空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

感動を「与える」と言う傲慢

 オリンピックと高校野球が重なったせいで、日本中がスポーツ一色になっている。
 テレビもラジオも新聞も、何もかもすべてスポーツ、スポーツ、スポーツだ。

 それはまあいい。
 だが筆者が気になってならないのは、少なからぬスポーツ選手の、感動(あるいは勇気や夢や元気など)を「与えたい」という発言だ。

「感動を与える」
 こうした言い方がされるようになったのは近年の事で、以前はこんな発言はされなかった筈だ。
 筆者の記憶では、感動(勇気や夢や元気)を「与える」と言われるようになる前に、まず感動等を「貰った」という人達がいた。
 それで「感動等が貰えるものなら、与える事も出来るのでは」という“誤解”から、「感動を与える」などと言うスポーツ選手が現れたように思う。

 だが断言するが、感動(勇気・夢・元気など)を「与える」と言うのは、ただ間違っているだけでなく大変に失礼極まりない言い方なのだ。
 例えば広辞苑にも、与えるの意味としてまず真っ先にこう書かれている。
自分の物を目下の相手にやる
 そしてその用例として、「知識を与える」などがあげられている。
 あと、「影響・効果などを相手にこうむらせる」、「特別の配慮を相手にほどこす」などという意味もあるが、どちらにしろ「与える」は主に目上の者が使う言葉である事は間違いない。
 ちなみに「こうむる」は「目上や強力なものなどの動作を受ける」という意で、「ほどこす」は「恵みを広く与える」という意である。

 例えば「親にプレゼントを与える」と言うだろうか。
 友達や恋人にも、何かを「与える」という言い方をするだろうか。
「与える」という言い方は、目上はもちろん対等の相手にすらしない
「与える」という言葉を使えるのは、目下に対してのみである。

 だから感動等を「与えたい」と何のためらいも無く口にできるスポーツ選手は、自分を上位に置き、観客や国民を目下扱いしているのだ。
 少なくとも筆者はスポーツ選手が「感動(元気や夢や勇気)を与えたい」と発言するのを聞く度に、「上から目線で失礼な奴だ、何様だよ!」と腹が立ってならない。

 例えば作家や画家などが「自分の作品で感動を与えたい」と言うのを聞いた事があるだろうか。
 寡聞にして筆者は、文筆を生業とする人がマスメディアで「感動(勇気・夢・元気など)を与えたい」と言うのを聞いた事が無い。
 なのに少なからぬスポーツ選手は何故、観客に対し無礼とも思わずに上から目線で感動等を「与えたい」などと発言できるのだろうか。
 その神経が、筆者には理解できない。

 無論、スポーツ選手の中にも知的で謙虚な方が居て、そういう選手は「感動をお届けしたい」などと言っている。
 しかしそういう言葉に配慮のあるスポーツ選手は明らかに少数で、多くの選手がごく当たり前のように感動等を「与えたい」と平気で言っている。
 その無神経と傲慢さが、筆者の癇にひどく障る。

 宮野ともちか氏の『リカ』というコミックスがある。
 ヒロインのリカは中学一年生の美少女で、同じ学級委員の島村くんとは、彼を“島むー”などと呼ぶくらい気安い関係にある。
 しかしブラコン気味のリカの関心は実の兄の方に向いていて、島村くんに対して恋愛感情は全く無い。
 で、同級生の清水さんという女子は、その島村くんに恋してる。
 そのリカのクラスで調理実習があってマドレーヌを作るのだが、変なオリジナリティーを加えようとした他の女子が失敗する中、リカはキッチリ作って成功させる。
 その自作のマドレーヌを試食して、リカは大いに満足する。
「うん、おいしい、おいしい。これは良い出来だわ。日頃お世話になっている人にお裾分けせねば」
 そしてまずこう言う。
「お父さんはいつもお仕事頑張ってるから、出来の良いのから選んで5コ」
 続いてこう言う。
「お兄ちゃんは部活で頑張ってるから、まあまあの出来のを4コ」
 さらに最後にこう言うのだ。
「残りの出来損ないの形の悪いやつは、しょーがないから学級委員でいつも一緒の島むーにでも、与えてみよう」
 それを傍で聞いていた、島むーこと島村くんを好きな清水さんがプチッとキレてしまうのだ。
「はあ!? バッカじゃねーの!? テメーで食ってろ、そんなもん! 調子に乗んな、このバカ」

 この『リカ』のマドレーヌの件で清水さんがキレて怒ってしまうくらい、「与える」というのは目下相手にしか使えない失礼な言葉なのだ。
 だからスポーツ選手が応援してくれる人達に対し、何故「感動を与える」などと平気で言えるのか、その神経が少なくとも筆者には理解できない。

 感動や勇気や夢や元気などを「与える」と平気で言うスポーツ選手達に対し、「スポーツを専門に生きている人たちだから、言葉の使い方を知らないんだよ、細かいことを言ってあんまり責めちゃ可哀想だ」と片づけるのは簡単だ。
 しかし少なくとも数年以上前までは、どのスポーツ選手も「感動(勇気・夢・元気など)を与える」とは言わなかった筈だ。
 それが何故最近、感動や勇気や夢や元気などを「与える」と言うスポーツ選手が増えてしまったのか。
 その事が不思議で、かつ腹立たしくてならない。

 日本のスポーツ選手の世界は、礼儀や上下関係に厳しい筈なのだが。
 なのにいつ、「選手が目上で観客より偉い存在」になってしまったのだろうか。
 そして平気で感動等を「与える」と言うスポーツ選手の存在も問題だが、それに対し「はあ!? バッカじゃねーの!? 調子に乗んな」と怒らない国民も知的レベルが低下し、感性が鈍麻しているのではないかと危惧する。

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コメント


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単純に。

アナウンサーの基本である日本語として
「非常識な使い方」ですよね。単純に。

個人的な この件に関する考え方は
日本語に対する単なる無知です。

「感動を与える」という日本語が
用法として非常識である、という
書籍は山ほどあります。

しかし、現状 無知な方というのは
そもそも書籍を読まないからこそ
無知なのであって。

解決策になっていないのが、
悩ましいところです。

黒澤氏の記事を見て憤慨してくれれば
まだ補正の機会はあるのですが。(笑)

ogotch | URL | 2016-08-14(Sun)02:16 [編集]


Re: 単純に。

> アナウンサーの基本である日本語として
> 「非常識な使い方」ですよね。単純に。
>
> 個人的な この件に関する考え方は
> 日本語に対する単なる無知です。
>
> 「感動を与える」という日本語が
> 用法として非常識である、という
> 書籍は山ほどあります。
>
> しかし、現状 無知な方というのは
> そもそも書籍を読まないからこそ
> 無知なのであって。
>
> 解決策になっていないのが、
> 悩ましいところです。

 言葉の用法について文句を言うと、「言葉は時代によって変わって行くものだから、目くじらを立てるのは間違っている」と言う方が必ず居ます。
 そして「時代の流れで、間違った用法も皆が使えば正しい用法になるのだ」と。
「感動を与える」も、いつの間にか正しい用法になってしまうのでしょうか。
 私はそれでも、「感動を与える」とは絶対に言いたくありません。
 ちなみに私は、「ら抜き言葉」も嫌いなんです。
 ……細かい事にこだわる、嫌な人間ですね、私は。


黒沢一樹 | URL | 2016-08-18(Thu)14:48 [編集]