空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

看護師さんの機嫌を損ねたら怖い入院生活

 先週は、筆者が出合った良い医師の話をした。
 それで今回は、看護師の話をしようと思う。

 日本の社会が高齢化し病気にかかる人が増えたせいか、よく『名医がいる病院』などという本や雑誌を目にする。
 しかし間違えてはならない。
 手術などを担当するのは確かに医師だ。しかし患者が入院生活をおくる病棟を支配するのは、現実には看護師たちである。
 そして男の看護師も増えてはいるものの、看護師の大半は今も女性だ。
 その看護師さんに気に入られるかどうかで、貴方の入院生活は天国にも地獄にもなる。

 先週も書いたが筆者はいろいろな病気をしてきて、入院生活も何度も体験している。
 だからこそ言おう、看護師さんが横柄で当たりのキツい病院に入院するのは辛いぞ。
 無論、手術を担当する主治医がヤブでは困る。
 しかし医師の腕と同じくらいに、入院する病院の看護師さん達が親切かどうかも大切なのだ。

 筆者は以前、腸の奥に大きな腫瘍が出来てしまい、某大学病院でその摘出手術をした事がある。
 その腫瘍が2キロ以上と大きかった上に、臓器と癒着してもいた為、地元の病院では手に負えず、他県の大学病院で手術する事になった。
 その大学病院で、五人の医師で七時間以上もかけて腫瘍を切除したのだが、予後も良くなかった。まず感染症にかかり高熱を出して寝たきりになり、さらにその為に大静脈血栓を起こしてしまい、そのせいで今も左足に障害を残している。
 で、その大学病院にも二ヶ月以上入院することになってしまった。

 その大学病院はかなり大きく、入院患者は全部で千二百人を越えていた。
 だから病棟にも大勢の看護師さんが居て、二ヶ月を越えて入院する間に多くの看護師さんのお世話になった。
 で、その中でまだ若かった筆者が真っ先に親しくなったのが、Aさんという看護師(もちろん女性)だった。Aさんは目立つほど綺麗というわけではないが、整った顔立ちでとても優しく親切で、さらに仕事もよく出来た。
 同じ病室の入院患者の、四十代以上の酸いも甘いも噛み分けたオジサンには、「Aさんが“優しい”のはさ、プロ意識からだよ。本当はキツい人だから気をつけな」と、そっと忠告されたりしたのだが。
 まだ若かった筆者はそれを右の耳から左の耳へと軽く聞き流し、例のAさんにすっかりなついてしまったのだ。

 するとなぜか数人の看護師さん(すべて女性)から、筆者は急に冷たくされるようになった。
 Aさんより年上や、または新人の看護師さん達は以前と変わらぬ態度で接してくれたのだが。Aさんと同世代の二十代半ばくらいの看護師さん達には、嫌味を言われるなどの言葉や態度での意地悪をされるようになった。
 特に手術して間もない頃に、「身の回りが汚い、だらしないわね。もっと整理整頓しなさい」と叱られたのは辛かった。

 その時、筆者は病状が良くなくて、体をろくに動かす事も出来なかった。そして他県から入院しに来ていて、未婚だから身の回りの世話をしてくれる妻もなく、親(父は既に亡くなっていて母一人だけ)も忙しく働いていたから、見舞いも月に二度か三度くらいしか来られなかった。
 そしてその事は、看護師さん達もちゃんとわかっていた筈だ。
 それだけに、「汚い、だらしない」と叱られたのは本当に悔しかった。
 出来れば言い返して怒るくらいしたかった。しかし病状が悪かった筆者には、その気力も体力も無かった。

 で、鬱屈した入院生活を送っていたのだが。
 筆者のように病状の重い患者は、毎朝採血をされたりする。そして病棟の起床時間は朝6時なのだが、仕事の都合か看護師さんは、6時前のまだ寝ているうちにやって来ては、そっと患者を揺り起こして血を採って行くのだ。

 採血されるのが好きな人は、まずいないだろうと思う。
 しかも筆者のように毎日採血されていると、その箇所の皮膚が固くなって、注射針が刺さりにくくなってくる。
 その状態であえて針を刺すわけだから、もちろん痛い。
 だから毎朝揺り起こされては採血されるのが、とても憂鬱だった。

 ただ毎朝採血されるうちに、採血の痛さが看護師さんによってかなり差があることに気付いた。
 決まった量を採る同じ採血なのに、それがとても痛い看護師さんと、あまり痛くない看護師さんが、本当に間違いなくいるのだ。
 それで気軽に離せるアラサーの看護師さんに尋ねてみたのだ、「同じ採血で、痛い看護師さんとそうでない看護師さんがいるのは何故?」と。

「ああ、それはね──」と解説してくれた、その看護師さんの答えは、実に意外で、かつ納得できるものだった。
 その看護師さんによると、採血にかかわらず注射というものは、迷わず躊躇わずにブスッと刺してスッと抜くのが一番痛くないのだそうだ。で、「痛いかな、可哀想だな、ごめんね」なんて思いながらおずおず刺すと、逆により痛くなるのだそうだ。

「なるほど!」と、心から納得したね。
 確かに仕事と割り切ってやっている男性の医師や看護師、そして大病院の採血専門で慣れきっている女性看護師の注射は上手いし痛くない。
 相手の腕を人の体でなく大根か何かのように思って、変な情を抱かずに針を刺すのが、結果的に痛くない注射や採血になるようである。

 確かに筆者が入院していた病棟でも、一番優しい看護師さんの採血は、新人でもないのにかなり痛かった。
 で、その病棟で採血が最も上手で痛くないのは、筆者をイジメてくれた看護師グループのリーダー的なBさんだった。
 Bさんというのは、筆者がなついてしまったAさんと同じ二十代半ばで、そしてまるでフランス人形のような顔立ちと雰囲気の、病棟でもピカイチの美人看護師だった。
 このBさんは筆者には意地悪だったけれど、採血は本当に上手くて殆ど痛くないのだ。
「そうか、性格が悪いからBさんの採血は痛くないのか」って、心から納得したね。

 だから筆者は、次にBさんが朝の採血に来た時に、心を込めてこう言ったのだ。
「朝の採血は憂鬱だけど、Bさんは本当に採血が上手くて痛くないから、Bさんが採血に来てくれるとすごくホッとするよ」
 ハイ、実は心の中では「オメーは鬼で冷たいから注射が上手いんだよ」と呟きながらね。
 そしたらBさん、筆者のその褒め言葉に頬を赤らめて大喜びしてくれちゃったよ。
 で、それからBさん達一部の看護師さん達からの筆者への意地悪は、ピタリと無くなったのでアリマス。

 無論Bさんの筆者への感情が変わったのは、その褒め言葉一つのせいだけでは無いのだけれどね。
 実はその少し前に、Aさんと筆者の間にちょっとした気持ちの行き違いがあって、筆者は以前ほどAさんと仲良くなくなっていたのだ。
 で、間もなくBさんを褒めたら、Bさんの筆者への感情が劇的に変わったらしいデス。

 そして筆者の体調も徐々に回復して、病棟内を不通に歩け回れるようになって。
 そんなある日、Bさんが一人で、患者を乗せたベッドを他の階に移動させようと悪戦苦闘している場面に出くわしたのだ。
 黙ってサッと手伝ってしまいマシタよ、筆者は。
 ベッドを押すのに手を貸し、エレベーターが来たら“開”のボタンを押しながら中に入れるのを手伝って……と。
 その間、Bさんは本当に気まずそうな顔をして、小声で「ありがとう、ありがとう」って言い続けていたよ。
 イジメた相手に逆に親切にされてBさんが困り切っている様子が、本当に面白かったデス。

 それ以後も、何かBさんを“手助け”できる事があればな……って思って、時々病棟内を散歩がてらBさんの姿を捜したのだけれど。
 そしたらBさん、筆者を見るときまり悪げな顔をしてササーッと逃げるようにどこかに行ってしまってさ。
 これは面白い、って思ったね。
 で、「何か親切に出来ないか捜す→気まずい顔して逃げるBさん」というのを何度か繰り返すうちに、筆者は退院の日を迎えたというわけさ。

 この「ある看護師さんと仲良くしたら、他の看護師さん達に意地悪されて……」という体験を、現役の看護師さん(若い女性)に話したら、「あー、わかるわかる」と頷いていたよ。
 今になればわかるのだけれど、Aさんって仕事は出来るし患者には優しいのだけれど、実は気が強くて、しかも裏と表で顔が違うタイプの人だったようで……。
 そんなAさんにコロッとなついてしまった若い筆者は一部の看護師さん達に睨まれて、特に病棟でも飛びきりの美女だったBさんにイジメられてしまったようデス。「あんなオンナにコロッと騙されてなつくなんてムカつく!」ってね。

 でもイジメられたり意地悪された時、「対抗して仕返しするのでなく、褒め殺しに加えて親切を返すと効果がある場合がある」って、そのBさんのおかげで学べたよ。
 想像してみてほしい。
 もし貴方が「ムカつく!」とかの八つ当たりに近い不当な理由で誰かをイジメたとして。そしてその相手に親切や褒め言葉で応じられたら、罪の意識を抱いてかなり気まずく思うのではないだろうか。

 筆者に辛く当たってくれたBさんだけど、美人でプライドが高かったにせよ、芯から悪い人では無かったのだと思う。
「気に食わないというだけで、患者をイジメた」と自覚していて、だから筆者に恨まれるのではなく褒め言葉をかけられ手助けもされ、罪の意識にかられて随分と後悔したのではないだろうか。
 イジメに親切で応じられて気まずい顔をするBさんを見るのは、とても面白かったデス。

 ただこの「イジメや意地悪に親切や褒め言葉で応じる」と言うのは、Bさんのように自分の行為を恥じるだけの良心が残っている人が相手でないと効果は無いデスけれどね。
 イジメや意地悪が快感でしかない心の底からの悪人とは、徹底的に戦うか、あるいは極力避けて逃げるしか無いよ。

 それにしても、看護師さんの世界は今もまだ女性が多いから。
 だから女の世界の難しさや面倒くささは、どの病院でも間違いなくあると思う。
 貴方が男性で入院する事があると、つい可愛い看護師さんに目が行ってしまうだろうけれど。
 だがその看護師さん達の人間関係や人柄を見極めないうちに、「ちょっと親切にされたから」と舞い上がって特定の看護師さんと仲良くなってしまうと、筆者のように辛い目に遭う事になりかねないから、ご注意を。

 何か病気や怪我で入院する場合、大事なのはやはり主治医の腕と人柄ではあるだろう。
 しかし入院患者と最も身近に接するのは、間違いなく看護師だ。
 その看護師の教育が行き届いて人柄も良ければ、気持ち良く入院生活が送れるのは間違いなしだが。もし看護師の質があまり良くなかったり、看護師と感情的に行き違う事があったりすると、想像以上に辛い目に遭う事になる。
 寝たきりで体も心も弱っている時に看護師さんに意地悪をされると、たとえ些細な事でもかなりダメージを受けるよ。

 だからもし貴方が入院を余儀なくされるような事になったら、医師の技量だけでなく、看護師の質についても事前に調べておいた方が良い。
 そして入院した後は、必要以上に卑屈な態度を取る必要はないが、くれぐれも看護師さんの機嫌を損ねるような事はしない方が良い。

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若いが良心的な良い医師に出会った

 全く自慢にならないが、筆者は幼い頃から病弱で、いろいろな病気を経験してきた。
 だから当然、大勢の医師とも接してきた。

 中には、「ん?」と思うような対応や治療をする医師もいた。
 しかし幸いにも、筆者を診てくれた医師の大部分は良心的で優秀なドクターだった。
 そして今日は、その中でも特に心に残った若い医師について話したいと思う。

 十年以上も前、筆者はヘルペスによる脳炎で総合病院に入院した事がある。
 その時の主治医は、内科のかなり若い先生だった。小太りで見かけは冴えないが威張った所が全く無く、人柄の良さが中からにじみ出て来るような優しい先生だった。

 その先生に特に好感を持てたのは、何か不確かな事があると患者の目の前で、躊躇う事なくデスクの上の厚い医学に手を伸ばして調べた事だ。
「俺はお医者さまなのだ」というプライドにこだわらず、わからないものはわからないとちゃんと認めて調べ直す姿勢に、筆者は頼りなさではなく誠実さを感じた。
 疑問があるのに知ったかぶりをして妙な治療をする医師より、少しでも疑問があるなら調べ直して確認する医師の方がずっと信頼出来ると、少なくとも筆者は思う。

 そしてその医師の手で、随液の検査をする事になったのだが。
 これは腰椎の間に針を刺し込み、硬膜とくも膜を通してくも膜下腔に届かせ、その中にある随液を採取するのだから、なかなか難しい。
 ただ難しいだけでなく、脊髄に針を刺し込むのだから、危険でもある。

 だからその若い主治医の検査は、なかなか上手く行かなかった。
 刺し込んだ針が腰椎の間に入らず、骨に当たったり。
 腰椎の間に入っても、変に神経を刺激したのか、背に針を刺している筈なのに足の先に変な痺れが走ったり。

 で、その事を言うと、先生は決して無理をせずにすぐ針を抜いてやり直した。
 だがやり直しても、なかなか上手く行かない。
 そして十数分ほど格闘した後、主治医の若い先生は「ちょっと待って下さい」と言って検査室を出て行った。

 やがて帰って来た主治医の先生は、中年の別の医師を伴っていた。
 その痩せて長身の医師は、無表情のまま黙って検査器具を取ると、一言も無いまま筆者の背に針を刺した。
 一発だった。
 ピリッとした痛みが走った後すぐに針が腰椎の間に通り、あっと言う間に随液を採取した。
 頭を下げて礼を言う主治医の先生には見向きもせず、その中年の医師は無言のまま立ち去った。

 その事で、筆者は若い主治医の先生に対しさらに「偉いなあ」と思った。
 自分には難しくて、下手をすれば患者を傷つけかねない時には無理をせず、先輩の医師に頭を下げて代わってくれるよう頼み込んだのだろう。
 代わりに随液を取ってくれた中年の医師は、腕は間違いなく確かだった。
 しかしその時の愛想の欠片も無い態度からしても、若い主治医の先生に尊大な態度を取り、嫌味の一つも言ったのではないかと思われる。
 それでもその主治医の先生は、己のプライドを守る為に検査を自分の手で強行しようとはしなかった。患者の為に、先輩医師に頭を下げて頼み込んで検査を代わって貰ってくれた。

 医師と言えば「先生」と呼ばれる職業の中でもかなり偉い方だし、学歴だけでなくプライドもかなり高いだろうと思われる。
 だが筆者が出合ったその若い医師は、ためらう事なくプライドより患者の為を優先した。
 不確かな事は、患者の目の前で辞典で調べる。
 危険な検査は、先輩医師に頭を下げて代わってもらう。
 当たり前の事かも知れない。
 しかし己のプライドを守りたくてそれが出来ない医師が、現実にはかなりいるのではないだろうか。

 医師だけではない。
 不確かな事は「わからない」と認めてちゃんと調べ直す事や、出来そうにもない事はそう認めて他の誰かに頭を下げて頼る事が出来ない者は、実際にはかなりいる筈だ。
 そして無理に自分でやった揚げ句に失敗をして、周囲の者に迷惑をかける事になる。

 筆者が出合ったその若い医師は、知識もまだ足りず、腕もまだ未熟だったかも知れない。
 しかし少なくともプライドを殺して、わからないものはわからないと認め、出来ないものは出来ないと認める事はできた。
 その先生の治療を受けてから、既に十年以上経つが。
 己の力量をわきまえ、迷わずプライドより患者の為を優先できる先生だったから、医師としての経験を積んだ今頃は、心と技量を兼ね備えたさぞ良い先生になっている事だろうと思う。

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過去のツッパリ時代を武勇伝のように語るヒロミ氏

 この世には、立場を笠に着て下位の者に理不尽な要求をする者が少なからずいる。
 学校や職場での先輩による後輩イジメから、企業間での下請けイジメまで、下の立場の者や企業に理不尽なことをする輩は当たり前に存在するのが現実だ。
 で、貴方に聞こう。
 貴方はその上の立場の者たちの理不尽な要求を、「当然のもの」と思って受け入れ、そして同時に貴方より下の立場の者にも同じように理不尽な要求をして当然と思っているだろうか。
 それとも「立場がどうあれ、理不尽な要求は人としてすべきでない」と思うだろうか。

 毎日新聞に『学校と私』というコラムがあって、毎回各界の有名人に学生時代の思い出をインタビューしているのだが。
 そしてこの3月14日に、タレントのヒロミ氏がインタビューに応じていた。
 それによると、ヒロミ氏は中学時代からツッパリで、高校は生徒が逃げないように塀にバラ線(鉄条網)を張り巡らせたような工業高校に通ったという。
 で、ヒロミ氏は高一で早速オートバイの免許を取り、改造バイクを乗り回して「おまわりさんによく追いかけられた」そうである。
 これだけでも、若い時のヒロミ氏の人となりが想像できるだろう。

 そしてその時代の自分について、ヒロミ氏はこう語っている。

「暴走族」のつもりはないのですが、友達が集まると結構な人数になるので、周りからは100%、暴走族に見えたでしょうね。
 不良の社会は縦社会で、理不尽な先輩の要求にも応えないといけない。でも、そういうのは社会に出たら山ほどあるから、社会に出て役立った部分がすごくある。不良はいいかげんに生きてると思われるかもしれないけど、結構ルールが厳しいんです。人生には無駄がないなと思います。


 このヒロミ氏の言葉を聞いて、胸がムカつく思いをしたのは筆者だけだろうか。
 この種の、己の過去の愚行に対して反省のカケラも無く、それどころか武勇伝のように話す元ツッパリを見ると、少なくとも筆者は胸くそが悪くなる。

 真面目に生きている他の大勢の人間は、ツッパリや暴走族の存在に心から迷惑してんだよ。
 なのにヒロミ氏は「若気の至りで、昔は周囲の皆さんに迷惑をかけました」と世間に詫びるどころか、逆に「不良の社会には世の中に出て役立つ事がすごくある」と自慢げに語る始末だ。
 この種の元ワルだった過去を武勇伝として語る者は、人間の屑だと筆者は思う。

 で、そのヒロミ氏が「社会に出て役立った部分がすごくある」と語った事とは、平たく言えば「先輩の理不尽な要望に応えること」である。
 つまりヒロミ氏は、「上司や客の理不尽な要望に応えること」が、社会人して必要な資質と考えているのであろう。

 実際、己の有利な立場を笠に着て、部下や取引先や下請けなどの弱い立場の者達に理不尽な要求をする者は、確かに幾らでもある。
 だが世間の皆が皆、全員が下の弱い立場の者らに理不尽な事を求めているわけではなかろう。
 だから筆者は、「人には、自分より下の弱い立場の者には理不尽な事を求めて当然と考えている者と、そうでない者の二通りが存在する」と考えている。
 そして筆者は、「上の立場だから、下の弱い立場の者には理不尽な事を求めても良い」と考えている者達を軽蔑する。

 と言うと、「オマエは世の中がわかってない、小学生かよwww」と非難する方がきっと出て来るだろう。「下請けには値下げを強要し、正社員を派遣に置き換え、重いノルマを課しサービス残業をさせて会社はようやく生き延びているのだ、綺麗事を言っていたら競争に負ける」と言い、社会のいろいろな理不尽を肯定する方が必ずいるだろうと思う。
 だがその社会の理不尽さを「世間とはそういうものだ」と肯定していたら、世の中がとても住みにくいものになるのではないか。

 元請け会社が下請けに無理を言い、だから下請けも孫請けに無理を言う。そうしたらその無理をすべて負わされる一番下の孫請けはどうなるか。
 部長が課長に、課長が係長に、そして係長が平社員に無理を言っていたら、一番下の社員は過重な負担で潰れてしまうのではないか。

 近年、会社の都合で正社員を派遣に置き換えている職場が増えているが。で、低賃金で不安定な仕事をせざるを得ない弱い立場の人達が増えた結果、結婚できない人達が増え少子化に拍車がかかり、日本はとうとう人口が減少し始めた。
 安倍首相のアベノミクスだの三本の矢だのが、現実には首相が主張するほどうまく行っていないのも、安定した職が無く低収入の国民が増えている現状では、国内消費を増やしようが無いからではないのか。
 部下であれ取引先であれ、立場が下の相手には理不尽な事を求めても構わない。その今の日本の風潮が、少子化に拍車をかけ人口を減らし、結果的に経済成長にもブレーキをかけているのではないかと思うが、間違っているだろうか。

 小中学生レベルの綺麗事と失笑されるかも知れないが、立場が下の相手も正当に扱い、理不尽な事は求めず人としてきちんと扱うような社会にならねば、日本の人口減少と経済の衰退に歯止めはかからないと筆者は考える。
 高給でなくとも安定した収入の得られる正社員で、残業も欧米並みに少ない環境でなければ、どうして安心して子供を産み育て、消費にお金を回す事が出来ようか。
「低賃金の派遣の仕事で働き残業もして、さらに子供も産んで消費にもカネを遣え」と言う今の政府の政策や経済界の言い分は、弱者に対するとんでもない理不尽な要求に筆者には思える。

 大阪北新地の社交料飲協会の初代理事長が1980年に作った『ホステス心得帖』という小冊子が、近頃「男が読んでも為になるし、新人社員教育にも良い」と評判になっている。
 実は筆者も全文を読んでみたのだが、為になる事が数多く書いてあった。
 その中に「先輩・後輩の順序を守ること」と書いてあると同時に、こうも書いてあった。

 人間は、自分より立場の弱い人に対する態度で、その人の値打ちが決まる。

 過去のツッパリ時代や暴走を自慢げに語り、「理不尽な先輩の要望にも応えなければならず、それが社会に出てすごく役立った」と言うヒロミ氏と。
 先輩と後輩の序列は重んじつつ、立場の弱い者に威張ることを戒める大阪北新地のホステスと。
 さて、人としてどちらが立派であろうか。

 中国に「上敬下愛」という言葉がある。
 下の立場の者は上の者に敬意を払い、そして上の立場の者は下の者を慈しむ。
 それを実践してこそ皆が生きやすい社会になるのではないか思う筆者は、頭が綺麗事に走り過ぎて幼稚なのだろうか。
 少なくとも筆者は、立場を笠に着た理不尽な要求を当たり前と認めるような人にはなりたくないし、その種の人々を軽蔑する。

 ハイ、だから筆者は周囲の、特に上の立場の人達と衝突する事が少なくないデス。そして損をする事も度々あり、生きるのが下手だとも言われマス。
 それでもヒロミ氏のような、過去のツッパリ時代を自慢して「上の立場の者の理不尽な要求に応えるのが当然で、それが世の中というもの」と思うような人には死んでもなりたくないと、心から思っている。

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遅刻を許すのは“優しさ”か?

 筆者は長年、猫と共に暮らし続けている。
 ただ猫は、人間よりはるかに寿命が短い。だから今、筆者が共に暮らしている猫は、初めて猫と共に暮らしてから三代目の子になる。
 当然、獣医さんとの付き合いも長くなる。
 筆者は幸いにも腕も良く、かつ献身的な治療をして下さる良い獣医さんとすぐに巡り会えた。

 その獣医さんは、毎年あるお寺で、自分の動物病院で傷病死した動物たちの慰霊祭を行っている。その費用はすべて獣医さんの持ち出しで、参加する飼い主たちからは一銭も取らずにだ。
 で、その慰霊祭には毎年百人を越す参加者が集まっている。そして筆者も亡くなった猫たちを偲んで、毎年その慰霊祭に参加させていただいている。

 ただ参加者が百人を越すだけに、中にはだらしのない人もいて、案内の葉書に明記されている開催時間に遅れて来る者が必ず少なからず居る。
 で、その慰霊祭を長年執り行ってきたお寺の先代の住職は、とても「優しい」和尚さんで、その遅れて来る人達が本堂に着席するまで待った。決められていた、慰霊祭の開催時間を遅らせてでも。
 そして筆者は、その優しい住職が時間に遅れて来る参加者を待つ度に、「ああ、また今年もか」とイラッとした。
 その先代の住職の優しさに、筆者が何故苛立ったのか。
 それは筆者が時間厳守を常に心掛けていて、この十数年以上参加し続けている慰霊祭に遅刻した事は、ただの一度も無かったからである。
 この傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、会議でも人と会う約束でも、筆者は「時間に遅れる」という事が無い。そのような事があるとすれば、事故か何かどうしようもない事情が発生した時だけである。

 ただその先代の住職は高齢でお亡くなりになってしまい、まだ若い方がその跡を継いで新しい住職となられた。
 その新しい住職もユーモアと温かみがある良い方だが、若いだけに慰霊祭の進め方もてきぱきとしている。
 この新しい住職は、遅れて来る参加者を待たない。所定の開催時刻が来れば、「時間になりましたので」と慰霊祭を始める。

 あらかじめ決めた時間を遅らせてでも、遅刻して来る参加者を待った先代の住職と。
 待たずに時間が来れば、どんどん慰霊祭を始める新しい住職と。
 皆さんはどちらの住職の方を、より「優しい」と思うだろうか。
 多くの方は先代の住職とお思いになるだろうが、筆者は断然、新しい若い住職の方だとと断言する。

 なぜ筆者は、いつも時間に遅れずに決められた場所に着いているのだろうか。
 自然にいつの間にか早く着いているのではない。
 筆者は常に、時間を気にかけているからだ。
 例えば日曜の午前十時にその慰霊祭があるとすれば、支度にかかる時間や、着くまでにかかる時間をあらかじめ計算して行動している。それも「自分に都合良く短めに」では無く、何かあるかも知れない事も想定して長めに見積もっておく。
「ちょっとくらい遅れたって構わないだろう」などと自分を甘やかしたりは、断じてしない。
 だから約束の時間より前に着いて、現地で待っている事が殆どだ。
 遅刻を「ちょっとくらい良いじゃないか」と思っている人達に言いたいが、時間を守る者はその為に努力しているのだ。

 にもかかわらず先代の住職は、「遅れて来る人がいるから」と慰霊祭を始めるのをいつも待った。
 筆者は遅れぬように努力して時間前に着き、そしてまたその努力をせずゆっくり来やがる怠け者たちの為にさらに待たされるのである。
 これでは時間を守る為に頑張る者が馬鹿を見て、時間を気にせぬ怠け者を助ける事になっているのではないか。

 その慰霊祭を行う寺は市の山に近い方にあり、筆者の住んでいる家から3キロ以上離れている。そしてその寺の駐車スペースには限りがある為、「できるだけ公共交通機関を御利用下さい」と参加者は事前に呼びかけられている。
 公共交通機関と言っても、その山麓にある寺の方面に行くバスは一時間に一本のみである。だから筆者は、慰霊祭にはいつも自転車で行っている。
 その寺は山の麓にあるから、行きはいつも登り坂を漕ぎ続けて行く事になる。
 で、朝の出がけに不測の用事があって、家を出るのが少し遅れた時など、それはもう必死に自転車を漕いで行くのだ。その3キロの、延々と続く登り坂の道を。
 それで息を切らせ汗だくになりながら、所定の時刻の数分前に着いて記帳も終え、席に座ってやれやれと思っていると、住職が「遅れて来る人を待つ」と言う。
 毎年の事だから、わかってはいる。
 しかしそう言われた時の虚しさは、何とも言いようが無い。
 自分は何の為に、こんなに苦しい思いまでして頑張って時間を守ったのか……と。
 その時の、約束の時間を守る為の「努力を踏みにじられ、馬鹿にされた」という悔しい思いは、いくらその住職が優しい良い方なのだとわかっていても抑えきれない。

 だから筆者は、約束の時間に遅れる者を待つのは「本当の優しさでは無い」と思っている。
 それは優しさや思いやりではなく、己に甘くルーズな者をより甘やかし、時間を守ろうと心掛ける者の努力を馬鹿にする行為である。

 約束の時間にいつも間に合う者は、その為に頑張っているのだ。支度や行くまでの行程にどれだけ時間がかかるかを多めに見積もり、早めに自分の仕事を切り上げて出かけているのだ。
 そして時間に遅れる者はその努力をせねばならないと思いもせず、遅くまで自分の好きな事をし、甘い見積もりで行動している。
 断言するが、その種の遅刻を繰り返す者は時間ドロボウである。他の者が間に合うように早く行動している間ものそのそ自分勝手な事をして、そして案の定約束の時間に遅れ、間に合うよう早く行動した者達の時間を無駄にさせるのだから。

 先代の住職は、時間に遅れても待っていてくれるとわかっていた。しかし筆者はそれでも決して遅刻はせず、登り坂の長い道を息を切らし汗だくになって自転車を漕いででも、所定の時間に間に合うように頑張った。
 それは自分が、約束の時刻を守る為に他の人が払った努力を無にする“時間ドロボウ”の側にはなりたくないからだ。
人には、自分が損をするだけとわかっていても貫き通さなければならない意地と矜持がある」と筆者は思う。
 そう思いはするのだが、約束の時間を守らない遅刻常習者に対する怒りと、その時間に遅れる者に寛容な「優しい」人に対する苛立ちが収まらない。

 その傷病死した動物の慰霊祭だけでなく、仕事上の会議や面会はもちろん、私的な待ち合わせでも。
 遅刻する者は待たず、約束の時間が来たら会議や行事を始めるのが、間に合う者、遅れる者、双方にとって結果的に良いのだと思う。
 なぜなら遅刻する者を待てば、「遅れても待っていてくれるもの」とより甘え、ますますいい気になって遅刻を当たり前に繰り返すようになるからだ。そして時間を守り早めに行動して早めに家(職場)を出る者は、余計に待たされる事になる。
 遅刻は許さないし、遅れる者は待たない。それを徹底すれば、時間にルーズな者も「遅刻は許されない」と理解するし、時間を守る者が無駄に待たされる事も無くなる。
 だから遅れて来る者に配慮するのは思いやりなどではなく、時間を守る努力をする者を優先する事こそ、皆の為になる真の優しさなのだ。

 新しい年度になり、新社会人になる者だけでなく、新しい学校に進学する者も大勢いるだろう。
 その新社会人と新入生に、少しばかり長く生きた者から言っておく。
 時間にルーズで遅刻をする者は、人から信用されないようになる
 事実、約束の時間を守れない者は、他のすべての事においてルーズで自己中心的だ。「遅刻はするが、仕事は良く出来て几帳面で整理整頓もしっかり出来ていて他人との約束も守る」という者など、筆者は見た事が無い。
 遅刻を何度もする人間というのは、ただ一日の時間の割り振りがきちんと出来ていないだけでなく、物事の見積もりが甘く、そしてきちんと間に合うように考えて行動している他人の時間を無駄に費やさせているのだという事に気付きすらしない。
 単にだらしないだけでなく、何と自己中心的で傲慢であろうか。
 だから遅刻をする人間は、他の者たちから嫌われ信用されぬのだ。

 たとえ相手が待ってくれるとわかっていても、遅刻は何か事故か事件でも無い限り極力しない。これは筆者の意地と、人としての矜持である。

 さて、傷病死した動物の慰霊祭を行う寺では駐車場が少なく、「できるだけ公共交通機関を御用下さい」と通知されている事は前にも書いたが。
 それでも「交通に不便だから」と、自家用車で慰霊祭に来る者が少なくなく、狭い駐車場とその周辺は車で溢れて、毎年その整理にあたる動物病院の方が大わらわだ。
 だから筆者は「自分一人くらい車で行っても構わないだろう」などと思わず、雨の時も風の強い時も3キロ超の登り坂を自転車で漕いで行っている。
 誰が見ているわけでも無いが、それもまた筆者の自身に対する意地と人としての矜持だ。
 しかし現実には、「待っていてくれるだろう」と平気で遅刻してくる者や、「自分一人くらい」と狭い駐車場に車でやって来る者も少なくないし、そうした自己中心的な人間を咎める者もいない。
 だからつい、「世の中、ズルい者が勝つのだな」と思いたくなってしまうものだ。

 だとしても、だ。
「自分さえ良ければ構わない」という気持ちが心の奥底にある者は、人としての品性の下劣さが日頃の振る舞いに自然に滲み出るものだし、そのうち周囲から軽んじられ、白い目で見られるようになるものだ。
 直接に叱られたり窘められたりしなくても、見る人は必ずどこかで見ている
 だから自分の価値を自ら貶めるような行動は、誰が見ていなくても慎みたいものだと思う。

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『あさが来た』にも見る、連続テレビ小説や大河ドラマのヒロインは決して老けない怪奇

 朝の連続テレビ小説『あさが来た』が、相変わらず好評で視聴率も高いようだが。
 それを不熱心に横目で見つつ、「オマエもかよ」と残念に思っている事がある。

 NHKの近年の大河ドラマや連続テレビ小説では、何故かヒロインがいつまでも老けない
 結婚しようが、出産しようが、その産んだ子が成長しようが、ヒロインはいつまでも若々しく“娘”のままなのである。
 例えば『』に至っては、少女期の頃には既に大人でありながら最後まで全く変わらずそのままで、「ヒロインはバケモノか!」と思うほどであった。
 まあ、『江』は脚本や演出から時代考証まで、いろいろとあまりにもヒド過ぎたから例外にしておくとしても。
 ヒロインが「十代の思春期から既に閉経した筈の中年過ぎになるまで、ずっと変わらず若々しく美しいまま」というのは、見ていて余りにも不自然で気持ち悪すぎるよ。
 でも近年の大河ドラマや連続テレビ小説では、どれもこれも不気味なほどにヒロインが老けない。

 筆者は幼い頃から歴史が好きで、大学も史学部国史専攻コースに進んだ。
 だから歴史もただ教科書に書いてある事を丸暗記するのではなく、歴史上の出来事についていちいち「なぜだろう?」と考え、通説についても「それは本当なのだろうか?」と疑ってみる習慣がついている。
 その結果、筆者は明治維新については大の薩長ギライの佐幕派になってしまったのだ。

 歴史を長い目で眺めるとですね、天皇を飾り物の権威として実権を薩長の連中が握った新政府は、“維新”と称して対外侵略的な軍国主義の国造りを最初から目指していて、そしてそのままあの愚かで破滅的な太平洋戦争へと突き進んで行き、我が祖国日本は滅亡の危機に陥ってしまうのデスよ。
 それを理解している筆者は、明治維新を日本の新しい夜明けのように評価し、薩長のテロリスト達を“志士”と持ち上げて誉め称える史観には、違和感と嫌悪しか感じない。
 同時に、明治維新とそれを押し進めた人々の行為に対して何の疑問も抱かず知識も無いまま、ただイメージだけで維新を良いことのように思い、維新を党の名にする政党と、それに属する政治家と、さらにそれに一票を投じる有権者にも全く共感できない。

 ゆえに『花燃ゆ』は最初から全く見なかったが、それでも他の番組と番組の間にスポット的に挟まれて、無理矢理に見せられる番宣で眺める限り、ヒロインの井上真央さんはやはり最後まで老けなかった。

 前にも書いた通り筆者は佐幕派で、会津藩や新撰組には強いシンパシーを抱いているが、『八重の桜』でもヒロインは殆ど老けず、八重は最後まで「綾瀬はるか」のイメージのままだった。
 断っておくが、筆者は綾瀬はるかさんは好きだ。
 だが『八重の桜』については、「やっぱり老けないなー」と冷笑まじりに見ていた。

 まあ、『カーネーション』は晩年の主人公を、キャストごと変えて違う役者さんにやらせていたが。
 実際、いくらメークの技術を駆使しても、高校生の孫もいる老女の役を尾野真千子さんにやらせるのは無理があったかも知れない。
 しかし以前なら、少なくとも娘時代から中年過ぎくらいまでは、同じ女優さんが演技とメークで変化をつけてこなす場合が少なくなかった。
 と言うか、それが当たり前だった。

 少し以前なら、例えば二十代の女優さんがメークで小皺を描き髪も白く染め、いかにもオバサンらしい演技をして見せたら、「上手く老け役を演じたものだ」役者として評価されたものだ。
 しかし今は違う。
 ヒロインは母となり子が大きくなっても、娘時代の頃と殆ど同じで老けないのである。
 残念ながら『あさが来た』でも、既に四十代になっているヒロインのお肌はツルツルのままで張りもあり、皺ひとつ無いのである。
 そろそろ思春期になろうという娘と並んでも、親子でなく姉妹にしか見えないのである。
 繰り返し言う、朝ドラや大河ドラマのヒロインはバケモノか!

 今の女優さんというのは、役者としての演技の評価より“綾瀬はるか”なり“井上真央”なり“波瑠”なりという、タレントとしてのイメージの方が大事なのだろうか。
 老け役を見事に演じたら、その女優の若さや美しさなどのイメージが壊れて人気が落ちると思っているのだろうか。
 そんなに若さや美しさなどのイメージが大事なら、「役者でなくアイドルになれ!」と怒りたくなってしまうのは、筆者だけだろうか。

 まあ、今はジャニーズやAKBなどのアイドル達もよくドラマで重要な役を演じているし、アイドルと役者の区別そのものが無くなっているのかも知れないが。
 で、視聴率ほしさに演技力より話題性と人気を重視してアイドルを使えば、どうしても事務所の方の「イメージがあるから、老けさせないでくれ」という要望を受け入れざるを得ないのだろう。
 しかし繰り返し言うが、役の上とは言え「四十をとうに過ぎても娘時代と殆ど変わらず、思春期の我が子と姉妹にしか見えない」というのは、若くて綺麗な女性が好きな男の一人である筆者が見ていても気持ちワルイよ。

 この「近年の連続テレビ小説や大河ドラマでは、ヒロインが結婚し出産し、その子が成長しても殆ど老けず娘時代のままに若々しい」という現象は、もしかしたら演じるタレントのイメージの問題ではなく、主たる視聴者である女性の願望なのかも知れない。
 実際、「娘とは、友達のような親子になりたい」と正気でおっしゃる女性が少なからずいるからね。

 でも男で、「息子とは、友達のような親子になりたい」などと言う男はまずいないし、いたら気持ちワルイよね。
 子供に対して、多くの男はあくまでも“親”であるべきだと思っているし、少なくとも以前は女性もそうだった筈だ。
 けれど今の女性には、四十を過ぎても思春期の娘と「友達(姉妹)みたい」な関係でいたいと思っていて、人からもそう見られたいと思っている気持ちワルイ人達が無視できないほど実在するから怖い

 そういう女性達は、「美魔女とかいるし、今のアンチエージング技術とメイクをなめるな!」とか言うけれど。
 でもアナタ、化粧やエステあれこれで誤魔化した四十代や五十代の“美魔女”を、十代後半から二十代の本当に若い女性と並べて比べてごらんなさい、って。目尻や口元などの小皺だけでなく、肌の張りやツヤから頬や首の弛みまで、何から何まで全然違うから。

 以前にも書いた事があるが、筆者は若い頃、プロの写真家になりたいと思っていた。それも篠山紀信さんや荒木経惟さんのような女性を撮る写真家になりたいと思っていた。
 だから多くの女性を見て写真に撮ってきたし、それだけに女性のメークに騙されずに実年齢を見抜く自信はあるつもりだ。

 その筆者に言わせると“美魔女”など「年の割には若く見えるね」という程度であって、本当に若い女性と並べて比べてしまうとその差は一目瞭然なのだ。
 それに気付かず、娘と友達気分で姉妹に見えるつもりの母親など、傍から見ていて怖いしイタ過ぎるとしか言いようが無い。

 一部の(筆者はそう信じたい)女性達の、その怖くてイタ過ぎる夢を叶える為に、連続テレビ小説や大河ドラマはヒロインを年相応に老けさせることを止めたのだろうか。
 この「ヒロインは決して老けずに、いつまでも若々しいまま」という風潮は、筆者の私見では『利家とまつ』から始まったように思うが、どうだろうか。

 現在も視聴率が好調の『あさが来た』でも、もう明治になって二十数年も経とうというのに、変わったのは髪型と服だけで、ヒロインは明治初年の頃と同様に若々しいままで、お肌ツルツルだ。皺一つ無く、どんどん大きくなりつつある自分の“娘”と同じように肌が張り切っている。
 ……気持ちワルイったら、ありゃしない。

 わざとらしく、ことさら醜く老けろと言うのではない。
 ごく自然に、年相応に品良く老けさせる事だってできる筈だし、「ヒロインは全く老けない」という方が不自然でバケモノじみていると筆者は思う。

 大河ドラマの『真田丸』の方は、祖母と母、それに二人のヒロインと、ちゃんと世代の違いが区別されているが。
 少なくとも、今のところは。
 しかし信長が本能寺で死んだこの後、豊臣の時代が続くものの徳川に取って代わられ、大阪夏の陣で主人公(真田信繁)が滅び行く豊臣家と運命を供にして討ち死にするまで、物語はあと三十数年続く筈だ。
 現在は若い娘でいる長沢まさみさんと黒木華さんが、この先もまたずっと老けずにいるのか、それとも年相応に上手に老けて行くのか、怖々と見守って行こうと思っている。

 余計な事だが、最後に一つだけ。
「何とかギャグを盛り込もう」という姿勢がチラチラ窺える三谷幸喜の脚本には、本格的な時代劇を見たい筆者はどうにも感心できない。

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男でチビに生まれたからこそわかる事

 先週、自身も含めて「チビの男はなぜ性格が悪いか?」という事について話したが、その際に過去に体験した厭な記憶を思い出した。
 今回はその事について語りたいが、その前に前提を一つ書いておきたい。

「お客は神様だ」
 この国には本気でそう信じているバカも存在するようだが、少なくとも筆者は違う。
 よく客商売のアルバイトを初めて体験した学生などが、「お客にありがとうと言われるのが、こんなに嬉しい事とは思わなかった。これまで自分はお客だからと無愛想に接してきたことを反省した」などと、さも感動したように語る者が少なからず存在する事に、筆者は呆れている。
 そして筆者の姉もまた、大学生になり自分がバイトの店員になるまでそうした事に気付かずにいたバカの一人だった。

 筆者は違う。
 そうした客相手の仕事を経験する前から、筆者は店員に注文したりレジで精算を頼む時には軽く一礼して「お願いします」と言い、そして用事が済んだら「ありがとう」とまた軽く一礼して立ち去るようにしていた。
 ちなみに応答の言葉は、基本的に敬語と言うか丁寧語である。
 何故ならお客も店員も、立場の違いこそあれ同じ人間なのだから。

 無論、店員に対し必要以上にへり下る必要も無いが、人間同士として必要な礼儀というものがあると筆者は思っている。たとえ自分が客で、相手より立場が上だとしても……だ。
 だから逆に自分がバイトの店員の立場になった時も、立場の違いはあるから当然お客には丁重に応対したが、人としてのプライドを捨ててまで無理を聞いたり非礼に耐えたりするような事もしなかった。
 頑なで融通が利かないと言われようとも、「礼儀をきちんと守った上で、お客も店員も同じ人間なのだ」というのは、筆者の子供の頃からの至極当然な常識だった。

 そんな筆者にとっては、「客だから店員には無愛想で威張っていて当然だ」などとあり得ない話だし、自分が店員になって初めてお客にありがとうと言われて感激して、それまでの自分の店員に対する傲慢な態度を反省するなど、まるで馬鹿げた話にしか聞こえなかった。
「下らない、そんなの当たり前の事だろ」
 だから筆者は思わずそう言い放ってしまって、怒った姉と喧嘩になってしまった。

 そのような人間だから、筆者は店員に無礼なことをしたり傲慢に振る舞ったりした事は全くない。
 むしろ逆に、社会人としてと言うより人間として非常識な店員(または社員)に非礼な対応を何度もされているくらいだ。

 少し話は逸れるが、筆者はお金の使い方が普通の人とはかなり違っている。自分の趣味や好きな事にはそれこそあるだけ遣うが、その代わり自分にとって優先順位の低いと思われる物には殆どお金を遣わない。
 大切なのは「自分自身が楽しくて満足か?」であって、「周囲の人からどう思われるか?」という事については、まず人目を気にするこの国では異常なほど無関心なのだ。
 だからいい年をして乗っている車は軽自動車(しかも中古)だし、着ている服も主にユニクロだ。そして最近では、実用性とコストを考えてワークマンで買った服も着たりしている。
 金はあるだけ書籍類と写真と映画と趣味の収集品に使い、見かけを飾る事は本当にどうでも良いと思っている。
 限られた少ないお金は、外見や持ち物で他人に「スゲーな」と思われる事にではなく、自分自身の心と感性を豊かにする為に遣いたいのだ。

 しかし残念ながら、どなたかが本に書いていたように『人は見かけが9割』というのが現実だからね。
 人が感心するのは、目に見える服や持ち物や車や家などであって、目に見えない心や感性などは(その人が有名になるまで)殆ど無視されるのが現実デス。
 で、見かけで人を判断するのは、店員(社員)も同じなのだ。
 何しろ筆者は先週も書いたように、小柄だからね。しかも童顔である。
 そしてユニクロの服を着て、古そうな軽自動車で乗り付けて来て、腰を低くして敬語で話しかけてきたら、店員(社員)さんの中にも初めからナメてかかって、「コイツならぞんざいな態度であしらっても構わない」と思うクズ人間がいるわけデスよ。

 お店や企業の名前を実際に出すと、その店や企業から営業妨害だの名誉毀損だのと抗議を受け、場合によっては弁護士が出て来るかも知れないが、本当の事だから書いてしまおう。
 写真を撮るのを趣味にしている筆者が、静岡県を車(例によって中古の軽自動車)で旅した時、駿東郡長泉町ミニストップに立ち寄った。
 そして買い物をして、いつものようにレジの女性には「すみません」と軽く一礼し、会計を済ませ「どうも」とまた会釈してドアに向かいかけた時の事だ。
 数歩進んでドアの手前にさしかかった筆者の耳に、レジのクソアマ、いやUNKO女性が、もう一人の女性店員に話しかける声が聞こえてきた。
ちっさい人だったよねぇー
 それも声を落とした耳打ちなどではなく、遠慮も何もない大声だったから、筆者の耳にもはっきり聞こえた。

 筆者はチビを自覚しているし、気分は良くないがそう言われるのにも慣れている。
 ある時、筆者よりも明らかに身長のある、それも縦よりも横方向によく育った知り合いの女性に、ニヤニヤしながらこう言われた事もある。
「あら小さいねえ、踏んづけちゃうゾ」
 ……まあね、良い気はしなかったけれど。ただ相手は以前からの知り合いで、冗談で言ったのもわかっていたから、笑って聞き流したけれどね。
 うん、そう悪意なく面と向かってチビと言われた場合には、筆者はたいてい気にせずに許している。

 しかしだ、静岡県駿東郡長泉町のミニストップの店員は違う。
 きちんと礼儀を尽くして買い物をした客の背中に、身体的な特徴をあげつらう言葉を投げつけるのは、店員としてという以前に、人間として駄目過ぎるにも程があると思うのは筆者だけであろうか。

 筆者がチビな事にそんなに驚いたのなら、面と向かって世間話として「それにしてもお客さん、背が低いですねぇ」と言えよ、っての。
 面白くはないが、それならまだ許せる。筆者の背が低いのは事実だし、そう言われるのにも慣れているからな。
 しかし静岡県駿東郡長泉町のミニストップの女性店員(多分バイトかパート)は、面と向かって素直な驚きとして言うのでも、筆者がドアの外に出るのを待ってから言うのでもなく、背に投げつけるように、しっかり聞こえる声で言い放った。

 許せぬ、と思った。
 レジに引き返して「もう一度言ってみろ!」と叱りつけてやろうかと、余程も思った。
 しかし背後から言われた為、二人いたレジの女性店員のうちのどちらが言ったのか、筆者は直接には見ていない。文句をつけたところで、言った言わないの水掛け論になっても面白くないし、旅を急ぎたかった事もあって、そのまま黙って店を出てしまった。

 相手の身体的特徴をからかうのは、良くない事だがよくある話だ。
 また、客がドアの外に出て声が聞こえない所まで行ってから、その客の悪口を言うのは、客商売ではよくある話だろう。
 しかし静岡県駿東郡長泉町のミニストップの女性店員は、世間話的に直接言うのでも、ドアの外に出るまで待つのでもなく、ちゃんと聞こえる声でお客の身体的特徴を揶揄する言葉を背に投げかけてきた。
 店のレジの女性と口論はしなかったが、間違いなく傷ついたし深く恨みに思った。

 だから筆者はそれ以来、その静岡県駿東郡長泉町のミニストップだけでなく、全国すべてのミニストップを利用するのを止めた。
 どんなに急いでコンビニに寄りたい時があっても、そこにあったのがミニストップなら我慢して他のチェーン店が見つかるまで待つ。
 実は筆者の自宅の最寄りのコンビニはミニストップで、楽に歩いて行ける距離にあるのだが、本当にまだ一度もその店にも行っていない。
 別にそこのミニストップの店員に厭な思いをさせられたわけではないのだが、そこがミニストップだというだけで、絶対に行きたくなくなってしまうのだ。
 それで筆者は、コンビニを利用する時には徒歩ですぐ行けるミニストップを素通りして、わざわざ自転車を使ってもっと遠いローソンかセブン・イレブンに行っている。
 面倒だし、筆者一人が不買運動を続けていてもミニストップは痛くも痒くもなかろうが、それが筆者の通したい意地なのだ。
 で、いろいろあるコンビニの中でミニストップだけは「無いもの」として無視し続けて、もう数年以上になる。
 言うまでもなく、そのミニストップに対する一人不買運動は、今後もずっと続けるつもりだ。

 筆者の一人不買運動はただミニストップだけでなく、実はジャスコ京セラに対しても続けている。
 まずジャスコについて話したいが、地元のジャスコの事である為、ジャスコ○○店と言ってしまうと、筆者の住む市まで特定されてしまう。
 だから残念ながら、ジャスコ某店とだけしか言えない。

 で、まだテレビが地デジでなくアナログのブラウン管だった時代に、ジャスコが20型のテレビデオを売り出した。
 それがなかなかお買い得な値段だったので、チラシを見て筆者は早速買いに行った。
 真っ直ぐ家電製品売場に行き、その売り場のカウンターの中にいた中年男性の店員に、「すみません」と声をかけた。
 そして顔を向けたその男性店員に一礼し、「あのテレビデオが欲しいのですが」と声をかけた。
 するとその男性店員は返事もせずに横を向き、離れた場所にいた女性店員に声をかけ呼びつけた。そしてそのままこちらには目もくれず、カウンター内の椅子に座り込んで自分の仕事を続けた。

 年齢から見て、その男性店員は売り場の主任か何かのちょっと偉い人で、安売りのテレビデオ(と言っても四万円はする)を買いに来るようなビンボーな客など相手にできなかったのだろう。
 チラシに載せた安売りのテレビデオは、若い女性店員の担当と、おそらくは決まっていたのだろうな。
 だがそれはジャスコの売り場の都合であって、お客には何の関係も無い事だ。家電売り場のカウンター内に居たのだから、主任だろうが何だろうが応対するのが当然ではないか。
 仮にそのテレビデオが若い女性店員の担当だったとしても、少なくとも客の会釈には会釈を返し、「ありがとうございます、ただ今担当の者に替わりますので」くらい言うのが常識ではないだろうか。
 しかし客には一言の返事も会釈も無く、ただ離れた場所にいた女性店員を呼びつけて任せただけだったのだ、そのお偉いジャスコの男性店員サマはね。
 だからそれ以来、筆者は地元を含めた全てのジャスコに行くのを止めている。

 話は変わるが、写真はレンズで決まる。
 カメラ内部の処理プロセッサーや、パソコンでの画像処理の影響が大きいデジタルの時代は別だが、フィルムで写真を撮っていた時代には、レンズの違いが画像に大きな差を生んだ。
 例えば同じ35mmF2のレンズでも、メーカーによって色の出方も線の描写もかなり違ってくるのだ。
 そして一眼レフなどの交換レンズは、同じメーカーのカメラにしか付けられないからね。
 だから違う写りを求めたければ、違うメーカーの交換レンズとカメラボディまで揃えなければならなかったのだ。
 で、お金にゆとりは無いくせに、写真にはあるだけのお金をつぎ込んでしまう筆者は、オリンパスにペンタックス、それにキヤノンにニコンにミノルタに富士写真フィルム、さらにツァイスやライカまで、ありとあらゆるメーカーのカメラとレンズを買い揃えてしまった。
 もちろん中古のものが多いが、今でも百台くらいのカメラと百本くらいの交換レンズを持っている。
 余りにも数が多過ぎて、自分でも正確なその総数を把握し切れていないのだ。

 だからそのカメラたちのメンテナンスの為に、ほぼ全てのメーカーのサービスセンターに足を運んだ。
 でもそのサービスセンターの職員から見れば、筆者など取るに足りない一ユーザー(背だけでなく腰も低く安そうな服を着ている)に過ぎないからね。写真にかけては金を惜しまず、ほぼ全てのメーカーのカメラを持ってるなんて思いもしないだろうさ。
 それだけに、儲けにもならないアフターサービスを受けに来た客に対する態度は、面白いくらいに違ったね。

 これはあくまでも、筆者個人が受けた印象だが。
 まず最良なのがペンタックス。いつ行っても親切な応対をして貰え、感じもとても良かった。
 ニコンはプロの写真家の中には「威張っている」と悪印象を持っている方もいるようだが、筆者個人の印象では威張ったところなどまるで感じず、親切だったし対応も紳士的だった。
 ミノルタのサービスセンターの方も、商売抜きでとても親切だった。
 オリンパスは「人による」としか言いようが無く、親切で人柄の良さを感じさせる方と、いかにも事務的に応対する方がいた。しかし不快な応対をされる事は無かった。
 キヤノンは最初に話を聞いてくれたのが男の社員でも、「問題が大した事ではない」と察すると、応対する役目をすぐに若い女性社員に変えるところが笑えた。
 で、中でも最悪だったのが、ドイツの名門カール・ツァイスのレンズをウリにした、コンタックスというブランドのカメラを出していた京セラのサービスセンターだった。

 京セラのどこのサービスセンターだったかは、例によって筆者の居住地を特定されぬよう避けるが。
 フィルムのカメラが全盛だった今から約二十年ほど前の事だが、はっきり覚えている。

 コンタックスのある付属品(もちろん有料)が欲しかった筆者は、京セラの某県のサービスセンターに行った。そしてカウンターの向こう側に座っていた、三十過ぎくらいの小太りで顔に脂の浮いた男性にまず一礼をして声をかけた。
「あの、すみませんが──」
 男は椅子にどかりと腰を据えたまま、口を“へ”の字に曲げて筆者をギョロリと睨むように見る。
「○○というカメラの、×××という付属品が欲しいのですが──」
 男は椅子に腰を据えて黙ったまま筆者をひと睨みして、さも面倒臭そうに、後ろの女性社員に向けて顎をしゃくる。
 すると若い女性社員(清楚で可愛い)が慌てて出て来て、親切丁寧に応対してくれたのだけれど。
 それでもその最初に遭遇した、小太りでオイリーな男性社員の悪印象が強すぎて、例によって筆者はその後、京セラが関係する一切のカメラとレンズを購入しなくなった。

 例え担当が違ったとしても、だ。
「はい、承りました。担当の者に替わりますので、少々お待ち下さい」
 いい大人の社会人が、来た客にその一言がなぜ言えないのか、今もって不思議でならない。

 その京セラを創業して長く社長と会長の職にあった稲森和夫氏と言えば、人生訓のような本を何冊も出していて、信者のような崇拝者も大勢いるようだが。
 ご本人がいくら人格者を気取ってご立派な事をおっしゃっていても、自社の社員には会釈をし敬語で用件を話した客に、無言と凝視で応じ顎をしゃくるだけで済ます者が現に存在しているのである。

 このように、男で背が低いと厭な目に遭う事が少なくない。しかも筆者のように着るものにも車にもこだわらず、さらに「オレ様は客だ!」などという態度は決して取らずに礼儀正しく接していると、店の人にさえナメられて不愉快な応対をされる事がある。
 だがそれゆえに、「相手の本質と本音がわかる」とも言える。

 チビで金も無く、そして礼儀正しく接するよう努力しているばかりにナメた態度を取られがちな現実が、昔は悔しくてならなかった。
 だが年を食ってかなり大人になった今は違う。
 チビでカネも無さそうな相手にも、人として親切に接する事が出来るか。そういう本音の部分を露骨に見せられ、相手が強かったり金があったりすれば態度を変えるようなクズ人間あるいは「社員教育のなってないダメ企業」を嫌でも見抜く事が出来るようになったのは、メリットとも言えるかも知れないと、今では思っている。
 と言うより、思うようにしている。

 もし筆者が大柄で、見るからに強く怖そうな男だったら。あるいはホリエモンのようなお金持ちと、皆に知られていたら。
 あのミニストップの店員も、ジャスコの家電売り場のオッサンも、京セラの小太りの男も、みな笑顔で機嫌を取って“良い人間”を演じるだろうし。そしてそいつらが実は嫌な奴らだという事実を、自分は最後までわからないでいる事だろう。
 そう考えれば、今のままチビで礼儀正しく、でも身なりや車にお金をかけずにいるのも、あまり悪くない事かも知れないと思う。

 とは言っても腹の立つものは立つし、ミニストップとジャスコと京セラに対する“一人不買運動”は、無力でも今後もずっと続けようと思っている。
 腹の立つ企業に対する一人不買運動って、一人では無力でも、皆がそれぞれに根性を入れて年単位で続ければ、それなりに効果があるのではないかと思う。
「腹は立つけど、安いし便利だから」などと言ってくじけてはダメだよ。
 筆者はどんなに近くて便利でもミニストップとジャスコの前は素通りし続けているし、どんなに写りに魅力があっても京セラがほんの少しでもかかわったカール・ツァイスのレンズとコンタックスのカメラは使わずにいるから。

 もう頑固を通り越して、執念深いというレベルだと自分でもわかっているけれどね。
 でも筆者に言わせれば、逆に日本人は忘れっぽ過ぎると思う。
 だから企業も政治も変わらないんだよ。
 誤ったことをした企業だけでなく役所や政府も、過ちをきちんと償い体質を改めるまで、決して許さない
 そのくらい頑固に執念深く忘れずに追及しなければ、企業も役所も政府も絶対に変わらないよ。
 企業や役所や政府は自らの過ちは直さず償わずに、忘れっぽい国民が追及するのを諦めるのを待っているのだよ。
 だから現に安倍首相も、パンツ大臣などの不祥事やTPPや戦争法案などの問題を追及されるのを恐れ、内閣を改造し国会議員の四分の一の要請があったら国会を開かなければならないという規定があるにもかかわらず、国民が忘れてほとぼりがさめるのを待って、国会を開くのを来年にまで先延ばししているよね。
「いついつまでに開くという規定は無いから」などと、法の抜け穴をすり抜けるような詭弁を弄して。

 だが少なくとも筆者は諦めない。
 筆者は思想的には基本的に保守で、20世紀にはたいてい自民党に票を入れていた。
 しかし21世紀になると同時に小泉政権が誕生して以来、筆者はただの一度も自民党に票を入れていない。国政選挙だけでなく、県議選や市議選、それに知事選や市長選も含めてだ。
 筆者の本質は相変わらず保守だが、小泉政権以来の自民党清和会による政治を許していないし、今後も許して票を入れるつもりは全く無い。
 日本人にはこれくらいの頑固さと、やられた事を決して忘れぬ執念深さが無いと、日本という国は絶対に変わらないのではないかと思っている。

 さて、この2015年に安倍政権がした事を、日本人が来年の参院選までちゃんと覚えているかどうか
 筆者としては甚だ不安であるが、少なくと筆者だけはしっかり覚えていて票を投じようと思っている。
 ミニストップやジャスコでは今後も決して買わないし、京セラがかかわったカメラやレンズも使わない。そして同様に、清和会が支配する自民党にも票を入れるつもりは無いと改めて明言しておこう。

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チビ自身が語る「チビの男は性格が悪いわけ」

 チビの男は性格が悪い、という声を時々聞く。
 筆者自身も“チビ”の一人であるが、「確かにそうかも知れない」と思わないでもない。

 女性の場合は、小柄に生まれてもそれほどデメリットは無いだろう。
 むしろ小柄な方が「可愛らしい、守ってあげたい」と思われて、得をする場合もあるくらいだ。
 しかし男は違う。
 小柄に生まれると辛い事ばかりで、得になる事など何一つ無いぞ。

 男で小柄に生まれてごらん。
 まず物心つくかつかないかの頃からイジメられるね。
 幼稚園でも小学校でも、男子の世界でものを言うのはまず“力”だから。
 そして子供の力は、たいてい体格に比例するものだから。
 それで小さな男の子は、体が大きく粗暴な男の子に虐げられる事になる。

 実際、小柄だった筆者は、よくイジメの標的になった。
 小学生の頃、粗暴な男子たちに度々「プロレスごっこ」と称するイジメを受け、無理矢理いろんなプロレス技をかけられて痛めつけられた事を、今でもよく覚えている。
 いくら「いやだ!」と言っても、体の大きなイジメっ子たちは笑い飛ばして聞いてはくれなかった。

 その「力がものを言う」という現実は、男の世界では大人になっても大して変わらない。
 無論、大人になれば“力”は体力だけでは無くなるからね。金力とか、権力とか、知力とか、力の種類もいろいろになってくる。
 実際、「高学歴で役職についていてお金もあるチビ」と「高校中退でフリーターで貧乏な大男」では、もちろん前者の方が強いだろう。

 だがその二人が、夜の街などで出くわして揉め事になり、一対一の乱闘にでもなったらどうなるか。
 一旦肉弾戦になったら、学歴も役職もお金も役に立たない。そのチビが何か格闘技でも身につけていない限り、チビはたちまち無惨にのされてしまう事になるだろう。
 また、学歴なり役職なり財産なりで明らかな差があれば良いのだが、ほぼ同等の立場にあれば、チビはたいてい周囲の者から見下される。

 それは大人になれば、チビに対する差別や暴力は子供の頃のように表立ったものでは無くなるが。
 しかし男の心の中には、チビに対する“肉体的優越感”のようなものが間違いなく存在する
「いざ喧嘩となれば、こんなチビなど叩きのめしてやれる」
 自分より小柄な人間にそんな動物的な感情を抱く事など全くないと言い切れる人間が、大人の男性の中にどれだけいるだろうか。

何だ、このチビ!
 何か揉め事や口論になった度に。
 そんな捨て台詞や罵りの言葉を、筆者はこれまでに何度浴びてきたかわからない。
 それも小中学生時代の話ではなく、立派な大人になった後もだ。
 断言するが。
 少なくとも男の心の中には、チビを身長だけでなく人間的価値も自分より一段低い劣る存在と見なしている部分が間違いなくある

 そしてまた、強い男性を求める本能のせいか、チビは女性にもモテないからねえ。
 高身長ならフツメンでもそれなりにモテるが、イケメンでも低身長だと女性にやや引かれてしまうのが現実だ。
 だから低身長の男子は幼い頃から肉体的な暴力に遭いながら育った上に、思春期になると今度は「モテない」という辛い現実にもぶつかる事になるのだ。

 小さい頃から強い男子(複数)にイジメられ、そして思春期になれば女子たちにもモテないで育ってごらん。そりゃあ、性格だって曲がりますってば。
「人は善意に満ちた優しい存在で、人生は素晴らしいものだ」などという綺麗事なんか、とても信じられないもんね、チビは。
 男子は肉体的な優劣で弱者をイジメるドーブツで、女子もまた強いオスに尻尾を振るビッチ。そうした世界観を持ちかねないんだよ、チビは。

 筆者自身が実感している事だが、チビは幼い頃だけでなく大人になった後も他者から見下され、虐げられ続けている。
 筆者が成人して何年も経ってからの事だ。そこそこ混んだ雑踏の中で、筆者は向こう側から来た背の高い男に突き当たられた。
 筆者は体をかわそうとしたのだが、相手がそのまま避けること無く早足で直進して来たのだ。
 それで互いに、肩と肩がぶつかり合う形になった。
 互いに振り返り、筆者はぶつかって来た相手をキッと睨んだ。
 その時に見た相手の顔が、筆者は今でも忘れられない。
 相手は最初、驚いた目をした。しかし自分がぶつかってよろめかせた相手がチビ(しかも童顔)だと見てとると、フッと気の緩んだ安心した表情を見せ、くるりと振り向いてそのまま立ち去ったのである。

 その相手は頭も人柄も悪そうな、いかにもDQN系といった人間だったわけではない。髪型も服装もきちんとした、見るからに真面目で真っ当な社会人風の男だった。
 そんな充分に常識をわきまえているであろう中流以上の大人の男でさえ、心の中では「相手が自分より肉体的に劣るチビなら、ブチ当たってよろめかせても、済みませんと詫びの一言も言う必要はない」と思っている。
 それが現実なのだ。
 皆がそうだとは言わないが、男には大人になっても心はオスでドーブツのままの者が少なからず存在するのである。

 それが現実の世の中であるとすれば、チビの男はどう生きて行けば良いか。
 道は、たった二つである。
 それが世の中の現実なのだと諦めて(イジメや差別も含めて)すべてを受け入れ、目立たぬように、不平も言わずに静かに生きるか。
 それともちゃんと一人前の男として扱われるまで、殴られ蹴られても周囲と戦い続けるか。
 そして筆者は後者の、戦って周囲の者たちになめられぬよう強く生きる事を選んだ。

 何しろ体格差が歴然としてあるからね。
 その自分より大柄で体力もある、しかも最初からこちらをナメてかかってきている奴ら(複数形)に立ち向かうんだよ? それはただ怖いどころの話じゃなかったさ。
 でも筆者は戦った。
 殴られ蹴られても戦って自分のプライドを守るのと、イジメっ子たちのパシリにされ皆から見下されて小さくなりながら生きるのと、どちらがマシか?
 そして筆者は、戦ってでもプライドを守り通す方を選んだだけの話だよ。

 けどチビが大柄なイジメっ子たちと戦うなんて、本当に生やさしい話じゃないよ。
 そもそもまともに立ち向かったって、勝てるわけも無いんだ。
 だから文字通り、キレて狂ったように暴れまくるしかなかった。
 殴られても蹴られても立ち上がり、目をギラつかせて飛びかかって行くの。で、「参った、もう許して」とは絶対に言わないで、相手に食らいついて行って死んでも喧嘩を止めない。
 ホントにね、「コイツを止めるには、もう殺すしかないんじゃないか」って思わせるくらいにキレて見せるんだよ。

 無論、自分から手を出すのではなくて、そんな酷い喧嘩をする時にはいつも相手が仕掛けてきた時にしていたけれどね。
 そしてそうして暴れていれば、「ヤツは怒るとキレるヤバいヤツだから、手を出すのは止めておこう」って話になってくる。
 おかげさまで中学生時代の筆者は、同級生たちにある種の精神の病を思わせるあだ名を付けられていたよ。「キレると発作を起こしたように暴れ狂う」と言うワケで。

 そう言えば中高校生時代の筆者に付けられたあだ名の一つに、ヒトラーというのもあったな。
 まあ、当時の筆者は周囲から、それくらいヤバいヤツに見えていた……って事デス。

 けど何と言われようと、「相手が強かろうと大人数だろうと、やられたら必ず(ぶちキレて)やり返す」というのを実行していたら、少なくとも筆者をナメて下手に手を出して来るヤツは無くなったね。
 逆にそれどころか、DQNグループの奴らとも対等に話が出来るくらいになっていた。

 イジメや喧嘩に限らずさ、男はただ低身長っていうだけでランクの低い人間のように見られて「隅で目立たぬように小さくしていろ」みたいな扱いを受けるんだよ。
 だからチビの男は、とにかく自分から前に出て頑張ってデキるところを見せないと、一人前に扱って貰えないんだよね。
 もちろん頑張って前に出たら出たで、デキるところを見せても「チビのくせに、出しゃばりで生意気」って陰口を言われがちなのだけれど。

 でもどう言われようと、「チビだから」と皆から見下されたままでいるよりはマシだ。
 だって同じ「チビのくせに」と言われるなら、隅で小さくなっているより、自分のやりたいようにして生きた方がマシでしょ?
 少なくとも筆者はそう思い、売られた喧嘩は買い生意気と言われて憎まれようと、自分を通して生きてきたわけデス。

 で、青少年にとっては重大時でもあり、チビにとってはもう一つの課題の“モテ”についても、そこは気合いでカバーしたね。
 何しろ男にとって、低身長というのは“非モテ”の大きな要素だから。
 平均以上の身長のイケメンとか、運動部のスター選手や音楽ができる人ならともかく、低身長の男が「女子に想いを寄せられて、告白されて」なんて事は、まずあり得ないから。

 特に取り柄のない平凡な男子が、なぜか凄い美少女(場合によっては複数)に惚れられて……というのは、青少年のラブコメ・マンガの王道だけど。
 それ自体が現実にはまずあり得ない事だけれど、特に男がチビとなると、実際にモテる確率は限りなくゼロに近づくのでアリマスよ。
 だからチビは、ただ黙って女子からのアプローチを待っているだけでは、下手をしなくても「実年齢=彼女いない歴」のまま魔法使いになる可能性が高い
 で、筆者は自分から動いたわけデス。
 身近な女の子に積極的に話しかけて、コミュニケーションを取り仲良くなる努力を惜しまなかったのだ。そして頃合いを見ては、デートにも誘ってね。

 と言うと、「よく恥ずかしくもなくそんな事が出来るね、オレにはそんな度胸ないよ」とか呆れられるけれど。
 冗談じゃない、筆者だって女の子に声をかけるのは恥ずかしかったし、デートに誘うとかすごく勇気が必要だったさ!
 問題は「そんな事して恥ずかしくないの?」って話ではなく、「声をかける勇気を出すかどうか」って事なんだよ。

 元々非モテのチビなんだから、黙っていて何もせずにいたら「実年齢=彼女いない歴」のままが続くのは確定だ。
 もちろん声を掛けても冷たくされ、遊びに誘ってもフラれる事も少なくない。
 でもどうせ「実年齢=彼女いない歴」だったら、声を掛けてフラれたところで同じ事だし、別に損も無いでしょう?
 だったら万が一wwwの可能性に賭けて、「良いナ」と思った子にはアプローチしてみた方がマシだと筆者は思ったわけだ。

 ハイ、もちろん数え切れないほどフラれて、恥ずかしい思いや痛い思いも厭というほど味わってきマシタとも。
 でもおかげで少なくとも人並みの時期には魔法使いになる資格を失ってしまったし、今もまだ独身ではあるけれど、付き合って来た彼女の数は両手の指で数える以上くらいになってイマス。

 おわかりでしょうか。
 チビの男が人並みに生きるには、人一倍頑張らなきゃならないんだよ。
 イジメにも耐え勝てない喧嘩もして、低身長を補う為に何か自分を売り込める特技を磨いて、それを積極的にアピールもして。
 そして男女交際でも、自分から積極的にアプローチしていって。
 けれどそのすべてが、周囲の人達には「チビのくせに出しゃばりで生意気」と見えてしまうんだけれどね。

 で、「チビのくせに」と言われても負けずに頑張って前に出て行く男は「厭なヤツ」と言われて。
 そして争う事までして自己アピールしない、世の中の片隅で静かに暮らす道を穏やかで大人しい性格のチビは人の目に入らずに存在を無視されて。
 結果、前者の気が強く前に出るタイプの低身長の男ばかりが目立って、「男のチビは性格が悪い」と言われているのだと思う。

 よく見てみれば、静かで穏やかな人柄の良い低身長の男も、結構たくさん居るんだけれどね。
 けど筆者も含めて「チビのくせに」と見下されて黙っていない低身長の男には、強気で頑固で意固地な可愛くない性格の者が多いのは事実デス。

 同じ強気でも、元々体格に恵まれている男の強気と、チビの強気はタイプが違うから。
 端的に言えば、前者と違ってチビの強気には余裕が無いんだよ。
 体格や体力では相手に負けているし、日頃から「チビのくせに」と言われ続けてきて、さらに女の子にも非モテだし。
 コンプレックスは物心ついた頃からいろいろあるし、体力的にも精神的にもギリギリの所で頑張っているものだから、生まれつき高身長で体力に恵まれた男と違って余裕が無いんだよ。
 その「頑張ってるチビ」の抱えているコンプレックスと余裕の無さが、傍から見れば「性格が悪い」って風に映るのだと思うよ。

 うん、筆者自身もそうしたチビ男の一人として、自分の性格の悪さは認める。育った環境のせいで、強く生き抜く為に性格がかなり曲がったと自分でも思うもの。
 でも男でチビだとそれだけで周囲の人から見下されてイジメられ、女子にも非モテで、そんな中でも強く生きようとしてきた頑張りだけは認めてほしいと思うな。

 ホント、大人になってかなり経った今でも、「チビのくせに」という陰口は何度も何度も言われるよ。
 男でチビだとね、周囲と対等にハッキリものを言うだけで、「チビのくせに生意気」と見られがちなのだよ。
 世間の多くの人達ってのは、チビの男は周囲に遠慮して小さくなって生きているべきだと思っているんじゃないかと、小柄な男の一人である筆者は常日頃から感じている。
 これはチビのコンプレックスからくる、被害妄想なのだろうか。

 そんな世間の求める通り、いつも控え目にして大人しく生きている善良な小柄な男性も、ただ目立たないだけで実際には大勢いるのだ。
 そして筆者のように生意気に生きているチビの性格が曲がってしまったのにもわけがある事を理解して、ほんの少しだけ同情してくれる方が現れてくれたら幸いデス。

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ドライブ中の車の室温を決めるのは誰?

 暑い
 ここ何年も「例年より暑い夏」が続いているが、今年の暑さは本当に異常だ。
 夏が冷夏だった年など、いつの事だったか記憶にも無いくらいだ。
 それでいて冬は暖かく過ごしやすいわけでもなく、夏が暑い年に限って冬も厳しく冷え込むような気がするのは、筆者の勘違いであろうか。

 で、車で外出する際には、殆どの方が冷房を使っていると思うが、夏や冬に車の冷暖房を利用する場合、その温度を設定するのは誰だろうか。
 その乗客がお客様でもない限り、車の室温を決める権利は、基本的にドライバーにあると筆者は考えている。

 ドライバーの立場で言えば、夏に汗をかいたまま運転するのはとても不快なのだ。腋や腕にジットリ汗をかいた状態でハンドル操作などをするのは、本当に気分が悪い。
 だから筆者は車内を冷やすと言うより、空気の湿度を取り肌がサラリとした状態で運転したいのだ。
 また、冬もあまり厚着をすると、ハンドル操作などがしづらいので、あまり厚着をしないでも運転できる室温に設定したいのだ。

 ところが、である。
 同乗者の中には「暑い、寒い」と言い立てて、自分好みの温度に設定しようという者が居るから困ってしまうのである。
 中には、コントロールパネルに黙って手を伸ばして、問答無用で温度を自分好みに変えてしまう者までいる。
 特に乗り合わせているのが友人同士や家族の場合、遠慮も無いせいかドライバーを差し置いて車の温度設定を勝手に変えようとする者が本当にいる。
 しかし筆者は、それはドライバーに失礼だと考えている。

 家族や友人同士などでドライブする場合、車の運転者はお金を貰って仕事としてやっているわけでなく、乗り合わせている者たちもお客様では無いのだ。
 ドライバーは無償で、運転という余計な負担を他の者たちの為に背負っているのだ。
「だから室温くらい、ドライバーに快適な温度に設定させてくれ!」と求めるのは、当然の事ではないだろうか。

 前にも述べた通り、ドライバーは運転という作業をしているのだ。
 夏に腋にジットリ汗をかきながら運転するのも、冬に分厚い服を着てハンドル操作するのも苦痛なのだ。だから筆者は、親しい人達には「室温は運転者に決めさせてくれ、暑かったり寒かったりしたら、同乗する者が服で調整してくれ」と頼んでいる。
 運転には、それも帰省や行楽などでの長距離の運転には、ドライバーは本当に神経を使うのだ。そこに車の室温を同乗者が勝手に変えるなどして、更なるストレスをドライバーにかけないでほしいものだと、本当に心から思う。

 ドライバーには運転という作業があるのだ。汗ばんだり凍えたりとかいう状態で運転するのは本当に辛い。
 車内の暑さ寒さに不満があるなら、何もせずにただ座っているだけの同乗者たちが服を一枚脱いだり着たりすればいいのだと思うのは、運転者の我が儘なのだろうか。
 何度か同じ人の車に乗っていれば、そのドライバーが自分より暖かめが好きなのか、少し寒いくらいなのが好きなのかわかる筈だろう。
 だから車の室温はドライバーに任せて、暑い寒いといった不満は同乗者が自分の服で調整すべきだと、筆者は思う。

 実際、筆者は誰か他の方が運転する車に同乗させていただいた場合、暑いだの、寒いだの言ってドライバーに室温を変えるよう求めた事は一度もない。
 増してやコントロールパネルに手を伸ばして勝手に車の温度を変えるなど、本当に考えた事もない。

 と言って、筆者は同乗者の暑い寒いに、全く無関心というわけでもないデスよ?
 基本は室温は自分で設定するものの、同乗者に「暑く(寒く)ない?」と一声かけて、自分が許容できる範囲で同乗者の感覚にも合わせて温度を調整する気遣いもしているつもりだ。

 車の室温を決めるのは、何もせずにただ乗っている同乗者でなく、気と体力を使ってドライバーであるのが原則。
 但しドライバーも、同乗者に対する気遣いも忘れてはいけない。
 筆者はそう考えるが、皆さんはどうであろうか。

 だが現実には、「もっとエアコン強く(弱く)して!」と無遠慮にドライバーに要求したり、勝手に室温をいじってしまう同乗者が少なくない。
 まず困るのは、「貴方の車に乗ってあげている」というつもりでいる、お姫さま気分の美人さんだ。しかもこの手の若いうちにチヤホヤされ慣れた女性は、元美人wwwのオバサンになっても変わらずに女王さま気取りで他人に平気で要求を突きつけるから厄介だ。
 自省も込めて言うが、男はつい女性の若さと美しさに目と心を奪われてしまいがちだ。しかし女性の若さと美貌は衰える一方で、残るのは性格だけだからご注意を。

 男の場合は、ジャイアン気質の者と、甘やかされて育った一人っ子がいけない。
 筆者の知人にYという元同級生で写真仲間がいたが、そのYがまさに後者の甘やかされた一人っ子で、悪気は全く無いのだが本質的に自己中心なヤツだった。

 筆者がYと親しくなったのは、写真という共通の趣味があったからだが。
 写真に少し凝るようになると、どうしても朝や夕方に写真を撮りたくなるものだ。少し専門的に言うと、真っ昼間は光が平板になりがちで、だからプロの写真家も正午を挟んだ前後の二時間は写真を撮るのを避ける者が少なくない。
 特に風景の写真を撮る者は、日の出や日の入り頃にシャッター・チャンスを狙う場合が多い。

 で、筆者とYはある冬に、二百キロ以上離れた場所にある山の、日の出の写真を撮りに行ったのだが。
 何しろ二百キロ以上離れた山に、日の出前に着かなければならないわけだから。
 前の晩もあまり寝ずに、朝の二時過ぎに車で出発したせいで、やはり眠いんだよね。それでドライバーの筆者は運転中に居眠りをしないように、寒くはないが暖かくもなり過ぎない温度に室温を設定したのだ。
 すると助手席のYが、黙ってコントロールパネルに手を伸ばして温度を勝手にいじって、暖房をガンガン効かすわけ。
 で、一言「俺、風邪気味だから」って。
 ……だったら最初から厚着して来い、っつーの!
 おかげさまで、良い写真を撮る撮らないの前に、こちらは眠気と戦う危険なドライブになってしまったよ。

 このYには、また別の時に写真を撮りに雪道を走っていた時にも、危うく事故を起こしかねない怖い事をされまして。
 雪の積もらない県で暮らしている筆者だけれど、写真を撮る関係で、冬の雪道もそれなりに走っていたんだ。だから多少の積雪のある道くらいは、走れるだけの経験はあるんだよね。
 で、ある雪道を走っていた時、「おい、もう少しスピード落とせよ」とYに言われたけれど、「大丈夫」と答えてそのまま走っていたわけ。
 そしたら車がいきなり滑ってさ。
 そこは咄嗟にカウンター・ハンドルを当てて、車の体勢を立て直したけれど。
 するとYが怒り声で言うんだよ、「だから言わんこっちゃない」って、車のサイドブレーキを握り締めながら

 ……Yの大バカ野郎め、スピードが出過ぎていて危ない、ブレーキをかけようと、サイドブレーキを勝手に力一杯引いてやがったんだ。
 車の速度のせいで滑ったんじゃない、オメーがサイドブレーキをいきなり引くから車のケツが流れて事故りかけたんだよ、っつーの!
 あれで事故らなかったのは、筆者のカウンターハンドルが運良く間に合ったからだから。

 助手席のヤツが運転中の車のサイドブレーキを、しかも雪道でいきなり引くなんて、ホント非常識極まりないと思うのは、筆者だけではないと思うが、どうだろうか。
 で、筆者はそのYとは、しっかりお付き合いを絶たせていただきマシタ。

 今は帰省や行楽などで、長距離ドライブをしている方も大勢いると思うけれど。
 その貴方の同乗者で、運転者である貴方に「暑い、寒い」と当たり前のように車の室温を変えるように要求し、さらに「疲れた~、まだ着かないの?」などと不平を言ったり、運転者の苦労に気遣い一つなくグースカ居眠りするようなヤツがいたら、悪い事は言わない、早く友達の縁を切った方が良いと思いマス。
 それが彼女であったら、間違いなく夫をないがしろにする悪妻になるから、結婚に至る前に別れた方がその後の人生を無駄にしなくて済む。

「いや、うちのカミさんはそれが当たり前だよ」って?
 ……それはご愁傷さま、と言うしか無いデスね。

 でも繰り返し言うけれど、車の室温の設定はドライバーの権限だと筆者は信じる。
 もし同乗者が暑かったり寒かったりしたら、自分の服で調整すれば良いのだ。だって同乗者は運転という責任と仕事をドライバーに任せて、ただ乗っているだけなのだから。
 そしてドライバーも、同乗者に「暑く(寒く)ない?」という気遣いの一言が必要だと思うが、どうだろうか。

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想像力が人を救う(オタクですが、何か?)

 もし何にでもなれるとしたら、貴方は人間以外の何かになりたいと思うだろうか。

 毎日新聞では、毎週精神科医の香山リカ先生のコラムを連載しているが。
 その6月30日のコラムによると、大学のゼミで香山先生が「何にでもなれるとしたら何かよいか」と問うと、必ず何人かは「猫」「鳥」「魚」と答えるそうである。
 それ以外の動物や植物の名も、よくあがるのだとか。
 で、その理由はいずれも「自由になりたいから」だという。

 ……驚いた。
 筆者の人生経験では、今まで生きてきたうちで最も自由で楽しかったのは、間違いなく大学生時代だったのだが。
 香山先生もまた、そのコラムで「私から見ると大学生活など自由そのもの」と書いていた。

 だが当の大学生たちによれば、そうではないのだと言う。
 授業に課題その他で目の回る忙しさで、サークルやバイトでは先輩に叱られて緊張の連続、そして友人との付き合いにも何かと気を使うのだとか。
 そして不況のせいか、最近では遠くからでも実家から通う学生が多く、通学にも長い時間がかかっているらしい。
 それで疲れ切って、「猫になってのんびり寝転んでいたい」とか「鳥や魚になって空や海でゆったりしたい」と思うのだそうだ。

 で、そうした学生たちに香山先生が「本を読んだり文章を書いたりできないよ」とか、「天敵に食われちゃうかも知れないよ」と聞いてみると、彼らは決まってこう答えるのだそうである。
「それでもいいです」
「仕方ないので気にしません」

 筆者は心底驚いたが、香山先生は自分の診察室で、こう話す高校生と出会ったという。
人生の楽しい事はだいたいすべて経験しちゃったと思います。あとはつまらない事だけ

 このように疲れ切っている現代の学生たちに、香山先生は「私も時々、中学生くらいに戻れたらいいな、などと空想する事もある」と同情しつつ、「自分の人生を自分で決めて切り開けるのが人間だよ。もっと人間であることを楽しもうよ」と励ます。
 しんどい毎日の中にも「自分がやりたかった仕事で成果を出せた」とか、「人生の岐路に立ち自分なりの答えを見つけた」とか、手応えを感じる瞬間もある……と。

 言いたい事はわかるが、筆者は香山先生の“励まし”には素直に賛同できない。
 現実を見てもらいたい。
「自分の人生を自分で決めて切り開ける」人間など、この世にどれだけいるだろうか
「自分がやりたかった仕事」に就けた人間が、この世にどれだけいるだろうか
 香山先生は自分のやりたかった仕事に就け、そして成果も出せた“人生の勝者”だからそのような事が言えるのだと、筆者は思う。
 自分のやりたい仕事に就いて成果もあげる事が出来ている、香山先生のような方もこの世に確かに居るだろうと思う。しかし現実には希望していたのとは違う仕事に就き、生きる為に夢を諦め苦労して働いている人が過半数を占めているのではないかと筆者は考えるが、どうであろうか。

 自分で決め、自分で切り開いた人生を生きていると確かに言える人が、実際にどれだけいるだろうか。
 筆者にも夢とやりたい仕事があり、それを現実のものとすべく死にものぐるいで頑張って生きてきた。しかし筆者の才能が足りないせいで、やりたい事とは無縁の事をしてようやく生きている。
 ただ良い縁に巡り合えなかっただけでなく、経済的にも結婚や子育てなどとても考えられず、今もまだ独身のままでいる。
 介護の関係もあって親が建てた家に住んでいる為、住居は一戸建てだが築三十数年のボロ家で、外壁はヒビだらけだし、床などあちこち軋むがリフォームの金も無い。
 乗っている車は、中古で買った軽自動車だ。
 海外旅行に行った事が無いどころか、生まれてこの方、飛行機に乗った事すら無い。
 こんな筆者は、香山先生の“人間である楽しみ”の定義を何一つ満たしていない。
 ただそれでも人間で良かったと思うし、人間以外の何かになりたいと思った事は無い。
 筆者は猫が好きで、「死んだら猫の国に行きたい」と思っているくらいだ。しかしそれでも、猫になりたいと思った事は無い。

 猫と一緒に暮らしているとよくわかるが、猫にもちゃんと感情がある。彼らにも喜びや悲しみの気持ちが間違いなくあって、人間と心を通わす事もできる。
 そしてそれは、犬や猿なども同じであろう。
 ただ人間にだけあって、猫や犬には無いものが一つある。
 それはズバリ、想像力だ。
 そしてそれが、人の生きる楽しみと力になっているのではないかと筆者は考えている。

 仕事で何か成果をあげるどころか、筆者はやりたい仕事にすら就けずにいる。
 同年代の友人たちの殆どは結婚して子供もいるというのに、筆者はまだ独り者でカネも無く、ボロ家に住み古い軽自動車に乗っている。
 将来の事を考えると、本当に不安でいっぱいだ。
 それでも自分を不幸だとは思っていないし、他の何かに生まれたいとも思っていない。
 筆者が自分を人間で良かったと思えるのは、自分に想像力があるからだ。
 本を読む。マンガを読む。映画を見る。ゲームをやる。それだけでも現実の人生にあるいろいろな厭な事を(仮に一時的にでも)忘れられるし、生きていて充分に楽しいと思える。
 筆者は頭の中の空想の世界でいくらでも遊べてしまうこの自分の想像力に、これまでどれだけ助けられて来たかわからない。

 香山先生のように、自分のやりたい仕事に就け、そしてその世界で成果もあげている“成功者”は限られている。
 しかし想像力は現実世界の勝ち負けに関係なく、人間にのみ、誰にでも公平に与えられている。この無料で頭の中に無限に広がる想像の世界を活用しないなど、勿体ない話ではないか。

 確かに本やマンガを読んだり、映画を見たりゲームをプレイするにはお金が必要だ。
 しかし新刊にこだわりさえしなければ、本やマンガは古本屋でかなり安く買える。ブックオフでは一冊108円の本がたくさんあるし、筆者の近所の古本屋では時々セールで5冊百円で売っている。
 映画もTUTAYA等で旧作を借りてくれば、劇場で見るのとは比較にならないほど安く見られる。
 ゲームも課金が必要なネトゲはせず、何万円もする新しいハードや何千円もする新作も買わずに、プレステ2などで中古のソフトをやり続けていれば、安い値段でかなり長時間楽しめる。
 新しいものにこだわらない。
 そして安い物の中から掘り出し物を探し出す、手間と暇を惜しまない。
 それさえ心掛ければ、持ち金がかなり少なくてもかなり楽しめるものだ。

 そして小説もマンガも映画もゲームも、ただ読み切ったり、見終わったりクリアしただけでは終わりにしない。
 そこからいろいろ想像してみるのだ、「もし自分が主人公だったら、どうしただろう?」とか、「あの場面で違う行動を取っていたら、こんな未来が開けたのではないか?」とかね。
 そうして読み終えた(見終えた、あるいはプレイし終えた)ストーリーを頭の中で反芻しながら、自分なりにいろいろ想像してみれば、その後もかなり長く楽しめる。

 香山先生の言うように、自分の人生を自分で決めて切り開き、仕事で成果を出す事に人として生きている喜びを見出すのではなく、自分の想像の世界に生きている楽しみを求めるのは、はっきり言って“敗者の逃避”かも知れない。
 だが頑張りさえすれば誰もが香山先生のように、人生の勝者になり、現実の世界で目に見える成果をあげてそれに喜びを感じられるわけではないのだ。
 と言うより、むしろ頑張っても報われずに足掻いて苦しんでいる人の方が多いのが現実ではないだろうか。
 そしてそうした頑張りが成果に結びついていない者たちには、自分の想像の世界で遊ぶ事がかなりの救いになるのだ。
 少なくとも筆者は、多くの小説やマンガや映画やゲームと、それらが与えてくれた架空の世界に大いに救われてきた。そしてその世界を脳内に取り込み、反芻して遊ぶことの出来る自分の想像力(妄想力?)にも。
 だから筆者は大の猫好きだが、本もマンガも読めず、映画も見られずゲームも出来ない猫になりたいとは思わない。

 猫だけでなく、鳥や魚などになりたいと思うには、筆者は少しばかり想像力と余計な知識があり過ぎるようだ。
 例えば猫など、幸せな生涯を過ごせるかどうかは、本当に飼い主次第だからねえ。
 身勝手な飼い方をした挙げ句に、飽きたら邪魔にして、保健所送りにしたり捨てたりしてしまうような人間もいるし。
 そして猫を虐待して殺す人も後を絶たないし、現実には愛され安心してのんびり寝て暮らせる猫ばかりじゃないんだよね。

 と言うと、「人間だって親を選べないし、虐待もイジメもあるし、殺人事件の被害者になる事だってあるじゃないか」と反論されそうだけどね。
 ただ人間の場合、いわゆる“毒親”に育てられようが、学校でイジメに遭おうが、大人になれば社会に出て自力で生きて行く事が出来る。
 けどそれに比べて猫は、良い飼い主に巡り会えなければ野良か虐待か保健所で殺処分だからね。

 今の猫は、大切に飼われている家猫なら平均15年くらい生きるのだそうだ。
 けど野良猫の平均寿命は、だいたい4年くらいなんだって。
 4年と15年だよ!
 その差を考えれば、野良で生きることが猫にとっていかに過酷か、想像がつくのではないかな。とても「自由で良い」などと言えるものではないよ。

 鳥や魚もさ、自由だなんてとても言えるものじゃないよ。
 空も海も天敵だらけで、鳥も魚も食われぬよういつも緊張して生きているのが現実なんだよね。天敵の食う方だって、獲物をとれなければ自分が飢えて死んでしまうわけでさ。
 で、鳥も魚も厳しい食物連鎖の中で、食って食われて生きていて、とても「空や海でゆったりしている」わけじゃないんだよね。

 だから猫や鳥や魚などではなく、人間でいるのが一番マシなのではないかと筆者は思う。
 まあ、ISの支配地などの内戦が続いている国や、南アジアやアフリカなどの極貧国や北朝鮮などに生まれてしまえば、そうとも言い切れないかも知れないけどね。
 ただ少なくとも日本や欧米などの先進国では、猫や鳥や魚などより人間でいるのが良いと思う。

 それにしても、香山先生に「天敵に食われちゃうかも知れないよ」と問われても「それでもいいです、仕方ないので気にしません」って、その大学生たちは生きる希望が無さ過ぎと言うだけでなく、想像力も無さ過ぎだよ。
 だって、本当に食われちゃうんだよ?
 それもキチンとトドメを刺してから食ってくれるならともかく、生きたままバリバリ食っちゃう場合も少なくないしね。あと、魚など丸飲みにして胃液で溶かしちゃうのも少なくないし。
 そういう食われ方をリアルに想像したら、「天敵に食われても仕方ない」なんて、とても言えないと思うけどな。

 でも、今の大学生ってそんなに忙しいのかな?
 だって、講義や課題だけで目が回るくらい忙しいなら、サークルやバイトは辞めちゃえばいいだけじゃん。
 ま、学費や生活費の為にバイトは辞められない場合もあるだろうけど、それならサークルだけでも辞めるべきでしょ。バイトも、長い夏休みや春休みに集中してやるようにする、とかね。
 サークルやバイトでは先輩に叱られて緊張の連続、そして友人との付き合いにも何かと気を使う……って、そんなこと言ってるようじゃ「就職して上司や同僚たちとどう付き合って行くんだよ?」って心配になって来るね。

 大学時代、筆者にはつきたい職業があって、その為にすごく頑張ってた。バイトもいっぱいしたし、充実していたけれど暇なんて本当に無かったね。
 だから夢を実現する為の時間とお金を作る為に、不必要と思えるものは切り捨ててもきたよ。
 友達付き合いはちゃんとしたし、友達が悩んでいる時にはできるだけの手助けもした。
 ただ仲間内での飲み会とか麻雀とかについては、筆者には時間とお金の無駄としか思えなかった。そんなカネと暇があるなら、自分の夢の実現の為に使いたかったんだ。
 で、飲み会と麻雀の誘いを断っているうち、筆者の仲間内での評判はかなーり悪くなってマシタ。ただ自分勝手というだけでなく、「皆の価値観を否定して、皆をバカにしてる」ってさ。
 真面目な相談事にはきちんと付き合っても、飲み会と麻雀に付き合わないとコレだよ。だから筆者は、時々心の中で「人間ってバカばかりだな」って思ってしまうのだ。

 それでも自分の大学時代は充実していたと、今でも言える。夢を実現する為に本当に頑張ったし、その為に多くの“友人”を失ったのは仕方のない事と割り切ってる。
 と言うか、自分のやりたい事の為に頑張っていてもまだ友達でいてくれた一握りの友人たちこそ真の友で、酒や麻雀とかでいつも群れてないと友情を保てないような“友達”など、居なくても良い不要な存在だと今ならわかるし。

 だから今の大学生たちが、講義と課題をこなし、サークルもバイトもして、先輩にも友達にも気を使って「目が回るほど忙しくて疲れ切ってる」って、「当たり前だよ、バカ野郎」って感じだよ。
 自分にとって最も大切なものは何かをしっかり見定め、優先順位をつけて下位のものは切り捨てなきゃダメなんだよ。
 自分にとって一番大切なのは、大学での勉強なのか、サークル活動なのか、それとも友人関係なのか。そのあたりを自分なりに見極めて、優先順位をつけ大切とは思えないものは手を抜く(ダメでも気にしない)だけで、時間にも気持ちにもゆとりが出来てかなり楽になるんだけどね。

 社会に出てからもそれは同じで、全部を上手くこなそうとするのではなく、優先順位をつけて大事なものにまず取り組み、その為には他の何かを捨てて諦める覚悟も必要だと思う。
 一日は24時間で一年は365日、そして個人の力は限られているのだから、「仕事も趣味も家事も、何もかも完璧に」ってのは最初から無理なんだよね。超優秀な、数少ないエリート様でもない限りは。
 だから大切なものだけ出来れば良しとして、それ以外のモノは捨てる覚悟が必要だし、それができると生きるのがかなり楽になるよ。

 でも、香山先生が診た高校生に、本気で「人生の楽しい事はだいたいすべて経験しちゃったと思います。あとはつまらない事だけ」と言い切れる子がいるとはね。
 そして香山先生もまた、「時々、中学生くらいに戻れたらいいな、などと空想する事もある」とそのコラムに書いていたけれど。
 そーかなー、中高校生の頃って、そんなに楽しかったかなー、むしろ厭な事の方が多かったのでは……と筆者などは思ってしまった。
 筆者は数学と英語は大嫌いだったし、不器用だったから音楽や技術家庭も苦手だったし、生まれつき病弱だった身には体育の授業も辛かった。
 逆に得意な社会科と国語は自分の勉強の方が進んでしまっていたので、授業が暇で仕方なかった。
 それに授業がどうこう言う前に、生まれつき猫的な性質で集団行動が苦手な筆者には、学校生活そのものが苦痛だった。
 一斉に同じ授業を受け、同じ行事をこなす学校生活よりも、むしろ任された仕事に一人で取り組む社会人になってからの生活の方が楽だったくらいだよ。

 だからもし魔法使いか何かに、「もう一度、中学生か高校生に戻してやろうか?」と言われたとしたら、筆者なら断固断るね。
 今の大人としての知識と経験をそのままに、中学生(または高校生)からやり直させてくれる……というのなら、少しは心を動かされないでもないけれど。
 ただ中高校生の頃の筆者自身の事を考えると、人格見識共に未熟で本当に恥ずかしい事ばかりして来たので、「あの時代の自分になど戻りたくなんかない」と胸を張って(?)言えるね。

 学生時代には、よく「社会人になったら働きづめで辛いだけ」みたいに思いがちだけど。
 でも社会人が辛いかどうかなんて、実際になってみないとわからないって。
 そりゃあブラック企業に勤めてしまえば辛くてたまらないけれど、職場の空気が良くて上司や同僚に善い人が多いと、学生時代よりずっと楽しいし。

 筆者の経験で言えば、職場は仕事の内容より“人”だね。
 仕事が望んでいた職種と違っていても、職場の人が良ければ楽しく働ける。
 でもいくら望んでいた職種でも、上司や同僚に厭な人が多いと本当に苦痛だし、場合によっては心を病んでしまう場合もある。
 そしてその職場の人達が良いかどうかなんて、本当に運でしかないからねえ。「自分の人生を自分で決めて切り開け」なんて言われても、職場に厭な人間が、それも上司に複数いたりすると、本当に人生が詰まったような感じになっちゃう。

 でも、ま、たいていの職場には異動や転勤があるから、それをじっと待つしかないのだけれどね。
 厭な奴は学校生活でも悩みの種だけれど、それでもクラス替えもあるし、卒業してしまえば完全に縁を切る事も出来る。
 人は、自分の人生を自分で決めて切り開いて、やりたかった仕事で成果を出せるような有能で強い人ばかりじゃないからね。
 むしろ辛い仕事(授業)や、厭な上司や同僚(教師や同級生)に耐えながら日々を過ごしている人の方が多いのではないかと思う。
 そしてそうした日々に耐える力を与えてくれるのが、一時の逃避に過ぎないのかも知れないけれど想像力ではないかと思う。

 小説やマンガや映画やゲームは、多量の飲酒や賭事や風俗などと違って、誰にも迷惑をかけることなく、脳内に無限に広がる空想の世界で遊び、日々の辛さを忘れることができる。
 猫や鳥や魚などに生まれ変わるより、飲む・打つ・買うに溺れるより、人間にしかない想像力を生かして日々を楽しむ方がより楽しいのではないかと思うが、どうだろうか。

 無論、脳内の想像の世界で遊ぶより、現実世界の仕事や勉強で成果をあげる事を考える方が前向きで立派なのだろうけど。
 でもそうして自分のやりたい仕事に就いて成果もあげられ、自分の人生を自分で決めて切り開いて行ける人なんて、実際にはごく一部の人でしかないよね。
 で、現実世界で勝者になれない大半の人の心を救えるのが、想像力なのではないかと筆者は考えるわけデス。

 小説や映画はともかく、マンガやゲームと言うとオタクとバカにされがちだよね。
 けど筆者はマンガやゲームも立派な文化で良い作品は沢山あると思うし、少なくともお酒や賭事や風俗に溺れて憂さを晴らすよりずっと良いと思う。
 本だけでなくマンガも読むしゲームも好きだし、ミリタリー系の知識もかなりあったりして、筆者も「オタク」と呼ばれる一人デス。
 でも他人にどう見られようと、「オタクですが、それが何か?」と完全に居直って、脳内に広がる想像の世界で遊ぶ事を楽しんで生きているのでありマス。

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動物虐待者やイジメっ子の末路

 少し前の話で申し訳ないが、あのタマ駅長が死んでしまった事が、筆者にとっては今もまだショックで尾を引き続けている。
 実は我が家には15歳になる老猫がいて、一昨年には癌になり、かなり大きな手術にも耐えてまだ元気で生きてくれている。
 しかしタマ駅長とも年齢が近いだけに、「こうして一緒に暮らせるのも、そう長い事ではないのか」という現実を、ひしひしと身近に感じさせられた。
 同時に、どれだけ長くても数年のうちに確実に訪れるだろう別れの日の事を嫌でも考えざるを得なくなり、胸が苦しくなってくる。

 そんな筆者の気持ちを暗くさせるのは、タマ駅長死去のニュースだけではない。
 最近、東京では猫が惨殺される事件が相次いでいるが。この種の動物虐待のニュースも、同じように筆者の気持ちを暗くさせる。

 猫と長く一緒に暮らしているからわかる。
 猫だって、人と同じ命を持って、人と同じように一生懸命生きているんだよ。
 猫にもちゃんと感情や愛情があって、飼い主の気持ちや態度に反応して喜んだり悲しんだりもするんだよ。

 ただ猫は犬と違って、その子の個性にもよるけれど、警戒心が強くて知らない人にはなかなかなつかないからね。
 飼い主には心を許してすごく可愛いところをいっぱい見せるけれど、知らない人には無愛想だったり、警戒心むき出してとっとと逃げてしまう子も少なくない。
 犬のように人が大好きで、初対面の人にも友好的に振る舞ったりする猫は多くないから、「猫はなつかないから可愛くない」と言う人も少なからずいる。
 そしてまた、「猫は生理的に嫌い」という人もいるし、そういう人達を否定するつもりもない。好みは人それぞれだし、筆者は大の猫好きだが、世の中の人すべてに「猫好きになれ!」などと求めるつもりもない。
 ただ、生き物を「嫌いだから」と虐待する事にだけは断固反対するし、動物虐待をする人に対しては「当人も同じような痛い目に遭って苦しめばいい」と心から思う。

 実は筆者の近所にも、その種の猫ギライで猫を虐待する家が二軒あった。
 そのうちの一軒に住んでいたのは頑固で偏屈な独居老人で、元公務員だったせいかどうかはわからないが、相手が年下と見ると非常に居丈高な態度を取り、気に入らぬ者は平気で怒鳴りつけていた。
 その老人は猫も嫌いで、地域に住む野良猫が子を産むと、その子猫を捕らえては殺し、ゴミとして出すような爺さんだった。
 だから筆者はその猫殺しの爺さんを心の底から憎んで、「死んでしまえばいい」と本気で思い続けた。

 ここからは、筆者自身どれだけ信じて良いかわからない、少しホラーじみた話になるが。
 筆者はその爺さんを心の底から憎み、我が家のすぐ近くにあるその爺さんの家の前を毎日のように通る度に、「死んじまえ!」と思い続けた。
 そうしたら、三ヶ月も経たないうちに本当に死んでしまったのだ、その爺さんが。
 それも突然死でね。

 死んだその爺さんは、爺さんと言ってもまだ七十になるかならないかで、それまで病気一つせず、気に入らぬ近所の者は怒鳴りつけるくらいに元気だったんだよ。
 それが「最近、姿を見ないなー」と思っていたら、ある日その爺さんの家の前に救急車が来てさ。
 でもその家に救急隊員が何度も出入りはしたものの、結局サイレンも鳴らさずに救急車は去っていったのだ。
 どうしたのだろう、と思っていたら間もなく近所の噂でわかったよ。
 死んでたんだって、その爺さん。

 何かね、入浴中の突然死で、一人暮らしだったからそれに気付く人もいなくてさ。
 で、その爺さんの子供のうちの一人が、電話しても出ないものだから気になって様子を見に来てみたら、浴槽の中に浸かったまま動かなくなっていたのだとか。
 だから孤独死で、死んだ後も何日か水漬けになったままだったということデス。

 と言うとさ、必ず「亡くなった人に失礼な事を言うな!」とか、「生前何をしたにしろ、亡くなればみな仏様なんだぞ!」とか怒る“いい人たち”が出てくるけどさ、少なくとも筆者はその爺さんに同情する気には、全くなれなかったな。
 死のうがどうしようが、生きた時に犯した罪は消えないんだよ……ってのが、筆者の考えだから。

 猫殺しと罪の重さを一緒にするつもりは、全く無いけれど。
 東京裁判で死刑になったA級戦犯を神として祀る感覚も、筆者にはまるで理解できないね。
 もし「死ねばみな仏様で、生前の罪は許される」のだとしたら、ヒトラーと刑死したナチの戦犯も、スターリンや毛沢東やポル・ポトなどの大量虐殺者も、死刑になった凶悪犯たちも、「みんな今は神様で、その生前の罪を責めちゃいけない」って話になっちゃうよね。
 それは絶対におかしい、と筆者は思う。
 死のうがどうしようが、生前に犯した罪は消えることは無いと筆者は考える。
 たとえ犯した罪が殺人でなく、動物虐待であってもね。

 とは言うものの、「死んでしまえ!」と日々思っていた相手が本当に突然に死んでしまうと、「やった、いい気味だ!」とまでは思えないというのが正直なところだ。
 何かね、自分がその相手を呪い殺してしまったような、人殺しになってしまったような気がしてしまってね。
 わかってマス、筆者も含めて人に誰かを呪い殺す力なんてある筈ないし、その猫殺しの爺さんが孤独死したのも、ただの偶然に違いないんだ。

 ただね。
 神様みたいに善い人は別として、大多数の人は「あのヤロウ、死んでしまえ!」という気持ちを抱いた事があるだろうと思う。
 けどその憎んだ相手が、それも不慮の死をとげてしまうと、やはり良い気持ちにはなれないよ。
 その死んだ相手に同情する気には全然なれないけれど、何か後味の悪さがどうにも拭えなくて。
 だから筆者はその猫殺しの爺さんが死んだ後は、どんな厭な相手にも「死んでしまえ!」とだけは思わないようにしている。

 ただ、他人の命を害する者や、日本や人類を危機にさらそうとしている悪人だけは例外にしているけれどね。
 ヒトラーやスターリンなどの歴史に残る虐殺者だけでなく、我が祖国日本をあの無謀な戦争に突入させたA級戦犯やそのお仲間の軍人どもについても、「もっと早く突然死でもしてくれていれば戦争も起こらず、何十万、何百万もの無辜の人が死なずに済んだのに」と筆者は思わざるを得ない。

 その東条英機ら刑死したA級戦犯を「今の日本の繁栄の礎になった昭和殉難者」と正気で称える、紛れもなく歴史修正主義者の政治家たち(内閣総理大臣も含む)も、一日も早く失脚して政界から消えてくれた方が日本の為だと心から思う。
 だって、特定秘密保護法案に続いて戦争法案まで成立したら、日本は戦前と同じ道を進む事になりかねないからね。
 現にその総理のお仲間の政治家たちや作家などは、政府の意に添わぬマスコミは懲らしめ、そして潰すべきだと本気で考えているし。戦前と同じ言論統制をもくろんでいる政治家などの有力者が本当にいるのだから、自由と民主主義を大切に思うなら、今立ち上がって彼らに「NO!」という意志を示さなければ、日本は再び全体主義の暗い国になってしまうだろう。

 彼らのような政治家に比べれば、猫達を殺す動物虐待者くらいまるで罪が軽いのかも知れないが。
 筆者の家の近所には、例の猫殺しの爺さんだけでなく、自宅の庭に小動物の捕獲機を設置して、その家の庭に入る猫を片っ端から捕らえては保健所に殺処分に送り込んでいるオバサンもいる。
 そのオバサンは、「首輪をしていようが、飼い猫だろうが何だろうが捕まえて保健所に持って行く」と笑って話していた。
 ……死んでしまえ、と思いかけたけれど。
 ただ例の猫殺しの爺さんの一件があった後だけに、「死ね!」とまでは思わないで、ただ「猫の恨みがふりかかって不幸になればいい」と願うだけにしておいた。

 もちろん、この世の中の悪い事は動物虐待だけでは無いデスよ。つい最近も岩手県で中学二年生が死に追いやられてしまったけれど、イジメだって許し難い、とても悪い事だと思う。
 筆者は小柄で、しかも幼い頃から病弱だった。当然、学校ではイジメの対象になりやすかった。
 幸い筆者は体格でも体力でも劣っていたけれど、気だけは強かったからね。だからイジメを受けたら死にものぐるいで反撃して、イジメと闘う事で何とか生き延びてきたけれど。
 それでもイジメられていた頃は苦しかったし、思い出すのは辛いし、当時のイジメっ子たちの顔と名前は今でも思い出す事ができるし、彼らに対する恨みの感情は今もまだ捨てきれずにいる。
 イジメた方は忘れても、イジメられた方は絶対に忘れない……ってのは、間違いの無い事実だと心から実感する。

 でもね。
 筆者の小中学生時代にとても性悪なイジメっ子が男女一人ずつ居たのだけれど、誰が手を下さなくても二人とも見事なくらいに不幸になったよ。
 女のイジメっ子の方は、心を病んで友達も一人も居なくなり、絵に描いたような引きこもりになって。
 そして男の方も歯は殆どボロボロで言動も明らかに変で、無職で誰からも相手にされないような廃人に近い人間になってた。
 よく、ネットなどに「イジメをする人には、必ず報いがある」というような事が載っているけれど。
 科学的には全く根拠が無いし、「イジメられっ子の気休めだ」と言われれば、返す言葉も無いよ。
 ただ現に絵に描いたように不幸になっている元イジメっ子たちの末路を見ると、「多くの人の恨みを買うと、やはり不幸になるのかな」と思う気持ちを捨て切れなくなってしまう。

「じゃあ、日本を悪い方に導いて多くの人に憎まれている政治家が、何で今日も元気で権力の座に居座り続けてるんだよ?」と言われてしまうと、返す言葉に詰まってしまうのだけれどね。
 それでも「イジメっ子や動物虐待する人は、誰が手を下さずともやがて不幸になる」と思いたいし、そう信じてもいないと辛くてやり切れないよ。

 けどね。
 どんなに憎い相手が居ても、「死んでしまえ!」と呪うのだけはやめておいた方が良いよ。
 その憎んで呪った相手が本当に突然死してしまうと、まるで自分が殺したかのような後味の悪い気持ちになるから。
「その種の人間は、きっと後で不幸になる」
 そう信じてじっと待っているしか、出来る事はないんだよね、残念だけれど。

 ただ憎い相手が政治家の場合は、その政治家と、彼が属する政党に一票を投じさえしなければ良いのだから話は楽だ。
 選挙で落選させ、政権与党の座から引きずり降ろしさえすれば良いのだから、厭な政治家をやっつけるのは、イジメをする人や動物虐待をする人をやっつけるより簡単かも知れない。
 そしてその政治家を落選させ、彼の所属政党を権力の座から引き離す為に、デモに参加してマスコミや世の中の人々にアピールするのも良いかも知れない。

 それに比べてイジメや動物虐待に対応するのは、もっと難しいかも知れない。
 イジメに対しては、筆者はただ自分一人で立ち向かって闘うしか無かったし。
 そして動物虐待に対しても、自分に出来る範囲で野良猫を保護するしか出来なかった。
 近所の野良猫を何とか捕まえて自費で去勢手術を受けさせて、「もう子供を産んだりしませんから、この子だけは生かしておいてやって下さい」と近所の人達に理解を求めて回ったりね。

 あと、我が家で共に暮らしている猫さんは、猫殺しの爺さんの手にもかからず、猫を片っ端から捕まえて保健所送りにしているオバサンの罠にもかからずに生き抜いて、でも何故か筆者にはなついてくれた元野良猫デス。
 と言うか、筆者が飼ってきた猫はすべて雑種の野良猫で、見かけの好みで選んでペットショップで買おうなどと思った事は一度も無いよ。

 助けたい猫はたくさんいたけれど、個人の力で出来る事は本当に限られていて辛かったよ。
 それでも我が家で15歳まで生きて、今日も安心して手足を伸ばしてゆっくり眠っている猫の姿を見ると、心が和むし「この子だけでも幸せに出来て良かったな」ってつくづくと思うよ。

 野良猫暮らしはただでさえ辛いのに、世の中には動物虐待をするクズも現実にいるのだから。
 だからもし「犬や猫を飼おう」と思ったら、ペットショップで血統書つきのを買うのではなく、殺処分される運命の子たちを保健所などから貰うとか、野良のを引き取るとかして欲しい
 犬や猫にも心は間違いなくあるし、それは種類や血統書には全然関係ないから。雑種の野良でも同じ命と心を持って、一生懸命生きてるんだ。
 だからそういう子たちにももっと目を向けて、虐待されながら野良暮らしをしてる子や、保健所で殺処分の運命を待っている子らを、一匹でも多く救ってほしいと思うよ。

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