空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

「動物とのふれあい」の欺瞞

 テレビや新聞などで、地域の心温まる微笑ましい出来事として「動物とのふれあい」のニュースが流されることがよくある。とりわけ小さな子供に小動物などを触らせ、それを「ふれあい」と称している場合が目立つ。
 しかし黒沢は、その「ふれあい」という表現が癇に障って仕方がない。

 そもそも「ふれあい」とは何であるか。
 辞書にも「互いに触れること、交流」とあるが、ニュースで流される「子供と動物のふれあい」のどこに、互いの交流があるか
 触れ合いという以上、対象の動物も自らの意志で積極的に人間の子供に触れていなければおかしい
 子供が動物を優しく撫で、そして動物も嬉しげに体を擦り寄せてくる。これで初めて「ふれあい」と言えるのだ。
 少なくともその動物の方も人間に触れられることを喜んでいなければ、「ふれあい」とはとても呼べない筈だ。

 さて、各地で実施されている「動物とのふれあい」の現実はどうであるか。
 テレビのローカルニュースなどでよく放送されている、その種の企画の情景を見る限り、「子供たちが、動物を一方的に触りまくっている」ようにしか思えないものばかりだ。
 動物を触っている子供たちの方は、確かに嬉しそうで「可愛い、可愛い!」とはしゃいでいる子も少なくない。
 だが一方の動物たちに、子供たちに触れられることを喜んでいる様子など微塵も見えない。むしろ動物園などの飼育員に押さえられて困惑顔でじっと耐えているか、場合によっては厭がって逃れようともがいている事も珍しくない
 嬉しそうに触ったり抱きついたりしている人間の子供たちと、見るからに厭そうで逃げたそうな様子の動物たち。これが多くの人達に「微笑ましい情景」としてとらえられている、「動物と人間(特に子供)とのふれあい」の実態だ。

 そもそも子供は力のコントロールが上手くないから、「可愛いから」とギュッと抱き締めたり強く掴んだりして、悪意はなくとも動物の扱いが手荒になりがちだ。
 なのに大人たちは「動物と親しみ、生き物を愛する気持ちを育む」などと称して、子供たちに動物たちを弄ばせたがる。そして動物をいじくり回してご満悦の子供たちの様子を見て、「楽しく動物と“ふれあい”ができた」と親たちも大喜びだ。
 その子供らに触れまくられている動物たちがどんな気持ちでいるかなど、頭の片隅にも無いのだ。
 いや、もしかしたら親たちは、「可愛い我が子に触られたりハグされたりして、動物たちも嬉しくない筈がない」と思っているのかも知れない。
 どちらにしても、これを「愚か」と言うべきか「人間のエゴ」と呼ぶべきか、黒沢としても迷うところである。

 繰り返し言うが、「ふれあい」とは「互いに触れること、交流」である
 しかしローカルニュースなどで微笑ましい出来事としてよく紹介される「動物と人間(主に子供)のふれあい」の殆どは、「人間が一方的に動物を触りまくっている」だけだ。
 そこのどこに、動物も喜んで人間に触れ返している様子や心の交流があるか。動物は子供のおもちゃにされるのをただ耐えているだけで、「微笑ましさ」など欠片もあるものか。

 特に大人たちが、子供に動物たちを触りまくらせ、それを「動物とのふれあい」と称しているのをニュースなどで見る度に思うことがある。
 もしこれが「ふれあい」ならば、満員電車で助平なオジサンが近くの女子高生の体を触りまくるのだって、「オジサンと女子高生のふれあい」と言えるのではないか。

 決して屁理屈なんかではないよ。
「可愛いから」と一方的に触りまくるのは、動物から見れば痴漢に遭うのと全く同じ
であろう。
 互いに喜んで触れ合っていて、心の交流もあってこそ「ふれあい」と言えるのだ。
 人間同士のハグだって、お互いに好意と合意があっての上で成り立つものであって、それ無しに一方的に抱きついたとしたら、それこそ痴漢で間違いないだろう。
 動物と人間もそれと同じで、「相手が動物なら、一方的に触って抱きついても“ふれあい”だ」と言うのは詭弁でしかない。

 にもかかわらず多くの人間は子供たちが一方的に動物を触りまくるのを「動物とのふれあい」と称し、そして多くのメディアもそれを「微笑ましいニュース」として流し続けている
 子供たちの喜ぶ顔が第一。
 子供たちが楽しんでいさえすれば、他のこと(動物の苦痛など)はどうでも構わない。

 例の「子供たちと動物のふれあい」というニュースをテレビなどで見る度に、そうした人間の大人たちのエゴと偽善が露骨に見えて、へそ曲がりな黒沢は不快でならないのだ。

 そうした動物たちの一方的な犠牲と辛抱の上に成り立っている“ふれあい”を、世の人たちは「生き物と触れ合い、命の大切さを学んだ」と美化する
 その種の偽善的な物言いが大好きな人間が、黒沢は大嫌いだ。
「我が子さえ楽しければ、それでいいんだよ。他のことなど知ったこっちゃない」
 ズバリそう言い切れる大人の方が、まだ素直でよろしい。

 その種の偽善に満ちた「子供と動物がふれあい、命の大切さを学ぶ」イベントの中でも最低なのが、ウミガメの放流会だ。
 テレビのローカルニュースなどでよく放送される、ウミガメの子の放流会の映像を見てみると、ウミガメの子はいつも子供たちの手から逃れようと必死にもがいている。
 そんな光景を見せられて、「微笑ましい光景」と感動できる人間の神経が、黒沢にはまるで理解できない

 それにそもそもウミガメの赤ちゃんを、子供の都合に合わせて昼間に放流すること自体が、自然の摂理に反した愚かな行為なのだ。
 ウミガメの子供には天敵が多く、大きな魚や海鳥などに食べられてしまうものが少なくない。
 だから自然な環境ではウミガメの子は夜に孵化してそのまま海を目指し、天敵に見つからぬよう暗いうちに隠れ場所に泳いで行くのだ。

 ところが多くのウミガメ放流会では、子供たちに放流させる為に、子供の都合に合わせて真っ昼間にウミガメを海に帰すのだ。
 だから当然、その子ガメの多くは待ち構えている捕食者たちの餌となる
「子供たちがウミガメの赤ちゃんと触れ合い、自然や命の大切さを学んだ」とされ、テレビなどでも微笑ましいニュースとして紹介されているウミガメの放流会だが。
 その「子供たちがウミガメの赤ちゃんと触れ合い、命の大切さを学ぶ体験」の結果、逆に多くのウミガメの子の命が犠牲になっているのが現実だ。

 ウミガメの放流会をやってはいけない理由は、まだ他にもある。
 ウミガメの子というのは、孵化してから24時間までが最も活発に泳げるのだ。だから夜に孵化したらすぐ海を目指し、その24時間で出来るだけ遠くの隠れ場所まで泳いで行かねばならない

 では人間に卵を掘り上げられ、人工的な孵化場で生まれたウミガメの子はどうなるか。
 ウミガメの子は孵化場でも夜間に生まれるわけだが、その子らは何と昼間の放流会まで、孵化場にそのまま置いておかれるのだ。
 ウミガメの子が最も元気に泳げる貴重な時間は、当然そのまま無駄に過ぎて行くのである。ただ人間の子供たちを喜ばせる為の、ウミガメ放流会を待って
 そしてその貴重な時間を無駄に費やされたウミガメの赤ちゃんは、人間の子供らの手で弄ばれた上、多くの捕食者が待ち構える真っ昼間の海に帰されるのである。
 この現状を、すっとこどっこいの大馬鹿者どもは「子供たちがウミガメの赤ちゃんとふれあい、命の大切さを学んだ」と称する

 ウミガメの子が海に帰るのをどうしても見たければ、人間がウミガメのサイクルに合わせ深夜に集まって観察すべきだ。
 それをせずに、人間の子供の都合に合わせて昼間にやる放流会など「百害あって一利無し」としか言えない。
 ただ人間の子供に見せて触らせる為に、自然の摂理を無視して昼間に放流会をして、子ガメが最も元気に泳げる貴重な時間を奪い、さらにその姿を海だけでなく空でも待ち構えている天敵に曝させるこの放流会を「命と自然の大切さを学ぶ、ウミガメとのふれあい」と称するなど、「エゴに満ちた偽善」以外の何であろうか。

 そうした愚行の根本には、「人間(特に子供)が第一」という思考があるように思える。
 子供の喜ぶ顔さえ見られれば、それでいい
 日本中に蔓延しているその思考の為に犠牲にされている多くの動物たちとしては、「人間とのふれあい」とはただ苦痛に満ちた厄災でしかないだろう。

 人間(特に子供)に動物をいじらせて、それを「命の大切さを学ぶ、ふれあい」とか称する偽善は、もういい加減で止めてほしいものだ。

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