空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

誤った国策の犠牲になった戦没兵士には“感謝”でなく“反省”の念を捧げるべき

 今月18日の靖国神社の秋季例大祭に、安倍内閣の中から高市早苗総務相岩城光英法相が参拝し、記者団に次のような事を話した。

 まず高市総務相は「一人の日本人として、国策に殉じたみ霊に感謝の気持ちをささげた」と説明し、岩城法相は「国のために戦い、尊い命をささげた英霊に感謝の誠を表した」と言った。

 さらに20日には加藤勝信1億総活躍担当相(1億相)も靖国神社の秋季例大祭に参拝し、「国のために殉じた方に対する感謝の意味も込めて参拝した」と述べ、「自分の国のため尊い命を失った国民に手を合わせることは、どこの国でも全く同じだ」とも言った。

 実は筆者は、先の大戦での日本の戦死者を「国策に殉じた御霊」とか「国の為に戦い尊い命を捧げた英霊」などと美化する事に対して、何とも言いようのない違和感を抱き続けている。
 私は高市総務相や岩城法相や加藤1億相だけでなく、この無限に広がる電脳世界の片隅の埃にも等しい当ブログを閲覧して下さった方すべてにお伺いしたい。

 国策に従いそれに殉じる事は、美しく正しい事なのだろうか?
 国の為と言われれば、戦って尊い命を捧げる事は善なのだろうか?


 先の大戦で日本は数多くの中国人(一千万人を超すと言われる)をはじめとする諸外国の人を殺し、そして日本自身も、民間人も含めて三百万人もの人が命を落とした。
 その戦争を、「自衛の戦争」とか「アジアを白人支配から解放する為の戦い」などと言って正当化する自称“愛国者たち”もいるが、史実をまともな目と頭で見れば、あれが侵略戦争で非は日本にあったのは疑う余地のない事実である。

 実際、誰がどう見ても自民党のタカ派で、自ら「軍国主義者と呼びたければ呼べ」とおっしゃっているあの安倍首相ご自身が、戦後70年談話で「日本が進むべき進路を誤り侵略行為をし、アジア諸国にも苦難の道を歩ませた」と明言している

 また、同じ自民党のタカ派で知られる元首相で、戦時中には海軍主計将校として東南アジアの占領地にも行き、首相在任時には靖国神社を参拝して、東京裁判史観は今でも支持できないと言っている中曽根康弘氏も、毎日新聞の8月10日版に寄稿して先の戦争についてこう書いている。

 1915年の「対華21カ条要求」以降は、中国に対する侵略的要素が非常に強くなり、日本軍による中国国内での事変の拡大は、中国民族の感情を大いに傷つけたと言わざるを得ない。また、大東亜共栄圏の名の下に進出した東南アジアも、住民からすれば土足で上がり込まれたというものに他ならず、まぎれもない侵略行為であった。
(中略)
 先の戦争はやるべからざる戦争であり、避けるべき戦争であったと思う。

 高市総務相が言う「国策」は安倍首相の談話にもあるように間違いなく誤っていて、岩城法相や加藤1億相が「国の為」というあの戦いは、疑う余地もなく日本が始めた侵略戦争だったのだ。
 そしてその為に何千万という外国人と、三百万を越す日本人が犠牲になる事になったのだ。
 その犠牲になった日本人、それも民間人を除いた上にA級戦犯を含めた軍人のみに「感謝の気持ちを捧げる」という、高市総務相や岩城法相や加藤1億相の気持ちや感覚が、少なくとも筆者にはまるで理解出来ないのである。

 この拙文を読んで下さっている貴方にお訊ねしたい。
 国策とあらば、貴方はその是非を問わずに銃を取り命を賭けて戦うべきと思うだろうか?
 たとえ間違った侵略戦争であろうとも、一度戦が始まれば「国の為に」異国に戦いに行き、敵兵を倒して自らもまた命を落とす事は、称えられるべき美しい事と思うだろうか?


 例えば貴方の親なり子供なりが、よその家の誰かと喧嘩をしたとしよう。
 そのような場合、貴方ならどうするだろうか。
 理由も聞かずに、相手の家に殴り込みに行くのが“家族愛”であろうか?
 悪いのは自分の親なり子だとわかっていても、黒を白と言い張ってでも身内の味方をして相手を責めるのが情というものだろうか?

 いや、筆者にはどうしてもそう思えないのだ。
 筆者であれば、熱くならず頭を冷やしてまず家族の言い分を聞き、そして相手の言い分も聞いた上でどちらが悪いかをジャッジする。
 そして家族の言い分に理があると思えば家族に味方をするし、家族に非があると思えば一緒に相手に謝るようにする。
 冷たい、と思う方が少なからずいるだろう事もよくわかっている。
 だが筆者は、たとえ身内の事でも黒を白と強弁して無理押しに正当化するような真似はしたくないのだ。家族が余所の人に何か悪い事をしたら、庇うのではなく諭して一緒に謝らせる。それが筆者の“正義”と“通すべき筋”なのだ。
 だから筆者は、同胞である日本人のした事とは言え、あの戦争を正当化し、戦死者を過度に美化する気にはなれないのだ。

 無論、悪いのは当時の日本の指導者であって、赤紙一枚で嫌も応も無く戦場に駆り出された兵士達には何の非も無い。
 しかし外国人、中国や東南アジアなどの人達から見れば、彼らは間違いなく侵略者であったのだ。
 非は国策を誤った当時の日本の指導者達にあるのだが、日本兵が「国を守る為に戦った」と言い切るのには、少なくとも筆者には違和感がある。
 そして今の靖国神社には、「国策を誤ったA級戦犯達」と「その彼らに地獄のような戦場に駆り出されて命を落とす事になった兵士達」が、同じ“英霊”として祀られている
 この現実に何の疑問も矛盾も感じる事なく靖国神社に参拝できる人がいるとすれば、それは日本を戦前のような国にしたい極右政治家か、日本の非は絶対に認めない、日本の非を認める者は反日の売国奴である!」と決め付ける、残念な知的水準しか持ち得ない自称“愛国者”のネトウヨのみであろう。
 あの戦争を「自衛の戦争」だの「アジアを白人支配から解放する戦争」だのと言い張って美化したがる輩の言い分は、周囲の皆が認めるイジメっ子で問題児の我が子を庇って、「ウチの子は絶対悪くない、悪いのは相手と学校だ!」と逆ギレするモンスター・ペアレントのとる言動と全く同じである。

 再び問う。
 国策とあらば、その是非を問わずに従って戦いに行き、そして命を落とす事は美しく正しい事なのか?
 その国策が誤っていた場合でも、国民は「国の為」と信じて従うべきなのか?
 その誤った国策に従い(主に)異国の戦場で倒れた者は“英霊”として祀られるが、誤った国策に反対して特高警察や憲兵に捕らえられて拷問死させられた者は“非国民”のままだが、これで正しいのか?
 同じ誤った国策のせいで命を落としても、軍人は“英霊”として祀られて遺族には年金も出されているが、民間人の死者は国に顧みられず放置されたままだが、これに問題はないのか?


 高市総務相や岩城法相や加藤1億相は、誤った国策による、やるべからざる避けるべき戦争で命を落とした兵士らと、それを引き起こしたA級戦犯に「感謝の気持ちを捧げた」と言うが。
 戦場で命を落とした兵士らには、少なくとも国の閣僚としては「感謝」するのでなく、「国策を誤った為に死なせて申し訳なかった、過ちは二度と繰り返しませんから」と謝罪すべきではないのか。
 そしてA級戦犯は一刻も早く靖国神社から分祀し、国家の誤った政策の犠牲になった兵士らの霊を、天皇陛下が正常に参拝して慰められるようにすべきであると筆者は考える。

 しかし高市総務相を留任させて重く用いる安倍総理は、刑死したA級戦犯を“昭和殉難者”と呼んで美化し、「今の日本の繁栄は、彼らの礎の上に築かれた」とまで称えている
 何しろ敬愛するお祖父さまがA級戦犯の容疑者の一人であった為に、安倍総理はA級戦犯の非は認めずに、どこまでも美化したいらしい。

 国策は誤る事もあり、そしてそれが国家を滅亡の淵にまで追いやるような取り返しのつかぬ大きな誤りである事もある
 そして「国を守る為」として駆り出された戦いが、実は侵略戦争で、国際的には自分も侵略者の一員と見なされていたりする事もあるのもまた、歴史が証明するところである。

 で、そのような誤った国策による侵略戦争に加わる事を強制され命を落とした者たちに対する気持ちは、果たして「感謝の意」で良いのだろうか?
 少なくとも筆者はそうは思わない。
「もう二度とこんな戦争は起こしませんから」という反省であるべきだと、少なくとも筆者は思う。
 国策を左右する政治家たる者は特に深く自省すべきであると思うのだが、高市総務相と岩城法相と加藤1億相は、まるで「誤った国策と侵略戦争に従って死んでくれてアリガトウ」と言わんばかりだ
 政治家は、特に与党の閣僚は先の大戦による日本人の戦死者たちに「感謝ではない、反省の念を捧げろ!」と筆者は声を大にして言いたい。

 そして国策も誤る事があり、戦争を始める時には指導者たちは誰もが「国を守る為の、正義の戦いだ!」と言うものだという史実を、国民たちも知っておくべきだ。
 侵略戦争を始める時に「あの国を攻め取って、資源や財宝を奪い、国民は奴隷にしちまおうぜ!」などと正直に本音を言う指導者は、少なくとも近代では誰もいないのだよ。
 あのヒトラーでさえ、戦争を始める時には「ポーランドが攻めて来た!」と自作自演のでっち上げをして、自衛の戦いを装ったのだ。

 国の指導者たちは、しばしば嘘をついて国民を騙す
 もちろん騙す指導者の方がより悪いのだが、国民の方も国家や政治家に騙されぬよう気をつける必要があると筆者は考える。
 あの戦争に負けた時、多くの日本国民は「騙された」と言ったそうだが。
 映画監督の伊丹万作氏(伊丹十三氏の父)は、その際に「騙されたと言って平然としている者は、また次も騙されるに違いない」と書き残した。
 全くその通りである。
 この二十一世紀になっても、日本国民たちは小泉政権にも民主党政権にも「騙された!」と言い続けてる。
 日本の指導者たちはしばしば国民に嘘をつき、国策を誤ってきた。日本の国民はその現実をよく見て、誤った国策はしっかり見抜いて断固反対すべきだと、筆者は思う。

 少なくとも筆者は誤った国策になど従いたくないし、自衛隊が国外で戦う「自衛の戦争」などあり得ない、と思っている。
 自衛の戦争と言えるのは、日本の国土に侵略してきた敵を迎撃して追い払う戦いのみだ。
 しかし安倍総理は、今回強行可決させた安保関連法案で“自衛”の枠を広げ、また国民を騙して自衛隊を海外に派兵できるようにしてしまった。
 ちなみに安倍総理は、自衛隊を「我が軍」と呼んだ過去がある。

 国民は、国策とあらばそれに従うべきなのだろうか?
 誤った国策に殉じ、侵略戦争と知らずに出征して異国で戦って死ぬのは美しく立派な事なのだろうか?

 誤った国策と侵略戦争で死んだ兵士と、国策を誤り多くの国民を死なせたA級戦犯たちに「感謝の気持ちを捧げた」高市総務相と岩城法相と加藤1億相に怒りと、彼らを登用している安倍総理の今後の政治に対して、筆者は非常に不安を感じた。
 問題のこの靖国神社の秋季例大祭に、安倍首相は参拝こそ見送ったものの、内閣総理大臣の肩書きで真榊を奉納していることも、付け加えて言っておかねばなるまい。

 政治家や国の指導者たちは、国民が政府を疑う事なく素直に国策に従い、「お国の為だ」と言えば命まで投げ出してくれるような者たちばかりであれば、さぞ気持ちが良いだろう
 だから高市総務相や岩城法相や加藤1億相のように、戦没者に対して「感謝」という言葉が自然に口から出てくるのだろう。
 国策の誤りで多くの国民を死に追いやってしまった事に対する反省の念など、頭の片隅にも思い浮かばずに

 だが筆者だけかも知れないが、それでもあえて、「騙されないぞ!」と声を大にして言いたい。
 日本は同調圧力の強い国で、皆が「白だ!」と言えば、自分には黒に見えていても「ハイ、白デス」と頷いてしまうのが民族性である。
 しかし幸いな(?)ことにアスペルガーの傾向があるらしい筆者は、空気を「読めない」と言うより「平然と無視する」性格で、周囲にどう思われようと気にしないで生きてきた。
 だから自分が間違っていると思う国策に従うつもりは全く無いし、安倍内閣の言う「我が国の存立危機」についても、政府を信用するつもりは全く無い

 それにしても、国策の誤りによる侵略戦争で死なせた二百万を越す自国の兵士に対して、現政権の複数の大臣が反省でなく感謝の言葉を口にするとは、全く恐ろしい事だと、心の底から感じた次第である。

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