空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

客商売は難しい(店を立派にして評判を落としたS屋のこと)

 ブロ友、と言っては相手の方に失礼かも知れないが、このブログによくコメントを下さるある方に、筆者のお勧めの店はあるかと尋ねられた。
 その時、真っ先に思い浮かんだのはS屋の事であった。

 S屋は主に鮮魚を出す食堂で、筆者はそこに職場の先輩に連れて行かれた。
 そのS屋には、本当にいろいろ驚かされた。
 まず外観が非常にボロいのである。
 いかにも場末の大衆食堂という感じで、ドアも自動どころかサッシですらなく、木製の軋む古ぼけた引き戸だった。
 中も薄暗く、テーブルも極めて安っぽく、椅子はビニールの背当てと腰を下ろす部分が付いている金属パイプ製だった。
 そしてその薄暗い店の中で、地元の馴染み客らしい人が数人、ただひたすら飯を食っていた。

 トンデモナイ店に連れて来られてしまった。
 筆者はそう思って、渋い顔になりかけるのをようやく堪えた。
 ところが出された食事を見て、筆者はまた驚いてしまった。
 鮮魚中心の沢山の料理が出され、しかもまたそれが文句無しに美味いのである。
 さらに値段も安く、お腹いっぱい食べて千円札でお釣りが返ってきた。

 後で知った事だが、そのS屋は美味くて安い店という事で地元の人は誰もが知っていて、食通の人は地元民でなくてもS屋の名を知っていた。
 店はボロだし内装にもお金はかけないが、味ならば付近のどこの店にも引けを取らず、美味しい料理を安い値段で地元のお得意さんに提供する。
 S屋とは、そういう店だった。

 そのS屋は仕出しの注文も受けていた他、小さな宴会場もあった。
 で、父の七回忌の法事をしなければならなかった筆者は、「ひとつ親戚連中も驚かせてやれ」と思い、法事の後の食事をそのS屋で行うことにした。
 S屋に予約に行き話を聞くと、宴会は一人二千円から四千円でやっていると言う。
 そこで筆者は、S屋のおかみさんにこう頼んだ。
「一人五千円で、出来るだけ料理を出してほしい」
 値切るのではなくより高くと頼んだのだ、おかみさんも即座に承知してくれた。

 さて、法要が終わってS屋に親戚一同を連れて行くと、皆の表情が渋いものになるのが筆者にもはっきりとわかった。
 何しろ筆者は、伯父伯母ら親戚に昔から「出来損ないの子」と言われてきた。
 それだけに、血の繋がりのない義理の伯父伯母たちだけでなく、普段は筆者に優しくしてくれていた血縁のある伯父や伯母たちまで不安げな顔になってきた。
 店の外観を見て、「カネをケチって、場末の大衆食堂でどんなヒドいものを食わせる気か。この非常識なヤツめ」と思っているのがありありとわかる。
 通された宴会場もまた薄暗く、掃除はきちんとされているものの、部屋はボロだし畳も所々擦り切れている。
 やれやれ、と席についた親戚たちの目が、運ばれてきた料理を見て驚きに変わった。
 様々な大皿や鉢に、海鮮料理を中心とした料理が次々に運ばれて来て、食卓に隙間なくぎっしりと並んだのだ。
 S屋が安くて量も多いのを知っていた上で、「宴会は二千円から四千円」と言われたのをあえて五千円で頼んだ筆者だったが、これほど品数多くかつ豪華な食事になるとは思っていなかった。
 筆者でさえそうだったのだから、知らずに連れて来られた親戚たちは目を丸くし、そして夢中で料理を食べ始めた。

 そのS屋での食事は筆者の親戚たちにも本当に驚かれ、後々まで「あそこの食事は美味しかった」と言われた。
 店の外観や内装には殆どお金をかけず、「とにかく美味しい料理をお客に安く提供しよう」というS屋の姿勢には、筆者も心から共感を抱いた。

 ただ残念ながら程なく筆者は転勤になってしまい、S屋の地元から少し離れた職場に行く事になってしまった。そしてその新しい職場がなかなか忙しく、S屋に行く機会は少なくなってしまった。
 そしてそれから数年も経たないうちに、S屋は改装され新しくなった。
 その新しいS屋は和風レストランのような立派な店構えで、ただの空き地も同然だった駐車場も、コンクリートで舗装された広いものに変わった。

 改装するのに、銀行などから多額の融資でも受けたのだろうか。
 同じ店とは思えないほど立派になった新しいS屋の評判は、決して芳しくなかった。
 不味いというわけではないが、味が落ちたとそれまでのS屋のファンは口々に言った。
 お値段もそれなりになり、本当に普通の海鮮料理屋になってしまった。

 それまでのS屋はいかにも場末の小汚い大衆食堂といった雰囲気で、知らない人は入るのに二の足を踏むような雰囲気があった。しかし地元の人と食通はみな知っていて、固定客がしっかりついていた。
 一方、小綺麗な和風レストランのようになったS屋は、街道を通る一見の旅行客も気軽に入れるような雰囲気になったものの、「料理にすべてをかけていて、とにかく安くて美味い」という取り柄を無くしてしまった。
 だからそれまでの常連さんは、次々にS屋から離れていった。

 S屋は店を新しくして味を落としたと、知る人は皆そう言っていた。
 しかしもしかしたら、新しいS屋の料理の味はそれほど落ちていなかったのかも知れない。
 かつてのS屋は、本当にボロで小汚かった。
 だからこそ、出されるボリュームたっぷりで美味しい(しかも安い)料理に対する驚きが大きかった。
 だが新しい小綺麗なS屋には、その店の見かけと出される料理に対するサプライズが無い。
 ボロな店で安くて美味しい料理を出されれば良い意味で予想を裏切られた驚きが大きいが、小綺麗な店でお値段相応の美味しい料理を出されても「普通にウマいね」で終わる。
 そういう意味で、小綺麗かつ大きな店になったS屋は「味が落ちた」と言われたのかも知れない。

 また、かつてのS屋は「地元民と通だけが知っている隠れた名店」だったが、新しいS屋は街道沿いに目立つ看板も掲げた入りやすい大きな店になってしまい、通うにしても「オレだけが知っている穴場」のような優越感を持てなくなってしまった。

 店の外見や内装はボロのままほぼ放置して、料理の味だけにかけていたかつてのS屋は、地元民と味を知る人達に愛されてきた。
 間違いなく安めだった価格設定から見ても、S屋は儲けよりお客の満足を第一に考えて営業していたと思う。そしてその結果として口コミで名が知られ、店に来るお客が増えて黒字経営が続いた。
 それで店を新しく大きく綺麗にし、目立つ看板も掲げたら「味が落ちた」と言われ、以前からの客たちが離れてしまった。
 商売とは本当に難しいものだと、S屋のことを思い出してつくづくと思った。

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旅人には小さな親切を!

 今、プロ野球ではカープが絶好調で、リーグ優勝も手中にした。
 実は筆者は、幼い頃はカープも広島も大嫌いだった。

 今のカープを応援しているカープ女子達のような、若い世代の人達は知るまいが。
 昔のカープのファンは実に凶悪で乱暴だった。
 昔のカープファンすべてがそうだとは言わないが、少なからぬカープファンが行き過ぎた「贔屓の引き倒し」の乱暴狼藉を働いていた。

 ホームの広島球場でカープが試合に負けると、ただ相手チームの選手に酷い罵声を飛ばすだけではない。時には大勢のカープファンが観客席から球場になだれ込み、引き上げて行く相手チームの選手達に集団で襲いかかるような真似もした。
 大勢の暴徒に襲われたのだから、たまらない。身の危険を感じた相手チームのある選手が、持っていたバットを振り回して自分とチームメイトを守った。
 すると集団で襲ったカープファンでなく、バットを振り回して身を守った相手チームの選手の方が暴行の容疑で警察(広島県警)の取り調べを受ける結果になった。
 その光景をテレビで見ていた筆者は、カープとそれを応援する広島県民が大嫌いになった。

 何しろ当時の筆者は、まだ小学生だった。
 負けると暴れて騒ぎ、時には相手チームの選手に襲いかかったりする広島球場のカープファン達の姿は、幼かった筆者の心に「広島の人=凶暴な野蛮人」という印象を焼き付けるのに充分だった。
 そしてそんな広島の人が住む広島県も、さぞかし人の心が荒れた嫌な土地だろうと思い込んでいた。

 話は少し逸れるが、筆者は高校生の頃からずっと写真を趣味にしている。
 で、若くまだ元気な頃には、カメラを持ってあちこちに旅に出かけていた。
 筆者が撮影旅行に行く時には、たいてい車で出かける。旅の荷物に加えて複数台の一眼レフカメラや交換レンズ等を持って公共交通機関で移動するのは、とても大変な事だからだ。
 そして筆者は車の運転を苦にしないというより、むしろ好きな方である。
 だから撮影旅行には車に好きなだけの撮影機材と荷物を積んで出かけ、気が向くままにあちこちを移動して回った。

 ただ写真というのは存外お金のかかる趣味で、カメラや交換レンズその他の機材にかなりの出費を強いられる。
 しかも筆者はクラシック・カメラという特にたちの悪いものにもとりつかれていて、冷静に見れば実用性の薄い古いカメラにもかなりのお金をつぎ込んでいた。
 そんな具合で、自由にできるお金の大半は写真に費やしている有り様だったから。車など「動けば充分」と、いつも古いポンコツの車にばかり乗っていた。

 中古車屋で安く売られている、古い車は財布に優しいですゾ。10~30万円くらいの車を最初にキャッシュで一括払いしてしまえば、後は毎月のローンを支払う必要がないのだから。
 で、廃車にするしかない状態になるまで、徹底的に乗り潰すというわけ。
 ただそうした古い車は、たまに故障する。
 そしてそれが旅行して遠出した最中だったりすると、かなり痛い目に遭う。

 実は電装系のトラブルで、撮影旅行に出掛けた中国山地の田舎で車の調子が悪くなってしまった事があった。
 しかもその場所は、凶悪なカープファンが跋扈するあの広島県内だった。
 それで恐る恐る現地(庄原市の町外れ)の自動車工場に行ったところ、その家族経営の自動車修理業の人達はとても親切だった。
 問題はヒューズのトラブルで、修理費など数百円にしかならなかったが。
 しかしその修理工場の人達は明るく親切で、車のナンバーを見て遠方から来た旅人だと見て取ると、いろいろ心配して道案内もしてくれた。
 それでずっと広島県に“鬼のようなカープファン”のイメージを重ねていた筆者は、コロッと印象を変えてしまった。
「広島の人って、良い人じゃん」

 旅を続けて次に出会った広島県の人も、少しおせっかいなまでに親切な良い人だった。
 だからそのせいで筆者の広島県に対する偏見はすっかり無くなり、今ではむしろ広島県に好感を持っているくらいだ。

 ちなみにカープファンが凶悪で乱暴だったのは、まだカープが弱くていつも5位か最下位を低迷していた頃の話だ。
 一度優勝して普通に強いチームになってからは、ファンにも心のゆとりが出来てきたのか、カープファンもすっかり良識的になり大人しくなった。

 だが「贔屓の引き倒し」という言葉がある通り、好きなチームに過度の愛着を持って行き過ぎた応援をするのは自制した方がいい。
 例えば試合の結果に腹を立て、相手チームに罵声を浴びせかけたり、相手チームのファンや選手に暴力を振るったりすると、本当にそのチームとホームタウンのイメージが悪くなるから。
 筆者も幼い頃に凶暴な一部のカープファンの姿を見たばかりに、「広島県民=凶暴」というイメージを抱いてしまった。そして実際に広島を旅して現地の広島の人達と触れ合うまで、その偏見が消える事は無かった。
 特に本拠地の名をチーム名に付けている場合、一部のファンが粗暴でマナーの悪い行動に走ると、「あそこの人間は民度が低い」と思われかねない。そしてその偏見を解くのは、容易な事ではないのだ。

 旅先でのトラブルと言えば、筆者は金沢に撮影旅行に出掛けた時にも車の故障で痛い目に遭った。
 真夏に車がオーバーヒートしてしまって、路肩に車を停めてボンネットを開けてみると、冷却水が殆ど無くなってしまっていた。
 すると車を停めた近くの家のお兄さんが出て来て、一緒に原因を考え、わざわざ家のホースを伸ばしてラジエーターに水を入れてくれるなどして面倒を見てくれた。
 だが水を入れてもそのまま漏れるばかりで、結局JAFに救援を頼んだのだが。
 そのJAFの隊員も、ただ車を修理工場に運んでくれただけでなく、移動する足が必要な筆者をレンタカー会社まで連れて行ってくれた。
 そして修理工場の親父さんも、難しい顔をしつつ、筆者の旅のスケジュールに合わせてその日の夕方までに冷却水の水漏れを大急ぎで修理してくれた。

 その話を金沢在住の友人に話して、「金沢の人はみんな親切で良い人だった」と言ったところ、その金沢の友人は苦笑いしてこう答えた。
「金沢の人は見栄っ張りだから、よそから来た人には違うのよ」
 だとしても、他県から来た見ず知らずの旅行者に、金沢の人が親切だったのは確かだ。
 だから筆者の脳内では、「金沢の人=親切」という事になっている。

 これは車の故障には関係ないが。
 青森県に撮影旅行に行った際、ある日本料理店にフラリと立ち寄った。
 一人だったからカウンター席に座り、静かに待って出された料理を静かに食べたが、これがとても美味かった。
 それで翌日も立ち寄ってまたカウンター席で夕食をとったのだが、その際は店主が筆者の顔を覚えていて話しかけてくれた。で、八戸三社大祭の感想や青森市のねぶたとの違いから、いかに八戸市の三社大祭を日本全国に有名にさせるかまで、いろいろ楽しく語り合った。
 その店主は別れ際に、八戸から遠く離れた所まで帰る筆者の心配までしてくれたが。
 後に知ったことだが、その店主はただの店の親父ではなく、青森県日本料理技能士会の会長を務めている方だった。しかし少しも威張らず、気さくな話しやすい良い方だった。
 その日本料理店の店主だけでなく、朝市のおばさん達も商売っ気の無い人の良さを丸出しにした方ばかりで、朝早く起きて朝市を見て回るのもとても楽しかった。
 それで筆者の脳内では、「八戸の人も良い人」という事になっている。

 いや、現実の人間はそんな単純なものではない。
 どこの人も良い人と悪い人の両方がいて、筆者は広島と金沢と八戸で、ただたまたま良い人と出会っただけに過ぎない。
 その事はわかっている。
 しかし旅先で出会ったその土地の人が親切だと、「その土地の人=親切で良い人」と思い込み、その土地に好感を抱いてしまうのも人情だ。
 だからもし貴方に郷土愛(地元愛)があったら、たまたま訪れた旅人にはちょっと親切にしておいた方がいい。ただ少し愛想良く親切にしただけで、旅人は「この土地の人は親切で、この土地も良い所だ」と思い込んでくれマス。
 東京オリンピックが四年後に迫る今、「おもてなしの心」だの何だのと言われているけれど、おもてなしなどと大袈裟な事を考える必要はない。
 人として当たり前な、ただちょっとの親切。それだけで、遠くから来た旅人は充分感動してくれるものなのだ。

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こんなベンツのオーナーは嫌だ

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 私は持病があって、月に何度か通院しています。
 私の主治医は大病院から独立して個人のクリニックを開業しているのですが。
 名医と評判も高く、通院患者も多くて駐車場に空きが無い場合もしばしばあります。

 で、数少ない空いた場所を見つけて車を止めようとしたら、この有様です。
 ベンツが白線を踏んで無造作に停めてあったので、誰もその隣に駐車できなかったのですね。

 私はこういう車の止め方をする人を軽蔑します。
 他の人の事を考えて一度切り返す配慮の無い人を、心から軽蔑します。

 私だって、別にそれほど運転が上手いわけではありませんが。
 それでも駐車したら必ず確認して、停めた位置が偏っていたら切り返すくらいの配慮はしています。
 面倒かどうかは関係ありません。
 それが常識と思うからです。

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看護師さんの機嫌を損ねたら怖い入院生活

 先週は、筆者が出合った良い医師の話をした。
 それで今回は、看護師の話をしようと思う。

 日本の社会が高齢化し病気にかかる人が増えたせいか、よく『名医がいる病院』などという本や雑誌を目にする。
 しかし間違えてはならない。
 手術などを担当するのは確かに医師だ。しかし患者が入院生活をおくる病棟を支配するのは、現実には看護師たちである。
 そして男の看護師も増えてはいるものの、看護師の大半は今も女性だ。
 その看護師さんに気に入られるかどうかで、貴方の入院生活は天国にも地獄にもなる。

 先週も書いたが筆者はいろいろな病気をしてきて、入院生活も何度も体験している。
 だからこそ言おう、看護師さんが横柄で当たりのキツい病院に入院するのは辛いぞ。
 無論、手術を担当する主治医がヤブでは困る。
 しかし医師の腕と同じくらいに、入院する病院の看護師さん達が親切かどうかも大切なのだ。

 筆者は以前、腸の奥に大きな腫瘍が出来てしまい、某大学病院でその摘出手術をした事がある。
 その腫瘍が2キロ以上と大きかった上に、臓器と癒着してもいた為、地元の病院では手に負えず、他県の大学病院で手術する事になった。
 その大学病院で、五人の医師で七時間以上もかけて腫瘍を切除したのだが、予後も良くなかった。まず感染症にかかり高熱を出して寝たきりになり、さらにその為に大静脈血栓を起こしてしまい、そのせいで今も左足に障害を残している。
 で、その大学病院にも二ヶ月以上入院することになってしまった。

 その大学病院はかなり大きく、入院患者は全部で千二百人を越えていた。
 だから病棟にも大勢の看護師さんが居て、二ヶ月を越えて入院する間に多くの看護師さんのお世話になった。
 で、その中でまだ若かった筆者が真っ先に親しくなったのが、Aさんという看護師(もちろん女性)だった。Aさんは目立つほど綺麗というわけではないが、整った顔立ちでとても優しく親切で、さらに仕事もよく出来た。
 同じ病室の入院患者の、四十代以上の酸いも甘いも噛み分けたオジサンには、「Aさんが“優しい”のはさ、プロ意識からだよ。本当はキツい人だから気をつけな」と、そっと忠告されたりしたのだが。
 まだ若かった筆者はそれを右の耳から左の耳へと軽く聞き流し、例のAさんにすっかりなついてしまったのだ。

 するとなぜか数人の看護師さん(すべて女性)から、筆者は急に冷たくされるようになった。
 Aさんより年上や、または新人の看護師さん達は以前と変わらぬ態度で接してくれたのだが。Aさんと同世代の二十代半ばくらいの看護師さん達には、嫌味を言われるなどの言葉や態度での意地悪をされるようになった。
 特に手術して間もない頃に、「身の回りが汚い、だらしないわね。もっと整理整頓しなさい」と叱られたのは辛かった。

 その時、筆者は病状が良くなくて、体をろくに動かす事も出来なかった。そして他県から入院しに来ていて、未婚だから身の回りの世話をしてくれる妻もなく、親(父は既に亡くなっていて母一人だけ)も忙しく働いていたから、見舞いも月に二度か三度くらいしか来られなかった。
 そしてその事は、看護師さん達もちゃんとわかっていた筈だ。
 それだけに、「汚い、だらしない」と叱られたのは本当に悔しかった。
 出来れば言い返して怒るくらいしたかった。しかし病状が悪かった筆者には、その気力も体力も無かった。

 で、鬱屈した入院生活を送っていたのだが。
 筆者のように病状の重い患者は、毎朝採血をされたりする。そして病棟の起床時間は朝6時なのだが、仕事の都合か看護師さんは、6時前のまだ寝ているうちにやって来ては、そっと患者を揺り起こして血を採って行くのだ。

 採血されるのが好きな人は、まずいないだろうと思う。
 しかも筆者のように毎日採血されていると、その箇所の皮膚が固くなって、注射針が刺さりにくくなってくる。
 その状態であえて針を刺すわけだから、もちろん痛い。
 だから毎朝揺り起こされては採血されるのが、とても憂鬱だった。

 ただ毎朝採血されるうちに、採血の痛さが看護師さんによってかなり差があることに気付いた。
 決まった量を採る同じ採血なのに、それがとても痛い看護師さんと、あまり痛くない看護師さんが、本当に間違いなくいるのだ。
 それで気軽に離せるアラサーの看護師さんに尋ねてみたのだ、「同じ採血で、痛い看護師さんとそうでない看護師さんがいるのは何故?」と。

「ああ、それはね──」と解説してくれた、その看護師さんの答えは、実に意外で、かつ納得できるものだった。
 その看護師さんによると、採血にかかわらず注射というものは、迷わず躊躇わずにブスッと刺してスッと抜くのが一番痛くないのだそうだ。で、「痛いかな、可哀想だな、ごめんね」なんて思いながらおずおず刺すと、逆により痛くなるのだそうだ。

「なるほど!」と、心から納得したね。
 確かに仕事と割り切ってやっている男性の医師や看護師、そして大病院の採血専門で慣れきっている女性看護師の注射は上手いし痛くない。
 相手の腕を人の体でなく大根か何かのように思って、変な情を抱かずに針を刺すのが、結果的に痛くない注射や採血になるようである。

 確かに筆者が入院していた病棟でも、一番優しい看護師さんの採血は、新人でもないのにかなり痛かった。
 で、その病棟で採血が最も上手で痛くないのは、筆者をイジメてくれた看護師グループのリーダー的なBさんだった。
 Bさんというのは、筆者がなついてしまったAさんと同じ二十代半ばで、そしてまるでフランス人形のような顔立ちと雰囲気の、病棟でもピカイチの美人看護師だった。
 このBさんは筆者には意地悪だったけれど、採血は本当に上手くて殆ど痛くないのだ。
「そうか、性格が悪いからBさんの採血は痛くないのか」って、心から納得したね。

 だから筆者は、次にBさんが朝の採血に来た時に、心を込めてこう言ったのだ。
「朝の採血は憂鬱だけど、Bさんは本当に採血が上手くて痛くないから、Bさんが採血に来てくれるとすごくホッとするよ」
 ハイ、実は心の中では「オメーは鬼で冷たいから注射が上手いんだよ」と呟きながらね。
 そしたらBさん、筆者のその褒め言葉に頬を赤らめて大喜びしてくれちゃったよ。
 で、それからBさん達一部の看護師さん達からの筆者への意地悪は、ピタリと無くなったのでアリマス。

 無論Bさんの筆者への感情が変わったのは、その褒め言葉一つのせいだけでは無いのだけれどね。
 実はその少し前に、Aさんと筆者の間にちょっとした気持ちの行き違いがあって、筆者は以前ほどAさんと仲良くなくなっていたのだ。
 で、間もなくBさんを褒めたら、Bさんの筆者への感情が劇的に変わったらしいデス。

 そして筆者の体調も徐々に回復して、病棟内を不通に歩け回れるようになって。
 そんなある日、Bさんが一人で、患者を乗せたベッドを他の階に移動させようと悪戦苦闘している場面に出くわしたのだ。
 黙ってサッと手伝ってしまいマシタよ、筆者は。
 ベッドを押すのに手を貸し、エレベーターが来たら“開”のボタンを押しながら中に入れるのを手伝って……と。
 その間、Bさんは本当に気まずそうな顔をして、小声で「ありがとう、ありがとう」って言い続けていたよ。
 イジメた相手に逆に親切にされてBさんが困り切っている様子が、本当に面白かったデス。

 それ以後も、何かBさんを“手助け”できる事があればな……って思って、時々病棟内を散歩がてらBさんの姿を捜したのだけれど。
 そしたらBさん、筆者を見るときまり悪げな顔をしてササーッと逃げるようにどこかに行ってしまってさ。
 これは面白い、って思ったね。
 で、「何か親切に出来ないか捜す→気まずい顔して逃げるBさん」というのを何度か繰り返すうちに、筆者は退院の日を迎えたというわけさ。

 この「ある看護師さんと仲良くしたら、他の看護師さん達に意地悪されて……」という体験を、現役の看護師さん(若い女性)に話したら、「あー、わかるわかる」と頷いていたよ。
 今になればわかるのだけれど、Aさんって仕事は出来るし患者には優しいのだけれど、実は気が強くて、しかも裏と表で顔が違うタイプの人だったようで……。
 そんなAさんにコロッとなついてしまった若い筆者は一部の看護師さん達に睨まれて、特に病棟でも飛びきりの美女だったBさんにイジメられてしまったようデス。「あんなオンナにコロッと騙されてなつくなんてムカつく!」ってね。

 でもイジメられたり意地悪された時、「対抗して仕返しするのでなく、褒め殺しに加えて親切を返すと効果がある場合がある」って、そのBさんのおかげで学べたよ。
 想像してみてほしい。
 もし貴方が「ムカつく!」とかの八つ当たりに近い不当な理由で誰かをイジメたとして。そしてその相手に親切や褒め言葉で応じられたら、罪の意識を抱いてかなり気まずく思うのではないだろうか。

 筆者に辛く当たってくれたBさんだけど、美人でプライドが高かったにせよ、芯から悪い人では無かったのだと思う。
「気に食わないというだけで、患者をイジメた」と自覚していて、だから筆者に恨まれるのではなく褒め言葉をかけられ手助けもされ、罪の意識にかられて随分と後悔したのではないだろうか。
 イジメに親切で応じられて気まずい顔をするBさんを見るのは、とても面白かったデス。

 ただこの「イジメや意地悪に親切や褒め言葉で応じる」と言うのは、Bさんのように自分の行為を恥じるだけの良心が残っている人が相手でないと効果は無いデスけれどね。
 イジメや意地悪が快感でしかない心の底からの悪人とは、徹底的に戦うか、あるいは極力避けて逃げるしか無いよ。

 それにしても、看護師さんの世界は今もまだ女性が多いから。
 だから女の世界の難しさや面倒くささは、どの病院でも間違いなくあると思う。
 貴方が男性で入院する事があると、つい可愛い看護師さんに目が行ってしまうだろうけれど。
 だがその看護師さん達の人間関係や人柄を見極めないうちに、「ちょっと親切にされたから」と舞い上がって特定の看護師さんと仲良くなってしまうと、筆者のように辛い目に遭う事になりかねないから、ご注意を。

 何か病気や怪我で入院する場合、大事なのはやはり主治医の腕と人柄ではあるだろう。
 しかし入院患者と最も身近に接するのは、間違いなく看護師だ。
 その看護師の教育が行き届いて人柄も良ければ、気持ち良く入院生活が送れるのは間違いなしだが。もし看護師の質があまり良くなかったり、看護師と感情的に行き違う事があったりすると、想像以上に辛い目に遭う事になる。
 寝たきりで体も心も弱っている時に看護師さんに意地悪をされると、たとえ些細な事でもかなりダメージを受けるよ。

 だからもし貴方が入院を余儀なくされるような事になったら、医師の技量だけでなく、看護師の質についても事前に調べておいた方が良い。
 そして入院した後は、必要以上に卑屈な態度を取る必要はないが、くれぐれも看護師さんの機嫌を損ねるような事はしない方が良い。

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若いが良心的な良い医師に出会った

 全く自慢にならないが、筆者は幼い頃から病弱で、いろいろな病気を経験してきた。
 だから当然、大勢の医師とも接してきた。

 中には、「ん?」と思うような対応や治療をする医師もいた。
 しかし幸いにも、筆者を診てくれた医師の大部分は良心的で優秀なドクターだった。
 そして今日は、その中でも特に心に残った若い医師について話したいと思う。

 十年以上も前、筆者はヘルペスによる脳炎で総合病院に入院した事がある。
 その時の主治医は、内科のかなり若い先生だった。小太りで見かけは冴えないが威張った所が全く無く、人柄の良さが中からにじみ出て来るような優しい先生だった。

 その先生に特に好感を持てたのは、何か不確かな事があると患者の目の前で、躊躇う事なくデスクの上の厚い医学に手を伸ばして調べた事だ。
「俺はお医者さまなのだ」というプライドにこだわらず、わからないものはわからないとちゃんと認めて調べ直す姿勢に、筆者は頼りなさではなく誠実さを感じた。
 疑問があるのに知ったかぶりをして妙な治療をする医師より、少しでも疑問があるなら調べ直して確認する医師の方がずっと信頼出来ると、少なくとも筆者は思う。

 そしてその医師の手で、随液の検査をする事になったのだが。
 これは腰椎の間に針を刺し込み、硬膜とくも膜を通してくも膜下腔に届かせ、その中にある随液を採取するのだから、なかなか難しい。
 ただ難しいだけでなく、脊髄に針を刺し込むのだから、危険でもある。

 だからその若い主治医の検査は、なかなか上手く行かなかった。
 刺し込んだ針が腰椎の間に入らず、骨に当たったり。
 腰椎の間に入っても、変に神経を刺激したのか、背に針を刺している筈なのに足の先に変な痺れが走ったり。

 で、その事を言うと、先生は決して無理をせずにすぐ針を抜いてやり直した。
 だがやり直しても、なかなか上手く行かない。
 そして十数分ほど格闘した後、主治医の若い先生は「ちょっと待って下さい」と言って検査室を出て行った。

 やがて帰って来た主治医の先生は、中年の別の医師を伴っていた。
 その痩せて長身の医師は、無表情のまま黙って検査器具を取ると、一言も無いまま筆者の背に針を刺した。
 一発だった。
 ピリッとした痛みが走った後すぐに針が腰椎の間に通り、あっと言う間に随液を採取した。
 頭を下げて礼を言う主治医の先生には見向きもせず、その中年の医師は無言のまま立ち去った。

 その事で、筆者は若い主治医の先生に対しさらに「偉いなあ」と思った。
 自分には難しくて、下手をすれば患者を傷つけかねない時には無理をせず、先輩の医師に頭を下げて代わってくれるよう頼み込んだのだろう。
 代わりに随液を取ってくれた中年の医師は、腕は間違いなく確かだった。
 しかしその時の愛想の欠片も無い態度からしても、若い主治医の先生に尊大な態度を取り、嫌味の一つも言ったのではないかと思われる。
 それでもその主治医の先生は、己のプライドを守る為に検査を自分の手で強行しようとはしなかった。患者の為に、先輩医師に頭を下げて頼み込んで検査を代わって貰ってくれた。

 医師と言えば「先生」と呼ばれる職業の中でもかなり偉い方だし、学歴だけでなくプライドもかなり高いだろうと思われる。
 だが筆者が出合ったその若い医師は、ためらう事なくプライドより患者の為を優先した。
 不確かな事は、患者の目の前で辞典で調べる。
 危険な検査は、先輩医師に頭を下げて代わってもらう。
 当たり前の事かも知れない。
 しかし己のプライドを守りたくてそれが出来ない医師が、現実にはかなりいるのではないだろうか。

 医師だけではない。
 不確かな事は「わからない」と認めてちゃんと調べ直す事や、出来そうにもない事はそう認めて他の誰かに頭を下げて頼る事が出来ない者は、実際にはかなりいる筈だ。
 そして無理に自分でやった揚げ句に失敗をして、周囲の者に迷惑をかける事になる。

 筆者が出合ったその若い医師は、知識もまだ足りず、腕もまだ未熟だったかも知れない。
 しかし少なくともプライドを殺して、わからないものはわからないと認め、出来ないものは出来ないと認める事はできた。
 その先生の治療を受けてから、既に十年以上経つが。
 己の力量をわきまえ、迷わずプライドより患者の為を優先できる先生だったから、医師としての経験を積んだ今頃は、心と技量を兼ね備えたさぞ良い先生になっている事だろうと思う。

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過去のツッパリ時代を武勇伝のように語るヒロミ氏

 この世には、立場を笠に着て下位の者に理不尽な要求をする者が少なからずいる。
 学校や職場での先輩による後輩イジメから、企業間での下請けイジメまで、下の立場の者や企業に理不尽なことをする輩は当たり前に存在するのが現実だ。
 で、貴方に聞こう。
 貴方はその上の立場の者たちの理不尽な要求を、「当然のもの」と思って受け入れ、そして同時に貴方より下の立場の者にも同じように理不尽な要求をして当然と思っているだろうか。
 それとも「立場がどうあれ、理不尽な要求は人としてすべきでない」と思うだろうか。

 毎日新聞に『学校と私』というコラムがあって、毎回各界の有名人に学生時代の思い出をインタビューしているのだが。
 そしてこの3月14日に、タレントのヒロミ氏がインタビューに応じていた。
 それによると、ヒロミ氏は中学時代からツッパリで、高校は生徒が逃げないように塀にバラ線(鉄条網)を張り巡らせたような工業高校に通ったという。
 で、ヒロミ氏は高一で早速オートバイの免許を取り、改造バイクを乗り回して「おまわりさんによく追いかけられた」そうである。
 これだけでも、若い時のヒロミ氏の人となりが想像できるだろう。

 そしてその時代の自分について、ヒロミ氏はこう語っている。

「暴走族」のつもりはないのですが、友達が集まると結構な人数になるので、周りからは100%、暴走族に見えたでしょうね。
 不良の社会は縦社会で、理不尽な先輩の要求にも応えないといけない。でも、そういうのは社会に出たら山ほどあるから、社会に出て役立った部分がすごくある。不良はいいかげんに生きてると思われるかもしれないけど、結構ルールが厳しいんです。人生には無駄がないなと思います。


 このヒロミ氏の言葉を聞いて、胸がムカつく思いをしたのは筆者だけだろうか。
 この種の、己の過去の愚行に対して反省のカケラも無く、それどころか武勇伝のように話す元ツッパリを見ると、少なくとも筆者は胸くそが悪くなる。

 真面目に生きている他の大勢の人間は、ツッパリや暴走族の存在に心から迷惑してんだよ。
 なのにヒロミ氏は「若気の至りで、昔は周囲の皆さんに迷惑をかけました」と世間に詫びるどころか、逆に「不良の社会には世の中に出て役立つ事がすごくある」と自慢げに語る始末だ。
 この種の元ワルだった過去を武勇伝として語る者は、人間の屑だと筆者は思う。

 で、そのヒロミ氏が「社会に出て役立った部分がすごくある」と語った事とは、平たく言えば「先輩の理不尽な要望に応えること」である。
 つまりヒロミ氏は、「上司や客の理不尽な要望に応えること」が、社会人して必要な資質と考えているのであろう。

 実際、己の有利な立場を笠に着て、部下や取引先や下請けなどの弱い立場の者達に理不尽な要求をする者は、確かに幾らでもある。
 だが世間の皆が皆、全員が下の弱い立場の者らに理不尽な事を求めているわけではなかろう。
 だから筆者は、「人には、自分より下の弱い立場の者には理不尽な事を求めて当然と考えている者と、そうでない者の二通りが存在する」と考えている。
 そして筆者は、「上の立場だから、下の弱い立場の者には理不尽な事を求めても良い」と考えている者達を軽蔑する。

 と言うと、「オマエは世の中がわかってない、小学生かよwww」と非難する方がきっと出て来るだろう。「下請けには値下げを強要し、正社員を派遣に置き換え、重いノルマを課しサービス残業をさせて会社はようやく生き延びているのだ、綺麗事を言っていたら競争に負ける」と言い、社会のいろいろな理不尽を肯定する方が必ずいるだろうと思う。
 だがその社会の理不尽さを「世間とはそういうものだ」と肯定していたら、世の中がとても住みにくいものになるのではないか。

 元請け会社が下請けに無理を言い、だから下請けも孫請けに無理を言う。そうしたらその無理をすべて負わされる一番下の孫請けはどうなるか。
 部長が課長に、課長が係長に、そして係長が平社員に無理を言っていたら、一番下の社員は過重な負担で潰れてしまうのではないか。

 近年、会社の都合で正社員を派遣に置き換えている職場が増えているが。で、低賃金で不安定な仕事をせざるを得ない弱い立場の人達が増えた結果、結婚できない人達が増え少子化に拍車がかかり、日本はとうとう人口が減少し始めた。
 安倍首相のアベノミクスだの三本の矢だのが、現実には首相が主張するほどうまく行っていないのも、安定した職が無く低収入の国民が増えている現状では、国内消費を増やしようが無いからではないのか。
 部下であれ取引先であれ、立場が下の相手には理不尽な事を求めても構わない。その今の日本の風潮が、少子化に拍車をかけ人口を減らし、結果的に経済成長にもブレーキをかけているのではないかと思うが、間違っているだろうか。

 小中学生レベルの綺麗事と失笑されるかも知れないが、立場が下の相手も正当に扱い、理不尽な事は求めず人としてきちんと扱うような社会にならねば、日本の人口減少と経済の衰退に歯止めはかからないと筆者は考える。
 高給でなくとも安定した収入の得られる正社員で、残業も欧米並みに少ない環境でなければ、どうして安心して子供を産み育て、消費にお金を回す事が出来ようか。
「低賃金の派遣の仕事で働き残業もして、さらに子供も産んで消費にもカネを遣え」と言う今の政府の政策や経済界の言い分は、弱者に対するとんでもない理不尽な要求に筆者には思える。

 大阪北新地の社交料飲協会の初代理事長が1980年に作った『ホステス心得帖』という小冊子が、近頃「男が読んでも為になるし、新人社員教育にも良い」と評判になっている。
 実は筆者も全文を読んでみたのだが、為になる事が数多く書いてあった。
 その中に「先輩・後輩の順序を守ること」と書いてあると同時に、こうも書いてあった。

 人間は、自分より立場の弱い人に対する態度で、その人の値打ちが決まる。

 過去のツッパリ時代や暴走を自慢げに語り、「理不尽な先輩の要望にも応えなければならず、それが社会に出てすごく役立った」と言うヒロミ氏と。
 先輩と後輩の序列は重んじつつ、立場の弱い者に威張ることを戒める大阪北新地のホステスと。
 さて、人としてどちらが立派であろうか。

 中国に「上敬下愛」という言葉がある。
 下の立場の者は上の者に敬意を払い、そして上の立場の者は下の者を慈しむ。
 それを実践してこそ皆が生きやすい社会になるのではないか思う筆者は、頭が綺麗事に走り過ぎて幼稚なのだろうか。
 少なくとも筆者は、立場を笠に着た理不尽な要求を当たり前と認めるような人にはなりたくないし、その種の人々を軽蔑する。

 ハイ、だから筆者は周囲の、特に上の立場の人達と衝突する事が少なくないデス。そして損をする事も度々あり、生きるのが下手だとも言われマス。
 それでもヒロミ氏のような、過去のツッパリ時代を自慢して「上の立場の者の理不尽な要求に応えるのが当然で、それが世の中というもの」と思うような人には死んでもなりたくないと、心から思っている。

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遅刻を許すのは“優しさ”か?

 筆者は長年、猫と共に暮らし続けている。
 ただ猫は、人間よりはるかに寿命が短い。だから今、筆者が共に暮らしている猫は、初めて猫と共に暮らしてから三代目の子になる。
 当然、獣医さんとの付き合いも長くなる。
 筆者は幸いにも腕も良く、かつ献身的な治療をして下さる良い獣医さんとすぐに巡り会えた。

 その獣医さんは、毎年あるお寺で、自分の動物病院で傷病死した動物たちの慰霊祭を行っている。その費用はすべて獣医さんの持ち出しで、参加する飼い主たちからは一銭も取らずにだ。
 で、その慰霊祭には毎年百人を越す参加者が集まっている。そして筆者も亡くなった猫たちを偲んで、毎年その慰霊祭に参加させていただいている。

 ただ参加者が百人を越すだけに、中にはだらしのない人もいて、案内の葉書に明記されている開催時間に遅れて来る者が必ず少なからず居る。
 で、その慰霊祭を長年執り行ってきたお寺の先代の住職は、とても「優しい」和尚さんで、その遅れて来る人達が本堂に着席するまで待った。決められていた、慰霊祭の開催時間を遅らせてでも。
 そして筆者は、その優しい住職が時間に遅れて来る参加者を待つ度に、「ああ、また今年もか」とイラッとした。
 その先代の住職の優しさに、筆者が何故苛立ったのか。
 それは筆者が時間厳守を常に心掛けていて、この十数年以上参加し続けている慰霊祭に遅刻した事は、ただの一度も無かったからである。
 この傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、会議でも人と会う約束でも、筆者は「時間に遅れる」という事が無い。そのような事があるとすれば、事故か何かどうしようもない事情が発生した時だけである。

 ただその先代の住職は高齢でお亡くなりになってしまい、まだ若い方がその跡を継いで新しい住職となられた。
 その新しい住職もユーモアと温かみがある良い方だが、若いだけに慰霊祭の進め方もてきぱきとしている。
 この新しい住職は、遅れて来る参加者を待たない。所定の開催時刻が来れば、「時間になりましたので」と慰霊祭を始める。

 あらかじめ決めた時間を遅らせてでも、遅刻して来る参加者を待った先代の住職と。
 待たずに時間が来れば、どんどん慰霊祭を始める新しい住職と。
 皆さんはどちらの住職の方を、より「優しい」と思うだろうか。
 多くの方は先代の住職とお思いになるだろうが、筆者は断然、新しい若い住職の方だとと断言する。

 なぜ筆者は、いつも時間に遅れずに決められた場所に着いているのだろうか。
 自然にいつの間にか早く着いているのではない。
 筆者は常に、時間を気にかけているからだ。
 例えば日曜の午前十時にその慰霊祭があるとすれば、支度にかかる時間や、着くまでにかかる時間をあらかじめ計算して行動している。それも「自分に都合良く短めに」では無く、何かあるかも知れない事も想定して長めに見積もっておく。
「ちょっとくらい遅れたって構わないだろう」などと自分を甘やかしたりは、断じてしない。
 だから約束の時間より前に着いて、現地で待っている事が殆どだ。
 遅刻を「ちょっとくらい良いじゃないか」と思っている人達に言いたいが、時間を守る者はその為に努力しているのだ。

 にもかかわらず先代の住職は、「遅れて来る人がいるから」と慰霊祭を始めるのをいつも待った。
 筆者は遅れぬように努力して時間前に着き、そしてまたその努力をせずゆっくり来やがる怠け者たちの為にさらに待たされるのである。
 これでは時間を守る為に頑張る者が馬鹿を見て、時間を気にせぬ怠け者を助ける事になっているのではないか。

 その慰霊祭を行う寺は市の山に近い方にあり、筆者の住んでいる家から3キロ以上離れている。そしてその寺の駐車スペースには限りがある為、「できるだけ公共交通機関を御利用下さい」と参加者は事前に呼びかけられている。
 公共交通機関と言っても、その山麓にある寺の方面に行くバスは一時間に一本のみである。だから筆者は、慰霊祭にはいつも自転車で行っている。
 その寺は山の麓にあるから、行きはいつも登り坂を漕ぎ続けて行く事になる。
 で、朝の出がけに不測の用事があって、家を出るのが少し遅れた時など、それはもう必死に自転車を漕いで行くのだ。その3キロの、延々と続く登り坂の道を。
 それで息を切らせ汗だくになりながら、所定の時刻の数分前に着いて記帳も終え、席に座ってやれやれと思っていると、住職が「遅れて来る人を待つ」と言う。
 毎年の事だから、わかってはいる。
 しかしそう言われた時の虚しさは、何とも言いようが無い。
 自分は何の為に、こんなに苦しい思いまでして頑張って時間を守ったのか……と。
 その時の、約束の時間を守る為の「努力を踏みにじられ、馬鹿にされた」という悔しい思いは、いくらその住職が優しい良い方なのだとわかっていても抑えきれない。

 だから筆者は、約束の時間に遅れる者を待つのは「本当の優しさでは無い」と思っている。
 それは優しさや思いやりではなく、己に甘くルーズな者をより甘やかし、時間を守ろうと心掛ける者の努力を馬鹿にする行為である。

 約束の時間にいつも間に合う者は、その為に頑張っているのだ。支度や行くまでの行程にどれだけ時間がかかるかを多めに見積もり、早めに自分の仕事を切り上げて出かけているのだ。
 そして時間に遅れる者はその努力をせねばならないと思いもせず、遅くまで自分の好きな事をし、甘い見積もりで行動している。
 断言するが、その種の遅刻を繰り返す者は時間ドロボウである。他の者が間に合うように早く行動している間ものそのそ自分勝手な事をして、そして案の定約束の時間に遅れ、間に合うよう早く行動した者達の時間を無駄にさせるのだから。

 先代の住職は、時間に遅れても待っていてくれるとわかっていた。しかし筆者はそれでも決して遅刻はせず、登り坂の長い道を息を切らし汗だくになって自転車を漕いででも、所定の時間に間に合うように頑張った。
 それは自分が、約束の時刻を守る為に他の人が払った努力を無にする“時間ドロボウ”の側にはなりたくないからだ。
人には、自分が損をするだけとわかっていても貫き通さなければならない意地と矜持がある」と筆者は思う。
 そう思いはするのだが、約束の時間を守らない遅刻常習者に対する怒りと、その時間に遅れる者に寛容な「優しい」人に対する苛立ちが収まらない。

 その傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、仕事上の会議や面会はもちろん、私的な待ち合わせでも。
 遅刻する者は待たず、約束の時間が来たら会議や行事を始めるのが、間に合う者、遅れる者、双方にとって結果的に良いのだと思う。
 なぜなら遅刻する者を待てば、「遅れても待っていてくれるもの」とより甘え、ますますいい気になって遅刻を当たり前に繰り返すようになるからだ。そして時間を守り早めに行動して早めに家(職場)を出る者は、余計に待たされる事になる。
 遅刻は許さないし、遅れる者は待たない。それを徹底すれば、時間にルーズな者も「遅刻は許されない」と理解するし、時間を守る者が無駄に待たされる事も無くなる。
 だから遅れて来る者に配慮するのは思いやりなどではなく、時間を守る努力をする者を優先する事こそ、皆の為になる真の優しさなのだ。

 新しい年度になり、新社会人になる者だけでなく、新しい学校に進学する者も大勢いるだろう。
 その新社会人と新入生に、少しばかり長く生きた者から言っておく。
 時間にルーズで遅刻をする者は、人から信用されないようになる
 事実、約束の時間を守れない者は、他のすべての事においてルーズで自己中心的だ。「遅刻はするが、仕事は良く出来て几帳面で整理整頓もしっかり出来ていて他人との約束も守る」という者など、筆者は見た事が無い。
 遅刻を何度もする人間というのは、ただ一日の時間の割り振りがきちんと出来ていないだけでなく、物事の見積もりが甘く、そしてきちんと間に合うように考えて行動している他人の時間を無駄に費やさせているのだという事に気付きすらしない。
 単にだらしないだけでなく、何と自己中心的で傲慢であろうか。
 だから遅刻をする人間は、他の者たちから嫌われ信用されぬのだ。

 たとえ相手が待ってくれるとわかっていても、遅刻は何か事故か事件でも無い限り極力しない。これは筆者の意地と、人としての矜持である。

 さて、傷病死した動物の慰霊祭を行う寺では駐車場が少なく、「できるだけ公共交通機関を御用下さい」と通知されている事は前にも書いたが。
 それでも「交通に不便だから」と、自家用車で慰霊祭に来る者が少なくなく、狭い駐車場とその周辺は車で溢れて、毎年その整理にあたる動物病院の方が大わらわだ。
 だから筆者は「自分一人くらい車で行っても構わないだろう」などと思わず、雨の時も風の強い時も3キロ超の登り坂を自転車で漕いで行っている。
 誰が見ているわけでも無いが、それもまた筆者の自身に対する意地と人としての矜持だ。
 しかし現実には、「待っていてくれるだろう」と平気で遅刻してくる者や、「自分一人くらい」と狭い駐車場に車でやって来る者も少なくないし、そうした自己中心的な人間を咎める者もいない。
 だからつい、「世の中、ズルい者が勝つのだな」と思いたくなってしまうものだ。

 だとしても、だ。
「自分さえ良ければ構わない」という気持ちが心の奥底にある者は、人としての品性の下劣さが日頃の振る舞いに自然に滲み出るものだし、そのうち周囲から軽んじられ、白い目で見られるようになるものだ。
 直接に叱られたり窘められたりしなくても、見る人は必ずどこかで見ている
 だから自分の価値を自ら貶めるような行動は、誰が見ていなくても慎みたいものだと思う。

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『あさが来た』にも見る、連続テレビ小説や大河ドラマのヒロインは決して老けない怪奇

 朝の連続テレビ小説『あさが来た』が、相変わらず好評で視聴率も高いようだが。
 それを不熱心に横目で見つつ、「オマエもかよ」と残念に思っている事がある。

 NHKの近年の大河ドラマや連続テレビ小説では、何故かヒロインがいつまでも老けない
 結婚しようが、出産しようが、その産んだ子が成長しようが、ヒロインはいつまでも若々しく“娘”のままなのである。
 例えば『』に至っては、少女期の頃には既に大人でありながら最後まで全く変わらずそのままで、「ヒロインはバケモノか!」と思うほどであった。
 まあ、『江』は脚本や演出から時代考証まで、いろいろとあまりにもヒド過ぎたから例外にしておくとしても。
 ヒロインが「十代の思春期から既に閉経した筈の中年過ぎになるまで、ずっと変わらず若々しく美しいまま」というのは、見ていて余りにも不自然で気持ち悪すぎるよ。
 でも近年の大河ドラマや連続テレビ小説では、どれもこれも不気味なほどにヒロインが老けない。

 筆者は幼い頃から歴史が好きで、大学も史学部国史専攻コースに進んだ。
 だから歴史もただ教科書に書いてある事を丸暗記するのではなく、歴史上の出来事についていちいち「なぜだろう?」と考え、通説についても「それは本当なのだろうか?」と疑ってみる習慣がついている。
 その結果、筆者は明治維新については大の薩長ギライの佐幕派になってしまったのだ。

 歴史を長い目で眺めるとですね、天皇を飾り物の権威として実権を薩長の連中が握った新政府は、“維新”と称して対外侵略的な軍国主義の国造りを最初から目指していて、そしてそのままあの愚かで破滅的な太平洋戦争へと突き進んで行き、我が祖国日本は滅亡の危機に陥ってしまうのデスよ。
 それを理解している筆者は、明治維新を日本の新しい夜明けのように評価し、薩長のテロリスト達を“志士”と持ち上げて誉め称える史観には、違和感と嫌悪しか感じない。
 同時に、明治維新とそれを押し進めた人々の行為に対して何の疑問も抱かず知識も無いまま、ただイメージだけで維新を良いことのように思い、維新を党の名にする政党と、それに属する政治家と、さらにそれに一票を投じる有権者にも全く共感できない。

 ゆえに『花燃ゆ』は最初から全く見なかったが、それでも他の番組と番組の間にスポット的に挟まれて、無理矢理に見せられる番宣で眺める限り、ヒロインの井上真央さんはやはり最後まで老けなかった。

 前にも書いた通り筆者は佐幕派で、会津藩や新撰組には強いシンパシーを抱いているが、『八重の桜』でもヒロインは殆ど老けず、八重は最後まで「綾瀬はるか」のイメージのままだった。
 断っておくが、筆者は綾瀬はるかさんは好きだ。
 だが『八重の桜』については、「やっぱり老けないなー」と冷笑まじりに見ていた。

 まあ、『カーネーション』は晩年の主人公を、キャストごと変えて違う役者さんにやらせていたが。
 実際、いくらメークの技術を駆使しても、高校生の孫もいる老女の役を尾野真千子さんにやらせるのは無理があったかも知れない。
 しかし以前なら、少なくとも娘時代から中年過ぎくらいまでは、同じ女優さんが演技とメークで変化をつけてこなす場合が少なくなかった。
 と言うか、それが当たり前だった。

 少し以前なら、例えば二十代の女優さんがメークで小皺を描き髪も白く染め、いかにもオバサンらしい演技をして見せたら、「上手く老け役を演じたものだ」役者として評価されたものだ。
 しかし今は違う。
 ヒロインは母となり子が大きくなっても、娘時代の頃と殆ど同じで老けないのである。
 残念ながら『あさが来た』でも、既に四十代になっているヒロインのお肌はツルツルのままで張りもあり、皺ひとつ無いのである。
 そろそろ思春期になろうという娘と並んでも、親子でなく姉妹にしか見えないのである。
 繰り返し言う、朝ドラや大河ドラマのヒロインはバケモノか!

 今の女優さんというのは、役者としての演技の評価より“綾瀬はるか”なり“井上真央”なり“波瑠”なりという、タレントとしてのイメージの方が大事なのだろうか。
 老け役を見事に演じたら、その女優の若さや美しさなどのイメージが壊れて人気が落ちると思っているのだろうか。
 そんなに若さや美しさなどのイメージが大事なら、「役者でなくアイドルになれ!」と怒りたくなってしまうのは、筆者だけだろうか。

 まあ、今はジャニーズやAKBなどのアイドル達もよくドラマで重要な役を演じているし、アイドルと役者の区別そのものが無くなっているのかも知れないが。
 で、視聴率ほしさに演技力より話題性と人気を重視してアイドルを使えば、どうしても事務所の方の「イメージがあるから、老けさせないでくれ」という要望を受け入れざるを得ないのだろう。
 しかし繰り返し言うが、役の上とは言え「四十をとうに過ぎても娘時代と殆ど変わらず、思春期の我が子と姉妹にしか見えない」というのは、若くて綺麗な女性が好きな男の一人である筆者が見ていても気持ちワルイよ。

 この「近年の連続テレビ小説や大河ドラマでは、ヒロインが結婚し出産し、その子が成長しても殆ど老けず娘時代のままに若々しい」という現象は、もしかしたら演じるタレントのイメージの問題ではなく、主たる視聴者である女性の願望なのかも知れない。
 実際、「娘とは、友達のような親子になりたい」と正気でおっしゃる女性が少なからずいるからね。

 でも男で、「息子とは、友達のような親子になりたい」などと言う男はまずいないし、いたら気持ちワルイよね。
 子供に対して、多くの男はあくまでも“親”であるべきだと思っているし、少なくとも以前は女性もそうだった筈だ。
 けれど今の女性には、四十を過ぎても思春期の娘と「友達(姉妹)みたい」な関係でいたいと思っていて、人からもそう見られたいと思っている気持ちワルイ人達が無視できないほど実在するから怖い

 そういう女性達は、「美魔女とかいるし、今のアンチエージング技術とメイクをなめるな!」とか言うけれど。
 でもアナタ、化粧やエステあれこれで誤魔化した四十代や五十代の“美魔女”を、十代後半から二十代の本当に若い女性と並べて比べてごらんなさい、って。目尻や口元などの小皺だけでなく、肌の張りやツヤから頬や首の弛みまで、何から何まで全然違うから。

 以前にも書いた事があるが、筆者は若い頃、プロの写真家になりたいと思っていた。それも篠山紀信さんや荒木経惟さんのような女性を撮る写真家になりたいと思っていた。
 だから多くの女性を見て写真に撮ってきたし、それだけに女性のメークに騙されずに実年齢を見抜く自信はあるつもりだ。

 その筆者に言わせると“美魔女”など「年の割には若く見えるね」という程度であって、本当に若い女性と並べて比べてしまうとその差は一目瞭然なのだ。
 それに気付かず、娘と友達気分で姉妹に見えるつもりの母親など、傍から見ていて怖いしイタ過ぎるとしか言いようが無い。

 一部の(筆者はそう信じたい)女性達の、その怖くてイタ過ぎる夢を叶える為に、連続テレビ小説や大河ドラマはヒロインを年相応に老けさせることを止めたのだろうか。
 この「ヒロインは決して老けずに、いつまでも若々しいまま」という風潮は、筆者の私見では『利家とまつ』から始まったように思うが、どうだろうか。

 現在も視聴率が好調の『あさが来た』でも、もう明治になって二十数年も経とうというのに、変わったのは髪型と服だけで、ヒロインは明治初年の頃と同様に若々しいままで、お肌ツルツルだ。皺一つ無く、どんどん大きくなりつつある自分の“娘”と同じように肌が張り切っている。
 ……気持ちワルイったら、ありゃしない。

 わざとらしく、ことさら醜く老けろと言うのではない。
 ごく自然に、年相応に品良く老けさせる事だってできる筈だし、「ヒロインは全く老けない」という方が不自然でバケモノじみていると筆者は思う。

 大河ドラマの『真田丸』の方は、祖母と母、それに二人のヒロインと、ちゃんと世代の違いが区別されているが。
 少なくとも、今のところは。
 しかし信長が本能寺で死んだこの後、豊臣の時代が続くものの徳川に取って代わられ、大阪夏の陣で主人公(真田信繁)が滅び行く豊臣家と運命を供にして討ち死にするまで、物語はあと三十数年続く筈だ。
 現在は若い娘でいる長沢まさみさんと黒木華さんが、この先もまたずっと老けずにいるのか、それとも年相応に上手に老けて行くのか、怖々と見守って行こうと思っている。

 余計な事だが、最後に一つだけ。
「何とかギャグを盛り込もう」という姿勢がチラチラ窺える三谷幸喜の脚本には、本格的な時代劇を見たい筆者はどうにも感心できない。

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男でチビに生まれたからこそわかる事

 先週、自身も含めて「チビの男はなぜ性格が悪いか?」という事について話したが、その際に過去に体験した厭な記憶を思い出した。
 今回はその事について語りたいが、その前に前提を一つ書いておきたい。

「お客は神様だ」
 この国には本気でそう信じているバカも存在するようだが、少なくとも筆者は違う。
 よく客商売のアルバイトを初めて体験した学生などが、「お客にありがとうと言われるのが、こんなに嬉しい事とは思わなかった。これまで自分はお客だからと無愛想に接してきたことを反省した」などと、さも感動したように語る者が少なからず存在する事に、筆者は呆れている。
 そして筆者の姉もまた、大学生になり自分がバイトの店員になるまでそうした事に気付かずにいたバカの一人だった。

 筆者は違う。
 そうした客相手の仕事を経験する前から、筆者は店員に注文したりレジで精算を頼む時には軽く一礼して「お願いします」と言い、そして用事が済んだら「ありがとう」とまた軽く一礼して立ち去るようにしていた。
 ちなみに応答の言葉は、基本的に敬語と言うか丁寧語である。
 何故ならお客も店員も、立場の違いこそあれ同じ人間なのだから。

 無論、店員に対し必要以上にへり下る必要も無いが、人間同士として必要な礼儀というものがあると筆者は思っている。たとえ自分が客で、相手より立場が上だとしても……だ。
 だから逆に自分がバイトの店員の立場になった時も、立場の違いはあるから当然お客には丁重に応対したが、人としてのプライドを捨ててまで無理を聞いたり非礼に耐えたりするような事もしなかった。
 頑なで融通が利かないと言われようとも、「礼儀をきちんと守った上で、お客も店員も同じ人間なのだ」というのは、筆者の子供の頃からの至極当然な常識だった。

 そんな筆者にとっては、「客だから店員には無愛想で威張っていて当然だ」などとあり得ない話だし、自分が店員になって初めてお客にありがとうと言われて感激して、それまでの自分の店員に対する傲慢な態度を反省するなど、まるで馬鹿げた話にしか聞こえなかった。
「下らない、そんなの当たり前の事だろ」
 だから筆者は思わずそう言い放ってしまって、怒った姉と喧嘩になってしまった。

 そのような人間だから、筆者は店員に無礼なことをしたり傲慢に振る舞ったりした事は全くない。
 むしろ逆に、社会人としてと言うより人間として非常識な店員(または社員)に非礼な対応を何度もされているくらいだ。

 少し話は逸れるが、筆者はお金の使い方が普通の人とはかなり違っている。自分の趣味や好きな事にはそれこそあるだけ遣うが、その代わり自分にとって優先順位の低いと思われる物には殆どお金を遣わない。
 大切なのは「自分自身が楽しくて満足か?」であって、「周囲の人からどう思われるか?」という事については、まず人目を気にするこの国では異常なほど無関心なのだ。
 だからいい年をして乗っている車は軽自動車(しかも中古)だし、着ている服も主にユニクロだ。そして最近では、実用性とコストを考えてワークマンで買った服も着たりしている。
 金はあるだけ書籍類と写真と映画と趣味の収集品に使い、見かけを飾る事は本当にどうでも良いと思っている。
 限られた少ないお金は、外見や持ち物で他人に「スゲーな」と思われる事にではなく、自分自身の心と感性を豊かにする為に遣いたいのだ。

 しかし残念ながら、どなたかが本に書いていたように『人は見かけが9割』というのが現実だからね。
 人が感心するのは、目に見える服や持ち物や車や家などであって、目に見えない心や感性などは(その人が有名になるまで)殆ど無視されるのが現実デス。
 で、見かけで人を判断するのは、店員(社員)も同じなのだ。
 何しろ筆者は先週も書いたように、小柄だからね。しかも童顔である。
 そしてユニクロの服を着て、古そうな軽自動車で乗り付けて来て、腰を低くして敬語で話しかけてきたら、店員(社員)さんの中にも初めからナメてかかって、「コイツならぞんざいな態度であしらっても構わない」と思うクズ人間がいるわけデスよ。

 お店や企業の名前を実際に出すと、その店や企業から営業妨害だの名誉毀損だのと抗議を受け、場合によっては弁護士が出て来るかも知れないが、本当の事だから書いてしまおう。
 写真を撮るのを趣味にしている筆者が、静岡県を車(例によって中古の軽自動車)で旅した時、駿東郡長泉町ミニストップに立ち寄った。
 そして買い物をして、いつものようにレジの女性には「すみません」と軽く一礼し、会計を済ませ「どうも」とまた会釈してドアに向かいかけた時の事だ。
 数歩進んでドアの手前にさしかかった筆者の耳に、レジのクソアマ、いやUNKO女性が、もう一人の女性店員に話しかける声が聞こえてきた。
ちっさい人だったよねぇー
 それも声を落とした耳打ちなどではなく、遠慮も何もない大声だったから、筆者の耳にもはっきり聞こえた。

 筆者はチビを自覚しているし、気分は良くないがそう言われるのにも慣れている。
 ある時、筆者よりも明らかに身長のある、それも縦よりも横方向によく育った知り合いの女性に、ニヤニヤしながらこう言われた事もある。
「あら小さいねえ、踏んづけちゃうゾ」
 ……まあね、良い気はしなかったけれど。ただ相手は以前からの知り合いで、冗談で言ったのもわかっていたから、笑って聞き流したけれどね。
 うん、そう悪意なく面と向かってチビと言われた場合には、筆者はたいてい気にせずに許している。

 しかしだ、静岡県駿東郡長泉町のミニストップの店員は違う。
 きちんと礼儀を尽くして買い物をした客の背中に、身体的な特徴をあげつらう言葉を投げつけるのは、店員としてという以前に、人間として駄目過ぎるにも程があると思うのは筆者だけであろうか。

 筆者がチビな事にそんなに驚いたのなら、面と向かって世間話として「それにしてもお客さん、背が低いですねぇ」と言えよ、っての。
 面白くはないが、それならまだ許せる。筆者の背が低いのは事実だし、そう言われるのにも慣れているからな。
 しかし静岡県駿東郡長泉町のミニストップの女性店員(多分バイトかパート)は、面と向かって素直な驚きとして言うのでも、筆者がドアの外に出るのを待ってから言うのでもなく、背に投げつけるように、しっかり聞こえる声で言い放った。

 許せぬ、と思った。
 レジに引き返して「もう一度言ってみろ!」と叱りつけてやろうかと、余程も思った。
 しかし背後から言われた為、二人いたレジの女性店員のうちのどちらが言ったのか、筆者は直接には見ていない。文句をつけたところで、言った言わないの水掛け論になっても面白くないし、旅を急ぎたかった事もあって、そのまま黙って店を出てしまった。

 相手の身体的特徴をからかうのは、良くない事だがよくある話だ。
 また、客がドアの外に出て声が聞こえない所まで行ってから、その客の悪口を言うのは、客商売ではよくある話だろう。
 しかし静岡県駿東郡長泉町のミニストップの女性店員は、世間話的に直接言うのでも、ドアの外に出るまで待つのでもなく、ちゃんと聞こえる声でお客の身体的特徴を揶揄する言葉を背に投げかけてきた。
 店のレジの女性と口論はしなかったが、間違いなく傷ついたし深く恨みに思った。

 だから筆者はそれ以来、その静岡県駿東郡長泉町のミニストップだけでなく、全国すべてのミニストップを利用するのを止めた。
 どんなに急いでコンビニに寄りたい時があっても、そこにあったのがミニストップなら我慢して他のチェーン店が見つかるまで待つ。
 実は筆者の自宅の最寄りのコンビニはミニストップで、楽に歩いて行ける距離にあるのだが、本当にまだ一度もその店にも行っていない。
 別にそこのミニストップの店員に厭な思いをさせられたわけではないのだが、そこがミニストップだというだけで、絶対に行きたくなくなってしまうのだ。
 それで筆者は、コンビニを利用する時には徒歩ですぐ行けるミニストップを素通りして、わざわざ自転車を使ってもっと遠いローソンかセブン・イレブンに行っている。
 面倒だし、筆者一人が不買運動を続けていてもミニストップは痛くも痒くもなかろうが、それが筆者の通したい意地なのだ。
 で、いろいろあるコンビニの中でミニストップだけは「無いもの」として無視し続けて、もう数年以上になる。
 言うまでもなく、そのミニストップに対する一人不買運動は、今後もずっと続けるつもりだ。

 筆者の一人不買運動はただミニストップだけでなく、実はジャスコ京セラに対しても続けている。
 まずジャスコについて話したいが、地元のジャスコの事である為、ジャスコ○○店と言ってしまうと、筆者の住む市まで特定されてしまう。
 だから残念ながら、ジャスコ某店とだけしか言えない。

 で、まだテレビが地デジでなくアナログのブラウン管だった時代に、ジャスコが20型のテレビデオを売り出した。
 それがなかなかお買い得な値段だったので、チラシを見て筆者は早速買いに行った。
 真っ直ぐ家電製品売場に行き、その売り場のカウンターの中にいた中年男性の店員に、「すみません」と声をかけた。
 そして顔を向けたその男性店員に一礼し、「あのテレビデオが欲しいのですが」と声をかけた。
 するとその男性店員は返事もせずに横を向き、離れた場所にいた女性店員に声をかけ呼びつけた。そしてそのままこちらには目もくれず、カウンター内の椅子に座り込んで自分の仕事を続けた。

 年齢から見て、その男性店員は売り場の主任か何かのちょっと偉い人で、安売りのテレビデオ(と言っても四万円はする)を買いに来るようなビンボーな客など相手にできなかったのだろう。
 チラシに載せた安売りのテレビデオは、若い女性店員の担当と、おそらくは決まっていたのだろうな。
 だがそれはジャスコの売り場の都合であって、お客には何の関係も無い事だ。家電売り場のカウンター内に居たのだから、主任だろうが何だろうが応対するのが当然ではないか。
 仮にそのテレビデオが若い女性店員の担当だったとしても、少なくとも客の会釈には会釈を返し、「ありがとうございます、ただ今担当の者に替わりますので」くらい言うのが常識ではないだろうか。
 しかし客には一言の返事も会釈も無く、ただ離れた場所にいた女性店員を呼びつけて任せただけだったのだ、そのお偉いジャスコの男性店員サマはね。
 だからそれ以来、筆者は地元を含めた全てのジャスコに行くのを止めている。

 話は変わるが、写真はレンズで決まる。
 カメラ内部の処理プロセッサーや、パソコンでの画像処理の影響が大きいデジタルの時代は別だが、フィルムで写真を撮っていた時代には、レンズの違いが画像に大きな差を生んだ。
 例えば同じ35mmF2のレンズでも、メーカーによって色の出方も線の描写もかなり違ってくるのだ。
 そして一眼レフなどの交換レンズは、同じメーカーのカメラにしか付けられないからね。
 だから違う写りを求めたければ、違うメーカーの交換レンズとカメラボディまで揃えなければならなかったのだ。
 で、お金にゆとりは無いくせに、写真にはあるだけのお金をつぎ込んでしまう筆者は、オリンパスにペンタックス、それにキヤノンにニコンにミノルタに富士写真フィルム、さらにツァイスやライカまで、ありとあらゆるメーカーのカメラとレンズを買い揃えてしまった。
 もちろん中古のものが多いが、今でも百台くらいのカメラと百本くらいの交換レンズを持っている。
 余りにも数が多過ぎて、自分でも正確なその総数を把握し切れていないのだ。

 だからそのカメラたちのメンテナンスの為に、ほぼ全てのメーカーのサービスセンターに足を運んだ。
 でもそのサービスセンターの職員から見れば、筆者など取るに足りない一ユーザー(背だけでなく腰も低く安そうな服を着ている)に過ぎないからね。写真にかけては金を惜しまず、ほぼ全てのメーカーのカメラを持ってるなんて思いもしないだろうさ。
 それだけに、儲けにもならないアフターサービスを受けに来た客に対する態度は、面白いくらいに違ったね。

 これはあくまでも、筆者個人が受けた印象だが。
 まず最良なのがペンタックス。いつ行っても親切な応対をして貰え、感じもとても良かった。
 ニコンはプロの写真家の中には「威張っている」と悪印象を持っている方もいるようだが、筆者個人の印象では威張ったところなどまるで感じず、親切だったし対応も紳士的だった。
 ミノルタのサービスセンターの方も、商売抜きでとても親切だった。
 オリンパスは「人による」としか言いようが無く、親切で人柄の良さを感じさせる方と、いかにも事務的に応対する方がいた。しかし不快な応対をされる事は無かった。
 キヤノンは最初に話を聞いてくれたのが男の社員でも、「問題が大した事ではない」と察すると、応対する役目をすぐに若い女性社員に変えるところが笑えた。
 で、中でも最悪だったのが、ドイツの名門カール・ツァイスのレンズをウリにした、コンタックスというブランドのカメラを出していた京セラのサービスセンターだった。

 京セラのどこのサービスセンターだったかは、例によって筆者の居住地を特定されぬよう避けるが。
 フィルムのカメラが全盛だった今から約二十年ほど前の事だが、はっきり覚えている。

 コンタックスのある付属品(もちろん有料)が欲しかった筆者は、京セラの某県のサービスセンターに行った。そしてカウンターの向こう側に座っていた、三十過ぎくらいの小太りで顔に脂の浮いた男性にまず一礼をして声をかけた。
「あの、すみませんが──」
 男は椅子にどかりと腰を据えたまま、口を“へ”の字に曲げて筆者をギョロリと睨むように見る。
「○○というカメラの、×××という付属品が欲しいのですが──」
 男は椅子に腰を据えて黙ったまま筆者をひと睨みして、さも面倒臭そうに、後ろの女性社員に向けて顎をしゃくる。
 すると若い女性社員(清楚で可愛い)が慌てて出て来て、親切丁寧に応対してくれたのだけれど。
 それでもその最初に遭遇した、小太りでオイリーな男性社員の悪印象が強すぎて、例によって筆者はその後、京セラが関係する一切のカメラとレンズを購入しなくなった。

 例え担当が違ったとしても、だ。
「はい、承りました。担当の者に替わりますので、少々お待ち下さい」
 いい大人の社会人が、来た客にその一言がなぜ言えないのか、今もって不思議でならない。

 その京セラを創業して長く社長と会長の職にあった稲森和夫氏と言えば、人生訓のような本を何冊も出していて、信者のような崇拝者も大勢いるようだが。
 ご本人がいくら人格者を気取ってご立派な事をおっしゃっていても、自社の社員には会釈をし敬語で用件を話した客に、無言と凝視で応じ顎をしゃくるだけで済ます者が現に存在しているのである。

 このように、男で背が低いと厭な目に遭う事が少なくない。しかも筆者のように着るものにも車にもこだわらず、さらに「オレ様は客だ!」などという態度は決して取らずに礼儀正しく接していると、店の人にさえナメられて不愉快な応対をされる事がある。
 だがそれゆえに、「相手の本質と本音がわかる」とも言える。

 チビで金も無く、そして礼儀正しく接するよう努力しているばかりにナメた態度を取られがちな現実が、昔は悔しくてならなかった。
 だが年を食ってかなり大人になった今は違う。
 チビでカネも無さそうな相手にも、人として親切に接する事が出来るか。そういう本音の部分を露骨に見せられ、相手が強かったり金があったりすれば態度を変えるようなクズ人間あるいは「社員教育のなってないダメ企業」を嫌でも見抜く事が出来るようになったのは、メリットとも言えるかも知れないと、今では思っている。
 と言うより、思うようにしている。

 もし筆者が大柄で、見るからに強く怖そうな男だったら。あるいはホリエモンのようなお金持ちと、皆に知られていたら。
 あのミニストップの店員も、ジャスコの家電売り場のオッサンも、京セラの小太りの男も、みな笑顔で機嫌を取って“良い人間”を演じるだろうし。そしてそいつらが実は嫌な奴らだという事実を、自分は最後までわからないでいる事だろう。
 そう考えれば、今のままチビで礼儀正しく、でも身なりや車にお金をかけずにいるのも、あまり悪くない事かも知れないと思う。

 とは言っても腹の立つものは立つし、ミニストップとジャスコと京セラに対する“一人不買運動”は、無力でも今後もずっと続けようと思っている。
 腹の立つ企業に対する一人不買運動って、一人では無力でも、皆がそれぞれに根性を入れて年単位で続ければ、それなりに効果があるのではないかと思う。
「腹は立つけど、安いし便利だから」などと言ってくじけてはダメだよ。
 筆者はどんなに近くて便利でもミニストップとジャスコの前は素通りし続けているし、どんなに写りに魅力があっても京セラがほんの少しでもかかわったカール・ツァイスのレンズとコンタックスのカメラは使わずにいるから。

 もう頑固を通り越して、執念深いというレベルだと自分でもわかっているけれどね。
 でも筆者に言わせれば、逆に日本人は忘れっぽ過ぎると思う。
 だから企業も政治も変わらないんだよ。
 誤ったことをした企業だけでなく役所や政府も、過ちをきちんと償い体質を改めるまで、決して許さない
 そのくらい頑固に執念深く忘れずに追及しなければ、企業も役所も政府も絶対に変わらないよ。
 企業や役所や政府は自らの過ちは直さず償わずに、忘れっぽい国民が追及するのを諦めるのを待っているのだよ。
 だから現に安倍首相も、パンツ大臣などの不祥事やTPPや戦争法案などの問題を追及されるのを恐れ、内閣を改造し国会議員の四分の一の要請があったら国会を開かなければならないという規定があるにもかかわらず、国民が忘れてほとぼりがさめるのを待って、国会を開くのを来年にまで先延ばししているよね。
「いついつまでに開くという規定は無いから」などと、法の抜け穴をすり抜けるような詭弁を弄して。

 だが少なくとも筆者は諦めない。
 筆者は思想的には基本的に保守で、20世紀にはたいてい自民党に票を入れていた。
 しかし21世紀になると同時に小泉政権が誕生して以来、筆者はただの一度も自民党に票を入れていない。国政選挙だけでなく、県議選や市議選、それに知事選や市長選も含めてだ。
 筆者の本質は相変わらず保守だが、小泉政権以来の自民党清和会による政治を許していないし、今後も許して票を入れるつもりは全く無い。
 日本人にはこれくらいの頑固さと、やられた事を決して忘れぬ執念深さが無いと、日本という国は絶対に変わらないのではないかと思っている。

 さて、この2015年に安倍政権がした事を、日本人が来年の参院選までちゃんと覚えているかどうか
 筆者としては甚だ不安であるが、少なくと筆者だけはしっかり覚えていて票を投じようと思っている。
 ミニストップやジャスコでは今後も決して買わないし、京セラがかかわったカメラやレンズも使わない。そして同様に、清和会が支配する自民党にも票を入れるつもりは無いと改めて明言しておこう。

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チビ自身が語る「チビの男は性格が悪いわけ」

 チビの男は性格が悪い、という声を時々聞く。
 筆者自身も“チビ”の一人であるが、「確かにそうかも知れない」と思わないでもない。

 女性の場合は、小柄に生まれてもそれほどデメリットは無いだろう。
 むしろ小柄な方が「可愛らしい、守ってあげたい」と思われて、得をする場合もあるくらいだ。
 しかし男は違う。
 小柄に生まれると辛い事ばかりで、得になる事など何一つ無いぞ。

 男で小柄に生まれてごらん。
 まず物心つくかつかないかの頃からイジメられるね。
 幼稚園でも小学校でも、男子の世界でものを言うのはまず“力”だから。
 そして子供の力は、たいてい体格に比例するものだから。
 それで小さな男の子は、体が大きく粗暴な男の子に虐げられる事になる。

 実際、小柄だった筆者は、よくイジメの標的になった。
 小学生の頃、粗暴な男子たちに度々「プロレスごっこ」と称するイジメを受け、無理矢理いろんなプロレス技をかけられて痛めつけられた事を、今でもよく覚えている。
 いくら「いやだ!」と言っても、体の大きなイジメっ子たちは笑い飛ばして聞いてはくれなかった。

 その「力がものを言う」という現実は、男の世界では大人になっても大して変わらない。
 無論、大人になれば“力”は体力だけでは無くなるからね。金力とか、権力とか、知力とか、力の種類もいろいろになってくる。
 実際、「高学歴で役職についていてお金もあるチビ」と「高校中退でフリーターで貧乏な大男」では、もちろん前者の方が強いだろう。

 だがその二人が、夜の街などで出くわして揉め事になり、一対一の乱闘にでもなったらどうなるか。
 一旦肉弾戦になったら、学歴も役職もお金も役に立たない。そのチビが何か格闘技でも身につけていない限り、チビはたちまち無惨にのされてしまう事になるだろう。
 また、学歴なり役職なり財産なりで明らかな差があれば良いのだが、ほぼ同等の立場にあれば、チビはたいてい周囲の者から見下される。

 それは大人になれば、チビに対する差別や暴力は子供の頃のように表立ったものでは無くなるが。
 しかし男の心の中には、チビに対する“肉体的優越感”のようなものが間違いなく存在する
「いざ喧嘩となれば、こんなチビなど叩きのめしてやれる」
 自分より小柄な人間にそんな動物的な感情を抱く事など全くないと言い切れる人間が、大人の男性の中にどれだけいるだろうか。

何だ、このチビ!
 何か揉め事や口論になった度に。
 そんな捨て台詞や罵りの言葉を、筆者はこれまでに何度浴びてきたかわからない。
 それも小中学生時代の話ではなく、立派な大人になった後もだ。
 断言するが。
 少なくとも男の心の中には、チビを身長だけでなく人間的価値も自分より一段低い劣る存在と見なしている部分が間違いなくある

 そしてまた、強い男性を求める本能のせいか、チビは女性にもモテないからねえ。
 高身長ならフツメンでもそれなりにモテるが、イケメンでも低身長だと女性にやや引かれてしまうのが現実だ。
 だから低身長の男子は幼い頃から肉体的な暴力に遭いながら育った上に、思春期になると今度は「モテない」という辛い現実にもぶつかる事になるのだ。

 小さい頃から強い男子(複数)にイジメられ、そして思春期になれば女子たちにもモテないで育ってごらん。そりゃあ、性格だって曲がりますってば。
「人は善意に満ちた優しい存在で、人生は素晴らしいものだ」などという綺麗事なんか、とても信じられないもんね、チビは。
 男子は肉体的な優劣で弱者をイジメるドーブツで、女子もまた強いオスに尻尾を振るビッチ。そうした世界観を持ちかねないんだよ、チビは。

 筆者自身が実感している事だが、チビは幼い頃だけでなく大人になった後も他者から見下され、虐げられ続けている。
 筆者が成人して何年も経ってからの事だ。そこそこ混んだ雑踏の中で、筆者は向こう側から来た背の高い男に突き当たられた。
 筆者は体をかわそうとしたのだが、相手がそのまま避けること無く早足で直進して来たのだ。
 それで互いに、肩と肩がぶつかり合う形になった。
 互いに振り返り、筆者はぶつかって来た相手をキッと睨んだ。
 その時に見た相手の顔が、筆者は今でも忘れられない。
 相手は最初、驚いた目をした。しかし自分がぶつかってよろめかせた相手がチビ(しかも童顔)だと見てとると、フッと気の緩んだ安心した表情を見せ、くるりと振り向いてそのまま立ち去ったのである。

 その相手は頭も人柄も悪そうな、いかにもDQN系といった人間だったわけではない。髪型も服装もきちんとした、見るからに真面目で真っ当な社会人風の男だった。
 そんな充分に常識をわきまえているであろう中流以上の大人の男でさえ、心の中では「相手が自分より肉体的に劣るチビなら、ブチ当たってよろめかせても、済みませんと詫びの一言も言う必要はない」と思っている。
 それが現実なのだ。
 皆がそうだとは言わないが、男には大人になっても心はオスでドーブツのままの者が少なからず存在するのである。

 それが現実の世の中であるとすれば、チビの男はどう生きて行けば良いか。
 道は、たった二つである。
 それが世の中の現実なのだと諦めて(イジメや差別も含めて)すべてを受け入れ、目立たぬように、不平も言わずに静かに生きるか。
 それともちゃんと一人前の男として扱われるまで、殴られ蹴られても周囲と戦い続けるか。
 そして筆者は後者の、戦って周囲の者たちになめられぬよう強く生きる事を選んだ。

 何しろ体格差が歴然としてあるからね。
 その自分より大柄で体力もある、しかも最初からこちらをナメてかかってきている奴ら(複数形)に立ち向かうんだよ? それはただ怖いどころの話じゃなかったさ。
 でも筆者は戦った。
 殴られ蹴られても戦って自分のプライドを守るのと、イジメっ子たちのパシリにされ皆から見下されて小さくなりながら生きるのと、どちらがマシか?
 そして筆者は、戦ってでもプライドを守り通す方を選んだだけの話だよ。

 けどチビが大柄なイジメっ子たちと戦うなんて、本当に生やさしい話じゃないよ。
 そもそもまともに立ち向かったって、勝てるわけも無いんだ。
 だから文字通り、キレて狂ったように暴れまくるしかなかった。
 殴られても蹴られても立ち上がり、目をギラつかせて飛びかかって行くの。で、「参った、もう許して」とは絶対に言わないで、相手に食らいついて行って死んでも喧嘩を止めない。
 ホントにね、「コイツを止めるには、もう殺すしかないんじゃないか」って思わせるくらいにキレて見せるんだよ。

 無論、自分から手を出すのではなくて、そんな酷い喧嘩をする時にはいつも相手が仕掛けてきた時にしていたけれどね。
 そしてそうして暴れていれば、「ヤツは怒るとキレるヤバいヤツだから、手を出すのは止めておこう」って話になってくる。
 おかげさまで中学生時代の筆者は、同級生たちにある種の精神の病を思わせるあだ名を付けられていたよ。「キレると発作を起こしたように暴れ狂う」と言うワケで。

 そう言えば中高校生時代の筆者に付けられたあだ名の一つに、ヒトラーというのもあったな。
 まあ、当時の筆者は周囲から、それくらいヤバいヤツに見えていた……って事デス。

 けど何と言われようと、「相手が強かろうと大人数だろうと、やられたら必ず(ぶちキレて)やり返す」というのを実行していたら、少なくとも筆者をナメて下手に手を出して来るヤツは無くなったね。
 逆にそれどころか、DQNグループの奴らとも対等に話が出来るくらいになっていた。

 イジメや喧嘩に限らずさ、男はただ低身長っていうだけでランクの低い人間のように見られて「隅で目立たぬように小さくしていろ」みたいな扱いを受けるんだよ。
 だからチビの男は、とにかく自分から前に出て頑張ってデキるところを見せないと、一人前に扱って貰えないんだよね。
 もちろん頑張って前に出たら出たで、デキるところを見せても「チビのくせに、出しゃばりで生意気」って陰口を言われがちなのだけれど。

 でもどう言われようと、「チビだから」と皆から見下されたままでいるよりはマシだ。
 だって同じ「チビのくせに」と言われるなら、隅で小さくなっているより、自分のやりたいようにして生きた方がマシでしょ?
 少なくとも筆者はそう思い、売られた喧嘩は買い生意気と言われて憎まれようと、自分を通して生きてきたわけデス。

 で、青少年にとっては重大時でもあり、チビにとってはもう一つの課題の“モテ”についても、そこは気合いでカバーしたね。
 何しろ男にとって、低身長というのは“非モテ”の大きな要素だから。
 平均以上の身長のイケメンとか、運動部のスター選手や音楽ができる人ならともかく、低身長の男が「女子に想いを寄せられて、告白されて」なんて事は、まずあり得ないから。

 特に取り柄のない平凡な男子が、なぜか凄い美少女(場合によっては複数)に惚れられて……というのは、青少年のラブコメ・マンガの王道だけど。
 それ自体が現実にはまずあり得ない事だけれど、特に男がチビとなると、実際にモテる確率は限りなくゼロに近づくのでアリマスよ。
 だからチビは、ただ黙って女子からのアプローチを待っているだけでは、下手をしなくても「実年齢=彼女いない歴」のまま魔法使いになる可能性が高い
 で、筆者は自分から動いたわけデス。
 身近な女の子に積極的に話しかけて、コミュニケーションを取り仲良くなる努力を惜しまなかったのだ。そして頃合いを見ては、デートにも誘ってね。

 と言うと、「よく恥ずかしくもなくそんな事が出来るね、オレにはそんな度胸ないよ」とか呆れられるけれど。
 冗談じゃない、筆者だって女の子に声をかけるのは恥ずかしかったし、デートに誘うとかすごく勇気が必要だったさ!
 問題は「そんな事して恥ずかしくないの?」って話ではなく、「声をかける勇気を出すかどうか」って事なんだよ。

 元々非モテのチビなんだから、黙っていて何もせずにいたら「実年齢=彼女いない歴」のままが続くのは確定だ。
 もちろん声を掛けても冷たくされ、遊びに誘ってもフラれる事も少なくない。
 でもどうせ「実年齢=彼女いない歴」だったら、声を掛けてフラれたところで同じ事だし、別に損も無いでしょう?
 だったら万が一wwwの可能性に賭けて、「良いナ」と思った子にはアプローチしてみた方がマシだと筆者は思ったわけだ。

 ハイ、もちろん数え切れないほどフラれて、恥ずかしい思いや痛い思いも厭というほど味わってきマシタとも。
 でもおかげで少なくとも人並みの時期には魔法使いになる資格を失ってしまったし、今もまだ独身ではあるけれど、付き合って来た彼女の数は両手の指で数える以上くらいになってイマス。

 おわかりでしょうか。
 チビの男が人並みに生きるには、人一倍頑張らなきゃならないんだよ。
 イジメにも耐え勝てない喧嘩もして、低身長を補う為に何か自分を売り込める特技を磨いて、それを積極的にアピールもして。
 そして男女交際でも、自分から積極的にアプローチしていって。
 けれどそのすべてが、周囲の人達には「チビのくせに出しゃばりで生意気」と見えてしまうんだけれどね。

 で、「チビのくせに」と言われても負けずに頑張って前に出て行く男は「厭なヤツ」と言われて。
 そして争う事までして自己アピールしない、世の中の片隅で静かに暮らす道を穏やかで大人しい性格のチビは人の目に入らずに存在を無視されて。
 結果、前者の気が強く前に出るタイプの低身長の男ばかりが目立って、「男のチビは性格が悪い」と言われているのだと思う。

 よく見てみれば、静かで穏やかな人柄の良い低身長の男も、結構たくさん居るんだけれどね。
 けど筆者も含めて「チビのくせに」と見下されて黙っていない低身長の男には、強気で頑固で意固地な可愛くない性格の者が多いのは事実デス。

 同じ強気でも、元々体格に恵まれている男の強気と、チビの強気はタイプが違うから。
 端的に言えば、前者と違ってチビの強気には余裕が無いんだよ。
 体格や体力では相手に負けているし、日頃から「チビのくせに」と言われ続けてきて、さらに女の子にも非モテだし。
 コンプレックスは物心ついた頃からいろいろあるし、体力的にも精神的にもギリギリの所で頑張っているものだから、生まれつき高身長で体力に恵まれた男と違って余裕が無いんだよ。
 その「頑張ってるチビ」の抱えているコンプレックスと余裕の無さが、傍から見れば「性格が悪い」って風に映るのだと思うよ。

 うん、筆者自身もそうしたチビ男の一人として、自分の性格の悪さは認める。育った環境のせいで、強く生き抜く為に性格がかなり曲がったと自分でも思うもの。
 でも男でチビだとそれだけで周囲の人から見下されてイジメられ、女子にも非モテで、そんな中でも強く生きようとしてきた頑張りだけは認めてほしいと思うな。

 ホント、大人になってかなり経った今でも、「チビのくせに」という陰口は何度も何度も言われるよ。
 男でチビだとね、周囲と対等にハッキリものを言うだけで、「チビのくせに生意気」と見られがちなのだよ。
 世間の多くの人達ってのは、チビの男は周囲に遠慮して小さくなって生きているべきだと思っているんじゃないかと、小柄な男の一人である筆者は常日頃から感じている。
 これはチビのコンプレックスからくる、被害妄想なのだろうか。

 そんな世間の求める通り、いつも控え目にして大人しく生きている善良な小柄な男性も、ただ目立たないだけで実際には大勢いるのだ。
 そして筆者のように生意気に生きているチビの性格が曲がってしまったのにもわけがある事を理解して、ほんの少しだけ同情してくれる方が現れてくれたら幸いデス。

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