空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

朝霞の少女誘拐監禁事件で、被害者ではなく加害者の側に立つ香山リカ先生

 初めに断っておくが、筆者は精神科医の香山リカ先生に何の恨みもないし、嫌っているわけでもない。むしろその著書を購入して、「ああ、なるほど」と感心した事もあるくらいである。
 ただこの4月5日の毎日新聞のコラムに書かれた、『過去を許せるか』という記事は、どう見てもよろしくない。「こんな立派な先生でも、これほど基礎的な事がわかっていないのか」と、大いに呆れてしまった。

 香山先生はそのコラムで、あの朝霞市の女子中学生誘拐監禁事件について取り上げていた。それも精神科医として被害者の心情を慮るのではなく、何と加害者の立場に立って、加害者の卒業を取り消した大学を批判しているのである。
 その件について、香山先生はコラムでこう書いている。

 たしかに、卒業証書を受け取る前にこの誘拐事件が明るみに出ていたら、当然、退学などの処分が下されただろう。
 しかし、受け取った時点では、事件は発覚していなかったのだ。
 その場合に、過去までさかのぼって学生を処分することができるのだろうか。


 答えはズバリ、出来るのである。
 と言うよりむしろ、処分せずに大学卒の資格をそのまま与えていたら、千葉大学は怠慢として非難されなければならないだろう。

 筆者は今年の年度が替わる際にも、このブログでその件について短く触れた。
 卒業して進学または就職する際、その間の春休みの間の身分は何であるか、自分でも迷ってしまう方が少なくないと思う。
 例えば筆者の中学の校則では、保護者の付き添い無しに生徒だけで学区外、それも繁華街に出る事を禁止されていた。
 で、筆者は中学を卒業して高校に入学する前の春休みに、女の子と二人で隣の県庁所在地の市の繁華街に、映画を観に行ったのだが。
 その行為が校則違反であるかどうか、当時の筆者にはわからず、何となく後ろめたい思いでそのデートを楽しんだ。

 そのデートが校則違反かどうかは、正解は「出かけた日付による」のである。
 卒業してから進学(就職)するまでの間は、一見定まった身分が無いようだが、実はしっかり規定があって、それは年度で区切られているのだ。
 だからその春休みのデートの時の筆者は、卒業式も済ませ卒業証書を貰っていても、年度末の3月31日までは身分としてはまだ中学生であり、中学の校則に従わねばならないのだ。そして4月1日以降であれば、入学式以前であっても高校生なのだ。

 時折、春休みに高校を卒業して羽目を外した少年らが仲間同士で夜遊びをして、取ったばかりの免許で無茶な運転をして事故を起こし死傷するといったニュースを見る事があるが。
 その際に『卒業したばかりの高校生が死傷』と報道されるのは、その為である。
 卒業しても、年度末の3月31日まではまだ高校生なのである。

 卒業式に出て卒業証書さえ貰えばそれで「ハイ、終わり」で、その学校とはもう関係ない……というわけではないのだ。
 例の少女を誘拐監禁した寺内樺風の悪事が発覚して逮捕されたのも、年度内の3月のうちである。だから加害者はまだ千葉大学に在籍中であり、千葉大学としても当然処分すべきであったのだ。
 こんな単純な事も、香山リカ先生ともあろうお方がご存知無かったとは。筆者としては、その事がいささか驚きである。

 香山先生は、そのコラムでこうも書いている。

 誘拐事件を起こした男性については、これから司法の場がしっかりと裁くことになるはずだ。
 大学がやるべきことは、元在学生の過去の罪の重さを検討することではないと思うのだが、私の考えはかたよっているのだろうか。


 はい、ただ偏っているだけでなく、間違っていると断言する。
 そもそも加害者は“元在学生”ではなく、事件が発覚して捕らわれた時点でも“在学生”だったのだから。
 香山先生は少女の拉致監禁を「過去の罪」と言うが、千葉大生として犯した「今の罪」なのだ。
 にもかかわらず香山先生は、この犯人の行為を“過去の罪”と言う。そしてこの犯人を一度も“加害者”とは書かず、一貫して“男性”または“元在学生”と書いている
 その神経が、筆者には理解できない。

 かつて新潟県で、少女を長期間に渡って拉致監禁した加害者がいたが、判決は意外に軽く懲役十年前後だったように思う。
 だとすれば、監禁した期間が新潟の犯人より短い寺内樺風の服役期間は、おそらくその新潟の犯人よりも短いだろう。で、あと数年もすれば刑務所からひょっこりまた社会に出て来るに違いあるまい。
 加害者はおそらく、まだ二十代のうちに服役を終えるだろう。
 そして前歴を隠し、千葉大学卒業生の肩書きを持って就職して一般社会の中でごく普通に幸せに暮らせるとしたら、被害者の少女やその身内の方だけでなく、年頃の娘を持つ親たちは皆やり切れない気持ちになるのではないか。
 だから千葉大学が寺内樺風の卒業を取り消したと聞いて、筆者は「よくやったし、当然の事」と思った。むしろそれを「やり過ぎ」と思う人の気持ちが理解できない。

 考えてみてほしい。寺内樺風は千葉大学在学中に少女を拉致し、長期間監禁しながら大学生活を過ごし卒業証書を手にしたのだ。
 そんな卒業など取り消されて当然と思う筆者は、考えが偏っているのだろうか。
 無論、千葉大学ではなく寺内樺風が卒業した高校が、まだ拉致監禁を犯す前の卒業を取り消したとしたら、それは間違いなくやり過ぎだ。
 しかし拉致監禁をしながら過ごした千葉大学の卒業は、取り消されて当然ではないか。
 寺内樺風の少女拉致監禁を、香山先生は「過去の罪」と考えているようだが、筆者は「現在進行形であった今の罪」と理解しているが、皆さんはどちらが正しいと思われるだろうか。

 過去の罪について、香山先生はそのコラムでこう持論を述べている。


 診察室にはときどき、「夫の過去に問題があった。それを知らずに結婚して、いまはじめて聞かされたのだが、それを許して夫を受け入れるべきかどうか」などと悩んでいる人が相談に来ることがある。
 その問題の深刻さにもよるが、そういうときはにはいつも「いまはどうですか」と尋ねる。そして、「とてもやさしくてまじめな人だと思います」という答えが返ってくるときには、「では、夫はもうその時の人とは違うんだ、と思うことにしてはどうですか」とアドバイスする。
 人は変わるものだし、人間関係において過去の時点にさかのぼってひとつひとつ罪をとがめても、相手はどうすることもできないからだ。それよりも「これからどうしたい」と未来を見つめていくほうが、お互いにとってずっと良いのではないだろうか。
 もちろん、水に流せない過去もある。しかし、ときには「過去にはさかのぼらない」という態度も大切なのではないだろうか。


 そして香山先生は、千葉大学は寺内樺風の過去の罪の重さを検討するべきではないと言うのだが。
「その通りだ、バレた時にはもう卒業証書を貰ってたんだから、拉致監禁しながらの卒業だって認めてやるべきだろ」と共感する方が、この世の中に本当にいらっしゃるのだろうか。
 少なくとも筆者には、全くそうは思えない。

 香山先生の言う通り、人は過去に犯した自分の罪をどうする事も出来ない。
 だからこそ「罪を犯さぬよう、悔いる事の無いよう日々を過ごすよう心掛けるべきだ」と、筆者は考える。
 香山先生の言う「過去はどうする事も出来ないのだから、未来を見つめて行こう!」という生き方は、あまりにも無反省で無責任に筆者には思える。
 例えば貴方が何かの事件の被害者だとして、「過去は変えられないのだから、過去の罪を咎められても加害者だってどうしようもないんだよ」と言われて、納得して水に流して許してやれるだろうか。
 いや、人としての器が小さいからかも知れないが、筆者にはとても無理だ。

 筆者も決して立派な人間ではないし、無思慮な言動をして人を傷つけたりした事は数え切れない程ある。今は少しは人間らしくなってはいるが、かつての筆者ときたら頑固で意固地で偏屈で空気を読めずに暴言も吐き、本当にどうしようもない人間だった。
 だから「何であの時、あんな馬鹿な事をしてしまったんだろう」と、今でも悔やんでばかりだ。思い出すだけで辛くなってしまう過去の失敗は、本当に数え切れない程ある。
 だが筆者は、それらの自分が犯してきた恥ずかしい事を、「悔やんでも、過去に戻ってどうにかする事も出来ないんだから」と忘れてしまおうとは思わない。過去の自分の愚行の数々を胸の痛みと共に忘れずに記憶して、今後の自分に対する戒めにしようと努めている。
 そうして来たからこそ、箸にも棒にもかからなかったヒドい生き物だったのが、この年になって少しは人間らしくなって来たのだと思っている。

 筆者は思うのだが、誰かの人生を変えてしまうような罪は、絶対に許されないし水に流すことを求めてはならない考えている。
 例えばこの寺内樺風が起こした事件の被害者の少女は、楽しいものである筈の青春時代の二年間を失い、加害者に監禁されて過ごした。
 同級生たちは今頃、高校に進学し楽しい高校生活を始めているだろう。しかし彼女は、かつての同級生たちと一緒に高校に進学する事すら出来ないのだ。
 進学するには、これから遅れた二年分の勉強をしなくてはならない。さらにその前に、監禁生活による心の傷も癒さねばならないだろう。
 そのトラウマや、学業の遅れなどを考えれば、寺内樺風は被害者の少女に一生残る、人生を変えるレベルのダメージを与えた事は明白だ。その被害者の少女に、どうして「加害者だって過去に戻ってどうする事も出来ないのだから、水に流して未来を見つめて生きよう!」などと言えようか。
 にもかかわらず被害者の少女の今後を案じるのではなしに、加害者が大学卒業を取り消された事について噛みついている香山先生の気持ちが、筆者には全く理解できないでいる。

 香山先生ご自身も、「もちろん、水に流せない過去もある」と認めてらっしゃるが。
 筆者は思うのだが、誰かの人生を変えるような罪は絶対に許されず、一生忘れずに背負い続けて苦しまねばならぬのではないか。
 だから寺内樺風の犯した罪も、服役して出所した後も死ぬまで決して許されないと考える筆者は、加害者と罪に対して厳し過ぎるのだろうか。

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