空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

難民や移民の安易な受け入れに反対する

 こんな話がある。
 裕福と言う程では無いもののある程度収入のある家庭の専業主婦が、突如ボランティアに目覚めてしまった。そして市内のボランティア組織に加わり、その活動に熱を上げるあまり、家事をおろそかにするようになってしまった。
 土日も活動に出掛けるばかりか、平日も遅くまでボランティア活動をし、毎日の仕事に疲れて帰って来る夫に食事も作らない有り様だ。それで夫は、妻がボランティア活動の帰りに買って来たコンビニ弁当を食べるしか無かった。
 で、夫は当然それに文句を言う。
 すると妻は「世の中には困っている人達が大勢いるの! 恵まれていて余裕のある私達が助けなくてどうするの!!」と逆ギレして食ってかかった。
 そして妻はボランティア活動に更に熱を上げ、夫が稼いだ給料もその活動費に流用するようになった。それを咎めた夫に、妻はまた例の「世の中には困っている人達が──」と言い返して喧嘩になり、とうとうこの夫婦は離婚に至ってしまったという。

 世の中には、理想と現実というものがある。
 困っている人を助けるのは、確かに正しい事だ。
 しかしそれにも限度と常識というものがある。
 ボランティア活動は大いに結構。しかしそれは家事をこなした後の余った時間でやり、活動費の寄付も自分の小遣いの範囲内でというのが当たり前ではないだろうか。
 どうしてももっと寄付をしたければ、パートでもして自分で稼いだ金を出すのが当然で、夫が家計の為に稼いだ金を勝手に寄付するのは間違っていると筆者は思う。

「困っている人達を助ける」という理想や理念は正しいし立派だ。
 だが助ける方にも「できる限度」というものがある。
 その自分のキャパシティーを越えて理念や理想だけで突っ走ってしまうと、後で痛い目を見ることになる。

 シリアとイラクでISが暴虐の限りを尽くし、それで多くの難民がヨーロッパに逃れている。
 戦場になっているシリアの人達だけでなく、それに便乗するようにアフガニスタンやパキスタンやアフリカなどの経済難民まで押し寄せているから、ヨーロッパの各国政府は対応に大わらわだ。

 人道主義の見地から、ヨーロッパの、特に西ヨーロッパの各国は多数の難民を受け入れている。
 で、「日本も難民を受け入れるべきだ」とも言われているが、貴方はどう思うだろうか。
 心優しい人達は、当然「気の毒だし助けてあげたい」と思うだろう。
 しかし心優しくない筆者は、「西欧のように何万人単位の難民を日本に受け入れるのは、現実的に難しい」と考えてしまうのだ。

 先日、Eテレで『独裁者の部屋』という、スウェーデン制作のドキュメンタリー番組が放送された。
 スウェーデンの八人の若者(男女四人ずつ)が、スウェーデン国内のある場所に隔離され、独裁政治の国を思わせる生活をさせられ、その生活が皆にどのような影響を与えるかを検証した番組だ。

 スウェーデンは、第二次大戦後に多数の移民を受け入れてきた。八百数十万の国民のうち、十数パーセントが移民だという。
 で、その番組に参加した八人のスウェーデンの若者のうち、一人はアフリカ系の黒人で、あと一人がイラン系だった。
 そしてその番組の中でも移民や難民の問題が、若者達の間で論争になった。

 その中でイランから逃れてきた若者が、実感を込めて力説するのだ。「もし国に留まっていたら、間違いなく殺されていた。受け入れてくれる国があって、どれだけ嬉しかったか」と。
 そして移民や難民に偏見を持っているように見える白人のスウェーデン人にこう言う。
「もし君が同じような目に遭って国から逃れなければならなくなった時、受け入れてくれる国が無かったらどうする?」

 確かに自身も難民で、命をかけて逃げてきた者の言葉は説得力がある。
 反アベ政治を公言している筆者も、もし日本が稲田朋美のような政治家が支配する独裁国家になり、政治犯として追われるようになった時、難民として受け入れてくれる国が無かったら本当に困ると思う。
 それに一部の人が本気で懸念しているように、北朝鮮や中国が攻め込んで来る可能性も否定は出来ないし、その時には多くの日本人が難民として他国に逃れなければならなくなるかも知れない。
 それはわかっている。
 それでもなお、筆者は難民の安易な受け入れには賛成できない。

 何故なら国や民族には、長い歴史と固有の文化があるからだ。
 そしてその国の文化や道徳観や生活習慣には、宗教が深くかかわっているからだ。
 キリスト教の国は、文化や習慣だけでなく法律もキリスト教の精神に基づいており、イスラム教の国も当然文化も習慣も法律もイスラム教に基づいている。
 だから異教徒の難民の大量の流入は、受け入れた国に大きな混乱をもたらす

 日本の場合は仏教も神道も多神教だから、他の神や宗教の存在も受け入れる事ができる。
 だがキリスト教やイスラム教などの一神教の信者達の感性は、我々日本人とはまるで違うのだ。
 熱心なキリスト教徒にとってキリストの他に神は無く、他の神はすべて偽物の邪神で異教徒は悪魔である。だから十字軍の兵士や中南米を征服したピサロやコルテスは現地の異教徒を虐殺した。
 そしてまたISやイスラム過激派も、異教徒と見なした者に残虐な仕打ちをしている。
 それは極端な例としても、一神教の熱心な教徒は異教徒を不信心者として排除し、己の宗教の戒律を固く守っている。

 さて、そのような一神教の信者が、他の一神教の国に難民として逃れた時、その国の文化や習慣を受け入れて馴染もうとするだろうか。
 答えは否である。
 西欧に難民として移り住んだイスラム教徒は、相変わらずイスラム教の文化と生活習慣を守って暮らしている。

 もし日本が西欧のように、何万単位の難民を受け入れたとしたら。
 まず間違いなく彼らは特定の地域に集まって住み、イスラム教の教えだけでなくその文化と習慣を守り続けて暮らすだろう。そして彼らは、政府にイスラム教徒の権利を強く求めるだろう。
 難民は気の毒だし、彼らを助けるのは良い事だ。
 しかし日本国内に何万単位のイスラム教徒を受け入れ、イスラム・タウンの存在を認め、イスラムの文化と習慣を受け入れる覚悟が我々にあるだろうか

 西欧はその覚悟なく、人道主義の理念で大量の難民(主にイスラム教徒)を受け入れてしまった。
 だから現在その移民と元の国民の間で摩擦が起き、多くの国で難民や移民の排除を主張する右派政党が勢力を伸ばしている。

 先に話した『独裁者の部屋』で、イランからスウェーデンに逃れた若者が、難民に偏見を持つ者に「もし君が国から逃れなければならなくなった時、受け入れてくれる国が無かったらどうする?」と言ったが。
 確かにそれには一理ある。
 しかしその受け入れてくれた国というのが、自分と宗教も生活習慣も価値観も違っていたとしたら。
 その国の文化や生活習慣も無視し、己の文化と生活習慣を貫いて暮らす権利はあるのだろうか。
 少なくとも筆者は、移民したらその国の文化や生活習慣を尊重して暮らすべきだと考える。
 信仰を捨てろとまでは言わない。しかし自分を受け入れてくれた異国に対する感謝の念があるのなら、移民(難民)は少なくともその国の言語を必死に学び、その国の文化と慣習に馴染み、その国の人達に同化して生活すべきではあるまいか。

 さて西欧に逃げた難民たちは、自分を受け入れてくれた国に感謝し、その国の言語を必死に学び、その国の文化と慣習に馴染み、その国の人達に同化しようと努力しているだろうか。
 そうではない者達がいるから、西欧で移民や難民の排斥を主張する極右政党が支持を伸ばしているのではないか。
 実際、ドイツでは難民らがドイツの多くの女性たちを強姦して金品も略奪する事件が起きている。
 そこまで行かなくても、食料などの配給でも大の男達が当然のように先に物を貰おうとし、子供や女性優先が常識の西欧の人達の顰蹙を買ったという話も聞いた。

 パキスタンもまたイスラム教の国で、ノーベル平和賞を受賞したあのマララ・ユスフザイさんの国でもある。
 6月3日の毎日新聞によると、そのパキスタンでイスラム法学者らで作る政府機関イスラム・イデオロギー評議会が、妻を軽く殴る権利を夫に認める法案を提言したという。
 それによると、「妻が夫の望まない服装をする」、「宗教的理由以外で性交渉を拒否する」、「見知らぬ人と話したり、大声で話したりする」などの場合には、夫は妻を軽く殴ることができるのだそうだ。
 別にISやアルカイダなどの、イスラム過激派の話ではない。パキスタンの、しかも政府機関でイスラム法学者によりこのような法案が提言されたのだ。
 このような価値観を持つ人達が何万人単位で日本に難民として押し寄せて来たとしたら、貴方は喜んで隣人として迎え入れることが出来るだろうか。

 イスラム教徒の難民が日本にやって来たら、日本も夫が妻を合法的に殴れるような社会になってしまう……とまでは思わないが。
 しかし難民が定住し、そして国籍を取れば選挙権を持つ事になる。そしてその数が何万、あるいは何十万となれば、当然イスラム教が日本の国政や地方政治に無視できない影響力を持つようになる。
 すると日本は、ある程度イスラム化する事は避けられないだろう。

 アメリカでは、暴言で話題になっているトランプ氏が共和党の大統領選の候補者になった。
 筆者はトランプ氏のような煽動者は嫌いだが。
 しかしメキシコ系の移民に反発する、トランプ氏の支持者の気持ちもわかる。
 メキシコ国境に近いアメリカのある町では、メキシコ系の移民が住民の多数を占め、もちろん町長もメキシコ系だ。
 で、その町長は、町の公用語をスペイン語にしてしまったのである。
 何しろ民主主義の基本は、多数決だから。そこの住人の大半がメキシコ人になれば、公用語まで英語で無くなってしまう事まで現実にあり得るのだ。
 アメリカなのに、その町の公用語がスペイン語で英語を学ばない。こんな現実に腹を立て、「メキシコとの国境に長城を建てる」と言い放つトランプ氏を支持する人がいるのも仕方がなかろう。

 事実日本の静岡県浜松市でも、市内に多く住む日系ブラジル人の子弟の為に、ボルトガル語の教育を公費でしようという動きがある。
 だからもしイスラム系の難民が日本にやって来て、ある町に多く集まったとしたら、「自治体の首長と多くの議員はイスラム教徒で、公用語はアラビア語でイスラムの戒律が条例に盛り込まれる」という事になる可能性も否定できない
 移民や難民の受け入れに賛成している人達は、そこまで考えているのだろうか。

 命からがら逃げてきた難民の受け入れは、人道的に見れば確かに正しい。
 しかし民族だけでなく、宗教も生活慣習も価値観も違う難民や移民の大量受け入れは、その国の文化と伝統を間違いなく揺るがすことになる現実からも、決して目を背けてはならない。
 そこから目を背け、人道主義の理念で突っ走ってしまった結果が、今の西欧の難民問題による混乱と、難民排斥を主張する極右政党への支持の高まりだ。

 文化の異なる国から難民を受け入れるには、それなりの準備も必要だし、受け入れることのできる数にも限度がある。
 その現実より人道主義の理念の方が大切で、「可哀想な難民を受け入れろ!」と言う人達は、その結果自国の文化や伝統の変容をも受け入れる覚悟はあるのだろうか。

 今の日本は少子化が進んでいて、それに対し労働力不足を懸念する一部の経済人が「日本は移民の受け入れが必要だ」と主張しているが、筆者はこれまで述べてきたのと同じ理由で、少子化対策としての経済移民の受け入れにも反対する。
 安易な移民や難民の受け入れで、日本を日本語がろくに通じず、古くからの伝統と慣習を失ったどこの国だかわからない場所にしてしまう事を、筆者はとても恐れる。
 その国の言葉を学び、文化と習慣を受け入れるつもりの無い難民や移民は排斥されても仕方あるまい、と筆者は考える。
 難民や移民としてその国で暮らしたいなら、その国に積極的に同化する姿勢が当人に不可欠である。

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