空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

猫ブーム、とは言うけれど…

 この2月22日は“猫の日”で、そして今は猫ブームなのだという。
 猫に関連する支出や商品の売り上げも伸び、アベノミクスならぬネコノミクスという言葉さえ作られてしまったくらいだ。
 実は筆者も猫と共に暮らしており(飼うという言葉を使いたくない)、猫依存症と思われるくらいの猫好きである。
 だが猫を好きだからこそ、猫を一時のブームの対象にする事に抵抗を感じる。
 猫はモノではなく、心と命を持った生き物なのである。だからただ「可愛いから」と、一時の感情だけで家に迎え入れるような事はして欲しくない。

 例えば貴方は自分の結婚相手を選ぶ時に、容姿や家柄で決めるだろうか。
 もし容姿と家柄で連れ合いを選ぶ人がいたとしたら、「随分と下らない人だね」と、口に出しては言われないまでも心の中では軽蔑されるだろう。
 しかし猫を家族に迎え入れる時には、この容姿と家柄(血統)で選ぶ人が少なくないから呆れる。

 少なくとも筆者は“ねこ”という生き物が好きなのである。
 猫という生き物の気まぐれで自由を好んで自己主張が強くて、しかし心を許すととても愛情深い性質が大好きなのである。
 筆者はこれまでに何匹もの猫たちと親しくしてきたが、それらはすべて雑種のただの猫である。外見で選んで買ったり貰ったりしたのではなく、彼ら彼女らの魂と触れ合い、自然に親しくなって友あるいは家族になってきた。
 だから彼ら彼女らの魂の重さを見ようとせずに、見かけの可愛さや血統で猫を選ぶ、自称“猫好き”の人間を軽蔑する。
 さらに言えば、突然変異と突然変異を掛け合わせ、野生には自然に存在し得ない新たな猫を人間のエゴで作り出す輩を、もっと軽蔑する。

 例えば猫が、なぜ尖って薄い三角の大きな耳を持っているのか、おわかりだろうか。
 それは鼠などの小さな動物の存在に気付いてその居場所を正確に判断し、そっと迫って捕らえる、捕食性の肉食獣である猫に必要だからだ。
 だから猫の耳は大きく薄く、前から後ろに自由に動く。
 猫にとって、聴力はとても大切なものなのだ。
 なのに「可愛いから」と、突然変異で折れた耳の猫ばかり人為的に交配し、耳の折れた種を作り出すなど、人のエゴと醜さの象徴としか思えない
 そしてそうした猫を「可愛い!」と愛する人たちも、筆者には馬鹿としか思えない

 ペルシャ猫の異様に低いボタンのような鼻を「可愛い」という人達もいるが。
 猫は嗅覚に優れた生き物で、猫がものを食べる時には、見た目でなく匂いでそれが食べられるものかどうか判断しているのをご存じか。
 だからこそ鼻は、顔の先端に飛び出している。
 自然界の猫には存在しない低い鼻は、人には可愛く見えても当の猫には不便なのだ。
 そして目と鼻の位置が近すぎる為に、ペルシャ猫は流涙症や鼻炎を起こしやすい事をご存じか。
 これもまた、人間のエゴが生み出した動物虐待と言えまいか。

 猫だけでなく、猫科の動物は細い木の枝や塀などの上を歩けるが、その際には体のバランスを取るのに尾を使っている。
 筆者もこれまでに何匹もの猫と親しく付き合ってきたが、運動能力が高い猫は決まって尾も長く、それに比べて尾の短い猫は今一つだった印象がある。
 その尾の長さと運動能力に関する正確なデータは取っていないが、尾が猫科の動物に必要なものであることは事実である。
 しかし人間は、自然には存在する筈もない、尾の無い猫を作り出した。

 そして人間は、四肢の短い猫や、毛の無い猫なども人為的に作り出した。
 その種のただ人間の見た目に可愛いだけの、はっきり申し上げれば奇形の猫を人為的に作り出す者は「ゲス」だし、それを高い金を出して喜んで買う人間も「愚か」である

 例の毛の無い猫は、猫の毛にアレルギーのある人にも飼えるので、猫の毛に悩まされている自称“猫好き”にはありがたい存在なのだそうである。
 だが当のその猫は、品種改良wwwの結果、毛が無くなってしまったものの、寒さに強いようにも“改良”されたわけではない。
 だからその毛の無い種類の猫は、他の猫たちよりも明らかに寒さに弱いそうだ。
 ただでさえ暖かい地方の生き物である猫が、防寒用の毛皮を奪われた状況を想像してみてほしい。
 人の手厚い保護なくしては生きて行けない生き物にされてしまった当の猫たちが、「ボクたちは、おかげで人間さまに可愛がられるようになりました!」と人間に感謝していると思えるだろうか。
 筆者は人間が“品種改良”したと称する、自然界では存在し得ない猫たちを見る度に、人間のエゴと醜さをまざまざと見せつけられるようで、心から嫌な気分になる。

 例えば背の小さく華奢な体つきで、目が大きくスッキリした輪郭の女の子がいれば、筆者はつい「可愛いな」と思ってしまうが。
 しかしそのような見た目に可愛い女子を増やす為に、同じように小柄で可愛らしい顔立ちの男女を強制的に結婚させ、避妊ナシに子供をたくさん生ませるような試みがされたとすれば、「最低最悪の非人道的な行為」と非難糾弾されるに違いない。
 あるいはバレーやバスケットで世界で勝つ為に、背の高く運動神経に優れた男女を“国策”で強制結婚させたとしても、同じように非難されるだろう。
 より小さく可愛い女子や、より強く大きなスポーツ選手などを強制により人工的に作り出す行為の醜さと、人間が動物に対してしている“品種改良”と、果たしてどう違うと言うのだろうか

 筆者はこれまでに何匹もの猫たちと仲良くなり、そして家族として共に暮らして来たが。
 しかし見かけや品種で友や家族になる猫を選んだ事は、本当にただの一度も無い。
 どの子もみな家の周りにいた雑種の野良猫で、その子の方から「入れてくれー!」と家の中に入って来たり、病気で弱っているのを見捨てておけずに筆者が助けたりと、家族になったきっかけは様々だ。

 そして毛の色や模様だけでなく、性格も本当に様々だった。絵に描いたようなツンデレだったり、ただひたすら素直な良い子だったり、臆病な甘えっ子だったり、おっとりお姉さんだったり、見かけだけでなく性格も本当に千差万別だった。
 前に一緒に暮らしていた子を亡くしてしまうと、つい「似たような猫を」と思ってしまうのだけれど、同じ性格の猫とは本当に二度と巡り会えないね。
 で、前とは違う性格の猫と暮らし始める事になるのだけれど、そうしてみると、その違う良さがだんだんわかってきて……。
 だからどの猫にも人格ならぬ“猫格”があって、それぞれ世界でただ一匹のかけがえのない存在なんだとわかってくる。
 そしてそうなると、品種や血統で共に暮らす猫を選ぶ事がどんなに愚かなのか、よくわかってくるよ。

 そんな筆者には、あえて特別変異の猫を人為的にかけ合わせて自然には存在しない種を作り出したり、その自然界には適応できない猫たちを「可愛い」と愛でる人達の気持ちが全く理解できない。
 猫は、なぜありのままの猫ではいけないのだろうか……って思うよ。
 2月22日の“猫の日”に、猫ブームやネコノミクスについてのニュースをテレビで繰り返し見て、筆者は声を大にしてこう言いたくなったよ。
 本来の、ありのままの姿の猫を愛せない者に、猫好きを名乗る資格はない!

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