空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

体育祭や運動会での組体操は即時廃止すべき!

 筆者はこのブログで以前にも、組体操の危険さを指摘すると共に、その意義について疑問を呈した。
 しかしこの秋もまた各地の学校の体育祭や運動会で組体操が実施され、そして崩れて生徒が骨折するなどの事故を引き起こし続けている。

 実際に高校の体育祭で組体操をやらされた者として断言するが、組体操は間違いなく危険だ。骨折どころか、下手をすれば死の危険すらある。

 筆者が体験した組体操は、近年特に問題になっているピラミッドではなく、タワーの方だった。
 それも三段のタワーだから、「そんなの大した事じゃないじゃねーかwww」と鼻で嗤う方も少なからず居るだろう。
 だが実際に三段のタワーの最上段に立ってみろ、目の高さは四メートルに達し、目線はちょうどグランドの向こうの校舎の二階の窓と同じくらいだった。
 そう、筆者は小柄であった為、騎馬戦ではいつも騎手、そして組体操では最上段に選ばれた。

 三段のタワーの最上段に立つ感覚を知りたければ、建物の二階の窓から顔を出して下を覗いてみると良い。事実ちょうどそんな感じだ。
 試しに二階のベランダの外に出て、手すりにも何も掴まらずに屋根の縁にでも立ってみるといい。それでもそれなりの恐怖心を感じる筈だ。
 しかも「三段タワーの最上段に立つ」というのは、怖さと危険がそれとはまるで違うのだ。
 何故ならベランダや屋根の縁は固くて足元がしっかりしているが、タワーやピラミッドの上に立つ者が踏み締めて立つ足元は柔らかな人間の体だからだ。

 しかも人間の体というのは、それぞれ体格が違う。まずタワーやピラミッドの一番下の台になる者達の肩や背の高さに差がありバラバラなのだ。
 だからその上の段に乗る者達の肩や背の位置は、もっと差が出てガタガタになる。
 そうして高さに差のより開いた肩や背の上に、最上段の者は立たねばならないのだ。

 また、上の者が乗らねばならぬ人の背や肩が、屋根やコンクリートのベランダと違ってただ柔らかいだけではない。
 上に何人もの者を乗せる最下段の者達は、その重さに耐えかねて、僅かにだがグラグラ揺れていた。だからその上の段の者達は、バランスを取る為に当然より大きく揺れる。
 そしてそのさらに上に、筆者ら最上段の者達は立たねばならないわけだ。
 それぞれ背の高さが違い、グラグラ揺れる上に柔らかい下の段の者の肩の上に。

 当然、手を広げて立ち上がりはするものの、中腰になってバランスを取らざるを得ない。
 と言うか、体育教師の指示通りに体と足をピシッと伸ばして立ったら、間違いなく下に落ちるとわかっていたからだ。

 組体操を「感動する!」と賛美する者達には、一度家の屋根の縁に立ってみてほしい。
 それも高さの揃った普通の屋根ではなく、高さもガタガタでグラグラ揺れる、柔らかい“屋根”の上に。
 柔らかく身長差もありグラグラ揺れる人の体の上に、手摺りも無しにバランス感覚だけで立つのって、本当に命懸けだよ。

「命懸けだなんて大袈裟な、二階程度の高さから落ちたくらいで死ぬ筈ねーだろwww」と笑う者もいるだろうけど。
 それはそうだろうさ、せいぜい足を挫くか悪くて骨を折るくらいかも知れない、もし「足から落ちた」ならね。
 だが組体操のタワーの上で立ちながら、筆者は「落ちるとしたら、頭からだな」と感じていた。
 実際、揺れて不安定なタワーやピラミッドの上からバランスを崩して落ちる場面を想像してみてごらん。頭とは言わないまでも、上半身から真っ逆さまに落ちる可能性が高いと思う。
 猫じゃないんだからさ、バランスを崩して落ちながら、咄嗟に足からなんて落ちられないよ。
 で、もし上体から落ちて地べたに頭を打ち付けたら、二階程度の高さだったとしても、軽い怪我では済まない筈だ。
 だから本番の体育祭に向けての組体操の練習中には、筆者はタワーの最上段で文字通り必死にバランスを取っていたよ。

 で、その組体操の練習を下から見回っている体育教師は怒鳴るわけだ、「もっと体を伸ばして、ピンと立て!」ってね。
 体育教師ってのは、たいてい体格が良いだけでなく身長も高いからね。
 筆者はほぼ確信しているが、体育教師は組体操と言えば下の段しか体験していない者が多く、最上段を経験している者など殆ど居ないね。
 だから組体操も「体力と根性で上の段を支えさえすれば大丈夫」と思っていて、最上段に立つ者の怖さをわかってないのだ。

 けど現実には、組体操の最上段は体力と根性だけでは立てねーんだよ。
 って言うか、体育教師の指示通りに足と背筋を真っ直ぐ伸ばして立ったら、間違いなく転落して死ぬか大怪我をしていたよ。
 だから筆者は、体育教師の怒声を浴びながら、中腰で必死にバランスを取り続けていたよ。

 で、組体操は失敗する事も無く、本番でもとりあえず成功したけれど。
 だがそれで「同じタワーの皆との協調性が育まれた」などとは全く思えなかったし、一体感も達成感も感動も無く、ただ恐怖感と体育教師に怒鳴られた理不尽さしか心に残らなかった

 組体操をやらせたい者達は、口を揃えて「組体操によって協調性が育まれ、成功した時の一体感や達成感が感動を生む」と言う。
 そして中には、「そうした協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」などという極論を口にする者までいる始末だ。

 バカじゃねーの?
 筆者はそう主張して組体操を賛美する人達に、心からそう言いたい。
「協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」って、貴方の職場や仕事では協調性や一体感や達成感が得られない……ってワケ?

 それに学校生活だけに限っても、協調性や一体感や達成感は、組体操以外の事でも得られる筈だ。
 例えば学校ではよくクラス別の合唱コンクールが行われるが、協調性や一体感や達成感はそれでも得られるし、感動だって充分に出来る筈だ。
 組体操のタワーは恐怖と理不尽さを心に強く植え付けるものでしか無かった筆者には、「協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」という理屈がまるで理解できないのだが、それを論理的に説明できる方がいらっしゃるなら、是非ともご教示願いたいものだ。

 だって、「協調性や一体感や達成感は、学校の組体操でしか体験できない」って、他のスポーツや合唱コンクールや文化行事や、さらには社会での仕事をバカにしてるだろ、って話だよ。

 実は筆者は、これでも母校の高校で教育実習を受けて、社会科の教員免許も取得しているのだが。
 で、母校の高校に教育実習に行ったついでに、体育祭にも顔を出してみた。
 不思議な事に、例の体育祭での組体操は筆者が高校を卒業する年まで続けられていたのだが、筆者が教育実習を受けた年には、勇ましいが演技者には全く危険の無い空手の演武に変わっていた。
 筆者は東京の某私大に進学して地元を離れていた為、そのあたりの事情は全くわからないが。筆者の卒業後の組体操で、何か危険な事があったのではないかと勝手に想像している。
 そのあたりの事情はどうあれ、「組体操でなければ協調性や一体感や達成感が得られず、一糸乱れぬ空手の演武では感動できない」などと言う事は全く無かった。
 一部の者達が言う「協調性や一体感や達成感や感動は、学校の組体操でしか得られない」という主張は、まるで根拠の無い全くの嘘である

 また、「騎馬戦でも棒倒しでも、スポーツには怪我の危険が付き物だ」と主張して、組体操の危険性を矮小化しようとする者達がいるが。
 断言するが、騎馬戦や棒倒しと組体操では、その怪我の危険の意味が違う。

 筆者の高校の体育祭の騎馬戦は、本当に荒っぽかった。
 何しろ帽子や鉢巻きを取るのではなく、本当に相手の騎馬を潰して落とし合うのだ。
 我が母校の騎馬戦は三回勝負で、筆者は小柄だから一年生の時から騎手に選ばれた。そして騎馬の者達も一年生ながらみな柔道部員で、騎手も騎馬もやる気に溢れていた。
 だが一回戦目では、筆者もその騎馬も一瞬で潰されていた。

 実は我が校の騎馬戦では、伝統で一年生が三年生の主将を護り、二年生と三年生が攻撃に回る事になっていた。
 で、「一年生は、守りを固めろ!」という主将の号令に従い、筆者らは敵を待ち受けたのだが。
 敵の上級生達は、本当に酷かった。何しろ最初から拳を握り締めて殴りかかって来たのだ。
 突き落とすのではない、本当に拳で殴って来たのだ。
 で、気付いた時には最初に襲いかかって来た上級生の騎手に殴り倒されていた、というわけデス。
 そして騎馬も同時に崩れていて、「相手の騎馬に思い切り蹴られた」と言っていたよ。
 だから我が校の騎馬戦は、ある意味では「上級生の一年生イジメ」に近かったかも知れない。
 後で知った事だけれど、我が母校の男子の騎馬戦は毎年(軽傷ながら)怪我人を何人も出す、かなり荒っぽい戦いだったのだ。

 けど我が校の騎馬戦は三回勝負だから、あと二回戦残っているわけで。
 それでビビッたか、って?
 とんでもない、いきなり殴られ蹴られして、筆者達は騎手も騎馬も逆に怒りに燃えていたよ。
「上等だ、向こうがその気なら、俺たちもやってやろうじゃねえか!」ってね。
 筆者は体力は無くとも気は強い方だし、騎馬も一年生ながらみな日々鍛えた柔道部員だからね。続く二回戦と三回戦は、上級生に殴り返し蹴り返して一度も落馬せずに相手を何騎も倒したよ。

 だから二年になった時には、体育祭の騎馬戦が楽しみで楽しみで。
 で、二年の時にも筆者は騎手に選ばれて、でも騎馬はテニス部員たちでさ。
 そしてこのテニス部員たちが、まるでやる気無しで「騎馬戦コワイ」って言うような連中でさ。
 騎手の筆者はやる気満々で「行けー!」って前を指さすのだけれど、騎馬の方が勝手に敵のいない所を探して逃げ回っている始末で……。
 それで二年の時の騎馬戦は、一度も敵と組打てずに終わってしまったよ。

 そして最後の三年生の体育でも、筆者はまた騎馬戦の騎手に選ばれたのだけど。しかも筆者を選んでくれたのが何故か学年でも有名なDQN達で、みな身長180センチ前後の巨漢揃いだったよ。
 これはイケる。学校で間違いなく最強の騎馬の騎手になれた筆者は、そう信じて疑わなかった。
 ……でも現実は厳しかったね。
 実戦に出たら、海を渡るモーゼそのものだった。
 どこに進もうと敵がさ、見事に二手にサーッと分かれて避けて逃げて行くんだもの。
 校内一のDQNグループの騎馬に戦いを挑もうという者など誰一人おらず、結局この年の騎馬戦も、一度も戦えずに終わってしまいましたとさ。

 騎馬戦は確かに危険で怪我もするよ、でもそれはやる気のある戦いたい者同士がやり合っているだけの話で、戦うのが怖ければ逃げていれば良いのだ。筆者の二年の時の騎馬のように、ね。
 三年の時にDQNグループの騎手にされてしまった時も、筆者の乗る騎馬の顔ぶれを見た敵たちはみな逃げ回っていたし。
 棒倒しだって同じ事で、怖ければ隅の方で適当にやっていれば良いのだ。怪我をして痛い目に遭うのは、みな自分から戦いの中に飛び込んで行く奴らでね(筆者もその一人)。

 けど組体操は、「怖いから逃げて適当にごまかす」という事が出来ないよね。苦手でも怖くても、求められた通りに頑張らなきゃいけない
 だからこそ「出来た時の達成感が──」とか「一体感が──」とか言って、組体操を賛美する人達がいるのだろうね。
 体力差も個人差もあるのに、厭でも怖くても全員が無理矢理同じレベルの危険な事をやらされて、それに喜びや感動を覚える人も居るのだろうけれど。
 でもその種の人々はサディズムやマゾヒズムの性向があるのではないかと、筆者は考える。

 痛い思いもしたが、騎馬戦も棒倒しも筆者は楽しかった。それは自らの意志で、それに参加したからである。
 それに騎馬戦や棒倒しには、厭なら危なくない所で適当にやり過ごす自由もある
 しかし組体操は違う。
 筆者にとって逃げ場の無い場所で怒鳴られながらやらされた組体操は、恐怖感と理不尽に危険な事をされられた厭な思いしか無い
 少なくとも筆者はマゾヒストではないので、組体操で協調性は全く育まれなかったし、一体感や達成感や感動も全く得られなかった
 それだけに、あのただ危険なだけの組体操を全員に強いる事を、「協調性と一体感と達成感が得られて感動する」と主張して美化する人達の気持ちが、今もって全く理解できずにいる。

 と言っても筆者は、組体操を全否定するつもりはない。
 ただ体格差や体力差や運動能力の差のある生徒全員に組体操を強制的にやらせる事は、恐怖と危険でしかないと断言する。
 組体操は、その能力のある組体操が好きな者だけがやれば良いのだ。
 体格差も体力差も運動能力の差も無視して、とにかく全員に同じ事をやらせることに美と感動を覚える人達の存在に、筆者はファシズムや全体主義に共通する怖さを感じる。

「協調性や一体感や達成感は、組体操でなければ得られない」だなんて、他のスポーツ競技や合唱コンクールなどの文化活動で頑張っている人達や、社会に出て仕事で頑張っている人達に対して侮辱もいいところデスよ、本当に。

 騎馬戦と違って「怖いから」と逃げる事も許されず、体格差も体力差も運動能力の差も無視して全員に危険な行為を強いている体育祭(運動会)での組体操は、即刻中止すべきだと筆者は強く訴えたい。
 あの全員参加の組体操に美と感動を覚えている人達は、あの中にいる体力や体格や運動能力に劣る者たちの苦痛に思い到らない、想像力の欠如した鈍感な全体主義者であると、筆者は断言する。

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