空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

遅刻を許すのは“優しさ”か?

 筆者は長年、猫と共に暮らし続けている。
 ただ猫は、人間よりはるかに寿命が短い。だから今、筆者が共に暮らしている猫は、初めて猫と共に暮らしてから三代目の子になる。
 当然、獣医さんとの付き合いも長くなる。
 筆者は幸いにも腕も良く、かつ献身的な治療をして下さる良い獣医さんとすぐに巡り会えた。

 その獣医さんは、毎年あるお寺で、自分の動物病院で傷病死した動物たちの慰霊祭を行っている。その費用はすべて獣医さんの持ち出しで、参加する飼い主たちからは一銭も取らずにだ。
 で、その慰霊祭には毎年百人を越す参加者が集まっている。そして筆者も亡くなった猫たちを偲んで、毎年その慰霊祭に参加させていただいている。

 ただ参加者が百人を越すだけに、中にはだらしのない人もいて、案内の葉書に明記されている開催時間に遅れて来る者が必ず少なからず居る。
 で、その慰霊祭を長年執り行ってきたお寺の先代の住職は、とても「優しい」和尚さんで、その遅れて来る人達が本堂に着席するまで待った。決められていた、慰霊祭の開催時間を遅らせてでも。
 そして筆者は、その優しい住職が時間に遅れて来る参加者を待つ度に、「ああ、また今年もか」とイラッとした。
 その先代の住職の優しさに、筆者が何故苛立ったのか。
 それは筆者が時間厳守を常に心掛けていて、この十数年以上参加し続けている慰霊祭に遅刻した事は、ただの一度も無かったからである。
 この傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、会議でも人と会う約束でも、筆者は「時間に遅れる」という事が無い。そのような事があるとすれば、事故か何かどうしようもない事情が発生した時だけである。

 ただその先代の住職は高齢でお亡くなりになってしまい、まだ若い方がその跡を継いで新しい住職となられた。
 その新しい住職もユーモアと温かみがある良い方だが、若いだけに慰霊祭の進め方もてきぱきとしている。
 この新しい住職は、遅れて来る参加者を待たない。所定の開催時刻が来れば、「時間になりましたので」と慰霊祭を始める。

 あらかじめ決めた時間を遅らせてでも、遅刻して来る参加者を待った先代の住職と。
 待たずに時間が来れば、どんどん慰霊祭を始める新しい住職と。
 皆さんはどちらの住職の方を、より「優しい」と思うだろうか。
 多くの方は先代の住職とお思いになるだろうが、筆者は断然、新しい若い住職の方だとと断言する。

 なぜ筆者は、いつも時間に遅れずに決められた場所に着いているのだろうか。
 自然にいつの間にか早く着いているのではない。
 筆者は常に、時間を気にかけているからだ。
 例えば日曜の午前十時にその慰霊祭があるとすれば、支度にかかる時間や、着くまでにかかる時間をあらかじめ計算して行動している。それも「自分に都合良く短めに」では無く、何かあるかも知れない事も想定して長めに見積もっておく。
「ちょっとくらい遅れたって構わないだろう」などと自分を甘やかしたりは、断じてしない。
 だから約束の時間より前に着いて、現地で待っている事が殆どだ。
 遅刻を「ちょっとくらい良いじゃないか」と思っている人達に言いたいが、時間を守る者はその為に努力しているのだ。

 にもかかわらず先代の住職は、「遅れて来る人がいるから」と慰霊祭を始めるのをいつも待った。
 筆者は遅れぬように努力して時間前に着き、そしてまたその努力をせずゆっくり来やがる怠け者たちの為にさらに待たされるのである。
 これでは時間を守る為に頑張る者が馬鹿を見て、時間を気にせぬ怠け者を助ける事になっているのではないか。

 その慰霊祭を行う寺は市の山に近い方にあり、筆者の住んでいる家から3キロ以上離れている。そしてその寺の駐車スペースには限りがある為、「できるだけ公共交通機関を御利用下さい」と参加者は事前に呼びかけられている。
 公共交通機関と言っても、その山麓にある寺の方面に行くバスは一時間に一本のみである。だから筆者は、慰霊祭にはいつも自転車で行っている。
 その寺は山の麓にあるから、行きはいつも登り坂を漕ぎ続けて行く事になる。
 で、朝の出がけに不測の用事があって、家を出るのが少し遅れた時など、それはもう必死に自転車を漕いで行くのだ。その3キロの、延々と続く登り坂の道を。
 それで息を切らせ汗だくになりながら、所定の時刻の数分前に着いて記帳も終え、席に座ってやれやれと思っていると、住職が「遅れて来る人を待つ」と言う。
 毎年の事だから、わかってはいる。
 しかしそう言われた時の虚しさは、何とも言いようが無い。
 自分は何の為に、こんなに苦しい思いまでして頑張って時間を守ったのか……と。
 その時の、約束の時間を守る為の「努力を踏みにじられ、馬鹿にされた」という悔しい思いは、いくらその住職が優しい良い方なのだとわかっていても抑えきれない。

 だから筆者は、約束の時間に遅れる者を待つのは「本当の優しさでは無い」と思っている。
 それは優しさや思いやりではなく、己に甘くルーズな者をより甘やかし、時間を守ろうと心掛ける者の努力を馬鹿にする行為である。

 約束の時間にいつも間に合う者は、その為に頑張っているのだ。支度や行くまでの行程にどれだけ時間がかかるかを多めに見積もり、早めに自分の仕事を切り上げて出かけているのだ。
 そして時間に遅れる者はその努力をせねばならないと思いもせず、遅くまで自分の好きな事をし、甘い見積もりで行動している。
 断言するが、その種の遅刻を繰り返す者は時間ドロボウである。他の者が間に合うように早く行動している間ものそのそ自分勝手な事をして、そして案の定約束の時間に遅れ、間に合うよう早く行動した者達の時間を無駄にさせるのだから。

 先代の住職は、時間に遅れても待っていてくれるとわかっていた。しかし筆者はそれでも決して遅刻はせず、登り坂の長い道を息を切らし汗だくになって自転車を漕いででも、所定の時間に間に合うように頑張った。
 それは自分が、約束の時刻を守る為に他の人が払った努力を無にする“時間ドロボウ”の側にはなりたくないからだ。
人には、自分が損をするだけとわかっていても貫き通さなければならない意地と矜持がある」と筆者は思う。
 そう思いはするのだが、約束の時間を守らない遅刻常習者に対する怒りと、その時間に遅れる者に寛容な「優しい」人に対する苛立ちが収まらない。

 その傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、仕事上の会議や面会はもちろん、私的な待ち合わせでも。
 遅刻する者は待たず、約束の時間が来たら会議や行事を始めるのが、間に合う者、遅れる者、双方にとって結果的に良いのだと思う。
 なぜなら遅刻する者を待てば、「遅れても待っていてくれるもの」とより甘え、ますますいい気になって遅刻を当たり前に繰り返すようになるからだ。そして時間を守り早めに行動して早めに家(職場)を出る者は、余計に待たされる事になる。
 遅刻は許さないし、遅れる者は待たない。それを徹底すれば、時間にルーズな者も「遅刻は許されない」と理解するし、時間を守る者が無駄に待たされる事も無くなる。
 だから遅れて来る者に配慮するのは思いやりなどではなく、時間を守る努力をする者を優先する事こそ、皆の為になる真の優しさなのだ。

 新しい年度になり、新社会人になる者だけでなく、新しい学校に進学する者も大勢いるだろう。
 その新社会人と新入生に、少しばかり長く生きた者から言っておく。
 時間にルーズで遅刻をする者は、人から信用されないようになる
 事実、約束の時間を守れない者は、他のすべての事においてルーズで自己中心的だ。「遅刻はするが、仕事は良く出来て几帳面で整理整頓もしっかり出来ていて他人との約束も守る」という者など、筆者は見た事が無い。
 遅刻を何度もする人間というのは、ただ一日の時間の割り振りがきちんと出来ていないだけでなく、物事の見積もりが甘く、そしてきちんと間に合うように考えて行動している他人の時間を無駄に費やさせているのだという事に気付きすらしない。
 単にだらしないだけでなく、何と自己中心的で傲慢であろうか。
 だから遅刻をする人間は、他の者たちから嫌われ信用されぬのだ。

 たとえ相手が待ってくれるとわかっていても、遅刻は何か事故か事件でも無い限り極力しない。これは筆者の意地と、人としての矜持である。

 さて、傷病死した動物の慰霊祭を行う寺では駐車場が少なく、「できるだけ公共交通機関を御用下さい」と通知されている事は前にも書いたが。
 それでも「交通に不便だから」と、自家用車で慰霊祭に来る者が少なくなく、狭い駐車場とその周辺は車で溢れて、毎年その整理にあたる動物病院の方が大わらわだ。
 だから筆者は「自分一人くらい車で行っても構わないだろう」などと思わず、雨の時も風の強い時も3キロ超の登り坂を自転車で漕いで行っている。
 誰が見ているわけでも無いが、それもまた筆者の自身に対する意地と人としての矜持だ。
 しかし現実には、「待っていてくれるだろう」と平気で遅刻してくる者や、「自分一人くらい」と狭い駐車場に車でやって来る者も少なくないし、そうした自己中心的な人間を咎める者もいない。
 だからつい、「世の中、ズルい者が勝つのだな」と思いたくなってしまうものだ。

 だとしても、だ。
「自分さえ良ければ構わない」という気持ちが心の奥底にある者は、人としての品性の下劣さが日頃の振る舞いに自然に滲み出るものだし、そのうち周囲から軽んじられ、白い目で見られるようになるものだ。
 直接に叱られたり窘められたりしなくても、見る人は必ずどこかで見ている
 だから自分の価値を自ら貶めるような行動は、誰が見ていなくても慎みたいものだと思う。

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