し、めちゃくちゃな政治をした挙げ句に武士に背かれて、僅か二年で倒れたのが建武の「中興」の実態だ。
 ひたすら後醍醐の南朝を擁護する為に書かれた『太平記』と、明治維新後の皇国史観の影響で、後醍醐天皇とその近臣ら(大楠公こと楠木正成など)は異常に美化されている。しかし実際の後醍醐は、我欲の為に日本を戦乱の渦に巻き込み、社会を混乱させ多くの人に血を流させた迷惑な天皇と言うしかない

 ちなみに黒沢の「日本史上で嫌いな政治的な指導者ワースト・スリー」は、後醍醐天皇と孝謙(称徳)天皇、そして山県有朋である。さらに次点として挙げるとすれば、中大兄皇子(天智天皇)と持統天皇と松平定信と徳川慶喜といったあたりも嫌いで、「もし彼らが居なければ、日本はもっとマシになっていたのに」と思っている。

 え、「キライな歴史上の人物に、天皇が多すぎるじゃないか。オマエはやっぱり反日の非国民だ!」って?
 いや、古代は天皇が絶大な権力を握っていたからね。今の象徴天皇や、武士の時代のお飾りの天皇と違って、古代は天皇が自ら政治を動かしていたのだ。
 そしてそれだけに、権勢欲が強かったり、冷酷だったり、依怙贔屓が強く公私の区別がつかない暗愚な天皇が出現すると、世はたちまち乱れて民は苦しんだのだ。だから嫌いな政治的指導者に天皇の名が挙がってしまうのも、仕方の無い事と言うか必然なのだ。
 黒沢は天皇を神格化して見ていないから、失政の責めを近臣のせいにしたり、ことさら美化して見ないふりをして済ませたりせずに、「あの天皇はここが駄目だ」としっかり言い切れてしまうのだ。

 あの藤原道長が若かりし頃、内裏が火事になった。それで道長が内裏に駆けつけると、火から逃げて来る公卿や殿上人らが皆、袂で口元を抑えて必死に笑いを堪えていたという。
 何故かと言うと、その火事から天皇も輿で逃れたのだが、天皇は輿で連れ出される間、調子外れな声で高らかに歌を、それも事もあろうに『庭火』という神楽を歌い続けていたのだそうだ。
 ま、今風に言えば、我が家が火事で逃げる途中に、音痴な大声で「焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き~」とでも歌っていた……といった感じだろうね。
 あえて名前は出さないがその天皇陛下は、実を言うと今であれば精神的な医療を受ける必要のあるお方だったのだ。

 日本の天皇は、何しろ天照大御神の孫で天から下って来た瓊瓊杵命の子孫の“現人神”サマだからね。
 そして天武天皇の頃から「大君は神にしませば」と詠われ、自ら明神(あきつかみ、人の姿をした神)を名乗ってきて。
 だから今も殆どの日本人は「天皇陛下は、神の如く立派な方々ばかり」と思っていて、冷酷な策謀家や、暗愚な暴君が現れることなど想定もしていないのではないか。
 しかし現実は違う。権勢欲に満ちた策謀家や残酷な暴君、その任に耐えない暗愚な帝も、歴代の天皇の中には確かにいたのだ。
 昭和天皇に今上天皇と二代続いた人格高潔で立派な天皇陛下しか知らない今の国民は、そうした野心家の天皇や、精神的な治療の必要のある天皇が出現した場合の覚悟があるのだろうか

 軍事的にも政治的にも殆ど実権の無かった後醍醐天皇が、天皇の名を利用したい武士らに担がれて、鎌倉幕府を倒して北条氏を滅ぼしたように。
 象徴天皇とは言え、もし政治的な野心を持つ皇族が天皇となり、そこにその名を利用して戦前の大日本帝国のような国家の復興をもくろむ勢力が近づいたとしたら。あの後醍醐天皇のように日本をひっくり返す可能性は、「全くない」とは断言できまい
 だから黒沢は、未だに神話の神武天皇以来の皇統を名乗り続けている日本の皇室の存在には危惧の念を抱いているし、天皇制も支持できないのだ。

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