空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

源義経は断じて“英雄”などではない!

 今の日本でも、筆者には小泉元首相と安倍首相がなぜこれだけ庶民に支持されているのか、まるで理解が出来ないのだが。
 現代だけでなく、歴史上の有名人でもなぜこのような人物が庶民に愛されて英雄視されているのか、まるで理解に苦しむ人物がいる。

 筆者にとってその「本当はクズなのに、庶民には英雄視され慕われている代表的な人物」は、ズバリ源義経である。

 日本の庶民にとって義経は伝説的な英雄であり、その義経を殺したという事で、兄である頼朝の評判は実に悪い
 しかし筆者は、その日本人の“常識”に、以前から疑問を持ち続けていた。
 日本人の特性である「空気を読んで、皆が当然としている事は自分も素直に受け入れる」という性質が皆無の筆者は、幼い頃からこう思い続けてきた。
 義経は、本当に皆が信じているように立派な英雄なのだろうか。
 頼朝は、本当に冷酷で酷い兄だったのだろうか。

 で、「義経は悲劇の英雄で、兄の頼朝は酷い」という“日本人の常識”を素直に受け入れる事なく、義経と頼朝の実像について、伝説によらず史実に従って調べてみた。
 ちなみに筆者は小学生の頃から社会科、特に歴史が好きで、大学では史学科国史専攻コースで主に日本の平安時代の歴史について学んでもきた。

 義経と頼朝について語る前に、「常識とは国や時代によって違うものだ」という事実を理解していただきたい。
 例えば江戸時代まで、女性は眉を落とし、お歯黒と言って歯を黒く染めるのが当たり前だった。
 今そのようなメークをすれば「キモッ」と思われるが、昔の人々は男女共それを「綺麗!」と思っていたのだ。
 鯨や海豚を食べるのは我が国の伝統であり、それを外国人が野蛮と決めつけるのは、他国の文化を蔑視した傲慢な行為である。

 で、義経と頼朝は一応“兄弟”であるが、兄弟関係についての感覚は今と当時ではかなり違う。
 平安時代には結婚は一夫多妻が当たり前で、特に権力者は複数の女性を妻としていた。
 と言ってもハーレムや江戸時代の大奥などと違い、己の屋敷に複数の女性を同居させるのではなく、当時の日本の男性はそれぞれの女性の屋敷に通っていた。そして生まれた子供達は、それぞれの母の許で育てられるのである。
 だから当時は今の時代で言う兄弟の他に、同じ父から生まれたものの違う家で育ち、ろくに会った事もなく感覚的には他人も同様の異母兄弟(姉妹)が大勢いたのである。

 で、義経と頼朝は、その異母兄弟なのである。
 義経の母は源義朝の妾である常盤御前で、頼朝の母は義朝の正妻の、熱田大宮司藤原季範の娘である。

 話を進める前に、ここで当時の家督や地位の相続について話をしておきたい。
 後の世の武士社会では、正妻の長子が家督を相続し父の地位と財産を受け継ぐのが当たり前になっているが、この時代は違う。
 平安時代から鎌倉時代前期にかけては、ものを言うのは母の家柄もあるが、まずは当人の実力だったのである。
 つまりこの時代の兄弟とは、血を分けた大切な存在と言うより、「父の地位や財産を奪い合うライバル」という面があったのだ。

 はらから、という言葉がある。
 漢字では同胞と書き、兄弟姉妹、あるいは同国民という意味で今では理解されている。
 しかし本来は、「同じ母から生まれた兄弟姉妹」という意味だった。
 つまり裏を返してみれば、「同じ母から生まれた者たちこそが本当の兄弟姉妹であって、異母兄弟には兄弟という感覚が無い」という事でもある。

 しかしその“はらから”ですら、氏長者(一族の長)の座や父の地位や財産がかかって来ると、憎しみ合い争い合う事になる場合も珍しくない。
 例えば平安貴族で最も有名な人物は藤原道長であろうが、彼は父である藤原兼家の第五子であった。
 長兄は藤原道隆で、道隆と道長は同母の“はらから”であった。
 で、父兼家の跡を継いだのは、道長ではなく道隆だった。そして道隆は、己の地位や財産を我が子の伊周に譲ろうとした。
 しかし道長は、道隆の死後に若い伊周を陥れて失脚させ、己が藤原氏の氏長者となり政権を握ったのである。
 己の権勢欲の為には、同母の兄弟や甥すら陥れる。これが当時の貴族や武士の実態であった。

 長子が跡を継ぐと決まっていた後の武士の世と違って、この時代には誰が跡を継ぐかは非常に微妙であった。
 跡を継ぐには、まず有能でなければならない。
 そうでなければ、他の兄弟に蹴落とされる。
 特に跡を継いだ者が若く、そして世慣れて有能な叔父がいた場合には、若い後継者がその叔父に蹴落とされる事も少なくない。

 同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても、必ずしも仲が良いとは限らないのは、今の世であっても変わりあるまい。
 特にその家にある程度の財産があったりすると、それを巡ってのトラブルが起きかねない。
「跡を継ぐのは俺だ!」と遺産の大半を己のものにしようとする長男と、「いや、平等に分けろ!」と主張する他の兄弟達との争いなど、現代の日本でも珍しくないではないか。
 だから高い地位と多くの所領を持つ貴族や武士たちの兄弟間で、出世や相続を巡って争いが起きない筈が無いのだ。
 そして義経と頼朝は例の“はらから”ではなく、まるで違う屋敷で生まれ育った異母兄弟なのである。

 想像してみてもらいたい。
 もし貴方の家に、それまで顔も見た事も無い妾の子が「弟です」と名乗って突然現れたとしたら。
 貴方はその妾の子に対し、弟としての情を感じる事が出来るだろうか。
 ましてやその“異母弟”は、同じ父の血を引くゆえに、貴方の地位と財産を継ぐ権利もあるとしたら。
 親愛の情を抱くどころか、心の中では敵として警戒するのが当然ではないだろうか。

 で、問題の義経だが、頼朝にとっては「一度も会った事も無い異母弟」で、しかも「同じ源氏の棟梁の血も引いている=自分にとって代わる権利もある」のである。
 ドラマや伝記物語などでは、義経と頼朝が初めて会うシーンでは、よく手を取り合って涙の対面をさせているが。
 現実には頼朝は、義経に弟という実感や情など持ち得なかっただろう。
 そして同じ母の許で同じ屋敷で育った“はらから”でないにもかかわらず、同じ父の血を引いているとなれば、警戒せざるを得ない。
 それがこの時代の、異母兄弟の実態だ。

 想像してみて貰いたい。
 貴方は会社経営者の息子で、急死した父の跡を継いだ新社長だ。
 そこにそれまで会った事も無かった妾の子が「弟です」と現れたら、「おお、よく来てくれた!」と心から歓迎できるだろうか。
 そしてその妾の子が「兄さんの会社の役員にして下さい」とか言ってきたら、「こいつめ、俺の会社を乗っ取る気ではあるまいな?」と疑念を持たないだろうか。
 異母兄弟を信用し、兄弟の情を抱くようになるのは、その異母兄弟がどう振る舞うか次第ではないだろうか。
 いきなり現れた、初対面でしかも自分の地位を脅かす可能性もある異母兄弟に、すぐに「肉親の情を持ち歓迎しろ」と言われても、無理な話だと思う筆者は冷たい人間なのだろうか。

 で、その義経だが、彼はその再会後の兄頼朝に対する振る舞い方を誤った。

 平氏は公家社会の中で貴族として出世する事で、端的に言えば貴族化する事で日本の政権を握ろうとした。
 しかし頼朝は京から離れた鎌倉の地で、武士の棟梁として武家政権を作り上げようとした。
 そして十三歳まで京で暮らしていた頼朝は、貴族が武士を操る方法もそれなりに知っていた。

 当時は天皇ではなく上皇が朝廷の実権を握る院政期だったが、その上皇らは「源氏が力を伸ばしたら平氏を引き立て、平氏が力を伸ばしたら源氏を引き立てる」という手法をよく使った。力を持つ者同士を争い合わせる事で武士の力を削ぎ、朝廷の権威と権力を保っていたのだ。
 だからそれを恐れた頼朝は、配下の武士らが勝手に朝廷と接触して官位などを貰うのを禁じた
 そしてそれを真っ先に無視したのが、誰あろう義経である。

 義経は後白河法皇に接近して勝手に官位を貰っただけでなく、京に残っていた平氏の姫の婿になったりもした。
 義経としては、「自分のおかげで戦に勝てたのだから、このくらいは構うまい」と思っていたのだろうが。
 しかし平氏との戦で手柄を立てたのは、何も義経一人だけではない。
 そして義経一人で戦ったわけでもなく、平氏を滅ぼせたのは坂東の諸将と何万もの兵の力があってこそである。

 頼朝に禁じられていたから、他の多くの武将は官位を欲しくてもその申請は頼朝に任せていた。
 しかし義経は後白河法皇に接近し、頼朝の許可なく高い官位を朝廷から貰った。
 それはもちろん、後白河法皇と朝廷の純粋な好意によるものではない。鎌倉の本拠から動かず東国に強い勢力を持つ頼朝を牽制し、それに対抗させる為に義経を寵愛し引き立てたのである。
 そして義経はそれを理解せず、後白河法皇と朝廷の甘い誘いに乗り、仇敵平氏の姫の婿になったりもした。
 戦は強かったかも知れないが、義経は政治的にはかなりの馬鹿である。

 義経は頼朝の弟である。
 その頼朝の身内が、真っ先に頼朝の命を無視して朝廷と接触し勝手に官位を貰ったりしたら、他の諸将に示しがつかぬ。
 義経は「弟だから少しぐらい勝手な事をしても許される」のではなく、「一族で弟だからこそ、頼朝の命を率先して守らねば皆の手本にならぬ」のである。
 だから同じ父から生まれ源氏の棟梁の血を引く弟が勝手な行動を取り、後白河法皇と朝廷に利用され鎌倉の頼朝の対抗馬に押し上げられかけた時、頼朝としては厳しい態度で接しなければならなかったのだ。
 ゆえに頼朝が義経の勝手な行動を許さなかったのは、政治的に全く正しい。

 もし頼朝が義経に甘い態度で接していたら、義経は後白河法皇と朝廷に取り込まれ、せっかく頼朝の許に一つにまとまりかけていた東国の武士は京の義経派と鎌倉の頼朝派に分かれて相争い、院政と戦乱の世が続いたであろう。
 朝廷が実権を握り続け、義経がその番犬として働く世を良しとする方は、「手柄を立てた弟の義経をイビる頼朝は酷い」と言えば良い。
 しかし「朝廷と貴族が支配する古代から、武士が支配する中世に移り変わるのは時代の必然」とお考えの方なら、頼朝が己の命を無視して後白河上皇や朝廷に接近した義経に厳しい態度をとった理由がおわかりであろう。

 それでも初めから頼朝を倒し己が源氏の棟梁になるつもりで、その布石として後白河法皇に接近し平氏の姫の婿になったのなら、まだ理解できる。
 しかし義経は京で反頼朝勢力を結集しようという姿勢も見せず、ただ後白河法皇に寵愛され高い官位を貰って浮かれていたのだ。そして頼朝に叱責されると慌てて鎌倉に戻ろうとし、それを拒まれると泣き言を言う有り様だ。

 落ち度は義経にあるのだし、鎌倉での対面を拒まれたのならどこぞの寺にでも籠もって謹慎し、反省の姿勢を見せれば良かったのだ。
 しかし義経は、頼朝に鎌倉入りを拒まれると今度は後白河法皇に、頼朝追討の宣旨を貰おうとする始末だ。
 が、政治力が皆無で反頼朝の根回し工作もして来なかった義経に味方する武士などまるで無かった。そして後白河法皇と朝廷にも見放されて奥州に落ち延び、頼った奥州藤原氏を道連れにして滅びてしまうお粗末さだ。

 義経をひいきにして英雄視する人達は、義経の戦の強さを褒め称える。
 しかし義経は、本当に「戦の天才で英雄」だろうか。

 よく「戦争にルールは無い、どんな汚い手を使っても勝った方が偉い」と言う人達がいる。
 違う。
 戦にもルールはちゃんとある。例えば現代の戦争では使ってはならない兵器もあるし、捕虜は虐待してはならないし、病院などを攻撃してはならないと決まっている。
 それらの戦争に関する国際法に違反すれば、多くの国から非難される。

 で、当時の日本での戦は、まず両軍が向かい合い、独特な音を放つ雁股の鏑矢を敵軍の頭上に射て開戦を通告し合ってから始めるものなのだ。
 そして戦も一騎打ちが基本で、それも「ヤアヤア、我こそは○○の国△△の住人、黒沢の樹一郎なるぞ」と名乗りを上げ、身分のある強そうな良き敵を見つけて戦うのだ。
 現代から見れば馬鹿げているかのように思えるかも知れないが、これが当時の戦というものだったのである。
 まずこの事を頭に置いてから、義経の“天才的”な軍略とやらを見て行きたい。

 義経の戦と言うと、まずは一ノ谷の戦が有名だ。
 鵯越えの険を下り、油断していたおマヌケな平氏の背後を突いて破ったとして知られている。
 しかし本当に平氏はおマヌケで、その隙を突いて奇襲した義経は偉かったのだろうか。
 もう一度言う、当時の戦は両軍が向かい合い、鏑矢で開戦の合図をし合ってから一騎打ちで正々堂々と戦い合うのが基本だ。
 敵の背後からいきなり襲いかかる。
 このどこに、正々堂々の姿勢があるのだろうか。
 しかもこの時、平氏は西国で勢いを盛り返し、京の都を奪回する勢いを見せていた。それで朝廷が仲介に立って、平氏と源氏は和平交渉をしていたのだ。
 その和平交渉の真っ最中に、義経は背後から予告も無しに襲いかかって来たのだ。

 続いて屋島の戦について見てみよう。
 この時もまた、義経は背後から平氏の軍を襲った。それも民家を焼き払い、大松明(おおたいまつ)と称して大軍に見せかけて襲ったのだ。
 このどこに、正々堂々の姿勢があるのだろうか。
 義経の勝利の為に家を焼き払われた付近の住民たちの気持ちを考えると、筆者は義経の“知略”を称える気になどとてもなれない。

 そして壇ノ浦の戦だが、初めは平氏の軍が優勢であった。
 そこで義経は、平氏の軍船の水夫たちを弓で射させた。
 この時代では水夫は非戦闘員と見なされ、水夫を射る事など無かった。この時代の戦とは、武士同士が戦い合うものだったからだ。
 しかし義経が水夫を射させた為に平氏の軍船の動きは鈍り、戦は一気に源氏に有利になった。
 戦に勝つ為にはルール無用で、正々堂々の戦より奇襲を好み、民家も焼き払うし非戦闘員の水夫も殺す。これが“英雄”義経の実態だ。

 その壇ノ浦の戦で、義経は平氏の猛将平教経に一騎打ちを挑まれた。
 すると“英雄”義経は、船から船へと飛び回って逃げたのである。
 これが伝説になっている「義経の七艘飛び」の真実だ。

 平忠度にしても平敦盛にしても、平氏の名のある武将は一騎打ちを挑まれれば充分逃げられても引き返して戦い、そして討たれて死んだ。これが当時の武将の美学というものだ。
 しかし義経は船から船へと飛び移り、一騎打ちから逃げ回ったのである。
 挑まれた一騎打ちから逃げ回る卑怯でみっともない行為すら、義経大好きのいわゆる“判官びいき”の人達の手にかかると、船から船へひらりひらりと飛び回る、七艘飛びの英雄譚に作り替えられてしまうのである

 義経は武勇に優れていて強い。
 何も疑わず素直にそう信じている人が多いが、「京の五条の橋の上で、弁慶を打ち負かした」というのは伝説、フィクションである。
 どの戦で敵のどの武将を討ち取ったという実際の義経の“武勇”は、少なくとも史実には全く残されていない。

 義経は政治的に全く無能で、頼朝の命を無視して後白河法皇や朝廷にうまうまと利用され、「戦に強い」と言っても当時の戦のルールを無視した奇襲ばかりで、民家にも火を放つし非戦闘員も殺す。そして自分が強い相手から一騎打ちを挑まれれば逃げ回る。
 これでも「義経は可哀想な英雄で、頼朝は弟を殺す酷い人」だろうか。

 筆者には、どうしても理解できない事がある。
 義経が死んだ八十数年後に、元軍が日本に攻めて来る。
 いわゆる元寇である。
 この時も日本の武士たちは、伝統的なやり方で元軍を迎え撃った。
 例の鏑矢を射て開戦を布告し、一騎打ちを挑んだのである。
 すると元軍の兵士らは頭上を飛ぶ鏑矢の音をゲラゲラと笑い、一騎打ちを挑んだ日本の武士を皆で囲んで殺したのだ。
 この事を、多くの日本人は「元軍の奴らは酷い」と感じる。
 いちいち鏑矢で開戦の合図を敵に送り、一騎打ちの戦いを挑んだ日本の武士を「おマヌケ」とは思わないのである。
 しかしその同じ日本人が、義経のルール無視の汚い戦を知略と称え、それに敗れた平氏をおマヌケだと笑うのである。

 同じように正々堂々の戦をしても。
 平氏はマヌケで、義経は知略ある英雄。
 しかし元軍を迎え撃った日本の武士は立派で、元軍は酷い奴ら。
 これぞまさに、ダブル・スタンダードというやつであろう。
 義経の汚い戦を知略と褒め称え、正々堂々と戦おうとした平氏をおマヌケと言うのなら。
 元寇で正々堂々と元軍を迎え撃とうとした日本の武士たちをも、同じようにおマヌケと笑ってやらねば不公平だし矛盾している。

 不思議なものだ。
 屋島の戦では民家を焼き払って大松明と言い、壇ノ浦の戦では当時は非戦闘員とされていた軍船の水夫を射殺させた。
 その庶民に多大な迷惑をかけた義経が、当の庶民たちに悲劇の英雄と愛され、それを殺した頼朝は「弟殺しの酷い奴」と憎まれている
 大企業を優遇しつつ国民には痛みに耐えよと求めた小泉政権や、国民の自由や権利を制限して義務を押しつけたくてたまらない安倍政権が庶民に支持されている点を見ても、筆者には「今も昔も、日本の庶民はマゾばかりなのではないか」と思えてならない。

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コメント


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R2 | URL | 2017-08-12(Sat)15:16 [編集]


お邪魔します

はじめまして
連投になってしまいますがご容赦を(汗)

義経の危うい部分を見ず英雄に仕立てるのは問題ですね。

例えば鵯越の逆落としも騎馬武者に坂を駆け降りろと命じますが仮に前方がこけたりしたら後方も巻き込まれて大多数の武者が死にます。
嵐の中を船で出撃するのもそう。
他にも民間人を犠牲を強いる作戦を強行しりと配下や庶民の生命を省みない。
頼朝の指示に反したらそれこそ謀反の疑いだってかかってしまう。

こういうのってブラック企業の経営者をメディアが新しいビジネスリーダーだともてはやすのと似てますね。

R2 | URL | 2017-08-12(Sat)15:24 [編集]


Re: お邪魔します

> 義経の危うい部分を見ず英雄に仕立てるのは問題ですね。
>
> 民間人を犠牲を強いる作戦を強行しりと配下や庶民の生命を省みない。
>
> こういうのってブラック企業の経営者をメディアが新しいビジネスリーダーだともてはやすのと似てますね。

 コメント有難うございます。
 幼い頃から伝記や伝説等で義経の英雄譚を聞かされて育った人が多いせいか、日本人には義経びいきがとても多くて閉口します。
 頼朝が冷たい政治家タイプの人間である事も事実ですが、それ以上に義経は愚かで戦法も汚いです。
 なのにそれをわかってくれる人が、とても少ないです。
 それだけにR2様のような方がいて下さることが、とても嬉しかったです!

黒沢一樹 | URL | 2017-08-16(Wed)01:19 [編集]


義経は無条件で英雄とは思わない。
ただ功績は大きい。
色々とおかしな部分あるけど・・一夫多妻が当然の世ならいきなり現れた兄弟をどう思うか、これを現代基準で論じるのは愚・・義経が官位を受けた時の感情を決め付けてるのも愚・・等々

あなたが義経を英雄視してる人たちを愚扱いしてるから、あえて愚を使います。

「朝廷と貴族が支配する古代から、武士が支配する中世に移り変わるのは時代の必然」
これ卑怯ですよね。
戦のルールを破った義経は非難して自分の都合いい事は「世の流れ」はダメでしょ。
基本的に全て自分の都合良き例を挙げてるだけですよね。
そもそも戦争に限らずルール?は移り変わってる。
新しいことをした者を卑怯扱いは・・それをただ英雄も違うと思いますが。

義経、龍馬、野口など可笑しな過大評価は反対です。それに反する物は好きです。
ただあなたの文は「義経サイコ~~~」と同じだと思います。

きょうた | URL | 2017-11-04(Sat)22:06 [編集]


Re: タイトルなし

> あなたが義経を英雄視してる人たちを愚扱いしてるから、あえて愚を使います。
>
> 「朝廷と貴族が支配する古代から、武士が支配する中世に移り変わるのは時代の必然」
> これ卑怯ですよね。
> 戦のルールを破った義経は非難して自分の都合いい事は「世の流れ」はダメでしょ。
> 基本的に全て自分の都合良き例を挙げてるだけですよね。
> そもそも戦争に限らずルール?は移り変わってる。
> 新しいことをした者を卑怯扱いは・・それをただ英雄も違うと思いますが。
>
> 義経、龍馬、野口など可笑しな過大評価は反対です。それに反する物は好きです。
> ただあなたの文は「義経サイコ~~~」と同じだと思います。

 きょうた様、コメントありがとうございます。
 きょうた様のおっしゃる事も、ごもっともです。

 ただ義経の戦法は、当時の常識を破り過ぎていたと思うのです。
 それが天才とも言われる所以でもありましょうが……。

 この源平の動乱の約百年後 元寇があるわけですが。
 その際、日本側は日本の戦の常識通りに開戦の合図の鏑矢を放ち、名乗りを上げて一対一の戦を挑みました。
 そして元軍はそれをゲラゲラ笑い、集団で襲い掛かって日本の武士を殺したそうです。
 で、それについて日本人が、「何と情を知らない、野蛮人どもめ」と憤るのです。

 つまり日本は源平の争乱の約百年後もまだ、ルールに則った宣戦をして名乗りを上げてからの正々堂々の一対一の戦を守っていたのです。
 それを考えると、義経の戦法はあまりにも……。
 義経を先駆者としてその戦法を真似る者は、その後の日本には居ませんでした。
 少なくとも元寇で元軍と戦うまでは、昔のルール通りに戦っていました。
 日本の戦を変えたのは、義経ではなく元寇でしょうね。

 で、戦で同じルール破りを元軍がすると「野蛮で酷い」と言い、義経がすると「戦の天才!」と褒め称えて平氏を時代遅れの間抜け扱いするのは、ちょっと判官びいき、義経ひいきが過ぎるのでは……と思ってしまうのです。
 きょうた様がでなく、日本の一般の人達が。
 それでつい、日本の判官びいきに対する反感から、判官びいきを強く叩き過ぎてしまいました。

黒沢一樹 | URL | 2017-11-08(Wed)02:09 [編集]