空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

『あさが来た』にも見る、連続テレビ小説や大河ドラマのヒロインは決して老けない怪奇

 朝の連続テレビ小説『あさが来た』が、相変わらず好評で視聴率も高いようだが。
 それを不熱心に横目で見つつ、「オマエもかよ」と残念に思っている事がある。

 NHKの近年の大河ドラマや連続テレビ小説では、何故かヒロインがいつまでも老けない
 結婚しようが、出産しようが、その産んだ子が成長しようが、ヒロインはいつまでも若々しく“娘”のままなのである。
 例えば『』に至っては、少女期の頃には既に大人でありながら最後まで全く変わらずそのままで、「ヒロインはバケモノか!」と思うほどであった。
 まあ、『江』は脚本や演出から時代考証まで、いろいろとあまりにもヒド過ぎたから例外にしておくとしても。
 ヒロインが「十代の思春期から既に閉経した筈の中年過ぎになるまで、ずっと変わらず若々しく美しいまま」というのは、見ていて余りにも不自然で気持ち悪すぎるよ。
 でも近年の大河ドラマや連続テレビ小説では、どれもこれも不気味なほどにヒロインが老けない。

 筆者は幼い頃から歴史が好きで、大学も史学部国史専攻コースに進んだ。
 だから歴史もただ教科書に書いてある事を丸暗記するのではなく、歴史上の出来事についていちいち「なぜだろう?」と考え、通説についても「それは本当なのだろうか?」と疑ってみる習慣がついている。
 その結果、筆者は明治維新については大の薩長ギライの佐幕派になってしまったのだ。

 歴史を長い目で眺めるとですね、天皇を飾り物の権威として実権を薩長の連中が握った新政府は、“維新”と称して対外侵略的な軍国主義の国造りを最初から目指していて、そしてそのままあの愚かで破滅的な太平洋戦争へと突き進んで行き、我が祖国日本は滅亡の危機に陥ってしまうのデスよ。
 それを理解している筆者は、明治維新を日本の新しい夜明けのように評価し、薩長のテロリスト達を“志士”と持ち上げて誉め称える史観には、違和感と嫌悪しか感じない。
 同時に、明治維新とそれを押し進めた人々の行為に対して何の疑問も抱かず知識も無いまま、ただイメージだけで維新を良いことのように思い、維新を党の名にする政党と、それに属する政治家と、さらにそれに一票を投じる有権者にも全く共感できない。

 ゆえに『花燃ゆ』は最初から全く見なかったが、それでも他の番組と番組の間にスポット的に挟まれて、無理矢理に見せられる番宣で眺める限り、ヒロインの井上真央さんはやはり最後まで老けなかった。

 前にも書いた通り筆者は佐幕派で、会津藩や新撰組には強いシンパシーを抱いているが、『八重の桜』でもヒロインは殆ど老けず、八重は最後まで「綾瀬はるか」のイメージのままだった。
 断っておくが、筆者は綾瀬はるかさんは好きだ。
 だが『八重の桜』については、「やっぱり老けないなー」と冷笑まじりに見ていた。

 まあ、『カーネーション』は晩年の主人公を、キャストごと変えて違う役者さんにやらせていたが。
 実際、いくらメークの技術を駆使しても、高校生の孫もいる老女の役を尾野真千子さんにやらせるのは無理があったかも知れない。
 しかし以前なら、少なくとも娘時代から中年過ぎくらいまでは、同じ女優さんが演技とメークで変化をつけてこなす場合が少なくなかった。
 と言うか、それが当たり前だった。

 少し以前なら、例えば二十代の女優さんがメークで小皺を描き髪も白く染め、いかにもオバサンらしい演技をして見せたら、「上手く老け役を演じたものだ」役者として評価されたものだ。
 しかし今は違う。
 ヒロインは母となり子が大きくなっても、娘時代の頃と殆ど同じで老けないのである。
 残念ながら『あさが来た』でも、既に四十代になっているヒロインのお肌はツルツルのままで張りもあり、皺ひとつ無いのである。
 そろそろ思春期になろうという娘と並んでも、親子でなく姉妹にしか見えないのである。
 繰り返し言う、朝ドラや大河ドラマのヒロインはバケモノか!

 今の女優さんというのは、役者としての演技の評価より“綾瀬はるか”なり“井上真央”なり“波瑠”なりという、タレントとしてのイメージの方が大事なのだろうか。
 老け役を見事に演じたら、その女優の若さや美しさなどのイメージが壊れて人気が落ちると思っているのだろうか。
 そんなに若さや美しさなどのイメージが大事なら、「役者でなくアイドルになれ!」と怒りたくなってしまうのは、筆者だけだろうか。

 まあ、今はジャニーズやAKBなどのアイドル達もよくドラマで重要な役を演じているし、アイドルと役者の区別そのものが無くなっているのかも知れないが。
 で、視聴率ほしさに演技力より話題性と人気を重視してアイドルを使えば、どうしても事務所の方の「イメージがあるから、老けさせないでくれ」という要望を受け入れざるを得ないのだろう。
 しかし繰り返し言うが、役の上とは言え「四十をとうに過ぎても娘時代と殆ど変わらず、思春期の我が子と姉妹にしか見えない」というのは、若くて綺麗な女性が好きな男の一人である筆者が見ていても気持ちワルイよ。

 この「近年の連続テレビ小説や大河ドラマでは、ヒロインが結婚し出産し、その子が成長しても殆ど老けず娘時代のままに若々しい」という現象は、もしかしたら演じるタレントのイメージの問題ではなく、主たる視聴者である女性の願望なのかも知れない。
 実際、「娘とは、友達のような親子になりたい」と正気でおっしゃる女性が少なからずいるからね。

 でも男で、「息子とは、友達のような親子になりたい」などと言う男はまずいないし、いたら気持ちワルイよね。
 子供に対して、多くの男はあくまでも“親”であるべきだと思っているし、少なくとも以前は女性もそうだった筈だ。
 けれど今の女性には、四十を過ぎても思春期の娘と「友達(姉妹)みたい」な関係でいたいと思っていて、人からもそう見られたいと思っている気持ちワルイ人達が無視できないほど実在するから怖い

 そういう女性達は、「美魔女とかいるし、今のアンチエージング技術とメイクをなめるな!」とか言うけれど。
 でもアナタ、化粧やエステあれこれで誤魔化した四十代や五十代の“美魔女”を、十代後半から二十代の本当に若い女性と並べて比べてごらんなさい、って。目尻や口元などの小皺だけでなく、肌の張りやツヤから頬や首の弛みまで、何から何まで全然違うから。

 以前にも書いた事があるが、筆者は若い頃、プロの写真家になりたいと思っていた。それも篠山紀信さんや荒木経惟さんのような女性を撮る写真家になりたいと思っていた。
 だから多くの女性を見て写真に撮ってきたし、それだけに女性のメークに騙されずに実年齢を見抜く自信はあるつもりだ。

 その筆者に言わせると“美魔女”など「年の割には若く見えるね」という程度であって、本当に若い女性と並べて比べてしまうとその差は一目瞭然なのだ。
 それに気付かず、娘と友達気分で姉妹に見えるつもりの母親など、傍から見ていて怖いしイタ過ぎるとしか言いようが無い。

 一部の(筆者はそう信じたい)女性達の、その怖くてイタ過ぎる夢を叶える為に、連続テレビ小説や大河ドラマはヒロインを年相応に老けさせることを止めたのだろうか。
 この「ヒロインは決して老けずに、いつまでも若々しいまま」という風潮は、筆者の私見では『利家とまつ』から始まったように思うが、どうだろうか。

 現在も視聴率が好調の『あさが来た』でも、もう明治になって二十数年も経とうというのに、変わったのは髪型と服だけで、ヒロインは明治初年の頃と同様に若々しいままで、お肌ツルツルだ。皺一つ無く、どんどん大きくなりつつある自分の“娘”と同じように肌が張り切っている。
 ……気持ちワルイったら、ありゃしない。

 わざとらしく、ことさら醜く老けろと言うのではない。
 ごく自然に、年相応に品良く老けさせる事だってできる筈だし、「ヒロインは全く老けない」という方が不自然でバケモノじみていると筆者は思う。

 大河ドラマの『真田丸』の方は、祖母と母、それに二人のヒロインと、ちゃんと世代の違いが区別されているが。
 少なくとも、今のところは。
 しかし信長が本能寺で死んだこの後、豊臣の時代が続くものの徳川に取って代わられ、大阪夏の陣で主人公(真田信繁)が滅び行く豊臣家と運命を供にして討ち死にするまで、物語はあと三十数年続く筈だ。
 現在は若い娘でいる長沢まさみさんと黒木華さんが、この先もまたずっと老けずにいるのか、それとも年相応に上手に老けて行くのか、怖々と見守って行こうと思っている。

 余計な事だが、最後に一つだけ。
「何とかギャグを盛り込もう」という姿勢がチラチラ窺える三谷幸喜の脚本には、本格的な時代劇を見たい筆者はどうにも感心できない。

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男でチビに生まれたからこそわかる事

 先週、自身も含めて「チビの男はなぜ性格が悪いか?」という事について話したが、その際に過去に体験した厭な記憶を思い出した。
 今回はその事について語りたいが、その前に前提を一つ書いておきたい。

「お客は神様だ」
 この国には本気でそう信じているバカも存在するようだが、少なくとも筆者は違う。
 よく客商売のアルバイトを初めて体験した学生などが、「お客にありがとうと言われるのが、こんなに嬉しい事とは思わなかった。これまで自分はお客だからと無愛想に接してきたことを反省した」などと、さも感動したように語る者が少なからず存在する事に、筆者は呆れている。
 そして筆者の姉もまた、大学生になり自分がバイトの店員になるまでそうした事に気付かずにいたバカの一人だった。

 筆者は違う。
 そうした客相手の仕事を経験する前から、筆者は店員に注文したりレジで精算を頼む時には軽く一礼して「お願いします」と言い、そして用事が済んだら「ありがとう」とまた軽く一礼して立ち去るようにしていた。
 ちなみに応答の言葉は、基本的に敬語と言うか丁寧語である。
 何故ならお客も店員も、立場の違いこそあれ同じ人間なのだから。

 無論、店員に対し必要以上にへり下る必要も無いが、人間同士として必要な礼儀というものがあると筆者は思っている。たとえ自分が客で、相手より立場が上だとしても……だ。
 だから逆に自分がバイトの店員の立場になった時も、立場の違いはあるから当然お客には丁重に応対したが、人としてのプライドを捨ててまで無理を聞いたり非礼に耐えたりするような事もしなかった。
 頑なで融通が利かないと言われようとも、「礼儀をきちんと守った上で、お客も店員も同じ人間なのだ」というのは、筆者の子供の頃からの至極当然な常識だった。

 そんな筆者にとっては、「客だから店員には無愛想で威張っていて当然だ」などとあり得ない話だし、自分が店員になって初めてお客にありがとうと言われて感激して、それまでの自分の店員に対する傲慢な態度を反省するなど、まるで馬鹿げた話にしか聞こえなかった。
「下らない、そんなの当たり前の事だろ」
 だから筆者は思わずそう言い放ってしまって、怒った姉と喧嘩になってしまった。

 そのような人間だから、筆者は店員に無礼なことをしたり傲慢に振る舞ったりした事は全くない。
 むしろ逆に、社会人としてと言うより人間として非常識な店員(または社員)に非礼な対応を何度もされているくらいだ。

 少し話は逸れるが、筆者はお金の使い方が普通の人とはかなり違っている。自分の趣味や好きな事にはそれこそあるだけ遣うが、その代わり自分にとって優先順位の低いと思われる物には殆どお金を遣わない。
 大切なのは「自分自身が楽しくて満足か?」であって、「周囲の人からどう思われるか?」という事については、まず人目を気にするこの国では異常なほど無関心なのだ。
 だからいい年をして乗っている車は軽自動車(しかも中古)だし、着ている服も主にユニクロだ。そして最近では、実用性とコストを考えてワークマンで買った服も着たりしている。
 金はあるだけ書籍類と写真と映画と趣味の収集品に使い、見かけを飾る事は本当にどうでも良いと思っている。
 限られた少ないお金は、外見や持ち物で他人に「スゲーな」と思われる事にではなく、自分自身の心と感性を豊かにする為に遣いたいのだ。

 しかし残念ながら、どなたかが本に書いていたように『人は見かけが9割』というのが現実だからね。
 人が感心するのは、目に見える服や持ち物や車や家などであって、目に見えない心や感性などは(その人が有名になるまで)殆ど無視されるのが現実デス。
 で、見かけで人を判断するのは、店員(社員)も同じなのだ。
 何しろ筆者は先週も書いたように、小柄だからね。しかも童顔である。
 そしてユニクロの服を着て、古そうな軽自動車で乗り付けて来て、腰を低くして敬語で話しかけてきたら、店員(社員)さんの中にも初めからナメてかかって、「コイツならぞんざいな態度であしらっても構わない」と思うクズ人間がいるわけデスよ。

 お店や企業の名前を実際に出すと、その店や企業から営業妨害だの名誉毀損だのと抗議を受け、場合によっては弁護士が出て来るかも知れないが、本当の事だから書いてしまおう。
 写真を撮るのを趣味にしている筆者が、静岡県を車(例によって中古の軽自動車)で旅した時、駿東郡長泉町ミニストップに立ち寄った。
 そして買い物をして、いつものようにレジの女性には「すみません」と軽く一礼し、会計を済ませ「どうも」とまた会釈してドアに向かいかけた時の事だ。
 数歩進んでドアの手前にさしかかった筆者の耳に、レジのクソアマ、いやUNKO女性が、もう一人の女性店員に話しかける声が聞こえてきた。
ちっさい人だったよねぇー
 それも声を落とした耳打ちなどではなく、遠慮も何もない大声だったから、筆者の耳にもはっきり聞こえた。

 筆者はチビを自覚しているし、気分は良くないがそう言われるのにも慣れている。
 ある時、筆者よりも明らかに身長のある、それも縦よりも横方向によく育った知り合いの女性に、ニヤニヤしながらこう言われた事もある。
「あら小さいねえ、踏んづけちゃうゾ」
 ……まあね、良い気はしなかったけれど。ただ相手は以前からの知り合いで、冗談で言ったのもわかっていたから、笑って聞き流したけれどね。
 うん、そう悪意なく面と向かってチビと言われた場合には、筆者はたいてい気にせずに許している。

 しかしだ、静岡県駿東郡長泉町のミニストップの店員は違う。
 きちんと礼儀を尽くして買い物をした客の背中に、身体的な特徴をあげつらう言葉を投げつけるのは、店員としてという以前に、人間として駄目過ぎるにも程があると思うのは筆者だけであろうか。

 筆者がチビな事にそんなに驚いたのなら、面と向かって世間話として「それにしてもお客さん、背が低いですねぇ」と言えよ、っての。
 面白くはないが、それならまだ許せる。筆者の背が低いのは事実だし、そう言われるのにも慣れているからな。
 しかし静岡県駿東郡長泉町のミニストップの女性店員(多分バイトかパート)は、面と向かって素直な驚きとして言うのでも、筆者がドアの外に出るのを待ってから言うのでもなく、背に投げつけるように、しっかり聞こえる声で言い放った。

 許せぬ、と思った。
 レジに引き返して「もう一度言ってみろ!」と叱りつけてやろうかと、余程も思った。
 しかし背後から言われた為、二人いたレジの女性店員のうちのどちらが言ったのか、筆者は直接には見ていない。文句をつけたところで、言った言わないの水掛け論になっても面白くないし、旅を急ぎたかった事もあって、そのまま黙って店を出てしまった。

 相手の身体的特徴をからかうのは、良くない事だがよくある話だ。
 また、客がドアの外に出て声が聞こえない所まで行ってから、その客の悪口を言うのは、客商売ではよくある話だろう。
 しかし静岡県駿東郡長泉町のミニストップの女性店員は、世間話的に直接言うのでも、ドアの外に出るまで待つのでもなく、ちゃんと聞こえる声でお客の身体的特徴を揶揄する言葉を背に投げかけてきた。
 店のレジの女性と口論はしなかったが、間違いなく傷ついたし深く恨みに思った。

 だから筆者はそれ以来、その静岡県駿東郡長泉町のミニストップだけでなく、全国すべてのミニストップを利用するのを止めた。
 どんなに急いでコンビニに寄りたい時があっても、そこにあったのがミニストップなら我慢して他のチェーン店が見つかるまで待つ。
 実は筆者の自宅の最寄りのコンビニはミニストップで、楽に歩いて行ける距離にあるのだが、本当にまだ一度もその店にも行っていない。
 別にそこのミニストップの店員に厭な思いをさせられたわけではないのだが、そこがミニストップだというだけで、絶対に行きたくなくなってしまうのだ。
 それで筆者は、コンビニを利用する時には徒歩ですぐ行けるミニストップを素通りして、わざわざ自転車を使ってもっと遠いローソンかセブン・イレブンに行っている。
 面倒だし、筆者一人が不買運動を続けていてもミニストップは痛くも痒くもなかろうが、それが筆者の通したい意地なのだ。
 で、いろいろあるコンビニの中でミニストップだけは「無いもの」として無視し続けて、もう数年以上になる。
 言うまでもなく、そのミニストップに対する一人不買運動は、今後もずっと続けるつもりだ。

 筆者の一人不買運動はただミニストップだけでなく、実はジャスコ京セラに対しても続けている。
 まずジャスコについて話したいが、地元のジャスコの事である為、ジャスコ○○店と言ってしまうと、筆者の住む市まで特定されてしまう。
 だから残念ながら、ジャスコ某店とだけしか言えない。

 で、まだテレビが地デジでなくアナログのブラウン管だった時代に、ジャスコが20型のテレビデオを売り出した。
 それがなかなかお買い得な値段だったので、チラシを見て筆者は早速買いに行った。
 真っ直ぐ家電製品売場に行き、その売り場のカウンターの中にいた中年男性の店員に、「すみません」と声をかけた。
 そして顔を向けたその男性店員に一礼し、「あのテレビデオが欲しいのですが」と声をかけた。
 するとその男性店員は返事もせずに横を向き、離れた場所にいた女性店員に声をかけ呼びつけた。そしてそのままこちらには目もくれず、カウンター内の椅子に座り込んで自分の仕事を続けた。

 年齢から見て、その男性店員は売り場の主任か何かのちょっと偉い人で、安売りのテレビデオ(と言っても四万円はする)を買いに来るようなビンボーな客など相手にできなかったのだろう。
 チラシに載せた安売りのテレビデオは、若い女性店員の担当と、おそらくは決まっていたのだろうな。
 だがそれはジャスコの売り場の都合であって、お客には何の関係も無い事だ。家電売り場のカウンター内に居たのだから、主任だろうが何だろうが応対するのが当然ではないか。
 仮にそのテレビデオが若い女性店員の担当だったとしても、少なくとも客の会釈には会釈を返し、「ありがとうございます、ただ今担当の者に替わりますので」くらい言うのが常識ではないだろうか。
 しかし客には一言の返事も会釈も無く、ただ離れた場所にいた女性店員を呼びつけて任せただけだったのだ、そのお偉いジャスコの男性店員サマはね。
 だからそれ以来、筆者は地元を含めた全てのジャスコに行くのを止めている。

 話は変わるが、写真はレンズで決まる。
 カメラ内部の処理プロセッサーや、パソコンでの画像処理の影響が大きいデジタルの時代は別だが、フィルムで写真を撮っていた時代には、レンズの違いが画像に大きな差を生んだ。
 例えば同じ35mmF2のレンズでも、メーカーによって色の出方も線の描写もかなり違ってくるのだ。
 そして一眼レフなどの交換レンズは、同じメーカーのカメラにしか付けられないからね。
 だから違う写りを求めたければ、違うメーカーの交換レンズとカメラボディまで揃えなければならなかったのだ。
 で、お金にゆとりは無いくせに、写真にはあるだけのお金をつぎ込んでしまう筆者は、オリンパスにペンタックス、それにキヤノンにニコンにミノルタに富士写真フィルム、さらにツァイスやライカまで、ありとあらゆるメーカーのカメラとレンズを買い揃えてしまった。
 もちろん中古のものが多いが、今でも百台くらいのカメラと百本くらいの交換レンズを持っている。
 余りにも数が多過ぎて、自分でも正確なその総数を把握し切れていないのだ。

 だからそのカメラたちのメンテナンスの為に、ほぼ全てのメーカーのサービスセンターに足を運んだ。
 でもそのサービスセンターの職員から見れば、筆者など取るに足りない一ユーザー(背だけでなく腰も低く安そうな服を着ている)に過ぎないからね。写真にかけては金を惜しまず、ほぼ全てのメーカーのカメラを持ってるなんて思いもしないだろうさ。
 それだけに、儲けにもならないアフターサービスを受けに来た客に対する態度は、面白いくらいに違ったね。

 これはあくまでも、筆者個人が受けた印象だが。
 まず最良なのがペンタックス。いつ行っても親切な応対をして貰え、感じもとても良かった。
 ニコンはプロの写真家の中には「威張っている」と悪印象を持っている方もいるようだが、筆者個人の印象では威張ったところなどまるで感じず、親切だったし対応も紳士的だった。
 ミノルタのサービスセンターの方も、商売抜きでとても親切だった。
 オリンパスは「人による」としか言いようが無く、親切で人柄の良さを感じさせる方と、いかにも事務的に応対する方がいた。しかし不快な応対をされる事は無かった。
 キヤノンは最初に話を聞いてくれたのが男の社員でも、「問題が大した事ではない」と察すると、応対する役目をすぐに若い女性社員に変えるところが笑えた。
 で、中でも最悪だったのが、ドイツの名門カール・ツァイスのレンズをウリにした、コンタックスというブランドのカメラを出していた京セラのサービスセンターだった。

 京セラのどこのサービスセンターだったかは、例によって筆者の居住地を特定されぬよう避けるが。
 フィルムのカメラが全盛だった今から約二十年ほど前の事だが、はっきり覚えている。

 コンタックスのある付属品(もちろん有料)が欲しかった筆者は、京セラの某県のサービスセンターに行った。そしてカウンターの向こう側に座っていた、三十過ぎくらいの小太りで顔に脂の浮いた男性にまず一礼をして声をかけた。
「あの、すみませんが──」
 男は椅子にどかりと腰を据えたまま、口を“へ”の字に曲げて筆者をギョロリと睨むように見る。
「○○というカメラの、×××という付属品が欲しいのですが──」
 男は椅子に腰を据えて黙ったまま筆者をひと睨みして、さも面倒臭そうに、後ろの女性社員に向けて顎をしゃくる。
 すると若い女性社員(清楚で可愛い)が慌てて出て来て、親切丁寧に応対してくれたのだけれど。
 それでもその最初に遭遇した、小太りでオイリーな男性社員の悪印象が強すぎて、例によって筆者はその後、京セラが関係する一切のカメラとレンズを購入しなくなった。

 例え担当が違ったとしても、だ。
「はい、承りました。担当の者に替わりますので、少々お待ち下さい」
 いい大人の社会人が、来た客にその一言がなぜ言えないのか、今もって不思議でならない。

 その京セラを創業して長く社長と会長の職にあった稲森和夫氏と言えば、人生訓のような本を何冊も出していて、信者のような崇拝者も大勢いるようだが。
 ご本人がいくら人格者を気取ってご立派な事をおっしゃっていても、自社の社員には会釈をし敬語で用件を話した客に、無言と凝視で応じ顎をしゃくるだけで済ます者が現に存在しているのである。

 このように、男で背が低いと厭な目に遭う事が少なくない。しかも筆者のように着るものにも車にもこだわらず、さらに「オレ様は客だ!」などという態度は決して取らずに礼儀正しく接していると、店の人にさえナメられて不愉快な応対をされる事がある。
 だがそれゆえに、「相手の本質と本音がわかる」とも言える。

 チビで金も無く、そして礼儀正しく接するよう努力しているばかりにナメた態度を取られがちな現実が、昔は悔しくてならなかった。
 だが年を食ってかなり大人になった今は違う。
 チビでカネも無さそうな相手にも、人として親切に接する事が出来るか。そういう本音の部分を露骨に見せられ、相手が強かったり金があったりすれば態度を変えるようなクズ人間あるいは「社員教育のなってないダメ企業」を嫌でも見抜く事が出来るようになったのは、メリットとも言えるかも知れないと、今では思っている。
 と言うより、思うようにしている。

 もし筆者が大柄で、見るからに強く怖そうな男だったら。あるいはホリエモンのようなお金持ちと、皆に知られていたら。
 あのミニストップの店員も、ジャスコの家電売り場のオッサンも、京セラの小太りの男も、みな笑顔で機嫌を取って“良い人間”を演じるだろうし。そしてそいつらが実は嫌な奴らだという事実を、自分は最後までわからないでいる事だろう。
 そう考えれば、今のままチビで礼儀正しく、でも身なりや車にお金をかけずにいるのも、あまり悪くない事かも知れないと思う。

 とは言っても腹の立つものは立つし、ミニストップとジャスコと京セラに対する“一人不買運動”は、無力でも今後もずっと続けようと思っている。
 腹の立つ企業に対する一人不買運動って、一人では無力でも、皆がそれぞれに根性を入れて年単位で続ければ、それなりに効果があるのではないかと思う。
「腹は立つけど、安いし便利だから」などと言ってくじけてはダメだよ。
 筆者はどんなに近くて便利でもミニストップとジャスコの前は素通りし続けているし、どんなに写りに魅力があっても京セラがほんの少しでもかかわったカール・ツァイスのレンズとコンタックスのカメラは使わずにいるから。

 もう頑固を通り越して、執念深いというレベルだと自分でもわかっているけれどね。
 でも筆者に言わせれば、逆に日本人は忘れっぽ過ぎると思う。
 だから企業も政治も変わらないんだよ。
 誤ったことをした企業だけでなく役所や政府も、過ちをきちんと償い体質を改めるまで、決して許さない
 そのくらい頑固に執念深く忘れずに追及しなければ、企業も役所も政府も絶対に変わらないよ。
 企業や役所や政府は自らの過ちは直さず償わずに、忘れっぽい国民が追及するのを諦めるのを待っているのだよ。
 だから現に安倍首相も、パンツ大臣などの不祥事やTPPや戦争法案などの問題を追及されるのを恐れ、内閣を改造し国会議員の四分の一の要請があったら国会を開かなければならないという規定があるにもかかわらず、国民が忘れてほとぼりがさめるのを待って、国会を開くのを来年にまで先延ばししているよね。
「いついつまでに開くという規定は無いから」などと、法の抜け穴をすり抜けるような詭弁を弄して。

 だが少なくとも筆者は諦めない。
 筆者は思想的には基本的に保守で、20世紀にはたいてい自民党に票を入れていた。
 しかし21世紀になると同時に小泉政権が誕生して以来、筆者はただの一度も自民党に票を入れていない。国政選挙だけでなく、県議選や市議選、それに知事選や市長選も含めてだ。
 筆者の本質は相変わらず保守だが、小泉政権以来の自民党清和会による政治を許していないし、今後も許して票を入れるつもりは全く無い。
 日本人にはこれくらいの頑固さと、やられた事を決して忘れぬ執念深さが無いと、日本という国は絶対に変わらないのではないかと思っている。

 さて、この2015年に安倍政権がした事を、日本人が来年の参院選までちゃんと覚えているかどうか
 筆者としては甚だ不安であるが、少なくと筆者だけはしっかり覚えていて票を投じようと思っている。
 ミニストップやジャスコでは今後も決して買わないし、京セラがかかわったカメラやレンズも使わない。そして同様に、清和会が支配する自民党にも票を入れるつもりは無いと改めて明言しておこう。

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チビ自身が語る「チビの男は性格が悪いわけ」

 チビの男は性格が悪い、という声を時々聞く。
 筆者自身も“チビ”の一人であるが、「確かにそうかも知れない」と思わないでもない。

 女性の場合は、小柄に生まれてもそれほどデメリットは無いだろう。
 むしろ小柄な方が「可愛らしい、守ってあげたい」と思われて、得をする場合もあるくらいだ。
 しかし男は違う。
 小柄に生まれると辛い事ばかりで、得になる事など何一つ無いぞ。

 男で小柄に生まれてごらん。
 まず物心つくかつかないかの頃からイジメられるね。
 幼稚園でも小学校でも、男子の世界でものを言うのはまず“力”だから。
 そして子供の力は、たいてい体格に比例するものだから。
 それで小さな男の子は、体が大きく粗暴な男の子に虐げられる事になる。

 実際、小柄だった筆者は、よくイジメの標的になった。
 小学生の頃、粗暴な男子たちに度々「プロレスごっこ」と称するイジメを受け、無理矢理いろんなプロレス技をかけられて痛めつけられた事を、今でもよく覚えている。
 いくら「いやだ!」と言っても、体の大きなイジメっ子たちは笑い飛ばして聞いてはくれなかった。

 その「力がものを言う」という現実は、男の世界では大人になっても大して変わらない。
 無論、大人になれば“力”は体力だけでは無くなるからね。金力とか、権力とか、知力とか、力の種類もいろいろになってくる。
 実際、「高学歴で役職についていてお金もあるチビ」と「高校中退でフリーターで貧乏な大男」では、もちろん前者の方が強いだろう。

 だがその二人が、夜の街などで出くわして揉め事になり、一対一の乱闘にでもなったらどうなるか。
 一旦肉弾戦になったら、学歴も役職もお金も役に立たない。そのチビが何か格闘技でも身につけていない限り、チビはたちまち無惨にのされてしまう事になるだろう。
 また、学歴なり役職なり財産なりで明らかな差があれば良いのだが、ほぼ同等の立場にあれば、チビはたいてい周囲の者から見下される。

 それは大人になれば、チビに対する差別や暴力は子供の頃のように表立ったものでは無くなるが。
 しかし男の心の中には、チビに対する“肉体的優越感”のようなものが間違いなく存在する
「いざ喧嘩となれば、こんなチビなど叩きのめしてやれる」
 自分より小柄な人間にそんな動物的な感情を抱く事など全くないと言い切れる人間が、大人の男性の中にどれだけいるだろうか。

何だ、このチビ!
 何か揉め事や口論になった度に。
 そんな捨て台詞や罵りの言葉を、筆者はこれまでに何度浴びてきたかわからない。
 それも小中学生時代の話ではなく、立派な大人になった後もだ。
 断言するが。
 少なくとも男の心の中には、チビを身長だけでなく人間的価値も自分より一段低い劣る存在と見なしている部分が間違いなくある

 そしてまた、強い男性を求める本能のせいか、チビは女性にもモテないからねえ。
 高身長ならフツメンでもそれなりにモテるが、イケメンでも低身長だと女性にやや引かれてしまうのが現実だ。
 だから低身長の男子は幼い頃から肉体的な暴力に遭いながら育った上に、思春期になると今度は「モテない」という辛い現実にもぶつかる事になるのだ。

 小さい頃から強い男子(複数)にイジメられ、そして思春期になれば女子たちにもモテないで育ってごらん。そりゃあ、性格だって曲がりますってば。
「人は善意に満ちた優しい存在で、人生は素晴らしいものだ」などという綺麗事なんか、とても信じられないもんね、チビは。
 男子は肉体的な優劣で弱者をイジメるドーブツで、女子もまた強いオスに尻尾を振るビッチ。そうした世界観を持ちかねないんだよ、チビは。

 筆者自身が実感している事だが、チビは幼い頃だけでなく大人になった後も他者から見下され、虐げられ続けている。
 筆者が成人して何年も経ってからの事だ。そこそこ混んだ雑踏の中で、筆者は向こう側から来た背の高い男に突き当たられた。
 筆者は体をかわそうとしたのだが、相手がそのまま避けること無く早足で直進して来たのだ。
 それで互いに、肩と肩がぶつかり合う形になった。
 互いに振り返り、筆者はぶつかって来た相手をキッと睨んだ。
 その時に見た相手の顔が、筆者は今でも忘れられない。
 相手は最初、驚いた目をした。しかし自分がぶつかってよろめかせた相手がチビ(しかも童顔)だと見てとると、フッと気の緩んだ安心した表情を見せ、くるりと振り向いてそのまま立ち去ったのである。

 その相手は頭も人柄も悪そうな、いかにもDQN系といった人間だったわけではない。髪型も服装もきちんとした、見るからに真面目で真っ当な社会人風の男だった。
 そんな充分に常識をわきまえているであろう中流以上の大人の男でさえ、心の中では「相手が自分より肉体的に劣るチビなら、ブチ当たってよろめかせても、済みませんと詫びの一言も言う必要はない」と思っている。
 それが現実なのだ。
 皆がそうだとは言わないが、男には大人になっても心はオスでドーブツのままの者が少なからず存在するのである。

 それが現実の世の中であるとすれば、チビの男はどう生きて行けば良いか。
 道は、たった二つである。
 それが世の中の現実なのだと諦めて(イジメや差別も含めて)すべてを受け入れ、目立たぬように、不平も言わずに静かに生きるか。
 それともちゃんと一人前の男として扱われるまで、殴られ蹴られても周囲と戦い続けるか。
 そして筆者は後者の、戦って周囲の者たちになめられぬよう強く生きる事を選んだ。

 何しろ体格差が歴然としてあるからね。
 その自分より大柄で体力もある、しかも最初からこちらをナメてかかってきている奴ら(複数形)に立ち向かうんだよ? それはただ怖いどころの話じゃなかったさ。
 でも筆者は戦った。
 殴られ蹴られても戦って自分のプライドを守るのと、イジメっ子たちのパシリにされ皆から見下されて小さくなりながら生きるのと、どちらがマシか?
 そして筆者は、戦ってでもプライドを守り通す方を選んだだけの話だよ。

 けどチビが大柄なイジメっ子たちと戦うなんて、本当に生やさしい話じゃないよ。
 そもそもまともに立ち向かったって、勝てるわけも無いんだ。
 だから文字通り、キレて狂ったように暴れまくるしかなかった。
 殴られても蹴られても立ち上がり、目をギラつかせて飛びかかって行くの。で、「参った、もう許して」とは絶対に言わないで、相手に食らいついて行って死んでも喧嘩を止めない。
 ホントにね、「コイツを止めるには、もう殺すしかないんじゃないか」って思わせるくらいにキレて見せるんだよ。

 無論、自分から手を出すのではなくて、そんな酷い喧嘩をする時にはいつも相手が仕掛けてきた時にしていたけれどね。
 そしてそうして暴れていれば、「ヤツは怒るとキレるヤバいヤツだから、手を出すのは止めておこう」って話になってくる。
 おかげさまで中学生時代の筆者は、同級生たちにある種の精神の病を思わせるあだ名を付けられていたよ。「キレると発作を起こしたように暴れ狂う」と言うワケで。

 そう言えば中高校生時代の筆者に付けられたあだ名の一つに、ヒトラーというのもあったな。
 まあ、当時の筆者は周囲から、それくらいヤバいヤツに見えていた……って事デス。

 けど何と言われようと、「相手が強かろうと大人数だろうと、やられたら必ず(ぶちキレて)やり返す」というのを実行していたら、少なくとも筆者をナメて下手に手を出して来るヤツは無くなったね。
 逆にそれどころか、DQNグループの奴らとも対等に話が出来るくらいになっていた。

 イジメや喧嘩に限らずさ、男はただ低身長っていうだけでランクの低い人間のように見られて「隅で目立たぬように小さくしていろ」みたいな扱いを受けるんだよ。
 だからチビの男は、とにかく自分から前に出て頑張ってデキるところを見せないと、一人前に扱って貰えないんだよね。
 もちろん頑張って前に出たら出たで、デキるところを見せても「チビのくせに、出しゃばりで生意気」って陰口を言われがちなのだけれど。

 でもどう言われようと、「チビだから」と皆から見下されたままでいるよりはマシだ。
 だって同じ「チビのくせに」と言われるなら、隅で小さくなっているより、自分のやりたいようにして生きた方がマシでしょ?
 少なくとも筆者はそう思い、売られた喧嘩は買い生意気と言われて憎まれようと、自分を通して生きてきたわけデス。

 で、青少年にとっては重大時でもあり、チビにとってはもう一つの課題の“モテ”についても、そこは気合いでカバーしたね。
 何しろ男にとって、低身長というのは“非モテ”の大きな要素だから。
 平均以上の身長のイケメンとか、運動部のスター選手や音楽ができる人ならともかく、低身長の男が「女子に想いを寄せられて、告白されて」なんて事は、まずあり得ないから。

 特に取り柄のない平凡な男子が、なぜか凄い美少女(場合によっては複数)に惚れられて……というのは、青少年のラブコメ・マンガの王道だけど。
 それ自体が現実にはまずあり得ない事だけれど、特に男がチビとなると、実際にモテる確率は限りなくゼロに近づくのでアリマスよ。
 だからチビは、ただ黙って女子からのアプローチを待っているだけでは、下手をしなくても「実年齢=彼女いない歴」のまま魔法使いになる可能性が高い
 で、筆者は自分から動いたわけデス。
 身近な女の子に積極的に話しかけて、コミュニケーションを取り仲良くなる努力を惜しまなかったのだ。そして頃合いを見ては、デートにも誘ってね。

 と言うと、「よく恥ずかしくもなくそんな事が出来るね、オレにはそんな度胸ないよ」とか呆れられるけれど。
 冗談じゃない、筆者だって女の子に声をかけるのは恥ずかしかったし、デートに誘うとかすごく勇気が必要だったさ!
 問題は「そんな事して恥ずかしくないの?」って話ではなく、「声をかける勇気を出すかどうか」って事なんだよ。

 元々非モテのチビなんだから、黙っていて何もせずにいたら「実年齢=彼女いない歴」のままが続くのは確定だ。
 もちろん声を掛けても冷たくされ、遊びに誘ってもフラれる事も少なくない。
 でもどうせ「実年齢=彼女いない歴」だったら、声を掛けてフラれたところで同じ事だし、別に損も無いでしょう?
 だったら万が一wwwの可能性に賭けて、「良いナ」と思った子にはアプローチしてみた方がマシだと筆者は思ったわけだ。

 ハイ、もちろん数え切れないほどフラれて、恥ずかしい思いや痛い思いも厭というほど味わってきマシタとも。
 でもおかげで少なくとも人並みの時期には魔法使いになる資格を失ってしまったし、今もまだ独身ではあるけれど、付き合って来た彼女の数は両手の指で数える以上くらいになってイマス。

 おわかりでしょうか。
 チビの男が人並みに生きるには、人一倍頑張らなきゃならないんだよ。
 イジメにも耐え勝てない喧嘩もして、低身長を補う為に何か自分を売り込める特技を磨いて、それを積極的にアピールもして。
 そして男女交際でも、自分から積極的にアプローチしていって。
 けれどそのすべてが、周囲の人達には「チビのくせに出しゃばりで生意気」と見えてしまうんだけれどね。

 で、「チビのくせに」と言われても負けずに頑張って前に出て行く男は「厭なヤツ」と言われて。
 そして争う事までして自己アピールしない、世の中の片隅で静かに暮らす道を穏やかで大人しい性格のチビは人の目に入らずに存在を無視されて。
 結果、前者の気が強く前に出るタイプの低身長の男ばかりが目立って、「男のチビは性格が悪い」と言われているのだと思う。

 よく見てみれば、静かで穏やかな人柄の良い低身長の男も、結構たくさん居るんだけれどね。
 けど筆者も含めて「チビのくせに」と見下されて黙っていない低身長の男には、強気で頑固で意固地な可愛くない性格の者が多いのは事実デス。

 同じ強気でも、元々体格に恵まれている男の強気と、チビの強気はタイプが違うから。
 端的に言えば、前者と違ってチビの強気には余裕が無いんだよ。
 体格や体力では相手に負けているし、日頃から「チビのくせに」と言われ続けてきて、さらに女の子にも非モテだし。
 コンプレックスは物心ついた頃からいろいろあるし、体力的にも精神的にもギリギリの所で頑張っているものだから、生まれつき高身長で体力に恵まれた男と違って余裕が無いんだよ。
 その「頑張ってるチビ」の抱えているコンプレックスと余裕の無さが、傍から見れば「性格が悪い」って風に映るのだと思うよ。

 うん、筆者自身もそうしたチビ男の一人として、自分の性格の悪さは認める。育った環境のせいで、強く生き抜く為に性格がかなり曲がったと自分でも思うもの。
 でも男でチビだとそれだけで周囲の人から見下されてイジメられ、女子にも非モテで、そんな中でも強く生きようとしてきた頑張りだけは認めてほしいと思うな。

 ホント、大人になってかなり経った今でも、「チビのくせに」という陰口は何度も何度も言われるよ。
 男でチビだとね、周囲と対等にハッキリものを言うだけで、「チビのくせに生意気」と見られがちなのだよ。
 世間の多くの人達ってのは、チビの男は周囲に遠慮して小さくなって生きているべきだと思っているんじゃないかと、小柄な男の一人である筆者は常日頃から感じている。
 これはチビのコンプレックスからくる、被害妄想なのだろうか。

 そんな世間の求める通り、いつも控え目にして大人しく生きている善良な小柄な男性も、ただ目立たないだけで実際には大勢いるのだ。
 そして筆者のように生意気に生きているチビの性格が曲がってしまったのにもわけがある事を理解して、ほんの少しだけ同情してくれる方が現れてくれたら幸いデス。

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ドライブ中の車の室温を決めるのは誰?

 暑い
 ここ何年も「例年より暑い夏」が続いているが、今年の暑さは本当に異常だ。
 夏が冷夏だった年など、いつの事だったか記憶にも無いくらいだ。
 それでいて冬は暖かく過ごしやすいわけでもなく、夏が暑い年に限って冬も厳しく冷え込むような気がするのは、筆者の勘違いであろうか。

 で、車で外出する際には、殆どの方が冷房を使っていると思うが、夏や冬に車の冷暖房を利用する場合、その温度を設定するのは誰だろうか。
 その乗客がお客様でもない限り、車の室温を決める権利は、基本的にドライバーにあると筆者は考えている。

 ドライバーの立場で言えば、夏に汗をかいたまま運転するのはとても不快なのだ。腋や腕にジットリ汗をかいた状態でハンドル操作などをするのは、本当に気分が悪い。
 だから筆者は車内を冷やすと言うより、空気の湿度を取り肌がサラリとした状態で運転したいのだ。
 また、冬もあまり厚着をすると、ハンドル操作などがしづらいので、あまり厚着をしないでも運転できる室温に設定したいのだ。

 ところが、である。
 同乗者の中には「暑い、寒い」と言い立てて、自分好みの温度に設定しようという者が居るから困ってしまうのである。
 中には、コントロールパネルに黙って手を伸ばして、問答無用で温度を自分好みに変えてしまう者までいる。
 特に乗り合わせているのが友人同士や家族の場合、遠慮も無いせいかドライバーを差し置いて車の温度設定を勝手に変えようとする者が本当にいる。
 しかし筆者は、それはドライバーに失礼だと考えている。

 家族や友人同士などでドライブする場合、車の運転者はお金を貰って仕事としてやっているわけでなく、乗り合わせている者たちもお客様では無いのだ。
 ドライバーは無償で、運転という余計な負担を他の者たちの為に背負っているのだ。
「だから室温くらい、ドライバーに快適な温度に設定させてくれ!」と求めるのは、当然の事ではないだろうか。

 前にも述べた通り、ドライバーは運転という作業をしているのだ。
 夏に腋にジットリ汗をかきながら運転するのも、冬に分厚い服を着てハンドル操作するのも苦痛なのだ。だから筆者は、親しい人達には「室温は運転者に決めさせてくれ、暑かったり寒かったりしたら、同乗する者が服で調整してくれ」と頼んでいる。
 運転には、それも帰省や行楽などでの長距離の運転には、ドライバーは本当に神経を使うのだ。そこに車の室温を同乗者が勝手に変えるなどして、更なるストレスをドライバーにかけないでほしいものだと、本当に心から思う。

 ドライバーには運転という作業があるのだ。汗ばんだり凍えたりとかいう状態で運転するのは本当に辛い。
 車内の暑さ寒さに不満があるなら、何もせずにただ座っているだけの同乗者たちが服を一枚脱いだり着たりすればいいのだと思うのは、運転者の我が儘なのだろうか。
 何度か同じ人の車に乗っていれば、そのドライバーが自分より暖かめが好きなのか、少し寒いくらいなのが好きなのかわかる筈だろう。
 だから車の室温はドライバーに任せて、暑い寒いといった不満は同乗者が自分の服で調整すべきだと、筆者は思う。

 実際、筆者は誰か他の方が運転する車に同乗させていただいた場合、暑いだの、寒いだの言ってドライバーに室温を変えるよう求めた事は一度もない。
 増してやコントロールパネルに手を伸ばして勝手に車の温度を変えるなど、本当に考えた事もない。

 と言って、筆者は同乗者の暑い寒いに、全く無関心というわけでもないデスよ?
 基本は室温は自分で設定するものの、同乗者に「暑く(寒く)ない?」と一声かけて、自分が許容できる範囲で同乗者の感覚にも合わせて温度を調整する気遣いもしているつもりだ。

 車の室温を決めるのは、何もせずにただ乗っている同乗者でなく、気と体力を使ってドライバーであるのが原則。
 但しドライバーも、同乗者に対する気遣いも忘れてはいけない。
 筆者はそう考えるが、皆さんはどうであろうか。

 だが現実には、「もっとエアコン強く(弱く)して!」と無遠慮にドライバーに要求したり、勝手に室温をいじってしまう同乗者が少なくない。
 まず困るのは、「貴方の車に乗ってあげている」というつもりでいる、お姫さま気分の美人さんだ。しかもこの手の若いうちにチヤホヤされ慣れた女性は、元美人wwwのオバサンになっても変わらずに女王さま気取りで他人に平気で要求を突きつけるから厄介だ。
 自省も込めて言うが、男はつい女性の若さと美しさに目と心を奪われてしまいがちだ。しかし女性の若さと美貌は衰える一方で、残るのは性格だけだからご注意を。

 男の場合は、ジャイアン気質の者と、甘やかされて育った一人っ子がいけない。
 筆者の知人にYという元同級生で写真仲間がいたが、そのYがまさに後者の甘やかされた一人っ子で、悪気は全く無いのだが本質的に自己中心なヤツだった。

 筆者がYと親しくなったのは、写真という共通の趣味があったからだが。
 写真に少し凝るようになると、どうしても朝や夕方に写真を撮りたくなるものだ。少し専門的に言うと、真っ昼間は光が平板になりがちで、だからプロの写真家も正午を挟んだ前後の二時間は写真を撮るのを避ける者が少なくない。
 特に風景の写真を撮る者は、日の出や日の入り頃にシャッター・チャンスを狙う場合が多い。

 で、筆者とYはある冬に、二百キロ以上離れた場所にある山の、日の出の写真を撮りに行ったのだが。
 何しろ二百キロ以上離れた山に、日の出前に着かなければならないわけだから。
 前の晩もあまり寝ずに、朝の二時過ぎに車で出発したせいで、やはり眠いんだよね。それでドライバーの筆者は運転中に居眠りをしないように、寒くはないが暖かくもなり過ぎない温度に室温を設定したのだ。
 すると助手席のYが、黙ってコントロールパネルに手を伸ばして温度を勝手にいじって、暖房をガンガン効かすわけ。
 で、一言「俺、風邪気味だから」って。
 ……だったら最初から厚着して来い、っつーの!
 おかげさまで、良い写真を撮る撮らないの前に、こちらは眠気と戦う危険なドライブになってしまったよ。

 このYには、また別の時に写真を撮りに雪道を走っていた時にも、危うく事故を起こしかねない怖い事をされまして。
 雪の積もらない県で暮らしている筆者だけれど、写真を撮る関係で、冬の雪道もそれなりに走っていたんだ。だから多少の積雪のある道くらいは、走れるだけの経験はあるんだよね。
 で、ある雪道を走っていた時、「おい、もう少しスピード落とせよ」とYに言われたけれど、「大丈夫」と答えてそのまま走っていたわけ。
 そしたら車がいきなり滑ってさ。
 そこは咄嗟にカウンター・ハンドルを当てて、車の体勢を立て直したけれど。
 するとYが怒り声で言うんだよ、「だから言わんこっちゃない」って、車のサイドブレーキを握り締めながら

 ……Yの大バカ野郎め、スピードが出過ぎていて危ない、ブレーキをかけようと、サイドブレーキを勝手に力一杯引いてやがったんだ。
 車の速度のせいで滑ったんじゃない、オメーがサイドブレーキをいきなり引くから車のケツが流れて事故りかけたんだよ、っつーの!
 あれで事故らなかったのは、筆者のカウンターハンドルが運良く間に合ったからだから。

 助手席のヤツが運転中の車のサイドブレーキを、しかも雪道でいきなり引くなんて、ホント非常識極まりないと思うのは、筆者だけではないと思うが、どうだろうか。
 で、筆者はそのYとは、しっかりお付き合いを絶たせていただきマシタ。

 今は帰省や行楽などで、長距離ドライブをしている方も大勢いると思うけれど。
 その貴方の同乗者で、運転者である貴方に「暑い、寒い」と当たり前のように車の室温を変えるように要求し、さらに「疲れた~、まだ着かないの?」などと不平を言ったり、運転者の苦労に気遣い一つなくグースカ居眠りするようなヤツがいたら、悪い事は言わない、早く友達の縁を切った方が良いと思いマス。
 それが彼女であったら、間違いなく夫をないがしろにする悪妻になるから、結婚に至る前に別れた方がその後の人生を無駄にしなくて済む。

「いや、うちのカミさんはそれが当たり前だよ」って?
 ……それはご愁傷さま、と言うしか無いデスね。

 でも繰り返し言うけれど、車の室温の設定はドライバーの権限だと筆者は信じる。
 もし同乗者が暑かったり寒かったりしたら、自分の服で調整すれば良いのだ。だって同乗者は運転という責任と仕事をドライバーに任せて、ただ乗っているだけなのだから。
 そしてドライバーも、同乗者に「暑く(寒く)ない?」という気遣いの一言が必要だと思うが、どうだろうか。

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想像力が人を救う(オタクですが、何か?)

 もし何にでもなれるとしたら、貴方は人間以外の何かになりたいと思うだろうか。

 毎日新聞では、毎週精神科医の香山リカ先生のコラムを連載しているが。
 その6月30日のコラムによると、大学のゼミで香山先生が「何にでもなれるとしたら何かよいか」と問うと、必ず何人かは「猫」「鳥」「魚」と答えるそうである。
 それ以外の動物や植物の名も、よくあがるのだとか。
 で、その理由はいずれも「自由になりたいから」だという。

 ……驚いた。
 筆者の人生経験では、今まで生きてきたうちで最も自由で楽しかったのは、間違いなく大学生時代だったのだが。
 香山先生もまた、そのコラムで「私から見ると大学生活など自由そのもの」と書いていた。

 だが当の大学生たちによれば、そうではないのだと言う。
 授業に課題その他で目の回る忙しさで、サークルやバイトでは先輩に叱られて緊張の連続、そして友人との付き合いにも何かと気を使うのだとか。
 そして不況のせいか、最近では遠くからでも実家から通う学生が多く、通学にも長い時間がかかっているらしい。
 それで疲れ切って、「猫になってのんびり寝転んでいたい」とか「鳥や魚になって空や海でゆったりしたい」と思うのだそうだ。

 で、そうした学生たちに香山先生が「本を読んだり文章を書いたりできないよ」とか、「天敵に食われちゃうかも知れないよ」と聞いてみると、彼らは決まってこう答えるのだそうである。
「それでもいいです」
「仕方ないので気にしません」

 筆者は心底驚いたが、香山先生は自分の診察室で、こう話す高校生と出会ったという。
人生の楽しい事はだいたいすべて経験しちゃったと思います。あとはつまらない事だけ

 このように疲れ切っている現代の学生たちに、香山先生は「私も時々、中学生くらいに戻れたらいいな、などと空想する事もある」と同情しつつ、「自分の人生を自分で決めて切り開けるのが人間だよ。もっと人間であることを楽しもうよ」と励ます。
 しんどい毎日の中にも「自分がやりたかった仕事で成果を出せた」とか、「人生の岐路に立ち自分なりの答えを見つけた」とか、手応えを感じる瞬間もある……と。

 言いたい事はわかるが、筆者は香山先生の“励まし”には素直に賛同できない。
 現実を見てもらいたい。
「自分の人生を自分で決めて切り開ける」人間など、この世にどれだけいるだろうか
「自分がやりたかった仕事」に就けた人間が、この世にどれだけいるだろうか
 香山先生は自分のやりたかった仕事に就け、そして成果も出せた“人生の勝者”だからそのような事が言えるのだと、筆者は思う。
 自分のやりたい仕事に就いて成果もあげる事が出来ている、香山先生のような方もこの世に確かに居るだろうと思う。しかし現実には希望していたのとは違う仕事に就き、生きる為に夢を諦め苦労して働いている人が過半数を占めているのではないかと筆者は考えるが、どうであろうか。

 自分で決め、自分で切り開いた人生を生きていると確かに言える人が、実際にどれだけいるだろうか。
 筆者にも夢とやりたい仕事があり、それを現実のものとすべく死にものぐるいで頑張って生きてきた。しかし筆者の才能が足りないせいで、やりたい事とは無縁の事をしてようやく生きている。
 ただ良い縁に巡り合えなかっただけでなく、経済的にも結婚や子育てなどとても考えられず、今もまだ独身のままでいる。
 介護の関係もあって親が建てた家に住んでいる為、住居は一戸建てだが築三十数年のボロ家で、外壁はヒビだらけだし、床などあちこち軋むがリフォームの金も無い。
 乗っている車は、中古で買った軽自動車だ。
 海外旅行に行った事が無いどころか、生まれてこの方、飛行機に乗った事すら無い。
 こんな筆者は、香山先生の“人間である楽しみ”の定義を何一つ満たしていない。
 ただそれでも人間で良かったと思うし、人間以外の何かになりたいと思った事は無い。
 筆者は猫が好きで、「死んだら猫の国に行きたい」と思っているくらいだ。しかしそれでも、猫になりたいと思った事は無い。

 猫と一緒に暮らしているとよくわかるが、猫にもちゃんと感情がある。彼らにも喜びや悲しみの気持ちが間違いなくあって、人間と心を通わす事もできる。
 そしてそれは、犬や猿なども同じであろう。
 ただ人間にだけあって、猫や犬には無いものが一つある。
 それはズバリ、想像力だ。
 そしてそれが、人の生きる楽しみと力になっているのではないかと筆者は考えている。

 仕事で何か成果をあげるどころか、筆者はやりたい仕事にすら就けずにいる。
 同年代の友人たちの殆どは結婚して子供もいるというのに、筆者はまだ独り者でカネも無く、ボロ家に住み古い軽自動車に乗っている。
 将来の事を考えると、本当に不安でいっぱいだ。
 それでも自分を不幸だとは思っていないし、他の何かに生まれたいとも思っていない。
 筆者が自分を人間で良かったと思えるのは、自分に想像力があるからだ。
 本を読む。マンガを読む。映画を見る。ゲームをやる。それだけでも現実の人生にあるいろいろな厭な事を(仮に一時的にでも)忘れられるし、生きていて充分に楽しいと思える。
 筆者は頭の中の空想の世界でいくらでも遊べてしまうこの自分の想像力に、これまでどれだけ助けられて来たかわからない。

 香山先生のように、自分のやりたい仕事に就け、そしてその世界で成果もあげている“成功者”は限られている。
 しかし想像力は現実世界の勝ち負けに関係なく、人間にのみ、誰にでも公平に与えられている。この無料で頭の中に無限に広がる想像の世界を活用しないなど、勿体ない話ではないか。

 確かに本やマンガを読んだり、映画を見たりゲームをプレイするにはお金が必要だ。
 しかし新刊にこだわりさえしなければ、本やマンガは古本屋でかなり安く買える。ブックオフでは一冊108円の本がたくさんあるし、筆者の近所の古本屋では時々セールで5冊百円で売っている。
 映画もTUTAYA等で旧作を借りてくれば、劇場で見るのとは比較にならないほど安く見られる。
 ゲームも課金が必要なネトゲはせず、何万円もする新しいハードや何千円もする新作も買わずに、プレステ2などで中古のソフトをやり続けていれば、安い値段でかなり長時間楽しめる。
 新しいものにこだわらない。
 そして安い物の中から掘り出し物を探し出す、手間と暇を惜しまない。
 それさえ心掛ければ、持ち金がかなり少なくてもかなり楽しめるものだ。

 そして小説もマンガも映画もゲームも、ただ読み切ったり、見終わったりクリアしただけでは終わりにしない。
 そこからいろいろ想像してみるのだ、「もし自分が主人公だったら、どうしただろう?」とか、「あの場面で違う行動を取っていたら、こんな未来が開けたのではないか?」とかね。
 そうして読み終えた(見終えた、あるいはプレイし終えた)ストーリーを頭の中で反芻しながら、自分なりにいろいろ想像してみれば、その後もかなり長く楽しめる。

 香山先生の言うように、自分の人生を自分で決めて切り開き、仕事で成果を出す事に人として生きている喜びを見出すのではなく、自分の想像の世界に生きている楽しみを求めるのは、はっきり言って“敗者の逃避”かも知れない。
 だが頑張りさえすれば誰もが香山先生のように、人生の勝者になり、現実の世界で目に見える成果をあげてそれに喜びを感じられるわけではないのだ。
 と言うより、むしろ頑張っても報われずに足掻いて苦しんでいる人の方が多いのが現実ではないだろうか。
 そしてそうした頑張りが成果に結びついていない者たちには、自分の想像の世界で遊ぶ事がかなりの救いになるのだ。
 少なくとも筆者は、多くの小説やマンガや映画やゲームと、それらが与えてくれた架空の世界に大いに救われてきた。そしてその世界を脳内に取り込み、反芻して遊ぶことの出来る自分の想像力(妄想力?)にも。
 だから筆者は大の猫好きだが、本もマンガも読めず、映画も見られずゲームも出来ない猫になりたいとは思わない。

 猫だけでなく、鳥や魚などになりたいと思うには、筆者は少しばかり想像力と余計な知識があり過ぎるようだ。
 例えば猫など、幸せな生涯を過ごせるかどうかは、本当に飼い主次第だからねえ。
 身勝手な飼い方をした挙げ句に、飽きたら邪魔にして、保健所送りにしたり捨てたりしてしまうような人間もいるし。
 そして猫を虐待して殺す人も後を絶たないし、現実には愛され安心してのんびり寝て暮らせる猫ばかりじゃないんだよね。

 と言うと、「人間だって親を選べないし、虐待もイジメもあるし、殺人事件の被害者になる事だってあるじゃないか」と反論されそうだけどね。
 ただ人間の場合、いわゆる“毒親”に育てられようが、学校でイジメに遭おうが、大人になれば社会に出て自力で生きて行く事が出来る。
 けどそれに比べて猫は、良い飼い主に巡り会えなければ野良か虐待か保健所で殺処分だからね。

 今の猫は、大切に飼われている家猫なら平均15年くらい生きるのだそうだ。
 けど野良猫の平均寿命は、だいたい4年くらいなんだって。
 4年と15年だよ!
 その差を考えれば、野良で生きることが猫にとっていかに過酷か、想像がつくのではないかな。とても「自由で良い」などと言えるものではないよ。

 鳥や魚もさ、自由だなんてとても言えるものじゃないよ。
 空も海も天敵だらけで、鳥も魚も食われぬよういつも緊張して生きているのが現実なんだよね。天敵の食う方だって、獲物をとれなければ自分が飢えて死んでしまうわけでさ。
 で、鳥も魚も厳しい食物連鎖の中で、食って食われて生きていて、とても「空や海でゆったりしている」わけじゃないんだよね。

 だから猫や鳥や魚などではなく、人間でいるのが一番マシなのではないかと筆者は思う。
 まあ、ISの支配地などの内戦が続いている国や、南アジアやアフリカなどの極貧国や北朝鮮などに生まれてしまえば、そうとも言い切れないかも知れないけどね。
 ただ少なくとも日本や欧米などの先進国では、猫や鳥や魚などより人間でいるのが良いと思う。

 それにしても、香山先生に「天敵に食われちゃうかも知れないよ」と問われても「それでもいいです、仕方ないので気にしません」って、その大学生たちは生きる希望が無さ過ぎと言うだけでなく、想像力も無さ過ぎだよ。
 だって、本当に食われちゃうんだよ?
 それもキチンとトドメを刺してから食ってくれるならともかく、生きたままバリバリ食っちゃう場合も少なくないしね。あと、魚など丸飲みにして胃液で溶かしちゃうのも少なくないし。
 そういう食われ方をリアルに想像したら、「天敵に食われても仕方ない」なんて、とても言えないと思うけどな。

 でも、今の大学生ってそんなに忙しいのかな?
 だって、講義や課題だけで目が回るくらい忙しいなら、サークルやバイトは辞めちゃえばいいだけじゃん。
 ま、学費や生活費の為にバイトは辞められない場合もあるだろうけど、それならサークルだけでも辞めるべきでしょ。バイトも、長い夏休みや春休みに集中してやるようにする、とかね。
 サークルやバイトでは先輩に叱られて緊張の連続、そして友人との付き合いにも何かと気を使う……って、そんなこと言ってるようじゃ「就職して上司や同僚たちとどう付き合って行くんだよ?」って心配になって来るね。

 大学時代、筆者にはつきたい職業があって、その為にすごく頑張ってた。バイトもいっぱいしたし、充実していたけれど暇なんて本当に無かったね。
 だから夢を実現する為の時間とお金を作る為に、不必要と思えるものは切り捨ててもきたよ。
 友達付き合いはちゃんとしたし、友達が悩んでいる時にはできるだけの手助けもした。
 ただ仲間内での飲み会とか麻雀とかについては、筆者には時間とお金の無駄としか思えなかった。そんなカネと暇があるなら、自分の夢の実現の為に使いたかったんだ。
 で、飲み会と麻雀の誘いを断っているうち、筆者の仲間内での評判はかなーり悪くなってマシタ。ただ自分勝手というだけでなく、「皆の価値観を否定して、皆をバカにしてる」ってさ。
 真面目な相談事にはきちんと付き合っても、飲み会と麻雀に付き合わないとコレだよ。だから筆者は、時々心の中で「人間ってバカばかりだな」って思ってしまうのだ。

 それでも自分の大学時代は充実していたと、今でも言える。夢を実現する為に本当に頑張ったし、その為に多くの“友人”を失ったのは仕方のない事と割り切ってる。
 と言うか、自分のやりたい事の為に頑張っていてもまだ友達でいてくれた一握りの友人たちこそ真の友で、酒や麻雀とかでいつも群れてないと友情を保てないような“友達”など、居なくても良い不要な存在だと今ならわかるし。

 だから今の大学生たちが、講義と課題をこなし、サークルもバイトもして、先輩にも友達にも気を使って「目が回るほど忙しくて疲れ切ってる」って、「当たり前だよ、バカ野郎」って感じだよ。
 自分にとって最も大切なものは何かをしっかり見定め、優先順位をつけて下位のものは切り捨てなきゃダメなんだよ。
 自分にとって一番大切なのは、大学での勉強なのか、サークル活動なのか、それとも友人関係なのか。そのあたりを自分なりに見極めて、優先順位をつけ大切とは思えないものは手を抜く(ダメでも気にしない)だけで、時間にも気持ちにもゆとりが出来てかなり楽になるんだけどね。

 社会に出てからもそれは同じで、全部を上手くこなそうとするのではなく、優先順位をつけて大事なものにまず取り組み、その為には他の何かを捨てて諦める覚悟も必要だと思う。
 一日は24時間で一年は365日、そして個人の力は限られているのだから、「仕事も趣味も家事も、何もかも完璧に」ってのは最初から無理なんだよね。超優秀な、数少ないエリート様でもない限りは。
 だから大切なものだけ出来れば良しとして、それ以外のモノは捨てる覚悟が必要だし、それができると生きるのがかなり楽になるよ。

 でも、香山先生が診た高校生に、本気で「人生の楽しい事はだいたいすべて経験しちゃったと思います。あとはつまらない事だけ」と言い切れる子がいるとはね。
 そして香山先生もまた、「時々、中学生くらいに戻れたらいいな、などと空想する事もある」とそのコラムに書いていたけれど。
 そーかなー、中高校生の頃って、そんなに楽しかったかなー、むしろ厭な事の方が多かったのでは……と筆者などは思ってしまった。
 筆者は数学と英語は大嫌いだったし、不器用だったから音楽や技術家庭も苦手だったし、生まれつき病弱だった身には体育の授業も辛かった。
 逆に得意な社会科と国語は自分の勉強の方が進んでしまっていたので、授業が暇で仕方なかった。
 それに授業がどうこう言う前に、生まれつき猫的な性質で集団行動が苦手な筆者には、学校生活そのものが苦痛だった。
 一斉に同じ授業を受け、同じ行事をこなす学校生活よりも、むしろ任された仕事に一人で取り組む社会人になってからの生活の方が楽だったくらいだよ。

 だからもし魔法使いか何かに、「もう一度、中学生か高校生に戻してやろうか?」と言われたとしたら、筆者なら断固断るね。
 今の大人としての知識と経験をそのままに、中学生(または高校生)からやり直させてくれる……というのなら、少しは心を動かされないでもないけれど。
 ただ中高校生の頃の筆者自身の事を考えると、人格見識共に未熟で本当に恥ずかしい事ばかりして来たので、「あの時代の自分になど戻りたくなんかない」と胸を張って(?)言えるね。

 学生時代には、よく「社会人になったら働きづめで辛いだけ」みたいに思いがちだけど。
 でも社会人が辛いかどうかなんて、実際になってみないとわからないって。
 そりゃあブラック企業に勤めてしまえば辛くてたまらないけれど、職場の空気が良くて上司や同僚に善い人が多いと、学生時代よりずっと楽しいし。

 筆者の経験で言えば、職場は仕事の内容より“人”だね。
 仕事が望んでいた職種と違っていても、職場の人が良ければ楽しく働ける。
 でもいくら望んでいた職種でも、上司や同僚に厭な人が多いと本当に苦痛だし、場合によっては心を病んでしまう場合もある。
 そしてその職場の人達が良いかどうかなんて、本当に運でしかないからねえ。「自分の人生を自分で決めて切り開け」なんて言われても、職場に厭な人間が、それも上司に複数いたりすると、本当に人生が詰まったような感じになっちゃう。

 でも、ま、たいていの職場には異動や転勤があるから、それをじっと待つしかないのだけれどね。
 厭な奴は学校生活でも悩みの種だけれど、それでもクラス替えもあるし、卒業してしまえば完全に縁を切る事も出来る。
 人は、自分の人生を自分で決めて切り開いて、やりたかった仕事で成果を出せるような有能で強い人ばかりじゃないからね。
 むしろ辛い仕事(授業)や、厭な上司や同僚(教師や同級生)に耐えながら日々を過ごしている人の方が多いのではないかと思う。
 そしてそうした日々に耐える力を与えてくれるのが、一時の逃避に過ぎないのかも知れないけれど想像力ではないかと思う。

 小説やマンガや映画やゲームは、多量の飲酒や賭事や風俗などと違って、誰にも迷惑をかけることなく、脳内に無限に広がる空想の世界で遊び、日々の辛さを忘れることができる。
 猫や鳥や魚などに生まれ変わるより、飲む・打つ・買うに溺れるより、人間にしかない想像力を生かして日々を楽しむ方がより楽しいのではないかと思うが、どうだろうか。

 無論、脳内の想像の世界で遊ぶより、現実世界の仕事や勉強で成果をあげる事を考える方が前向きで立派なのだろうけど。
 でもそうして自分のやりたい仕事に就いて成果もあげられ、自分の人生を自分で決めて切り開いて行ける人なんて、実際にはごく一部の人でしかないよね。
 で、現実世界で勝者になれない大半の人の心を救えるのが、想像力なのではないかと筆者は考えるわけデス。

 小説や映画はともかく、マンガやゲームと言うとオタクとバカにされがちだよね。
 けど筆者はマンガやゲームも立派な文化で良い作品は沢山あると思うし、少なくともお酒や賭事や風俗に溺れて憂さを晴らすよりずっと良いと思う。
 本だけでなくマンガも読むしゲームも好きだし、ミリタリー系の知識もかなりあったりして、筆者も「オタク」と呼ばれる一人デス。
 でも他人にどう見られようと、「オタクですが、それが何か?」と完全に居直って、脳内に広がる想像の世界で遊ぶ事を楽しんで生きているのでありマス。

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動物虐待者やイジメっ子の末路

 少し前の話で申し訳ないが、あのタマ駅長が死んでしまった事が、筆者にとっては今もまだショックで尾を引き続けている。
 実は我が家には15歳になる老猫がいて、一昨年には癌になり、かなり大きな手術にも耐えてまだ元気で生きてくれている。
 しかしタマ駅長とも年齢が近いだけに、「こうして一緒に暮らせるのも、そう長い事ではないのか」という現実を、ひしひしと身近に感じさせられた。
 同時に、どれだけ長くても数年のうちに確実に訪れるだろう別れの日の事を嫌でも考えざるを得なくなり、胸が苦しくなってくる。

 そんな筆者の気持ちを暗くさせるのは、タマ駅長死去のニュースだけではない。
 最近、東京では猫が惨殺される事件が相次いでいるが。この種の動物虐待のニュースも、同じように筆者の気持ちを暗くさせる。

 猫と長く一緒に暮らしているからわかる。
 猫だって、人と同じ命を持って、人と同じように一生懸命生きているんだよ。
 猫にもちゃんと感情や愛情があって、飼い主の気持ちや態度に反応して喜んだり悲しんだりもするんだよ。

 ただ猫は犬と違って、その子の個性にもよるけれど、警戒心が強くて知らない人にはなかなかなつかないからね。
 飼い主には心を許してすごく可愛いところをいっぱい見せるけれど、知らない人には無愛想だったり、警戒心むき出してとっとと逃げてしまう子も少なくない。
 犬のように人が大好きで、初対面の人にも友好的に振る舞ったりする猫は多くないから、「猫はなつかないから可愛くない」と言う人も少なからずいる。
 そしてまた、「猫は生理的に嫌い」という人もいるし、そういう人達を否定するつもりもない。好みは人それぞれだし、筆者は大の猫好きだが、世の中の人すべてに「猫好きになれ!」などと求めるつもりもない。
 ただ、生き物を「嫌いだから」と虐待する事にだけは断固反対するし、動物虐待をする人に対しては「当人も同じような痛い目に遭って苦しめばいい」と心から思う。

 実は筆者の近所にも、その種の猫ギライで猫を虐待する家が二軒あった。
 そのうちの一軒に住んでいたのは頑固で偏屈な独居老人で、元公務員だったせいかどうかはわからないが、相手が年下と見ると非常に居丈高な態度を取り、気に入らぬ者は平気で怒鳴りつけていた。
 その老人は猫も嫌いで、地域に住む野良猫が子を産むと、その子猫を捕らえては殺し、ゴミとして出すような爺さんだった。
 だから筆者はその猫殺しの爺さんを心の底から憎んで、「死んでしまえばいい」と本気で思い続けた。

 ここからは、筆者自身どれだけ信じて良いかわからない、少しホラーじみた話になるが。
 筆者はその爺さんを心の底から憎み、我が家のすぐ近くにあるその爺さんの家の前を毎日のように通る度に、「死んじまえ!」と思い続けた。
 そうしたら、三ヶ月も経たないうちに本当に死んでしまったのだ、その爺さんが。
 それも突然死でね。

 死んだその爺さんは、爺さんと言ってもまだ七十になるかならないかで、それまで病気一つせず、気に入らぬ近所の者は怒鳴りつけるくらいに元気だったんだよ。
 それが「最近、姿を見ないなー」と思っていたら、ある日その爺さんの家の前に救急車が来てさ。
 でもその家に救急隊員が何度も出入りはしたものの、結局サイレンも鳴らさずに救急車は去っていったのだ。
 どうしたのだろう、と思っていたら間もなく近所の噂でわかったよ。
 死んでたんだって、その爺さん。

 何かね、入浴中の突然死で、一人暮らしだったからそれに気付く人もいなくてさ。
 で、その爺さんの子供のうちの一人が、電話しても出ないものだから気になって様子を見に来てみたら、浴槽の中に浸かったまま動かなくなっていたのだとか。
 だから孤独死で、死んだ後も何日か水漬けになったままだったということデス。

 と言うとさ、必ず「亡くなった人に失礼な事を言うな!」とか、「生前何をしたにしろ、亡くなればみな仏様なんだぞ!」とか怒る“いい人たち”が出てくるけどさ、少なくとも筆者はその爺さんに同情する気には、全くなれなかったな。
 死のうがどうしようが、生きた時に犯した罪は消えないんだよ……ってのが、筆者の考えだから。

 猫殺しと罪の重さを一緒にするつもりは、全く無いけれど。
 東京裁判で死刑になったA級戦犯を神として祀る感覚も、筆者にはまるで理解できないね。
 もし「死ねばみな仏様で、生前の罪は許される」のだとしたら、ヒトラーと刑死したナチの戦犯も、スターリンや毛沢東やポル・ポトなどの大量虐殺者も、死刑になった凶悪犯たちも、「みんな今は神様で、その生前の罪を責めちゃいけない」って話になっちゃうよね。
 それは絶対におかしい、と筆者は思う。
 死のうがどうしようが、生前に犯した罪は消えることは無いと筆者は考える。
 たとえ犯した罪が殺人でなく、動物虐待であってもね。

 とは言うものの、「死んでしまえ!」と日々思っていた相手が本当に突然に死んでしまうと、「やった、いい気味だ!」とまでは思えないというのが正直なところだ。
 何かね、自分がその相手を呪い殺してしまったような、人殺しになってしまったような気がしてしまってね。
 わかってマス、筆者も含めて人に誰かを呪い殺す力なんてある筈ないし、その猫殺しの爺さんが孤独死したのも、ただの偶然に違いないんだ。

 ただね。
 神様みたいに善い人は別として、大多数の人は「あのヤロウ、死んでしまえ!」という気持ちを抱いた事があるだろうと思う。
 けどその憎んだ相手が、それも不慮の死をとげてしまうと、やはり良い気持ちにはなれないよ。
 その死んだ相手に同情する気には全然なれないけれど、何か後味の悪さがどうにも拭えなくて。
 だから筆者はその猫殺しの爺さんが死んだ後は、どんな厭な相手にも「死んでしまえ!」とだけは思わないようにしている。

 ただ、他人の命を害する者や、日本や人類を危機にさらそうとしている悪人だけは例外にしているけれどね。
 ヒトラーやスターリンなどの歴史に残る虐殺者だけでなく、我が祖国日本をあの無謀な戦争に突入させたA級戦犯やそのお仲間の軍人どもについても、「もっと早く突然死でもしてくれていれば戦争も起こらず、何十万、何百万もの無辜の人が死なずに済んだのに」と筆者は思わざるを得ない。

 その東条英機ら刑死したA級戦犯を「今の日本の繁栄の礎になった昭和殉難者」と正気で称える、紛れもなく歴史修正主義者の政治家たち(内閣総理大臣も含む)も、一日も早く失脚して政界から消えてくれた方が日本の為だと心から思う。
 だって、特定秘密保護法案に続いて戦争法案まで成立したら、日本は戦前と同じ道を進む事になりかねないからね。
 現にその総理のお仲間の政治家たちや作家などは、政府の意に添わぬマスコミは懲らしめ、そして潰すべきだと本気で考えているし。戦前と同じ言論統制をもくろんでいる政治家などの有力者が本当にいるのだから、自由と民主主義を大切に思うなら、今立ち上がって彼らに「NO!」という意志を示さなければ、日本は再び全体主義の暗い国になってしまうだろう。

 彼らのような政治家に比べれば、猫達を殺す動物虐待者くらいまるで罪が軽いのかも知れないが。
 筆者の家の近所には、例の猫殺しの爺さんだけでなく、自宅の庭に小動物の捕獲機を設置して、その家の庭に入る猫を片っ端から捕らえては保健所に殺処分に送り込んでいるオバサンもいる。
 そのオバサンは、「首輪をしていようが、飼い猫だろうが何だろうが捕まえて保健所に持って行く」と笑って話していた。
 ……死んでしまえ、と思いかけたけれど。
 ただ例の猫殺しの爺さんの一件があった後だけに、「死ね!」とまでは思わないで、ただ「猫の恨みがふりかかって不幸になればいい」と願うだけにしておいた。

 もちろん、この世の中の悪い事は動物虐待だけでは無いデスよ。つい最近も岩手県で中学二年生が死に追いやられてしまったけれど、イジメだって許し難い、とても悪い事だと思う。
 筆者は小柄で、しかも幼い頃から病弱だった。当然、学校ではイジメの対象になりやすかった。
 幸い筆者は体格でも体力でも劣っていたけれど、気だけは強かったからね。だからイジメを受けたら死にものぐるいで反撃して、イジメと闘う事で何とか生き延びてきたけれど。
 それでもイジメられていた頃は苦しかったし、思い出すのは辛いし、当時のイジメっ子たちの顔と名前は今でも思い出す事ができるし、彼らに対する恨みの感情は今もまだ捨てきれずにいる。
 イジメた方は忘れても、イジメられた方は絶対に忘れない……ってのは、間違いの無い事実だと心から実感する。

 でもね。
 筆者の小中学生時代にとても性悪なイジメっ子が男女一人ずつ居たのだけれど、誰が手を下さなくても二人とも見事なくらいに不幸になったよ。
 女のイジメっ子の方は、心を病んで友達も一人も居なくなり、絵に描いたような引きこもりになって。
 そして男の方も歯は殆どボロボロで言動も明らかに変で、無職で誰からも相手にされないような廃人に近い人間になってた。
 よく、ネットなどに「イジメをする人には、必ず報いがある」というような事が載っているけれど。
 科学的には全く根拠が無いし、「イジメられっ子の気休めだ」と言われれば、返す言葉も無いよ。
 ただ現に絵に描いたように不幸になっている元イジメっ子たちの末路を見ると、「多くの人の恨みを買うと、やはり不幸になるのかな」と思う気持ちを捨て切れなくなってしまう。

「じゃあ、日本を悪い方に導いて多くの人に憎まれている政治家が、何で今日も元気で権力の座に居座り続けてるんだよ?」と言われてしまうと、返す言葉に詰まってしまうのだけれどね。
 それでも「イジメっ子や動物虐待する人は、誰が手を下さずともやがて不幸になる」と思いたいし、そう信じてもいないと辛くてやり切れないよ。

 けどね。
 どんなに憎い相手が居ても、「死んでしまえ!」と呪うのだけはやめておいた方が良いよ。
 その憎んで呪った相手が本当に突然死してしまうと、まるで自分が殺したかのような後味の悪い気持ちになるから。
「その種の人間は、きっと後で不幸になる」
 そう信じてじっと待っているしか、出来る事はないんだよね、残念だけれど。

 ただ憎い相手が政治家の場合は、その政治家と、彼が属する政党に一票を投じさえしなければ良いのだから話は楽だ。
 選挙で落選させ、政権与党の座から引きずり降ろしさえすれば良いのだから、厭な政治家をやっつけるのは、イジメをする人や動物虐待をする人をやっつけるより簡単かも知れない。
 そしてその政治家を落選させ、彼の所属政党を権力の座から引き離す為に、デモに参加してマスコミや世の中の人々にアピールするのも良いかも知れない。

 それに比べてイジメや動物虐待に対応するのは、もっと難しいかも知れない。
 イジメに対しては、筆者はただ自分一人で立ち向かって闘うしか無かったし。
 そして動物虐待に対しても、自分に出来る範囲で野良猫を保護するしか出来なかった。
 近所の野良猫を何とか捕まえて自費で去勢手術を受けさせて、「もう子供を産んだりしませんから、この子だけは生かしておいてやって下さい」と近所の人達に理解を求めて回ったりね。

 あと、我が家で共に暮らしている猫さんは、猫殺しの爺さんの手にもかからず、猫を片っ端から捕まえて保健所送りにしているオバサンの罠にもかからずに生き抜いて、でも何故か筆者にはなついてくれた元野良猫デス。
 と言うか、筆者が飼ってきた猫はすべて雑種の野良猫で、見かけの好みで選んでペットショップで買おうなどと思った事は一度も無いよ。

 助けたい猫はたくさんいたけれど、個人の力で出来る事は本当に限られていて辛かったよ。
 それでも我が家で15歳まで生きて、今日も安心して手足を伸ばしてゆっくり眠っている猫の姿を見ると、心が和むし「この子だけでも幸せに出来て良かったな」ってつくづくと思うよ。

 野良猫暮らしはただでさえ辛いのに、世の中には動物虐待をするクズも現実にいるのだから。
 だからもし「犬や猫を飼おう」と思ったら、ペットショップで血統書つきのを買うのではなく、殺処分される運命の子たちを保健所などから貰うとか、野良のを引き取るとかして欲しい
 犬や猫にも心は間違いなくあるし、それは種類や血統書には全然関係ないから。雑種の野良でも同じ命と心を持って、一生懸命生きてるんだ。
 だからそういう子たちにももっと目を向けて、虐待されながら野良暮らしをしてる子や、保健所で殺処分の運命を待っている子らを、一匹でも多く救ってほしいと思うよ。

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不眠に悩んでいる貴方へ

 唐突だが、貴方は毎晩すぐ気持ち良く眠りにつくことができているだろうか?

 筆者は実は駄目なのだ。
 周囲の人達からは、筆者は自信ありげに振る舞い割り切った考え方をして、悩む事など無いように思われているのだが。
 そして自分自身、考えてもどうにもならない事はできるだけ考えないよう努めてもいるのだが。
 しかし夜になり一人になると、その日だけでなくずっと以前にあった厭な事や辛かった事ばかりが頭の中を占めて、ずーんと重く沈んだ気分になってくる。
 特に床につき明かりを消すと、忘れたい、思い出したくない事ばかりが次々に頭の中に浮かび、ぐるぐると渦を巻くように目の前に蘇ってくるのだ。
「考えるな、眠らないと!」と必死に念じれば念じるほど、その記憶から削り落として捨て去りたい厭な思いに捕らわれて、目が冴えてますます眠れなくなってしまう。
 その底無しの泥沼のような厭な記憶から逃れたくて、頭を柱に打ち付けてやりたいと本気で思った事すら二度や三度ではない。

 他人にはそんな弱いところは決して見せないで、厭な事があってもできるだけ愚痴らず平気なふりをしているけれど。
 しかし実は、些細な事をあれこれ気に病んでしまう所もあるし、厭な事もなかなか吹っ切って忘れることが出来なかったりするのだ。
 で、そうして溜め込んだ負の感情や厭な記憶が、夜になり床につくと一度に蘇って来て、眠れなくなるくらい辛くなってしまうというわけだ。

 毎晩必ず、そうして眠れずに苦しむというわけではないが。
 それでも厭な事ばかり思い出して眠れなくなる事が度々あって、時には頭がおかしくなりそうになり、本気で「心療内科の先生に診て貰った方が良いのかな」と思う事さえあった。

 そんな時に、毎日新聞日曜版の『新・心のサプリ』というコラムを読んだ。書いているのは、日本医大の海原純子特任教授だ。
 それによると、海原教授の友人のアメリカ人男性は、寝る前にその日あったちょっとしたいい事を一つ一つ思い出して、心の中で感謝するのだという。

 そのアメリカ人男性の“ちょっとしたいい事”って、本当に他愛もない些細な事ばかりなのだよ。
 ランチが美味しかった。
 ミーティングで部下がきちんと資料をまとめていた。
 いつも無愛想な部下がにこやかに挨拶した。
 クライアントからお礼のメールがあった。
 妻に頼んでおいた出張用のジャケットがきちんと用意されていた。
 ……本当にこんな小さなどうでも良いような事ばかりで、読んでいて思わずツッコミを入れたくなってしまった。

「部下がきちんと資料をまとめていた」くらい仕事なんだから当たり前だし、「上司にいつも無愛想な部下」なんて非常識すぎるダロ、とかね。
 そのアメリカ人男性が思う“いい事”はどれも当たり前すぎて、「何でそんな事にいちいち感謝しなきゃなんないんだよwww」って思ったよ、最初はね。

 でもね、そのうち「そうした小さないい事に気付けないのは、自分の心がささくれ立っていて感謝の気持ちを無くし、日々の暮らしの中に幸せを見つける事が出来なくなっているからなんじゃないか」って気が付いたのだ。
 自分の心が暗く後ろ向きになっちゃってるから、良かった事には気付かずに、厭な事ばかりしか考えられないようになっちゃていたんだよね。

で、試しにやってみたんだよ、その「その日にあったちょっといい事を思い出して感謝する」っての。
 正直に言って、最初のうちは全然ダメだった。
 いつの間にか“大きないい事”にしか喜びを感じられなくなっちゃっていて、“ちょっといい事”が思い浮かばないんだよ。

 何たって、宝くじで三千円当たった事でさえ素直に喜べなかったくらいだもの。
 いや、三千円は良いお小遣いになりマスよ。
 でもね、当たった事を素直に感謝するより「これでもう宝くじの運は使い果たしちゃったんじゃないか、もっと高額な賞金をゲットする事は出来なくなっちゃったかも」って、良くない方にばかり気持ちが行ってしまっちゃうんだよ。
 ……とことんマイナス思考だよね、筆者は。物事を素直に感謝して喜ぶより、悪い事ばかり考えてしまうのだから、始末に負えないよ。

 このマイナス思考ぶりに自分でも呆れて、本気で頑張ってやってみたよ、寝る前にその日にあった、ちょっとしたいい事探しをね。
 うん、そうして意識して探してみると、けっこう見つかるものなんだよね、「その日にあった、ちょっとしたいい事」が。

 例えば、もう15歳になる愛猫が今日も元気でいてくれて、思い切り甘えてスリスリしてくれた、とか。
 家族が筆者の為に、好きそうなお菓子を買っておいてくれたとか。
 作った料理を家族に美味しく食べてもらえた、とか。
 庭のプランターに植えた植物たちが、雑な手入れにもかかわらず元気で育ってくれているのも、間違いなくいい事だろう。
 もちろんこのささやか(そして内容はかなり身勝手で独断的)なブログに、好意的なコメントを下さる方が時にいらっしゃる事にも感謝したい。

 実はこれまでは、好意的なコメントに感謝するより否定的なコメントの中身の方がより心に残って、そればかり気になってしまっていたのだ。
 ……本当にマイナス思考なんだよね、筆者は。外では何を言われても気にしないで強気に振る舞っているけれど、中身は全然違っているのだから情けない。
 で、今では否定的なコメントにもしっかり目を通しつつ、けれど好意的なコメントもそれ以上に心に留めるようにしている。

 そうして寝る前に「その日にあった、ちょっといい事」を努力して思い出すようにしてみたら、あら不思議、本当によく眠れるんだよ。
 厭な記憶は頭の隅に押しやって、とにかく良かった事だけを思い出してみる。そうすると、いつの間にか心地よく眠れているんだ。
 と言うわけで、厭な事ばかり思い出して不眠になってしまっている方がもしいたら、この「その日にあった、ちょっといい事を思い出してみる」ってのを、是非とも試してみてほしいと思う。

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何でもいい、熱中できるものを持とう!

 趣味でも職業でも良いが、あなたは何か熱中できるものをお持ちだろうか?

 実は筆者は、物心がついて以来「熱中できるもの」が無かった時がないのだ。
 まず小学校に入る以前から自動車が好きで、ただミニカーを集めるだけでなく、実際に道路を走っている車の名前や性能も片っ端から覚えた。
 それから小学校に入るか入らないかのうちに本を読む事を覚え、いろんな図鑑から小説まで、学校の図書室にあるような本は片っ端から読んだ。

 で、本を読むうちに特に歴史に強く興味を持つようになって、そのせいか小学生のくせに「古銭収集」などという妙に老成した趣味も持つようになった。
 ただ古銭を収集するには、まずお金が要るからね。それなりに収入のある大人ならともかく、小学生に買えるものなどごく限られている。
 それで古銭収集熱は程なく醒めたけれど、その時に小学生の乏しい小遣いで買った寛永通寶やら明治時代の五十銭銀貨やら江戸時代の一朱銀やらは、今でもまだ持っている。

 古銭収集の次にはプラモデル作り(戦車など)を始めたのだが、そのせいで主に第二次世界大戦時のドイツ軍にハマってしまった。そして元々が読書好きだから戦記モノの本も読み漁るようになり、おかげでいつの間にかしっかりミリオタになってしまった。
 だから戦争モノの映画やドラマを見れば、登場人物の階級やら、使われている武器の事やらもすぐにわかるし、見ながら「これは違うね、いくら予算に限りがあるからって、いい加減な時代考証してんじゃねーよwww」とかのイヤなツッコミもしている。

 中学生になってからは、オーディオ好きの同級生の影響で、オーディオ系の電化製品にも凝るようになった。
 けれどオーディオも、古銭収集と同じで良いモノを手に入れるには結局はお金が必要だから。
 中学生がいくら小遣いやお年玉を必死で貯めたところでたかが知れたものだし、中学生ではアルバイトも出来ないからね。

 そうしてオーディオの道に限界を感じかけた頃に、筆者にも思春期が来て、本気で好きな女の子もできるようになって。
 そうなればもう、心の中は完全に「女の子>オーディオ」ってワケで。
 けど筆者はイケメンではないし、モテるタイプでは決して無い。
 それで「せめて好きな女の子の写真でも持っていよう」と思って、家にあるカメラで頑張って撮ってみたのだ。
 でもまるで駄目だった。
 家のコンパクト・カメラでは、雑誌のグラビアのような綺麗な写真は全然撮れなかった。
 そして「どうしたらプロの写真家のように、女の子を綺麗に撮れるのだろう?」という思いから、今度は写真への道にハマり込んでしまったのだ。

 幸い、写真に本気で心を引かれるようになって間もなく、筆者は高校に進学したから。
 高校生になれば、一応アルバイトができるようになるし。それでせっせとアルバイトをして、一眼レフのカメラと交換レンズを買っては、いろいろ写真を撮りまくったよ。
 で、不遜にも正気で「プロの写真家になりたい!」などと思うようになり、高校の進学先の希望調査票にも「日大芸術学部写真学科」なんて書いてね。
 実際、当時の筆者の模試での日大芸術学部の合格確率は、いつも75%以上のA判定だったのだ。

 ただ、写真もやはりお金がかかるから。
 残念ながら筆者の家はあまり裕福では無く、だから日大芸術学部への進学は、家計の関係で諦めざるを得なかった。
 それで進学先には、写真の次に好きだった歴史を学べる大学を選んだのだけれど。それでも写真家への道は諦めたわけではなくて、大学生になった後も独学で写真の勉強を続け、撮り溜めた写真を出版社の編集部に持ち込んでみたりもしたよ。
 そして写真を見ていただいたプロの方には、「キミは女の子を撮るのではなく、むしろカレンダー用などの風景写真を撮ったらどうか」などとアドバイスされたりしてね。

 それで自分なりにいろいろ頑張ったのだけれど、結局お金も体力も尽きてしまって。
 それにまた、「自分の好きな写真を撮る」という事と、「プロとして売れる写真を撮る」という事はまた別だから。その事にも気付いて、いろいろ考えた挙げ句に写真家になるのは諦めたのだけれどね。

 それでも写真を撮るのは、今でも変わらず好きなままでいる。
 ただ、年のせいか重い一眼レフと幾つもの交換レンズを持って遠出するのが、どうも面倒になって。ここのところはコンデジで、近場で花や空などばかり撮っている事が多いけれどね。

 あと、本を読むのが好きなのも変わらないままだし、車が好きも相変わらずで、ミニカーでなく本物の車を運転できるようになった今では、「車は誰かに乗せて貰うより、絶対自分で運転したい」って思う。
 本だけでなくコミックスも読むし、ゲームも好きだし。
 面白いものや熱中できるものはいくらでもあるし、この世は楽しいもので満ちあふれていると思う。
 だから本気で「熱中できるものが無い」と言う人が少なからず存在する事が、筆者には不思議でならないのだ。

 結局、「熱中できるものが無い」と言う人達は、生きる楽しみや目標を自分で見つけ出すのではなく、学校や社会など他に求めているのではないだろうか。
周囲の人達に褒められる為に頑張るのが良い事で生き甲斐」みたいな感覚でね。

 世の中の子供達の殆どは学校に行く。
 そしてそれなりに成績が良ければ、自然に受験の為の競争に巻き込まれる事になる。
 学校って、無趣味で好きなものなど何も無くても、ただテストで良い点さえ取れれば褒められて評価されるからね。で、受験を目標にして勉強を頑張っていれば、先生にも褒められるし同級生達にも“できる奴”と認められるから、無趣味で特技も何も無くとも自信を持って生きられるわけだ。
 そして高校受験に大学受験と頑張って、さらに入社試験でも頑張って良い所に就職できれば、周囲の皆からも評価されるし。そして職場でも上司の言う通りにして業績を上げ、昇進できれば社会的にも認められる

 けれどいくら頑張っても、職場には定年というものがあるわけで。
 で、退職して肩書きも無くなってしまったら、その人は「無趣味で取り柄もやりたい事も何もない、ただの高齢者」になるしかないのだ。
 別に退職まで待たなくても、ある程度の年齢になれば「自分がどれだけ出世できるか?」とか、見当がつくようになるよね。
 で、出世コースに乗り続けられていれば良いけれど、自分がそれから外れたなとわかったら、社会的な評価を得る為に生きて来た人達は、その瞬間に生きる目的や楽しみを失ってしまう事になる。

 何しろ今は、政府自ら「雇用の流動化」を旗印に掲げ、正社員を減らし派遣社員を増やそうとしている時代だから。
 実際、安倍政権は経済界のお先棒を担ぎ、派遣社員の固定化をもくろむ法案を、今国会で成立させようとしている。
 それゆえ正社員として就職出来さえすれば「これで一生安泰だ」などと思うのは大間違いで、定年になるずっと前にリストラの憂き目に遭う可能性も無視できない。

 だから受験勉強や仕事とは関係のない、自分自身で見つけた熱中できるものを何か持っていないと、受験が終わったり、あるいは職場を離れたりした後に生きる楽しみを失って、抜け殻のような人間になってしまうのだ。
 実際、大学に合格したり仕事をリタイアした後に、自分が何をしたら良いのかわからなくなって途方に暮れてしまう人が少なくないと聞くが、それはただ与えられた目の前の勉強や仕事を頑張る事しか知らずに生きてきたからだろう。

 筆者の場合、車の運転もミリタリー関係の研究も読書もゲームも写真も、ただ自分が好きだから没頭してやっているだけなのだ。
 人から褒められたいとか、仕事でメリットがあるからとか、そんな事はまるで関係ないね。
 ただ心が動き、好きで楽しいから続けてやっている。それだけの話さ。
 だから入試を経て進学して就職して職場も変わって、自分を取り巻く環境がどう変わろうが、好きなものは相変わらず好きなままで、おかげさまで生きる楽しみは常に持ち続けている。

 まあ、人生はいろいろだから。
 何しろ筆者は両手の指でも数え切れないくらいの女性と付き合い、それでも今もまだ独身だ。
 つまりそれだけ女性にフラれ続けてる、って事だよ!
 太宰治は「サヨナラだけが人生だ」と言ったけれど、筆者も辛く悲しい思いはいやというほどしている。

 さらに筆者は幼い頃から病弱で、今でも体調を崩して寝込む事が少なくない。おまけに喘息持ちで、メニエール症候群で片耳の聞こえが悪くなり、さらに二十代の後半に生きるか死ぬかの大病をした。
 特定を避けるために、あえて病名は言わないが。
 筆者が罹かったのは日本で20例目の珍しい病気で、担当の先生は「学会に発表できる」と喜んでいた。
 その病気の治療はかなりな大手術になったものの、とりあえず成功した。しかし後遺症が残ってしまって、おかげで今も体に不自由がある。
 その手術の結果、筆者はさらに体が弱くなってしまって、それまでの仕事も失ってしまった。

「年齢=彼女いない歴」でもなく“魔法使い”にもならずに済んだ代わりに、女性不信になるくらい酷い失恋を何度も経験して。
 滅多にないような重い病気と大手術をして、その後遺症も残って失職もして。
 傍から見れば、人生の落伍者のようなものかも知れないけれど。
 だが筆者自身は、「生きていて楽しい」と思ってる。
 それは金も地位も健康も妻子も無くとも、筆者には少なくとも「熱中できる好きなもの」があるからだ。

 筆者は「子供の頃から車が好きだった」と書いたが、今現在乗っている車は、実は中古で買った軽自動車である。
 それは、本音で言えばポルシェだのユーノス・ロードスターだのといった、良い車に乗りたいよ。だが金が無くて、中古の軽自動車しか乗れなかったのだ。
 けどそれでも、我慢して嫌々乗っているというのとは違う。旧型の軽自動車なのに、酷使にも耐えて必死に走ってくれる姿を見ていると、何だか可愛くなってくる。
 ポルシェに乗れれば、それはとても楽しいだろうが。
 しかし古い軽自動車の性能を限界まで引き出して、むしろ他のもっと大きな馬力のある車より元気に走らせてみるのも、それはそれで楽しいのだ。
 それに無理に飛ばさずとも、ただ車を走らせているだけでも楽しい。

 カメラも今よく使っているデジイチは18,980円で買った中古のペンタックスK-xで、コンデジなどカメラのキタムラのジャンク・コーナーで見つけた、700円也の中古以下のジャンク品を平気で使っている。
 本も新刊にこだわらすにブックオフ等に行って丹念に探せば、安くて掘り出し物の本があれこれ見つかる。
 こだわりを捨て、他人の目を気にせず今の自分にできる範囲で探せば、熱中できる楽しい事などいくらでも見つかるよ。
 生涯未婚のままで終わりそうで持病もあって、仕事の上でもいろいろあった筆者がそう断言する。
 その熱中できる楽しい事が見つからないとすれば、それは正確には「見つからない」のではなく、その本人が「探していない」のだ。

 しかし「仕事が忙し過ぎて、好きな事を楽しめる余裕などとても無い」という方も、今の日本には少なからずいると思う。
 実際、日本どころか世界的に名の知れたキヤノン電子の社長酒巻久氏のように、新入社員達への訓辞で「生きる為に働くというのは甘えで、あなた達はキヤノンで働く為に生きているのです。倒れるまで働き、起き上がれるだけの睡眠をとったらまた倒れるまで働いて下さい」などと正気でのたまう経営者も存在する。
 断言するが、キヤノン電子は間違いなくブラック企業だ。
 キヤノン電子に限らず、仕事以外に趣味を持ちそれを楽しむ暇すら無い職場は、経営者がどんな美麗字句で飾った経営理念を語ろうと、紛れもなくブラック企業である。だからそのような職場にお勤めの方は、たとえ収入が下がっても転職を真剣に考えた方が、間違いなくあなたの心身の健康の為になる。

 無論、中には「仕事が熱中できる楽しい事で生き甲斐だ」とおっしゃる方もいるだろう。
 そしてそれが自営の経営者や芸術家や音楽家や作家や漫画家や農家や漁師などなら、「仕事=生き甲斐」として、死ぬまで好きで楽しんで働き続ける事も可能だろう。
 だが会社であれ官公庁であれ、組織に勤めている者には定年というものがある。
 いくらその仕事が好きで生き甲斐にしていても、定年が来れば会社(官公庁)は容赦なくあなたを放り出す
 定年が来なくとも、経営上の都合でリストラをされる場合もある。
 そして筆者がそうだったように、予期せぬ病気や事故でそれまでの仕事を続けられなくなる場合だって現実にあるのだ。
 そうなった時、仕事を生き甲斐にしてきた方は耐えられるだろうか。

 繰り返すが、オーナー社長だけでなく芸術家や作家や農家まで含めて、自営の経営者でもない者は今の仕事を生涯続けることは出来ない。
 だから定年が来たり、何かの事情でその前に職場を去る事を余儀なくされたりしても。
 あるいは自分の昇進できる限度が見えて、仕事で頑張る目標を失ってしまっても。
 受験勉強だって、頑張っても不合格になってしまい、望まぬ進学先に入学せざるを得ない事もある。
 それでも「生きるのは楽しい」という気持ちを持ち続ける為にも、仕事や受験勉強以外にも熱中できる好きな楽しい事を見つけるのは絶対に必要だと、筆者は心から思う。

 と言うと、「その熱中できる好きで楽しい事が見つからねーんだよ!」と叱られてしまいそうだが。
 しかし筆者に言わせれば、受験勉強や仕事以外に熱中できる事が見つからない方が不思議なのだ。
学校や職場など他から与えられた勉強や仕事をただ頑張り、教師や同級生や上司や同僚など周囲の評価に一喜一憂しながら生きて何が楽しいのだ?」と、筆者は声を大にして言いたいよ。

 前にも話した通り、筆者には物心つき始めた頃から「熱中できる好きで楽しい事」は常にあった。
 それは何故か。
 親や教師に強いられた勉強や、上司に命じられた仕事をただやるのではなく、何にでも自分から興味を持ちいろんな事を進んでやってみたからだ。

 例えば筆者は、小学生の頃にプラモデル作りに興味を持った。
 車や船などの模型も作ったが、小学生の筆者が一番「カッコイイ!」と思ったのは、第二次世界大戦のドイツ軍の戦車や軍用車だった。
 しかしドイツ軍と言えば、戦争映画ではいつも最後には負ける悪役である。
 で、「何故だろう?」と思い、ただミリオタになるだけでなく、ナチスやユダヤ人虐殺の問題もいろいろ興味を持って勉強した。
 さらに興味はドイツ軍の最大の敵であったソ連(ロシア)にも及び、おかげでユダヤ人には立派な人が大勢いた事も知ったし、そしてロシア人もけっこう好きになってしまった。

 今も好きで撮っている写真だって、元々はカメラに興味は何もなくて、ただ好きな女の子を雑誌のグラビアのように綺麗に撮ってみたかっただけなのだ。
 だが家のコンパクト・カメラではグラビアとは程遠いものしか撮れず、そして「どうしたら女の子を綺麗に撮れるのだろう?」という疑問を追求して行くうちに興味が次々に広がり知識も増え、今では花や風景なども含めて幅広く撮っている。

 一度何かに興味を持つと、筆者の関心は果てしなく広がって行き、そして今まで知らなかった事を新たに知るのは心から「楽しい」と思う。
 だから逆に、「物事に興味も関心も持てない」という人が存在する事の方が不思議なのだ。

 白状する。
 小中学生時代の筆者は、学校の授業でも「何故だろう?」と疑問に持つ事があると、教科書に無い事でも授業の範囲を超える事でも「それはどうしてですか?」と教師に質問しては、教師に迷惑がられる種類の子供だった。
 だがだからこそ他から与えられずとも、「好きな事」や「やりたい事」は山ほど見つけられた。

 世の中には、「熱中できるものが無い」と言う人が少なからずいるが。
 その人達に問うが、あなたはその熱中できるものを、学校の教師なり職場の上司なりの他が与えてくれるを待っていたりしていないだろうか。
 熱中できる楽しいものの方から、あなたのもとにやって来るのを待つのではなく。
 あなた自身が進んで何事にも興味と関心を持ち、あなた自身が試してやってみない事には、学校の勉強と職場の仕事以外の「熱中できるもの」は見つかる筈も無い
のだ。

 もしあなたに、熱中できる楽しいものが無いのであれば。
 まず周囲に興味と関心を持ち、ちょっとでも「面白そうだな」と思ったら自ら進んで調べてみるなり、やってみるなりしようよ。
 そうすれば「熱中できること」は、何か必ず見つかる筈だ。
 そしてずっと続けられる趣味が出来れば、それはあなたの生活をただ楽しくするだけでなく、生きる支えにもなってくれるだろうと筆者は信じる。

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コミックス版『とらドラ!』7巻は、あの『アナ雪』よりずっと素晴らしかったりするのだ!

 黒沢は小説だけでなくコミックスもよく読むし、ドラマや映画もそれなりに観ているけれど。
 まるで自慢にはならないが、黒沢はそうしたストーリーでメインのヒロインを好きになれる事が実に少ない
 で、黒沢が心惹かれる女性の登場人物と言うと、「ヒロインの友達」であったり、あるいは「ヒロインのライバル」であったり、とにかくヒロイン以外の人ばかりなのだ。

 人気の『とらドラ!』でも見事にそのパターンで、ヒロインの逢坂大河は少しも可愛いと思えない、と言うかむしろ苦手でキライで、その天敵で毒あるブリッコ川嶋亜美ちゃんの方が好きなくらいデス。
 でも『とらドラ!』で黒沢が最も好きなのは、逢坂大河の親友の、ミノリンこと櫛枝みのりなのだ。
 元気で明るくて茶目っ気もあるし、その上友達思いで真っ直ぐな櫛枝みのりは、マジで黒沢の理想の女の子……って感じだよ。

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 で、先日発売されたばかりの、コミックス版の『とらドラ!』の7巻でのこと。
 主人公の高須竜児に「優しくて、いい奴」と言われた櫛枝みのりは、ドキリとして顔色を変えるのだ。「そ、そんな事…ない。私、私は本当はすごくずるくて…」と否定して。
 それでも「おまえは優しいよ」と言う高須竜児に、櫛枝みのりは俯いて冷や汗を流しながら、「…こわいよ」と言うのだ。
 そして「高須君私の事、きっとすごくいいもんみたいに思ってる。でも私の事、全部わかっちゃったら。そしたら…」と。
 怯えるようにそう言う櫛枝みのりに、高須竜児は「俺はもっと知りたいよ。おまえの事、わかりたい」と言うのだ。そして更に、「…別におまえの事、トイレにも行かない聖人だなんて思ってねえよ、安心しろ」と。

 いいなあ、と思ったよ。このやり取り。
 黒沢はこれで、櫛枝みのりの事をもっと好きになっちまったゼ。

 何の自慢にもならないが、黒沢は交通違反以外で警察のお世話になった事は一度も無い。だからとりあえず、前科はゼロだ。
 このブログでは言いたい放題に毒を吐いているものの、リアルな世界ではとりあえず人当たりも悪くないし、「良い人」みたいに言われる事だって度々あるゾ。
 でも黒沢自身はよくわかっているのだ、「オレは本当は、悪い所だらけでイヤな部分もいっぱいある汚いヤツなんだ」って。

 よくさ、「自分に正直に生きたい」なんて、真顔でほざく奴がいるけどさ。ほら、超大ヒットした『アナ雪』のあの「ありの~ままの~、自分にかえるの~」ってアレね。
 黒沢は思うのだけれど、「自分に正直に生きたい」とか「ありのままの自分らしく生きたい」とか本気で言える人ってさ、例の『とらドラ!』の櫛枝みのりと高須竜児の会話から言葉を借りれば、自分のことを聖人か何かのように勘違いしてるんじゃないかね?
 櫛枝みのりと同じで、黒沢は怖くて堪らないよ、本当の自分を人に見せるのなんて

 だって黒沢は、自分の悪い所や心の中の醜い闇の部分、ちゃんとわかっているから。
 生まれてからずっと、一つ年上の姉と比べられては、親戚にも学校の教師たちにも同級生たちにも、周囲の皆に「出来損ないの弟」と扱われて育って。
 そしてそれに加えて、父親は周囲の人に絡んで暴れる種類の、タチの良くない酒乱だった。いや、それだけでなく父親はギャンブルにも深くハマっていて、黒沢は幼い頃から暮らして行くおカネの心配をしながら育ったよ。
 おまけに幼い頃に東京から地方に引っ越したせいで、言葉の違いのせいなどでイジメられもしたな。
 そうそう、イジメと言えば体格のせいでもイジメれたな。

 よくさ、グレるのを育った環境のせいにする人たちがいるけれど。グレる言い訳なら、黒沢にも山ほどあったよ。家庭環境やら、兄弟間での差別やら、イジメやらね。
 でも黒沢はグレもせず、珍走団にも入らず逮捕歴も一度も無いまま真っ当に生きてきたよ。
 けどね、心の中には黒い闇がいろいろ渦を巻いている事は、自分でもよくわかってる。
 世の中や自分に辛く当たってきた人々に対する恨みつらみや、それ以外にも妬みやら欲やら、黒く汚い感情は心の中にいっぱいあるよ。
 だからさ、「ありのままに、自分に正直に」など生きたら、心の中のそのどす黒い感情が外に溢れ出してトンデモナイ事になるに違いないとわかっているので、自分でも怖くて仕方がない。

 もし黒沢が「ありのままに、自分に正直に」振る舞える、一国の独裁者にでもなったとしたら。きっとヒトラーとかスターリンとかみたいな、世界史にその名を残すような悪人になりかねないと、マジで恐れているのだ。
 それだけに黒沢は、「自分に正直に生きたい」とか「ありのままの自分で生きたい」とか本気で言うヒトってさ、自分の心の奥底をちゃんと見た事があるのかな……って思うよ。

「自分に正直に生きる」とか、「ありのままの自分で生きる」って事はさ、その「心の奥底に棲む悪魔まで外に放つ」って事なんだよ。
 そんな怖ろしい事、黒沢はとても出来ないし、しようとも思わない。

 黒沢が思うに、「自分に正直に生きたい」とか「ありのままの自分で生きたい」とか本気で言うヒト達って、おそらく次の二種類の人間なのではないかな。
 まずは、自分の心の奥をきちんと正視した事が無くて、自分の本性を「すごくいいもんみたいに」思い込んでいるか。
 でなければ、本当に心が綺麗で一点の汚れも無い、神サマに近いような聖人君子さまか。
 そうでない「心に悪や汚い部分も抱えた凡人」であれば、「自分に正直に、ありのままの自分で生きる」など、怖ろしくてとても出来ない筈だよ。

 想像してごらん、もし貴方が、国家主席でも総書記でも第一書記でも良いけれど、北の某国の独裁者に生まれたとしたら。そして一国の文字通りすべてを、貴方の思いのままに出来るとしたら。
 そしたら貴方は、どのように振る舞うだろうか。
「もちろん私利私欲無く国民の為に尽くし、我が身はどうなっても国の民主化に務めマス」って?
 綺麗事を言っちゃいけないよ、「国の富を独り占めして良い暮らしをして、自分専用の“歓び組”だって作っちゃうし、気に入らない奴は片っ端から殺すか強制収容所に放り込んでやる」みたいな誘惑に駆られてしまうのが、心弱き“普通の人間”ってものじゃないのかなあ。
 少なくとも黒沢は、何でも思いのままにできる立場になったら、公平無私に清く正しく振る舞える自信は無いよ。

 もちろん黒沢だって、人の心の奥は悪ばかり……なんて言うつもりはないよ。優しさやら善意やら、自然にもって生まれた良い部分だってあるさ。
 人の心の中には、その割合は人によって差はあれど、善と悪が両方混在しているのだと思う。ごく一部の聖人さまや、精神的な治療が必要な病的な悪人を除いて、ね。
 だから「ありのままに、自分に正直に」生きたら、良い部分だけでなく当然その悪い部分も外に噴出してしまうワケで。
 そしてその事が、黒沢は怖くて仕方ないんだ。

 人は誰しも心の中に、大なり小なり人に見せられない闇の汚い部分を秘めていると思う。
 だから少なくとも黒沢は「ありのままに、自分に正直に生きる」のではなく、悪い部分は心して抑え、善の部分だけ伸ばすように努めてるよ。
 例の『とらドラ!』の櫛枝みのりだって、きっと同じだと思う。
 心の中には暗いドロドロした部分も抱えながら、でもそれを頑張って抑えて、日頃は明るく元気に振る舞って、周りの人たちには優しくしてさ。
 うん、それが人間ってものだと思う。

 人はみな、他の人には見せられない暗く汚い闇の部分を心に抱えながら、それを抑えて少しでも“良い人間”であろうと、必死にあがいて生きているものだから。
 真顔で「ありのままに、自分に正直に生きたい」なんて言う人は、自分の見たいものしか見ない種類の人に違いないと思う。そんな人たちはその“見たくないもの”から目を逸らさず、一度自分の心の奥底の闇をじっくり見てみるべきだと思う。
 ……案外怖いものだよ、日頃は抑えて押し隠している欲や妬みや憎しみなどでドロドロの“本当の自分”って

 あの『アナ雪』なんかに感動しちゃって、お気楽に「ありのままに、自分に正直に生きたい!」なんて言うの、いい加減にやめてくれませんか……って、コミックス版『とらドラ!』の7巻を読みながら、改めて思った黒沢デシタ。
 でも櫛枝みのりは可愛いよ、ミノリンは黒沢的にはもう理想に近いサイコーの女の子なのだ!

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我、ジッポーを愛す

 最初に断っておくが、黒沢が煙草を吸っていたのは大学生の頃だけで、それ以降はキッパリと“断煙”している。
 ただ黒沢は凝り性で、煙草を吸っていた時には世界のいろんな銘柄の味を試してみただけでなく、ライターや灰皿などの道具もあれこれ集めたりもした。

 よく、その意志が鈍らないようにと、禁煙すると同時にライターや灰皿なども全て処分する人がいるが、黒沢はそうしなかった。
 だから当時愛用していたライターや灰皿も、今もまだ持っていたりするのだ。

「そんなモノ持ってると、煙草をまた吸いたくなるんじゃないか」って?
 いーや、黒沢は全然平気だったね。
 集めたライターや灰皿は相変わらずそのままとっておいたけれど、禁煙を続ける意志は少しも揺るがなかったよ。
 禁煙は禁煙、コレクション品はコレクション品……という感じで、頭の中でキチッと区別されてたんだよね。
 だから黒沢の禁煙は、前世紀のまだ昭和だった時代からずっと続いているよ。今では煙草の煙は毒ガスより嫌いなくらいだし、再び喫煙してみたい誘惑も全く感じないデス。

 でも当時のライターと灰皿は、未だに大切にしているんだよね。
 例えば灰皿は、アメリカの酒場で本当に使われていたものとか、東京ドーム球場を模した、屋根のドームの部分が蓋になっているものとか。
 ライターもいろいろ使ったけれど、結局一番愛用したのはジッポーだった。

 ジッポーは、何しろ米兵が戦場で愛用したものだから。強風の野外でもちゃんと火がつくし、武骨でシンプルなスタイルの中に機能美があって。
 それに何より、蓋を開けた時に響く、カンッという澄んだ金属音がたまらなかった。そして閉める時にも、パチッと確実に蓋が閉まるんだよね。
 オイルライターだけに独特の匂いもるのだけれど、ファンにはそれもまた魅力の一つで。

 だから禁煙した後も時々専用オイルを注ぎ足して、煙草も吸わないのにただライターに点火しては消し、点火しては消しているよ。
「それでまた吸いたくならなかったか」って?
 うん、全然ならなかったね。
 ジッポーという道具に対する愛と、煙草への欲望はまるで別のものと、黒沢の脳の中ではキチンと区別されていたんだよね。

 ジッポーの何が凄いかって、それは何と言っても永久保証っていうこと。普通に使っていて故障したら、本当に何年後でも直してくれるんだよね。
 ジッポーは姿形も美しいけれど、それだけじゃなくて信じられないほどのタフさと信頼性をも備えているんだ。
 手に取ると掌にズシリと伝わる量感も良いし、仕上げも上質だ。蓋を開け、そして閉める時の感触や音色も素晴らしくて、「これ以外のライターを使おう」なんて気持ちには全然なれなかった。
 もちろん風に強くて、屋外で強風時に使用しても火が消えてしまうことなど殆どない……という実用性の高さも、大きな魅力の一つだった。
 いくら見かけが綺麗で仕上げや感触が良くても、肝心の機能が劣っていたら道具として意味はないものね。

 だからジッポーのファンは少なくなくて、コレクターも世界中に大勢いるのだ。
 黒沢自身は、コレクターなどととても言えるようなものではないけれど。
 それでも5個ばかり持ってマス。
 まず最初に買ったものは、ビロードを敷いた紙の箱に入ったモデルだった。

ジッポー①LUMIX FX8 460 

ジッポー⑤LUMIX FX8 448 

ジッポー②LUMIX FX8 451

 ジッポーって、底に彫刻されている字体や斜線の数(//というやつ)などで、製造時期がわかるようになっているんだよね。
 で、黒沢が初めて手に入れたものは、ジッポーの文字がZIPPOと斜体字になっているもので、スラッシュの数もロゴの右に一つ、左に二つとまだ少なめで。

 それがやがてプラスチックのケースになって、このケースは蓋を折り返すとそのまま飾り台になる構造になってマス。
 で、底のジッポーの文字も、普通のブロック体のZippoに変わっているよ。

ジッポー➂LUMIX FX8 455

ジッポー④LUMIX FX8 449

 写真は黒沢の5個のジッポーのうち一番最後に手に入れたやつだけれど、そのせいか斜線の数もかなり多いデス。

 黒沢のジッポーの中で一番の変わり種と言えば、ズバリこれかな。
 見かけもサイズも普通のジッポーと全く同じなのだけれど、実はライターではなく折り畳み式の時計なのだ。
 しかもこのサイズでアラーム付きなので、泊まりがけの旅行に行く時には随分と重宝したものデス。
 ただケータイの普及のせいで、旅先に目覚まし用の時計を持って行く必要も無くなり、今では完全にコレクション棚の飾りの一つになってしまっているけれどね。

ジッポー⑥LUMIX FX8 456

ジッポー⑦LUMIX FX8 457

ジッポー⑧LUMIX FX8 458

 ……という感じで、煙草をやめてかなり経ち、再び喫煙者に戻るつもりもまるで無いにもかかわらず、黒沢のジッポーに対する愛だけは以前と変わらないままなのだ。
 でもジッポーがせっかくあるのに、使わないままただ放置しておくのでは勿体ないし。
 それで黒沢は、お仏壇にあげる線香に火をつけるのに使ってマス。

 いや、コレがなかなか便利なんだって。特に墓参りの時には野外の強い風にも負けないし、火力が強いから線香の束にも火がつけやすいんで、蝋燭や普通のライターよりずっと役に立つよ。
 ただ家で使う時には、線香をあげる前にお鈴を叩く音より響くくらいの、ジッポーの蓋を開けるあの独特のカンッという高い金属音にちょっと気が引けてしまうかな。

 ……ま、そんなこんなで完全に禁煙してかなり経つ今も、ジッポーというライターだけは未だに愛し続けている黒沢デス。
 普通は、ライターは禁煙と同時に処分してしまうものなのに、今もまだ大切にし続けている黒沢はかなり変わってるだろうね。
「それで本当に、煙草をまた吸いたくならないの」って?

 大丈夫、黒沢はジッポーの道具としての機能美を愛しているだけだから。煙草そのものは大っ嫌いだし、公共の場所で平気で煙草を吸うマナーの悪い喫煙者は軽蔑の対象でしかないよ。
 黒沢は自宅でも自分の車でも、とにかく自分のテリトリーでは誰にも絶対に煙草は吸わせないで通してるから。歩き煙草をする人がいると憎しみに近い感情を抱いてしまうくらい、今は煙草の煙が大嫌いだよ。

 だからその愛しのジッポーで、今日も煙草でなく線香に火をつけている……というわけデス。

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