空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

新海誠監督の若き日の隠れた名作を、格安で手に入れてみよう!

 新海誠監督の『君の名は。』と言えば、今は日本で知らぬ人は殆どいないであろう。
 8月26日に公開されてから大ヒットを続け、邦画の興行ランキングで『ハウルの動く城』を抜き、とうとう国内第二位に躍り出たという。

 観客は、初めは十代や二十代の若い層が中心だった。
 しかし次第に観客層が広がり、今では中年世代のみならず、六十代以上の人まで映画館に足を運んでいるそうだ。
 で、新海監督は時の人となり絶賛されているが、ずっと以前からの監督のファンであった筆者は、「何を今さら」と複雑な気持ちでいる。

『君の名は。』の大ヒットについては、先日NHKクローズアップ現代プラスでも取り上げられ、「今まで無名に近かった監督の作品が、何故突然の大ヒット?」というような切り口で語られていた。

 そのクローズアップ現代プラスで分析されていた「新海監督の『君の名は。』がブレイクした理由」について、要旨をまとめて書いてみよう。

 REDWIMPSによる、主題歌の力。

 音楽と映像のコンビネーション。

 映像の圧倒的なリアルさ。

 今までのアニメでも実写でもない、アニメに新時代を切り開いた現実よりカッコ良い美しく精緻な映像。

 一つのシーンが平均3.9秒というカット数の多さが、スピード感を生んだ。

 ジブリの宮崎駿監督に育てられた安藤雅司作画監督によるキャラクターのコミカルな動きが親しみやすかった。

 男女の入れ替わりという、『とりかえばや物語』以来の日本伝統のモチーフを取り上げたこと。

 作中で取り上げられている組み紐が、過去の出逢いや別れを思い出させる運命の象徴となっている。


 筆者はその放送を見ながら、大きく溜息をついた。
 ……つまらぬ事を言う、NHKともあろうものが。本当に何もわかってない。

 新海誠監督はかつて、minoriというゲーム会社に属し、そこでゲームのオープニングなどのムービーを制作していた。
 実は筆者は、そのゲームのムービーで新海誠監督の名を知った。

 筆者はゲームは、家でプレステ2などの据え置き型のゲーム機でプレイしている。
 筆者はゲームはやり込みたいので、携帯型のゲーム機やスマホで外でやったりしない。
 また、パソコンで家族に隠れてやるような18禁のエッチなゲームもしたいとは思わない。
 いや、別に真面目ぶっているわけではない。筆者はプレステ2では、プリンセスソフトやキッドなどのギャルゲーもそれなりにプレイしている。
 ただ実際に恋愛もしてきた非童貞の男としては、18禁のエロゲにありがちな、男にのみ都合の良いエッチな展開が馬鹿馬鹿しく見えて全く楽しめないだけの話だ。

 で、かなり以前にプレイしたプレステ2のゲームに、『Wind -a breath of heart-』という作品があった。
 ……これがまた、プレイし続けるのが途中で嫌になってしまうような、いわゆるクソゲーだった。
 とにかくストーリーが冗長で、意味も伏線も殆ど無いような主人公のつまらない学園生活を延々と見せられ続ける。
 途中で、何度プレイするのを止めてしまおうと思ったかわからないほどだ。
 だが「せっかくお金を出して買ったのだから」と、耐えて我慢してプレイし続けたのだが、その前半が終わると同時に始まったムービーの美しさに、筆者は息を呑んだ。
 だらけた姿勢で欠伸をかみ殺しながら見ていたのだが、電気に打たれたような衝撃を受け、姿勢を正して食い入るように画面を見つめた。
 そのムービーは、そのくらい素晴らしかった。
 そしてそのムービーの監督が、新海誠だった。

 まず暗い夜空に、麦わら帽子が風に舞う。
 そしてそれは夕暮れ時から夜に変わる頃の、町の夜景に変わる。
 ブランコに公園、そして手前から一つずつ点いてゆく街灯。
 踏切に下りる遮断機に、通る電車。
 その走る電車の中に差し込む落ちかける夕日と、車内に一人座る少女……。
 短いカットで繋がれるその映像は、それまでに見たどのアニメ映画よりも美しかった。

 プレステ2の『Wind』のムービーは全部で4本あるが、新海誠監督が手がけたものは、そのうちの2本だ。
 そしてどちらも、甲乙つけがたいほど素晴らしかった。

 その『Wind』をプレイした後、筆者は『はるのあしおと -Step of Spring-』というゲームもプレイした。
 これも元の製作会社はminoriで、アルケミストという会社がプレステ2用に手直ししたものだ。
 そしてこの『はるのあしおと』のオープニング・ムービーも、新海誠監督が作ったものだった。

 田舎の小さな学校の木造の校舎に、昇る朝日が次第に当たって行く。
 次に画面は二分割され、片側に東京から失意を抱えて田舎に帰ろうとする主人公が、そしてもう片側にその田舎で登校する、いずれ知り合うのだが、今はまだ出逢っていないヒロインの姿が映る。
 そして帰る途中の主人公や、高校生活を送るヒロインの姿が、交互に、あるいは二分割された画面で映し出される。
 教室で授業中のヒロインがホッと息を吐くと、その手の指から赤い糸が吐息に乗って主人公の方に流れて行く。
 さらに故郷に帰り着いた主人公とヒロインは、その運命の糸に結びつけられているとも気付かずに、言葉も交わさず目も合わさずにすれ違って行く……。

 映像の美しさは今の新海監督の作品と殆ど変わらず、そして短いカットで繋がれた台詞の無い3分程度の動画の中に凝縮されたドラマ性に、本当に感動させられた。

 だから筆者は、あの大NHKがクローズアップ現代プラスで『君の名は。』の大ヒットの理由を分析して、あれこれ理屈付けしていたのがチャンチャラおかしかった。
 音楽と映像のコンビネーションも。
 映像の圧倒的なリアルさも。
 今までのアニメでも実写でもない、現実よりカッコ良い美しく精緻な映像も。
 短いカットで繋いで行く手法も。
 それらはすべて、新海監督は十数年以上前からずっと変わらずにやってきていた事で、『君の名は。』で作風等が新しく変わったわけではないのだ。

 画面を二分割して、まだ出逢っていない二人の様子を同時に映すのも、新海監督がまだゲーム会社に勤めていた頃に、『はるのあしおと』のオープニング・ムービーで既にやっていた。
 そしてクローズアップ現代プラスが、作中で取り上げた組み紐を「過去の出逢いや別れを思い出させる運命の象徴となっている」と取り上げたが、『はるのあしおと』でヒロインが吐息で流した赤い糸が主人公に向かって行くのと似ているように思えてならない。

 また、クローズアップ現代プラスでは、『君の名は。』で取り上げた男女の入れ替わりが、日本伝統のモチーフであることもヒットの理由に数えていた。
 しかし男女の入れ替わりは、テーマとしてはむしろ今や「ありきたりで古くさい」のではないか。
 ウケたのは入れ替わりの面白さより、むしろ「逢えない、逢いたい」という二人の想いの方ではないだろうか。

 クローズアップ現代では、「ジブリの安藤雅司作画監督によるキャラクターのコミカルな動きが親しみやすかった」とも言っていたが、筆者はむしろそのキャラクターの動きや表情や所作に「親しめなかった」。
 映画の公開以前に『君の名は。』の映像の断片を宣伝等で見る度に、筆者は実は「これまでの新海監督の作品とキャラの動きや表情が違うな、悪い意味でアニメっぽいな」と感じていた。
 で、クローズアップ現代プラスで「作画監督がジブリの安藤雅司氏」と聞いて、「なるほどな」と納得した。
 実は筆者はジブリのアニメは嫌いという訳ではないが、キャラクターの動きが時々気になるのだ。どこか大袈裟でわざとらしく、昔のディズニーのアニメを思わせる部分を感じてしまう。
 だから筆者は、『君の名は。』の風景や背景は大好きだが、キャラの動きや表情や所作は今ひとつ好きになれずにいる。

 日本のアニメは世界に進出しているが、世間ではアニメに対する偏見はいまだに強い。
 中高年のみならず、若い世代でさえ「アニメ? そんなの好きで観てるのオタクだろwww」という空気がある。
 だから親世代では、「アニメが好き=オタク=性犯罪者になりかねない」という偏見を持つ者がいる。
 しかし子供の教育に厳しい、アニメに偏見を持つ親たちでさえ、子供に安心して見せているのがジブリのアニメだ。
「アニメは駄目だが、ジブリのならいい」
 そう言う親が、現実に存在するのだ。
「アニメは(オタクのだから)見ないが、ジブリのは観る」
 そう言う若い層もまた、確かに存在するのだ。

 だからキャラクターをジブリっぽくしたのは、結果的に大成功だったかも知れない。
 主人公たちのどこかジブリのアニメを思わせるキャラが、アニメに偏見のある人達にも安心感を持たせ、そして背景や風景が圧倒的に綺麗なのだから、それでヒットしない筈がない。

 改めて『Wind』や『はるのあしおと』の短いムービーを見直してみると、新海監督はゲーム会社でゲーム用のムービーを作っていた十数年前と殆ど変わっていないように思える。
 空や風景や列車や光の美しさや、短く印象的なカットを繋いで行く手法は今も昔も変わらない。
 予算や時間の限られたゲーム用のムービーとして、新海監督は本当に精一杯素晴らしい動画を作っていた。
 だからクローズアップ現代プラスのインタビューで、『君の名は。』の大ヒットの理由を聞かれた新海監督自身が「わからない」と答えた気持ちが、筆者にもとてもよくわかる。
 新海監督は何も変わっておらず、変わったのは世間の方なのだ。
 世間がようやく新海監督を認知して、その映像の素晴らしさに気付いたのだろう。

 この大ヒットの理由を筆者なりにあえて言えば、ズバリ「宣伝の力」であろう。
 新海監督の作品は、これまでは一部の人には「素晴らしい!」と絶賛されながら、事前に世間に広く知らされる事はなかった。
 しかし今回は安藤雅司氏を作画監督に迎えキャラにジブリっぽい味付けをし、主題歌にREDWIMPSを起用して、「これでヒット間違いなし」と踏んだ上で事前の宣伝も積極的にして、それがヒットに繋がったのだろうと筆者は思う。

 新海監督の名とその映像の素晴らしさが世間に認知された事は、昔からのファンとしてとても嬉しく思う。
 ただ新海監督の才能は『君の名は。』で開花したのではなく、まだゲーム会社に勤めていた十数年も前から今と変わらず素晴らしい映像を作っていたことを知ってほしいと思う。

 試しにパソコンの動画サイトで、『Wind』と『はるのあしおと』を検索してみてほしい。低予算やゲーム用のムービーという制約の中でも輝く、その才能が見て取れる筈だから。
 そしてもし気に入ったなら、中古のゲームを扱う店に行くかネット通販で、プレステ2の『Wind』と『はるのあしおと』を買えば、若き日の新海監督の隠れた名作を貴方のものに出来マス。
 値段も数百円、おそらく五百円以下で手に入れられると思う。

 その『Wind』と『はるのあしおと』は、パソコン用の18禁ゲームでもありマスけれど。と言うか、むしろこちらの方がminori社の作った本家だ。
 ただ18禁ゲームだけに、男にのみ都合の良い胸クソ悪いシーンもあったりするので、同じ買うならアルケミスト社がエロ要素を省いて作り直したプレステ2用の方を手に入れた方が、純粋に恋愛ゲームとしても楽しめると筆者は思う。
 え、「プレステ2みたいな古いゲーム機なんて、もう処分してしまった」って?
 その時は、パソコンにエミュ何ちゃらを……と言ってしまうのは、もしかしたら違法なのだろうか。

 それにしても。
 二十年近く前から、ずっと同じ良いものを作り続けてきて。
 別に質や中身が良くなったわけでもなく、ただ少し一般ウケするようにして宣伝もしただけで大ブレイクするのだから、「世の中とは、わからないものだなあ」とつくづく思った。

 今、大ヒット中で、おそらく日本のアニメ史にその名が残るだろう『君の名は。』と。
 殆ど知る人もない、新海監督が二十年近く前に作ったゲーム用の短いムービーと。
 本質的には同じで殆ど変わっていない
事を、できればその目で確かめてみてほしい。

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「鯨は食べるな、牛を食べなさい」と言う人達の愚かさ

 このブログの写真を見ればわかる通り、筆者は大の猫好きである。
 それで誰か女性と交際すると、必ずと言ってよいほどその相手の女性に、「あたしと猫と、どっちが大事なの!?」とキレられることになる。
 ある女性などには、別れ際に「アンタは猫と結婚しな!」と捨て台詞を吐かれた事まである。

 そんな猫好きだから、猫に関する本や漫画もよく読む。
 猫の習性や飼い方についての本だけでなく、「猫と会話ができる」と称する人の、やや怪しげなスピリチュアル系の本まで読んだりしている。
 で、最近もまた生物学者の黒瀬奈緒子氏が書いた、『ネコがこんなにかわいくなった理由』という本を読んだ。

 その『ネコがこんなにかわいくなった理由』なる本は、タイトルの印象とは違い、意外に学術的な本だった。
 恐竜が絶滅してから、哺乳類がどう猫にまで進化したかを、詳細に説明していた。
 哺乳類はまず単孔類と有袋類と真獣類に分かれ、哺乳類で最も原始的な生物はカモノハシとハリモグラで……といった具合だ。

 で、真獣類の中に、まず鯨偶蹄目というグループがあらわれる。
 従来はクジラやイルカなどは鯨目として、牛や鹿やカバなどの偶蹄目とは別のグループに分類されていた。
 しかし東京工業大学が行った分子系統解析の結果、鯨やイルカは牛などと同じ偶蹄目の中に含まれるという事がわかった
 それは衝撃的な発見で、新聞でもその事が報道されたという。
 だから今では、鯨目と偶蹄目は合わせて鯨偶蹄目と呼ばれるようになったのだ。

 その『ネコがこんなにかわいくなった理由』によると、馬やサイなどの奇蹄目は、偶蹄目よりも食肉目や有鱗目に近いのだと言う。
 よく牛馬などと言って、牛と馬は近い仲間のように思われているが。
 しかし実は牛は馬よりも鯨に近く、馬は牛よりも食肉目に近いらしい。
 そのように従来の哺乳動物の系統分類は、最新の分子系統解析によって大きく見直されているとのことだ。

 肝心の『ネコがこんなにかわいくなった理由』という本は、その前提を説いてから猫の誕生と進化について詳細に述べているが。
 しかし私は、それよりも「鯨やイルカは牛の仲間である」という事実に大きな衝撃を受けた。

 このブログを書いている私は、おそらく鯨を普通に食べた事のある、最も若い世代だろう。
 小学校の低学年の頃には、給食にも鯨が出されていた。
 しかし同じ小学校の高学年の頃には、鯨が給食に出されることは、もはや無くなっていた。
 だから鯨を「食べるもの」と受け止めているか、「見るもの」と受け止めているか、実に微妙な世代である。
 私と同世代の者も、「幼い頃に食べた記憶はあるものの、鯨肉が入手困難になった後はずっと食べなくなったまま、肉と言えば牛や豚や鶏を当たり前に食べている」という者が大半ではないだろうか。

 しかし実は私は、今も時々鯨を食べている。
 小学校の高学年になり給食で出されなくなり、殆どの店でも置かれなくなってから、かなり長い期間食べずにいた。
 が、私の住んでいる町にこだわり商品ばかり取り揃えている酒屋があり、そこに宮城県の木の屋石巻水産が、国際捕鯨取締条約に基づいて捕獲した鯨の副産物を利用して製造した、鯨の大和煮の缶詰も置いてあった。
 で、小学校の低学年の頃の事を思い出しながら、まずは一缶買って食べてみた。
 美味かった。
 幼い頃に食べた時の記憶よりも、ずっと美味かった。
 だから私は、以後もその酒屋に行く度に、木の屋石巻水産の鯨の大和煮の缶詰を買っている。

鯨大和煮P1100896

 何しろ今は、鯨は捕る事自体が難しくなっているから。
 はっきり言って、その鯨の大和煮の缶詰は、牛肉の大和煮よりもずっと高い。
 それでも何故、私があえて鯨の缶詰を買って食べ続けているのか。
 それは「クジラは食べてはイケマセーン、クジラを食べるのは野蛮デース、牛を食べナサーイ」とほざく、欧米の傲慢かつ過激な動物保護活動への反発からだ。

 鯨を保護しつつ、同時に大量の牛を殺してその肉を輸出しているオーストラリア人にとって、鯨を殺すのは「人間の赤ちゃんを殺すのと同じ」なのだそうだ。
 スウェーデン人で日本で漫画を買いているオーサ・イェークストロムさんによれば、鯨を食べるのはスウェーデンでは「パンダを食べるのと同じと思われるかも」だそうだ。

 しかしそこであえて問いたい。
 食べるべき動物と、食べてはいけない動物を決めるのは、いったい誰なのか?
 最近の分子系統解析で、クジラやイルカと牛が、同じ鯨偶蹄目に属する近い種類の動物だとわかっている。
 なのに何故、「鯨は可愛いから食べるな、牛を食べなさい!」と言えるのだろうか。

 鯨やイルカは、可愛くて頭も良いから?
 馬鹿を言ってはいけない、牛も飼えば可愛いし、鯨に劣らず頭も良いのだ。
 例えば戦前の日本の農家では、食べる為にではなく農作業で働かせる為に牛を飼っていた。飼えば牛も賢くよくなつき、とても可愛いのだそうだ。
 しかし太平洋戦争が始まると、農家で飼い主と共に働いていた牛たちは、「お国の為に」と大日本帝国の軍に徴発された。
 軍に連れて行かれれば、殺され二度と帰って来られないとわかっていた。
 牛もその事を本能的に察知し、連れて行かれるのを嫌がり、中には目に涙を浮かべた牛もいたと言う。
 鯨は可愛くて頭も良いから食べる野庭野蛮で、しかし牛はそうではなく食べられる為に存在するなどと、誰が言えるというのだろうか

 牛だけではなく、豚も賢く飼えば可愛いものだという。
 実は私も小学生の頃に、縁日で買ったヒヨコを育てた事があったが、無事大きくなったその鶏は、私や飼い主をしっかり覚えてよくなついてくれて、とても可愛かった。

 私たちは牛や豚や鶏を当たり前に食べているが、彼らが「賢くも可愛くもなく、ただ食べられる為に存在している」などと、誰が言えようか。
 動物としては、牛はクジラやイルカと同じ鯨偶蹄目に属するのに。
 鯨やイルカを食べるのは野蛮で、牛は当然食べるものと疑いもなく平然と言い切れる、欧米人の知性の乏しさと傲慢さが腹立たしい。
 だから私はオーストラリア産の牛肉(オージービーフ)は一切食べず、代わりに国際捕鯨条約に基づいて捕獲された鯨を食べる。

 欧米の独善的な動物愛護運動に洗脳されてか、最近は日本人にも「鯨やイルカは食べるものではありません、見るものです」とほざく馬鹿が増えつつある。
 実際に食べてみて不味かったからというのではなく、ただそれが鯨だからという事で食べる事を拒否する若い日本人がいる。
 だが日本では、昔から近海の鯨を捕って食べてきた。
 欧米の過激な動物保護団体がどう言おうと、鯨は日本の食文化の一つなのだ。
 それを野蛮だと決め付け、「鯨は食べずに牛を食べなさい」と強要する権利など、どこの国の誰にも無い筈だ。


 思うのだが、「鯨やイルカを食べるな」と言えるのは、他の牛も豚も羊も鶏も食べないベジタリアンだけなのではないか。
 おのれは牛を何も疑問もなくもりもり食いながら、鯨を食べるのは野蛮だと非難するなど、図々しい上に無知にも程がある

 捕鯨に反対する人たちは、よく「他に食べる物はあるのだし、わざわざ鯨を食べることはないでしょう」と言う。
 そう、その「鯨は食べなくても、牛肉を食べれば良いでしょう」という精神が気に入らないのだ。
 鯨も牛も、同じ鯨偶蹄目の動物だというのに。

 実は私は、女性にはフラれてばかりなのに、動物にはよく好かれる。
 青森県の尻屋岬には野生の馬が多数いるが、そこに行った時には馬になつかれ鼻面をすりつけて甘えられてしまった。

 さる動物園に、「危険だから手を出さないで下さい」と看板に書かれた大きな馬がいて。
 実際その馬は、客が看板を無視して触れようとすると、唇をめくり上げ歯をむき出して威嚇した。
 しかし私は触れた。
 噛まれても自己責任を覚悟の上で私が手を差し出すと、その馬はおとなしくなり、私に鼻面を撫でさせてくれた。
 で、それを見た他の客が同じように撫でようとすると、その馬はやはりまた歯をむき出し威嚇して、触れられるのを拒んだ。

 女性にはモテないのに、何故か動物たちには好かれる。
 私は幼い頃から、シェパードや秋田犬などの、初対面の大型犬にも妙に好かれた。

 だから私は、馬も犬も可愛いと思う。
 が、地方によっては馬肉を食べるところもあるし、犬ですら食ってしまう国もある。
 しかしそれはその国や地方の食文化だと思うし、野蛮だと決め付けて軽蔑したり、増してや止めさせようと現地に暴れ込んだりしようとは思わない。

 ある動物は賢く可愛いから保護すべきで、しかし別の動物は食べる為に存在すると思うなど、傲慢に過ぎるし本当に愚かだ。
 保護すべきかどうかは、可愛いかどうかではなく数の問題だ。
 漫画家のオーサ・イェークストロムさんは、鯨を食べるのはスウェーデンでは「パンダを食べるのと同じと思われるかも」と言う。
 しかし私に言わせれば、パンダを食べてはいけないのは「数が少ない絶滅危惧種だから」であって、決して「可愛いから」ではない

 軍事政権だった頃のミャンマーで、政権に抑圧されていた少数民族の為に傭兵として戦った事もある日本人の本を、かつて読んだことがある。
 彼らは食料の不足に本当に困り、食べられるものは何でも食べたという。
 そしてその日本人の傭兵は、現地の野ネコも捕まえて食べたと書いていた。

 冒頭に書いた通り、私は度外れた猫好きだが。
 飢えて困って野ネコまで捕られて食った、日本人の傭兵とその仲間のミャンマーの少数民族の人達を、野蛮だと非難するつもりはない。
 ただ猫を食う食文化の無い日本で、我が家の猫や顔見知りの地域猫たちを捕らえて食おうとしたら絶対許さない、というだけの話だ。

 私自身は、馬や犬も可愛いと思うし、食おうなどとは思わない。
 ただ昔から馬や犬を食べてきた人達が、自分達の土地で馬や犬を食うことにまで干渉して、「こんなに可愛い動物を食うなんて今すぐ止めろ、この野蛮人どもめ!」などと言うつもりもない。
 それが食文化というものだ。


 まあ、鯨を愛して保護してきたオーストラリア人の気持ちを考えれば、領海外とは言え自国の近海で鯨を捕られたら面白くないのはわかる。
 だから国際法はどうあれ、オーストラリアの近くでの捕鯨は控えた方が良いであろうと私は思う。
 ただその代わり、我が国が昔からしてきた日本近海での捕鯨は遠慮なくさせてもらう。
 それが捕鯨についての法を越えた道理と筋ではないかと、私は思う。

 近年、ヘルシーだという事で魚を食べる人達が、海外でとても増えている。
 だから日本でも、鮭や秋刀魚や鰺や鰯などの値段がかなり上がっている。
 秋刀魚は中国や台湾の漁船が大量に穫っているし、他の鯖や鰺や鰯なども、鮭の養殖の為の餌として大量に穫られている。

 鯨と言えば、鯨を愛する人達には「鯨はプランクトンなどを食べる、おとなしい生き物」と信じている者が少なくない。
 しかし実際には、鯨は鰯や鯖やニシンやホッケなどの魚やイカなどを、かなり大量に食べている。
 そうした人間も食べる魚を、鯨が人間が思っている以上にたくさん食べている現実が、反捕鯨国や反捕鯨団体から非難されている日本の調査捕鯨の結果わかっている。

 鯨は、海で生態系の頂点に立つ生き物だ。
 その鯨を、反捕鯨国や反捕鯨団体が望むように全面禁漁にして、その数を大幅に増やさせたら。
 そうなれば人間が食べていた魚も減少し、鮭や鰯や鯖やニシンなどの日本人にとってなじみ深い魚の値段が、ますます高騰するのはあきらかだ。
 それでも「鯨は見るものです、食べるものではありません」と言う輩は、「魚が食べられないなら、オージービーフを食べれば良いじゃありませんか」とでも平然と言うのだろうか。

 誤解して欲しくないのだが、別に私は、「鯨やイルカは可愛いと思うし、食べるなど生理的に無理」という人達を非難したり否定したりするつもりはない。
 ただそれを他人にまで押し付け、「鯨を殺して食べるなんて野蛮!」と自分の価値観で鯨の食文化を見下したり、鯨やイルカを捕る人の所まで暴れ込んだりするのは愚かだと言いたいのだ。それこそ、野蛮人の所行である。

 例えばインドのヒンドゥー教徒は、牛を神聖な動物として大切にしているが。
 しかしその牛を食う人達を「野蛮だ!」と非難したり、牛を殺して食肉にする事を生業にしている人たちの所に暴れ込んだりしていないではないか。
 互いの食文化の尊重とは、そういうものなのだ。
 もしヒンドゥー教徒の過激派が大挙してオーストラリアに押し掛け、牛肉を食うなと非難し、牧場に押し掛けて牛を逃がそうと暴れたりしたら、オーストラリア人はどんな気持ちになるだろうか。
 オーストラリア人に限らず、同じ鯨偶蹄目の生き物なのに「鯨やイルカを食べるのは野蛮だからすぐやめろ、牛を食べなさい!」と言う白人どもには、その事に思いをめぐらす想像力が無い。
 食も含めて自分達の文化が優れていて正しく、それとは違う文化は野蛮で遅れていて、だから自分達に合わせるべきという傲慢さと愚かさを、「鯨やイルカを捕るな!」と騒ぐ白人たちに強く感じる。

 とにかく私は鯨やイルカにかかわらず、自分にとって可愛いかどうかで食べて良いかどうかを決め付け、他国の食文化を野蛮だと蔑む人達は嫌いだ。
 そしてそうした反捕鯨の外国人より、それに洗脳され同調して自国の鯨の食文化も無視し、「鯨は見るもので、食べるものじゃありません」などとぬかす日本人を、もっと軽蔑する。
 そういう人達への抗議の意味を込めて、私はオージービーフは絶対買わないし食べないし、代わりに売られている限り鯨を食べ続けるつもりだ。

 ちなみに私が普段利用しているスーパーは、置いてある商品の殆どが国産品で、肉は牛だけでなく豚も鶏もすべて国産品だ。
 また私は、ファミレスやハンバーガー・チェーン店だけでなく、吉○家やM屋なども含めたファースト・フード店も滅多に利用しないし、オージービーフをはじめとする反捕鯨国が輸出する肉は、もう長いこと本当に食べていない。

 本当に微力で、私のそんな抵抗など、肉を輸出する反捕鯨国にとって痛くも痒くもない事は、自分でもよくわかってはいるが。
 しかし私はそこまで徹底して、「鯨は食べてはいけません、代わりに我が国の牛や豚や鶏を食べましょう」という勢力に抵抗している。

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鶴保大臣の『土人』に対する見解について考える

 唐突だが、東京都区内に三代以上前から住み暮らしている住民に対し、「この土人が!」などと言う者がいるだろうか
 東京都区内だけではない、名古屋や大阪市や京都市、さらにはその他の政令指定都市に住む人達に対し、誰が「土人」と言うだろうか。

 沖縄高江で米軍のヘリパッド建設に反対する地元住民に、大阪府から派遣された機動隊員が「土人が!」と罵声を浴びせて問題になった。
 それに対し、その機動隊員を派遣した元の大阪府の松井一郎知事は、「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と労いの言葉をかけた。
 さらに沖縄を担当する鶴保庸介沖縄・北方担当相は、機動隊員がヘリパッド建設に反対する沖縄の人を土人と呼んだことに関し、参院内閣委員会で「差別以外の何物でもないと言うが、過去に土人という言葉が出てきた歴史的経緯やさまざまな考え方がある。『土人である』と言うことが差別であると断じることは到底できない」と、機動隊員の暴言をを擁護する答弁をした。

 さて、話を進める前にまず『土人』という言葉の意味を、広辞苑で確認してみよう。

 ①その土地に生まれ住む人。土着の人。土民。
 ②未開の土着人。軽侮の意を含んで使われた。
 ③土でつくった人形。土人形。泥人形。


 問題の機動隊員の「土人」発言が、③でないことは間違いない。
 では①の「その土地に生まれ住む人」と解すれば、鶴保大臣の言うように差別だと断定できないと思う方もいるかも知れない。
 もしかしたら鶴保大臣も、そのことが頭にあるのかも知れない。

 だからこそ筆者は鶴保大臣や、鶴保大臣の発言を問題なしとする与党の要職に就いている方々に問いたい。
「東京都区内や京都市や大阪市などに生まれ住む人を、誰が『土人』と呼ぶか?」と。

 都会に生まれ住む人が『土人』と呼ばれる事は、まず無いと断言しても良いと思うが、違うか?
『土人』と呼ばれるのは、辺地に住む者ばかりである。
 そして鶴保大臣は「過去に土人という言葉が出てきた歴史的経緯やさまざまな考え方がある」から、『土人』と呼ぶことが「差別であると断じることは到底できない」と言う。
 しかし「豊かな自然の中で、環境を大切にしながらエコロジカルかつシンプルな生活をしている人達」というような、プラスのイメージで『土人』という言葉が使われた事が、鶴保大臣の言う「歴史的経緯やさまざまな考え方」の中で実際にあるだろうか。
 少なくとも筆者は、広辞苑の②の「未開の土着人。軽侮の意を含んで使われた」以外に『土人』という言葉が使われた事例を知らない。

 確かに戦前・戦中の日本では、差別的な言葉という意識が薄いまま『土人』という言葉が当たり前に使われていた。
 鶴保大臣の歴史的経緯云々という発言は、その事を念頭に置いてのことであろうが。
 しかしその戦前や戦中にも、『土人』という言葉は決して良いニュアンスでは使われなかった。
 未開の遅れた人という、軽侮の意は今だけでなく昔も込めて使われていた。
「かつては『自然環境を大切にして辺境で生きる人』という、良い意味も含めて使われてもいた」などということは、断じて無い。

 昔は、言葉について非常に無神経だった。
 今ならば当然使われない、めくら、つんぼ、びっこ、かたわ、穢多(えた)などのような差別用語が、差別とも思われずに平気で使われていた。
 しかし「昔は当たり前に使われていたから」と言って、それらの言葉が「差別であると断じることは到底できない」という事には断じてならない
 そして『土人』という言葉もそれと同じで、今も昔も軽侮の意を込めた差別的な使われ方しかして来なかった事実に間違いはない。

 もしも鶴保大臣が、あくまでも「差別以外の何物でもないと言うが、過去に土人という言葉が出てきた歴史的経緯やさまざまな考え方がある。『土人である』と言うことが差別であると断じることは到底できない」と主張するならば。
 差別や軽侮の意を込めずに、善意で『土人』という言葉が使われた例を、鶴保大臣に是非ご教示願いたいものだ。

 ここで鶴保大臣に、あえて百歩譲ろう。
 確かに昔の日本では、土人という言葉が当たり前に使われてきて、ただ『土人』と言っただけで非難されるような事はなかった。
 しかしそれは、あくまでも昔の話である。

 例えば昔、目にハンディキャップのある人のことを『めくら』と呼んだ。
 昔はそれで非難される事は無かった。
 しかし今は違う。もし目にハンディキャップのある人を「めくら」と呼んだら、皆から非難されて当然である。
 例の沖縄高江での、大阪府の機動隊員による『土人』呼ばわりも、それと全く同様である。

 いくら昔はそう呼んで問題なくても、今そう呼べば差別として大問題になる言葉は、例の『土人』も含めていくらでもあるのだ。
 その昔と今の問題をごちゃ混ぜにして、歴史的経緯だの何だのと屁理屈をこき混ぜ、「『土人である』と言うことが差別であると断じることは到底できない」と言い張るなど、鶴保大臣は頭に何らかのハンディキャップがあるのではないかと心配になってくる。

 昔はめくらだの、つんぼだの、ちんばだの、穢多だのと平気で言えた。
 しかしもし今そのような言葉を口にしたら非難されて当然で、公人であれば何らかの制裁を受けてしかるべきであろう。
 にもかかわらず鶴保庸介氏は、沖縄・北方担当相という地位にありながら、大阪府の機動隊員が沖縄の人に浴びせた「この土人が!」という暴言を、昔は土人と普通に言ってたのだから「差別であると断じることは到底できない」と繰り返し擁護している。
 こんなお方が、沖縄・北方担当の大臣をしているのである。

 驚くのは、与党の幹部らはこの発言を咎めるどころか、たしなめる事さえせず、逆に「問題ない」と庇っているのである。
 そしてその安倍政権の支持率は、最近の世論調査では五割を越えている。

 鶴保大臣と言えば、脱税事件で有罪判決が確定した社長に、他人名義で法令の上限を越えるパーティー券を購入してもらった事が問題になっているが。
 それだけでなく、鶴保庸介氏は大臣になる前の今年七月に、自身の運転する車で高速道路を、制限速度を40キロ以上オーバーしたとして警察に摘発もされている
 和歌山県の人はこんな人を国会議員に選び、安倍首相もまた大臣に登用しているのである。

 筆者は「土人が!」と罵声を浴びせた大阪府の機動隊員を「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と労った松井府知事以上に、この鶴保沖縄・北方担当相を軽蔑する。
 しかし悪いのは、鶴保大臣よりも、こんな人間を沖縄・北方担当相に登用した安倍首相と、鶴保大臣の妄言を責めずに庇う与党の要人たちだ。
 そして筆者は、松井府知事や鶴保大臣や安倍政権に一票を投じた選挙民こそ最も猛省し、次の選挙の際の反省材料にすべきだと考える。
 政治や政治家を変えるのはカリスマ指導者という名の独裁者ではなく、国民の投票行動である。

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日本は民間の戦災死傷者にひどく冷たい

国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を戦争に引きずり込むのは簡単である。外国に攻撃されつつあると言えばいい。それでも戦争に反対する者に対しては『愛国心がない』と批判するだけでいい

 これが誰の言葉か、皆さんはご存知だろうか。
 あのナチスドイツの国家元帥で、ヒトラーの後継者にも指名されていたヘルマン・ゲーリングの言葉である。

 近年の日本でも、このナチス流の言動が横行しているように思える。
 何かと言えば北朝鮮だけでなく中国の脅威を言い立て、それに同調しない者には「非国民」だの「売国奴」だの「媚中」だのといった侮蔑的な言葉が投げつけられている。
 先の大戦での日本の戦争責任を否定し、「あれは侵略ではなくアジアを白人支配から解放する為の自衛の戦争で、悪いのは中国や米英だ」と主張する本や雑誌が書店で公然と売られているのが日本の現状だ。

 そして首相が自ら国会で音頭を取り、国境警備などにかかわる海上保安庁や警察、自衛隊に「今この場所から心からの敬意を表そうではありませんか」と言い立て、自民党議員が総立ちで拍手を送った。
 それから程なく、沖縄の東村高江で米軍の為のヘリパッド建設に反対する住民らに、警備に当たっていた大阪府から派遣された機動隊員が「土人、シナ人!」と暴言を吐いた。
 安倍首相とそれに従う者たちは、ゲーリングの言う「国民を戦争に駆り立てる道」を見事に突き進んでいるように思える。

 国や社会の為に働いているのは、何も海上保安官や警察官や自衛隊員だけではあるまい。
 しかし今の日本の指導者と与党関係者にとっては、海上保安官や警察官や自衛隊員は特別に偉い存在であるらしい。

 今年の参議院選挙でも、安倍自民党が大勝した。
 それで安倍首相は「民意を得た」と、選挙運動中にもろくに語らなかった事までごり押しに推進しようとしている。
 投票が政治の白紙委任を意味するわけではない事は、言うまでもない。
 さらに言えばこの前の参議院選挙は投票率が低く、有権者の半数近くが投票に行かなかった。
 そして自民と公明をあわせた与党の得票率は、49%である。
 つまり与党に票を入れた国民は、現実には四分の一に過ぎないという事である。

 選挙で与党が大勝したものの、安倍首相の誇る民意というのは、実は四分の一の民意なのだ。
 そして中国の脅威を懸念する者の多くが、安倍自民党に一票を投じたらしい。

 で、そうした安倍自民党を支持している人達が懸念しているように、中国軍が日本領内に攻め込んで来るような事が、本当にあるのだろうか。
 中国脅威論を言い立てる人達は、「尖閣諸島どころか、沖縄まで取られてしまう」と主張するが、まずそれは無い。
 沖縄が日本領である事は疑いない事実で、もし中国が沖縄を攻めたら、侵略行為として中国は国際的な非難を受け、経済制裁も受けるだろう。
 貿易で経済成長を遂げている中国としては、国際的な経済制裁は致命的なものになりかねない。
 中国は一つという口実もある台湾と違い、沖縄を攻め取る事は全く正当化できない。
 だから「中国が尖閣諸島どころか沖縄まで取りに来る」という可能性は、中国の武力による台湾合併よりあり得ない事なのだ。
 ただ国威昂揚と中国国内の不満のガス抜きの為に、尖閣諸島という無人島の周辺で示威行為をしているのだろう。
 日本との経済関係も冷静に考えれば、国境の小さな無人島の為に中国が日本に戦争を仕掛け、日本との貿易で得られる利益を台無しにするとは考えにくい。

 しかし、物事には“絶対”という事はあり得ない。
 日本や中国のトップの思惑はどうあれ、現場の指揮官に自国第一の凝り固まった国粋主義者がいる可能性は充分にある。そして互いが自国の領海と主張する尖閣諸島付近の海上でどちらかが他国の艦船に発砲し、それが砲撃戦に発展し、戦死者も出る騒ぎが起きる可能性も否定できない。
 問題は、その初期の紛争を、両国がどう冷静に収束させるかだ。
 紛争の責任を相手国にのみ押し付け、戦死者を英霊に祭り上げて国民を煽り、両国の全面戦争への道をひた走るような事があってはならない。
 なぜなら日本という国は、軍人および軍属以外の死者には非常に冷たいからだ。

 先の大戦で、日本は軍人や軍属以外にも多くの死者を出した。
 軍人や軍属は、戦後も救済され恩給を受けた。
 しかし国策により送り出された先で命を落とした満蒙開拓団や、無差別爆撃で死んだ学徒動員の生徒らや多くの民間人は、まるで救済されず放置されたままである。

 民間の戦災死傷者を救済しようという運動は、日本国内でも起こった。
 しかしそれらはすべて、与党と裁判所により潰された。
 民間の戦災死傷者を援護しようという法案は、野党により計14回も提出されたが、すべて与党の反対で廃案になった
 民間人の死傷者まで補償していたら財政負担が大きいから、公務員(軍人と軍属)しか保証したくないというのが国の本音なのだそうだ。
 裁判に訴えても、「国の非常時なのだから、戦争による被害は国民みなが受忍すべき」と棄却された

 同じ戦争で負けたドイツでは、元軍人も民間人も平等に援護している
 全国戦災障害者連絡会会長だった杉山千佐子氏が、ドイツに行き日本の実状を話したところ、ドイツ政府の援護担当者は「なぜ区別する、同じ国民を?」と呆れたそうだ。

 第二次世界大戦で、日本と違いドイツは国土のほぼ全てが戦場になった。
 戦争による被害は、日本よりドイツの方が大きい。
 しかしドイツは、戦災被害者は元軍人も民間人も区別せずに援護している。
 だが日本では、何かあれば愛国心だのお国の為だの言うくせに、民間の戦災被害者は冷たく見捨てるのだ。

 はっきり言うが、日本では戦争が始まったら軍人か軍属になると良いだろう。死んだり傷ついたりしても、国が救済してくれるから。
 しかし日本の民間人は、戦争で死んだら“死に損”にしかならない

 今年の終戦の日、正確には敗戦の日に、高市早苗総務相と丸川珠代五輪担当相が靖国神社を参拝し、「自国の為に殉じた方々への慰霊は当然であり、外交問題になるべきものではない」と言った。
 あの愚かで無謀な戦争をおっ始めたA級戦犯どもも含めた軍人のみが、自国の為に殉じた慰霊されるべき対象で、民間人の死者などどうでもいい、というのが今の国家の指導者たちの本音なのであろう。

 中国の脅威を言い立て、「中国が攻めてきたらどうする」と集団的自衛権や憲法改正を押し進め、それに反対する者は媚中の売国奴扱いされかねないのが、今の安倍政権下の日本の空気だ。
 まさにナチスの大物ゲーリングの言う、「国民を戦争に引きずり込むのは簡単である。外国に攻撃されつつあると言えばいい。それでも戦争に反対する者に対しては『愛国心がない』と批判するだけでいい」という状況になりつつある。

 だが、気をつけた方がいい。
 ドイツと違って、我が日本国は民間の戦災被害者にはひどく冷たいから。
 日本の政府は、有事の際には国民すべてに「お国の為だ、戦争に協力しろ!」と強制するくせに。
 いくらお国の為に尽くしても、民間人のままでは戦争で死んでも死に損、傷ついても傷つき損なのだ。
 制服を着て兵士にならない限り、戦争で死のうが傷つこうがこの国は何もしてくれない現実を知っておくべきだ。
「中国が攻めて来るから、日本もそれに備えてアメリカ軍と共に世界で戦えるようにし、軍備を強化しなければならない」という風潮に流され、自衛隊や警察官らに総立ちの拍手で敬意を表す政治家に一票を投じるような愚か者になってはならない

 アメリカの次期大統領になるトランプ氏は、「アメリカが世界の警察官であるのをやめる」と公言している。
 つまり間もなく世界には力の空白が生まれ、秩序も混乱することになるだろう。
 そしておそらく、中国とロシアが勢力をさらに伸ばそうとし、テロリストらも活動を活発化させるだろう。

 で、先を読み賢く生きる道を模索するとしたら、貴方の行くべき道は二つだ。
 戦争を煽る空気に流されず、平和がもたらす経済的な利益を冷静かつ辛抱強く説き、あくまでも話し合いで隣国との紛争を解決する道を選ぶか。
 あるいは安倍首相を強く支持し、彼の念願である憲法改正を実現させ、国防軍となるべき自衛隊にいち早く入隊し、戦争で死んだり傷ついたりしても、少なくとも自分とその家族はお国から救済を受けられるようにしておくか。
 さあ、貴方ならどうする?

 繰り返すが、日本という国は国民みなに愛国心を求めるくせに、戦争で死んだり傷ついたりした民間人にはひどく冷たい。

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死刑に関するジレンマ

 国際的に見れば、死刑のない国は珍しくない。
 死刑は制度としてはあってもここ何年も執行せず、実質的に死刑廃止と同じ状態にある国も増えている。
 そのせいか、近年では日本でも死刑の是非が議論になっている。

 我が国でも、知識人には死刑廃止を主張する者も少なくない。
 しかし世論調査の結果を見れば、国民の多くは死刑の存続を支持している。

 感情としては、それも理解できる。
 人を、それも非の無い被害者を殺しておいて、加害者がのうのうと生きていられるというのは、やはり納得しかねるものがある。

 ただ警察官や裁判官も人間である以上、冤罪も間違いなく存在する。
 そして死刑を執行してしまったら、今度は取り返しのつかぬ罪を国家が犯すことになる。
 話は逆説的になるが、だから裁判所は、客観的に見れば冤罪であろうと思われる死刑判決の再審になかなか応じないのだろう。
 それに応じれば、自分たちが過ちを犯し無実の者を死刑にしたと認める事になる。
 だから裁判所は、死刑判決の見直しを特に認めようとしない。

 ただ「国家が人の命を奪うような事をすべきでない」という人道的な問題だけでなく、冤罪事件の存在もあるからこそ、死刑を終身懲役に代えたらどうかと主張する人達も少なくない。

 混同されやすいが、現在の日本の無期懲役はあくまでも刑期を定めない“無期”であって、服役態度や反省の度合いなどによっては罪を許され釈放される可能性がある。
 つまり無期懲役の判決を受けた犯罪者は、いつかまた世の中にひょっこり出て来る可能性があるわけだ。
 だから釈放される事が無く死ぬまで刑務所で服役する終身懲役を、死刑にかえようというわけだ。

 終身懲役であれば凶悪犯が二度と世の中に出て来ることも無く、後でもし冤罪と判明した場合にもその過ちを償うこともできる。
 だから死刑を廃止する代わりに終身懲役を導入しようという提案は、筆者にも説得力があるように思えた。

 ところがその死刑の廃止と終身懲役の導入に、実際に二人の人を殺し無期懲役刑を受けて服役中の囚人から反対の声があがった。
 その受刑者は美達大和氏というが、美達氏が服役しながら書いた著書によれば、本当に死刑を廃止して終身懲役にしたら、刑務所の中は大変な事態になるとのことだ。

 美達氏によれば、日本の刑務所は少数の刑務官で大勢の受刑者を管理している、世界でも珍しい刑務所なのだそうだ。そして無期懲役の受刑者は、いつか釈放される日を夢見て真面目に受刑している。
 しかしその釈放の希望が無い終身懲役の受刑者にはその希望が無いわけで、どうせ死ぬまで刑務所に居るのならと自暴自棄になり、好き放題に振る舞い刑務官にも反抗して、収拾のつかない事態になりかねないと美達氏は言う。
 で、もし死刑を廃止し、かわりに希望を失った多数の凶悪犯が刑務所内に収容されるような事になったら、武装した刑務官の増員が必要となるのが目に見えているとのことだ。

 実際、海外では時折刑務所で暴動が起き、囚人が大挙して刑務官を襲って脱獄するなどの事件が起きている。
 とすると、他の先進国のように「国家が人を殺すようなことはしてはならない」という人道主義を実践する為、死刑を廃止して終身懲役を導入するならば、国民は刑務所に対する税負担の増加も覚悟しなければならないようだ。

 冷酷な話をしてしまえば、死刑を執行すれば収容している死刑囚の数は減る。
 無期懲役の囚人の数も、受刑態度を良しとして釈放すれば減る。
 しかし終身懲役の囚人の数はどうだうか。
 増えることはあっても、減ることはまず無かろう。
 それだけでも、死刑廃止と終身懲役の導入による税負担の増加は目に見えている。

 ちなみに西欧や北欧の国では、終身懲役や無期懲役すら無いところがある。
 数年前、北欧でひどく偏った差別的な政治思想を持つ者が銃を乱射して、数十人もの人を殺したが。
 それでもその国の最高刑は懲役二十一年で、その凶悪犯も二十年ちょっとで許されまた社会に出て来られるのだそうだ。

 無差別に数十人もの人を殺して、二十年ちょっとの服役で許されるなど、日本ではとても考えられないことだが。
 ヨーロッパやアメリカの幾つもの州で死刑が無く、凶悪犯罪者に甘いように見える判決が下されるのは、ただ人道主義のせいだけでなくキリスト教の影響があるからだ。
 キリスト教には、「罪を裁くのは人ではなく神である」という思想がある。だから凶悪犯も人が裁いて死刑にするのでなく、「死後、神に裁かれて地獄に堕ちるがいい」というわけだ。

 敬虔なキリスト教徒ならそれで納得して死刑を廃止できるのだろうが。
 本気で「死んだら閻魔さまに地獄行きにされるのだから」と信じ、凶悪事件の犯人に厳罰を求めずにいられる日本人が、さてどれだけいるだろうか。
 特に自分の身内が事件の被害者となり命を落としたら、加害者に極刑を求めるのは当然の感情と筆者も思う。
 ただ司法が加害者として捕らえ、被害者の身内として死刑を望んでいた相手が、実は冤罪で、本当の犯人は他にいたりする事もあるから、人を裁いて死刑にするという事は難しい。

 日本人の大多数は、敬虔なキリスト教徒ではない。だから「裁くのは神だから」と、凶悪犯に寛大な判決を受け入れるのは難しい。
 かと言って、人には、警察や裁判には過ちもあり、冤罪も間違いなくある。
 事実、冤罪は死刑判決が一度は確定した事件の中にもあった。
 それを考えれば、「死刑は廃止し、代わりに釈放の無い終身懲役にする」という意見にも一理あるように思える。

 しかし美達氏の言うように、死刑を終身懲役に置き換えれば、刑務所に将来に希望の無い自棄になった凶悪な終身懲役の囚人が増えるだろう。
 そして刑務所の治安が悪くなり、刑務官の増員と重武装化も必要とされ、税負担も当然増える。
 福祉に一円でも多くの税金が必要となるこれから、終身懲役の受刑者と刑務所に対する税負担増に、国民は納得するだろうか。

 かと言って受刑者にも人権があるから、受刑者の衣食住にかかる費用を削ったりもしにくいし、受刑者の労働力で利益をあげる事は民業の圧迫になるため禁じられている。
 何しろ刑務所は罰を与える所ではなく、あくまでも矯正施設だ。
 刑務所をナチスの強制収容所のように経費を極限まで切り詰めて過酷な労働をさせ、収益を得て黒字化させる事は、文明国として出来ないのだ。

 現行制度を出来るだけ生かしつつ冤罪の問題にも対応するとすれば、死刑は存続させつつ、刑の執行は証拠が明白で当人も罪を認めている者のみにするという方法もあるだろう。
 で、証拠に疑問点があり、かつ無実を訴え続けている死刑囚の再審にはきちんと応じ、刑の執行を後回しにすれば冤罪の者を国家が殺してしまうリスクは減るだろう。

 しかし、だ。
 自分がやりましたと罪を認め、「死んで罪を償います」と観念している者を死刑にして、本当に罰になるのだろうかと筆者は疑問に思う。

 今の日本で死刑判決を受ける者は、人を殺した凶悪犯ばかりだ。
 その殺された被害者の身になれば、加害者にも自分と同じように恐怖と苦痛の中で死んでもらわなければ、死刑でも割が合わないのではないか。
 極論を言えば、死刑は加害者が犯したのと同じ方法で執行しても良いくらいだ。
 例えば人を殴り殺した者は、同じように殴り殺すとか。
 少なくとも江戸時代には、ただの打ち首だけでなく磔や火炙りや鋸引きなど、死罪にもいろいろな方法があった。

 しかし今は「目には目を」の時代ではないから、そのような応報刑を実行したら、「野蛮だ!」と国際的に非難を浴びてしまう。
 いや、ただの死刑ですら人道的にどうかと言われるくらいだ。
 だから冤罪の無いよう今後も死刑を執行するなら、疑う余地無く罪を犯していて本人も認めている者に限らざるを得ない。
 しかし繰り返すが、観念して覚悟を決めている者に死刑を執行して、どれだけ意味があるのだろうか。

 被害者の無念や遺族の悔しさはわかるが、死刑にも冤罪があるという現実、しかし死刑を無くして終身懲役にすると、凶悪犯の囚人が手に負えなくなり刑務所の維持が大変になるという美達氏の指摘にも一理あり、かと言って罪を認め腹を括っている者を死刑にする意味はあるのかと、筆者の考えは無限ループに陥ってしまっている。

 死刑は廃止すべきか、存続すべきか。
 無神論者で宗教心のない筆者には、いくら考えてもどうにもわからない。
 何かの宗教やリベラルな思想を盲信しているというのでなく、現実論として、あるいは当事者として何かご意見をお持ちの方がおられるなら、是非ともお考えを聞かせていただきたい。

 当事者といえば、相手は人殺しの犯罪者とは言え、死刑を執行する役目の方はさぞつらい気持ちを抱えておられるだろうと思う。
 それを考えると、死刑はやはり廃止した方が良いのだろうか。
 死刑にすると言っても、今は「目には目を」の時代ではないし、被害者が殺された時と同じだけの恐怖と苦痛を与えて死なせる事ができるわけではないのだから……。

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宅配便と不在時の荷物の問題

 筆者もネットで超有名な某通販会社を時々利用しているが、日本での宅配の利用数は年々増加しているそうである。
 で、それに伴い配達しても不在で、持ち帰って再配達をしなければならない荷物の量も増え、宅配業者は頭を抱えているとのことだ。

 ネットによる通販が盛んに利用されているのは、他国も同様であるが。
 で、ドイツなどでは配達して不在だった場合、近所の家に預けるのが一般的なのだそうだ。

 実は日本でも、以前はそうであった。
 荷物を届けた先が不在だった場合、宅配業者は隣の家などにその荷物を預けて行くのが当たり前だった。

 筆者は大学時代、さるデパートのお歳暮発送のアルバイトをした。
 実際に配達して回るのではなく、本部で大量の伝票の事務処理をする係をした。
 その時、お歳暮を届けられた家からの苦情を受けた課長が、電話を切った後で苦い顔で吐き出すようにこう言ったことを、今も覚えている。
「まともに近所付き合いも出来ねえのか、クソが」

 筆者がバイトしていたデパートからお歳暮を届けられたが不在で、そしてデパートが利用していた配達業者は、そのお歳暮を隣家に預けてしまった。
 寄せられた苦情の電話は、その事に対するものであった。
「何であんな家に預けてしまったのだ!」と。
 で、「まともに近所付き合いも出来ねえのか」というのは、その苦情に対する愚痴である。

 何しろ筆者がバイトした先のデパートは大手の有名店で、末端のバイトだった筆者も(仕事は多忙を極めたが)給料には不満は全く無かった。
 だから担当の課長も充分な給料を貰っていて、それなりに良い地区に持ち家で住み、奥様は当然専業主婦で家にいて、家事だけでなく近所付き合いも上手にこなしていたのだろう。
 しかし世の中の人は、民度の高い地区に住み、妻は専業主婦をしているような恵まれた人ばかりでは無いのだ。

 世の中には、いろいろな人がいる。
 常識をわきまえた良い人ばかりではなく、いわゆるDQNと呼ばれる人達もいる。
 筆者も今は一応一戸建ての家が立ち並ぶ、ごく普通の住宅街に住んでいるが。
 数年前、その近所のごく普通の一戸建ての家の中から逮捕者が出て、新聞にも報道された。
 恐喝と暴行をして、金を脅し取った容疑である。

 そのような正真正銘の犯罪者では無いものの、我が家の隣家の主人も困った偏屈親父だった。
 ただ無愛想でろくな挨拶も出来ないだけでなく、自分に損になる事は、絶対に受け入れないのである。
 その隣人一家が隣に家を新築して引っ越して来た時、まず我が家と揉めたのが、電柱の位置の事であった。
 その隣家の親父は、隣家が使う電柱を自分の家の前に立てるのを拒み、我が家の前に立てろと聞かないのである。
 それで筆者の父と隣家の親父との話し合いがもたれたが、話し合いは口論となり、口論は怒鳴り合いにまで至った。
 それでも隣家の主人は自家も使う電柱を「アンタの家の前に立てろ!」と聞かず、世間体を気にして他人には気を使う筆者の父が折れてしまった。

 で、結局電柱は、我が家の敷地の前に立つ事になったのだが。
 その後、問題の隣家と我が家がずっと不仲であったのは言うまでもない。

 こんな偏屈親父のいる家や、暴行と恐喝で逮捕者を出すようなDQN一家と、どう近所付き合いをしろと言うのだろうか。
 不在だったからと、そのような隣家に荷物を預けられては大変に困る。
 特に持ち家の場合は容易に引っ越せないからこそ、近隣との人間関係はとても微妙で難しいのだ。

 例に挙げたような困った隣人は特殊な例なのだろうが。
 そこまで行かないまでも、子供の躾がなってなくて迷惑を受けているとか、大家族あるいは高齢のせいで生活音がうるさいなどの不満を日頃持ちつつ、隣近所の事だからと我慢して文句も言わずにご近所付き合いはしているものの、実は決して仲が良いわけではない場合は珍しくない。

 例の我が家の隣家の親父は本当に偏屈で、その親父が亡くなるまで我が家とその家は不仲だった。
 それに対し、反対側に住む隣人はとても穏和な良い方だった。
 そして退職しリタイアした後という事で、夫婦とも家にいる事が多かった。
 で、昼間は不在がちな我が家への荷物を、宅配業者はその良い隣人夫婦の家に預けて行く事が少なくなかったが。
 荷物を預けられる事による不満は、それでも起きる。

 以前、我が家は青森県のさる林檎の会に入っていた。
 まず最初に一定の額を振り込んでおけば、毎月違う種類の林檎を送ってくれるシステムだ。
 その林檎の値段と質には充分満足できたが、問題なのはその林檎の会が利用している宅配業者だった。
 いつもいつも、我が家の者が不在である平日の日中に届けて来るのである。
 だからその林檎は、毎回例の良い方の隣人の家に預けられる事になる。
 そして箱には、林檎と大きな文字で書かれている。

 荷物を預かって貰ったのだ。
 そしてそれが食品ともなれば、お裾分けをせねば近所付き合いの義理が立たない。
 お裾分けに、まさか1個や2個というわけには行くまい。
 で、届いた20個の林檎のうち、4~5個はお隣に持って行く事になる。

 いや、一度や二度ならそれも構わない。
 しかしその林檎の会が使う宅配業者は、毎月必ず我が家が不在である平日の昼間にやって来て、隣家に林檎を置いて行く。
 で、その度に我が家は、預かって貰った礼を言いつつお裾分けを数個持って行く事になる。

 これではまるで、隣家の為に林檎の会に入っているようなものではないか。
 だんだんそんな気がしてしまった。
 実際、毎回お裾分けに隣家に差し上げなければならない分の事を考えれば、近くのスーパーで同じ青森産の林檎を買った方がずっと安上がりなくらいになってしまっていた。

 それでその林檎の会に、林檎を隣家に預けないようにするか、あるいは土日か夜間に届けるように出来ないものか頼んでみた。
 しかしその林檎の会には、どう頼んでも「それは出来ません」と言われた。
 口には出さないものの、例のデパートの課長のように「まともに近所付き合いも出来ねえのか」と、むしろこちらを非常識な人間のように思っているのが、ありありとわかった。
 だから我が家は、その青森の林檎の会を一年限りで止めた。

 専業主婦がいる家庭は、今や少数派になっている。
 パートを含めれば、共稼ぎで昼間は不在の家の方が間違いなく多い。
 だから宅配を平日の日中に行えば、いつも不在の家が多くなるのは目に見えている。
 その現状で不在の場合の荷物を近所の家に預けるとすれば、荷物は専業主婦のいる家か、リタイアした高齢者の家に集中するのは目に見えている。
 このように「いつも不在で荷物を預かって貰う家」と「いつも預かっている家」にはっきり分かれてしまうのは、決して良い事ではない。

 林檎の会の林檎はお裾分けが出来たからまだ良かったが、書籍や電化製品などのお裾分けのお礼が出来ない荷物も少なくない。
 そしてお裾分けなくいつも荷物を預かってばかりの家としては、「隣は昼間はいつも居ないのだ」とわかっていても、やはり面白くはなかろう。

 共稼ぎや一人暮らしの家庭が多い現状で、平日の昼間に荷物を届ければ不在で持ち帰らざるを得ない事が多くなるのは仕方ない話だ。
 そしてそれが、宅配業者の負担になっている事はわかる。
 しかしだからと言って、荷物を隣家にどんどん預けられては困る。
 隣家との関係もいろいろだし、お裾分けのお礼も負担になる。

 で、近年では時間指定での配達が増えているが。
 ところがその指定の時間に配達に行っても、不在で荷物を持ち帰らなければならないケースも少なくないらしい。
 まあ、仕事と荷物を受け取る事とでは、間違いなく仕事の方が大事だ。
 仕事の都合で、指定していた荷物の受取時間までに帰宅できないケースも少なくないだろう。

 宅配の荷物の増加と専業主婦の減少で、不在による再配達の手間が業界ではとても大変だと聞く。
 筆者は思うのだが、宅配の荷物は時間指定を原則にするのが良いのではないか。少なくとも午前・午後・夜間の三通りくらいに分ければ、不在で持ち帰る率も少しは減ると思われる。
 そして指定された時間に行っても不在で持ち帰った場合には、原則として再配達はせず、荷物を受け取る者が配送センターに取りに行くようにしても良いと思う。

 仕事が超多忙でいつ帰れるかもわからない知人は、ネットの某大手通販のコンビニ預かりをいつも利用している。
 モノは買いたいが、帰宅時間も不規則で荷物を宅配されても不在である確率が非常に高いとわかっているから、荷物の発送先は自宅でなく、あらかじめ近所のコンビニにしておいて、時間がある時に都合に合わせて取りに行っているというわけだ。

 で、思うのだが宅配業者も、全国各地の集配所で、コンビニのように荷物を預かるようにしたらどうだろうか。
 不在だった場合の荷物は再配達せず、ある一定の期間内の都合の良い時にお客にそこに取りに来てもらう。
 あるいはネットの某大手通販業者のように、不在がちと明らかにわかっている時には荷物は家には届けず地区の集配所に留め置かせて、利用者が都合の良い時間に取りに行く。
 時間指定とコンビニのように荷物を預かるシステムを併用すれば、宅配業者が不在で荷物を持ち帰り再配達する手間も減るだろうし、宅配を利用する者にとっても使い勝手が良くなると思うが、どうだろうか。

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本当の非国民は誰か(沖縄高江のヘリパッド建設に考える)

「ボケ、土人が」
「シナ人」

 これが沖縄の東村高江で米軍用ヘリコプター離発着帯(ヘリパッド)建設工事に抗議活動する住人らに、大阪府から派遣された機動隊員が浴びせた言葉である。
 そしてその機動隊員の言動に対し、
「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」
 と労いの言葉をかけたのが、松井一郎大阪府知事である。

 沖縄では米軍とその基地に対する反感が強いが、沖縄の人達の反基地運動を、本土の右寄りの人達は「サヨクの一部の運動家のしている事」と見なしている。
 違う。
 10月22日のTBSの報道特集でも、TBSはヘリパッドの建設が強行されている東村高江の住人たちの家すべてを個別訪問してアンケートを取っていたが、高江の住人の大半はヘリパッドの建設に反対で、夜の十時過ぎにも米軍のヘリが轟音を立てて離着陸している現状を訴えていた。
 ヘリパッドの建設に賛意を示した高江の住人は、僅か一人であった。

 米軍の為のヘリパッドの建設に反対なのは、現地の人々の民意である。
 一部のサヨクの運動家などでは決してない。
 そしてそれらの住人に大阪府の機動隊員が浴びせた罵声が「ボケ、土人。シナ人!」であり、その行為を「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と賞賛したのが松井府知事である。

 ここで沖縄の歴史を少し振り返ってみよう。
 沖縄は、元々は日本とは違う文化を持つ琉球王国であった。
 それを薩摩藩が侵略し、明治維新後には琉球処分を強行して日本の一つの県にした。
 そして知事を始めとする公的機関の要職には、本土の者が送り込まれた。
 また、教育では標準語励行県民運動を押し進め、学校で沖縄の言葉を使った子供には、罰として方言札を首にかけさせた。

 戦争が始まると本土と軍部の沖縄支配はもっと過酷なものとなり、沖縄を「守った」我が大日本帝国軍は標準語以外の使用を禁じ、沖縄の言葉で喋る住民をスパイと見なして処分した。
 処分という意味は、もちろん「殺す」という事である。
 その一方で、島田叡知事など一部の立派な人々は別として、沖縄に戦火が近付くと本土から来ていた多くの役人が「出張」と称して本土に逃げ帰った。
 そして実際に沖縄で戦いが始まると、現地では14歳以上の中学生まで鉄血勤皇隊として軍に徴用され、その多くが命を落とした。
 さらに沖縄戦の中で、お年寄りや女性や子供を含む県民の約四分の一が亡くなった。

 沖縄戦の後、沖縄はアメリカが支配する土地となったが。
 アメリカが民主主義の国などと言うのは名ばかりで、アメリカは、少なくともアメリカ軍は沖縄で支配者として振る舞った。
 銃剣とブルドーザーで住民を追い立てて広大な基地を作り、夜は女を求めて民家に押し入ってきた。
 口では民主主義と言いながら、米軍のやり方に抗議する住民には「戦争にどちらが勝ったか、わかっているのか!?」と言い放った。

 本土の右寄りの者には「沖縄の人間は土地を基地として貸して儲けていて、基地を返されると困るのは彼ら自身だ」などと言う者がいるが、全くの間違いである。
 沖縄の人達は進んで土地をアメリカ軍に貸したのではない、銃剣とブルドーザーで追い立てられて無理に接収されたのだ。
 アメリカ軍は最初、その土地代を一括で払おうとした。
 つまりアメリカは、接収した沖縄の土地を永遠にアメリカの基地として使おうとしたのだ。
 住民たちはそれを拒み、いつか返還される日を夢見て、そしてその土地の本来の所有者は自分(沖縄の住人)である事を示す為に、土地代が毎年払われるように頑張った。
 にもかかわらず一部の右寄りの本土の者たちは、沖縄の人がカネを得る為に喜んで土地を基地として貸しているように言い立てる。

 日本人の沖縄支配も差別的なものだったが、アメリカによる支配は明らかに武力による植民地支配だった。
 だからアメリカ兵による犯罪も頻発した。
 それで沖縄は本土復帰を目指し、1972年に沖縄はアメリカから日本に返された。
 しかしアメリカ軍とその基地は、そのまま沖縄に残る事になった。

 ヘリパッドの建設に反対する住民に「ボケ、土人、シナ人!」と罵声を浴びせた機動隊員を出した大阪府と、その言動を「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と賞賛する松井府知事を支持して一票を投じた大阪府の人達に、ぜひ想像して貰いたい。
 もし大阪府に、米軍基地の七割が集中し、米軍関係者による犯罪も起き、そしてその罪を犯した米兵は日米の地位協定によって守れているとしたら。
 もし大阪府の土地の一割以上がフェンスで囲まれた治外法権の米軍基地で、深夜にも米軍機が轟音を立てて離着陸するのが当たり前の日常になっていたら。
 そんな状況の中で、さらに大阪府の自然の森を切り開き、集落を囲むようにヘリパッドが新しく建設されるとしたら。
 それでも貴方は、基地の建設に賛成できるだろうか。
 それでも「基地に反対するのは、一部のサヨクだけ」と言えるだろうか。

 貴重なやんばるの森を切り開いてのヘリパッドの建設に反対する住民に「ボケ、土人、シナ人!」と暴言を吐いた大阪府の機動隊員を「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と誉めて労う松井府知事を支持して一票を投じた大阪府の人の見識を疑う。

 問題は、松井府知事とそれを支持している大阪府民だけではない。
 2013年に、沖縄の全市町村の首長らが、米軍輸送機オスプレイの沖縄配備反対を安倍首相に訴えて、東京の銀座でデモをした。
 その際、沿道からこんな言葉が飛ばされたという。
「非国民!」
「日本から出て行け!」


 もう一度言う。
 住民の同意無しに銃剣とブルドーザーで奪われ、強制的に米軍基地にされた土地は、沖縄県の一割を越える。
 そして在日米軍基地の七割は、沖縄にある。

 米軍基地に反対する沖縄県の人をサヨクの運動家と決め付け、「非国民」だの「日本から出て行け」だのと罵声を平気で飛ばせる本土の人間に問いたい。
 貴方は自分の土地を、米軍に基地として差し出しているのだろうか?
 貴方の頭上を毎日毎晩、米軍機が轟音を立てて飛んでいるのだろうか?
 貴方の近辺に、日米地位協定で守られた米軍関係者がいて、若い女性にちょっかいを出すなどして身の危険も感じたりしているのだろうか?

 自分は米軍に土地も取られず、轟音を上げる米軍機が頭上を飛ぶ事も無く、酔った米兵にからまれたりした事も無く。
 そのくせ国防の為には米軍と沖縄の基地は必要だと言い立てて、米軍基地に反対する沖縄の人に「非国民が、日本から出て行け!」と平気で言える面の皮の厚い本土の右寄りの人こそ、日本から出て行くべき非国民であろう。

 米軍基地に反対する沖縄の人に「ボケ、土人が!」と言う機動隊員を「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と労う松井府知事と、それを支持する大阪府の人々は、沖縄の米軍基地の移転先として「ぜひ大阪にいらして下さい」と名乗り出るべきだろう。
 大阪府の機動隊員や府知事に限らず、自らの土地に米軍基地と米軍機と米兵を受け入れる気も無いくせに、自分は基地や米軍機の騒音や米兵の存在とは無関係に暮らしているくせに、沖縄の人達をサヨクの非国民扱いしている人達にもまた同様の事を言いたい。
 沖縄の米軍基地の移転先として自分の住む町を立候補させ、自らの土地もその用地として貸し出す。
 在日米軍とその基地に反対する沖縄の人達を「ボケ、土人、非国民!」などと罵るのは、まずそれからだ。


 繰り返すが、沖縄は日本の米軍基地の七割を引き受けさせられ、県の土地の一割以上が治外法権の米軍基地となっているのだ。
 こんな現状が、日本の他の都道府県で想像できるだろうか。
 それでもなお、その現状に抗議すると本土の日本人からサヨクの非国民扱いされ、大阪府から派遣された機動隊員からは「ボケ」だの「土人」だの「シナ人」だのと罵られるのである。
 そしてその機動隊員の言動を「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました」と誉めて労う府知事と、その知事を支持して一票を投じた人々が大勢いるのが、今の日本の在日米軍を巡る現状だ。

 一部週刊誌などの報道によれば、高江のヘリパッド建設に反対する人々の中には、「ぶっ殺すぞ!」などの暴言を吐いたり、沖縄防衛局職員をペンチで殴ったりした者もいるという。
 大阪府の機動隊員の暴言も、そうした現状があっての事なのだろうが。
 しかしそれでも、警察官が民間人の暴言にヘイトスピーチ顔負けの差別的な暴言で応じるのは、全くよろしくない。

 実は筆者の大学生時代からの友人に、今も警視庁の警官として勤めている者がいる。
 彼はテレビでよく放送される、『警察24時』などの取材も受けた。
 筆者も『警察24時』は時々見ているが、絡んでくる酔っ払いや暴言を吐く市民にも辛抱強く穏やかに対応している姿には、いつも心を痛めつつ感心している。

 で、筆者はある時、その警官の友人に「どうしてそんなに辛抱強く応対できるのか」と尋ねた。
 すると友人は笑ってそれが仕事だからと言い、さらにこう付け加えた。
「ただ暴力を振るわれたり限度を超えることをしてきたら、公務執行妨害で逮捕するから」

 そうなのだ。
 警察官は、市民を逮捕拘束できるという権力を持っているのだ。
 そうした強い立場だからこそ、限度を超えるまでは紳士的かつ穏やかな態度で市民に接する必要がある。
 高江のヘリパッドの問題でも、反対派の住民が暴力をふるうなど法に反する行為に及んだら、法に則ってただ逮捕すれば良いだけのことである。
 警察官とヘリパッド建設反対派の民間人を同等に扱い、「反対派の住民も暴言を吐いたのだから、大阪の機動隊員も暴言で応じたのも理解できる」と言いたげな、新潮社の週刊誌などの論調は筆者にはまるで筋違いに思える。

 沖縄には本土の者が体験した事の無い悲惨な歴史があるだろうし、ヘリパッド建設の強行という国の横暴を許せない気持ちもわかるが、暴力は良くない。
 だからヘリパッドの建設に反対する為にもし暴力をふるった者がいたとすれば、法に則りすみやかに逮捕すれば良い。
 ただ暴言に差別的な暴言で応じるなど、法を執行する警察官にあるまじき愚行だということは明らかだ。
 そしてその暴言を吐いた警察官を管理する大阪の公安委員会を所轄する府知事が「一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と発言する始末なのだから、松井府知事と彼を支持する大阪の人々の意識の低さには呆れる他ない。

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オリンピックを開催する意義とは

 最近、妙に2020年の東京オリンピックに関するテレビ番組や報道等が増えている。

 例えば10月10日の体育の日など、あのNHKが嵐などの芸能人やメダリストを呼んで『東京2020・12時間スペシャル』を放送し続けるはしゃぎぶりだった。
 その日は朝の8時15分から夜の8時45分まで、時々のニュース以外はすべてオリンピック関連の番組で埋め尽くされていた。
 ついでに言えば、夜8時45分の地域ニュースと『ニュース9』を挟んで夜10時からのNHKスペシャルもまた、『どうする東京2020』とオリンピック関連の番組であった。

 その日のNHKは朝からほぼオリンピックとスポーツのみで、オリンピックとスポーツに大して興味の無い者には、見るべき番組がまるで無かった。
 NHKは皆様の受信料で成り立っている筈なのに、まるで「東京オリンピックに興味を持ち応援できない者は日本人ではない、非国民である」と言わんばかりであった。
 いや、NHKだけでなく日本国民の多くも、そのように思っているのだろう。
 そのような空気を、少なくとも筆者は感じる。

 スポーツを愛し、オリンピックが再び東京で開催される事を喜んでいる人が多くいるのは当然であるし、それ自体は悪い事でないと思う。
 しかし「スポーツ以外にもっと好きな事があり、オリンピックにも大して興味の無い者も間違いなくいる筈だ」と思うのは、筆者だけだろうか。
 スポーツとオリンピックは、好きな人だけが熱狂すれば良いのだし、スポーツとオリンピックに興味を持たない自由もまたあると筆者は信じる。
 一億総ナントカでは無いが、筆者はその個人の自由を無視して「日本国民すべてがスポーツに熱狂し、東京オリンピックを応援しなければならない」と言わぬばかりの空気が嫌いだ。

 そもそもオリンピックとは「平和の祭典」であり、「参加する事に意義がある」筈だ。
 しかし今の日本では、NHKの解説委員ですらオリンピックを開催するメリットの最初に「国威発揚」と平気で断言している。
「どうだ、我が国はこんなに素晴らしいのだ!」と世界に誇示するのが、オリンピックの意義にすり替わっている。
 そしてメダルを取り、「日本が勝った!」と国民を喜ばせるのが最も大事なことになっている。

 オリンピックを国威発揚の場として露骨に利用したのは、あのヒトラーだ
「ナチス時代のドイツじゃあるまいし」と筆者は思うのだが、それは日本でも大して変わらない
 何しろ国民の税金から巨費を投じてでも立派な競技場を作り、たくさんメダルを取って「どうだ、日本はすごいだろう!」と世界に国威発揚するのが、オリンピックを開催するメリットと考えられているのだから。

 前回の東京オリンピックの翌年の、1965年に公開された市川崑監督の『東京オリンピック』というドキュメンタリー映画がある。
 この映画は世界中で上映され、他国では好評だったが、日本では賛否両論だった。そして「記録か、芸術か」という論争も盛んに行われた。
 その理由はズバリ、市川崑監督が日本人選手の活躍だけに焦点を当てなかったからである。

 市川崑監督の『東京オリンピック』では勝利した日本の選手だけでなく、敗れた無名の外国の選手が必死に頑張っている姿にまで目を向けた。
 そして世界の平和を願う意志を強く出し、閉会式で世界の選手らが国籍に関係なく手を取り合う姿を感動的に見せた。
 つまり市川崑監督は、平和の祭典であり参加することに意義があるというオリンピックの精神の原点に忠実に、東京オリンピックをドキュメンタリー映画にした。
 そしてそれが、お国の偉い人達と日本のスポーツ界の人達の気に入らなかったのである。

 日本の与党の政治家やスポーツ界の人間は、日本選手の勝利をもっと多く取り上げなかったのが不満だったのだ。
 それで市川崑監督の『東京オリンピック』を、「道楽だ!」とまで酷評し、政府の大臣が圧力をかけ、東京オリンピックの記録映画を撮り直させた。
 他の監督の手で撮り直された東京オリンピックの“記録映画”では、復興し発展した東京の街並みが映され、日本人選手の活躍シーンが大幅に増やされ、閉会式で世界の選手が手を取り合うシーンはカットされた。
「やりました、日本の選手が勝ちました、日本は本当に凄いです!」
 これが政治家とスポーツ界の人達が言う“記録映画”なのである。

 馬鹿か、と筆者は言いたい。
 政治家とスポーツ界の人達が作り直させた東京オリンピックの“記録映画”は、正しくは日本の国威発揚の為のプロパガンダ映画と言うべきである。
 日本人選手だけでなく外国人選手にも、勝者だけでなく敗者にも目を向け、オリンピックの精神の原点を問うた市川崑監督の『東京オリンピック』こそ、正しく東京オリンピックを記録した真のドキュメンタリー映画だと、知性と理性のある者にはわかる筈だ。

 しかし「日本の発展を世界に誇示し、日本人が勝利して多くメダルを取ることにこそ、日本でオリンピックを開催する意義がある」と考える、国威発揚しか頭にない日本人が多すぎる現実に、筆者はいささかうんざりしている。
「やりましたっ、日本が勝ちました! 日本人選手がまたメダルを取りました!!」とはしゃぎまくるオリンピックは、少なくとも筆者はもう見たくない。

 繰り返すがオリンピックは平和の祭典であり、参加することに意義があるのである。
 ただ国威発揚の為に立派な施設を血税で作り、日本が取ったメダルの数だけを競うような東京オリンピックなどクソクラエだ。
 2020年の東京オリンピックが、国威にも国籍にも関係なくただ純粋にスポーツを楽しみ、敗者の頑張りにも充分に目を向けられるようなものである事を筆者は望みたい。
 1964年の東京オリンピックの頃と相も変わらず、ヒトラー同様にオリンピックを自国の国威発揚の場と信じて疑わない人達が今もこの国を支配している現状を考えれば、まず無理であろうけれど。

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医療に従事する資格の無い、静岡県予防医学協会の呆れた職員

 別に正義感ぶるつもりはないが、私は公徳心の無い人が大嫌いだ。
 例えば、健常者なのに障碍者用の駐車場に平気で車を停める人とか。

 その種の人たちは「ちょっとの間くらいいいじゃないか」とよく言うが。
 ではその「ちょっと」とは、何分何秒なのだろうか。
 そしてその間に本当に障碍者用の駐車場を必要とする方が来ないと、保証できるのだろうか。

 10月7日の昼過ぎに、たまたま立ち寄った静岡県中部のホームセンターで、障害があることを示すステッカーの無い車が、店の出入り口に近い障碍者用のスペースに停めてあった。
 不審に思って見てみると、車には『公益社団法人 静岡県予防医学協会』と書かれてあった。

 医療関係者か、では障害を持つ方の送迎でもしているのだろうか。
 そう思って引き続いて見ていると、事務員らしい服を着た女性が一人で戻って来て、そのまま車を出して店の駐車場を去って行った。
 その姿はどう見ても五体満足な健常者で、障碍者用の駐車スペースを必要とするようには全く思えなかった。

 それにしても、呆れたものだ。
 店の駐車場の障碍者用のスペースに平気で車を停める健常者が数多くいる事は知っていたが、まさかその一人に医療に従事する者がいるとは思ってもいなかった。

 ちなみにその店の駐車場にはまだ空きスペースがあり、少し歩きさえすればその静岡県予防医学協会の方は間違い無く車を停められた筈だ。
 なのにその静岡県予防医学協会の女性は、その少し歩く手間を惜しんで障碍者用のスペースに車を停めた。
 このような者が医療にかかわっている事を、静岡県予防医学協会はどう考えるのだろうか。
 その事を、静岡県予防医学協会にお尋ねしたく思う。

不法駐車①P1110265 

不法駐車②P1110265

不法駐車③P1110265

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日米安保に対するトランプ氏ら一部米国人の無知

 アメリカ大統領選で、トランプ氏は日本や韓国やドイツに「米軍の駐留経費を全額払わせろ!」と主張している。
 トランプ氏や一部のアメリカ人は、日本などの同盟国に対し度々“安保ただ乗り”と批判している。
 果たしてそれは、真実であろうか。

米軍駐留経費EPSON004

 今年の5月30日の毎日新聞に掲載された表を見ていただきたい。
 ドイツとイタリアでは、施設設備費も従業員労務費も光熱水費もすべて駐留する米軍が負担している
 韓国は施設設備費と従業員労務費を負担してはいるものの、光熱水費くらいは米軍が払っている。
 そして米軍の駐留経費の負担割合は、ドイツとイタリアと韓国では約30~40%だ。

 では日本はどうか。
 ドイツやイタリアでは米軍が負担している施設設備費や従業員労務費はおろか、光熱水費まで日本が国民の税金で分担し、その負担割合は約75%と突出して多い
 その施設設備費や従業員労務費や光熱水費だけでなく、騒音軽減などの費用や、普天間飛行場の辺野古への移設や、海兵隊のグアム移転といった米軍再編費用まで日本政府は国民の税金から出している
 これでも一部のアメリカ人達からは「安保ただ乗り」と言われ、トランプ氏には「駐留経費は全部出せ!」と責められているのである。

 トランプ氏は「守ってやっている」という意識でいて、日本政府にも「守って貰っているのだから、仕方ない」と考えている人達がいるようだ。
 しかし駐留米軍は、日本をただ守って下さっているのだろうか。
 ベトナム戦争に沖縄などの米軍基地が拠点として活用されたように、日本の米軍基地はアメリカの世界戦略にも利用されているのだ。

 例えば沖縄の駐留米軍に、何故海兵隊が目立つか考えてみよう。
 安保法制に賛成する日本人は、「中国や北朝鮮の脅威が高まる今、アメリカに守って貰うには共に戦い血を流す覚悟を示さねばならない」と言うが。
 海兵隊は攻めかかって来る敵軍を迎え撃つ為の部隊ではなく、こちらから上陸して攻めて行く部隊なのだ。
 軍事に詳しい方によると、沖縄の駐留米軍は沖縄を守る為の部隊編成ではなく、韓国や台湾など周辺国で有事が起きた際に、そこの米国人を救い出す為の部隊なのだそうだ。

 この夏に、中国とロシアの軍艦が尖閣諸島周辺の接続水域を通過した。
 その尖閣諸島のうち大正島と久場島は、日米地位協定に基づき米海軍に射爆撃場として提供されている米軍基地である。
 しかし中国の艦船が何度近づこうが、沖縄の駐留米軍はスクランブルもせず、無視を決め込み無反応のままでいた。
 アメリカは中国とはとにかくビジネスをしたく、揉め事は極力避けたいというのが本音だ。
 それがこの、中国やロシアの軍艦が尖閣諸島の接続水域に進入した時の駐留米軍の態度にも現れている。

 中国と北朝鮮の脅威を理由に、安保法制に賛成した方々にも聞きたい。
 これでも沖縄の駐留米軍が、中国に対する抑止力になっていると言えるだろうか。
 少なくとも筆者がニュースで見る限り、駐留米軍はただ“居て”時折犯罪をおかすだけで、中国や北朝鮮から日本を守るような行動はしていない。
 沖縄国際大学の前泊博盛教授によれば、駐留米軍の“抑止力”は沖縄県民から「ユクシ(沖縄の方言で『嘘』の意味)力」と揶揄されているそうである。

 アメリカの世界戦略の為に日本(主に沖縄)の土地を治外法権の基地として提供し、大赤字財政の中からその駐留経費の約75%も負担し、安保法制で共に戦う約束までして、それでも「安保ただ乗りだ、守ってやってるのだからもっと金を出せ!」と責められるのだ。
 こんな日米安保、本当に必要なのだろうかと考えてしまうのは、筆者だけだろうか。

 アメリカのアジア戦略の為に基地を提供し、いわゆる“思いやり予算”で米軍の光熱水費まで払い、駐留経費の約75%まで負担しているにもかかわらず、駐留米軍は中国の軍艦が尖閣諸島に接近してもスクランブルすらせずに無視を決め込んでいる。
 これでも「守ってやっているのだ」と恩を着せられ、「米軍の駐留経費は全額負担しろ!」と責められる。
 そのトランプ氏が、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン候補と競り合っている。
 筆者はクリントン氏も好きではないが、もしもアメリカ国民がトランプ氏を大統領に選ぶような事態になったら、日米安保も見直した方が良いのではないかと思っている。

 日本の国土を基地として占拠し、自国の世界戦略の為に好き勝手に使っておきながら「守ってやっているのだから、もっとカネを出せ!」と言うアメリカ人に腹を立てない、日本の自称“愛国者”の右翼の方々の気持ちと思考が理解できない。
 真の愛国者ならば、日本国民の多額の血税で駐留しながら、日本をただ基地として利用して、いまだに占領軍気分で周辺の日本人に犯罪をおかす米軍関係者に腹を立てて当然ではないだろうか。
 米軍は「ただそこに居る」というだけで抑止力になるのだ、と主張する人もいるだろう。
 しかし毎年多額の血税が駐留費として遣われている以上、現に抑止力として働いているところ(スクランブルして中国の軍艦や軍用機を追い払うなど)を目にも見せて貰いたいものだと願うのは、無理な注文だろうか。

 米軍用地の借り上げ料や基地周辺対策費などを含めると、日本は2015年度に7250億円を駐留米軍の為に支出しているという。
 日本を中国から守るより中国とのビジネスを重視して、尖閣諸島に中国海軍が近付いてもスクランブルすらしてくれないような駐留米軍に、それだけの駐留費を血税から払うだけの価値があるだろうか。
 ただ「そこに居る」だけの米軍の駐留費に、年に7250億円は、いささか高過ぎはしまいか。
 アメリカとの同盟関係はそのままに、いっそ駐留米軍には本国(グアムなど)に引き揚げて貰い、これまで駐留米軍に支払っていたお金を自衛隊の装備の増強に充てた方がマシなのではないかと、トランプ氏の日本に対する発言を聞きながら考えてしまう今日この頃だ。

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