空と虹と恋と

 大好きな写真のこと、そしてゲームやコミックスの話から歴史&時事問題まで、思いつくまま雑多に語ってみたいと思っております。さらに筆者の度重なるイタい失恋話についても、どうぞ憫笑しつつお読み下さいまし。

生活保護費の削減に見る安倍政権の本質

 ネットなどでは、生活保護受給者は“ナマポ”などと呼ばれ、働かずに他人が払った税金で生きている穀潰しの狡い怠け者のように批判され、揶揄中傷や蔑視の対象となっている。
 そして安倍政権は、この10月から生活保護費を5%削減すると決めた。
 この決定に少なからぬネット住民が共感し、「やっぱり総理が安倍さんで良かった、安倍さんのする事は正しい!」と喜んでいるだろう。

 だがちょっと待ってほしい。
 生活保護受給者は本当に狡い怠け者で、ただ楽をして他人の税金で食っているのだろうか。
 そして生活保護費は、まだ切り詰める余裕があるほど充分に支給されているのだろうか。

 毎日新聞の報道によると、東京都に住む五十代のある女性は、過労で体調を崩し、そして離婚もして現在も通院中で働くことが出来ずに生活保護を受給している。
 その女性が受け取っている生活保護費は、月額約7万7千円だそうだ。
 これで憲法が保証している、「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことが出来るだろうか。
 事実、その女性は暖房もろくに使えず、布団に入って寒さをしのいでいるという。
 その女性の他にも、生活保護受給者には「室温が40度になっても冷房をつけない」とか、「風呂は週に一回」という暮らしをしている人達がいるそうだ。
 そして安倍政権は、その生活保護費をさらに切り詰めるという。

 安倍政権が言う生活保護費を削減する根拠は、現在支給されている生活保護費が、生活保護を受けていない国民のうちの、最も低い所得層の人達の収入を上回ったからだという。
 働いていない人が、働いている人より高額の生活保護費を貰えている。だから生活保護費をカットしよう。
 そう考える安倍政権の方針を、もっともだと思う人も少なくなかろう。

 しかしちょっと待って欲しい。
 安倍政権が生活保護費受給者と比較している、「生活保護を受けずに働いて自力で暮らしている、最も低い所得層の人達」とは、どんな人達だろうか。
 最低賃金ぎりぎりの時給でようやく生きている、この格差が拡大した日本の社会の最下層の人達だ。
 彼らは金がなくて病気になっても病院にも行けず、肉の中では一番安い筈の鶏肉すらろくに食えずにモヤシばかり食べているという。

 筆者のようなごく少数のひねくれ者を除く多くの日本国民が支持した、小泉純一郎元首相による小泉改革のせいで、この国は派遣やパートやバイトで働く人で溢れる格差社会になった。
 そして「景気が良くなった」と自画自賛する安倍政権下で、富める人だけさらに金持ちになり、貧しい人はより苦しい生活を強いられるようになった。
 働く者の多くが正社員で国民が総中流だった時代など、今では夢の話だ。
 今の日本は間違いなく格差社会で、その格差は安倍政権下で間違いなく拡大している
 その格差社会の最下層でどん底の暮らしをしている人達の収入と比べて「生活保護費をもっと切り詰めよう」とは、本末転倒ではないか。

 生活保護費が増えたわけではない。
 低賃金で働く非正規の労働者が増え、格差の下の層で暮らす国民の収入が下がったのだ。
 であるのに「生活保護費をより低い方に合わせよう」という安倍政権の政策は、本末転倒であるという以前に冷酷非情である。
 国民を導く政治家に必要な情が、安倍政権には無い
 毀誉褒貶ある田中角栄元首相だが、その田中元首相を含め、かつての自民党の政治家には弱い者に対する情が、間違いなくあった。
 しかし小泉政権以来の21世紀の自民党の政治家には、それが全く感じられない。

 働いても収入が生活保護費を下回る者がいる
 だとすれば生活保護費を切り下げるのではなく、最低賃金を引き上げ、働けばまともな暮らしが出来るようにするのが筋ではないか。
 しかし安倍政権はその真逆の道を突き進み、広がる格差は放置して、生活保護費を切り詰めようとしている
 安倍政権は戦後の日本で最低の政権だと、筆者は確信している。

 嘆かわしいのは、その安倍政権の弱い者イジメの政策を、少なからぬ国民が支持していることだ。
 労働者は低賃金でこき使いたい経営者側が、格差の拡大に目をつぶり高プロや裁量労働制などの“働き方改悪”をごり押ししたい安倍政権を支持するのは、よくわかるが。
 その安倍政権を所得の低い層も支持し、ワーキング・プアの人ほど生活保護受給者を叩き、今回の生活保護費の切り下げにも賛成し、「働かない者が俺たちと同じ暮らしをするなど不届きだ、生活保護費などもっと下げろ!」と溜飲を下げている
 弱い者が自分たちを苦しめている権力に立ち向かうのではなく、より弱い者を叩いて良い気分になっているのだから情けない。

 確かに生活保護を受けている者には、不正受給者も少なからずいる。
 ある実例を紹介しよう。
 子供を連れて離婚した女が、病気や子育てを理由に働かず、生活保護を受給して。
 そしてその女は恋愛をして、ある男(定職あり)と恋愛関係になり、一緒に暮らすようになった。
 しかし夫婦同然の暮らしをしながら、その女は男と結婚せず、内縁関係でい続けた。
 それは生活保護費を受給し続ける為だ。
 定職のある男と結婚してしまえば、生活保護費は打ち切られる。だから女は男の存在を役所に隠して、生活保護費を家計の足し及び小遣いにし続けたというわけだ。

 こんな例だけでなく、「一市民には強いが、声の大きな圧力団体に弱い」と言われる役所は、すぐ役所に押し掛けて「差別だ!」などと騒ぐ組織がバックに付いている人には、生活保護を容易に認めてしまうらしい。
 あと、生活保護を不正に受給しようという人達には、893関係者もいる。

 そうした生活保護費を不正に受給して、税金で楽をして暮らしている人達に対する怒りはもっともだ。
 しかしだからと言って、「生活保護を受ける者はみなクズだ、生活保護など止めてしまえ!」という極論に走ってはならないと、筆者は考える。
 生活保護の不正受給は駄目だということと、生活保護という制度の是非は別問題だ。

 考えて貰いたい。
 今は核家族が多く、少子化で兄弟姉妹の数も少ない。
 もし両親が亡くなったら、その後は天涯孤独になり頼るべき人が無くなってしまう人は少なくない。
 そして皆が皆、退職金や老後の年金が充分な官公庁や大企業に勤めているわけではない。
 勤めていた中小企業が倒産し、非正規で働いていて貯金も殆ど無くて。そして両親も亡くなり、さらに病気になって働けなくなった人のことを想像してみて貰いたい。
「生活保護など要らない、すべて自己責任だ」と言う人達は、無収入になりかつ働けなくなった人は、ホームレスになり餓死すれば良いと思っているのだろうか。
 筆者は生活保護は必要な制度だし、それが必要な人は絶対にいると考える。
 ただ同時に、その生活保護の不正受給は絶対に許すべきでなく、詐欺として厳しく罰するべきだとも考えている。
 その不正受給者の背後に893や圧力団体が存在するなら、警察とも連携し、告訴もして厳しく当たるべきであろう。

 要点をまとめる。
 生活保護の不正受給に対する怒りを、生活保護受給者すべてに向けることは間違っている。
 格差の拡大による生活の苦しさへの鬱憤を、生活保護受給者に向けるのも間違っている。

 ワーキングプアで、もしフルに働いても収入が生活保護費より低い人がいるとしたら。
 間違っているのは生活保護という制度ではなく、労働環境と最低賃金の方
である。
 働いても収入が生活保護費より低い人がいるのなら、生活保護費を低く下げるのでなく、最低賃金を引き上げ正規の労働者を増やすのが正しい政治のあり方だ。
 最底辺で働く者の収入が生活保護費を下回っている現状を見たなら、「アベノミクスで豊かになった!」などと誇らず、己の政策の冷たさを恥じるべきだ
「最底辺で働く者の収入が生活保護費より下がったら、生活保護費をもっと下げるべき」などと考える首相と内閣の構成員は、政治家として最低である。
 よって、安倍首相とその内閣の大臣らは、最低の政治家である。
 無論、生活保護の不正受給には厳しく対処すべきだし、役所は警察等とも連携して圧力団体にも屈せず立ち向かうことも必要である。

 最後に書いておくが、生活保護というのは、受給していない者が思うほど甘い制度ではない。
 例えば生活保護家庭の子供が高校に進学すれば、部活にも興味を持つようになるだろう。
 しかし学校の部活動には、それなりにカネがかかる。
 進学先が公立だろうが、ユニフォームだの、用具だの、遠征費だのが必要になる。
 だが生活保護費では生きて行くのに精一杯で、とてもそんなお金を出す余裕など無い。
 それである生活保護家庭の子供が、バイトをして部活にかかる費用を自分で稼いだ
 するとどうなるか?
 その子供のバイトの稼ぎは、生活保護費の不正受給とされるのだ。
 何故なら制度上子供の稼ぎも「世帯の収入」とされる為、子供がバイトで稼いだ分だけ、その世帯は生活保護費を減額されることになる。
 だからもしその子が部活で使うユニフォームや用具や遠征費を稼ぎたければ、「まず先に生活保護費の分を稼ぎ出し、さらにそれ以上働いで稼げ」という話になる。
 高校生のバイトで、生活保護費を越えるくらい稼ぐなどまず無理だろう。
 だから生活保護家庭で育った子供は、「趣味も持つな、部活にも入るな」という話になる。
 現実問題、お金のかからない趣味など殆ど無く、生活保護を受けている者は「ただ生きていられるだけで満足しろ」ということのようだ。
 老い先短い老人なら、それでも良いだろうが。
 将来のある子供にもそれを求め、「子供がバイトして稼いだ分も不正受給で、生活保護費は減額」というのは、少々厳しすぎると筆者は思う。
 まあ「生活保護家庭の子供が趣味など持つのは、成人し独立して稼ぐようになってから」という事なのだろうが。

 また、生活保護費で生きている人達は、葬式の香典も結婚式のご祝儀もとても出せず、だから冠婚葬祭に出られない為、交際範囲がとても狭くなるという。
 さらに本人が亡くなった後の始末にも、最低限の葬儀でもまず20万円は必要になるが、生活保護を受けている者にそんな貯金などある筈もなく、そのまま焼かれて無縁仏になるという。
 不正受給している者は別だが、本当に事情があって生活保護を受けている者はただその日を生きて行くのが精一杯で、死んでもそのまま無縁仏なのだ。
 そういう人達を“ナマポ”と蔑視し、不正受給している狡い怠け者と同一視して安倍政権と一緒になって叩き、生活保護費の切り下げに「賛成だ、もっと引き下げろ!」と溜飲を下げる人達の心の冷たさに、筆者は何か寒々としたものを心に感じる。

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京セラの稲盛和夫氏は本当に『思い邪なし』の偉い人なのか?

 筆者は“左”にも“右”にも寄りたくないので、新聞はとりあえず毎日新聞を購読しているが。
 その毎日新聞の経済面に、京セラ創業者である稲盛和夫氏の伝記、『思い邪なし』が長期連載されている。
 記事は毎回5段もの量でかなりの長文で、連載は今月で百回に迫ろうとしている。
 その稲盛氏の思想を信奉する人は数多く、筆者の知人にも稲盛イズムとやらの“信者”がいる。
 この種の稲盛氏を褒め称える文章や人々を見る度に、筆者は何とも言えない不快な気分になる。

 筆者は写真はフィルムで撮るのが当たり前だった時代から、写真に熱中してきた。
 そして写真はフィルムで撮る時代には、「写真はレンズで決まる」というのが常識だった。
 デジタル全盛の今は、写真の出来を決めるのは、処理プロセッサーだの、PCでの画像処理だの、いろいろな要素がある。
 しかし写真をフィルムで撮っていた頃には、後で画像をいじる事など出来なかったし、詳しい人なら「10万円のボディに5万円の交換レンズを付けて撮るより、5万円のボディに10万円のレンズを付けて撮った方が綺麗に撮れる」と知っていた。
 だから写真がデジタルでなくフィルムだった時代には、写真に凝る人はカメラよりレンズに気を使い、良いレンズを買い集める事に熱中していた。

 筆者もその一人で、最初はオリンパスのカメラで写真を始めたものの、次第に他のメーカーのレンズにも興味が湧いてきた。
 写りを決めるのは、カメラ本体ではなくレンズである。
 しかし他社の評判の良いレンズを使うには、他社のカメラ(ボディ)も買わねばならない。
 で、筆者はオリンパス以外の他社のレンズも夢中になって買い集め、それを使う為に他社のボディも渋々買った。
 その結果、筆者は殆どのメーカーのレンズ(とカメラ)を買い集めてしまった。
 ニコン、キヤノン、ペンタックス、ミノルタ、リコー、フジ、ローライ、フォクトレンダー、それにライカと、いつの間にか数え切れないほどのレンズとカメラを買い揃えてしまった。
 ロシア製のキエフなどという、マイナーなカメラまで持っている。
 金など無いから、買った物の大半は中古品だが。
 それでもかなりのお金を、レンズとカメラに投じた。
 だから愛車はずっと軽自動車だし、海外旅行にも行ったことが無い。
 服もユニクロばかりだし、時にはワークマンのものも買う。
 それこそ、「写真=命」で生きていた。

 写真に詳しい方は、もうお気付きだろう。
「殆どのメーカーのレンズとカメラを買った」と言いつつ、あるメーカーの製品が無いことに。
 コンタックスだ。
 コンタックスのカメラは、ドイツのカール・ツァイス製のレンズを付けている。
 だからレンズのマニアなら垂涎の的だし、筆者もカメラ屋に行った際にコンタックスのカメラを勧められたことがある。
 しかし筆者は断った。
 良いレンズは何としてでも欲しいと思ってしまう筆者だが、コンタックスのレンズだけは欲しくない
 何故なら、そのコンタックスのレンズを付けるカメラを扱っているメーカーが、稲盛氏のあの京セラだからである。

 筆者がまだ大学を出て間もない若造だった頃、所用があって、コンタックスのカメラを扱う地元の京セラの営業所を訪ねたことがある。
 あらかじめはっきりさせておくが、取引の金額は僅かではあったものの、立場は筆者が客だ。
 営業所を訪ねた筆者は、カウンターの向こうにいた京セラの社員に「すみません」と挨拶し頭を下げて一礼し、その後に用件を敬語で丁寧に述べた
 カウンターの向こうにいた京セラの社員は、三十代の小太りで脂ぎった男で、筆者の挨拶に頷き返すことすらせず、ジロリと不躾な目で見返したまま、口をへの字に曲げて返事もせずに無言で話を聞いた。
 そして用件を聞き終わると、その男はカウンターの後ろに向けてただ顎をしゃくった。

 もちろん無言のまま、ニコリともせずに。
 すると後ろから若い(可愛い)女性社員が小走りに出て来て、申し訳なさそうに、丁寧に応対してくれて用件が片付いた。

 その時の筆者は若造だったし、しかも小柄で童顔だ。
 そして持っている金はすべてカメラとレンズに費やしてしまっている為、服装もユニクロにジーンズだった。
 それにしても営業所の社員たる者が、一礼して用件を丁寧に話す客にお辞儀ひとつ返さず、返事の代わりに無言のまま顎をしゃくるという対応があるだろうか。
 しかもそれが、稲盛イズムとやらを叩き込まれている筈の、京セラの営業所での話なのだから呆れる。

 筆者はカメラに関する用事で、その京セラの営業所を訪れたのだが、京セラはカメラばかり扱っているわけではない。
 おそらくカウンターの向こうに座っていた件の京セラの社員は、カメラの担当ではなかったのだろう。
 それにしても、だ。
 挨拶をされて頭を下げられたら礼を返すのが人としての常識だし、聞いた話が担当外の事だったら、「済みません、すぐ担当の者に代わります」と受けるのが社会人の常識ではないか。
 来た客が若造でスーツ姿でなく、自分の職務の担当でない話だったから礼も返さず黙ったまま顎をしゃくるなど、社会人どころか人間失格であろう。
 こんなクズが社員にいるのだ、稲盛イズムとやらもたかが知れていると、筆者は心から呆れたものだ。
 こんな社員がいるのに、よく人生訓やら人の道やらを偉そうに説けるものだと、その京セラの営業所で稲盛和夫氏に対して心から軽蔑の念を抱いた。

 と言うと、「どんな組織にも駄目な人間はいるものだ、それは仕方ないし、稲盛さんのせいではないよ」と言う方もいるだろう。
 だが筆者がその京セラの営業所を訪れた時、そこに居た社員は件の男と若い女性の二人きりではなかった。
 営業所にはもっと他に、京セラの社員が何人もいたのだ。
 そして筆者と件の社員のやりとりを皆が見て聞いていたのに、その社員の無礼な対応を諫める者は誰もいなかった
 顎をしゃくられて出て来た女性社員が申し訳なさそうな表情こそ見せたものの、それだけである。
 つまり駄目なのは筆者と応対した件の社員一人だけでなく、その京セラの営業所の皆が腐っていたということなのだ。

 自社の社員が客に無礼な態度をとっていたら、普通は慌てて出て行って謝るだろう。
 そうする者がいなかったという事は、京セラ全体が「身なりの良くない少額の取引相手など客ではなく、無礼な応対でOK」と思っている、という事だ。

 例の毎日新聞の連載記事『思い邪なし』のある回に、稲盛氏の若い頃の苦労話が載せられていて笑えた。
 京セラがまだ無名だった頃、小さな仕事でも取る為に稲盛氏が部下と二人で売り込みに回り、その先の会社で冷たい、素気ない対応をされて辛い思いをした思い出が書かれていたが。
 それを読んで、筆者は稲盛氏本人にこう伝えたくなった。
 稲盛さん、貴方の部下の社員は、少額だが京セラに金を落としに、商品を買いに行った客が頭を下げて挨拶をしても返事もせず、睨むような目で黙って聞いた揚げ句に顎をしゃくるような無礼な対応を平気でしていますよ、と。
 そしてそれを諫める他の社員も誰も無しだった。
 そんな社員たちを抱えて、よくもまあ偉そうに人生訓だの何だの語れるものだと、ほとほと呆れる。

 その一件以来、筆者にとって「京セラは憎い敵!」で、その京セラが扱うコンタックスのカメラは、どんなにレンズが素晴らしくて写りが魅力的でも、絶対に買わないで通している。
 コンタックスだけでなく、京セラに関係するものは極力使用しない、そして京セラとは絶対に取り引きしないようにしている。

 こんな筆者の姿勢は、極端で頑な過ぎるだろうか。
 しかし稲盛イズムとやらを唱え、経営論や生き方を偉そうに説くくせに、部下に“あんな”人間がいて、さらにそれを許容している営業所があるのでは、稲盛和夫という経営者も、金を儲ける才能はどうあれ、人としてはとても尊敬できないなと心から思った。

 どんな組織にもクズはいる、というのは真実だろう。
 ただ社員は、特にお客など社外の人と接する仕事の社員は、一人一人がその会社の“顔”なのだ。
 例えば貴方がある会社に行き、そこの社員に非常識かつ非礼な対応をされたとしたら。
「たまたまこの社員だけが悪いのであって、この会社そのものは悪くないのだ」などと思えるだろうか。
 思えるとしたら、貴方は大人でとても立派だ。
 しかし世の中の人間の多くは、筆者も含めて大人げないし、あまり立派でもない。
 だからある会社で非礼な対応をされたら、「どこの組織にも駄目な奴はいるし、悪いのはこの社員だけだろう」などと寛大に許したりせずに、「この会社はふざけてる!」と思って怒ってしまうだろう。
 筆者が今もなお京セラを嫌っていて、稲盛氏を褒め称える稲盛イズムの信者たちを冷たい軽蔑の目で見ているように。

 どんな組織にもクズはいる。
 それは確かに真理だ。筆者も認める。
 だから大切なのは、そのクズが社外の人(特に客)に無礼な態度を取った時に、周囲の同僚や上司がどう対応するかだ。
 そのクズをすぐに叱ってフォローをしないと、「この会社は駄目な会社だ」というイメージがお客の心にずっと後まで残る。
 筆者など、そのクズ社員がいたせいで今も稲盛氏を尊敬できないでいるし、事ある毎に周囲の人に京セラの悪口を言っている。
 だからクズ社員に対する処置はきちんとしておかないと、その会社は後々まで損をする。
 社員の中にも上にコネのある人もいるだろうし、何かあるとキレる問題のある人だから関わらないようにしていたとか、例の京セラの営業所にもいろいろ事情があったのかも知れないが。
 しかしそのような“お家の事情”である社員がお客に非常識な態度を取っても許していると、お客に恨まれて社外に悪印象を残すことになるから、組織内のクズは早々に切っておく方が結局は社の為になるのだ。

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オリンピック報道に見る日本のマスコミの劣化と亡国

 この前の日曜に、ようやく冬季オリンピックが終わった。
 オリンピックが終わったのを、「もう」と思うか、「ようやく」と思うかは、人それぞれであろうと思うが。
 筆者はオリンピックと、メダルラッシュとやらに沸いたこの日本ではおそらく少数派であろう、「ようやく」という一人である。

 オリンピックが始まった古代ギリシャでは、オリンピック期間中には戦争も休戦になり、戦っていた敵同士もスポーツを楽しんだ。
 これをエケケイリア、オリンピアの休戦という。
 かつての古代ギリシャでは、オリンピック開催中はギリシャ全土が本当にオリンピック一色になった。
 古代のギリシャ人がどれだけオリンピックに熱中していたか、その一例を示そう。

 皆さんは、紀元前480年のテルモピレーの戦いをご存知だろうか。
 ペルシャと古代ギリシャは何度も戦っていて、紀元前480年、ペルシャ帝国のクセルクセス一世は数万もの大軍を率いてギリシャに攻め込んだ。
 それを防いだのはスパルタの王レオニダスで、彼が率いた兵は僅か300であった。
 レオニダスとその配下のスパルタ兵は、テルモピレーの地形も利用して勇戦し、よく戦ったもののそこで全滅した。
 ギリシャの危機に、何故スパルタ以外のギリシャの都市が積極的に戦おうとしなかったのか
 それはその紀元前480年が、オリンピック開催の年だったからである。
 ただそのレオニダスとその配下の勇戦と犠牲に目を覚ましたギリシャ人達は、サラミスの海戦などでペルシャ軍を破り、ペルシャの侵略を防いだ。

 オリンピックの間は、古代ギリシャでも戦争すら休戦する約束になっている。
 しかしそれはギリシャ内だけで通用する常識であって、ペルシャ人にはまるで関係のない話である。
 オリンピック期間中であっても、戦争その他の諸問題は間違いなく変わらずに存在する
 スポーツは確かに素晴らしい。
 しかしスポーツは平和や社会の安定があってこそ楽しめるものであり、「オリンピックの間は、争い事も社会の諸問題も忘れて皆がスポーツを楽しむべき」などと考えるのは大間違いである。

 しかし今も、「オリンピック期間はただスポーツを楽しめば良い」と誤解している輩が、この国には少なからずいる
 マスコミですら、そう誤解しているように見える。
 例えばオリンピック期間中のある日のNHKニュース9では、放送開始直後から33分間、ぶっ続けでオリンピックのニュースを放送していた
 放送していたのは、競技のハイライトや結果だけではない。
 スケートの羽生選手の演技のノーカット放送(5分を越える)に始まり、選手のインタビューが長々と報じられ、他の競技についても放送され、果ては女子カーリングの選手が何を食べているかなどといった些末な事まで延々と放送し、ニュースの半分以上の時間をオリンピックに費やした後で、ようやく社会問題に関する報道が始まった。
 と思えば、9時45分頃にはいつものように天気予報になり、続いてまたスポーツニュースが始まり、当然のようにニュース9の放送が終わるまでオリンピックの情報が流された。

 一時間の“ニュース”のうち四分の三がオリンピックに費やされ、天気予報も除けば、社会問題や事件は僅か10分ちょっとしか報じられなかった。
 この日だけでなく、オリンピック期間中はテレビのニュースも新聞も同じようにオリンピック関連の報道一色に染まっていた。
 オリンピック期間は戦争すら休戦になった古代ギリシャのように、マスコミも世の人達もまるで「オリンピック期間中は、紛争も外交問題も政治問題も事件や犯罪も起きず、世の中は平穏無事である」と言いたげである。

 本当にそうか?
 オリンピック期間中は今でも、「紛争も外交問題も政治問題も事件や犯罪も起きず、世の中は平穏無事」なのか?
 そんな事は無い、オリンピック期間中もシリアでは内戦が続き、エルサレムではアメリカとトランプ政権の後押しを得たイスラエルがパレスチナ人を虐めている。
 国内でも国会が開かれ、「定額働かせ放題制」としか言いようのない裁量労働制も含めた働き方改革の問題や、それに関連して安倍首相が嘘のデータをもとに雇用者側に都合の良い発言をしていた問題や、佐川国税庁長官が森友学園問題で虚偽の答弁をしていたことを証明する記録が出てきた問題など、重要な問題が次々に出てきている。

 しかしニュースで報じられるのはオリンピックのことばかりで、メダルを取った選手の演技やインタビューを繰り返し垂れ流し、果ては女子カーリングの選手が“もぐもぐタイム”とやらで何を食べているかなどをさも国家国民の重大事のように、優先して報道している

 皆さんは、「小さく産んで、大きく育てる」という政治家や官僚の国民を騙す常套手段をご存知か。
 かつての治安維持法も、そうであったが。
 国民を縛る法律は、最初はさも「貴方には関係のない事ですよ」と言いたげに、ごく一部の人だけが対象のように見せかけて成立させて。
 そして法律を一旦成立させたら「こっちのもの」で、対象をどんどん広げ、いつの間にか多くの国民がその法律に縛られているというヤツだ

 今、政府と自民党が押し進めようとしている働き方改革(改悪)の裁量労働制もまさにそれで、国会で審議されている法案が成立したら最後、多くの従業員が裁量労働制に取り込まれ、残業代ナシで会社に命じられた仕事を終えるまで長時間労働をさせられることになるだろう。

 幸いにして働き方改革に関する法案は、まだ成立していないが。
 その現状ですら、「出版社に勤めたばかりの新卒の社員が毎月百時間を越す残業を強いられ、激務の果てに職場で倒れ、体を壊して退職せざるを得なくなった。それで未払いの残業代の支払いを求めたところ、契約でお前は裁量労働制になっているからと、支払いを拒否された」という事例まである。
 その件については、2月24日にTBSの報道特集で放送されている。

 入社一年目の新人社員もまた裁量労働制の範囲内に含め、残業代ナシで倒れるまで働かせる。
 現状でもこんな事がまかり通っているこの日本で、もし経営側が求める裁量労働制の拡大が国会で可決されたら、きっと貴方もタダで倒れるまで働かされることになるだろう。

 最初に決めた給料さえ払えば、後はいくらでも好きなだけ働かせることが出来るのだ。
 経営側から見て、こんな美味しい、使い勝手の良い話はない。
 だからもしこのまま政府案通りに働き方改革が進められたら、例の法律は「小さく産んで、大きく育てる」というやつで、多くの働く人が裁量労働制に取り込まれ、「定額で倒れるまで働かせ放題」になるだろう。
 繰り返すが、財界と政府と自民党が押し進めたい働き方改革の裁量労働制とは、「定額働かせ放題制」なのだ。
 貴方の働き方、貴方の生き死ににも関係する重大な法案が国会で審議されているというのに、マスコミ、主にテレビのニュースではオリンピックのことばかり報じられていた
 民放のニュースも、ニュースと言いつつオリンピック中心の報道が目立ったが。
 特にNHKは、政権に都合の悪い報道は努めて避けて、オリンピックでの日本選手の活躍ばかり報じているように見える。

 NHKは毎週土曜日に、『ニュース深読み』という報道番組を放送しているが。
 最近は“深読み”ではなく、あえて政治の問題を避けた『ニュース浅読み』となっている
 今、国会では働き方改革や、佐川国税庁長官の偽証疑惑や、受動喫煙対策が骨抜きにされかけている事などが問題になっているというのに、2月24日の番組で報じられたのは「オリンピック、ピョンチャンから東京へ」だった。

 こうしてマスコミがオリンピックの事ばかり報じて政治や社会の問題から国民の目を逸らしている間に、裁量労働制の拡大などがどんどん進められ、気がついたら国民の暮らしや労働環境がより厳しいものになってゆく事だろう。
 権力を監視するのが役目の筈のマスコミの中に、権力にすり寄るものらが出てきているだけでなく、さらに報道をオリンピック一色に染めて国民の目を塞ぎ、国民を阿呆にしようとしている。
 こんな今の日本のマスコミの現状を、筆者は深く憂う。

 断っておくが、筆者は何も「オリンピック関連の情報をニュースで流すな」と言いたいのではない。
 ただニュースで流すのはダイジェストと結果で充分で、オリンピック期間中も、ニュースや報道番組では主に政治や社会の問題を報じるべきではないかと言いたいのだ。
 オリンピックのことは特別番組として別枠で報じ、ニュースはニュースとして平常通りに政治や社会の問題をきちんと報じるべきではないか。
 なぜ重要な社会問題に関する報道を削ってでも、全国民がオリンピックの競技をいつでも生中継で見られるようにしなければならないのか、それが筆者には理解できない。

 オリンピックの期間は戦争すら休戦にした、古代ギリシャの頃ならいざ知らず。
 国際紛争や外交問題、社会問題や事件事故は、オリンピックに関係なく休みなしに起きているのだ。
 犯罪者も、悪法を数の力で通したい与党議員も、オリンピック期間にせっせと働いている。
 佐川国税庁長官と森友学園に関する新たな資料が出されたのも、オリンピック期間に入ってからだ。
 裁量労働制や佐川国税庁長官の疑惑などに対する政府与党の姿勢を見ていると、「国民の目がオリンピックに向き、報道もオリンピック一色になっているうちに片づけてしまおうと企んでいるのではないか」と疑いたくなる。

 それだけに、二年後の夏の事を想像すると、筆者は今から恐ろしくなってくる。
 他国で開催されたオリンピックでさえ、この国のマスコミと国民はこれだけオリンピック一色になれるのだ。
 日本で開催される東京オリンピックの際には、どれだけのお祭り騒ぎになるだろうか。
 安倍首相がまた自民党の総裁に再選され、2020年のオリンピックの際の首相もまだ安倍氏だったとしたら。
 安倍首相の念願の憲法改悪をし、安倍首相が大好きな刑死したA級戦犯を復権させ教育勅語を復活させて、この国を安倍首相や彼を支える右翼や神社勢力が考える“美しい国”、戦前の日本に戻す絶好のチャンスになるのではないか。
 だからこそ「ニュースや報道はオリンピック期間も、オリンピック一色にしてはならない」と、筆者は考える。
 繰り返すがオリンピック期間中も、政治や社会は変わらずに動き、紛争や事件も絶えず起き続けているのだから。

 この冬季オリンピックの最中にも、マスコミがろくに報道せず、多くの国民が知らないうちに国会では多くの重要な法案が審議されていた。
 そして「充分審議したから」と裁量労働制の拡大を含む働き方改悪が数の力で可決され、貴方も定額で倒れるまで残業を強いられるようになるかも知れない。

 重要法案の審議や、政府に都合の悪い情報を白状するのをオリンピックの時期に合わせる政府の狡いやり方にも腹が立つが。
 それ以上に、そうした社会の重要問題を片隅に追いやって、ニュースや報道番組までほぼオリンピック一色に染めて国民を阿呆にするこの国のマスコミの姿勢に、筆者は強い憤りを覚える

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自衛隊に対する正当な非難も許さぬクソなネトウヨども

 例えば貴方の家(アパートや借家ではなく持ち家)に、可燃性の危険物を積んだ大型車、タンクローリーの類が突っ込んできたとしよう。
 そして貴方の自宅は大破し、さらに炎上して丸焼けになった。
 しかもその家の中には貴方の子供も居て、死んでもおかしくない状況の中、怪我を負いながら命からがら逃げ出してきた。
 その子供は心に深い傷を負い、恐怖に怯えて泣いている。
 それでも貴方は自宅に突っ込んできた大型車を責めず、「わざと起こした事故ではないし、その大型車の運転者は死んだのだから」と許すことが出来るだろうか?

 わざとではないにしろ、運転者は死んだにしろ、自宅を倒壊させ丸焼けにして家族の命まで奪いかけたその大型車は許せない。
 そう思うのが、当然の感情ではないだろうか。
 ところがその事故の加害者が自衛隊だと、「わざとでないし、家族も死んでないのだから構わないではないか」と、被害者の気持ちを逆撫でする発言を平然とする日本人が、今は大勢いるのである。

 先日、佐賀県神埼市で自衛隊のヘリが民家に墜落し、そこの家は大破し全焼した上に、家にいた女児も怪我をした。
 で、その事故について家の持ち主である女児の父親が「許せないですよね」とコメントしたところ、ツイッターで非難と罵声が浴びせられている。

「何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ」
「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」
「死ななかっただけいいじゃないか」


 つまり今の日本人は、自宅に自衛隊機が落ちて家が倒壊して丸焼けになり、怪我をしながら命からがら逃げ出してきた我が子がショックで泣いていても、「わざと落ちたのではないから許すし、まず亡くなった自衛隊員の事を考えて、子供が怪我をしても命が助かっただけ良いと思う」ものらしい
 少なくとも、ツイッターを活用している日本人たちは。

 今のようにドライブレコーダーが普及していなかった、何年も前の話だが。
 筆者の友人は自動車事故で裁判になり、その弁護士費用と賠償金を払うのにとても苦労した。
 その為に職場に内緒で深夜の副業もして、くたくたに疲れ切っていた。
 友人は車を運転中、脇から飛び出してきた車を避ける為、咄嗟に急ハンドルを切った。
 結果、友人の車は隣の車線にはみ出し、併走していた別の車と衝突した。
 そしてその事故の責任は、すべて友人に負わされたのである。

 事故のそもそもの原因は、脇から飛び出してきた車である。
 しかしその車はそのまま走り去ってしまい、咄嗟のことで友人はその車のナンバー等を記憶するゆとりもなかった。
 ドラレコも無かった時代のことだから、「飛び出してきた車を避けたのだ」という友人の言葉を裏付ける証拠も無く、その車は逃げ得になってしまった。
 そして事故は「友人が急に隣の車線に突っ込んだから起きた」ことにされ、賠償も弁護士費用も友人が負担することになってしまったのである。

 わざとぶつけたのではなく、危険を避ける為に咄嗟に急ハンドルを切った友人には気の毒だが、第三者として冷静に考えれば、その裁判の結果は仕方の無いことだろう。
 友人の立場で考えれば、友人も被害者だし気の毒だ。
 しかし併走していて友人の車にぶつかられた車からしてみれば、「隣の車線の車がいきなり急ハンドルを切って体当たりしてきた」のだ。
 そしてドラレコも無く、友人も「脇から飛び出してきた」という車のナンバー等を覚えていない以上、事故は友人が急ハンドルを切り隣の車線に突っ込んだから起きたとされても仕方がないわけだ。
 結果論だが、友人は急ハンドルを切って避けるのではなく、急ブレーキをかけつつ脇から飛び出してきた車にぶつかれば良かったのだ。
 そうすれば事故の主な原因は脇から飛び出してきた車にあると立証されたであろうし、少なくとも隣の車線の車にぶつかることも無かった。

 この友人の事故のように、わざと起こしたわけではなくとも許されない事故は、世の中に数多くある
 もし「わざとでなければ許される」のであれば、世の中から“過失致死”や“過失傷害”という事件事故は存在しなくなる筈だ。
 例の佐賀県神埼市で自衛隊のヘリが民家に墜落した事故で、家を全焼され子供にも怪我をさせられた被害者の「許せないですよね」とのコメントを、「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」と非難するツイッター民は、そんな単純なことも理解できないらしい。

「何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ」
 そう呟くツイッター民は、どんな被害を受けても加害者が死ねば許され、被害者は我慢すべきとお考えらしい。
「死ななかっただけいいじゃないか」
 という発言にも、「わざとの事故でなく、加害者が死んでいればそれでチャラで責めるべきではない」という思考が見て取れる。

 そんなツイッター民に問おう。
 わざとの事故でなく、そして加害者が死んでいれば、貴方は家が全焼して子供も怪我をして心も傷ついても許せるのか?
 そもそも貴方は、「わざと」でなければ、どんな事故も許せるのか?
 その覚悟もないくせに、自衛隊機の事故の被害者を責めるのは、あまりにも無責任すぎる。

 大型車が道路脇の民家に突っ込むような事故は、そう珍しいことではない。
 その場合、同情は突っ込まれた民家の住民に向けられ、事故が「わざと」でなく、そして車の運転者が死んだとしても全責任は加害者が負うのが常識だ。
 そして被害者が加害者に怒るのはもっともなことと思われ、「わざとではないのだし、亡くなった運転手の事を考えろ、死ななかっただけマシだろ」などと被害者を責める者は誰もいない。
 しかし佐賀県のヘリ墜落事故では、少なくともツイッター上の非難は被害者に向けられている。
 わざとではないのだし、亡くなっている搭乗員のことを考えろ、子供は死んでないんだろ……と。

 以前、民間機が飛行場近くの民家に墜落したことがあった。
 その時には、非難はその落ちた飛行機のパイロットに向けられていた。
「わざとの事故ではないのだ、みな亡くなっている搭乗員たちのことを考えろ、被害者は死んでないのだから良いだろ」などと寝ぼけた暴論を吐く馬鹿は、誰もいなかった。
 しかし佐賀県のヘリ墜落事故では、非難が家を破壊全焼され子供まで怪我をさせられた被害者に向いている。
 何故か。
 それは加害者が、自衛隊だからだ。

 かつて自衛隊は、心ない阿呆な左翼から「人殺しの為の組織で税金泥棒」だと非難されていた。
 しかし今は逆に、「お国と国民の為に命をかけて働く立派な人達」という意識が強くなり、日本の右傾化と併せて「自衛隊のする事に文句を言うな」という空気にこの国が染まりつつある

 普通の事故なら、「わざと」でなく加害者が死んでいようと、そして被害者に死者は無くとも、非難は加害者に向けられるのに。
 なのに自衛隊や米軍機の事故なら、加害者を責めるとむしろ被害者の方が非難され罵声を浴びせられる。

 戦後の個人の自由を重んじる民主的な日本を嫌い、天皇中心で国家が国民を統制する昔の日本を“美しい国”と信じ「戦前の日本を取り戻したい」と願う、今のこの安倍政権下で。
 沖縄で米兵が起こした交通事故に対する産経新聞の、米兵の美談をねつ造して沖縄の新聞を罵ったフェイク報道でもわかるように、自衛隊や米軍が特別扱いされ、その事故を責める者は非国民扱いされる風潮が起きていることを、心から憂う。
 自衛隊を税金泥棒扱いしたかつての左翼も間違いなくクソだが、自衛隊による事故の被害者にネット上で罵声を浴びせるネトウヨも同じようにクソ過ぎる。

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懲りずにまた“右”に走り愛国心に心の拠り所を求める愚かな日本人

 このブログをご覧になって下さっている方は御存知のことと思うが、筆者は安倍総理とアベ政治が心の底から嫌いである。
 ただ嫌いというより、憎悪しているといった方がより正確だ。
 安倍総理は戦後の総理で最低最悪の総理だと、筆者は断言する。
 こんな筆者を「根っからの左翼だろう」と思う人も少なくないのではないだろうか。

 だが断言するがそれは違う。
 筆者は2000年に小泉政権が誕生するまでは、生まれてからずっと一貫して自民党を支持してきた保守主義者である。
 筆者の学生時代には知識人と言えば左翼ばかりで、大学でも教授や講師らだけでなく学生も殆どが左翼だった。
 そんな中で自分の思うところを臆せず歯に衣着せずに言い続けた筆者は、皆から「コチコチの右翼」と言われた。

 その筆者が今アベ政治を批判し続けているのは、右翼から左翼に転向したからではない。
 右翼と呼ばれて孤立していた昔から、筆者の主義主張は殆ど変わっていない。

 変わったのは、周囲の日本人たちだ。
 それほど長いとも言えない筆者の人生の間で、日本人の思想、と言うより空気は左から右へと恐怖を覚えるほど大きく変化している

 筆者の学生時代の左翼は、今振り返ってみても本当に頭がおかしかった。
 マルクスの思想を盲信していて常識も議論も通じず、大袈裟でなく「狂っている」としか言いようが無かった。
 何しろ筆者が小学生の頃に読んだ学研の学習百科大事典には、「朝鮮民主主義人民共和国は計画経済による進んだ重工業国で、大韓民国は独裁政治の遅れた農業国である」と明記されていたくらいだ。
 だから今では「北朝鮮が仕掛けた」というのが通説の朝鮮戦争も、以前の日本の学者やインテリ達は「南が仕掛けた」と信じていた

 戦争というものは、少なくとも緒戦は仕掛けた方が優勢に戦を進めるのが常である。
 先に攻めた方は、まず勝てるよう準備をしてよく作戦も練り、相手の不意を打って攻めかかるのだから、勝って当たり前なのである。
 だから日本軍もパールハーバーで大勝し、イギリスの戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズも沈め、マレーで電撃戦を展開してシンガポールも攻め落とせたのだ。
 歴史的に見て、近代の戦争で自ら仕掛けた戦争ですぐに敗れたのは、イタリア軍くらいのものである。

 朝鮮戦争でも、北朝鮮軍は国境を突破してあっと言う間にソウルを攻め落とし、韓国軍と難民を釜山とその周辺に追い詰めた。
 さらにその北朝鮮軍には、ソ連の戦車や戦闘機が大量に投入されていた。
 もし朝鮮戦争を仕掛けたのが、かつて左の人達が言っていたように韓国だとしたら。
 自分から仕掛けた戦で緒戦から大敗し、首都を攻め落とされて半島の南端まで追い落とされた当時の韓国の人達は、本物の“アホの子”である。
 ソ連の支援を受け、その軍事力を背景に攻め込んできたから北朝鮮は勝てたのだ。
 少なくとも、緒戦では。
 そして米軍が韓国の支援に回ると、一転して北朝鮮は敗退することになる。
 だが米軍の接近を恐れた中国軍が北朝鮮を助け、戦線は37度線で膠着して今に至る。

 朝鮮戦争で緒戦は北朝鮮軍が優勢だったのは、北が先に戦争を仕掛けたからだ。
 そして北朝鮮軍には、大量のソ連製の戦車や戦闘機が配備されていた。
 だから北は緒戦では勝てた。
 そんな自明の理を、以前の日本の学者やインテリ達は頑として認めなかった。
 そして彼らはこう言った。
「共産主義の国は決して自分から戦争を仕掛けない。だから戦争を仕掛けたのは、資本主義国である韓国やアメリカの方である」
 マルクスやらレーニンやら毛沢東やらの教義を盲信して、正気でそのようなことを言い立てた。

 防衛問題についても、かつての左翼は本当に「頭がおかしい」としか言いようがなかった。
 何しろ彼らは、「戦争を起こすのは日本やアメリカなどの資本主義諸国で、共産主義の国は戦争を仕掛けない」と本気で信じていたから。
 だから彼らの感覚では悪いのは日米などの西側諸国で、「日本が自衛の為の武器すら捨てて丸腰になり、駐留米軍も追い出せば平和になる」と、心から信じていたのだ。
 何しろ金日成の北朝鮮を“地上の楽園”と、正気で思っていたのだから。
 日本のかつての左翼の頭の中は、ごく単純に「資本主義国=悪、共産主義国=善」と色分けされていたのである。
 ……愚かの極み、である。
 そして筆者は「こう思いたい」という感情論ではなく、「資本主義にも欠点はあるが共産主義はもっと悪いし、理想では国は守れない」という現実に基づいた話をして、ずっとコチコチの右翼扱いされてきた。

 しかし筆者は、自分が右翼だなどと、全く思っていなかった。
 何故ならば筆者は昔からあの戦争も「日本が起こした侵略戦争」と認めていたし、天皇主権の大日本帝国も大嫌いだ。
 安倍総理は日本会議や神道政治連盟などの「天皇が神であった時代の大日本帝国が大好き!」な右翼勢力と手を組んで、何かと言うと戦後レジームを非難し、A級戦犯を賞賛し教育勅語も評価して、日本をまた戦前戦中のような国に引き戻そうとしているが。
 筆者はその安倍総理が大嫌いな、戦後の自由で平和な日本を好きで愛している保守なのである。
 そして「戦後レジームをブッ壊せ!」と旗を振る安倍総理の支持率が五割近い今、筆者のような“保守”はめっきり少なくなっている。

 ずっと昔から、筆者は同じ事を主張し続けているのに。
 昔は「コチコチの右翼」と言われ、今は「反日の左翼」と言われる。

 それほど今の日本は、恐ろしいくらい右傾化しているのだ。
 戦時中に、社会主義者どころか自由主義者まで“非国民”と呼ばれたように。
 今は個人の価値を重んじる自由主義者で穏健保守の筆者までサヨク扱いだ。


 確かにドイツの民衆も、「民主的な選挙でヒトラーを指導者に選んだ」という誤りを犯したが。
 しかしドイツは二度と過ちを繰り返さぬよう、戦後に深く反省をしている
 それに引き替え、日本はどうであろうか。
 戦後、日本は一気に左傾化した。
 政治的には自由主義で民主制だが、インテリ層はほぼ左翼で、そうでない人達は軍国主義者扱いされて叩かれた。
 筆者の見るところ、日本の戦後社会を覆っていた左翼的な思想はほぼ空気やムードによるもので、現実に基づいた理論的なものではなかった。
 そして同じように、今の日本も現実に基づかない、「こうであってほしい」という願望による右翼的な空気やムードに覆われ、過去の日本の過ちも率直に認めるリベラル派は、保守中道の自由主義者まで「反日で自虐史観の左翼!」と叩かれている

 戦後の日本を支配していたのは、「とにかく戦争はイヤだ!」という、理屈抜きの空気だった。
 多くの者はただ「戦争はイヤだ!」と叫ぶだけで、どうすれば日本を守れるのかといった具体的で現実的な議論をしようとする者は嫌われ、戦争をしたい右翼というレッテルを貼られた。
 ところが近年、そうした反戦運動を支えてきた、戦争を直に体験している世代が次々に亡くなって、急速に数を減らしている。
 そして今の世を生きている日本人は、大学で日本史を学び、かつミリオタでもある筆者も含めて、戦争を知らない者が大多数だ。
 現総理も含めて政治家たちもまた、戦争をほぼ知らない。
 そして小泉政権下で日本は格差社会と化し、富める者と貧しい者に二極分化した
 で、希望を失い自信をなくしつつある日本の大衆の心を掴んだのが、ズバリ愛国心である。

 自分に自信を持つのは、なかなか大変なことである。
 日本が総中流であった頃は、多くの者が「自分は少なくとも人並み」と思えた。
 しかし今は違う。
 ブラック企業で酷使されている者や、派遣の仕事でその日をようやく食いつないでいる者が、どうして自分に自信や明日に希望を持てようか。
 自信や希望など、何か特別な才能があるか、あるいは経済的にゆとりのある者しか持てないのだ。
 だが例外が、一つだけある。
 愛国心は、何の取り柄も無いその国の最低辺の国民にも自信を与えてくれる

 自信を持つには、能力なり容姿なり財力なり、何かしら抜きん出たものが必要で、努力も人並み以上にしなければならない。
 自分に自信を持つ為には、相当の資格と努力が要るのだ。
 しかし愛国心に関しては、資格も努力も何も要らない
 ただ日本人に生まれさえすれば良いのだから。
「日本はスゴい、大和民族は世界一だ!」
 戦前戦中の日本人のように、本気でそう信じることさえ出来れば、その“素晴らしい日本国”の一員である自分も、立派な人間と思えて自信を持てるようになる
 たとえいつ首を切られるかわからない、しがない派遣社員であっても。
 自国を素晴らしい国と信じ、そして自分もその民族の一員の愛国者であると思えば、自分も立派な人間になったような気分になれて自信を持てるのだ。
 これが戦前戦中の日本やナチス時代のドイツを支配した、そして今の日本でも黴菌のようにしぶとく増殖しつつある“愛国心”というやつの正体だ。

 戦後の日本の論壇を支配していた左翼が大嫌いで、しかし日本の戦争責任も正視して認める筆者としては、胸くそが悪くなるような雑誌やオピニオン誌が近年急激に発行部数を増している。
 南京大虐殺は無かっただの。
 あの戦争はアジアを白人支配から解放する、正義の戦争だっただの。
 正しい歴史を学んだ者なら「馬鹿か!」と一蹴するしかないトンデモな暴論が、毎月何万部も発行されている雑誌に、繰り返し記事にされ喧伝されている。
 そして正しい歴史を知らない、と言うより自分の耳に心地良く響かない、日本に都合の悪い事実は知りたくない知的レベルの低い層を「日本は立派で何も悪くなかったんだ!」と洗脳している

 善悪の問題ではなく、心理学の問題として語ると、「イジメは止められない」という。
 何故なら、イジメは気持ち良いからだそうだ。
 それはそうだろう、自分が努力して尊敬される人になるより、周囲の誰かを引き下ろし、自分より下の存在を作る方が楽だから。
 そしてその下と見なした存在をイジメれば、強い人間になったように思えて優越感に浸れる。
 だから今の日本の“自称愛国者”は、韓国と中国を叩きたがる
 韓国人と中国人を叩いて馬鹿にすれば、日本人である自分が偉くなったような気分になれて気持ちイイからだ。
 かつての戦前戦中の日本人も、朝鮮人と中国人を差別していい気になっていた。
 戦後七十年が経ち、歴史はまた繰り返しているのだ

 ドイツ人はかつてのユダヤ人差別を大いに反省しているが、日本人は歴史から何も学んでないようだ。

 小学館という大出版社から、『東京裁判をゼロからやり直す』という本が出版された。
 曰く、「この一冊で反日自虐史観を完全論破!」。
 曰く、「日本軍=悪の洗脳を解け!」。
 曰く、「人種平等を訴えた日本は欧米の厄介者だった」。
 曰く、「GHQによる洗脳は中韓に利用され続けている」。

 ……やれやれ、また「日本はアジアを白人支配から解放する為に戦ったんだ、日本は何も悪くないモン!」という、正しい歴史をねじ曲げて黒も白と言い張るトンデモ史観の繰り返しデスカ。
 反論するのも馬鹿らしいが、これらの暴論を信じている人に尋ねる。
 今の右翼は「日本はアジアを白人支配から解放して……」とか言うが、「日本の兵隊サン、来てくれてありがとう!」と感謝しているアジアの人が、現実にどれだけいるか?
 例えばフィリピンに行って、「日本の兵隊サン、アメリカから解放してくれてありがとう!」と言うお年寄りがどれだけいるか、確かめてみるがいい。
 戦争を体験した現地のフィリピンのお年寄りは、殆どみな日本兵を恨んでいるんだよ。
 日本軍を歓迎した現地のアジア人といったら、ビルマ(ミャンマー)の反政府の少数民族くらいのものだ。

 日本は言論が自由だから、そういう日本の侵略の被害を受けた国に失礼な誤った史観のトンデモ本ですら、出版する自由もあるのだろうが。
 ただそれを出版したのが右翼系の札付きの出版社でなく、立派な大手の出版社(小学館)である事にも、今の日本の右傾化の度合いがよく現れている。
 言論の自由と言えば、ドイツは言論の自由度では今の日本より遙かに上位だが、それでもナチス思想を広める事は法律で禁止されている。
 しかし戦後の日本では、表現の自由の名の下に、戦前戦中の皇国史観や軍国思想をそっくりそのまま広めることも、全く禁止されていない。

 そして左翼が強かった時代には一顧だにされなかった戦前戦中の日本を美化する右翼思想が、愛国心に自信の拠り所を求める戦争を知らぬ若い層に、今は広く受け入れられつつある。

 それにしても、皆が左翼で筆者などコチコチの右翼と呼ばれていたのが、今は見回せば皆が右翼で筆者は立派な“反日で自虐史観の左翼”扱いだ。
 昔から変わらずずっと保守の自由主義者で、ただ「侵略戦争は駄目だが、自衛力は必要」と考えているだけなのに。
 日本という国は、どうしてこう軍国主義から左翼へ、そしてまた右翼へと、振れ幅激しく揺れ続けているのだろうか。
 この日本人の変わりやすさに、筆者は恐怖すら覚える。
 かつて戦争に反対する者を非国民扱いしていじめ抜いたように。
 今の日本人はまた右翼に戻り、同調しない者を“反日”だの“売国”だのと罵声を浴びせていじめ始めている。


 スペインの思想家ホセ・オルテガが、大衆について「熱狂しやすく画一的でぶれやすい人々」と呼んだ
 日本国民は、オルテガの言うその「熱狂しやすく画一的でぶれやすい人々」そのものだ。
 かつては皆が戦争に熱狂し。
 そして戦後は安保闘争や全共闘など、左翼運動に熱狂し。
 さらに日本会議や神道政治連盟などの策動で、またも右翼思想と何かにつけ「日本はスゴい!」と言いたがる馬鹿げた愛国心に踊らされつつある今の日本だが、この国が戦前戦中のような暗い時代に戻らないよう、心から願う

 世界に冠たる大和民族といい気になって、侵略戦争に乗り出して。
 そして「戦争はもうコリゴリだ!」という感情論から、皆が左翼に走り、憲法第九条さえ厳守すれば戦争にならぬと信じて。
 さらに戦争の痛みを直に知る人が激減し、格差社会の中で自信を失い、自己の存在価値を見失った人達が愛国心に拠り所を求めている現在、この右傾化の波を押し止めるのは難しいのではないかと、筆者は悲観している。
 日本の経済が良くなり、一部の人だけが富むのではなく、多くの人が安定した暮らしができるようになるまで、今の右傾化は続くであろう。

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普天間基地と普天間第二小学校の問題に見る右翼の日本人どもの醜悪さ

 一つ貴方に問おう。
 元々農地だった場所が宅地として売られ、そこに新しい家が建つことが少なくないが。
 元々田んぼだった場所の一角が売られ、そこに民家が建ったとしよう。
 で、周辺の土地を持っている農家さんが、いつものように農薬を田畑に散布した。
 すると新しく家を建てた新住民が、その農家さんに抗議をした。
「洗濯物ばかりでなく家の中まで、農薬だらけになってしまった、どうしてくれる!」
 カチンときた農家さんは、こう言い返した。
「ウチはいつもこうして農薬をやっているのだ、そもそも農地に後から住み着いたくせに、新参者が文句を言うな!」
 さて、新住民と農家さん、貴方はどちらの言い分に理があると思うだろうか。

 感情的には、「周辺が農地だと知りながら、後から住んだ新住民が我慢すべき」と思う人も少なくないだろう。
 だが少なくとも法的には、理は新住民の方にあるのだ。
 昔からの農法や、周辺が農地であることはどうあれ、そこは既に人も住む住宅地にもなっている。
 だから新住民が我慢すべきなのではなく、農家の方が法的な範囲内で農薬の害を民家に及ぼさない努力をしなければならないのが、法というものなのだ。
 例えば農薬を撒く日時について前もって予告をしておくなり、農薬を撒く時には近くの家にかからぬよう風向き等に注意するなりの気配りが、元からの農家の側に求められる。
 農薬という害の前では、「農地と民家と、どちらの方が先にあったのか?」という問題は、全く関係ないのだ。

 それは農薬だけでなく、騒音や振動などの問題でも同じである。
 カラオケやスナックの騒音や、工場の騒音振動なども、「元からあった方が勝ちで、後から住んだ者が我慢すべき」という理屈は成り立たない。
 後から住んだ住民から抗議が出たら、そこが住宅地か商業地か工業地かなどの環境に応じて、騒音や振動や農薬などの迷惑への対策を、元からそこにいた工場やカラオケや農家などがしなければならないというのが、今の日本の法なのである。

 昨年の十二月、宜野湾市立普天間第二小学校の校庭に、隣接する米軍普天間飛行場に離発着するヘリコプターから窓が落下した。
 当時、校庭では60人の児童が体育の授業中で、その7.7キロもの金属の枠付きの窓は、児童から10メートルの場所に落ちてきた。
 国を愛する日本人なら、「日本人の子供に何をする! いつまでも占領軍面しやがって、アメリカ軍め、いい加減にしろ!!」と怒る筈ではないか。

 ところが“愛国者”を自称する、今の日本の右翼どもは違う
 同胞である筈の沖縄の、しかも子供の危険を省みないどころか、被害者である普天間第二小学校に抗議の電話をかけ続けているのだ。
「事故など無い、やらせだ!」
「学校は基地の後から建てたのだから、事故は市教委のせいだ!」
「戦闘機と共に生きる道を選んだくせに、文句を言うな!」
 日本を守って下さるからとアメリカ様には完全服従して黒も白と言い張り、被害者である同胞の沖縄県民を罵る。
 これが日本の今の右翼の正体
である。

 冒頭に書いた、農家と新住民と農薬の問題を思い出してもらいたい。
 仮にそこが元々農地で、新住民は後から住み着いたとしても。
 人がそこに住んでいる以上は、農家は農薬の害が及ばないよう、新住民に配慮しなければならないのが日本の法だ。
 農薬だけでなく騒音も振動も、後から住み着いた者は我慢しろとは、法的には誰も言えないのだ。
 増してや体育の授業中の普天間第二小学校の子供たちの間近に落ちてきたのは、金属枠の付いたヘリの窓である。
 そのような子供の命に関わる危険物が落ちてきても、「学校は基地より後から出来たのだから、我慢シロ!」とは非常識極まりないし、それが同じ日本人の、しかも愛国者の言うことかと聞いて呆れる

 馬鹿でもわかる事と思うが、米軍機がモノを落としても良いのは、米軍基地と米軍に許された訓練地のみである。
 他の沖縄県内も含めた日本国土には、ビス一本落としてはならないのだ。
 それがわからないのは、馬鹿以下である。
 ビス一本と言うと「大袈裟な」と思われるかも知れない。
 では聞くが、上空高くから貴方の頭に加速度の付いた堅く尖ったビスを落とされても、貴方は無傷で平気でいられるか?
 増してや、今回落とされたのは7.7キロもの金属枠付きの窓で、落ちたのは体育の授業中の小学校の校庭である。
 これで米軍に怒るのではなく、抗議した小学校の方に嫌がらせの電話をかけ続けるのが、今の本土の醜い日本人なのである。
 普天間第二小学校の職員はその対応に追われ、目に涙も浮かべているという。

 米軍基地と普天間第二小学校と、たとえどちらが先にあったとしても。
 米軍機が7.7キロもの窓を金属枠ごと落として許されるわけが無いというのは、言うまでもない話
だが。
 ここでとりあえず、沖縄叩きが大好きな今の日本の右翼どもが言う、「基地と小学校と、どちらが先か?」という問題について、事実をもって解説しておこう。
 沖縄と米軍基地に反対する人達を“反日”扱いする右翼どもは、「基地が先にあった」と言うが。
 では聞くが、沖縄は元々基地の島だったのだろうか?
 いや、米軍が沖縄に来たのは1945年からで、沖縄の人々はずっと昔からそこに住んでいたのだ。
 問題の、普天間飛行場のある宜野湾にも。

 例えば戦争前の宜野湾村には約一万四千人もの住民がいて、現在の普天間飛行場がその中心地で、村役場も学校もそこにあったのだ。
 太平洋戦争末期の1945年4月、上陸した米軍は村の住民を収容所に入れて一帯を占拠し、そこに飛行場の建設を始めた
 その後、住民は帰村を許されたが、米軍が占拠した土地(かつて役場や学校のあった中心地)には戻れず、飛行場の周辺に住むしかなかった
 戦後、普天間の人口は増え村から市になったが、普天間飛行場はその市域の四分の1をも占めていた
 だから普天間第二小学校も、空いた土地が無くて飛行場の隣に造るしかなかったのだ。
 馬鹿でもわかる話だと思うが、沖縄の米軍基地は住民が進んで提供したのではなく、米軍が“銃剣とブルドーザー”で強制的に取り上げたものであり、右翼の好きな「どちらが先か?」という話で言えば、住民の方がずっと先にそこに住んでいたのだ。

 また、1950年代(安倍首相の祖父の岸信介が総理だった安保闘争の時代)に本土で反基地運動が高まり、それでアメリカ海兵隊が本土から沖縄に移転した。
 その事もあり、現在でも日本の米軍専用施設の70%が沖縄に集中している
 たった一県に、日本全国の7割もの米軍施設が集まっているのだぞ!
 これを異常だと思わない日本人は、頭がおかしい。
 しかしその頭がおかしい右翼は、「米軍が中国から守ってやっているのに、沖縄は感謝が足りない」とほざいている。

 さらに百田尚樹なる戦前の日本が大好きで特攻を美化したい自称作家が、自民党の若手勉強会などで嘘や脳内の妄想をまき散らしている。
 例の普天間基地と周辺住民の問題についても、その百田尚樹はこう公言し続けている。
「普天間基地は元々、田んぼの中にあった。基地の周りに行けば商売になると、人が住みだした」

 事実は元から住んでいた土地を追い出され、仕方なく飛行場の周辺に住んでいるのに。
 なのにその普天間の住民を「カネが欲しくて基地に群がってきた輩」と貶め、二重に傷つけて恥じないのだ、この百田尚樹という我が日本国の“ベストセラー作家”は
 そして「嘘も百回言えば真実になる」というナチスの言葉の通りに、百田尚樹の言葉を信じる右翼の日本人が数を増やしつつある

 自分の故郷が戦場になったことも無いくせに。
 そして占領軍に追われ、自分の家や土地を取り上げられたことも無いくせに。
 県内の広い土地が今も米軍の土地になっていて、頭上を米軍機が轟音を上げて何度も通過する経験も無いくせに。
 そのくせ米軍の事故に当然の抗議をする沖縄県民を「左翼のプロ市民に煽動された反日の輩」と非難する本土の日本人が少なからず存在することを、筆者は心から恥ずかしいと思う。
 沖縄の歴史も現状も知りもせず、反日と沖縄の人々を叩く輩は決して美しい愛国者などではなく、醜い本土の日本人だと筆者は断言する。

 筆者は思うのだが、緊迫しつつある朝鮮半島での有事に対応する為にも、沖縄の米軍基地の大半を首相のお膝元である山口県に移転したらどうであろうか
 山口県ならば、朝鮮半島の有事にも即応できるだろう。
 基地は沖縄でなければいけないという固定観念を捨て、本土のすべての都道府県で基地の負担は分け合うべきであろう。
 その意味でも、安倍首相は沖縄の米軍基地の山口への移転を率先して押し進めるべきだと、筆者は考える。
 米軍基地はすべて沖縄県内から出さずに、今後も本土への移転は拒否するとしたら、それは本土の日本人のエゴでしかない

 基地は沖縄に押し付け、その負担には知らん顔で、「基地で食ってるくせに」と蔑視し、米軍の事故に抗議すれば「文句を言うな!」といやがらせをする。
 そんな本土の人間の姿に、本土の日本人、特に安倍政権下で増えつつある右翼の“愛国者”の醜さをまざまざと見せつけられる今日この頃だ。

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“ゼークトの組織論”から安倍晋三の総理としての資質を判断する

 ナチスが政権を取る直前のドイツで陸軍統帥部長を務めたクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト上級大将が、軍を指揮する将校に関し、次のような言葉を述べた。

 将校には四つのタイプがある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち二つを併せ持つ。
 一つは利口で勤勉なタイプで、これは参謀将校にするべきだ。
 次は愚鈍で怠慢なタイプで、これは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いている。
 利口で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。
 もっとも避けるべきは愚かで勤勉なタイプで、このような者にはいかなる責任ある立場も与えてはならない。


 これは一般には同時期のドイツ軍人であったハンス・フォン・ゼークト将軍の言葉とされ、「ゼークトの組織論」として流布している。
 そしてその中では、「愚鈍で怠慢なタイプ」について「兵卒に向いている」とされたり、「愚かで勤勉なタイプ」について「無能な働き者は処刑するしかない」とされたりしている。

 しかしその言葉を語ったのが誰であれ、言わんとする事はよくわかる。
 有能な者は適材適所で使えば大いに役に立つし、無能でも言われた事だけはこなせる者は害にならないし、それなりに使える。
 だが無能な働き者はなまじ行動力があるだけに、誤った事を進んでやらかして周囲に害を与えるということだ。

 似たような名言は、お隣の韓国の政界にもある。
 筆者も大いに共感したその「政治家の資質」についての言葉も、続いて紹介しよう。

 もっとも良い指導者は、賢くて自分では動かない指導者である。
 次に良いのは賢く、そして自分でやろうとする者で。
 まだマシなのは、馬鹿で自分では動かない者。
 そして最悪なのは、馬鹿で自分で何でもやろうとする者だ。


 何故「賢くて自分でやろうとする者」より、「賢くて自分では動かない者」の方が良い指導者なのか。
 昔と違い、今は指導者がやらねばならない事は数限りなくある。
 だから指導者は、人を使えなければ駄目なのだ。
 自分の能力を過信して何でも自分でやろうとする利口者より、信頼できる有能な者らを選び出し、その者らに仕事を割り振って任せた方が、現代では結果的に上手く行く。

 また、馬鹿でも何もしなければ、少なくともマイナスにはならない。
 歴史的に見ても、殿が馬鹿でも下手な口出しをせずに家臣団に任せていれば、それなりに何とかなる事が少なくない
 日本が先の大戦で悲惨な敗戦を喫したのも、精神論が大好きで戦力や国力の差も冷静に見られない大馬鹿な指導者どもが、無謀な戦争をこちらから仕掛けたからだ。
 安倍首相が「今の日本の繁栄の礎になった昭和殉難者」と称えるA級戦犯どもの親玉である東条英機も、馬鹿のくせに自分で何でもやりたがる最悪の指導者の見本で、首相の他に陸相、内相、商工相、軍需相、そして参謀総長まで兼務していた。

 で、そのゼークトの言葉とされる「無能で勤勉な者は処刑すべき」という言葉は、ネトウヨの多いネットではよく民主党政権のことだと言う者が少なくないが、筆者の考えは少し違う。
 何故なら民主党政権は、「無能で何も出来なかった」のだから。
 政治主導を目指し、能力も経験も無いのに官僚を敵視して有能な者を使いこなせず、結果として何も出来なかった。
 民主党の政府は「馬鹿のくせに自分でやろうとした」のだが、結果的には殆ど何も出来ずに日本をただ停滞させた

 東日本大震災時の、東電の原発事故について民主党政権を「馬鹿が間違った事をどんどんした例」と責めるネトウヨが少なくないが、筆者はそんなネトウヨ達に問いたい。
「では原発推進に大賛成で電力会社とベッタリの関係の自民党なら、民主党以上に良い対応が出来たと言えるのか?」
 もし東日本大震災時に自民党が政権の座にあったら、「津波は想定外の天災」として東電の責任は問わず、原発事故の尻拭いはすべて国民の税金でしたであろうと、筆者は確信している。

 話を戻すが、民主党政権は「馬鹿が自分でやろうとしたが、あまりに無能すぎて結果的に何も出来なかった」のだ。
 それに対し、民主党政権後に誕生した安倍自民党政権は違う。
 官僚の人事権を内閣官房が一手に握り、官僚をすべて言いなりに従わせて。
 そして議会では数の力にものを言わせ、特定秘密保護法や安保法制や共謀罪を次々に成立させた。
 特定秘密保護法で政府に都合の悪い情報は国民から隠せるようにし、安保法制で自衛隊が海外で戦争できるようにし、共謀罪で政権に反対する者はテロ容疑者として捜査して取り締まれるようにした。
 そして戦後の政治を敵視し、刑死したA級戦犯を昭和殉難者と褒め称え、教育勅語も評価し、憲法改正を目指している。
 安倍総理とそのお仲間は、この日本を戦前の大日本帝国のような独裁政治の国に戻そうと現実に社会を動かしている
 だから筆者には民主党政権は「無能で何も出来なかった指導者」で、安倍自民党政権は「誤った道をガンガン突き進んで行く、戦後最悪の最も危険な指導者」に見える。
 韓国の政界で言う、「馬鹿で自分でやろうとする最悪の指導者」そのものだ。

 ちなみに安倍政権を支持する人には、男性が目立って多い。
 女性の間では安倍政権は支持より不支持の方が明らかに多いのだが、男性の半数は国際的にも「右翼のナショナリスト」と呼ばれている安倍政権を支持している。
 その男性たちが安倍政権を支持する理由は、安倍総理の「戦後と現憲法が大嫌いで戦前とA級戦犯が大好きという政治姿勢に共感して」というより、「経済が好調になったから」というものが多い。
 だが今の“好景気”は、異常な低金利と国債の乱発によるものだ。
 このツケは、いつか必ずやって来る。
 いや、既に国民皆の周りにじわじわと忍び寄って来ている。

 この今の低金利のせいで、預貯金による利益は殆ど見込めなくなった。
 それで年金なども含め、国家機関から一個人まで、皆が投機に走るようになった。
 今も銀行に行けば、預金を投資するようやけに勧められる。
 銀行員は預金でなく投資や保険の勧誘のきついノルマを課せられ、中には専門知識の無い一般人にろくなリスクの説明も無く投資を強引に勧める者もいる。
 それ以外にも、預貯金が頼りにならないからと、FXだの、ビットコインだのに金をつぎ込み、財産を溶かしてしまった者も少なからずいる。
 預貯金すら安心して出来ず、少なからぬ素人が投資に走るような世の中は“まとも”ではないと、少なくとも筆者は思う。
 そして素人にまでそうさせているのは、安倍内閣の超低金利政策だ。

 年金や保険の運用は、少なくともプロがやっているのだろうが。
 それでも利益を上げる為に、リスクのある投資もせざるを得なくなっていると聞く。
 その年金や保険の運用が破綻しないと、誰が保証できるのだろうか。
 そして運用に失敗して年金が破綻すれば、結局は税金で補わなければならなくなるのだが。
 さて補うだけの金が、赤字国債を発行し続けている今のこの国にあるのだろうか。

 安倍政権の数字上の支持率は高いが、熱心な支持者はそう多くないと聞く。
 前の民主党政権があまりにだらしなかったので、「他よりはマシだから」という理由で支持している人達が多いらしい。
 筆者は、「他よりマシ」と安倍政権を支持している人達に問いたい。
「アベ政治は、本当に他の政権より“マシ”だと信じているのですか?」

 この今の政権で、貴方の暮らしは民主党政権時代より本当に良くなったのだろうか?
 安倍総理の言うトリクルダウンこと好景気の“おこぼれ”は、貴方のもとにも確かに届いただろうか?


 特定秘密保護法に安保法制に共謀罪と、国民を情報から遠ざけ戦争も可能にしテロリストの容疑をかければ誰でも捜査対象に出来る、日本を戦前に戻す危険な法律を数の力で次々に可決して。
 皆様のNHKの人事に手を突っ込み、国民の金で運営しているNHKの報道姿勢を歪め、アベ様の広報局にしてしまい。
 戦後の日本とその憲法を嫌い、A級戦犯を褒め称えて教育勅語を再評価するような右翼のナショナリストが総理で、その安倍氏の手によって憲法も変えられようとしていて。
 異常な低金利で預貯金はしても殆ど意味が無く、皆が投資に走らざるを得なくなり、しかし儲かっているのは一部の人だけで、多くの庶民にトリクルダウンとやらは今もやって来ていない。
 しかし森友や加計などの“総理のお友達”は得をして、総理に人事を握られている官僚も「公務員は政権にでなく、国民に仕えているのだ」という大原則から目をそらし、総理のご意向を忖度してばかりだ。

 民主党政権の無能ぶりとカオスさも酷かったが、こんなアベ政治よりまだずっとマシと、少なくとも筆者は考えている。

 少なくとも民主党政権は、首相が「カンカラカン」、官房長官が「ブタノ」とまで罵られても、政権に反対する人達を「こんな人達」とあからさまに敵視するような事はしなかった。
 報道でどんなに叩かれても圧力をかけるような真似はせず、表現(と政権批判)の自由は守った。

 民主党だけではない。
 かつての自民党では、政権批判をする記者らに首相(田中角栄氏)がこう言った。
「どんどん批判すると良い、それが君達の仕事だ」

 しかし安倍内閣は違う。
 NHKだけにでなく、民法各局にも政治的な圧力をかけ、政権に近いマスコミの経営者や記者とは頻繁に会食をして、政権に批判的な報道をする者は露骨に差別している。

 皆さんは御存知だろうか。
 安倍政権になって、国際的な日本の報道の自由度がガタ落ちしている事実を。
 多くの国民が今も目の敵にして憎んでいる民主党政権時代には、報道の自由度は世界で11位まで上昇していた。
 しかし安倍政権下で急落し、今は72位で、ハンガリーやネトウヨが大嫌いな中国の支配下にある香港と同じくらいだ。
 ちなみに台湾はもちろん、南アフリカやガーナやボツワナやマダガスカルなどのアフリカ諸国、それに韓国でさえ、報道の自由度では日本より上である。

 国民皆が大嫌いで「もうこりごり!」と思っている民主党政権時代には、少なくともマスコミが「民主党はダメだ!」と叩く自由があった。
 しかし今は、記者たちも忖度しながら報道せざるを得なくなっている。

 政権に批判的なニュースキャースターが、安倍政権下で次々に交代している。
 なのに「民主党政権時代より今の方がずっと暗く嫌な時代だ」と思う筆者は、この日本では少数派であるらしい。
 そしてこのまま、日本は右傾化と独裁と戦争への道を、再び走り始めるのだろう。

 ソ連時代のロシアに、こんな小咄がある。

 悲観主義者と楽観主義者の違いは何か。
 悲観主義者は今の政治に「最悪でどん底だ、もうこれ以上悪くなりようがない」と思う。
 そして楽観主義者はこう思う、「大丈夫、まだまだ悪くなるさ」と。


 民主党政権に失望した日本人の多くは、民主党政権時代を「最低最悪だ、アレより悪い政権など無い」と思い、根拠無く「それよりまだマシだろう」と信じて安倍自民党を支持しているが。
 しかし現実を見ていただきたい。
 何も出来なかった民主党政権時代より、この信じた右方向に突き進む“アベ時代”に、日本の世の中はどんどん悪くなっている
 そして安倍政権が続けばもっと悪い世の中になるだろうと、例の旧ソ連の小咄によれば“楽観主義者”であるらしい筆者は確信している。

 冒頭で紹介したゼークト将軍の言葉とされている組織論や、韓国の指導者論に従えば、民主党政権は無能で何も出来ない下から二番目の指導者で、安倍氏こそ間違った事をどんどん進めて国を破滅に導く最低ランクの「処刑すべき指導者」ではないだろうか。

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明治維新百五十年を、筆者は全く祝えない。

 今年は明治維新百五十年という事で、首相も「明治維新百五十周年を、長州出身のボクちんで迎えられる!」と大はしゃぎである。
 だが大学で歴史を、それも日本史を専攻して学んできた筆者は、明治維新をどうしても肯定的に見ることができない。
「歴史は勝者が作る」というのは史学の常識だが、今の日本の明治維新を肯定し、江戸幕府を「遅れていて封建的」という見方も、江戸幕府を武力で倒した薩摩と長州(以下薩長)中心の歴史観による洗脳であると、明治維新後の日本の歩みもつぶさに学んだ筆者は断言する。
 首相が長州出身だから調子に乗って、今の政府は内閣官房「明治150年」関連施策推進室など作り、明治維新と明治政府を褒め称えるつもりのようだが。
 筆者は「明治維新百五十年の、何がめでたい!」と腹立たしい気持ちでいっぱいだ。

 例えば明治以後の教育で「封建的で遅れていて、政治を担ってきたのは無能な者ばかり」とされてきた江戸幕府は、二百五十年も太平の世を保ってきた。
 ただ国内が平和であっただけでなく、対外的にも穏健で平和的だった。

 織田信長は日本を統一した後は大陸を侵略するつもりでいて、そして信長の跡を継いだ豊臣秀吉は朝鮮を侵略し、明の軍隊とも戦った。
 しかし徳川家康はその侵略戦争には加わらず、天下を取った後には朝鮮に使いを送り、朝鮮人の捕虜を帰すなどの戦後処理をして、朝鮮や明との国交を回復した。
 江戸時代は鎖国をしたと言われているが、幕府は明やオランダとは国交を保ち、世界の情勢も収集していた。
 その上での“鎖国”と二百五十年も続いた平和な時代なのである。

 それに比べて、明治維新後の薩長が作り上げた政府はどうか。
 明治6年には征韓論が出て、翌7年には台湾出兵が実行されるように、薩長の政府は初めから戦争が好きで侵略的な傾向を持っていた
 そもそも長州の“偉人”とされ安倍首相も尊敬している吉田松陰も、生前から富国強兵策をとり朝鮮など大陸を侵略すべきと考えていた
 それでその松陰の教えを受け継いだ長州人が多く加わった明治政府と大日本帝国は、建国してから侵略戦争ばかりしてきた

 例えば司馬遼太郎の『坂の上の雲』で美化されて描かれている、日清戦争と日露戦争だが。
 冷静に考えてみてもらいたい。
 日本が清やロシアの軍隊と戦った戦場は、どこであったか。
 どちらも朝鮮や中国の大陸ではないか。
 日本を侵略してきた敵国と戦ったのではない、日本は植民地を得る為に、大陸に出兵して戦ったのだ。
 そしてその結果、植民地は得たものの戦費がかさみ、日本はアジアの強国となったものの国民は重税に泣かされた。
 特に農村部は貧しいままで、不作になれば娘らは借金のカタに売られた。
 二・二六事件の青年将校の決起には、その現状に対する怒りもあった。
 戦争ばかりして、一部の特権階級は除き多くの国民の暮らしは少しも良くならない。
 それでもさらに日本は侵略を続け、満州事変、日華事変と中国に兵を送り続けた。


 薩長の輩が作り上げた大日本帝国の指導者らは愚かで、「中国などすぐに降伏して言いなりになるだろう」と甘く見ていた。
 しかし中国は降伏せずに、北京や南京を日本軍に占領されても徹底抗戦を続けた。
 それで短期決戦で勝てるとしか考えていなかった日本軍は、中国で泥沼の戦いを続けるはめになった。
 長期戦になるとは思っていなかった日本軍にはろくな補給も無く、現地の日本軍は苦戦し、徴発という名の略奪をして中国の人々にさらに憎まれ、戦死者も増大していった。
 そして国際的にも孤立し、他国から非難されて逆ギレした挙げ句に国際連盟を脱退して、今の北朝鮮のように経済制裁を受けるようになる。
 それで破れかぶれでまた戦争に打って出て、中国でまだ戦っているのにアメリカやイギリスやオランダやオーストラリアにも戦争を仕掛ける始末だ。
 またも「短期決戦で勝てる!」と甘く見て。
 で、国力と物量の圧倒的な差で完敗し、殆どの都市は空襲で丸焼けにされ、原爆も落とされて三百万人以上の国民を死なせたことは、皆も知る通りだ。

 明治政府は憲法や議会も作り、民主的だった。
 そう思う人もいるだろうが、それは誤解だ。
 例えば江戸幕府の最後の将軍の徳川慶喜は、大政奉還した後、すべての大名で議会を作り、その議長に自分がなろうとしていた。
 議員は大名という制約はあるものの、徳川家は曲がりなりにも議会を作ろうとしていた。
 そして薩長の明治政府が議会を作ったのは、明治になり23年も過ぎてからのことである。
 それも政府が自ら進んで作ったのではなく、国民の自由民権運動に押されてやむなく、である。
 しかもその自由民権運動に対し、薩長の政府は安政の大獄など問題にならぬくらい酷い弾圧をした

 薩長が江戸幕府を倒したやり口は、実に陰険で狡猾だった。
 世の中が変われば、政治が変われば、御一新を迎えれば暮らしが良くなると民衆を煽動して幕府に対し一揆を起こさせて。
 ところが明治政府が出来ると、民衆の暮らしは逆に苦しくなった
 何故ならば薩長の明治新政府は、税額を「江戸幕府の時よりも少なくならないように」と設定したからだ。
 だから民衆の暮らしは、新政府が出来ても良くて昔と同じで、江戸時代より苦しくなる事も少なくなかった。
 そもそも明治新政府の考えとは「御国が第一で自分の利権がその次、民衆はどうでも良い」だったからだ。

 当然、明治新政府に対する反感は高まったし、一揆も各地で起きた。
 それに対し、薩長の新政府は警察と軍隊を動員して徹底的に弾圧した。
 もし江戸末期の反幕府勢力の取り締まりと処罰を安政の大獄と言うのなら、明治政府の取り締まりと弾圧を“明治の超大獄”として歴史教科書で教えねばフェアではないと、筆者は常に思っている。
 例えば北海道の少なからぬ道路や鉄道は、自由民権運動をして政治犯として捕らえられた多くの者たちに、ナチのアウシュビッツ顔負けの強制労働をさせて作らせている。
 ただ自由と権利と人並みの暮らしを求めた者達が、薩長の明治政府の手によってどれだけ殺され、酷い目に遭わされたことか。
 しかし戦前の教科書ではもちろん、今の歴史教科書でもその事は殆ど書かれていない。
 安政の大獄の方は、今もなお歴史教科書に残っているにもかかわらず。

 歴史を冷静に眺めると、明治維新は確かに日本を発展させたが初めから一貫して「御国が第一で軍国主義で侵略的」である。
 薩長の政治家やそれに連なる財界人らは良い目を見たものの、多くの国民は貧しく、そして「天皇陛下の為、御国の為」と侵略戦争に駆り出されていった。
 そしてその結果が、あの第二次世界大戦での完敗と多くの国民の死である。

 前にも少し触れたが、江戸幕府も変わろうとしていた。
 もしも大政奉還後の政治を薩長の一部の権力者が牛耳ること無く、徳川慶喜を議長とする大名たちの議会で新政府を作り、江戸幕府が長年続けてきた平和主義を守りつつ、元からそのつもりであった開国を進め文明開化をしたならば、日本にまた別の未来が開けていたのではないかと、筆者は思う。

 安倍政権下で妙に元気になってきた右翼の輩は、常識ではとても考えられないトンデモ理論を正気で振りかざして、戦前の大日本帝国と侵略戦争を正当化する。
 曰く、「第二次世界大戦はABCD包囲陣で日本が経済封鎖されたから、やむなくしたのだ=だから悪いのは経済封鎖したアメリカやイギリスや侵略された中国で、攻撃した日本は悪くナイ」と。
 ならば今経済封鎖されている北朝鮮が日本やアメリカにミサイルを撃ち込んでも、「悪いのは、経済封鎖した日本やアメリカ」という理屈になる筈だ。
 しかし右翼のバカどもは、侵略でも何でも「日本がした事は悪くない」と言い張り、しかもそれを愛国心と信じているのだからタチが悪い。

 そして中には、「あの頃は帝国主義の時代だったから、侵略戦争をしなければ生き残れなかった」と言う人達もいるが。
 では事実を見てみよう。
 日本は帝国主義の強国になろうとして侵略戦争に乗り出し、その結果無惨な負け方をした。
 そして江戸時代の元の領土に戻るどころか、北方四島も竹島も不法占拠され、尖閣諸島にも自由に行き来できなくなっている。
 それでも戦後、植民地も持たず強い軍備もなしにこれだけの復興を遂げた。
 結果論だが、明治政府の富国強兵策も度重なる侵略戦争も、日本の発展の為には元々不要だったのだ。
 わざわざ身の丈に合わない軍拡をして侵略戦争に打って出なくても、日本は今のように発展できた筈なのだ。

 また、安倍首相は刑死したA級戦犯らを「今の日本の繁栄の礎となった昭和殉難者」と称えるが、筆者はそんな首相に「オマエは正気か?」と尋ねたい。
 常識で考えてみよう。
 刑死したA級戦犯どもが、あのただ悲惨なだけでなく愚かで無謀な戦争を引き起こさなければ、今の日本はもっと繁栄していた筈ではないか。
 奴らがあの戦争を起こしたから、日本は原爆を落とされ、地方都市まで丸焼けにされ、三百万以上の有為な国民が命を落としたのだ。
 その災いを招いたA級戦犯どもが、安倍首相の頭の中では「今の日本の繁栄の礎になった殉難者」と聖人並みの扱いになっているのだから不思議だ。
 ただ不思議というより、そんな人間がこの国のトップに立っているという現実は気持ちが悪いし、この国の未来に漂う暗雲を強く感じる。

 安倍首相は長州人でしかもA級戦犯の孫だから、長州と薩摩の権力者が作り、侵略戦争を押し進めた明治政府と明治維新を無条件で賞賛したくなるのだろうが。
 長州人でもなければ、薩長に攻められ酷い目に遭わされた東北人でもない中部地方の人間として歴史を冷静に眺めると、明治維新は「文明開化は進めたものの御国第一の、日本を破滅に追いやりかけた軍国主義で侵略的な政府の誕生」でしかなく、国や政府をあげて祝うべきようなものではないと筆者は断言する。

 日本の近代化は、薩長の新政府だけでなく徳川慶喜を議長にした大名たちの議会政治でも出来たであろうと筆者は考える。
 それは文明開化と西欧化の速度は薩長の新政府より遅かったかも知れないが、太平の世を続けた徳川を中心とする政府なら周辺国とも平和外交をして、薩長のような軍国主義で侵略的な国造りはしなかったであろう。
 明治維新は「皆で祝うべき日本の近代化の始まり」ではなく、「軍国日本の誕生とその果ての悲惨な敗戦への一里塚」としか筆者には思えないが、貴方はどうであろうか。

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人の心を動かすのは感情のみ(冷静で論理的な言葉は無意味)

 我が家の猫は高齢で、腎臓病を抱えている。
 それで筆者は四週に一度、動物病院に薬を貰いに通っているのだが。
 先日、そのかかりつけの動物病院に行ったら、待合室にドーベルマンがいた。
 そして飼い主さんは、ドーベルマンのリードを長めに持っていた。
 そのドーベルマンはすぐに筆者の側に寄って来て、筆者の足などの匂いを嗅ぎ始めた。

 全然怖くなかった。
 そのドーベルマンは少しも緊張も警戒もしておらず、リラックスしていたのが体全体から伝わってきていたから。
 さらに尾を振って、そしてとても優しい目をしていた。
 良い子なのだな、とすぐにわかった。
 そしてヨシヨシと撫で、次に筆者はつい猫好きがやりがちな事をしてしまった。

 親しい猫同士は、鼻をくっつけ合って互いの匂いを確認し合う。
 だから猫と共に暮らして長い筆者は、つい猫を相手にするように、そのドーベルマンの鼻に自分の鼻を近寄せてしまった。
 するとそのドーベルマンも鼻を寄せてきて、筆者と“彼”は顔を寄せ合いしばらく互いの匂いを嗅ぎ合った。
 筆者は初対面のドーベルマンにも、平気でそんな真似をしてしまう人間である。

 筆者は家ではいつも猫を膝に乗せ、寝る時も猫と一緒という大の猫好きだが。
 しかし猫だけでなく、他の動物も好きである。
 だから動物園にも、よく行く。
 そして動物にも、かなり好かれる。

 筆者が小学一年生の頃、通学路に秋田犬がいた。
 小学生の筆者より大きいくらいの犬で、しかも学校から「噛むから、近寄ってはいけません!」とも注意されていた。
 筆者は躊躇わず、その秋田犬に触れた。
 そしてすぐに仲良くなった。

 子供の頃から小柄だった筆者には、学校の給食は少し多すぎた。
 それで筆者はいつも給食のパンを半分残しては、その秋田犬にあげていた。
 それでか筆者は、その「噛む」と言われ恐れられていた秋田犬とさらに仲良しになった。

 その秋田犬に噛まれたこと、実は一度だけあるのだ。
 いつものようにその秋田犬と戯れていた時、筆者は調子に乗ってつい強くギュッと抱き締めてしまった。
 次の瞬間、パクッと噛まれた。

 怖くなかったデスよ、全然。
 噛まれたと言っても殆ど痛くなく、「嫌なことをされたから、たしなめるつもりで噛んだのだな」と、小学一年生の筆者にも本能的にすぐにわかった。
 だから「ごめんね」と秋田犬の頭を撫で、すぐに仲直りをした。

 そんな筆者だから、通学路にいる他の犬達にも好かれた。
 人を見るとさかんに吠えたてる、大きなシェパードとも仲良くなった。
 そのシェパードは、人に激しく吠えるから恐れられていたが。
 実はそのシェパードは人にかまって遊んで欲しくてたまらず、それで人を見ると吠えていたのだ。
 で、吠えるから人は怯えて遠ざかり、だからシェパードはより激しく吠えたて、人からさらに逃げられるという悪循環だったのだ。
 そのシェパードに、小学生の筆者は近寄って行った。
 シェパード君、狂喜乱舞デスよ。
 小柄の小学生の筆者よりも大きいそのシェパードは、筆者の両肩に前足をかけてのしかかり、筆者の顔を舐めまくりで……。

 小学校の低学年の頃から、人から恐れられていた秋田犬やシェパードと平気で戯れてきたような筆者だから。
 初対面のドーベルマンに寄って来られても、怖くも何でもないのだ。

 大型犬でも、怖がらずにその犬が発している空気と感情を読めばいい。
 まず、体は緊張して警戒していないか。
 目つきは険悪ではないか。
 鳴き方も、脅すような唸り声ではないか。
 そのどれでもなく、リラックスした状態で、しかも尾も振っていたりしたら、大型犬でも恐れる必要は全く無い。
 目もとても大事だ。
 睨みつけているのか、キラキラした好意的な目なのかも、怯えずにちゃんと見ればわかる筈だ。

 こんな筆者だから、馬にもたいてい好かれる。
 青森県の尻屋岬に行った時にも、そこにいた野生の馬の方から興味を持たれて寄って来られ、撫でたら喜ばれて、懐かれて甘噛みされた。

 某動物パークに行った時、「噛むから近寄らないで下さい」と張り紙を出された、大きな馬がいた。
 ハイ、躊躇わずに近寄りましたとも。
 手を伸ばしたらその馬は何の警戒もせず、気持ち良く鼻面を撫でさせてくれて、「こんなに大人しくて良い子なのに、どうして危険な馬扱いするのだろう」と、心から思った。
 ところがそれを隣で見ていた当時の筆者の彼女が、同じように手を伸ばしたところ、その馬は一変した。
 ブルヒヒヒィィン! といななき、唇をまくり上げ歯を剥き出して彼女の手を噛もうとしたのだ。
「ムカつく!」と、彼女は大変ご立腹だったけれど、筆者は思わず笑ってしまったね。

 とにかく馬でも犬でも猫でも、筆者は動物にはよく好かれる。
 噛む馬でも猛犬でも、ドンと来いなのだ。
 なのにニンゲンの女性には、いつもフラれてばかりである。

 筆者は女性に縁が無いわけではないのだが、どうも長続きしない。
 それで付き合っては別れ(正確にはフラれ)、付き合っては……の繰り返しで、今もまだ独身のままだ。

 筆者には年子の姉がいて、しかもイトコ達も女ばかりである。
 そして病弱だったせいで「外で思い切り体を動かしたい!」という欲求も無く、保育所に通っていた頃からインドア派で、室内で遊んだり本を読んだりするのが好きだった。
 だから幼い頃の友達と言えば、男子よりずっと女の子の方が多かった。

 筆者は小柄でしかも童顔である為、女性に異性と意識されにくい。
 だから恋愛感情は持たれないものの、学生時代には同級生の女の子とはすぐに友達になれた。
 筆者は幼い頃から女の子に囲まれて育った為、女性に話しかけるのに全然緊張せず普通に接することができる。
 これは大きな武器だった。
 そして通った学校は保育所から大学までずっと共学で、職場にも女性がいた。
 だから筆者には、いつも親しい女の人がいた。
 ただ問題は、女性と友達にはなれてもそれ以上の関係になるのはなかなか難しく、そして恋人同士になれても長続きしない。
 そしてその「女性と付き合えてもフラれてしまう理由」を、最近になってようやく気付いた。

 前にも述べたように、筆者の身近には幼い頃から女の子がいた。
 だから筆者は自分を「女慣れしているし、女の子のことはわかっている」と思い込んでいた。
 しかしそれは大間違いで、筆者は実は女性をまるでわかっていなかったのだ。

 近年になって、よく男脳とか女脳とか言われるようになった。
 そして筆者は子供の頃からずっと女性たちと接して生きてきながら、脳の方は“超”の字が付く程の、完全な男脳だったのだ。
 女性と接して話すことには慣れていて何の抵抗もなくても、発想や感覚や考え方がすべて“男”で、女性の気持ちをまるでわかっていなかった。
 だから仲良くなるのは早くても、すぐにフラれてしまってきたのだった。

 よく「女性は共感脳で、男性は問題解決脳だ」と言われるが、筆者も問題解決脳そのもので、「共感などしても何の意味も無い」と思ってしまう。
 例えば、職場に意地の悪い嫌な上司がいたとする。
 親しい女性からそう相談されたとしたら、筆者ならその上司にどう対処したら良いかを一緒に考える。
 抗議するか、スルーするか、それとも社の労務管理所や公的な機関にパワハラで訴えるか。
 筆者は、問題に対してはどう行動するかが大事だと考えている。
 話を聞いて、ただ「大変だね、辛いね」と共感して同情しても、「嫌な上司がパワハラを繰り返す」という状況は全く変わらない。
 だから“共感”したところで、その人は職場に行けばまた上司に意地悪をされ、身近な恋人や友人に同じ愚痴を繰り返すことになる。
 愚痴を言うことで当人のストレスは解消されるかも知れないが、それは一時的な対症療法だから、ストレスはまたぶり返し、そして周囲の人に同じ悩み事(愚痴)を繰り返す。
 この同じ愚痴を繰り返し聞かされ、同じ話に何度も共感と同情を強要される方としては、たまったものではない。
 ゆえに典型的な男脳の持ち主の筆者としては、「共感なんてクソくらえ、問題に対処してそれを解決することが第一だろ」と考えてしまう。
 そしてその筆者の問題解決脳の発想と思考が、共感脳の女性には「冷たい、気持ちをわかってくれない」と見えてしまうのだ。

 筆者は付き合った女性(複数)に、よく「あたしと猫と、どっちが大事なの!?」と本気で詰め寄られて怒られた。
 親にも、「猫と親と、どっちが大事なんだ」と言われた。
 筆者はどちらも大事にしているつもりだし、彼女や親を粗末にしたつもりはない。
 ただ彼女にしろ親にしろ、人間は言葉を話せるし、気持ちや意志をきちんと伝えられる。
 例えば体の具合が悪い時、人はそれを言葉で伝えることができる。
 しかし動物は言葉でものを言えないから、「どこか具合が悪くないか?」とか「気分はどうか?」とか、人間の方が態度や様子をよく見て判断しなければならない。
 だから一緒に暮らしている動物の様子に細かく気を使うのは当然のことと、筆者は考えるのだが。
 しかし女性はそれに対し、「不公平だ、あたしより動物の方を大事にする!」と腹を立てる。
 実に理不尽だと思うのは、筆者が典型的な男脳で問題解決脳だからだろうか。

 気付いたのは、男と女の脳や感情の違いについて問題にされるようになった最近になってからの事で、筆者にとってはもう手遅れに近い状況なのだが。
 筆者は言葉を喋れない動物に対しては、五感をフルに使って言外の意志や気持ちを感じ取る努力を、子供の頃から本能的にしてきた。
 目の色とか体の緊張具合とかちょっとした素振りなどから、犬や猫や馬などの気持ちをうまく察してきた。
 だから「噛む」と言われる大型犬とも仲良しだったし、今もドーベルマンに寄って来られても平気だ。
 しかし人間に対してはその“察する力”をあえて封じて、言葉の方を重んじてきてしまっていた。
「人間ならば論理的にものを考え、言葉でちゃんと話せ」と。
 そしてそれが「冷たい、気持ちをわかってくれない」と女性の不満を生んでしまっていた。
 ならば女性も下手に人間扱いせず、これまで仲良くしてきた猛犬と同じように「言葉ではなく、態度や目の色などで気持ちを察する」付き合い方をしていれば、交際も長続きして、筆者も今頃は結婚して家庭も持っていたかも知れないと思う今日この頃である。

 筆者はどうも、「人間なら言葉を使い、論理でものを考えるもの」と思い過ぎのようだ。
 残念ながら現実の人間は、論理的な正しさではなく感情で動く
 例えば筆者なら、もし保育園の不足について意見を言うとしたら、数字も挙げて論理的に、そして冷静に話す。
 しかし現実に人の心を動かしたのは、「保育園落ちた、日本死ね!」という暴言に近い感情の爆発だ。

 筆者はアベ政治が心から嫌いだ。
 特定秘密保護法も安保法制も共謀罪もすべて大反対だし、A級戦犯や教育勅語など戦前の日本を美化する姿勢には反吐が出る。
 筆者は小泉純一郎元総理も大嫌いだったが、安倍総理はもっと嫌いだ。
 戦後の総理で最低最悪の総理大臣だと、筆者は安倍氏のことを思っている。
 安倍総理は第一次内閣の時、病気で辞職し退陣したが。
 その時、安倍首相は身近な人に、「このままでは死んでも死にきれない」と言ったという。
 正直に言えば、筆者は「そのまま死んでくれれば、どれほど日本の為に良かったか」と心から思う。
 第二次安倍政権が誕生しなければ、特定秘密保護法や安保法制や共謀罪も今の日本に無かっただろうし、A級戦犯や教育勅語など戦前の日本を賛美する風潮も生まれなかっただろうから。

 しかしこのブログで筆者は、反アベ政治の姿勢は貫きつつ、安倍総理個人に対しては感情を抑え、個人に対する誹謗中傷は避けて、安倍総理の政治のどこがおかしいかを論理的に説明しようと努めてきた。
 私的な場面では、筆者は現首相のことを“アベ公”と呼んでいる。
 そのくらい嫌いで憎んでいるのだ、この国を極右の大日本帝国に戻したがっている、欧米のメディアでもナショナリストと認定されている、あの首相のことを。
 それでも文章にしてブログに書く時には、筆者は安倍総理または安倍首相または安倍氏と書き、暴言や感情論は避け冷静に論理で私見を述べてきた。
 しかし「保育園落ちた、日本死ね!」ではないが、人の心を動かすのは自制した冷静な論理による言葉でなく、「A級戦犯大好きで極右の、アベ公死ね!」というようなヘイトスピーチまがいの感情をそのままぶつけた暴言ではないかと思い始めている、今日この頃である。
 そしてそれが事実だとしたら、とても悲しいことだし、筆者は人間と日本という国に希望が持てなくなってしまう。

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二つの裁判の判決に思う(猫のなぶり殺しと毒親殺し)

 もし貴方が裁判の陪審員になったとして、この日本で実際に起きた次の二つの事件について、貴方ならどんな判決を下すだろうか。

 まずは埼玉県深谷市で起きた、13匹もの猫虐待事件について話そう。
 大矢誠という52歳の元税理士の男が、2016年3月~2017年4月にかけ、13匹の猫に熱湯をかけたり、ガスバーナーであぶったりして、そのうち9匹を死なせた
 残る4匹は怪我をおい、命だけは助かった。
 しかもこの大矢誠という五十代にもなった税理士の男は、虐待の様子を録画し、動画をネットで公開していた。
 裁判によると、この大矢誠は「虐待に楽しみを覚え」、そしてその様子をネットで「公開することが目的化して」虐待と殺害を繰り返していたという。
 この事件について、担当の裁判官も「動物愛護の精神に反する悪質な犯行」と認めている。

 そして次は、2015年に仙台市で起きた、当時19歳の少年による父親殺害事件について話そう。
 この少年の両親は、少年が幼い頃から毎日のように激しい夫婦喧嘩をしていた。
 石油ストーブを投げつける。
 跳び蹴りを喰らわせたりする。

 両親のそんな光景を少年は幼い頃から目の当たりにして、物陰から怯えながら見続けて育った
 さらに少年が中学生の時に母親が家出をして、少年は父と姉との三人暮らしになった。
 すると父親は毎日酒を飲み、夜中に大音量でDVDを再生するようになった。
 そんな暮らしの中で少年は心を病んでしまったのだろう、リストカットを繰り返し、そして自殺未遂で入院するにまで至った
 しかし一方で、東日本大震災の際には、知らないおばあさんの家に水を運んでやったりと、他人を思いやれる優しい心もあった
 だが家庭環境は相変わらずで、事件の数ヶ月前には興奮して父親に馬乗りになり、自分の首に包丁を当てて「殺せ」と迫ったりもした。
 その果てに2015年の12月、父親と口論の挙げ句、父親の胸や背中をナイフで多数回刺し、父親を失血死させた。
 ちなみに少年の姉は少年の更生に協力する姿勢を見せ、被害者(少年の父親)の妻である母親も厳罰を望まなかった。

 で、下された判決だが。
 毎日DVを繰り返してきた酒乱の父親を殺した、精神的に追い詰められた少年は、懲役11年
 そして虐待に楽しみを覚え、熱湯をかけたりガスバーナーで炙るなどして13匹の猫もの猫を虐待した挙げ句に9匹も死なせ、それを動画に投稿もしていた埼玉県の大矢誠(52)の方は、執行猶予付きの懲役1年10月である。
 皆さんはこの判決を、「公平で公正」と思うだろうか?

 筆者の父は、俗に言う「飲まなければ良い人」というやつだった。
 酒さえ飲まなければ優しい良いところもある父だったが、ほぼ毎日大酒を飲み、そして飲めば人に絡み始め、怒鳴り、物を投げて暴れるなどした。
 実際、筆者もまだ保育所に通っていた幼い頃に、酔った父に手加減無しに殴られて空中を飛んだことすらある。
 飲んだら父は、もう誰にも手を付けられない。
 だから筆者は幼い頃からいつ父が酒を飲み始めるかとビクビクして、そして父が飲み始めると、絡まれる前にいつでも逃げ出せるようにしていた。
 深酒の挙げ句に父がまだ五十代の若さで亡くなるまで、筆者は父と酒に怯えながら生きてきた。
 おかげて筆者は、酔って乱れるアル中は今でも大嫌いだ。
 絡んでくる酔っ払いには、生理的な嫌悪と憎悪の感情しか持てない。

 大酒を飲み、酔って絡んで怒鳴って暴れ、家族にDVを働く父親のいる家庭で幼い頃から育ってきた。
 そんな筆者だから、父親を殺したという仙台の少年の苦しさはよくわかる。
 DVを繰り返す酔っ払いの親を、思わず殺してしまいたくなる気持ちは、本当によくわかる。
 そして幼い頃から夫婦喧嘩やDVを見て育った子供は、脳や精神に問題を抱えることは、医学的にも証明されている
 しかし裁判ではDVの影響を認めず、「犯行を正当化するほどの落ち度は被害者になかった」として、少年に懲役11年の判決を下した

 その裁判では、少年が父親を複数回刺して失血死させた事について「犯行は悪質で残忍」とされたが。
 しかしそれは違う。
 実際に刑務所に服役した経験のある作家の安部譲二氏が、『塀の中の懲りない面々』という著書でこんなことを書いている。

 安部譲治氏と同房になった受刑者の中に、妻を殺した受刑者がいた。
 その受刑者は善良で妻に尽くし過ぎてしまい、挙げ句に妻に浮気をされ、そして逆上して妻を殺してしまったのである。
 しかも、二人も。
 その受刑者は最初の妻を殺し服役して出所した後に再婚したのだが、その妻にも裏切られ浮気をされてまた殺してしまったのだという。
 ただ違うのは、その妻の殺し方だった。
 最初の浮気妻は、滅多刺しにして殺して。
 そして二度目の浮気妻は、たったひと刺しで殺した。

 裁判では、どちらも尽くしたのに浮気されたという点で情状酌量された。
 しかし最初の滅多刺しにした方は「殺し方が残虐」とされ、そちらの殺人の方が、二度目の時より判決が重かった。
 しかし安部譲二氏が当人から聞いた話では、最初の殺人については「ただカッとして、無我夢中で滅多刺しにしてしまった」のであって、明確な殺意は無かったという。
 そして二度目の浮気妻については、初めから殺すつもりでいて、だからグサリとひと刺しで殺したのだそうだ。
 それを裁判官たちは全く理解していないと、安部譲二氏は著書の中で書いていた。

 おそらく例の仙台の少年もその妻殺しの受刑者と同じで、カッとして無我夢中で刺してしまったのだろう。
 想像してみてもらいたい。
 ほんの幼い頃から、暴れる父親を見てそのDVにさらされながら育ったら、“父親”という存在がどんなに恐ろしく思えるか。
 筆者にとっても酔って絡んで怒鳴って暴れる父親は、筆者が成長し体格はあまり変わらなくなった後も変わらず恐ろしい存在だった。
 トラウマ、というやつなのだろう。
 だから仙台の少年にとっても、幼い頃から暴言や暴力を目前で見せられてきた父親は、犯行時にも恐ろしい存在だったに違いないと、筆者にはわかる。
 倒さなければ、自分が殺される。
 そう思い、恐怖に怯えて無我夢中で滅多刺しにしたのだ。
 それが良い両親と良い家庭に恵まれて育った高学歴の裁判官には、まるで理解できない。

 筆者は現在猫と共に暮らしているが、動物は基本的に好きだし、動物にも好かれやすい。
 猫だけでなく、犬(猛犬を含む)や馬(野生馬や暴れ馬も含む)にも、たいてい好かれる。
 だからわかるのだが、動物にも感情は間違いなくある!
 嬉しいとか悲しいとか怒りとか、動物も人間とほぼ同じ感情を持っているのだ。
 違いはただ、その感情を言葉に出来ないだけだ。
 いや、慣れてくれば共に暮らす猫がただ「ニャア」と鳴くのを聞いただけでも、「お腹がすいた」とか、「朝だよ、起きて!」とか、「ドアを開けて!」とか、「遊んで」とか、「かまって」とか、何か意図があって話しかけてきたのだとわかるようになる。
 それだけに、その猫たちに熱湯をかけ、あるいはガスバーナーで炙るなどして楽しんで殺す人間に対しては、心からの憎悪を覚える。
 個人的には、その埼玉県深谷市の猫殺しの大矢誠(52)など、「判決は火炙りでOK」と思ってしまう。
 もし筆者が江戸時代の将軍さまや戦国大名なら、間違いなくそうする。

 猫好きの筆者の個人的な感情論は、取り敢えず脇に置いておいて。
 皆さんに、冷静に考えてみてもらいたい。
 幼い頃から親の激しいDVを連日のように見て怯えながら育ち、リストカットや自殺未遂を起こすまで追い詰められた仙台の少年が、そのトラウマの元凶である父親を殺した事件は、姉や母が厳罰より更生を望んでいても情状酌量が認められずに、判決は懲役11年で。
 その一方、虐待を楽しみ多くの猫を残虐な方法で殺していた、精神病質者とも言える危険な埼玉県の大矢誠は、執行猶予で今では野放しになっている。

 動物虐待は残虐な猟奇殺人につながるというのは、犯罪や医学の定説であるにもかかわらず。
 これが公平公正な法と言えるだろうか。

 つまり近年ではようやく動物愛護の精神も法に盛り込まれかけてはいるものの、実態はまだまだ動物はモノ扱いに近い、という事だろう。
 だから猫虐待の大矢誠も、裁判官にとっては「チョーシこいてモノを壊しちゃいました、テヘッ」という軽犯罪者と大して変わらない存在だったのではないか。
 でなければ多くの猫を虐待し、熱湯をかけガスバーナーで炙るような方法で9匹も殺し、さらにその動画をネットで公開するような猟奇で精神的にヤバい危険人物が執行猶予刑で世間に野放しとか、とても考えられない。

 筆者は多くの動物に接してきたからわかるが、猫だけでなく犬や馬にも悪意はない。
 捕食性の肉食動物は、腹が減れば本能に従って獲物を狩るが、ただそれだけである。
 その動物を楽しみの為に何匹も殺しても、そのサイコ野郎は執行猶予で世間に野放しで。
 しかし激しいDVで家族を追い詰める毒親を殺せば、殺したのが少年であっても判決は懲役11年である。
 人の命は、たとえそれがどんな酷い人間であろうとも、多くの動物たちの命よりもはるかに重くて大切だ。
 これが日本の現在の法である。
 どこか変だと、貴方はお思いにならないだろうか。

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